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Walk With God Ministries


16 05月

時を知る   リック・ジョイナー   2009年5月16日


時を知る

リック・ジョイナー


世界の国々の政府や様々な機構の土台が崩れていることを表す出来事が、毎日のように起こっています。聖書の預言は、この時代の終わりには「大艱難(マタイ24:21、黙示7:14参照)」と呼ばれるものが起こり、その最大の原因は、人類の起こす問題が人類の解決能力を超えてしまうことであると言っています。今、揺り動かしが増大するにつれて、人びとは次のような疑問を投げかけるように増々なっています。「私たちはそれらの土台が崩れないように手を差し伸べるべきであろうか? 地の塩である私たちはそれらが崩れないように助けるべきであろうか? それは必ず沈む運命にあるタイタニックの船体の穴につぎをあてるのと同じではないであろうか?」と。

これらの疑問に答えを出すことは非常に重要です。一つの国家の運命はまさにその国の教会が正しい答えを出せるかどうかにかかっているからです。即ち、真理に向かって進み真理によって自由を得るか、又は、瞬く間に悪、偽り、束縛に堕ちてしまうかです。教会こそが、それぞれの国家がどちらに向かうかを決定する要因なのです。教会が召されている通りに地の塩、世の光として立ち上がるならば、その大小に拘らず、その国家はいのちの道に向かう事ができます。もし教会が眠っていたり、又は今の時代に預言的にかかわることを拒絶するならば、その国家は失われます。

どうしてこのように重大な結果が教会のあり方にかかっているのでしょうか? 教会は今までも常にその国の将来を決定してきたのですが、今は 終末の時代であるという緊急性の故に、その影響が増幅されるのです。私たちは地の塩となるように召されています。もし私たちに塩気が無くなれば、国は保存されません。私たちは世の光となるように召されています。もし光が輝きを失えば、国は暗闇に落ちていくのです。


多くのクリスチャンがどのような道を選択するかは、彼らの終末に関する聖書預言(エスカトロジー)の理解によって大きく左右されます。本当はそれが要因になるべきではないのです。というのは、終末に関する聖書預言はすべて、忠実なる真のクリスチャンたちによる最高最大の福音伝道と行動を喚起するものだからです。それは、ダニエル11:31−32に書かれている反キリストが現れても何だ変りはありません。

神を知っている人びとは揺るがされることなく、必要な行動を起こすでしょう。しかしこれは常にそうなのです。 しかし受け身の姿勢では、召されているような地の塩、世の光となることはできません。ただ教義を信じるだけでなく、キリストご自身に真に従う者は主に似た者とされ、主と同じ業をするのです。イエスが地上におられた時、当時の最大の暗闇と対峙されましたが、主は妥協も撤退も決してされませんでした。それがキリストの御性質であり、主の御霊にある者たちの性質であり、私たちの性質であり、決意でなければなりません。

教会の目を覚まし、受け身の信者たちを今の危急の任務に召されている軍隊へと変えていこうではありませんか。(終わり)


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15 05月

主の臨在を迎える  ビル・ジョンソン  2009年5月15日


主の臨在を迎える

ビル・ジョンソン


私たちの人生に与えられた最大の特権の一つは、神が留まられる者になることを習得することです。勿論、主は既にすべてのボーンアゲインしたクリスチャンの内に住んでおられます。しかし、主はその人たち全員の上に留まってはおられません。そのことは次のような言葉で表現できるかもしれません。

「主が私の内におられるのは私の益のためである。主がわたしの上に留まられるのは、みんなの益のためである。」と。主が私たちの上に留まっておられるとき、特にその影響を大きく受けるのは私たちの回りにいる人たちです。

イエスが水のバプテスマを受けられたときの出来事は、このライフスタイルのお手本となります。
イエスがバプテスマを受けて水からあがられると、天が開け、父なる神が語られました。そして聖霊が鳩のように主の上に下り、留まられました。「またヨハネは証言して言った。『御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。』」(ヨハネ1:32)

もし、実際に本当の鳩が私の肩に留まっていて、その鳩が飛んで行ってしまわないようにするためには、私は一体どのように生活するでしょうか? 一歩一歩いつも鳩のことを念頭において歩くことでしょう。

