Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
16 08月
御霊により歩むジョアン・マクファッター どのくらい 御霊によって歩むことができるかどうかは、 何よりも私たちが主の御霊をどれほど知っているかによって決まります。黙想や交わりによって御霊をよく知る事により、私たちはますます御霊と一つとなり、御霊の方法や御声を知り、御霊が私たちの内において、又、私たちを通してどのように働かれるかがわかるようになります。
御霊にある自分の内なる人を建て上げる方法を理解するにしたがって、私たちは黙想、異言、ワーシップ、御言葉の学び等を通して、出来るだけ主の御霊と頻繁に接し、交わるようになります。主と同じ思いを常に持つためには、聖書全体や歴史の中で 主が人間とどのように関わってこられたかを調べて、 主がどのようなお方であるか、又、主が御自分をどのような形で表されるかを、十分に知ることが非常に大切です。
主の御霊について学ぶならば、御霊がある人に臨まれるとその人の力だけでは不可能だったことが出来るようになることがわかります。ゼカリヤと話した天使はこの真理をよく説明しています。
「すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしに霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』」ゼカリヤ4:6
その人に本来の賜物が何であれ、今までの力以上の能力が御霊により増し加えられます。聖書の中で主の御霊が多くの人たちに臨まれてどのような事が起きたかを見てみれば、それはギデオンからエゼキエル、ダビデ、イエスにいたるまでであり、主は人を偏り見る方ではないことがわかります。多くの者が御霊を受けましたが、今、そのうちの幾人かの例を見てみたいと思います。
主の御霊
主の宮の職人であったウリの子ベツアルエルに関して次のことが書かれています。
「(わたしは)彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」出エジプト31:3−5
これに続いて、知恵を授けられたすべての職人のことが述べられています。知恵はイザヤ11章に書かれている主の御霊が持つ特長 の一つであり、創造力と技術を 彼ら本来の力を超えて豊かに与えるものでした。
「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、、」イザヤ11:2−3
肉の」目や耳で見聞きしたことで物事を判断しないという事と、主の御霊が私たちの上にとどまることとが並べられて同じこととして書かれているのは興味深いことです。勿論そのことはいつも言われていることですが、実際に実行することは私たちにとって非常に難しいことのようです。同じことを私が繰り返し繰り返し云うことは壊れたレコードのようで嫌なのですが、それはやはり私たちの中にしみ込んでしまっているギリシャ的(西洋的)思考パターンに由来しています。
聖書にはまた、モーセの上にあった主の霊が70人に分与されたことが書かれています。それはリーダーとしての能力に関するものであり、70人の長老たちには御霊が与えられる前には備わっていなかったものであることが明らかです。
「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」民数記11:25−26
これは、御霊の働きは時間と空間に制限されないこと示す驚くべき出来事です。長老として登録されていたにも拘わらず何らかの理由で天幕に来なかった二人の上にも、御霊が全く同じように臨まれたのです。私たちが往々にして 作り上げる物理的な壁を、御霊は飛び越えることを示すばかりではなく、「雲の中」即ち、礼拝の場である神殿、で与えられるものは、マーケットプレイスでも与えられることを意味していると私は思います。両方の場所において御霊は同じように与えられ、しかも同じ結果を生み出しました。他の長老たちには面白くないことだったかもしれませんが、御霊の思いは神の目的に適ったものだったのです。
明らかに彼らの上に御霊が与えられたのは、ある一つの能力、 リーダーシップの分与のためでした。しかしながら、それは彼らの心の動機を完全なものにすることはありませんでした。御霊がされたことに対する彼らの怒りは、「集会に来なかった」にも拘わらず同じ御霊を分与された二人に対する反応を見れば明白です。これこそが私たちが自分に死んで主のされる事を完全に受け入れるというプロセスによって訓練されることが非常に重要である理由です。御霊の油注ぎを受けても、その油注ぎを持つにふさわしい徳を持つ者になることは保証されていないのです。キリストに似た者になる努力をするのは私たちに与えられている責任です。
御霊によって歩む
