Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
14 06月
主の言葉を聞くことの飢饉
ボブ・ジョーンズ 2010年6月14日
「見よ。その日が来る。—神である主の御告げ。—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出させない。」アモス8:11−12
これは預言者アモスの言葉ですが、現在のアメリカの教会に直接当てはめることができるものです。教会は神に対して不従順を続けてきた結果として、知覚麻痺、無感覚の霊に支配されているのです。
この地の飢饉とは、御言葉を聞くことを妨げている霊がキリストのからだなる教会を毛布のように覆ってしまっていることです。 今の世はめまぐるしいスピードで動いていて、御言葉を聞くための手段も数多く提供されています。 テレビ、書籍、CD、DVDなどです。ですから御言葉の不足が問題なのではなく、御言葉をどのように聞くかということに問題があるのです。それは、御言葉があたかも聞こえない耳にむかって発せられているようで、 その結果、「語られる御言葉であるイエス」を人々が理解することに混乱を招いているようです。丁度エデンの園で蛇が 神の語られた御言葉をねじ曲げてエバに告げたようなものです。
「こう書いている通りです。『神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。』」ローマ11:8
メキシコ湾のオイルの流出は、この国がこれから迎えようとしている問題のほんの始まりにすぎません。アメリカのただ一つの希望(確信のある期待)は、現在の霊的麻痺あるいは無感覚状態から目を覚まして神に叫び求めることです。教会が膝まずいて祈り神に憐れみを乞い求める時、神は正しい者の祈りを聞いて地を(そして海も)癒してくださいます。
この国の救いは神をおいて他にはありません。私たちはメキシコ湾のオイルのパイプを塞いでくださいと神に叫び求めねばなりません。塞ぐことが出来るのは神お一人だからです!そして神は教会が叫び求めた時にその事をしてくださるのです。
神の民への約束
「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。(共同訳)」第二歴代誌7:14
これは 教会にとって(ノン・クリスチャンにとってではありません)力強い御言葉です。これは、「わたしの名をもって呼ばれているもの」、即ち神の民への約束なのです。クリスチャンはキリストの権威と力の中に歩む者です。私たちが叫び求めるとき神はそれを聞き、応答してくださるのです。
アメリカの教会が目を覚まして神に叫ぶならば、神が私たちに大きな裁きを与えないですむような選択を、私たちが神に与えることになるのです。私たちに今残されている唯一の解決方法は、神がご自分の民の祈りに答えて下さることだけです。人々が無感覚から目を覚まして、天からの声を聞き始めるように、どうか神に叫び求めてください。
この国を覆う無感覚、無関心、麻痺の霊が打ち破られるように祈ってください。御言葉が不足しているのではありません。人々が本当に霊で聞いていないのです。そして御言葉を聞いたならば、従ってください! 天は第二歴代誌7:14にある通りの応答をしようとして聖徒たちの祈りを待っているのです。聖徒たちは今ひざまずいて祈らねばなりません!