主の臨在をどのように迎えればよいのかを誠実に学ぼうとするときに、私たちの前には 二つの現実があり、両者は緊張関係にあることを十分理解することが重要です。即ち、主は私たちに御霊を無限に与えてくださったのですが、毎日の生活の中で私たちが享受するものは、私たちの信仰に応じて「はかられて」いるということです。言葉を変えれば、私たちは神の 臨在を無限に受ける可能性が与えられているけれども、主は信頼に値しない人にご自分を委ねることはされないということです。どれだけ御霊を与えられるかは、すべて私たちの出方によって決められるのです。即ち、主は私たちが熱心に守りきる決意があるだけの臨在を私たちに委ねてくださるのです 。

私たちは主が留まられる場所(そこから天の御業が成し遂げられる場所)になるべきです。なぜならば、主がある人に留まられると、その人が行くところはどこででもアトモスフィア(空気、環境、状態)のシフトが実際に起こるからです。
ペテロの影が人びとを癒したことをあなたはどう思われますか?私たちの影というものは、 私たちを上から覆っているものの力を放つのです。主の臨在を迎え(共に過ごす)ことを会得すると、あなたが意図する時に起こるブレイクスルーよりも「たまたま偶然に」(意図しないで)起こるブレイクスルーの方が、もっと頻繁に経験するようになるでしょう。それは毎日すべてのクリスチャンに起こり得ることなのです。

 主の臨在を迎えることを学ぶ中で 私たちは多くの葛藤に遭遇しますが、その一つは過去のシーズンで学んだこと自体にあります。驚くべきことに過去に(聖書から)学んだ霊的原則自体が、私たちの上に実際に留まっておられる主の臨在に向かって戦いを挑んでくることがあるのです。私たちは通常意識的に(聖書で学んだ)原則に従って生きていますが、実際には一刻一刻を臨在によって生きることを学ばねばなりません。もしその二つが衝突するならば、臨在は原則に常に勝利します。

一つの例をあげます。人生に対する神の御心を積極的に探し求めることが私の習慣になっていたとします。そして私にとって一番重要な聖書箇所は、マタイ11:12の「…天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」だとしましょう。原則によって生きようとすれば、私は今までに学んできた「激しく攻める信仰」を適応しようとします。しかし、神の臨在は今、ルカ18:17の「子どものように神の国を受け入れる」ことを促しているかもしれません。
もしあなたが原則だけで生きているならば、あなたはその時点やそのシーズンにおいて、 激しく攻める信仰こそが完全に聖書に基礎を置いた正しいものだと推論するでしょう。しかしその推論は聖霊が言われることと一致しないのです。この例では「激しく攻める信仰」と「子どものような信仰」どちらも聖書的です。私たちがあるシーズンやある状況の中でどのような対応すればよいのかを知っておられるのは聖霊だけなのです。

私たちは神がすでに語られたことにしっかりと土台を置かねばなりません。それによって今主が語られていることを見分けていくことができます。存続しつづける信仰を私に与えて下さるのは神の臨在です。それは、「信仰は聞くことにより、聞くことは神の言葉によるからです。」(ローマ10:17)
神の臨在と共に過ごすことを学び、会得することによって、信仰で生きることが自然で普通になる、そのような心の状況がつくり出されてゆくのです。

私たちが、神の留まられる場所になるように決意しようではありませんか。(終わり)


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08 05月

パーパス(目的)とデスティニー(定め)を見つけよ! キム・クレメント 5月8日 


パーパス(目的)とデスティニー(定め)を見つけよ!

キム・クレメント
 

 「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」(ローマ12:3、6−8)

エレメント(自分が本来いるべき環境)とは、自分がやりたい事と得意な事とが一致する場所のことです。私たちは一人ひとり自分のエレメントを見つけ出さねばなりません。「彼は自分にぴったりのエレメントの中にいる」という言葉を聞いたことがありますか? それは、回りの完全な環境により、その人が非常に巧くやれることがすべて妨げられることなく、高められ発揮されている状態を表しています。例えば、水は魚のエレメントです。皆さんは又、「彼は陸に上がった魚のようだ」という表現も聞いたことがあるでしょう。それはつまり「彼は自分のエレメントの中にいない」ということです。多くの人は自分のエレメントの外で機能することを余儀なくされて、必要以上に苦しんでいます。そのようなとき、彼らは本来の自分とは違うものにならねばならないというプレッシャーを受けることになります。