御霊によって歩むとは、ただ単にしるしや不思議、奇跡、リーダーシップ、賜物、預言等ではなく、それを超えたものです。それは私たちが「 する事」ではなく、むしろ私たちが「 どのような者か」ということなのです。御霊によって歩むということが、能力だけではなくこころheartと関係していることが、最近やっと人々に理解されてきたように思われます。御霊によって歩むことは、今までは教会の中ではあまり見られなくなっていました。しかし、主が注ぎ込もうとしておられる油注ぎを持ち運ぶためには、主の御前に常に立つことがどれほど必要であるかを私たちがようやく理解するようになったのは、大変喜ばしいことです。
主の御霊を自分の上、又は内に受けた人々について聖書を調べることをお勧めします。それをすべて 書く事はできませんが、これから来ようとしている御霊の注ぎを受ける備えとして 自分を主にあって確立させるために考えるべきものをあなたはきっと与えられるでしょう 。今ここで、ダニエルにスッポトライトを当てたいと思います。
まず第一に、王が探していたのは「
身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者」でした。(ダニエル1:4)
それから王は、彼らが当時の習慣にしたがって出来うる限り最高の食事を与えられ教育されることを望みました。しかしダニエルと三人の友人たちは、主の御こころはそれとは違うことがわかり、立ち上がり、彼らが生かされていた時代にあって御霊によって歩む道を選びとりました。聖書には、王の命令とは全く異なる主からの言葉をテストすることを許されるという恵みもダニエルは受けたと書かれています。私たちが御霊の声に従うときには、必ず恵みが伴うと私は信じます。
そして端的に言えば、「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢を解くことができた。」という結果になったのです。(ダニエル1:17)
ここで注目したいのは、彼らが持っていたものは「神がそれらを与えられた」ということです。権力や能力によるのではなく、主の御霊によって彼らは与えられたのです。他の者たちが人間の思いに従ったときに、彼らは聖書にあるように御霊の知恵に従い、その結果10倍もまさった者になりました。(20節)そればかりか、彼らが火の中に投げ込まれた時には物理の法則をも超越したのです。彼らはこころ、身体、霊に秀で、いわゆる「超自然」の領域に生きていました。それは御霊によって歩んでいた当然の結果にすぎないと思います。
その結果、ダニエルは すべてのものを備えました。身体、思い、魂、霊のすべてを備えていたことにおいて、彼は御霊によって歩んだ者の最高の手本となりました。
「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。王がベルテシャツアルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。」ダニエル5:11−12
すばらしいことは、神があなたを創造された目的が何であろうとも、あなたが御霊によって歩むことを選び取るならば、あなたは御霊によって生きる喜びに与りつつ、この世でのあなたの能力も増し加えられるということです。神は霊の世界とこの世の二つの領域が共に支え合うようにと始めから計画されましたし、私たちは二つの領域でフルに機能できるように造られていると思います。それは私たちの前に備えられたチャレンジであると同時に招きでもあります。今家庭で育児をしている人であっても、科学研究所で何かを発見している人であっても、また路傍伝道をしている人であっても、世界をあっと言わせるような芸術作品を造っている人であっても、すべての人にとってそうなのです。
最終的には多くの人々は権力や能力によってではなく、主の御霊によって捕らえられるのです!(終わり)
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07 08月
クリスチャンのつとめグラハム・クッククリスチャンとしての私たちのつとめは、この世で神の栄光を現していく者になることです。 神の満ち満ちた様をフルに受け取り、その慈しみと憐れみを人びとの中に具現していくことこそ、私たちに与えられている特権です。ヘブル1:3で「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、、」と教えています。又、ヨハネ14:9ではイエス御自身が「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言っておられます。
キリストが私たちの内に形作られるにつれ、私たちは神のご性質を持つものとなっていきます。イエスの二つの偉大な言葉、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」は、ただ単に命令であるだけではありません。それは神が私たちをどのように愛されるかという神からの約束でもあるのです。神は私たちを、私たちが生きる限り、神の心と思いと知性と力を尽くして愛してくださるおつもりなのです。また、私たちがそれと同じ愛で神を愛する 能力を持つことをも神は保証してくださっているのです。神が心を尽くして私たちを愛してくださる時、私たちも心を尽くして神を愛することができます。神が思いを尽くして私たちを愛してくださる時、私たちも思いを尽くして神を愛することができるのです。
