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Walk With God Ministries


28 03月

まず神が愛された故に グラハム・クック 3月28日 



まず神が愛された故に

グラハム・クック 


  神が私たちに求められるものは、すべてまず最初に神が私たちに与えられます。 キリストによって私たちの内にすでに与えられているものでなければ、神は決して私たちに要求されません。私たちの持ついかなる啓示もそもそもは神によって与えられたものです。私たちが神に捧げるワーシップも、神が私たちの内に置かれたものです。神に捧げる私たちの愛はすべて、神がまず私たちを愛してくださった故に存在するのです。私たちが神に捧げる栄光はすべてもともと神から来たものです 。私たちがすることは、神がすでに与えてくださったものをそのまま神にお返しするだけなのです。

このように御霊のうちに生きることは、直感的、直覚的なことです。私たちが神に頼って生きることに喜びを持つようになると、 常に期待し待ち望むという姿勢で生きることができます。クリスチャンは決しておどおどと人生を恐れて生きるようであってはなりません。常にイエスに夢中で魅了されっぱなしの人生を送るべきです。


私は期待感でわくわくしながら人生を過ごしたいのです。 周りで起こっている様々な状況に脅かされることなく、神ご自身と神がなさることにいつも魅了されて生きることを私は今学んでいます。 私は自分の人生の毎日の出来事、問題、課題の中に神を見出したいのです。神は毎日四六時中、何かを計画されておられることを私は知っています。私はそのご計画に参画したいのです。私が毎日置かれている状況の中で、神がご自身(の性格)をもっと私に教え、あらわしてくださることを知りたいのです。私はローマ人への手紙8:28の「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という法則をしっかり信じて実践したいのです。

私たちが幼な子のようなシンプルさで生きるならば、私たちを打ち負かせるものは何もありません。「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とローマ8:37でパウロは言っています。勝利者とは、自分一人が解放されるだけではなく、他の人々をも自分と同じライフスタイルで生きる自由さへと解放することです。

まだクリスチャンになっていない人に「伝道しよう」とすることは、私たちができることの中で最低、最悪のことです。神は私たちに「伝道する」ことを要求されてはおりません。そうではなく、私たちの周りの人たちが、私たちの中にある神のご性質のよさを見て興味をそそられるような生き方をすることこそ、神が望んでおられることだと私は思います。そして人々が神に関して、あるいは私たちを見て感じることについて何か質問された時には、いつでも答える用意が出来ていなければならないと思います。私たちは常に神がしておられることを見張っていて、神のその時のご計画に従って神と共に歩いて行かねばなりません。これこそイエスが神の愛を人々に伝えた時に用いられた方法であり、主はヨハネ5:19で次にように説明されておられます。「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

神がある一人の人をあなたに示されて、その人に何か特別のことをしなさいとか又は言いなさいと告げられるときは、神はすでに私たちがその人に与えようとするものを私たちの心に与えておられるのです。それをその人に伝えることによってその人の心が変えられる、その心と私たちの従順さが神のもとに返されるのです。マタイ10:8でイエスは「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言っておられます。伝道とは、神がある人の人生の中に始めたいと思われるサイクル(コミュニケーション)の一端を担うことです。


  神にすべてを頼り委ねる生き方の喜びとは、どのような状況も私たちの内の神の働きを止めることは出来ないということです。イザヤ54:17に「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」とあります。私たちの内にある神の力は、それだけで何事をも克服することができるのです。 私たちが神の真の偉大さを見るとき、 驚嘆の思いに満たされるとき、 幼な子にようになるとき、私たちは神が見られるように自分自身を見ることが出来るようになります。即ち、 誰も止めることができない(神の)慈愛と善の推進力として自分を見るようになるのです。(終わり)


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23 03月

あなたを熱く追い求める神 ライアン・ワイアット 2010年3月23日






あなたを熱く追い求める神

ライアン・ワイアット




 2010年に入ってから、神が御自分の民に特別な呼びかけをしておられることを私は感じています。「今この時」が恵みのシーズンであることを私は強く確信しています。私たちが生かされている「今」と言う時は、神のご計画の中で教会がそのデスティニーに向かってさらに突き進んで行く シーズンであると私は確信しています。今こそ神が勝利を明らかに顕され、私たちの人生を前進させてくださるシーズンです。