預言の賜物は、この事に関して人を大いに助けることができます。預言の言葉を語ってその人に与えられている賜物をわからせることにより、彼がその賜物を用いるにふさわしい環境を捜し始めるようにと強く促し、最終的に自分のエレメントに行き着くように助けます。私の人生の目標、抱負は、私が出会えたすべての人のために、一番ふさわしい環境を造り出すことです。即ち、各々がその中で創造的に成長するように励まされる環境です。

ダビデ王は山野で片手に竪琴、もう一方に石投げを持って過ごしていた時、自分のエレメントの中にいたのです。彼は王として選ばれましたが、その環境は彼にとって生きるのが難しいところでした。ピカピカの大理石や金で造られた宮殿に住んだ彼は、陸に上がった魚のように感じたのです。そして、ついには他人の妻と一緒になってしまい、親友を殺す結果となりました。

やがてダビデ王は山を選んで(険しい山でした)そこを住まいとしそれをシオンと呼びました。彼はその山の上にテントをはり、その中に契約の箱を置きました。そしてこの場所を「ダビデの町」と呼びました。自分が元気を与えられ居心地がよい環境を造ったのです。彼は自分のエレメントに入ることができました。人は自分が本来するべきことをする機会を得て、各々が自分のエレメントを見つけ出す必要があるのです。

あなたのパーパス(目的、目標)は何か? デスティニー(定め)は何か?

パーパスとデスティニーとは実のところ同じではないのです。デスティニーとはあなたのための究極的な神からの選びです。パーパスは現時点での召しです。神はあなたが地上で究極的に何をするように選ばれましたか? あなたの究極の選びは何ですか? あなたが生まれるまえに何をするように選ばれましたか? それがデスティニーです。あなたのパーパスはなんですか?それは今現在あなたが召されていることです。

再びダビデ王の事ですが、彼は竪琴と石投げを手にして神を賛美し、熊やライオンをやっつけながら野原にいるのがエレメントという男でした。ある日、預言者サムエルが来て「あなたはイスラエルの王となる油注ぎを受ける」と言いました。そして、その時点からダビデの内でデスティニーが解き放たれたのでした。ダビデは生まれる前から選びを受けていたのですが、デスティニーが解き放たれたのは、その時が始めてでした。それはダビデに預言のことばがくるまで滞っていたのです。

同じことがあなたにも当てはまります。あなたの内にはまだ閉ざされたままの何かがあるのです。あなたの内には生まれる前から選ばれた自分でも知らないデスティニーがあり、それが突然、聖霊があなたに息を吹きかけた途端に解き放たれ、開かれるのです。そしてあなたは急にそのことを強く意識するようになります。

サムエルがダビデに手をおいて「あなたはイスラエルの王である」と言った途端にダビデは王になったでしょうか? 聖書にはそうは書かれていません。ダビデがまずユダの王となり、後にイスラエルの王になるまでは何年もかかりました。つまり、ダビデは自分のパーパスに仕えながら、デスティニーにそって生きていたのであり、その事実を私たちはしっかり認識する必要があります。デスティニーとはあなたの人生でなすべき究極的な召しであり、パーパスとは、デスティニーにむかって進んで行く過程であなたがするように召されていることです。
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まず、ダビデはイスラエルの王、シオンの王になるように選ばれて、油を注がれました。しかしその時ダビデはまだ青年でした。彼はある日戦場にでかけ、イスラエルの人びとに挑戦している巨人の声を聞ききました。突然、ダビデの中に何かがわき起こって彼は憤り、大胆さが内に満ちてきました。すでに彼のために定められていた権威が彼をつき動かし、羊飼いであり詩人であった彼が言うはずはないようなことを言い始めたのです。そして、 「この割礼をうけていないペリシテ人はわたしがやっつける!」と言ったのです。

ダビデのこの大胆さは、 兄弟たちのうちに怒りと嫉妬を呼び起こしました。彼らは「いったいおまえはなぜやってきたのか?荒野にいるお父さんの羊を誰にあずけてきたのか?」と叱責しました。彼らは嫉妬心をかき立てられました。というのは、デスティニーを持つ人に神の権威が与えられるとき、まわりの人が嫉妬心を起こすことがよくあるからです。そこでダビデは言いました。「この巨人と戦うチャンスを私にください。」と。

この物語はよくご存知ですね。ダビデは万軍の主の名においてゴリヤテをどう始末するか自ら預言し、結果はその通りになったのです!その時点からダビデの召し、パーパスはサウル王の太刀持ちとして仕えることでした。「でもダビデはイスラエルの王として油注がれたのではなかったのか!」と思われるかもしれません。確かにそうです、しかしダビデが究極的な選びによ って王座に着く前に、彼は一つのパーパスのために仕えなければならなかったことを、私たちは理解する必要があるのです。

今、何に召されているか?