このような愛は私たちを変えます。私は静かに座って神について考える時、私は思いを尽くして神を愛することを心から楽しんでいます。私は一年のうち4ヶ月間、神を黙想してすごします。私の家には小部屋があるのですが、私はそこに入って黙想します。一日中その部屋を出ない日もあります。黙想とは、一つのことに関して深く考えることに他なりません。じっと座って、神とは誰か、どのようなお方であるかを考えるとき、神は自らを顕され、神が私をどのように思われているかを話さずにはおられなくなるのです。神も私たちをご自分の思いを尽くして愛してくださっているのです。神が私たちのことを思う思いは、すべてよきものであり純粋なものです。
第一ヨハネ4:16に、このような愛が私たちに与えるすばらしい結果について書かれています。「私たちは私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」神は私たちを救うために一人子を賜ったほどに私たちを愛されました。そして次に聖霊をくださり、聖霊の内にとどまることを会得すれば、私たちは聖霊により慰められ導かれることができるようになりました。
私たちのうちなるすべてのもので神を愛することの自然な結果は、私たちが回りの人びとをも同じように愛するようになることです。神が私たちに注いでくださる愛の豊かさは、この世への愛となって溢れ出るはずです。私たちは神から途方も無く愛されているので、他の人びとを愛することができるのです。私たちが身体、思い、魂、力を尽くして真に神を愛するならば、私たちの認識、感情、考えの中にブレイクスルーが起こるはずです。
私たちが大きな失敗者、敗北者であればあるほど、神の愛の中に生きるように変えられるシフトはダイナミックになります。父なる神がそういう私たちをご覧になると、その心は愛で一杯になります。神は私たちが持っている弱さを見ると、その弱さを克服するために必要なものを私たちにすぐさま与えてくださりたくなるのです。第一コリント1:27に「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」とある通りです。神は「わたしはあなたに欠けているものを知っている。それを完全なものにするギフトをわたしは持っているのだ。」と言われます。
すべてのクリスチャンが、主がどれほど私たちを愛しておられるかという啓示を受けとり、その愛を実際に体験することが今緊急に必要とされています。神の愛はあなたが救われた時点で頂点に達したのではありません。救いは神の深い愛と憐れみを知る長い旅路の最初の一歩に過ぎないのです。神の過激的な愛は多くの罪を覆います。私たちの人生でうまくいかないあらゆることは、神の愛によって覆われるのです。聖霊はこれらのことを受けて私たちに示してくださいます。私たちが次に神の愛を必要とする領域が何であるかを聖霊は示してくださるのです。聖霊は私たちを真理へと導き、私たちのうちにキリストを顕すことを喜ばれます。
私たち一人ひとりに対する神の愛は非常に深いので、すべての失敗を飲み込み、罪を覆い、弱さを克服し、私たちを「主に愛される者」としての驚くべき地位に着かせてくださいます。私たちは本当にパワフルに愛されていて、神は私たちを大喜びで受け入れてくださり、私たちを信頼してくださることは絶対に変ることはありません。神のご性格は非常に力強いので不可能なことは何もありません。敵を愛することさえも私たちには可能なのです。
マタイ5:16に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と書かれています。神のご性質が私たちのうちに宿るとき、この経験のすばらしさを私たちは喜び分かち合うことができます。そして神の栄光が私たちの個性の中に輝くのです。
はっきり言わせてください。:神のDNAが私たちのうちにあることを証明する唯一の証拠は、私たちが自分自身をどれほど愛し、また、他の人々をどれほど愛するかというこの一点以外にはありえないのです。(終わり)
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31 07月
反抗rebellionの根を取り除く祈りポール/コックス【はじめに:坂 達也から】
1サムエル15:22、23に「1サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。 そむくことは占いwitchcraftの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』」とありますが、「主の御声に聞き従わずにそむくことrebellionがどうして占いの罪に等しい」のか、その意味について私は長い間疑問を持って来ました。それを今回コックス師がよく説明してくれています。
主の御声を聞いてそれにそむくことがどれ程大きな罪であるかはモーセ五書、特に申命記28:15に書かれていますが、これによって大変なのろいがかかることが明記されています。
