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Walk With God Ministries


25 12月

2010年ブレークスルーの鍵 ポール•キース•デイビス 12月25日


2010年ブレークスルーの鍵

ポール•キース•デイビス

今私たちは疑いもなく活発な霊の働きの時、そして敵との対決の時に突入しています。2010年は今までとはかなり違う年になると私たちは信じます。それはレムナントとなる資格のある人達-神の御前にへりくだり、砕かれた魂をもち、神から御言葉をいただいておそれおののく人達-によって大きなブレークスルーが起こると信じているからです。

最近私はニュージーランドの集会を導いていたとき、この真理を更に強く示されました。というのは、著名な癒しの伝道者であるスミス・ウイグルワースの人生上の一つのエピソードを私はその時思い起こしたのです。そのエピソードには彼が神と歩んだ秘訣と彼を通して顕された神の力の秘訣が語られています。

1922年にウィグルワースは一連の癒し集会のためにニュージーランドに出かけました。当時彼はニュージーランドのクリスチャンリーダーたちには知られておりませんでしたが、数人の牧師が集会の成功を確信してウェリングトン公会堂を借りて準備をしました。主は御力をもって彼の集会に臨まれ、多くの人たちが救われ癒されたので、みんな大層喜びました。集会が大成功だったので、予定外の集会も行われ、どの集会も満員となりました。神は最も困難と思われる病気や疾患の多くを癒されたのです。

 すべての集会が終ってから、受け入れ牧師の一人がウィグルワースと海辺を散歩していた時、ウィグルワースに神の力を大きく顕すことができる秘訣は何であるのかと尋ねました。ウィグルワースは、「その質問は出来ればしてほしくなかったのですが、お尋ねですからお答えしましょう。私は心砕かれた者です。私の妻は私にとってすべてだったのですが、11年前に亡くなりました。葬儀がすんで、私は妻の墓に行きそこに横たわりました。そこで死にたかったのです。しかし神が 語られ私に立ち上がって歩きなさいと言われました。私は神が私に2倍の御霊(妻と私の分です)をくださるならば、福音を語りますと申し上げました。神は恵み深く私の願いを聞いてくださったのです。しかし私は大海原を一人で航海しているのです。私は孤独な者です。そして多くの場合、私に出来るのはただ泣きに泣くことだけなのです。」

悔いて砕かれた心こそがウィグルワースが神に用いられた秘密だったのです。それは詩編51:17に書かれています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

ニュージーランドの海辺を散歩しながら、ウィグルワースは自分が神に用いられていることは決して羨むべきことではないことを強調しました。そして彼は終末時代の最後の世代が見るものを羨むと言ったのです。彼は主から3回オープンヴィジョンを見たことを説明してくれました。そのうちの2つは1922年の集会において既に成就していました。しかし3つ目のものは自分が死んでから起こることだと言いました。「ああ、それは本当に驚くべきことです!本当にすごいことです!私は神の秘密を告げることはできませんが、私が言うことをあなたは覚えていることでしょう。私たちが経験した今回のリバイバルは、神がこれからされることに較べれば小さなものなのです。」

彼と会話をしたこの牧師は、ウィグルワースは主の再臨の前の世代に起こる聖霊の大傾注のことをさして言っていることがはっきり理解できたと記録しています。彼は「主がこられて教会を取り去られる直前に前代未聞の聖霊の大傾注が起こるという特別なヴィジョンを、この伝道者が恵みによって与えられたことはまさに明らかである。」と書いています。

より高いレベルに

明らかにウィグルワースは、今の時代に対する神のご計画を垣間見させていただいたのです。また、1936年に彼が南アフリカに居たときウィグルワースは、私たちがカリズマのリニューアルとして 知るところとなった聖霊のムーブメントに関して正確な預言をしています。彼やその他多くの先駆的な霊的チャンピオンたちは、私たちの世代が神から享受できる事柄を預言的に見て予告することを許されたのです。

ウィグルワースが大事な妻ポリーを亡くしたことは非常に悲しいことです。しかしながら、それが 一つの世代を変えるために神が用いられる何かを彼の中に造り出したのです。私たちは彼と全く同じような損失は経験しないかもしれませんが、私たちの究極的なゴールは、現在の自分の状態を知り、神のような性格に全く欠けているという遜りと砕かれた心をもって 神の御前に立つことです。神は決してこのような心を さげすまれず、御霊の顕れの力ある油注ぎを与えてくださるでしょう。