あなたの召しは何ですか? あなたのパーパスはなんですか? 今現在、何をするようにと召されていますか? ダビデはサウル王の太刀持ち、及び詩人、楽人となる召しをうけました。それは彼の一時的なパーパスでした。パーパスというものは常に一時的なものであり常に変っていくものですが、同時に常にあなたのデスティニーを推進していくものです。あなたの現在のパーパスは決して恒久的なものではありません。それを理解することは重要です。今あなたがしていることはある一定の時のためだけかもしれません。なぜならば、神はあなたをデスティニーへと導いているからです。しかしもし現在の召しを果たさなければ、あなたはデスティニーには決して到達できないかもしれないのです。

その次のダビデの「召し」は何だったでしょうか?それは荒野に入って追放の身となることでした。サウル王はダビデに嫉妬し、彼を追いかけ、王としての油注ぎは自分のものだとして抹殺しようとしました。ダビデの召し、パーパスは荒野や山にいることでした。彼はそのような所に留まらねばならなかったにも拘らず、自分の召しとパーパスを果たしていたのです。

又、ヨセフは油そそがれ、王権をとる夢を見ました。兄弟たちは嫉妬し、腹を立てました。何故でしょうか? それはヨセフが口を開き、大胆に「私の見た夢はこれです。」と言ったからです。お分かりでしょうか、大胆さは人がデスティニーに解き放たれた時にのみ与えられるのです。人が自分のデスティニーに解き放たれると、自分でもわからないうちに、すでに彼の中に存在していた何かを口から発しているのです。多くの人はそれに対して腹を立て怒るでしょう。

兄弟たちに奴隷として売られたヨセフは、ポティファルの家に住むようにと「召され」ました。それから牢獄に入れられましたが、彼には目的があったのです。その目的とは献酌官と調理官を助けるというものであり、ヨセフはそれを遂行しました! 聖書はヨセフが監獄で成功したと言っています。これが 現時点における自分のパーパスであり、 このパーパスが究極の選びへと自分を導くものであることを悟るならば、どのようなところに閉じ込められていたとしても、あなたは栄えることができるのです!

あなたは鉄格子の中にいても制限されるとは限りません。また、人びとの言葉によって閉じ込められ制限されるとは限りません。また、憎しみや嫉妬、競争心によって閉じ込められる必要はありません。たとえどんな場所に入れられたとしても、あなたのデスティニーが今の状況を用いるですから、あなたは栄えることができるのです。自分の目をデスティニーから離さずに、今現在のパーパス(現在するように召されていること、どこかで床掃除をするとか、些細な仕事であっても)を成し遂げて行けば、人生の終着点までの旅路は必ず楽しいものになることをぜひ理解してください。

第二ペテロ1:10「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」

自分の召しと選びをしっかり把握していれば、決してつまずかないのです。この「つまずく、stumble」という言葉は、罪をまったく犯さないとか、間違わないという意味ではありません。転ぶことはあるかもしれない、間違うかもしれない、しかし、最終的には起き上がり歩き出すということです。なぜならば、あなたの召しとデスティニーがあなたを回復させるからです。

2009年の目的があなたの召しである

皆さんに自分のエレメントを見つけていただきたいので、言い方を変えてもう一度説明したいと思います。あなたが喜びをもって得意なことをすることができる場所にいることを私は望みます。陸に上がった魚のようであって欲しくないのです。あなたの召しと選びとは同一ではないことを忘れないでください。あなたの召しは2009年のあなたのパーパス、目的です。2009年のあなたの目的は何でしょうか?

「私はラジオのアナウンサーになるように召されています、、、今は清掃人として召されていますが、しかし、いつかは億万長者になります、、、セールスマンとして成功します、、、起業家になります、、、」等々あることでしょうが、是非あなたの召しと選びが何であるかをはっきり把握してください。第二ペテロ1:10−11で驚くべきことは、「これらのことを行っていれば(もし自分の選びと召しを知っていれば)永遠の御国へ入る恵みを豊かに加えられます。」と言っていることです。これはどう言う意味でしょうか?