罪とのろいが残る地をイエスの血潮できよめることが私たちの祈りの歩行の重要な任務ですが、同時にヘンリー・グルーバー師は自分と自分の家系の罪の赦しを乞い、それを宣言するという大変重要な祈りをクリスチャンの一人一人が行うことを強調しています。(私が編纂した「祈りの歩行の手引書」の最後のページに書いてあります。)
コックス師はそれを別の形で説明してくれていますので、この「そむく」こと=のろい=占いの罪=諸悪霊がクリスチャンであっても私たちを襲い、住まいとすることが許される、と言う恐ろしい図式が存在することをよくご理解いただきたいと思います。ついてはこのメッセージを読まれて、コックス師が作成した「反抗・反逆の根を取り除く祈り」をぜひ主の前でされることをお勧めします。(まえがき終わり)
その時、私はアメリカン航空で空中にいました。ドイツとスイスでのミニストリーからの帰途だったのですが、耳鳴りがしていました。内耳に問題がある症状かな、と私は思いましたが、耳鳴りは家に着いてからも続き、それから何日も止まらなかったのです。夜が一番ひどく、どうにか眠ることは出来ましたが、寝付くまでにかなり時間がかかりました。
耳鳴りが始まってから丁度40日目、私はフロリダのデイランドの教会で小さなグループを教えていました 。私は耳鳴りにずっと苦しんでいることを話し、これに対処する何かよい方策を知っていたら教えてほしいと頼みました。するとその中の幾人かが、近くの町で「魔術の要塞」に対して祈った経験を話してくれました。 お互いに詳しく話しをしてみたところ、驚いたことに、彼らが 敵と対決する祈りをしたのは、私の耳鳴りが始まったまさにその日だったのです。そして、 耳鳴りがしている日にちを数えたところ、きっちり40日経っていたことがわかったのです。
啓示がどんどんと与えられ始めました! 驚くべき事がわかりました。私は実は魔術 witchcraft.を聞いていたのです。私の耳鳴りは魔術だったのです!その啓示によって悟りが与えられはじめました。この敵と戦うための祈りを作り上げる時がきたのです。
占いと魔術
魔術とは何であるかをもっと理解せねばならないことは明らかでした。魔術あるいは占いの定義は、何かのしるしを解読したり、超自然な力によって 未来 を予知したり予言したりする技術、実践です。聖書でこの言葉は創世記44:5に最初に出てきます。ヨセフがベンジャミンの袋の中に入れた杯を家の管理者にとりに行かせたときのことです。管理者はこの杯は占い(divination)のために使われたものだと兄弟たちに言うようにヨセフから指示されました。
ニューバイブル辞典によれば、「占い divination」という言葉は、時間的空間的にかけ離れている事柄を知ろうとすることであり、故に一般の方法では知ることができないことであると定義されています。ですから預言者が予知の賜物をもっている場合のように「義なる正しい」ものもありえるわけです。しかしこのように特殊な場合を除いて、占いや魔術は聖書では厳しく禁じられています。
魔法や占いは、人間を超えたものから力や情報を得ようとすることです。もっとはっきりいえば、魔術は自分が願うことをある神(a god)にしてもらうために使うものであり、占いは人間には知ることができない事柄や情報を得ようとして使われるのです。魔法(magic)という言葉は、古代ペルシャの祭司職であったmagusに由来しています。魔術においては、人は神々(gods)と交信することができ、 魔術師や占い師は神々に働きかけて自分に益をもたらすようにしむけることができると信じられています。
占いは2種類に分類することができます。インターナル(内的)とメカニカル(物質・現象的)です。インターナルではシャーマンのようにトランス(夢見心地)状態が起こります。メカニカルの方は、砂や生け贄の内蔵、お茶の葉というような物体を用います。聖書の中には数種類の魔術や占いに関する記述があります。
棒うらない(Rhabdomancy)棒や矢を空中に投げて、それが落ちた場所によって吉凶を占う。ホセア4:12、エゼキエル21:21
肝うらない(Hepatoscopy) 生け贄の肝臓やその他の内蔵から占う。形や模様によって分類され、祭司がそれを解読する。エゼキエル21:21
家神像うらない(Teraphim)死んだ祖先の像を使って未来を予測する心霊術の一つ。第一サムエル15:23、エゼキエル21:21、ゼカリア10:2
巫術(Necromancy)死者から情報を得る。申命記18:11、レビ記19:31、20:6、第一サムエル28:8、第二列王記21:6、第一歴代誌10:13、イザヤ8:19−20
占星術(Astrology)太陽、月、惑星の星座に対する 位置関係や互いの位置関係により予測する。
水うらない(Hydromancy)水の中の模様で占う。 創世記44:5、15
背きと占い
次の注目すべき箇所で、サムエルは占いに関する深い理解を与えていてくれます。サウロはまたもや主の御こころに従いませんでした。彼は羊をすべて聖絶せよという主の命令に従わなかったので、サムエルは彼を叱責したのです!
