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Walk With God Ministries


04 11月

雲の柱は動き始めた ポール•キース•デイビス 11月4日


雲の柱は動き始めた

ポール•キース•デイビス 



神がご自分の言葉に更にコンファメーション(確認)を与えてくださるのは実にうれしいものです。9月11日頃非常にある鮮明な夢が与えられ、それ以来私はその夢によって励まされています。その夢の中で、 開いた聖書を持った手が私に向かって伸ばされ、聖書のある箇所を開いて読むように告げられました。私が数節読み進むと、「増加、増加、増加、増加、増加」と 書かれている“聖句”に行き当たりました。

勿論聖書にこの通りの箇所はないのですが、それはこれからの時代にどんどんと恵みを増し加えて与えたいという神の願いを象徴的に表しているものでした。私が読んでいたのは民数記10章でした。正直なところ、このところ私は民数記には焦点は当てていず、むしろ黙示録やダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネ福音者などを中心に読んでいました。ですから民数記を読んだのは偶然のようで、あまり意味がないようにも思えましたが、その夢が主からのものであることははっきりわかりました。

それで、もし何かコンファメーションが与えられれば、これが主からのものであるという確信を持つことが出来ると考えて、それまではこの聖書の箇所を誰にも告げないことに決めました。次の週はテネシー州ノックスビルでのカンファレンスに参加しましたが、預言者のボブ•ジョーンズも参加していました。私は主がボブの啓示的な賜物を用いて民数記10章から私に語ってくださるのではないかと期待しました。しかしこの箇所については何も語られないままカンファレンスは終了してしまいました。

私はノックスビルから直接テキサス州ダラスに行き、チャック•ピアスとグローリ−・オブ・ザイオン主催のロシュ・ハシャナ・カンファレンスに参加しました。私はこの集りに参加することにわくわくしていました。私が一年前にチャックに伝えた主からの預言を素早く成就してくださった聖霊への感謝の気持ちで一杯でした。その伝えた預言とは白い大きなテントの中で、50年代に起こったリバイバル にも匹敵するようないやしの油が注がれるというものでした。

この集会は預言が成就し、彼らがテキサス州デントンの郊外に取得した土地で開催した初めてのテント集会でした。到着してみると、それは私が一年前に霊的経験の中で見たものと全く同じテントでした。私は民数記10章が示唆するものを理解したいという願いをまだ持ってはいましたが、その夜礼拝が始まったときにはそれが一番の関心事ではなくなっていました。

けれども驚いたことに、ワーシップが終るとチャックはラッパの祭りとロシュ・ハシャナ(イスラエルの新年)を迎えるために銀のトランペットを持った二人の人を前に呼びました。勿論これは民数記10:1−3に書かれていることであり、イスラエルの聖なる会合を招集する時や移動を告知するときに吹き鳴らすものです。

「銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打ち物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。この二つを吹くときは、全会衆が会見の幕屋の入口に、あなたの所に集まってこなければならない。」

もっと驚いたことには、チャックが来るべき神のシーズンへの預言的告知として民数記10章から短い教えをすると言ったことです。それこそ私のためのコンファメーションでした!

神と共に動く

民数記10章は、神の民が主の臨在の雲と共に移動し、約束の地に入るための指示が書かれています。臨在の雲が次の場所に移るときの、非常に詳細な指示がモーセに与えられています。これを預言的に洞察すれば、 キリストの身体なる教会は聖なる会合へと招集されていて、主の臨在の動き(移動)に従う備えをするようにと言われていることが明らかです。雲の柱は動き始めたのです!