ニュージーランドでの集会のあと、私の人生に重大なチャレンジが与えられたことを深く感じました。そのチャレンジとは、神ご自身が導いて、私たちの聖めと、神への献身をより一層高いレベルに引き上げられようとしておられることでした。それを強く感じたのです。神は今まで私たちが自らを神に捧げてきた度合いよりもっと大きな献身を受け取る価値のある方です。勿論教会には神の御国が顕れるのを見るために多くの犠牲を捧げてきた人が大勢いました。そうではあっても、多くの場合、全体的に見て、私たちはもっと高いレベルの献身を目指さねばならないのです。

真のリーダーシップの必要

今、物事をはっきりとさせ、人々に進むべき方向を示し、神の知恵を与え、信頼に足る預言の声が出現することが必要とされています。神が治める御国が出現することがますます強調されて来ている今、それと同じだけ 終末の時代の世代への神の約束を、聖書的に理解し把握することが要求されています。御国を治める責任をとるべく訓練され整えられた人たちに分与される特別な霊的能力があります。エペソ1:17−19に約束されている知恵と啓示の霊が今ほど必要とされている時代はかつてありませんでした。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目ははっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

バビロンにいたダニエルと三人の仲間たちのように、私たちはあらゆ
18 12月

心に明けの明星が上るとき フランシス・フランジペン 12月18日2009年


心に明けの明星が上るとき

フランシス・フランジペン



国のために戦うことは尊いことであり、悪に立ち向かうことは雄々しいことです。しかし、その戦いの遅々とした成果に絶望しないためには、私たちはもっと大きな視野で物を見る必要があります。すべての者が膝をかがめ、すべての口がイエス・キリストは主であると告白する日が来るのです。愛する皆さん、キリストの再臨の前であっても、父なる神は勝利の教会のために多くの霊的ブレイクスルーを備えていてくださいます。父はご自分の一人子イエスに、キリストのご性格と力を帯びた光り輝く教会を与えられるのです。


明けの明星

他のすべての日がそうであるように、主の日は突然始まるのではありません。5時59分に真っ暗だったのが突然次の瞬間輝く朝になるのではないのです。近づく光の中で 夜空の暗闇が次第に薄れていきます。夜から朝に移り変わる途上で、もう一つの事が起こります。暁の光が差す前に、明けの明星が東の水平線状に輝き始めます。それは来るべき新たな日を告げる忠実な先ぶれです。

この明けの明星というユニークな星は、実は金星という惑星です。朝、東の水平線上に 太陽を「見る」のに丁度よい時間に丁度よい場所に現れ、まだ暗闇にいる者たちにもうすぐ夜が明けることを告げ知らせます。明けの明星はやがて来ようとしている光を指し示す、小さいけれども明るく輝く予告なのです。

明けの明星は、神が終末の真の教会に対して望むことを表す非常に適切な聖書的イメージです。終末に関するペテロの言葉をよく聞いてください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心のなかに上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」第二ペテロ1:19

ペテロの言葉は、終末の出来事の 劇的な場面の一つである神からのヴィジョンに関するものであり、意味深いものです。主が帰ってこられる前に神の民の心の中に「明けの明星」が現れ上るとペテロは言っています。明けの明星の重要性は、まだ夜のうちに先ぶれとして現れることにあることを忘れないでください。昼間は見えません。ここでペテロは、 千年王国という主の「一日」が明ける前に、キリストの再臨を期待する私たちの心の中に明けの明星が上ると言っているのです!

皆さん、この終末の時代に勝利を得る者たちに栄光がもたらされるのです。私が「栄光」と言うのは、私たちの内なるキリストの生ける臨在が、私たちを通してより豊かに顕れ出ることを意味しています。パウロが「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」と言っている通りです。(第二コリント4:11)

私はイエスのいのちそのものが実際に現実的に「私たちの死ぬべき肉体に明らかに顕わされる」と言っているのです。 中には自分自身の人生上の問題で精一杯の者もおります。しかし 私たちは、神が私たちを導き用いたいと望んでおられる神のヴィジョン から決して目を 離してはなりません。曲解されること承知の上で率直に言いますが、終末の時代には神は敢えて神の民を通してご自分を顕そうとしておられるのです。

ですから私たちが明けの明星について話すのは、なにかニューエイジの教義を話しているのではなく、実際に 神の臨在の霊的「ワット数」が増大することを言っているのです。そのような輝きは我々自身からから発せられるものではないことを私たちは知っています。それは私たちが主イエスと一つになることによってのみ発せられます。そしてそれは私たちがキリストの言葉に従いそれと完全に合致するように成長するときに、聖霊によって私たちの中で形成されていくのです。