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」第一サムエル15:22−23
即ち、魔術は反抗と同じだということになります。しかし、どのようになのでしょうか? 反抗あるいは反逆とは「権威のある者に反対・反抗すること」です。ヘブル語の mariy(背く)は「反抗する、論争好きな、制御
24 07月
非常に狭い道が今週から始まるチャック・ピアス 情熱を持っておられる方たちへ
皆様のことを私は神に感謝し、祝福いたします。火曜日の早朝の祈りの集会において、非常に狭い道が私たちのために来ようとしているという預言を私はしました。ノーマ・サーヴィスさんがその時にイスラエルでその預言を聞いておられたのですが、彼女は驚いて、早速次のメールをくださいました 。
「伝統的なユダヤ教では、タムーズの17日からアブの9日の期間は、『ベイン ハ メツアリム』と呼ばれ、狭い 場所に追い込まれるとか、 苦境に立たされるという意味であり、哀歌1:3の『ユダは悩みと多くの労役のうちに捕えられ移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。』という箇所に由来しています。
この『苦しみのうちにあるときに』という句は『海峡又は、狭い場所の間』と訳すこともできます。これは伝統的ユダヤ教において、タムーズの17日にエルサレムの城壁が崩され、アブの9日に神殿が破壊されたことを憶えて、3週間の喪に服する期間なのです。他の喪の期間と同じく、この期間は結婚式も行われません。
火曜日にあなたに与えられた言葉(狭い所を歩きもっと高く登るという)について今朝私が祈っていた時、タムーズの17日は7月9日に当たり、それがユダヤ教においても狭い場所を示すことに気づきました。今私たちは城壁に破れがないか、よくよく注意せねばなりません。私たちは恐れや悲しみのうちではなく、信仰に立って歩まねばなりません。しかし狭く険しい場所に注意を払い、また、そこにある神の慈しみを見逃さないようにしなければなりません。」
新しい通路ができている
私が火曜日に預言として与えられたものの一部をここに記します。主の言われていることが聞こえてきます。
「狭い通路が今作られつつある。わたしはあなたの道を狭くする。あなたはあなたの願望を狭くせねばならない。わたしは願望を清め、あなたが歩く通路を狭くしている。あなたは新しいアライメント(関係/一致)とアサイメント(仕事/課題)の中に入り、そこからあなたは今まで知らなかった領域へと導かれるであろう。暗い場所から出て光へとあなたは進むであろう。しかし、あなたが歩いて来た通路はだんだんに狭くなり、あなたを新たなものへと押し出すであろう。
今は『神のギデオン軍の招集』の時だ。ラッパが鳴り響き、ギデオン軍の招集が地上に解き放たれる。ギデオン軍の招集は耳を傾けるべき緊急の知らせだ。わたしの民が持つ願望を選別せよとの命令が、今地上に起ころうとしている。わたしの民の願望は、自分らの欲望と入り混じってしまっている。今からの三ヶ月間、わたしはわたしの民の願望を選別し、それによって彼らがわたしに従えるようにする。
新しい地に入ろうとして出発した時には、あなたはわたしからの願望を持っていた。しかし、あなたが以前持っていたあなた自身の欲望が再び膨らんで来て、わたしがあなたに与えた召命は混乱してしまった。今すぐあなたは自分自身の欲望を(わたしのあなたにしてもらいたい欲望から)引き離さねばならない。そうすることによって、わたしがあなたを引き寄せてその地に入れるようにするからである。
狭まる時
わたしのチームと軍隊は、狭められ小さくされる。なぜなら今は狭められる(狭くする)時だからだ。今この言葉を話しているうちにも道は狭まっている。聞け!よく聞け!ラッパの音が鳴り響き招集が今始まっている。ギデオンの時代のようになる。わたしが与えようとしている油注ぎはギデオンの油注ぎであり、『ミデヤン人』を征服するであろう。彼らは今までの7年間、収穫のときに襲ってきて収穫を盗んだ。
敵はいつも収穫の時期にやってきて略奪していく。その敵に勝利するためには、大いなる分離が起こらねばならないことを知れ。わたしはわたしの民の召命を配置し直し、彼らが自分のチャンスを別の角度から見ることができるようにせねばならない。今日招集のラッパが鳴り響くのを聞き、ギデオンの時が来たことを知れ!