しかし勝利し前進するためには、 条件が一つあることも私は感じています。前のシーズン、そして過去数年間は多くのクリスチャンにとって波乱に満ちた困難な時でしたし、また世の中においてもそうでした。ここではっきり申し上げたいのですが、このような激動や苦難がこれで終わりを告げるとは私は考えていません。実際多くの場面でこの傾向は更に増加すると思います。

それはそうなのですが、 今は神の民が前進する時であることには間違いないのです。今は神の民が、意気消沈、絶望、失望、無関心、自己満足から抜け出し立ち上がる時です。今は神の民が 新たな希望、新たな期待、新たな大胆さと勇気をもって勝利のうちに立ち上がる時なのです。今こそ神の民が敵に奪われてしまっていたものを取り返す時です。再び信じる時です!

向きを変え道をそれて火に入れ

今年勝利をもって立ち上がるためには一つの条件があります。神は「向きを変え道をそれて火の中に入れ」と言われています。私はテネシー州のノックスビルでハビテイションという教会を導いています。2010年の初めから、教会の人々の間に大いなる心の高まりがあり、 神の臨在とブレークスルーの感覚が一週一週どんどんと強くなっていくのを実際に感じてきました。これはノックスビルだけに起こっていることではありません。カンサス・シティーのIHOP(国際祈りの家)やノースカロライナ州シャーロットのモーニングスター・ミニストリー、その他世界中の多くの場所で神の霊の覚醒、鼓舞、奮起、傾注が起こっていることをすでに多くの方はご存知でしょう。何かが起こっているのです!

そしてこのところ神は、出エジプト記3:1−5にあるモーセの話から私に語られています。



モーセがいつも通りに仕事をしていたとき、何かを感じ何かを見たのです。彼は燃えているのに燃え尽きない柴を見ました。モーセが「なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」と言った事実に神は私のために光を当ててくださいました。 聖書ではその次に「主は彼が道を横切って(道をそれてー新共同訳)見にくるのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」と書かれています。神はモーセに召命を与えたいと思われました。しかし聖書によると、 モーセが燃えている柴の方に道をそれて行こうと決心したのを見るまでは、主はモーセに語りかけられませんでした。

今、リバイバルの音が霊の中に響いています! 今、覚醒の音が霊に中に響いているのです! この招きを感じている人、この高まりを感じている人、そしてこのシーズンに「道をそれる」意志のある人を神は探し求めておられるのだと私は信じます。神は何をしておられるのでしょうか? 主は私たちが向きを変え道をそれて主の炎の中に入るようにと私たちを招いておられるのです。

非常に多くのクリスチャンがこれまでのシーズンでは幻滅を感じたり失望したりしてきました。非常に多くのクリスチャンが冷たくなり希望を失いました。非常に多くのクリスチャンがヴィジョンを失い、無気力で自己満足に陥っていました。神は私たちが今までの決まりきった日常から向きを変えるようにと招いておられるのです。日常の生活という道からそれるようにと招いておられるのです。今まで私たちを阻んできたものから離れるようにと招いておられるのです。向きを変えて主の炎の中へと入るようにと招いておられるのです!


あなたが今のシーズンで向きを変え始めると、神はあなたの心を暖め溶かしてくださいます。あなたが向きを変え始めると、神はあなたの渇いた土の心に浸透し、あなたを目覚めさせて新しい情熱を与え、 主を炎のように熱く求めるようにしてくださいます!これはあなたが自分で自分を奮い立たせるということではありません。今シーズン主があなたに求めておられることは、ただ向きを変えて主の臨在の炎の中で時を過ごすということだけです。神の炎がことをなしてくださいます。神の火のような臨在があなたの心に広がり、あなたを呼び覚まし生き返らせてくださるのです。

