Archive for 12月, 2005:
31 12月
神様の刺繍 2005年が終わろうとしています。生まれてからずっと、日本でもオレゴンでも年末は寒さの中で迎えてきたので、このハワイでの暖かい年末はかなり違和感があります。でも日本食のマーケットへ行くと、小さな門松やおせちが売られていますので、やっぱり年の瀬なんだ、と自分に言い聞かせています。
この一年、皆様にとってどんな年だったでしょうか。以前、私たちの人生は神様が天国から刺繍をしているようなものだ、ということを読んだことがあります。私たちが天国に行ったとき、神様が、「さあ、これが私が創ったあなたの人生の刺繍ですよ。すばらしいでしょう。」といって見せてくださるのです。でも今は私たちはその神様の刺繍をこの世から、つまり裏から見ているのです。だから、どうして、自分の人生の刺繍の中で、ある糸が急に遠くまでとばされているのかわからなかったり、また、ある箇所でいろんな色の糸が絡み合ってむちゃくちゃになっているのかわからなかったりするのです。でも神様はちゃんと一人一人にすばらしい刺繍のご計画があって、ある色の糸は離れているところで必要なのでぴょんと違うところにとばしたり、あるところでは沢山の色の糸を使ったりして、天国側からはとても美しい模様をつくりあげていてくださるのです。
一月ほど前から私たちはNew Life Church Honoluluという教会に集っていますが、そこで一人の韓国人の女性に出会いました。年齢はまだお聞きしていないのですが、主人と同じくらいでしょうか。彼女は日本で生まれ、第二次世界大戦の前に韓国の大邸に引き上げ、1962年にアメリカに移住し、大学教授として長年教鞭をとって来られたそうです。一方、私の主人は、1936年に韓国の大邸で生まれ、戦後日本に引き上げ、彼女と同じ1962年にアメリカに移住しました。その二人が奇しくもハワイで同じ教会(100名ほどのこじんまりした教会です)に集うようになるというのは、神様の手で刺繍の糸がいろいろと飛び交っている感じがするではありませんか。彼女は韓国語、日本語、英語が堪能で、主を心から愛しておられますからこれからも大きく用いられようとしています。天国にいったらどんな美しい刺繍を見せていただけるのか、大変楽しみですね。
クリスチャンとして大切なことの一つは、永遠のものさし、即ち、天国の価値観で物事を見ること、だと思います。オレゴンで教会主催の英会話クラスの先生をしていてくださるシンシア・ケニヨンさんのご主人であるブラッドさんの証を聞いたことがあります。
それは、英会話クラスの婦人たちとそのご主人たちとを彼らの家に招いてくださったときに話してくださったのです。彼はあるとき非常に古い墓地を訪れました。アメリカの墓石にはその人の名前と、何年に生まれ、何年に死んだかという年号が彫られています。彼はそれをしばらくじっと見ていて、叫んだのです。「この人は生きていた年月より、死んでからのほうがずっと長い!」と。それが、彼にとって永遠に目を向けるきっかけとなったそうです。その彼も今は天国で自分の人生のすばらしい刺繍を見ておられます。
私たちは、主のご計画で今の時代に生かされて、一日一日を過ごしていますが、どんなことが起こっても、いつでも天国からの見方、即ち、霊的な物の見方をしていかねばならないのだと思います。2006年を迎えるにあたり、こんなことを考えました。よいお年をお迎えください。 (終わり)
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31 12月
暗雲と神の国の輝き(1)
リック・ジョイナー (訳者:渡橋 喜代佳) 2005年8月22日、私は夢を見た。夢の中で、感じのいい静かな通りを歩いていた。突然、西の方から大変な危険が自分の方に向かって来るのを感じた。振り向くと、非常に不気味な暗雲がこちらに迫っていた。その雲ははるかかなたまで一直線に延びており、すぐそこまで接近している。私はすぐそばの家に避難した。中に入りさえすれば、安全だった。しかし、ドアを開けようとするが、開かない。鍵は私のポケットにある。鍵に手をやるが、恐怖のあまり身動きできなくなった私は、ドアを開けようにも、ポケットから鍵を取り出すこともできない……夢はそこで終わった。
この夢ですさまじい恐怖を覚えて、私はひどく苦しんだ。数日間その解き明かしを主に求め、預言者である友人のボブ・ジョンズにも尋ねてみた。そして、この雲がアジアから(私たちのいる西側に)もたらされる死のウィルスだということが示されたのだった。この夢のメッセージはこうだ。私たちにはこのウィルスに対して安全な場所があるし、そこに入る鍵も与えられている。それは神の国の鍵である。ところが、恐怖のあまりそこに入れないということもありえる。この暗雲がどんなに接近していたとしても、避難所である神の国もまたすぐそばにあるのだ。