「増加、増加、増加、増加、増加。」と夢の中で私が読んだ箇所は民数記10:28で、そこには「以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」と実際には書かれています。

これから起こる「増加」に関連して私がこの聖書の箇所から理解することは、私たちは聖霊を通して神から厳密に指示されている秩序に 完全に従う必要があるこということです。主の祝福と恵みが私たちに伴うためには、主は私たちが 従うべき主の望まれる秩序を定めておられ、私たちはそれに忠実に従って主と一致(アライン)する必要があるのです。そのときに増加がどんどんと進みます。主の秩序の多くはイザヤ66:1−2に見ることができます。

「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。−主の御告げ。— わたしが目に留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』」

これからの時代に神と一致(アライン)するためには次の3つのことが役に立ちます。

1.へりくだりの霊
2.砕かれた悔いた心
3.神のことば(レーマとロゴス)を敬虔と畏れで震えるように謹んで受け取る

賛美、時とシーズン、主が住まわれるところ

イスラエルが宿営を出発するときに、幕屋に先立ってまずユダ族、イッサカル族、ゼブルン族が出発するようにと主は明確に指示されました。(民数記10:14—16)

ユダ族のシンボルは普通、獅子です。明らかに主はご自分をユダ族の獅子として表されています。主はまず飼葉おけに生まれて来られ、ご自分をほふられる小羊として捧げられました。しかし今度は、キリストの花嫁となった人々を通して圧倒的な勝利を収めるために復活の力をもって吠え威る獅子として主は来られるのです。「賛美(ユダ)」がまず私たちの先に行かねばならず、そしてイッサカルの祝福の中に示されている「時とシーズンをはっきり悟る」ことがそれに伴わなければなりません。

私たちは今、特に「失った相続財産」を取り戻すために前進する「定められた時」に入ろうとしているのです。ロシュ・ハシャナのあと行った南アフリカにいたとき、申命記33:18−19にあるモーセのゼブルンに対する祝福に関して非常にはっきりした啓示的洞察が与えられました。

「ゼブルンについては言った。『ゼブルンよ、あなたは外に出て行って楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼ら
27 10月

時のしるしを見きわめる(第53回) リック・ジョイナー 10月27日


時のしるしを見きわめる(第53回)

リック・ジョイナー


 最近行われたアメリカの教会に関する調査結果を見ると、アメリカ人の65%が自分はボーンアゲインしたクリスチャンだと言っているにもかかわらず、キリスト教的世界観、即ち聖書的世界観を持っている人はわずか3%に過ぎないというショッキングな事実がわかります。キリスト教的世界観を持つという意味は、イエス•キリストと同じ視点で世界を見ることであり、又キリストの教えを知りそれに従うということです。

 ボーンアゲインしたと自認する人の数とキリストの基本的なものを反映した生き方をしている人、即ちキリストの視点で世界を見る人とのギャップがこのように大きいということは、私たちがキリストの(宣教)大命令をほとんど果たしていないことを示しています。私たちはただ人々を回心させるだけではなく、弟子を作リ彼らの主が命じられたことをすべて 教えるようにと命じられているのです。

 アメリカのキリスト教のこの基本的な失敗を正すにはどうすればよいのでしょうか。まずこの問題があることを認識することが第一歩でしょう。人々をキリストを信じる決心に導きボーンアゲインさせてから、教会が 彼らを「キリストに似る者」へと成長させることに失敗しているのは明らかであり、それは 弟子を作れという主の命令を悲劇的なほどに割り引いたものにしてしまっています。これは回心者を起こす働きをする伝道者への批判ではなく、そのような伝道者の働きをフォローすべき教会がその役目を果たしてないということです。


 使徒行伝を見てみると、一つの地方でリバイバルが起こると、そこに使徒がリーダーによって遣わされ、新しい信者がキリストの弟子として確立するようにフォローアップする働きをしました。明らかに今この記事を読んでおられるあなたは、キリストの弟子であり、主から学び、自分も主と同じ視点で世界を見たいと望んでおられる方だと思います。けれども、今の教会の様子から考えると、そのように決心された皆さんのほとんどは教会からそのように導かれたのではなく、ご自分でそのような道を選ばれたのだと思います。それはそれで素晴らしいことに違いないのですが、新しい信者たちは自分の教会からもっと助けを受ける必要があるのです。