神はあなたを熱く求めておられる

今神が私に強く示してくださっているもう一つの箇所は、ルカ24:13−34です。二人の弟子がエマオへの道を歩いていたときに復活されたイエスが彼らの横に来られました。弟子たちは復活された主が誰なのかわかりませんでしたが、一緒に歩くうちに自分たちの心が内に燃やされ始めたのを感じました。夕暮れになり町に近づいたとき、聖書にはイエスがそのまま 先に行かれる御様子だったと書かれています。二人の弟子は強く願って 主が「向きを変え道をそれ」その夜一緒に泊まられるように頼みました。彼らの強い願いの故に、イエスは彼らの家に入られ、食卓につきパンを裂かれました。その時、弟子たちの目が開かれ、この方が復活の栄光の姿のイエスであることがわかりました。


これを書いている今でさえ、私は神の臨在が私を覆うのを強く感じています。 御自分の民に「今あなたが進んでいる道をそれ、そしてよく見なさい。」と強く招いておられる神の御心を私は感じるのです。あなたがひどく渇いていたとしても 、自分が餓え渇いていることを認めて神の臨在を求めるという決意をするならば、あなたの心は再び生き生きと潤い始めるでしょう。すべての失望を捨て去ることを選びとってください 。すべての落胆を捨て去ることを選びとってください。もう一度信じることを選びとってください。もう一度希望を持つことを選びとってください。神の慈愛と火のような臨在があなたを再び目覚めさすことを期待することを選びとってください。


神はもっと多くのことを語っておられますが、今日は次の言葉をもって終わりにしたいと思います。あなたが神を求めるよりももっと神はあなたに飢え渇き情熱をもってあなたを求めておられます。神はあなたを熱く追い求めておられるのです!あなたが主の臨在の炎で燃え上がることを主は望んでおられ ます。最近あなたを阻んでいたすべてのものから完全に自由になることを神は望んでおられます。今日自分を神とアラインさせることを選びとってください。今日「向きを変えて」神の臨在の炎の中に入ることを選びとり、今シーズンのための新たな希望、新たな勇気、新たなヴィジョン、新たなエネルギー、新たな油注ぎを受け取ってください!(終わり)

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16 03月

時に備える リック・ジョイナー 2010年3月16日


時に備える

リック・ジョイナー 


私たちのミニストリーにおける肩書きは、自分のミニストリーを理解してもらうのに確かに役立つときがあります。しかし最近では霊的肩書きの濫用や不適切な使用が霊的価値をひどくひき下げてしまう結果となっています。ミニストリーをしている人々のうちには、自分は使徒であるとか、ビショップ、又は 預言者であるという人たちが大勢いるのです。そういう人に あまりにも頻繁に会うので、「私は牧師です」とシンプルに言う人に会うと、その謙虚さの故にだけでも その人に尊敬と信頼の念を抱くのです。

しかしながら今私たちはそれらのミニストリーが教会に回復されてきている時代に生きているのであり、そのことを期待しないというのでは主のご計画を見失うことになってしまいます。私たちはそれらの人々を認め受け入れることをしていかねばなりません。私たちが預言者を預言者だとして受け入れるならば、私たちも預言者の受ける報酬を受けるのです。しかし預言者をただ教師として受け入れるならば、私たちは教えだけしか受けとることができません。 これはすべてのミニストリーにおいて同じことが言えます。もし使徒を教師としてだけ受け入れるならば、私たちはその人から教えだけしか受け取れません。しかしながら、もし 教師を使徒として受け入れてしまうならば、私たちは恐らく 間違った悪いリーダーシップを受けることに なってしまうでしょう。ですから、ミニストリーの責任者には「自分たちの中で働く者をよく知る」責任があるのです。

パウロは自分が使徒であることを声を大にして弁明しました。確かにミニストリーの肩書きはそれを使うべき時や必要性がある時もありますが、パウロの弁明は自分のためではなく人々のためのものでした。彼の弁明は自分を売り込もうとか大言壮語するというのではなく、 パウロの子供たちを教える父親としての心から出たものでした。それは恵みと威厳、崇高な知恵に満ちていました。そしてそれらの徳は王なるイエスに遣わされた真のメッセンジャーとしての品質保証であることを私たちは知ることになりました。