端的に言うならば、主にあがなわれた者がそういうのを神は待っておられるのです!(終わり)トップへ戻る
07 06月
新しいサウンドの到来
レイ・ヒュウズ
(2010年5月24日 モーニングスターミニストリ−ズでの話の一部 )
今日はダビデの幕屋について話したいと思います。この話は、いつもはワーシップに関わるミュージシャンたちに対して話すのですが、今日は牧会者、リーダーの立場にある人たちに対してお話したいと思います。というのは、私はリーダーたちがこのことを理解するのが今非常に重要だと感じるからです。それは現在御国 (キリストのからだなる教会)の中で劇的なシフトが起こっていて、今まで聞いたことのないサウンドが始まろうとしているからです。今は新しいサウンド、新しい歌へと移行する時です。
ダビデの時代には詩編は「150編」からなっていたのではありません。詩編全体がダビデの幕屋で32年間の間、24/7で、絶えることなく歌われていた一続きの音楽の表現だったのです。
詩編の番号というものは後の時代になって付けられたものです。番号以外にも多くのことが後になって付け加えられたのですが、それによってダビデの幕屋の時代にあった美しさと力、権威が取り去られてしまいました。
「 praise(賛美せよ)」という言葉は詩編には存在しません。「praise」という英語に訳されている言葉は、ヘブル語では7つの異なった言葉があります。私たちは英語の「praise」という言葉を見ると、みんな同じことを表しているのだと思ってしまうのですが、そうではないのです。まずこのことを知っていただきたいと思います。
7つのヘブル語はそれぞれ、私たちが主にむかって身体を用いて行う全く異なる行為を指しています。それは32年間のその時その時に、人々がどのように生き行動すればよいか指し示したのです。
24組の音楽隊が交代で絶えず仕えていました。そして 新しい理解、新しい預言的言葉、新しい言葉使いが、常に新しい音楽的表現が、新しい楽器、新しいリズム等によって表わされ、それが丁度映画音楽のように、神の御こころのサウンドトラックとして使われたのです。即ち、神がその瞬間に語って おられることを表現したのです。映画のサウンドトラックのように、その時の神の言葉、御思いを強調してその効果を高め、聞く人々や回りの霊的環境への影響力を非常に強めたのです。 今、神の御国に新しいサウンドが解放されようとしていますから、このことを学び、理解し、親しんでおくことが非常に大切なのです。
詩編33編を見てみたいと思います。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあります。真に正しくないものが喜ぶということは出来ません。正しい者(righteous)な者だけが主にあって喜ぶことが出来るのです。即ち、人がもし父なる神と正しい関係にないならば、喜ぶことはできないのです。この「喜ぶ(rejoice)」という言葉は大変素晴らしい言葉で、実はコマ独楽のようにくるくる回るという意味なのです。
神は私たちのために喜んで独楽のようにくるくる回っていると言われます。ゼパニヤ3:17に「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎをあたえる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。
それは神が激しい感情をもってくるくると 私たちの回りで回ることを表しています。神は私たちに歌を歌ってくださると共に、丁度地球が軸を中心にして回るようにくるくると回られるのです。 しかも情熱的な愛情に満ちあふれて神はご自分と正しく結ばれている者たちの回りでくるくると回られるのです。
勇士であられる神が、あなたがたのただ中でそうされるのです。
ちょっと言い換えてみますと、「私のただ中におられる主なる私の神は勇士だ。神は私に歌い、私を喜ばれる。」ということです。ですから私たちのうちからほとばしり出るサウンドは、神が私のただ中におられるのですから、神の権威と創造とに直接的に関与しているのです。詩編全体を通じて多次元的な表現があり、絶えず動きがあり、絶えずサウンドがあり、その日の神の言葉に対する応答があるのはそのためです。
ワーシップチームがステージに上がってダビデの幕屋式に演奏を始めるとしましょう。仮に私がダビデだとして、私が「さあ、この歌を土曜日の4時まで歌いましょう。」と言ったとします。今(月曜日)から土曜日の4時までこの詩によって歌い、それを回りの霊的環境に絶えず解き放っていきます。するとついには歌っていることがその時に現実となり、神が「事は完了した」と言われるのです。
第一歴代誌16:42に「へマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルがあり」と書かれていますが、ラッパとシンバルの響きは今までの歌を止めてチェンジせよ、という合図でした。その合図があると、今までの歌を止めることが許可され、今新しく神が言われ、されていることに移るのです。これが即ち「新しい歌が解き放たれた」ということです。