 新生児は自分ではほとんど何も出来ず、基本的なことが出来るようになるまでには長い間いつも誰かに世話をしてもらう必要があります。私たちがボーンアゲインしたとき、ほとんどの者が霊的には同じようなレベルにあります。 霊的に自分を養うために何をすればよいのかわかりません。
 
 今日アメリカではほとんどの人は小さい時に教会には行っておらず、聖書に関して無知ですから、特にそうといえます。彼らはキリスト教に関する書籍、CD、DVDとか他にどのような助けがあるのかも教えてもらわねばわかりません。そういうものがあるとわかったとしても、何かを推薦してもらわねばどれから始めればいいのかわかりません。
 
 又、生まれたばかりの者がまだ弱い内に食い殺してしまうのがサタンの常とう手段なので、新しい信者を脱落させるための絶え間ない誘惑と攻撃が彼らにむけられます。幼子が無防備であるように新しい信者もサタンの策略に対して無防備ですから、彼らはしばらくは絶え間ない世話を必要とするのです。そしてこのように他の信者から世話を受けることによって築く関係こそが、新しい信者がキリストの身体と絆を結ぶきっかけとなるのです。


 私がこれをお話する理由は、教会が次の大リバイバルに入る前にこのことを改めないと、リバイバルによる実の多くが失われてしまうことになるからなのです。この実とは単にりんごとかオレンジとかではなくて、神ご自身の民であり、 弟子にせよと主が私たちに命じられた人々です。 これが教会と教会のリーダーたちに与えられた基本的な責任です。ヘブル13:17でこう言われています。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」

 私たちが自分に委ねられている人々のために弁明するとは大変重大なことです。もし誰かに自分の子どもたちの世話を頼んで出かけ、帰ってきてみるとキチンと世話をされていなかったことを発見したならば、信頼して任せた人たちに対して私はよい感情は持たないでしょう。

 1970 年代の「ディサイプルシップ 弟子訓練」や「シェパーディング」のムーブメントの中にいた者の多くは、リーダーへの服従やリーダーによるコントロールを強調し過ぎました。その反動として次世代は弟子訓練に対し疑いを持つに至りました。しかしながら、そうだからといって 私たちに与えられている最も基本的な命令であり責任が、教会から取り除かれるままにしておくことはできません。

 真の弟子訓練はリーダーの支配力を増大して人々を縛るものではなく、人々を真理によって自由にし、キリストにあって成熟するのを助け、 私たちの助けを必要としなくなるまでに彼らを成長させることです。真の弟子訓練は、肉の家族よりも強い霊の家族の絆を築きますが、それはコントロールや支配によるものではなく愛と奉仕によるものです。

 「シェパーディング ムーブメント」に関わっていたリーダーの中で非常に間違ってしまった人たちを私は知っています。彼らは人を支配するような人とは思えませんでしたし、真の牧者として弟子作りをするには最もふさわしい人たちのようでした。しかし、そのシステムが何層にもなってくるにしたがい、一番上のレベルで教えられたことが下のレベルに行くにしたがって崩れて行ったのです。
 
 全員が十分の一献金を自分のシェパード(牧者)にしたので、明らかに多くの者はお金のために弟子を作ろうという動機を持ってしまいました。それだけが彼らの動機ではなかったかもしれませんが、それが少しでも混じっていたならば、地獄の大きな門は腐敗への扉を開いたのです。

 キリストにあってはマルチ・レベルの関係は私たちにはありません。聖書に神の孫という言葉はないことに気がつかれましたか。私たちはみんな神の一代目の息子、娘なのです。また、十分の一献金がシェパード(牧者)にいくとは書いてはありません。それは倉に納められて、シェパードや教会の諸々のミニストリー はその中から収入を得るべきなのです。
 私たちは神と人とに兼仕えることはできませんから、何であれ経済的動機でミニストリーをすることは絶対に避けねばな
19 10月