それと同じように、主からの啓示や夢、ヴィジョンにはそのような恵みと威厳が備わっています。今の時代、主は 命令されるのではなく 招かれることによって 私たちを導かれています。主はご自分が願われることを実行する権威をもっておられますが、黙示録3:20にあるように、主はご自分の教会の外に立って戸を叩かれ、それを聞いて戸を開く者があるかどうかを待っておられるのです。その理由は、今は主と共に共同相続人となる者たちを主が探しておられる時だからです。共同相続人とはただ強制されて従う者ではなく、真理を愛するが故に主に従う者たちです。ですから、私たちがある真実な預言的啓示を受けたとしても、 それを直ぐに行動に移さねばならないというプレッシャーを決して感じるべきではなく、むしろそれは主からの招き(召し)であると感じるべきです。何かに対する警告を主から受け直ぐに行動を起こさねばならない時もありますが、それも必ず主の恵みと威厳も伴ってくるはずです。それはヤコブ書3章にあるように、プレッシャーとしてではなく私たちがそれに応答することを招いているものなのです。

何かを急いでするようにとせき立てられているように感じるとき、それは主からのものではなく、その時私が取ってしまう行動は大抵大きな間違いとなるということを私は学びました。主は始めから結末を見ておられるので、私たちにあわてて何かせよとせき立てる必要を感じられることは決してないのです。聖書には「主を待ち望め、忍耐せよ」という勧めは沢山ありますが、あわてて何かをせよと言っている箇所は一つも知りません。私は多くの経験をし、多くの間違いをしてきたので、本当に主が語られ導かれるときはどのようにであるかという事を学ぶことができました。


  さて、真のミニストリーには 重要な必須条件が一つありますが、これは私たちがミニストリーのやり方として普通考えているものとはかなり異なると思います。それは、聖霊は「助け手 The Helper」であり「実行者 The Doer」ではないということです。「私たちのミニストリー には自分たちが混じってはいない、すべて主です」と人々が言うとすれば、それが 真のミニストリーであるならば、彼らは誤解しているのです。そのミニストリーの人たちが「混じっている」ことは悪いことではないばかりか、必要なことです。 主がすべてのミニストリーに私たちを全く混じ入れさせないで100%主がなさると思われたのであるならば、主はこの世を去りはしなかったでしょうし、誰にも何もさせなかったでしょう。

ルカ10章において主は弟子たちを二人ずつ遣わし、福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出させました。弟子たちは非常に素晴らしい成果をあげたので、彼らが戻ってきたとき主は 「わたしはサタンがいなづまのように天から落ちるのを見た」と言われました。しかし弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと頼んだのは次の11章になってからの事でした。彼らはこれらすべての業が出来たにも拘わらず、まだ祈り方さえ知らなかったのです。

主が弟子を信頼しものすごい権威をお与えになったとき、彼らが 完全ではなく成熟もしていなかったことは明白です。しかし、彼らに癒された人や解放された人、 御国が来るという福音を聞いた人たちの中にそのことで不平を言った者はなかったと思います。イエスが十字架に架かられる直前でさえ、 誰が一番偉いかと言う事で弟子たちは言い争っていたのです。そして その数週間後には教会が形成され始めるという最も大切な時代のリーダーに彼らがなろうとしていたのです。それから何年も経ってからさえ、弟子のうちにはまだ大きな失敗を犯している者もいました。 ペテロはアンテオケにおいて一番若い使徒から「彼に非難すべきことがあったので」と叱責されねばなりませんでした。

ミニストリーやリーダーリーダーシップに対して(それがいかに成熟しているものであっても)完全を求めるのは愚かなことです。私たちは「土の器」に希望をおくのではなく、器の中にある「宝—聖霊」にこそ希望をおくべきなのです。もし私たちが正しく聖霊を信頼するならば、 人々に頼りすぎたり失望させられたりはしないでしょう。ミニストリーやリーダーたちが真に主のしもべであるならば、 自分が信頼されることを求めないで、人々が主にこそ信頼することを望むでしょう。 イエス御自身が崩れることのない土台なのです。も
06 03月

あなた自身の脂肪を燃やせ!チャック・ピアス 2010年3月6日


あなた自身の脂肪を燃やせ!