しかし、ここで気を付けるべきことがあります。何度も何度もイエスは弟子たちに、この世を愛し(飲まれ)てはいけないこと、また、この世での色々な戦いに倦み疲れてはいけないことを警告されました。イエスが「彼に明けの明星を与えよう」と言われたのは、世に打ち勝つ勝利者に対してであることを忘れないようにしましょう。(黙示録2:28)それから主はご自身が「明けの明星」であると言われました。(黙示録22:16)

携挙の前、 イエス・キリストの再臨の前に、キリストに従う者たちが明けの明星のように適切な時に適切な位置に置かれる日が来ます。そして彼らがキリストの再臨の先ぶれとなるのです。彼らはすべての国民、部族、民族、国語のうちから現れて来るにも拘わらず、 一つになる、一つであるのです。それはキリストが彼らに主の栄光の輝きをお与えになるからです。(ヨハネ17:22)

私は我々が罪を犯さなくなると言っているのではありません。誘惑は常にこの世にあるでしょう。しかし、もしキリストに忠実であるならば、もしこの時代の様々な問題や心配事に飲み込まれてしまわないならば、主イエスの臨在が明けの明星のように私たちの上にとどまり、その輝きが人々の目に明らかになる時がやってくるのです。その時に、預言者イザヤの言葉が成就します。イザヤはこう言っています。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」イザヤ60:1−3
(終わり)


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12 12月

誘惑からの脱出の道 ビル・ケラー 2009年12月12日


誘惑からの脱出の道

ビル・ケラー

第一コリント10:1「あなたがたの会った試煉はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試煉に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試煉とともに、脱出の道も備えてくださいます。」


先日私は、人生の中で出会う戦いに勝利するためには、神から戦略を頂く必要があることを話しましたが、今日は私たちが毎日直面する誘惑について話したいと思います。
日々誘惑に負けていると、ついにはその問題の中に私たちは陥り、それと戦わねばならぬ羽目になってしまうのです。ですから、 誘惑が最初に来たとき、どのようにそれに打ち勝つかを把握することが重要な鍵であり、それによって 人生の貴重な時間の多くを自分の問題と戦うために費やしてしまう無駄を回避することができます。もし自分の時間を無駄に使うならば、神が私たちに望んでいる働きをする主のしもべになる道が阻まれます。

このポイントをよく聞いてください。サタンがあなたの魂を奪うことに失敗したとき次に狙うことは、あなたを自分自身の問題との戦いでいつも精一杯にさせておくことです。あなたが個人的な戦いに時間を費やせば費やすほど、神に仕える時間は少なくなります。これこそが誘惑に打ち勝つことがいかに重要であるかの理由なのです。

「邪悪」は私たちの心heartから出てくる事を聖書ははっきり教えています。邪悪さの 進み方は、まず私たちの心から出発し、次に思いmindへと移っていき、そして遂には行動に具現されます。「きよい心を造ること」がどれほど大切かという理由がここにあります。そのためには毎日主と 親密な深い交わりを持つことが大切です。きよい心を造れば、 心から出るものが純粋できよいものとなり、私たちの実際の言動もをそれによって決定されます。誘惑は私たちの心の中にある罪と邪悪さに端を発し、次に私たちの思いに入っていきます。

誘惑を成長させる肥沃な土地は私たちの思いの中にあります。私は「思いを一新する」ことの重要さ、自分の思いの中に毎日何を入れるかがいかに大切であるかを何度もお話ししてきました。誘惑が増大するのは私たちの思いの中であり、それが究極的には実際の行動として現れてくるのです。


今日の聖書箇所は、神からの特別な約束の一つです。神は常に私たちのために脱出の道を備えて下さると言っています。その脱出の道は、誘惑がまだ私たちの思いの中にある時に起こります。それが誘惑に打ち勝つべきタイミングなのです。もしそれが私たちの思いの中に巣食うのを許してしまうならば、その時さいはすでに投げられ、遂には反抗的な行動という結果を生むに至るのです。この記事を読んでおられる方のなかで、自分が誘惑されたとき神が脱出の道を備えて下さらなかったと言える人は一人もいないはずです。