下って行くな、そこに留まれ キャシー•ウオルター 10月19日


下って行くな、そこに留まれ

キャシー•ウオルター


飢饉

私の友人が数週間前にポルトガルから一つのメッセージを送ってくれ、それをきっかけとして主は創世記26章のイサクとその地の飢饉の話を通じて私に語り始められました。

私は皆さんを力づける意味で「下って行かないで、、」と申し上げたいのです。御説明しましょう。イサクは自分の町ではなく他国に住んでいました。彼はカナンに住んでいましたが、そこに飢饉が起こりました。人々は皆カナンから出ていきました。生きるためには食料のあるところに行かねばなりませんから、それを責めるわけにはいきません。

イサクも自分の故郷、メソポタミアに帰りたかったのです。しかし神が彼に「下っていくな。そこに留まれ。」と語られたのです。それは聞く者にフラストレーションを起こさせる言葉でした。それは丁度モーセが目の前に紅海があり、後ろには迫り来るパロとその軍隊がいて、その間に挟まれた時に似ています。神はモーセに「じっとしていなさい。」と言われたのです。えっ、何ですって? 私なら「助かりたいなら逃げろ!」と神が言われると思ったことでしょう。そしてモーセもイスラエルの民にそう叫びたかったに違いないと思うのです。

神はイサクに「下っていくな、そこに留まれ。」と言われたばかりか、「種をまけ。わたしはあなたを祝福するであろう。」と言われたのです。それでイサクはそこに留まりましたが、何も起こらないようでした。飢饉だったのですからどんな実りもあたりには見当たりませんでした。飢饉とは「極度の食料不足」ということです。イサクは自分の目に映るすべてのものよりも主の言葉を信じることを選びとらねばなりませんでした。

何も起こらないように見えました。何の匂いもしませんでした。何の音もしませんでした。飢饉だったのですから、何もなかったのです。しかしイサクは種を蒔き、あたかも畑は麗しく育っているかのように振る舞ったのです。彼に投げかけられた色々な言葉が聞こえるようではありませんか。

「一体何をやってるんだい?」「どうしてここから出て行かないんだ?」「食料をどうにかして得ようとなんでしないんだ?」「どうして自分の国に帰らないのだ? 気でも違ったのか? ここにはおれないぞ。」

でも、イサクは何事もないように平常通り暮らしたのです。どうしてかお分かりになりますか? それは彼が回りの状況から情報を得たのではないからです。彼は究極の情報家である聖霊から情報を得たのです。

あなたはなにか困難な状況の中を通ったことがありますか? 人々から否定的な言葉を投げつけられたことがありますか? もしあなたが盗人や強盗がいる町の近くにいるならば、私は「そこには行かないように」と言うでしょう。

最近私はオーストリアのパースという町の近くにいったのですが、一緒にいた婦人が「この地域は昼間はよい所だけれど、夜は危険だから来ては駄目ですよ。いろんな事件が起こるのよ。」と注意してくれました。それを知らされてあなたはそこに散歩に行きますか? 訪ねていったりしますか? 勿論行きませんね。

でも、時々あなたは古傷を訪ね、自分の古い否定的な感情に相談したり、決して自分のためにならないと知っている考え方と連絡をとったりするのです。あなたがもはや解放されたのなら、あなたの思いの中の昔よく行って親しんだ場所を訪れてはいけません。絶対にあなたの益にはなりません。聖霊という情報家の言う事を聞いてください。

イサクはこの地で栄えました。それはこの土地が飢饉と神の人の両方を一度に受け入れることは出来なかったからです。ですから飢饉は去らねばなりませんでした!イサクはますます栄え、羊の群れや牛の群れを持つようになりました。12節にはイサクは「その年に百倍の収穫を得た」と書かれています。ペリシテ人たちはイサクがあまりにも富んだので立腹し、彼にこの地から出て行くように要求しました。イサクは従いました。彼はゲラルの谷に古い井戸を見つけ、それを再び掘りました。最初の二つはゲラルの羊飼いたちと争わねばなりませんでしたが、三つ目は大丈夫でした。その井戸はレホボテ(争いがない)と呼ばれました。