チャック・ピアス 



私たちは新しい 栄光 の 領域 へと入ろうとしています。今は非常に重要な時であり、主は 私たちが「主の栄光を見るように」と 召しておられます。 私たちは今 、新しいシーズンのために 新しい 自分のアイデンティティーを築き上げつつあるのです。私たちは栄光を着るのです。そのためには新しい預言を求め、それを実行するに必要なより高レベルの供給が与えられることを主に願ってください。富と栄光は切り離せません。この一週間、主は私たちが前進するために助けとなるいくつかのパターンを私に示してくださいました。私たちは現在自分が立っている場所をしっかり把握 し、それより更に進んで行かねばなりません。


先週の集会で主は次のように語られました。「あなたは今までいた所よりも更に進んでいきます。一つのシーズンにおいてあなたは火を持っていましたが、今はそれを越えて、あなた自身が次のシーズンの火となるのです。あなたは弓を引いて、今までに行った場所を越えた所に矢を放ちます。あなたは浅瀬や渦を巻いているところを渡りながら水の中に入っていくでしょう。あなたは水嵩が増してもひるまず、どんどん進んでいくのです!」

私には見えます。あなたはまるで吹雪の中で道を失い、どうにかしてそこから抜け出したいと懸命になっている人のようです。もうすぐ深い森から出られそうなのですが 、あなたは疲れ果てて横になって眠ってしまいたいと感じています。私は主が言われるのが聞こえます。「あなたの中に火がやってきて、今のシーズンにあなたを眠らせようとしているものを溶かし去るでしょう。あなたは『魂の活力』を失いました。しかし、わたしはあなたの魂を再び燃え上がらせさせます。なぜならばあなたの中には 今のシーズンに燃える熱い火というアイデンティティーがあるからです。その炎の門を通って、あなたは加速の勢いがつくのです。その勢いの瞬間を掴みさえすれば、あなたが今までずっと待ち望んできた事を実現に持って行く ことができるでしょう。あなたは過去に『その事が私から逃げて行く』と言いました。しかし、 わたしが 今 あなたの魂に火をつけて爆発させ 、そこで眠ってしまっていた起こされるべきわたしの栄光を呼び覚ます瞬間を捕らえなさい。

「あなたの魂は渇ききり叫び求めていました。しかし今日あなたの魂の中に勢いよく水が流れる音が起こり、それがあなたの魂を癒すだけではなく、目が見えるようにします。あなたは自分の魂の奥底を見ることができ、それによって自分のアイデンティティーがはっきりあらわされるでしょう。わたしの御座から川が流れ出て あなたの魂に流れ込むのを止めないようにしなさい。そうすればあなたの魂は前進していくための新しいエネルギーを受けて、わたしの中で生き生きと生き返るでしょう。あなたの魂は今こそ見えるようになるのです!  あなたの奥深くにある願いを映し出す自分のアイデンティティーを今まであなたは見た事がありませんでした。しかしわたしは川を流してあなたが今まで見たことのないものが映し出されるようにします。」


「地上にいるわたしの民のアイデンティティーは今変わりつつあり、彼らが未来へと渡って行くときには異なるアイデンティティーを持つようになるでしょう。わたしを映し出さない(わたしのものでない)ものは取り除きなさい。過去においてあなたがわたしの言葉を消化するのを妨害するいろいろな言葉が発せられてきました。それらの言葉によってあなたは恐れを抱き、わたしがあなたに進んで行けといった場所に進むことができませんでした。しかし、妨害の言葉は今やあなたの中の川と火によって押し出されていくので、あなたは大胆さをもって「今のシーズン、私はこのような者だ」ということが出来るようになります。


かつて燃えていた(生け贄を焼く)火が再び燃え始めたので、わたしが求めている生け贄の香りがわたしの民から立ち上っています 。あなたは過去に燃える香りは嗅いだことがありますが、火を見たことはありませんでした。燃える匂いを嗅いでじっと見ていなさい。わたしが火の上に息を吹きかけているから、今火が燃え上がろうとしているからです。あなたには燃えた匂いがついているが、今や あなた自身の中に火があかあかと燃え上がるでしょう。わたしの民の中に新しい火が起こされねばならないのです。わたしにその火の門を開けてくださいと願いなさい。そして今まで数ヶ月間あなたを清めるために燃えてきた匂いが今新しく燃え上がる火となるようにとわたしに願いなさい。