次に「主を賛美せよ」と言う言葉があると、新たな賛美が神の民の中で起こり始めますが、それは今までしていた賛美の表現とは異なるものになるのです。それは新しい歌であり、神が新しく民のただ中で「今」しておられることに関する賛美になります。歌い手たちが賛美の召命と油注ぎを受けている人たちであり、これらの事をよく理解し、訓練された人たちだったということは明らかです。
彼らは自由で安全な環境の中で、思う存分に創造的に表現することを許されていたのです。それは治世に関わることであり、又、霊的なことでもありました。ですから彼らはギリシャ的な音楽(言ってみれば、それは数学、科学、幾何学と楽器とを絡ませていろんな音符、記号をつけたもの)という枠の中には閉じ込められていませんでした。彼らの音楽はギリシャ的な音楽を越えたものでした。それは彼らの心からほとばしる情熱であり、神の臨在の中で完全に表現されたのでした。
ダビデが「主を賛美せよ!」と言う時、その「賛美」という言葉はヘブル語の「ハラウ」だったかもしれません。ハラウとは、「馬鹿げた、気が違ったような、輝く、叫ぶ」というような意味を持っています。「ハラウ(賛美) ヤ(神)」は、即ち「ハレルヤ」です。又、ハラウは 澄んだはっきりした音であり、「輝く」とはそのことを指しています。それは音よりもむしろ光と関係があって、音と光の架け橋となるものと言えるでしょう。つまりハラウとは、音楽、サウンドによって神の栄光を人々の上に輝きださせるということなのです。
第一歴代誌15:22に「ケナヌヤは
01 06月
デスティニーを選び取る
ジョアン・マクファター
「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』」エレミヤ1:4、5
「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」詩編139:16
エレミヤとダビデは、彼らが母の胎内に入る前に神からの召命を受けていましたが、 すべて生まれてくる人間は、男も女も、彼らと全く同じなのです。しかし神は人間に自由意志を与えられることによって、その召しを実際に受けとって生きるかどうかという選択を私たち各自に委ねられたのです。イエスも次のように言っておられます。
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:14
私たちの選択は、自分が満ち満ちた主の栄光がとどまる器となるかどうかという決断によってなされます。私たちが主の栄光を持ち運ぶようにまだ調えられていないときに、主はそのような栄光を私たちの上に注がれる事はありません。そんなことをしたら私たちはそれによって滅びることになるからです。デスティニーは私たちすべてを招いていますが、その招きがどういう結果になるかは、私たちの自由意志の使い方によって決まります。
私たちの心が創造主の声に対して絶えず「私はあなたを選びとります!すべてのものにまさり私はあなたを選びとります!」と応答していくならば、私たちは自分のデスティ二—の道をつき進んで行っているのです。
デスティニーは目的地そのものではなく、そこに行き着くまでの旅である
主が私たちの始めであり、又 私たちのデスティニーです。私たちはこの世が始まる前から主の中にいました。そして又主の中に住まうために帰っていくのです。私たちは今すでに主の中にいるのです。それは、私たちが主の流された血潮の赦しの恵みを信じ、それを受け取っているならば、です。
主の書物の中に書かれた自分のためにあらかじめ定められた日々をそのように生きて行く(そのコースを走る)ことが私たちの旅です。それは一日ずつ忠実に生きて行くと言うレースであり、何よりも主を選びとって行くという決断を一つずつ続けるレースです。毎日の生活の中で出会うすべての分岐点で主を選びとって走り、意識的に「主を選びとる」という決断をしていくことによって、私たちは デスティニーの真ん中にいる事ができるのです。何故ならデスティニーとは主のうちにだけ見出すことができるものだからです。
「神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」使徒17:26−28
私たちの西洋的考え方では、 自分が目指しているある目的や仕事、或いは地位に到達することがデスティニーを達成することだと考えます。それは自分が作り出した自分の希望の型であり、例えば歌手とか牧師、或いは銀行家になりたいとかいうものです。でも神が考えておられたのはそんなことではないように思います。自分でデスティニーだと思っていることに到達する望みが、毎年遠のいていくように思える人が多いのは、その所為かもしれません。私たちは一つの型(体制・環境)を自分のために作って、その中で自分を機能させようとします。まず型があり次に機能が来るという考え方は、私たちの文化に大きな影響を与えたギリシャ的思考の結果です。
私たちの真のデスティニーは、主が私たちのために造られた日々を「実際に日々生きる」ということの中に秘められているのであって、自分の肩書きとか職業のためにではないのです。それは「自分は預言者である」から預言をするということではなく、主の御声を聞き、 御父の心で愛をもってそれを預言する(人に伝える)ことを毎日学ぶ、その日々のプロセスそのものがデステイニーです。預言者としてそのように機能するとき、私たちは真に自分のデスティニーを見出すのであり、それは即ち主に似た者となるということです。