ラッパの音を聞いたなら、今日立ち上がり、狭い道である通路を通って入っていけ。あなたのためにわたしが備えた場所に入るために、これからの三ヶ月間、 いろいろなものがあなたからそぎ落とされる。それによってあなたの身体さえ変化するであろう。(終わり)トップへ戻る
18 07月
悲しみ、けれど勝利
グラハム/クック それはいつもと変らない土曜日のことでした。ランチを食べながらラグビーの試合でニュージーランドがフランスをやっつけるのを見ていたとき、私の携帯電話が鳴り悲劇の知らせが入ってきたのです。ミニストリーのチームリーダーであり親しい友人であるデイヴィッド・クローンのお嬢さんであるエイミーが、心臓発作で死んだというのです。
妻のテレサと私が病院に駆けつけ、救急室にいるエイミーの家族と友人たちに会いました。 ブリリアントブックハウスという私の出版社で働いている娘のソフィーと友人のケリーもやってきて、泣きながらハグしていました。みんな打ちのめされました。非常に愉快で、創造的で、パーティーを盛り上げ、二人の子どもの母親でもあるあのエイミーが死んでしまったって?
私はエイミーが横たわっている部屋にそっと入りました。母親のデボラはベッドに伏して泣いていました。父親のデイヴィッドはエイミーの足もとに座ってうな垂れていました。親しい友人であるマークとタミーが二人を慰め支えていました。検死官が来て死体を運びだすまで、私たちはハグし、祈ったり慰めたりしていました。
それから、デイヴィッドとデボラは病室から弱々しく出て来て、みんなにお礼を言いハグしました。私はデイヴィッドが「何か必要なものはないですか?何かお手伝いしましょうか?」というのではないかと一瞬思ってしまいました。というのは、彼は会うと最後にそう訊くのが常だったからです。二人が手をつないで駐車場を横切って行く姿を見るのは胸のつぶれる思いでした。
それから少しして、私の携帯が鳴りました。「一緒にエイミーの復活のために祈って欲しい」というデイヴィッドからの電話でした。勿論ですよ、祈りましょう、、、実際になんと言ったかは覚えていませんが、この時ほど死に対して戦いたいと感じたことは今までありませんでした。その晩、ボブ/ブック夫妻と私たち夫婦は、翌朝のミッションでの集会を計画しました。
クローン家の人たちは彼らの家で集まり、そこで戦いをすることになっていました。遺族が戦いの場の出てくると人びとが集中できなかったり、悲しみやショックを与えるかもしれないという配慮からでした。この戦いの知らせは世界中に発信されました。親しい友であるレディングにあるベテル教会のビル/ジョンソン夫妻もデイヴィッドとデボラへの愛のためにすべてを置いてこれを優先してくれました。アメリカや多くの国々の人たちが一つになって祈ったのです。
翌朝、ミッションでもたれたその集会はずっと長く私の記憶に残ることでしょう。一致の霊がこのような熱心さと喜びをもって顕わされたのを私は見たことがありません。ワーシップは本当にすごいものでした。それはイエスの素晴らしさをたたえる真実なすばらしいセレブレーションでした。私たちはみな我らの神、主をほめたたえ喜びました。ワーシップの中で人びとは、自分の体験から真理だと知る神の麗しいご性質を喜びたたえました。神の慈しみを完全に信頼していることを表現するものとして、賛美と感謝を捧げたのです。
嘆きの祈り(ラメンテイション)は地上に存在する賛美の中で最高のものです。それは地上特有のものです。天国でそれをまねることはできません。なぜならば天国には涙も悲しみもないからです。嘆きの祈りは天ができない何かを私たちにさせるのです。それは即ち、私たちが苦しみの極みにいるときにさえ主をワーシップすることなのです。
嘆きの祈りは「そうではあっても though」と「しかしやはり yet」を常に伴います。(ハバクク3:17−19、ヨブ13:15参照) 担いきれない悲しみを負い 苦しみの極限の中にいる私たちが、「そうではあっても」「しかしやはり」主をほめたたえるのです。