問題は、あなたがそれを無視するところにあります。何度も主は私たちに逃れるチャンスを与えてくださるのですが、私たちは自分の前に置かれたストップサインや赤信号、柵を突きぬけて進んで行き、その結果、どうしてこんなにめちゃくちゃな事態になってしまったのだろうといぶかしく思うのです。誘惑に打ち勝つには、誘惑がまだあなたの思いの中にあるときに神が与えてくださる脱出の道を用いねばならないのです。誘惑から脱出する道を拒絶した途端、あなたが実際に反抗的行動をとってしまうのはもう時間の問題にすぎなくなるのです。


私はあなた方を心から愛しています。多くの人が毎日人生上の戦いを戦っておられることを知っています。大変困難な状況に置かれておられます 。私の目標は、あなた方がそのような困難な状況に打ち勝つのを助けるだけではなく、 これからはそのような状況に陥るのを避けられるようにすることです。
主イエスはあなたを大変愛しておられます。主は人としてこの地を歩まれたので、あなたの弱さを理解してくださり、人生の誘惑をあなたが避けられるように助けると約束してくださいました。日々主と親密な関係を持つことは、あなたを強めます。主への愛と主のために生きたいという願いを強く持つことによって、主が誘惑に打ち勝つために備えてくださる脱出の道をあなたは選び取ってゆくことが出来るのです。

毎日襲ってくる誘惑をあなたが認識し、勝利の生活をするために神が与えてくださっている道具を用いるようにと、私はあなたのために祈ります。絶えず自分の個人的な戦いだけに明け暮れるのではなく、私たちが主のために生き、主に仕えて生きるとき、どんなに素晴らしい平安、喜び、豊かさのあふれる人生になるかを考えてみてください。あなたが今度誘惑に直面するとき、あなたのために備えられた脱出の道を選び取り、キリストがカリバリ山で得た勝利の内に生きることを決意されますようにお祈りいたします。(終わり)


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04 12月

神からの約束は護られ保管されている ダグ・アディソン 12月4日


神からの約束は護られ保管されている

ダグ・アディソン

2009年9月、10月から開始され次の年にずっと引きつがれて行く「 新しいシーズン」が多くの人々にもたらされるという 啓示を、 過去数ヶ月間に私は数多く受け取りました。「今は新しい始まりであり、新しいチャンスの時である。」という神の言葉を何度も繰り返し私は聞いたのです。

子を孕むのに似ている

私たちの人生の中に神が何か新しいことを始められるのは、胎児が生まれるまでに9ヶ月お腹の中にいるのに似ています。神からの新しいものが私たちの人生の中で発達し成長するには時間を要するのです。自分の人生を振り返ってみても、 私の人生に変化がやってくることを神がはっきり語られるのを聞いたことが何度もありますが、その変化が実際に起こるのは、多くの場合およそ9ヶ月後でした。

私はノースキャロライナのモラビアンフォールズに住んでいたのですが、2008年の4月にカリフォルニア州の海岸沿いにあるいくつかの教会を回って話をしていました。その時神が、私の家族はこの地方に移り住むこと、そこで神が始められる新しい働きに参加することを明瞭に私に語られました。自分からは何もしなかったのですが、一連の出来事の結果として私たちは9ヶ月後の2009年1月にカリフォルニアのサンタマリアに引っ越しました。サンタマリアに移ってから特に何も起こらないように見えました。しかし9ヶ月後の9月に、私は天使から2度の訪問を受け 、 それによって私たちが引っ越した理由である神のご計画と次にするべきことをもっと明確に知らされたのでした。9ヶ月の妊娠期間の間、赤ちゃんが隠されているように、 神は往々にしてある一つのシーズンの間、私たちを隠されることがあるのです。

神の新しい動きの前にサタンが来る

多くの人が見落としてしまうのですが、聖書に書かれている原則の一つに神が私たちの人生の中で何か新しいことをされようとする時、サタンがその寸前にやって来て、私たちを落胆させ、神からのブレイクスルーが起こる前にあきらめさせようとするのです。ダビデはイスラエルの王になるようにサムエルによって油注がれましたが、そのあとサウロに追われ殺されそうになりました。イエスは地上でのミニストリーを始めるにあたって聖霊を受けられましたが、その直後荒野に導かれサタンに誘惑されました。サウロ(使徒パウロ)はダマスカス途上で劇的な回心を遂げたあと、命を狙われるまでに迫害されました。このテーマは聖書全体を通してあらわされているのであって、これらはその中のほんの数例にすぎません。

神はしばしば私たちを何か新しい事に召されます。するとたちまち地獄の口が開いたかと思われるほどに、神が語られたこととは逆に見えることが起こり始めます。神があなたに語られたそもそもの理由は、私たちが嵐の中を通り抜けられるように私たちを強め、どのような状況の中にあっても主が共におられることを私たちが知るためなのです。