イサクが去ったあと、ペリシテ人たちは自分たちの祝福の源を失ったことを知り、イサクに戻ってほしいと思いました。28節「私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。」と彼らは言いました。あなたの敵でさえ、神の御手があなたの人生の上に置かれていることがわかるのです。敵があなたを嫌っていたとしても、あなたの持っているものを欲しいと彼らは願うのです。

主の御声があなたの鍵

あなたの鍵となるのは主の御声です。主はいつ移動するべきか、いつ留まるべきかをご存知です。祝福する方に耳を傾けるとき、あなたは祝福されます。自分で見たり聞いたり感じたものによって行動するようにはあなたは召されていません。天の父があなたにするように告げられることをするようにと召されているのです。私たちは状況や事情によってではなく、神の御霊、御声によって導かれるのです。信仰によって私たちは生きるのです。

何年も前のことですが、私たちはフロリダ州のオーランドに住んでいましたが、その町を出るようにとのはっきりした主からの言葉を受け取りました。問題はその天からの御声は次にどこへ行けとは言われなかったことです。でもあなたが耳を傾ければ主ははっきりと指示を与えてくださることをご存知ですか? 私たちは「わかりました。ではこの町を出る事にします。でもいくつかのことを助けてもらわねばなりません。」と主に申し上げたのです。

例えば「どうやって家を売れはいいでしょうか?」ということです。それは厄介なことだったのです。というのは当時その地域は新築の家が余っていて、建築業者達はそれを格安に売り出していたので、私たちの家のようなものは売りにくい状況でした。聖霊が 「パッと明るい色の花を200ドル分買って家の前に植えなさい。’For Sale by Owner’(不動産屋を通さないで持ち主が直接売る)という看板を立てなさい。」と言われました。

数週間後にある男の人から 家を見に来たいという電話がありました。彼らが着たとき奥さんが「この地域で家を探していたんではないんですけど、この辺りを車で走るたびにこの花が目に入ったのよ。」と言うのです。彼らは花に惹かれてこの家に興味を持ちました。この件に関しては他にも沢山超自然的なことが起こりました。今それらをお話はしませんが、大事なことは次のこ
11 10月

幻 (その2) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月11日


幻 (その2)


ジェシカ•ジョーンズ


創世記にはアベルの血が地から叫び、神はそれを聞かれたと書かれています。それは血が声を持っていたことを示しています。血が叫ぶためには声が必要だからです。

神がこの声をどのように聞かれるのかを少し深く調べたいと思います。神は一体何を聞かれるのでしょうか? 箴言15:29に「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」とあります。

しかし詩編66:18には「もし私の心にいだく不義(iniquity)があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。

「不義 iniquity」という言葉は、邪悪、堕落、犯罪、不道徳等を意味する「’avon」という言葉に由来し、その語幹である「’avah」は曲げる、よじる、歪めるという意味を持っています。

もしもあなたが祈るときの動機が不純であり正しくないならば、それは即ち主が真理や正義を曲げ、よじり、歪めることを主に願っているのですから、それが聞き入れられることはありません。私たちの言葉の色彩を変えるのは私たちの心(動機)にある邪悪さです。それが私たちの言葉を汚して白くない(不義、不正、聖くない)ものにしてしまうのです。

詩編145:18「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求めるすべてに主は近くにあられる。」

誠実さと忠実さを持って主のみこころを求め従おうとするすべての者の近く(s空間的にも時間的にも) に主はおられるのです。主のみこころは私たちにとって常に良いものです。主はすべてのものを私たちの益となるように創られました。 私たちが自分や人々のために必ず益となる主のみこころと一致して祈るとき、私たちは花嫁としての自分の役割を果たすことができ、主と共に働いて良いものを造りだすことができます。この場合、 主のみこころと一つになっている故に私たちの祈りは白いのです。