主をほめたたえるとは、高揚し、興奮し、大喜びで楽しいという状態でセレブレーションをすることです。しかし、神は私たちに嘆きや重荷を忘れなさいという要求はされません。主はそれを捧げものとしなさいと言っておられるのです。主の偉大さと麗しさの中に嘆きを携えて入っていくのです。それを使うのです。主を喜ぶことが出来ないという正当な理由は、絶対どこにも見つからないのです。嘆きの祈りは、父なる神の慈しみ(愛)の中に私たちを招き入れ、そこで私たちの涙は熱い崇拝の祈りと一つに溶け合い、私たちに先立って苦しみ・悲しまれた主が既に占めておられるその場所にゆくのです。このときまさにワーシップが栄光の領域に入っていきます。
霊的なコミュニティーとして私たちは今、開かれた天の下で生きること、主と同じ姿に造り変えられること、イエスがされたと同じことを行うこと、天から地にむかって生きることを学んでいます。私たちは「天になるごとく地でもなるように」という事を、学び、 訓練を受け、成長しようとしています。まだまだ道は遠いですが、みんな情熱的にリアルなクリスチャニティーを追い求めているのです。
雲のような多くの証人に取り巻かれているというように私は感じました。ある時点で、私たちの賛美は天を突き通しました。何百人もが喜びながら、一つの心、一つの思い、一つの声と霊をもっていました。ワーシップが一段と高まり、私たちは天の賛美と合流したのです。その歌声は本当にものすごいものでした。その日はバンドのメンバーの半分は旅行中だったので、バンドの演奏はしないことになっていました。ですからその時いたのは、ギターのボブとピアノのバイロン、ジェンベのネドだけでした。しかし、突然私たちは全員、聞いたことのない音楽を聞いたのです。それはほんのつかの間の間で消えていきましたが、私たちはあっけに取られ、びっくり仰天し、そしてもっと広い心を与えられてそこに立っていました。
私が手短かにヨハネ11章とマルコ5章から話しました。ラザロとヤイロの娘の話です。イエスは人の死を、そこから覚めることのできる眠りとして話されました。私たちのミッションでは神が私たちのためにどのようなお方であられるか、また何がお出来になるかを全面的にすべて信じています。主の慈しみを喜び、主の力と御心を信じる信仰に堅く立っています。荒廃と退廃と絶望の中で苦しむ世界に、神の慈しみと憐れみを持ち運ぶことを学んでいます。私たちの願いは奇跡、しるし、不思議をもってこの地に天をもたらすことです。命の主の権威を持ちたいのです。ですから私たちはどんな状況の中にあっても喜びをもって戦うことを選びとっているのです。
私たちは一つ心で
祈りました。声を一つにして命に戻るようにと命じました。丁度父の日だったのですが、それは何とふさわしい日だったことでしょう。それからの数日、私たちは小さなグループごとに復活の力を信じる喜びの宣言を続けたのでした。
エイミーは私たちのもとへは戻ってきませんでした。かわいくて、楽しいことが好きで、みんなを笑わすのが好きで、宗教的でない(教会中心の宗教的なキリスト教を嫌っていました)エイミーは、喜びに満ちあふれた素晴らしい天から戻ってはこなかったのです。
葬儀は型破りでした。全くクローン家らしいもので、預言的先駆者的スピリットの傑作とも言うべきものでした。教会での記念礼拝はありませんでした。(エイミーはそんなものはきっと嫌だったでしょう。)そのかわりに家族友人が少数墓地に集まりました。普段の服装で、という指示をみんな受けていたので、ジーンズや明るい色の服装が多く、フォーマルな装いの人はいませんでした。大きなリモジンが二台が到着し、そこからクローン家の人たちが出てきました。 バグパイパーがアメイジンググレイスを吹く中、彼らは車のトランクからクーラーを二つ取り出しました。