「今年の9月以降、 多くの人々に過激的に斬新なことが起こる」と神が語られました。私は9月中ずっと神からの素晴らしい啓示と訪れを受けました。ところが10月に入ると、すべてのことが全く逆の様相を呈してきました。私はこのようなパターンをずっと経験してきたので、ひどく驚くことはありませんでした。このような時に 対処する一番よい方法は、神があなたに最後に語られたことに忠実に従って歩み続け、サタンからの妨害には目を留めない事です。

新しい計画、作戦、ミニストリー、賜物、油注ぎ、奇跡、ビジネス、関係等、これらが今あなたに来ようとしています。大切なことは決してあきらめないことです。サタンや暗闇の勢力は、あなたにそれを手に入れてほしくないのです。あなたが求めているものをあなたは受けられるのです。もしあなたが「新しいものをください」と神に願い求め、嵐に耐え抜くならば、それは必ずあなたの人生に起こってきます。もしあなたが疑い始めて、神があなたに約束されたことをあきらめるならば、神が計画された高いレベル(次元)ではことが起こらなかったり、その実現が遅れたりすることになる可能性が高いでしょう。

イエスは私たちへの神の約束を護られる

私は11月17日に一つの夢を見ました。それは、神が私や他の多くの人々にされた約束を盗もうとして敵がやって来るという夢でした。私は海辺にむかって逃げましたが、そこに着いてみると、魚や海藻は生きているのですが水は干上がっていてありませんでした。どうしようと戸惑いながら私がそこに立っていると、紫と紅の衣をまとったイエスが私のほうに歩いて来られました。私は主に敵が神の約束を盗もうとしていることを 話しました。

主は何も言われずに、右手で私の内の深いところからあるものを取り出し、バスケットボールくらいの大きさの古びた丸い鉄の鳥かごのような物の中にそれを入れました。主は籠に鍵を掛け、鍵はご自分が持ち、籠を数メートル先の 砂の上に投げました。 せめてもう少しうまく隠せばいいのに、と私は心の中で思っていました。見ると、そこら中に ボール型の同じような籠が沢山転がっていました。それら一つ一つが人々に与えられている約束であり、主イエスがそれを護るために一番適切な場所に保管されているのだということを私は理解しました。


この夢は神が私たちに約束してくださったものは必ず実現するというコンファメーションです。海が干上がっているように見えたにも拘わらずそこには生命があったという事は、今はまだ来ていないけれど確実に近づいてきている神のムーブメントを象徴しているものであり、生命のない荒野ではなかったのです。

神から私たちに与えられている約束は安全な所に保管されていて、聖霊の次の波が来た時に実現化されるのです。それは丁度チェスのようです。神は次のシーズンへの準備としてご自分の戦術に従って私たちをそれぞれの適所に配置されるのです。

イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(終わり)


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21 11月

何故先祖の罪(を赦す)ための祈りを祈るのか ポール・コックス 11月21日


何故先祖の罪(を赦す、悔い改める)ための祈りを祈るのか

ポール・コックス


私は 度々「先祖の罪を処理するための書いた祈りを祈る(コックス師のミニストリーの一つ)ことがどうしてそんなに重要なのだろうか?」と自分に問うことがあることを告白せねばなりません。つまるところ私たちが主イエス・キリストを全面的に信頼する時点で、私たちは救われるのです。それ以外に何かをすることが必要なのでしょうか。このように問うのは私だけではありません。長年にわたり多くの人が条文化された(書かれた)祈りをする必要はないと言っていますし、それどころかそのような祈りは聖書的ではないと言う人さえあります。 

又、ある人たちは先祖の犯した罪を悔い改めることに関して疑問を投げかけています。多くの人は「すべての業はキリストの十字架において完成されているのだから、他にすべきことは何もない。すべては解決している。私たちに必要なものはすべてある。先祖に関する祈りはもはや必要ではない。」と言うのです。

さて、ここにこの問題の難しさがあります。20年間にわたり、私は多くの人々にミニストリーをしてきました。 先祖のための祈りと文章にした祈りをするように導き、この祈りを通して多くのクリスチャンが主の力で大きく変えられるのを私は見てきました。この変化を通して人々はイエス・キリストとの親密さを増し、更に解放されました。ですから、 十字架において業は完成されたという事実と、 過去20年間の私のミニストリーにおいて見て来た事との間には明らかに矛盾があり、それをどのように一致させればいいのでしょうか。 究極的な権威は私たちの経験にはなく、それは常に聖書にあります。ですから私たちの経験と聖書が一致しないときは、それが何に関することであろうと聖書が勝利するのです。私はそれを信じ実行しています。ですから、聖書が何と言っているのか今見てみましょう。