ヨハネ9:31「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」

ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

罪は罪です。私たちすべてが犯してしまうものです。 しかし、もしも私があなたに対して罪を犯したならば、敵に侵略する法的権利を与えないために私はその罪を告白せねばなりません。言い換えれば、もし私があなたに対する罪を告白するならば、もはや敵が私たちの間にくさびを打ち込み私たちの仲を裂き、怒り(それは罪です)を起こさせようと侵入する扉を閉じることができるのです。

罪を告白し悔い改めることは、人と人との間や神との間に一致をもたらします。告白と悔い改めだけが私たちが義とされる唯一の道なのです。この世のすべての祈りや施し、またすべての善行もあなたを義人にすることはできません。私たちに赦し、いやし、義、不朽や不死をもたらすのは、告白と悔い改めだけなのです。

主はまことをもって主を呼び求めるすべての者の声を聞いてくださるのです。それが解放と自由のための鍵です。私たちは真実でなければなりません。真実は告白と悔い改めであり、自分自身と神と人に対して正直であることです。してしまったことが恥なのではなく、それをそのままにしておくことが恥なのです。


父なる神よ、あなたは私たちがあなたの御顔を拝しあなたの声を聞く力を与えてくださいました。イエスはこのようなキングダム•ライフをすべての者に回復するために死んでくださいました。あなたは私たちにそのための機会、力、憐れみ、恵みをくださいました。あなたはすべてのものを創られました。あなたは私たちすべてを御手の中に持っておられ、私たちを愛する故にいつもあなたの目が届くところに私たちをおいておられます。

あなたは私たちの近くにいつもおられます。それは私たちが正しく聖なる者となる方法をやっと学び始めたからです。どうかあなたをいつも私たちの目の近くに置く事を教えてください。おお主よ、私たちは何が必要であるのか、敵の手から完全に自由になるにはどうすればよいのかを教えてください。私を解放してください、主よ。私が知るべきことを教えてください。私が創られた目的であるあなたの花嫁になるために解放を与えてください。イエスの名によって祈ります。アーメン


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04 10月

幻 (その1) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月4日


幻 (その1) 

ジェシカ•ジョーンズ

私の心は今にも破裂しそうにわくわくしていて、どこからお話したらいいのかわからないほどです。今私たちは本当にエクサイティングな時に生かされています。昨年神はすべての事柄をそれが本来あるべき場所に位置され、それによって私たちのこころとまわりの状況を整えられました。今年は主が今までに用意されていたものを実現される時です。 今年は私たちがずっと待っていたもの、ずっと祈っていたものの多くを見る年なのです。

でも私は待ちきれない気持ちです。今すべてが実現するのを見たいのです。待ちくたびれました。でも私にとって「一生の間」と思えることが主にとっては一瞬にすぎないのです。それをどうすれば私は悟ることができるのでしょうか? 私たちは主と同じように考えねばなりません。自分の人生の長さを計りの尺度にするのではなく永遠という時間の尺度で計るのです。そして神が一歩次のステップを踏み出されるためには、何億という人々をキチンと正しく整えねばならないことを思うとき、私は謙虚にされ畏れの念を持つのです。どうしてそのように多くの人々を整える必要があるのでしょうか? 

それは私たちが共同で働いているからです。私たち全員がキリストの花嫁であり、一つにつながれているのです。悲しいことに、ある人たち、いや人類の大部分は、花嫁としての座に着かないのですが、本来私たちはすべてその目的のために創造されたのです。私たちのまわりを見てみれば、神からの約束や相続を奪われて絶望という岩に乗り上げてしまっている破壊された人生を沢山見ることができます。それはサタンが花嫁に対して戦いを挑み、その成果上げてきたことの証拠に他なりません。

黙示録の中で花嫁はただ一つの声を持っています。私たちは今完全に一致して一つの声となるべきなのです。しかしまだ私たちはその一致に至ってはいません。

私たち皆が一致してはいません。クリスチャンはこの世と一致していません。この世の彼らもお互いに一致していません。私はクリスチャンがこの世と一致するべきだと言っているのではありません。しかし、この世もまた花嫁の一部となるようにと創造されているのです。ギャングやホームレス、麻薬を売買したり常用したりしている人たちも花嫁の一部となるようにと創造されたのです。しかし彼らは愚かな花嫁であり、十分な油を用意しなかったか、全く持っていなかったのです。