私たちはエイミーの棺の回りに集まり、デイヴィッドとデボラがエイミーの人生を感動をもって語りました。人びとが次々にエイミーの思い出を語り、みんなは笑ったり泣いたりしました。エイミーの神への情熱は、人生にどんなに辛いことが起こっても失われることはなかったのです。みんなは大声で笑ったり、同時に涙を拭いたりしていました。一人ひとりにピンクの花が渡され、棺の上にそれを置いて最後のお別れをしました。
クーラーからシャンペンとサイダーが取り出され、誠実で、独立心があり、自由な精神をもったエイミーのために、みんなで乾杯をしました。(彼女が今ダビデ王に、主の前で踊る本当のやり方を教えていることは間違いないところです。)ビル/ジョンソンが、人の死を正しく悼むことの重要さについて短い、しかし感動的な話をしました。それは心に中に喜びと悲しみの両方を自由に働かせることが大切であり、どちらかを抑えるのは害になること、けれども一日の終わりには常に喜びが勝つようにするということでした。彼はまた、神に対して私たちが真実であり続けるように、そしていのちのために常に戦うようにという励ましを与えてくれました。 アーメンです。
翌日私は中心的なリーダーであるボブ/ブックスとダン/マコラムと共に、デイヴィドとデボラに会い、次の日曜の集会について話し合いました。私たちは又笑ったり泣いたり、おいしいクッキーを食べたりしました。
日曜日の礼拝は満員でした。エイミーの人生を祝うために世界中から人びとが集まりました。それは感動的であり、また、楽しさ、悲しさ、素晴らしさを混ぜ合わせたものでした。大いなる喜び、大いなる家族、大いなるコミュティー、大いなる一致。
私たちは復活を勝ち取ることはできませんでした。それは私たちが信じるものから一歩敗退したことでしょうか? もうリスクはとらずに最大限の安全圏に留まるほうが賢明ということでしょうか? それとも一段進んで「御国が来ること、御こころがなること」を見る決意を新たにする時なのでしょうか?
私たちこそがその信念を決して失わせないのです。 私たちは、イエスと常に共にいることによって敵を倦み疲れさせる計画を持っているのです。 決して絶えることのないリアルな神の御国に対する私たちの喜びと情熱は、ついには敵を疲労困憊させるのです。神がエイミーを取り去られたのではありません。 彼女は敵に盗み取られたのであり、私たちはその代価を敵に支払わせるのです。
私たちの信仰宣言はダニエル3:13−18に書かれています。バビロンに連れていかれた3人が、王の金の像を拝まなければ酷い死を遂げると言われた話です。彼らの返答は正面からの宣言でした。
「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
これは自分たちの決意を予め表した言葉です。彼らは王の前に出る前に自分たちの決意がどのような結果をもたらすかを知っていました。どのような代価を払うことになっても、彼らは自分たちの信念を崩すことはありませんでした。彼らがヘブル人であるという心からの全面的な表明でした。
私たちのコミュニティーは、この悲劇を通して一つとされ、どのように進んでいくべきかを定められました。私たちは新しい地へと呼びい出され、霊的に引き上げられたのです。これから私たちは次のことを求めていきます。
地上の天国
主と同じ姿に造り変えられること、
イエスがされたと同じことを行うこと
さらに大きなわざを行う
私たちは神の栄光を求め続けます。神の御性質、愛、憐れみ、恵み、親切、喜びを抱きしめ受け取ります。人生を神の慈しみの目で見ることを選びとります。復活、癒し、奇跡、力、豊かさを私たちが見るところとなり、しっかりと捕まえ、それが日常茶飯事となるまで追い求めます。
今私たちは一つのコミュニティーとして定義されるための新しい決意を形作るプロセスを通っているのです。もう引き返すことはありません。(終わり)トップへ戻る
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