誰でも御国に入りたいと思っています。死後に天国に行くことを言っているのではありません。神の御国に入るとは、この地上で神の目的のために、すべての点で効果的で、力強く、影響力があり、豊かであることです。ペテロは「永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられる」と言っています。神の御国とは神が支配されているところであり、私たちはそこに入らねばなりません。ペテロはまた、「もしあなたがたが自分の召しと選びを知っていれば、永遠の御国に入る戸が開かれるでしょう。」と言っています。

ダビデが洞窟に隠れているときに、どうして詩編57:7「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。」と言えたのでしょうか? 彼にこの大胆さを与えたのは何だったのでしょうか? 彼は全軍から憎まれていました。サウル王は彼を殺そうと狙っていました。彼の回りには少ない数の者しかいず、しかも信頼に足る者たちではありませんでした。彼は洞窟で惨めな状況と環境の中に置かれていて、「私の心はゆるがない」と言える理由は一つもありませんでした。しかし彼は自分のパーパスは何か、自分の選びは何かを知っていました。それ故に「私の心はゆるぎません。私はほめ歌を歌います。」と神に向かって歌うことができたのです。

たとえ人が牢獄に入っていたり、大きな負債を負っているときに、「私の心はゆるがない。私は不安ではない。私は主を賛美します。」と言うことが出来るならば、その人は平安であり堅く立っているのです。それはその人が回りの状況とか出来事にではなく、ただ一つのことに確信を置いているからです。それは、「私を召された方は真実であり、必ずそれを達成される。」という確信です。ダビデは自分がイスラエル
02 05月

宣教地からの呼び声 ビル・ヨント 2009年5月2日


宣教地からの呼び声

ビル・ヨント 

ヨハネ4:35 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」

収穫へのこの招きは、過去2000年間にわたり鳴り響いてきたようです!畑はこれまでいつも色づいていましたが、働き人が少なかったのです、、、でも今それが変ろうとしています!

マケドニヤ人の懇願

私は幻で、「召し出された人びと」が、神に 召された地への切符を買うために長い列を作っているのを見ました。この神の召命に年齢制限はありませんでした。若者や老人、又、子ども連れの家族が、今までの生活を捨て、家や車を売り、彼らのお金(主のお金)を銀行から引き出して、世界中の宣教地へと向かっていました。

ルカ9:3にある「旅のために何も持って行かないようにしなさい。」という言葉が、その通りに実行されていました。この幻は、神に召された土地への人びとの「集団脱出」のように見えました。主が多くの者に「片道切符にしておきなさい。」とささやかれているのが聞こえました。

ある者たちは信仰で列に連なっていました。主が航空券を買うお金を必ず与えてくださることをぎりぎりまで信じているのです。彼らが信仰をもって並んでいると、超自然的にその必要が満たされるのでした。ある者たちは窓口に着くと、匿名の人によって彼らのためのチケットはすでに購入されている旨を告げられるのでした! また、他の者たちはさっきまで入っていなかったお金が財布に入っているのを見つけました!チケットカウンターで働く者たちの中には、航空券が格段に引き下げられたという報告を受け取る者がありました。このように召しを受けた者たちのために神の御業が現れ、 もしかしてこのまま必要が満たされないのでは、という彼らの最後の疑いはすべて取り去られました。

ロッキングチェアーがロケットチェアーに変る

ヨブ12:12「老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知がある。」

この「マケドニヤ」への召命を受けた人びとは 喜びと油注ぎに満たされたので、老人たちも病気や疾患、身体の不自由さ、経済的、年齢的な障碍をものともしていませんでした。主の喜びが力を与え、召された者たちに120年の寿命を与えていたのです!多くの者は遣わされた宣教地で癒されました!

多くの者は遺書を書いたときに、自分の寿命がそれほど長くなることを考慮に入れていなかったことに気がつきます。神が必要とされる人びとは、地上にもっと長くとどまるように計画されているのです!多くの者が主の約束の言葉、「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。」(詩編118:17)を聞きました。他の者たちは「わたしは、彼を長い命で満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう!」(詩編91:16)という言葉を信じて列に並んでいます。彼ら老人の知恵が必要とされているのです。

ある者たちはチケットを入手したとき、彼らの「リタイヤリング(引退)」が「リファイヤリング(再び燃やされる)」となり、老いた顔がたちまち若返りました。車いすに座って並んでいた人たちも、チケットを入手する時までに立ち上がることが出来る者がいました!