脂肪が火の中に入れられようとしています!  今まであなたは肉の力で自分の体重を減らそうとしてきました。あなたは重さをなくそうとしてきましたーそれは身体のことだけではなく霊的な重さもですー 今、その脂肪が火の中に入っていきます。天の火の門が 開かれ、今脂肪が火の中に入っていきます!あなたは川に向かって 川を越えるべく進んで行き、今までのシーズンにあなたがいた水嵩を越えて 更なる深みへと進んでいきます。

集会にいたレアン・スクイヤが次にように言いました。「脂肪に関する一つのことは、すべての毒素がそこに貯まることです。神がすべての脂肪を火に投げ込みなさいと言われたのはすばらしいことです。私はパウロが蛇に咬まれたときそれを火の中に振り落としたことも思いました。主は言っておられます。『今までのシーズンであなたに貯まってしまった脂肪 の中には様々なものがあり、あなたはそれをわたしに捧げなければならないとわたしは言います。なぜならば、その中には蛇(複数)がいるからです。わたしがそれをわたしの祭壇の上のわたしの火によって焼き尽くせるように、それを振り落とすことをわたしはあなたに願っています。』」

「わたしに生け贄を持ってきなさい。そして今まであなたがいた所を越えて前進しなさい。あなた自身を生け贄としてわたしに持ってきなさい。あなた自身を生け贄として捧げる時、今まであなたを抑えていたもの(あなたの中でもやもやしていたもの)があなたから出て行き、あなたに解放がやってくるでしょう。わたしがあなたに立ってほしいとずっと願ってきた場所に自分がしっかり立っているのをあなたは発見するでしょう。解放の業が今や始まったのです。洪水の門、解放の火の門、が今開かれ、解放がわたしの民の間に起こっているのです。彼らはわたしに新しい方法で生け贄を捧げています。わたしがあなたの中に火を付ける瞬間をじっと見守りなさい!」(おわり)


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26 02月

「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ ウエイド・テイラー 2月26日


「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ

ウエイド・テイラー

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。—キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:12、14

私の聖書学校の先生(ウオルター・ビュートラー)は、しばしば「不満足な満足」ということを話されました。彼は主から受けたすべてのことを感謝し満足していました。しかしそれと同時にもっともっと得られるものが沢山あることを知っていたので不満足だったのです。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:10

「良い行ない good works」とは、主がご自分の目的を果たすために私たちの人生の途上に置かれる物事や状況です。まず私たちが調えられる準備期間の間は、私たちの内側でそれがなされますが、次の段階では私たちを通して他の人々の益となるように行われます。「私たちが良い行ないに歩むように that we should walk in them」という部分の「should 歩むように」とは条件であり、 神が 召されている主の目的に沿う道を選択することに関しては私たちにも責任が掛かっているということです。正しい選択は普通、一番選びやすいものとか便宜がよいというものではありません。ですから私たちが正しい道を選びとることはこの上もなく重要なのです。

私への神の御心

聖書学校を卒業したとき、 次に何をすべきかを知るために私は主を熱心に求めました。それにも拘わらず、 一見主からの指示は与えられていないように思えました。一つの聖書学校が新たに始まることを私は知っていました。その学校の目標の一つは学生たちをイタリヤ語でミニストリーが出来るようにするというものでした。私はイタリヤ人ではないので関係がないと思いましたし、イタリヤ人へのミニストリーに召されているとも感じませんでした。

ですから、私がこの学校に対して感じた「惹き付けられる感覚」を 横に押しやって、私はフィラデルフィアの北の中心部にあるセントン通りに教会を始めようとしました。1959年7月4日に私は60マイルの距離をフィラデルフィアに向けて出発しました。一つの商店を教会のために借りて、自分が住むところも探そうと思っていました。南に向かって運転していると、自分は間違った方向に向かっているという思いがどんどん強くなってきました。