行ないではなく恵みによって救われる

ここに基本があります。私たちは恵みによって救われるのです。

エペソ2:8—10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

クリスチャン生活の中の行ないが 真の救いを証明する

ヤコブ2:17−20「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。』行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じていて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」

私たちは恵みによって救われ、 救われたことを証明するのが私たちの行ないであることがはっきりしましたが、このプロセスで私たちが果たすべき役割は何なのでしょうか? ある人たちは私たちの役割は何もないと言い張ります。確かに救いはキリストの業によってのみ存在します。私たちが信仰を持つに至ることさえ、聖霊が引き寄せてくださらなければ不可能です。ロ−マ人への手紙は私たちの聖化sanctificationはプロセスである(その工程にある)ことを明らかに示唆しています。それは私たちの内におられるキリストの働きによって達成され、聖霊の力によって私たちは変えられていきます。ですから次の質問を再びする必要があります。「私たちが栄光から栄光へと変えられていくために、私たちが果たすべき役割はあるのか?」と。(第二コリント3:18参照) 

答えは「はい、あります。」であると私は思います。栄光から栄光へと変えられるための責任を私たちは持っているのです。ピリピ2:12—13を見て下さい。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

私たちが考えるべき重要な部分は「自分の救いを達成する」というところです。これはどういう意味なのでしょうか? これは救われるための行ないを意味しているのではないことは確かです。救いは行ないによるのではなく信仰によることは聖書に明らかです。ですから私たちは「自分の救いを達成する」とは何を意味するのかを理解する必要がでてきます。

ピリピ2:12「自分の救いを達成する」とはどういう意味か

この問題は私のミニストリーの基礎となるものであり、祈りに関する本を出版する理由でもあります。もしこのようなミニストリーが聖書に基づかないものならば、それを追い求めることは誤りです。このことを心に留めながら「ベイカー新約聖書注解書」から少し長く引用したいと思います。これは詳細な記述なので読者にかなり集中して読んでいただかねばならないことは承知しております。しかし、 クリスチャンが成熟のために課せられている「自分の救いを達成する」という役割の重要さが明らかにされないならば、この本の意義が全くなくなるのです! そういうわけですので、ピリピ2:12の神学的議論の部分をここに引用いたします。

「しかし、救いの聖書的定義は義認justificationだけに限りません。救われるために、クリスチャン生活の全てが神の購いの業であるのです。ですから、「私たちはすでに救われている」ことは重要な意味を持つことに間違いありませんが(エペソ2:5、8;テトス3:5)、しかし別の意味では、まだ救われていないのです(ローマ5:9—10;1コリント3:15;5:5;2テモテ4:18)。

カルビンは「救いは私たちの召しの全行程であり、神がその完全性perfectionを達成されるために用いられるすべてのことを含み、それは神の選びによって私たちに定められていることである。」と的確に述べています。救いが全うされるためにはそれが私たちの人生のなかで義として表されねばならないので、私たちの行ないは救いの行程の中に入っているのです。私たちはエペソ2章の9 節(行ないではない)と10節(よい行ないをする)が並列されていることを決して忘れてはなりません。ピリピ2章の中で、信者の個人的救いの達成はキリスト教共同体の中の一員としての責任としての形を取ると言っています。即ち他の人のためになることを求める義務です。

この聖書箇所が「救い」の本質を教えていると認める人には、12節を13節によって(あるいは13節を12節によって)意義づけようとする傾向があります。つまり、「神の恵み」を強調することによって「人間の行い」の部分を小さくしてしまう(あるいはその反対)のです。例えば、私たちの意志に反することを神は無理にさせることはないという真理を大変強調し、その結果「神の恵み」というものをほんの些細な霊的助けにしか過ぎないものとしてしまい「神はいつも私たちを助けてくださるのであり、私たち自身が自分のしたいことをしなければならないのだ。」という考えでです。それと反対に、(行いを強調すると)律法主義(だと非難される)恐れが、私たちを多かれ少なかれ聖化sanctificationというものを受動的(消極的に)に理解させてしまい、「私たちの責任は単に神の恵みのうちに安息することであり、神に私たちのうちで働いていただければそれでよいのだ。」と考えます。聖書には、この二つの強調点が並列的に書かれていることから見て、このような結論を出すいかなる試みに対しても大きく反論を叫んでいます。聖書がここで言っていることは、単に人間側と神側の両面があることを強調しているばかりでなく、この一つの箇所で、私たちは両方の要素の重要性が多分もっとも強い聖書的表現で語られていることを見ることができるのです。