それはどのような仕事やミニストリーについていても同じことが言えます。主の書物には、私たちそれぞれが日々違う人生を生きるように書かれています。しかし、その中で私たちがどのように生きればよいかを学んで行くことが、自分のデスティニーを日々歩むことであり、それはすべての人にとって同じプロセスなのです。即ち、それは主のようになる事であり、主と一つとなるというプロセスです。
デスティニーは終りに達することではなく、そこに至るまでの「旅路」であり、主ご自身が主の書物に書かれた日々を私たちが忠実に生きていくことです。一日一日を主の中で生きるという人生こそが私たちの真のデスティニーであり、その中で私たちはもっと主と似るものとされていくのです。それが行われる型、つまり先生とか伝道者、あるいはパン屋とかいうことは、毎日のプロセスに較べれば二義的なことです。もしかして私たちは肩書きや名声を手に入れることに焦点を当ててしまっていて、この「旅路」の喜びを失っているのではないでしょうか。私たちが今日まで生きてきた日々、その中でしたすべての間違い、すべての失敗、すべての成功から私たちのデスティニーはなっているのです。
デスティニーは動詞であり、デスティニーは一人のお方である
私たちが「デスティニーは名詞である」と考えるのが 間違いのもとかもしれません。実は神にあってデスティニーは名詞であると同じくらいに動詞であるのです。 「それは一人のお方である」と言ったほうが或いはもっと正確かもしれません。即ち、それはイエス・キリストというお方と一つになるというプロセスです。何の仕事をしているかに拘わらず、このプロセスは全く同じです。自分の召命に応答しその中で成長して行くプロセスが、私たちの本当のデスティニーなのです。それは私たちすべての者にとって同じです。
ですから私たちは、人生の中を、良いこと、悪いこと、醜いこと、血みどろの戦いや栄光などすべてを通り抜けていくときに、「小さな始ま
23 05月
御国の領域で生きる
ジェシカ•ジョーンズ
御国に生きる生き方というのは、実はとても簡単なのです。それにもかかわらず、それはクリスチャンにずっと今まで手のとどかない世界のことになってしまっています。でも長ったらしい方程式など何もないのです。それはただあなたの人生の一分一分、一つ一つの状況を神の御手、即ち霊的な御国の領域に委ねるということです。
イエスはそうされました。使徒たちもそうしました。そしてそれは私たちの人生上のあらゆることにおいても非常に素晴らしく効果があることなのです。初期のクリスチャンたちはユダヤ人でした。彼らは皆、何千年にもわたって伝えられてきた神を畏れる生き方の契約を把握していました。すべてのユダヤ人家庭の一部となっていたその理解を、私たちは失ってしまいました。それは4世紀のコンスタンチヌスの治世で起こったユダヤ人に対する迫害によって、クリスチャンとユダヤ人が分たれてしまったからです。
「朝起きてあなたの足がベッドから床につく前に、あなたの一日をわたしの権威の下に委ねなさい。」と主は私に言われました。
初めてそのようにした時、それは実際どんな意味なのかを私は主にお訊きしてみました。
「父なる神様、私はこの日を、今日のすべての活動を、問題を、状況を、決断を、すべてを、一分一分をあなたの御手の中に、あなたの権威の下に置きます。私に関するすべての事に 、どのような方法ででもあなたが介入する許可を差し上げます。それは今日一日があなたにとって益となり、御心に適うものとなるようにすべてのことが相働くためです。イエスの御名によって祈ります。アーメン」
この祈りをする理由は、私たちの一日を地上の領域から切り離して、神の領域、神の御手の中に置くためです。あなたの一日をこの世の空中の力であるルシファーの権威の下から、神の領域へと移すのです。神があなたの為にあなたの人生に介入されることを許可する祈りです。神とその他のもろもろの霊にむかって、あなたはルシファーやその手下どもとではなく、ただ神とだけ共に働いているのであり、神に完全にコントロール権があることを宣言するものです。あなたは神を信頼し、自分(それは即ちこの世の力)がコントロールするのではなく、神にすべてのコントロールを明け渡すことを宣言するものです。
私は今までに何度もこれと同じ祈りをしてきましたが、それがどれほど意味深いものであるかを今のようには理解していませんでした。「主よ、決して私を離さないでください。あなたが望まれる事とか私がするべきことがあったならば、いつでも私がしようとしている事を変更することをあなたに許可いたします。」私が17歳のときに実はまさにこのことを意味する祈りの歌を与えられたのでした(曲に合わせるともっといいのですが)。そして私は何年もそれを歌って来ましたし、今でもギターを手に持つと歌います。実際のところ、ギターがない時でもこの歌のヴィジョンが 頭の中を度々よぎります。
私はいろんなことを言ったりしたりしていますが、本当に私は人生のすべてを主にお捧げし、主の御手に中にお委ねしました。