私は車を止め、この思いについて主に尋ねました。すると主は、私が新しい聖書学校に行くべきことを示してくださったのです。私は車をUターンして、反対方向に走りはじめました。私は卒業後にするべきことに関して随分と祈りました。しかし主は私が主に仕えるために実際に行動を起こすまでは何も答えずに待っておられました。そして 行動を起こしたときに私がおるべき場所に関して語ってくださったのです。

聖書学校に着いてゲストルームに落ち着くと、直ぐに私は静かに祈れる場所を探しました。そして、私はここには来たくなかったこと、しかし主からの最上のものを受けたいことを主に再び申し上げました。それに応答して主ははっきりと私の霊の奥深くに語ってくださいました。「わたしはあなたがフィラデルフィアに行くことも許します。そしてそこであなたにミニストリーを与え祝福もします。しかし、ここがわたしがあなたに居てほしい場所です。そして今のわたしのあなたへの御旨はここなのです。」

翌日、私は学生として受け入れられ入学しました。数ヶ月が過ぎたころ、私が祈っていると、突然私は天で神の御前に立っている自分を見出しました。神が私の直ぐ前の御座に座っておられることがわかりましたが、輝く栄光で目がくらみ神を見ることはできませんでした。言葉では表すことのできない聖さを感じました。

御座の前に立っていると、左の方から波のような強烈な栄光の流れが鮮明な色をして私の方にむかって流れてきて私の霊の深みに入っていきました。あたかも長い貨物列車が私の内に入ってきて沢山の荷を一台一台私の霊に中におろして行ったようでした。一つ一つ次々とそれらが私の中に入る度に、私はこの学校が建っている場所でミニストリーを立て上げるのだということがはっきりとわかってきました。私の身体のすべての細胞が感光する声帯になったようで、 主が御心のまま臨在し事をなすことができる「特別に聖別された場所」を望んでおられることを私は悟ったのでした。
私が天からもとの祈っていた場所に戻ったとき、天で経験した顕在の栄光で 非常に深く触れられていたので、以前通りの日常生活に携わりその中で機能することにとても困難を感じました。「普通」にもどったのはそれから2週間も経ってからでした。

「今の御言葉」を「聞く耳」を持つ

私が召されたこの「ミニストリー」は、主が私に送られる人々を調えることであることが次第にわかってきました。 彼らが主の御声を認識し、それに応答し、それを尊び、主の顕在の臨在に敏感になるように調えることです。これは即ち、終末の主の目的のために調えられて聖別される人々をさしています。

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」黙示録19:7

この聖書学校はイタリヤ・アッセンブリー・オブ・ゴッドだったのですが、設立されて3年目に閉校となりました。その後6年間空屋となっていましたが、不思議な方法でそれが私に寄贈されたのでした。その待っている期間に、私が終末の「バプテスマのヨハネ」として用いられるために調えられていることを主は悟らせてくださいました。後に主はこれを聖書の中で最大のアイロニーを示す御言葉を通し確認させてくださいました。

「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」ルカ3:2

「アンナスとカヤパ」とは確立された宗教組織のリーダーと機能を表していますが、主はそれを回避(バイパス)されたのです。「荒野」とは、孤立した不毛の環境であり、主はヨハネをミニストリーの重要な時に調えるために荒野を用いられたのです。

宗教組織は十分に確立され機能していました。しかし主はその時宗教組織の中には主の「今のための」御言葉を与えることができる「聞く耳」を持ったものを見出すことができなかったのです。主は聖職者ではないものを選ばれ、 訓練のために彼を「荒野の 体験」へと導かれたのです。

今日もなお、キリストのからだの中には主に己のすべてを捧げて、主からの新しい御言葉を受け取るために選ばれている人たちがいるのです。これは私たちが終末のバプテスマのヨハネとなる備えをするためには、絶対に「今の御言葉」を主から 受け取る必要があるということであり、それによって来るべき終末の時代に主の顕在の臨在の証人となれるのです。ですから、 このような証し (まず自分の内に、そして私たちを通して外にむかって)を完全に示すために、私たちは正しい選択をしなければならないのです。