しかし、どのような考えであったとしても、すべての人は自分のいるべき位置についていなければなりません。私たち一人ひとりは自分が接触を持つ自分の周囲に影響を及ぼすだけではなく、間接的に世界にも影響を与え、また次の世代にも影響を与えます。私たちの世代は自分たちの将来だけではなく世界の将来も決めていくのです。今の世代が将来に影響を与えます。私たちは孤立しているどころか、決して一人で行動しているのではないのです。即ち私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばならないのです。

二人の人が合意するには(たとえうなずくだけであったとしても)、その問題を議論することによって言葉によって合意に達し、合意の条件を明確に宣言したわけです。それは音の力を必要とすることです。そうですね、 話合いをしなくても書かれた文章によって合意することも出来ます。しかし紙に書くとかコンピューターに打ち込むときにも音が出るのであり、やはり音を必要とします。私たちのすることはすべて音を発するのです。

「音の振動」Sound vibrationとは興味深い言葉です。 この言葉を書くや否や私はヴィジョンの中にいる自分を発見しました。それは私たちがみんな音を発するというヴィジョンです。すべてのものが音を出します。合唱をする人もしない人もいると思いますが、私の言う「音」とは私たちが音と普通考えるものとは本当はなんの関係もないものです。 

私は以前、音痴の人の横で歌うのはとても苦手でした。私は「人について歌う」人だったので音痴の人につられてしまうからでした。私は「嫌だなあ」と思いました。神様は彼らの歌をどうして我慢できるのかと思いました。とてもよい声の人もあるし、ひどい人もいます。神はすべてのものをとても美しく造られたのに、どうして音痴な人をそのままにしておかれるのでしょう? 「アメリカン•アイドル」(歌の勝ち抜きコンクール)という番組を見たことがありますか? 非常に下手な人たちの中には、自分はとても上手だと信じている人がいるのです。本当にそう信じているのです!しかし、神にとっては彼らの声は美しいのです。審査員のサイモン(厳しい批評をする人)がするように顔をしかめて「まったく聞くに耐えない!」とは神は言われないのです。違います、主は全く慈しみの笑みを浮かべて「あなたは本当に美しい、あなたの声は素晴らしい!もっと歌ってください。」と言われるのです。主にむかって愛を歌うすべての声を主は実際心から愛し喜ばれるのです。私たちが気にするように人々の歌声が上手か下手かは、主にとっては重要なことではないのです。

どうしてそうなのでしょうか? どうか怒らないでください。それは他のどのような技能・能力、絵を画くことやダンスや何であっても同じなのです。あるものは恐ろしく下手であり、あるものはまあまあであり(平均)、あるものは上手です。全員が上手ということはありませんし、全員が下手ということもありません。それは私たちと全くかかわりがないことであり、なぜならばそれは聖霊が思いのままに賜物をくださるからです。それによってある人が他より優れているとか劣っているとかではありません。ある人が他の人とは異なるということだけです。私の賜物を皆さんと分け合えば皆さんも豊かになります。皆さんの賜物を私に分けてくだされば、お互いがもっと完全になって神からの賜物の全部を楽しむことができます。

神は私たち一人ひとりをすべて同じように愛してくださいます。主の目には私たちはみんな素晴らしいのです。ある人によくない声を与えてその人が歌うのをお聞きになって辟易する、という主ではありません。又、ある人によくない耳を与えてその人がバイオリンを弾くのを聞くのが苦痛だと思われる主でもありません。私たちはそう思いますが、主はそうではありません。

私たちは本当にちっぽけな考え方をします。偏見と裁きの態度です。誰が格好いいか、誰が悪いかを決めます。 歌が巧いのは誰か、 下手なのは誰かを決めます。何がいいか悪いかを決めま
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