確かに私は言うべきでないことを言い、するべきでないことを度々してしまします。 主が必要と思われたならばいつでも私の人生に介入し干渉してください、という許可を主に与えたにも拘わらず、 私は自分の人生を主の御手の中から取りもどし、自分で生きてしまってばかりいるので、そのような情けない結果になるのです。
これはどういうことでしょうか? 自分の人生を本当に主の御手の中に置く時、私は自分の人生を御国の領域に置いたことになるのです。しかし、それをまた取り戻して自分でコントロールするならば、私は自分を御国で生きる状態から取り出してしまい、またぞろルシファーの権威の下に置いてしまうことになるのです。そうです、クリスチャンでも自分の人生をルシファーの統治下に置いてしまえるのです。というのは今ルシファーがこの世の君だからです。ですから、もし私たちが御国で生きることから抜け出してこの世の肉の領域に入るならば、私たちは神の御国から出てルシファーの王国へと入るのです。
私が母に関して一番憶えていることの一つは、彼女があることを私に教えようとした時のことです。母は部屋の戸口に立ち、片方の足だけを部屋の中に入れ「 入ることも出来るけど…」と言い、次にもう片方の 足を部屋の外におろして「出て行くことも出来る..」と言うのです。母は同じことを言いながら戸口でこれを数回したので まるでダンスをしているようでした。そして母は部屋の外に出て行ってしまいました。
私たちは同じことを神に対して何度もするのです。一時片足を神の王国に入れて「入ることも出来るけど…」と言い、すぐにまたこの世に戻って「出て行くことも出来る…」と言うのです。そして残念なことに私たちは母がしたように向きを変えて外に出て行ってしまうことが多いのです。
私たちは心配事を十字架のもとに持って行き嘆願したかと思うと、またその心配事を拾って家に持ち帰るのです、、そして自分の解決法を探すのです。
私たちが十字架の下に行く時、霊的御国の生き方の中に入るのです。そしてその自分の愛玩物を拾い上げて家に帰るときは、 ルシファーの王国に再び入るのです。
次の祈りは今日聞いたばかりのものですが、とても素晴らしいので皆さんにお分ちしたいと思います。オクラホマ州のダビデの家というミニストリーのカーティス・ランドリーさんから来たものです。
父なる神よ、主イエスの御名によって私はこの 問題(経済的か、病気、子供の事かなど、はっきり言う)をあなたに差し出し、十字架の下に置きます。父よ、イエスの御名により、私はこの問題の結果とのいかなる魂的肉的な絆を断ち切ります。
イエスの御名により、私は私の思い、意志、感情、またあらゆる空しい想像がこの問題に関して駆け巡り働くことを許しません 。主よ、私はあなたに感謝します。私がこの問題に関して感情的ではなく、又いかなる恐怖も抱いていないことを。主よ、御言葉にはあなたが私に恐れの霊ではなく健全な思慮深い霊を下さったと書かれています。
私はキリストの健全な思慮深い思いを受け取ります。私は今私の中にキリストの健全な思いを受け取ります。それが私の栄光の望みです。私はすべての魂的肉的な絆を断ち切り、私の魂が良いこと、純粋で清いことにのみを心に思うことを命じます。
私はダビデのように祈ります。
「わがたましいよ。主をほめたた
えよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」父よ、私はこの問題(今あなたが祈っている問題、状況をきちんと言い表す)を自分の手の中に持つことを選びません。主よ、あなたに感謝します。あなたの御言葉に「主は決して正しい者を平安と信仰の場所からゆるがされるようにはなされない。」とあることを。私はそれを自分のこととして今宣言します。私はそれを自分のこととして今信じます。私はそれを自分のこととして今受け取ります。イエスの御名において、アーメン
詩編55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
第二テモテ1:7「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」
イエスは人の子 Son of Man でした。彼は人でした。勿論彼が神の子 Son of God であったことを私は知っていますが、 人であったイエスについて私はあなたに話したいのです。
イエスは絶えず祈られました。主が何を祈っておられたか考えたことがありますか? パウロも絶えず祈りました。彼は何について祈っていたのでしょうか? 私も絶えず祈ろうとしたことがありましたが、その試みはわずか数分で終ってしまいました。
私たちは、祈りとは何かをお願いすることだと考えています。それが人々のためであっても、やはり物事や人のためにお願いをしているわけです。私自身はお願いすることをそんなに沢山思いつきません。いくつくらいの事をイエスは神にお願いしたと思いますか?主は家を持っていませんでした。
着るものやサンダルもあまり持っていたとは思えません。所有物はありませんでした。 遺書に書き記すようなものは何もなかったのです。ただヨハネに母の世話を頼んだだけでした。たった一つの衣はローマのくじに使われました。つまり、彼はこの世の領域では何一つ誇るものは持っていなかったのです。
では、一体イエスは何を祈ったのでしょうか?