道を備えよ まず確認しておきたいが、もし私たちクリスチャンが岩の上に家を建てているなら、この地上に来ようとしているどんなものをも恐れる理由はない。主のことばを聞いてそれに従うことで、私たちは岩の上に家を建てるのである(マタイ7:24~27参照)。主のことばを聞いたことのない、あるいは、聞いても従わなかった愚かな人々にも、悔い改めるための時はまだあるにはあるが、あまり残されていない。時が迫っているからだ。夢の中で暗雲が非常に接近していたのは、このタイミングのことだった。
私たちには揺らぐことのない神の国があり、この地上を襲うどんなものからもまったく安全で確かな避難所がある。すでに述べたように、この安全な場所に入るための鍵は、主がご自身の教会に与えてくださった神の国の鍵である。けれども、クリスチャンだと言いながら、実際は、神の国のやり方ではなくこの世のやり方に従い、主のためではなく自分のために生きている人たちには、悔い改めの時はわずかしか残されていない。
聖書は、この時代の終わりに世界がどのようになるかについて、非常に明確に語っている。
1テサロニケ5:2~6からは、励ましと警告の両方が与えられている。
「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知している
からです。 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」 この先世界がどのような事態にいたったとしても、クリスチャンは驚くべきではない。この地上を何が襲っても驚かない、終わりの時代の預言的なミニストリーが起こされることだろう。主の羊たちは、主の声を知っていると言われている。彼らはそうした事態に対する備えがなされて、主の囲いの中で安全に過ごすことができるのだ。主の声を知らないか、主の声に従わない人々は、たちまち、もっとも過酷な危機的状況にさらされるようになるだろう。
何であっても、否定的だとわかると、それを受け入れることが教理的にできなくなっているクリスチャンが多い。彼らは、上記の引用箇所にあるように慎み深くしているのではなく、霊的な酩酊状態にある。すぐに酔いから覚めるのでなければ、次は昏睡状態に陥るだろう。繰り返すが、この世界がどのようになるかについて、聖書は非常に明確に語っている。
問題は何なのか? この時代の終わりに世界を襲う艱難や苦難は、基本的には、人間が神を無視して生きようとしている結果引き起こされるのだ。創造主との調和の中にいなければ、どんな被造物も、うまくいくことはありえない。この時代が終わると、すべての被造物が、そうした愚かなことは2度としてはならないことを永遠に証しするだろう。
最大規模にまでおよぼうとしている暴風雨や他の自然災害さえも、その原因は人間側にある。人間にはこの地を治める権限が与えられたにもかかわらず、みずからが神の支配に服していないため、正しく治めることをしてこなかったからだ。しかしながら、神との根本的な関係が回復されて、神に従って生きているクリスチャンは、世界にもたらされようとしている事態を恐れる必要はないし、そうした事態に対しても権威を行使して、地域全体を大災害から守ることも可能である。
主に従順な人々と従順でない人々には、はっきりした違いが見られるようになる。といっても、従順で「岩」の上に自分の人生を築いた人々が守られるのは、自分たちが大災害を免れたことを誇るためではない。主を無視して生きようとしてきた愚かな人々を助けるためである。私たちは、主がすべての人の救いを望んでおられ、いつもさばきよりもあわれみを示したいと思っておられることを、けっして忘れてはならない。マタイ5:44~46で、主はこう語っておられる。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」 主は、すべての人々を愛しておられる。主を憎み、主や主のやり方に反逆する人々をも愛しておられる。愛情ある父親のように、たとえその反逆する子どもたちが悔い改めないとわかっておられても、主はその子どもたちのためにもよいことをしてくださるのだ。したがって、来たるべき破壊的状況のただ中にあっても、反逆する人々にも力を尽くしておられる神のあわれみや恵み、優しさが見られ
20 12月
「神の国の福音」とトランスフォーメーション アメリカにおいて、ここ5年位でしょうか、今まであまり聞かれなかった新しいクリスチャン用語、例えば「マーケット・プレース・ミニストリー」とか「四つの壁から出る」とかいう言葉が「流行って」います。また、多くの人が「キングダム」(王国)と言う言葉を強調するようになりました。又、今世界的なクリスチャン用語となりつつある「トランスフォーメーション」と言う言葉も、比較的最近のクリスチャン慣用句であると思います。