愛はコストをとやかく言わない

神に召され遣わされた者たちは、決して後ろを振り返りませんでした。彼らは愛する者たちに別れのキスをして、飛行機や船に乗り込みました。彼らはこの世は彼らの故郷ではなく、すべてが新しくされるところで再び会うことを知っていたのです! 自分たちが渡った橋を燃やし(取り外し)てもう戻れなくし、網を捨てて主が導かれるところならどこにでも 従う者たちを(助けるにために)同行する天使たちも招集されました。

ある者たちは、死者がよみがえり、多くの奇跡的ないやしが起こり、大群衆がキリストを見いだしたという証しをもって祖国に帰り、その国の火付け役となるために招集されるでしょう。又、ある者たちは 孤児という新しい家族をつれて戻るでしょう。

使徒16:9「ある夜、パウロは、幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。」

瀕死の人びとや孤児が「ここに来て私たちを助けてください!」と叫んでいるのを私は聞きました。彼らはお金や食べ物以上のものを必要としていました。彼らには内に神を持つ人に触れられることが必要だったのです。多くの者が餓えて瀕死の状態でしたが、それは食物が欠乏しているからだけではなく、愛の欠乏によりました。彼らの霊が「私に触れてください!抱いてください!」と叫んでいるようでした。

詩編68:6に「神は孤独な人に身を寄せる家族を与え」とあります。宣教地に遣わされた多くの者はイエスが再び来られるまで、又は栄光のうちに彼らの天の住まいに招かれるまでそこにとどまるのです。そしてやがて必ず 、彼らに触れられた者たちが、「感謝します!あなたが触れてくださることによって変えられた命が私です!」といって近づいてくる言葉を、彼らは聞くことでしょう。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」マルコ12:31

私は近所に住む人たちが「ここに来て助けてください!」と叫ぶのを聞きました。そうです、家の近所はもっともおろそかにされている宣教の地です。私たちは全員、遠くへ、また近くへと召されているのです。どこに住んでいようと、神にとって魂は魂です。「マケドニヤ人の叫び」が響き続けるときにあなたはどこに行くべきかがわかるでしょう。あなたにはそれが聞こえますか?

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」マルコ16:15 (終わり)

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30 04月

続・パーフェクト・ストーム (完全な嵐) ラリー・ランドゥルフ 4月30日  


続・パーフェクト・ストーム (完全な嵐)

ラリー・ランドゥルフ  


<このメッセージは同題で4月17日にお伝えしたものの続きです。初めて読まれる方は、先ず4月17日の分をお読みいただくことをお勧めします。―訳者>


そこで今壊さなければならないパラダイムとは何でしょうか。

先ず、私たち教会は常にリバイバル、リバイバルと叫び求めますが、リバイバルは神が究極的に注意を払っておられることではないと思います。一般的な意味として、リバイバルとは昔あったことを復活・復興させる、回復すると言う意味で、言ってみれば墓場(tombティユーム)に焦点が当てられていてtomb focusと言えます。勿論だから悪いと言っているのではありません。旧約聖書で起こった事柄、例えばダビデの幕屋等の復活もそうです。しかし神が私に今語っておられるのはリバイバルではなくてルネッサンスです。ルネッサンスはフランス語ですが、その意味は新しく生まれ変わる、ボーン・アゲインです。そして、新生と言うことが強調される点でtomb focusではなく、むしろウーム(womb子どもを宿す子宮、お腹)に焦点を当てるwomb focusです。聖書も旧約がティユームなら新約はウームです。

私がこう云ってもご立腹しないで下さい。私は決してリバイバルを軽んじているのではありません。これから神がなさろうとしていることは、過去のものを単にリバイブするにとどまらず、それを遥かに超えたことをなさると言われるのです。例えばスミス・ウイグルフォースのいやしの業、それは確かに当時のカイロスタイムではすばらしかったことで、勿論私もそれが欲しいですが、神がこれからなさろうとすることは、それを遥かに超えたもっと新しいもの、既存の箱には入れて置けないような、箱が破裂するような大きな業なのです。今教会全体にリバイバルではなく、ルネッサンスの変革を神はもたらそうとしておられます。それは既存の観念ではとうてい言い表せないものです。