パウロも無一物でした。ですからパウロは一体何のために祈ったのでしょうか?
私はイエスとパウロは二人とも同じことを祈っていたのではないかと思うのです。彼らは自分の人生の一分一分が神の御手の中でしっかり守られていることを願ったのです。二人はすべての呼吸が確実に神のコントロール下にあるようにと絶えず祈り、彼らのために介入する許可を神に与えていたのです。
そして祈りは一方通行ではありません。二人は人生すべてのことに関して神の語られる言葉を聞くために耳を傾けていたのです。
これはどういうことでしょうか?
パウロはルステラで石打ちにあいました。人々は彼を死んだものと思い町の外に引きずりだしました。彼は瀕死で横たわりながら、結果がどのようになろうともその時を神の御手に委ねたのだと私は思います。神はパウロのために介入する許可を与えられていましたし、使徒がもう一人死ぬということよりもっと良い計画を持っておられたので、パウロを生き返らせルステラにもどって福音を語らせたのでした。
ちょっと今考えてみてください。パウロの頭に石が一つか二つ当たったとしましょう。というのは人を石打ちにする時に一番効果的なのは頭だからです。石が当たって地面に倒れたあとは
人々はその人の身体全体をめがけて石をなげ、もっと苦痛を与えようとするでしょう。
パウロは頭に数カ所傷を受け、多分頭蓋骨が割れ、骨も大分砕かれていたでしょう。確実に死に至るような石打ちを受けていたのです。
私は石打ちにあった人々がどのように死を迎えるかについて調べたことがあります。20分ほどで死に至り、それは蹴られたり打叩かれて死ぬのと似ていて、 激しい痛みの伴う残酷な死に方です。
しかし、パウロの命は父なる神の御手の中にありました。父は彼を生き返らせ、町にもどって福音を語らせました。彼はぼろぼろになった泥まみれ血まみれの服を着て町に入っていきました。彼は 足を引きずることもなく完全に癒された姿でユダヤ人に彼らが歴史の中で聞いていた神について躊躇することなく語ったのでした。
一方イエスは、会堂の人々によってガリラヤの町の外にある丘の上に追いやられました。人々は主を崖から突き落とそうとしたのです。しかし、イエス(人としての)は、群衆の中を通り抜け誰にも見られずに去ってしまわれました。人々はすでにそこにはいない人を突き落とそうと群がっていたのです。
この話を以前にも聞いたことはありませんか? ラベンズブルックの強制収容所に入れられたコーリー・テンブームの話はどうでしょうか。彼女は扉のところに立っていた看守の厳しい目を通り抜けて聖書を持ち込むことが出来たのです。
神がある人のためにされたことは、他の人にもして下さるのです。神は人をかたより見る方ではありません。そして奇跡は滅多におこらないと考えるべきではありません。私たちの世界で滅多にないとか奇跡的だと考えられることは、御国の領域の生活では普通のことなのです。そして霊の領域がこの世の領域に取って変るならば、ここでもそれは起こるのです。言葉を変えれば、私たちが人生を神の御手に委ねて、神が私たちの領域を神の領域に置き換えてくださるのを許可するならば、奇跡は私たちの生活の中で当たり前の事となるのです。(終わり)トップへ戻る
16 05月
奇蹟の道を築け
キース•ミラー
ダイナマイトが必要だ!