そこで考えてみますと、イエス様は常に「天の御国」のことを頭においておられたことが聖書からはっきり分かります。主が宣教を始めて最初に言われた言葉は何だったでしょうか。 それは
、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でした。そして自分たちのところにイエスをひきとめようとする人たちに対して
「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を述べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(ルカ4:43)と言われました。明らかにイエス様はご自分が天の御国の王であることを明確に意識して私たちにお話をされました。
私たちは今、終末の時代に間違いなく突入しています。それはイエス様がもう一度この世に帰って来られる日が近づいていることを意味します。しかも、今度帰って来られる時は、天の御国の王として来られることを思い出して下さい。いよいよ「天の御国が近づいた」のです。
私は、これからのクリスチャンと今までのクリスチャンとの生き方に何か差があるとすれば、それはこれからのクリスチャンは本当に御国メンタリティーを持たねばならないと言う一点であると言う気がします。
主は、私たちに祈りを教えられた時に
「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように…。」(マタイ6:9-10)と祈るように指示されました。この祈りは明らかに「天の御国の実現」のための祈りです。この地上に神の国が設立され、そこにおいては「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」ねばならないのです。
そして
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)と警告されました。つまり天の御国においては、私たち御国の民は徹底して王に従順であって、常にみこころを行うことが要求されるのです。
そのために私たちはどうすればよいのでしょうか。第一に、「御国に属するクリスチャン」とは一体何者であるかを、私たち自身がこの際、改めて再認識する必要があると思います。
クリスチャンとはボーンアゲインした人のことを言いますが、それは霊が生き返った人と言う意味です。つまり、クリスチャンとは元来霊的な存在で、霊によって神とコミュニケーションをし、神に従っていくように造られています。
創世記1:26にあるように、人間は神に似せて造られており、神のイメージを持つ者ですから、霊に生き返ったクリスチャンとは元々の神に似た、神と同じクラス、同じ部類に属する者であるのです。
しかし、私たちは、長い間ぬるま湯につかった様なクリスチャン生活を送って来ましたから、あまりにも人間的になり過ぎてしまっています。神学を頭でこねまわし、人間が考えた教会成長論をふりまわし、伝道方法も神様にお聞きせず、ない知恵を振り絞って教会の人数をふやそうと躍起になっている姿は、神様不在の状態に近いのではないでしょうか。
ですから奇跡も何も起きません。しかもそれが普通で、奇跡が起きないことをおかしいとも思わないのです。クリスチャンが全く情けない姿に成り果ててしまっています。
クリスチャンがあまりにも人間的で、霊に生まれ変っていない旧態依然の人間を生きているとすれば、その人は未だに「サタンに支配されている者」であることをご存知でしょうか? マタイ16:21-23に
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(新改訳)
ここで「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言う部分ですが、ここは英語の新欽定訳のように「 神の思いに満たされていないで、人間的な思いに満たされている状態」を意味しますから、実質的にペテロは神に従属しないで(神に属する者は神の思いに満たされているはずです)、むしろサタンに従属したままの者であることを示すために、イエス様が敢えてペテロをサタンよ、と呼ばれたのであると思います。
サタンがこの世の支配者であることが次の御言葉から分かります
。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(ルカ4:5-7)もし私たちがサタンに対してそのような意識を持っていないとしても、少なくともサタンはこの世は自分のものであると言う意識でこの世に君臨して来たことが、上記の御言葉からはっきり分かります。サタンは初めからその目的で人間を騙し、この地上の支配権を人間から奪ったことを思い起こして下さい。