ですから昔のものをよみがえらせよと言っても理解出来ない人も、(古いものの良さの上に上乗せして)全く新しいレベルの礼拝をする、その霊の力をいただいて発揮する、そのために(もう一度)ボーン・アゲインするルネッサンス(新生)の時代と云った方が素直について行ける人が多いと思います。神の創造が、今までのチャート(グラフ図表)では上端から飛び出してしまい表されない程大きくなるのです。今の多くの教会は、私の教会もそうですが、神と霊の働きを求めて忙しくしてはいても、既存の神の観念の範囲を超えることなく、今までやって来たことの繰り返しをしているに過ぎません。それ以上に大きくはみ出した信仰による霊の力に期待している教会は少ないのです。これが今までのパラダイムからブレイク・アウェー(脱出)しなければならないことであると思います。

ロトの妻は神の未来のムーブメントに参加するはずの人でした。しかし、彼女はそれを躊躇しました。それで彼女は過去の記念碑となってしまいました。彼女の躊躇の代価は神のビジテーションでした。今私たちは危険な時に生きておりますが、イエスは「ロトの妻を思い出しなさい。」と言われました。過去にどんなに立派な業績を残したとしても、あなたがそこにとどまって神について前進して行かないのであれば、あなたはそうする代価を払わねばなりません。どんな立派な黄金の記念碑を建ててもらっても私はいやです。たとえ多くの間違いを犯しながらであっても、何としても神について行く、将来に属する人間でありたいのです。私は必ずしも他人が既に到達して得た油注ぎを欲しいとは思いません。私自身のものが欲しいのです。

4.「自分が今まで親しんで来た箱の中でぐるぐる廻ることから飛び出して、新しい御国の生き方をする。」に移ります。アインシュタインは、「気の狂った人」の定義とは、何度も同じことをくりかえしながら、その都度違う結果を期待する人のことであると言いました。
ある人が、プロセッショナリー(行列して歩くの意味)と名ずけられた毛虫(蝶の幼虫)を使って、ある実験をしてみました。この幼虫のDNAには名前の通り、前の虫の後をついて行く性質があります。この虫の10匹を一所に置くと一つの虫を後の9がついて歩くのです。実験者はこの虫の15匹を直径30センチ位の植木鉢の縁(円周がフラットな?)に置き、その鉢の中心に虫が好きな食物を置きました。そして放って置いたのですが、一日たっても皆先頭の虫の後をぞろぞろとついて鉢の周りを廻っています。二日、三日と経っても同じことを繰り返すだけで円周を廻り続け、ついに十日後には皆餓死して死んでいたと言うのです。食物は彼らから僅か15センチしか離れていませんでした。これは「眼の見えない人が眼の見えない人を導く」ことにあてはまります。

皆さんはそうではありませんが、多くの教会では、何も考えず、あるいは何も疑うことなく、皆人に右にならえで同じことをしている、つまり「私は危険を冒してでも人とは少し違った生き方をしてみたい」と思って実行する人は意外に少ないのに気が付きませんか。
確かにクリスチャンは「後について行く人follower」の集まりではあります。しかし、あるクリスチャンたちはよく考えもせず何にでもついて行きます。又、多くの人は誰か他人のビジョンとか夢、他人の目標に右え倣えでついて行くのに忙し過ぎて、神がそれぞれ個人に与えられた(賜物と)ビジョンを見極め、それを追おうとしません。従ってそうするのに必要な、自分個人のための霊の食物を得ようとはしないため、霊的に死んでしまっている人も大勢います。神は、ですから、大勢の人のすることから離れ、自分が行くべき道を行きなさい、(そのために神だけを追い求めなさい)と言われるのです。

何故人は大勢の人の後をついて行くかと云えば、多くの人は(神ではなく)人を恐れるからです。私も今まではずっと人を恐れて来ました。しかし昨年私はひどい病気に係り死にかけた時、神に対面して分かったことは「人を恐れず神を恐れる」ことの意味です。
本当に神を恐れるようになるまでは、人を恐れると言う意味がはっきり分からない人が大勢いると思いますが、これはある意味でとても危険なことであると思います。
神が本来期待する、それぞれ違った個人に成長すべきであるクリスチャンを他人(教会のリーダー)が押並べて一律なクリスチャンにするような支配的な指導をしてしまうのを、多くの人はその指導者である人を恐れるがゆえに、その人が言う通りのイメージになるように右へ倣えし
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