当時の宗教的組織は(主はそれをバイパスされましたが)かつては神の栄光を経験し、主から直接啓示を受けました。しかし主が 彼らに今現在望んでおられることを理解するに当たっては、過去の経験だけに頼って理解しようとするようになってしまいました。過去において主が彼らの中で働かれたという事実は、彼らを現在の必要のために 調えるには十分ではなかったのです。彼らはもうすぐに来ようとしておられる「神の小羊」に関する「今の御言葉」を聞くことが出来なかったのです。

今の時には、間もなく現れる「ユダ族の獅子」のために 特別な召命を受けた者たちがいます。ですから、たとえ過去に多くの啓示を受け取っていたとしても、 「今主を求めるもの」が私たち一人ひとりの中に存在しなければなりません。昨日の啓示は今日の問題とプレッシャーに対応するために私たちを調えるには十分ではないのです。

真の聖霊のぶどう酒

私が聖書学校の学生だったとき(1956−1959)、主の偉大な訪れがあり、それは2週間続きました。私たちは毎日早朝から夜遅くまでチャペルに集っていました。初めのうち強烈な悔い改めと清めが起こり、その後で主の「顕在の栄光」が私たちの上に注がれました。それと共に「新しいぶどう酒の泉」が発見されました。そこから飲むものは誰でも聖霊に激しく満たされ大胆で力強くなりました。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」エペソ5:18

「多く飲んで酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。」の意味は、聖霊による崇高な霊的力の分与にとって代わる、偽りの代用品のことを言っています。この代用品(ぶどう酒)は、サタンによって用いられ、数えきれないほどの人生や家族が破壊されてきました。ぶどう酒を飲むことによって「益」と見えるものは、実はすべて欺きであり結果としてひどい代価を払わせるものとなるのです。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:18−19

これは聖霊の真のぶどう酒が持つ変革の成果です。それは私たちの能力以上の霊的大胆さと自由さへと私たちを解き放ち、神に栄光を帰し、私たちが大きな自由さと力をもって働くことが出来るようにするのです。

しかしその時の経験がいかにすごかったとしても、私たちは「過去の主の訪れ、ヴィジテイションの泉から飲む」ことにすがり続けてはいけないのです。私たちは新鮮で新しい超自然の領域に入るために、今主を求め始めることが緊急に必要とされています。初めて主と出会った場所を振り返っていてはいけないのです。又、「新たなもの」が自分の人生やミニストリーにどのように、いつ、どこで導入されるのかを、私たちが主に向かって要求するのでもありません。(私は車の向きを変えて、自分が受けた召しには適合していないと思える場所に向かいました。)

私たちは「不満足な満足」を持たねばなりません。即ち、自分が現在持っているものに対して感謝をすると同時に、「もっと更に」と主に積極的に求めるのです。コインには両面があります。コインの裏と表は違っていますが、その両方で完全な一つとなります。私たちの過去の経験と現在の経験を一つにして、自分が進んでいく未来への道を作らねばなりません。

ヨハネの証しは彼が「荒野で叫ぶ者の声」であるというものでした。彼は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)と叫び 、その時の緊急を要する必要をはっきりと認識したのでした。私の召命とミニストリー はヨハネが彼の時代に語ったように、今私たちが生かされている困難な時代に、主の目的のために今の「声」を語ることができる人を調えることなのです。

そしてそれは1959年7月4日に私がフィラデルフィアに向かっていた車を止め、主からの「今の言葉」に応答して反対方向に向きを変えたことによって生まれたのでした。振り返って見て、私はその時正しい選択をしたことを本当にうれしく思います。

1959年のその日から多くの年月が経ちました。それは栄光に満ちた年月であり、霊的分与を授けた年月、多くの人々が変革された年月でもありました。また間違いを犯してしまったこともありましたが、私はそれを悔い改め主から赦しを受けました。今現在、私はワシントンDCに住んでいて、主から「今の言葉」を受け取っています。そして召命の次のレベルの働きへと移行するために、私は再び「向きを変える」かもしれません。私のミニストリーは主が意図された目的と成就にむかって今進もうとしています。

皆さんも重要な決断をするときに、過去の霊的経験や現在の状況にだけ目を奪われるのではなく 正しい道を選び取られるようにとお祈りいたします。
(終わり)


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