それを踏まえて、イエス様はサタンの手からこの世を奪回するために「教会」を建てると言われました。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。…」(マタイ16:18、19)主は、私たち教会がこの世の敵の門を崩し、サタンからこの世を奪回して天の御国にすることを命じておられるのです。私たちはサタンに対して霊の戦いを挑み、これに勝利しなければならないのです。
そして、今まで敵の捕われ人となって来た王国
17 12月
ギャロップ世論調査:アメリカ人の神に対する信仰は根強く残っているPublished: December 13, 2005 12:15 PM ET
2005年12月13日
ニューヨーク発 「神は死んだ」という議論がおこってから40年が過ぎようとしているが、人間以上の力のある存在を信じるアメリカ人が大多数であるということが、今回のギャロップ調査の結果、明らかになった。 実に94%に人が神は存在すると考えている。‘
僅か5%の人が「神は存在しない」と感じているが、そのうちの大部分はそのことに「確信はない」と言っている。 たった1%だけが「神は存在しないことを確信している」と答えた無心論者である。
それでは、神の存在を信じている人たちは、どの程度信じているのだろうか。 実のところ、10人のうち8人までが、「神の存在を確信させられている」と答えているのだ。 (この調査ではその理由を書く欄はなかった。)
神の存在を信じる比率は、保守派のほうがリベラル派より多く(87%対61%)、女性は男性より少し多く(82%対73%)、アメリカ南部に住む人のほうが東部の人より多かった。(88%対70%)
驚くべきことは、教会には全く行かなかったり、ほとんど行かない人たちのうちの61%が、神は存在すると信じていることである。
この調査は2005年11月17-20日に、1002人の大人に対して行われた。(終わり)
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16 12月
ハワイの12月ハワイは大まかに言って2つの季節に分かれるそうです。「暑い夏」と「暖かい夏」の二つです。
つまり、日本で冬の時は「暖かい夏」の季節で、丁度気持ちのいい気温で大変過ごし易いです。すずしい朝夕にはカーディガンをはおるくらいです。
先日トマトの苗を買いに行きました。12月にトマトの苗を植えられるなんて、やっぱりハワイ生活は楽しいな・・・と心弾ませて行ったのですが、いつも野菜の苗がおいてある場所は、みんなクリスマス・ツリー売り場になってしまっていました。オレゴンあたりから出荷されてくるものが多く、懐かしいオレゴンの木の匂いを、しばし、楽しみました。
クリスマス・ツリーと呼ぶのは特定の(つまりキリスト教の)宗教色を出してよくないから、ホリデー・ツリーと呼ぶべきだ、なんて言う議論もアメリカではかなり出回っていますが、クリスマス・ツリーがアメリカ人(他の国のことはわからないのでアメリカに特定しますが)の心の中にどれほど深く入りこんでいるかは、日本育ちの私たちには想像以上のものがあります。彼らは物心ついたときから、クリスマスになると居間の中心にクリスマス・ツリーが飾られ、その下にきれいに包装されたプレゼントが並んでいるという、なんとも素敵な光景のなかでクリスマス気分を味わって来たわけですから、ツリーのないクリスマスは、もう、それはとても寂しいものになってしまうのです。
私は数年前、「クリスマス・ツリーは異教の習慣であり、クリスチャンはするべきではないのではないか。」というすごく説得力のあるビデオを見てしまいました。何でもすぐ影響を受けてしまう私は、「今年から我が家はクリスマス・ツリーは飾りません。」と宣言しました。子供たちはもう独立していて家には住んでいなかったのですが、クリスマス休暇で帰宅して来てそのことを知り、私の想像した以上にツリーのないことを悲しみました。彼らはアメリカ生まれですから、ツリーに対する愛着はやはり、とても強かったのです。
今はクリスマス・ツリーに対する私の気持ちは、かなりやわらいで来ました。西欧の文化の中ではぐくまれたクリスマス・ツリーに対する人々の気持ちを、むげに踏みにじることはないと思っています。しかし、やはり、クリスマス・ツリーがイエス様に取って代わってクリスマスのシンボルになってしまっているとすればそれはおかしいです。アメリカでクリスマスがイエス様そっちのけの風潮になって来ているのに抗議して、数年前から「Jesus is the reason for the season」という言葉が教会で言われ始めました。語呂がいいでしょう。イエス様こそクリスマスを祝う本当の意味ですよ、と言う訳です。私もこのことを改めて心にとめ、クリスマスを迎えたいと思います。(終わり)
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