まず、パウロの人間的行ないに関する意見を見てください。新約聖書のいくつかの箇所で、救いにおける人間自身の責任がかなり強調されていることはたしかですが(特に2ペテロ1:10「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」)、ピリピ2:12ほどあからさまに言っている箇所はありません。彼がここで「katergazomai」という動詞を選んでいることがまさに注目に値します。クリソストムはこの言葉は「多大な努力をもって、多大な注意をはらって」という意味を持つと説明しています。この動詞自体にそのような意味合いを見つけることはできないのですが、 古代ギリシャの有数な話し手であるクリソストムが、この動詞を「強調されている表現」と受け取っているのを全く無視するべきではないでしょう。従ってバウアー(Bauer)の「到達する、達成する」という訳は、この動詞の意味合いをよく表していると思います。彼はピリピ2:12を「もたらす、生み出す、造り出す」と訳していますがそれは正しいといえます。私たちが聖化されるためには、自分で意識して行動に移らねばならないことをパウロがこの箇所で力説していることは疑う余地がありません。この考えは私たちを立ち止まらせるべきです。私たちの救いは、最初から最後まで神の働きだと私たちは告白するのですが、この箇所では、私たち自身がそれを実行してもたらさねばならないものとして書かれているのです。


聖化のためには全て神のみ業により頼むことをこの箇所ほどはっきり言っているところはありません。まず初めに、すべて神のみ業が発端となって私たちの業(行い)が起こると見ていることです。私たちの業は神の恵みあってこそ可能であるのです。次に、文の構成が非常に強調的であることです。パウロは単に「神が働かれる」といっているのではなく「働いておられるのは神であり、働きはすべて神である」と言っています。
第三に、神の影響力は私たちの業に及ぶだけではなく、私たちの意志にまで及ぶというユニークな言葉が使われています。この考え方は他の箇所でも暗に示されています。(ヨハネ1:13、ローマ9:16)カルビンは次のようにコメントしました。「すべての行動は二つの主な部分で成り立っている。それは意志と実施の力であり、パウロはこの両者を神に帰している。そうであれば私たちが誇るべき何かが残っているでしょうか?」 
第四に、パウロは 私たちが神の絶対的主権により頼んでいることを「主はみこころのままに全てを行われる=’His good pleasure’」という言葉を遣うことによって強調しています。これは「神の恵み」を云い表すための神学的用語であると言えます。

ポイントは、聖化には意識的な努力とそれへの誠実な集中が要求されますが、私たちの行いは、神の恵みを受けとるためという見地から見て、(自分がするという)律法的なスピリットではなく、むしろへりくだりと感謝のスピリットで行われるのであり、そこにはキリストなしでは私たちは何もできない(ヨハネ15:5)、キリストだけが栄光を受ける方であることを認めるのです。

私たちの内に働かれる神のみ業は、私たちが働くことによって止められるのではなく、また私たちの働きも神が働かれるときに止められるのではありません。神の分担と私たちの分担があって両者が協力してよい結果を生み出すというものでもないのです。神も働かれ、私たちも働くのです。しかしその関係は、神が働かれるゆえに私たちは働くのです。私たちが救いを得るために働くのは、神が私たちの内に働いておられる結果です。ここに私たちがすべきすべての業の説明があるばかりではなく、私たちが喜んで働く誘因と動機があります。…私たちが固執して(意欲的に)働き続けば続けるほど、私たちに力と恵みを与えて下さるのは神であることをもっとはっきりと認識するようになるのです。」( Moises Silva, Philippians, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, 2nd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2005).)

これまでの引用をまとめてみましょう。第一に、 救いのために私たちのうちに働いてくださるのはキリストであり、救われたあと私たちを造りかえてくださるのもキリストです。第二に、救いを完成させるためには私たちがするべきことがあります。第三に私たちの役割はあがなわれたキリストの身体なる教会の中の一員としてのものです。


救いのプロセスの聖書的な姿と筋道

ピリピ書で論理的に述べられていることが、ヨシュア記においては物語として描かれています。「イスラエルの地はイスラエルの人々に与えられた」と主ははっきりと言われました。

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがた に与えている。」ヨシュア1:2−3

3節にはこのギフトを受けるための重要な条件が書かれています。彼らにすでに 与えられた土地は彼らによって取得されねばならないのです。ヨシュア1:3に「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」とあります。イスラエルの人々はその地を所有するために果たすべき役割があったのです。彼らは単にヨルダン川を渡り、天幕をはり、主が来られるのを待つだけではありませんでした。彼らは自分たちの所有物を獲得せねばならなかったのです。どのようにしてでしょうか? 彼らは自分たちに課せられた責任を「歩く」必要がありました。「あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与えてある。」と主は言われたのです。

言葉を変えるならば、彼らはその地にあった敵の要塞を攻撃し、それを打ち壊し、その地を勝ち取らねばなりませんでした。これはクリスチャン生活の戦いを表しています。私たちはキリストの血潮により約束の地、即ち神の御国に入りました。「ヨルダン」という言葉は 「裁きをする」という意味があります。ヨルダン川の中を歩いていくとき、裁きは私たちに触れることはありません。主の力によって川がせき止められたからです。私たちは約束の地に入り神の力によって私たちの人生の中にある敵の要塞を打ち壊していきます。神はご自分の役割を果たされ、私たちは私たちの役割を果たします。
私たちの役割とは、霊的な鍛錬をすることであると同時に、自分の意志で出来る限り 古い性質から解放されることであるのです。 ここに先祖代々の罪の赦しのために祈ることが関係してきます。

神はすべての人が解放されるのを望まれる

私自身の経験から言うのですが、祖先の罪からの解放とか文章化した祈りを祈ることを信じない人たちは、どのような理由や証拠を示しても満足しない(聞く耳がない)ことを私は知っています。牧師として 解放のミニストリーを数ヶ月始めた時に、数人の教会の執事が私のところに来て、彼らが心配していることを話してくれました。その話し合いは時として激しいものとなりました! ついに一人の執事が言いました。「じゃ、もしそれが真実ならば、どこにそのミニストリーの実があるのですか?」 私は彼の要求を満たすことにしました。彼に実を見せるために、それまでに先祖代々の罪の赦しの祈りによって非常に助けられ解放された幾人かに、主がどのように彼らの人生に触れてくださったかを証してもらう礼拝を日曜の夜に計画しました。私がこれらの人々に解放のミニストリーをするようになったのは、私が彼らを牧会するようになってから9年ほども経ってからなので、彼らの証言は特に意味深いものでした。彼らがまさに解放のミニストリーによって変えられたことは明らかでした。

礼拝の後、例の執事が私のところに来て「この人たちが何と言おうと私には関係ない、私はこのミニストリーを信じません。」と言いました。次の執事の集りのときも議論は続きました。ついに私はいらいらして言いました。「私が人々を助けるのが嫌だというのなら、あなた方が彼らを助けてください!」それに対する彼らの応答は私を驚かせました。彼らはみんな手を上げて「私たちには出来ません」と言ったのです。ここにこの問題の核心があります。このミニストリーを信じない人たちは、それを信じないだけではなく、苦悩の中で苦しみ続けるクリスチャンを助ける他の解決法や答えを持っていないのです。彼らの応答はその時点までの彼ら自身の経験から出たものであると同時に、 人のために祈ることに関する彼らの聖書的神学的理解から出たものでした。

このような議論は、聖書を知っている人にとっては驚きではないはずです。イエスご自身もいやしや解放のミニストリーに反対する宗教的な人々に遭遇しました。聖書の中でもっとも驚くべき箇所の一つはラザロの復活です。

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:43-53)

驚くべきこととは何でしょうか。イエスが一人の人を死からよみがえらせました。ラザロや彼を愛する人々の喜びを考えてみてください。しかし宗教的な人々はそれを見ようとしませんでした。彼らは自分たちの関心事と信念 だけしか眼中になかったのです。真理が問題ではなかったのです! ラザロをよみがえらせたことに対する彼らの唯一の反応はイエスの死を企むことでした。

私と教会の執事との会合は、最終的に全会衆の会合に行き着きました。議論は果てしなく続きそうでした。ついに私はその教会を去らねばならないと決意しました。会合の直後の会話を思い出すのですが、私は一人の友人にこう言いました。「私はミニストリーでしたいと思ったのはただ人々を助けたいということだけです。そして今やっと人を本当に助けることが出来るようになったのに、執事たちは私にそれをさせてくれません。」私は失意のうちにその教会を去りました。しかし主は私をそのままにはされませんでしたし、解放のミニストリーもそこでおしまいにはされませんでした。主の御心は人々が解放
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