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力(デュナミス:ダイナマイトの驚異的な力、勢力、強さ、聖霊による力)を受けます。」使徒の働き1:8
デュナミスには変革する力がありますー信じてください! それは爆竹のように小さいものではなく、 ダイナミックで地を揺るがすような激動的な力であり、その力が私たちの上に臨むと不可能なことは何もなくなり、すべてが可能になるほどの力なのです。それは地球を揺るがし無限で止む事のない継続的であり終りのないメガワットの神の力であり、あなたの周りの世界を揺り動かさずにはおかない力なのです。
今までにあなたの人生の中で、地を揺り動かし影響を与え物事を動かし変革させるような力を経験したことはありますか? もしあなたが次の代や後世に霊的遺産を残したいと願うならば、あなたにはこのような力が必要です。
どのくらいで満足するのか
もしあなたがそのような力をまだ経験したことがないならば、それは神が貴い聖霊によってずっとあなたに与えようと用意されているものよりずっと小さなことで、あなたが満足してしまっているからかもしれません。私たちの多くは自分の考えに枠をはめてしまい、その結果部分的な勝利で満足してしまっているのです。本来ならば私たちクリスチャンが部屋に入るだけで、そこにいる人々はイエス様のことを知りたいと懇願するはずなのです! 地域社会、職場、政治的指導者、そして王や大統領さえも、重要な事柄に関する知恵と策を教えてくれと私たちに頼むはずなのです。私たちの中からもっと多くの人が、メディヤの世界、ハリウッド、政界や実業界で影響力のある地位についているべきです。
確かに人々はイエスの救いの力を知るようになってきていますし、奇跡がそこここに起こり、祝福が私たちに注がれています。しかし、私たちはもっと偉大な神の力の顕れを見ていませんし、もっと大きな神の栄光が与えられて私たちから流れ出し、その力によって真に驚くべき変革が起こるのもまだ見てはいません。
歴史上に残る素晴らしい御業のハイウェイを築くために神が取られた方法は、使徒パウロが言っている「神の栄光の豊かな宝」を流れ込ませることによってでした。その豊かな宝は 神ご自身の満ち満ちたさまにまで私たちを満たすものであり(エペソ3:16、19参照)それはすべてのことを可能にする素晴らしいデュナミスの力を与えるものです。神の御霊と力とは決して切り離しては考えられません。
イエスのミニストリーの秘密
それは秘密ではない!
黙示録3:1を見ると、イエスは神の七つの霊を持っていたことがわかりますが、イザヤ11:2を見るとそれが更に詳しく書かれています。イザヤは聖霊ご自身がイエスの上にとどまられたと書いています。聖霊により知恵と悟り、はかりごとと能力、主を知る知識と主を恐れる霊が注がれたのです。そして聖書にはイエスは無限に神の御霊が注がれたと書かれています。(ヨハネ3:34)
イエスは制限というフタを吹き飛ばされたのです。それはイエスが「ある程度」とか「制限付き」のものでは決して満足されなかったからです。人間の知性、知恵、能力には限界があります。 主は歴史の流れを革新的に変えられましたが、それをするために主は、神の満ち満ちた 御霊の知恵、悟り、はかりごと、能力、知識を求めそれにより頼まれたのでした。 満ち満ちた無限な神の御霊だけがイエスを満足させたのです。 豊かな宝がそそがれ、満ち満ちた御霊の顕れが御自分の心から流れ出すまでは1インチなりとも動かれなかったのです。その結果、主の臨在はすべてのことにおいて顕れ出たのでした。
イエスは言われました。
「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川(rivers of living water)が流れ出るようになる。)これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』ヨハネ7:37−39
ここで「川 rivers」が複数なのに注目してください。それは貴い聖霊の流れが複数あることを示しています。一つの御霊、そしてその七つの機能、顕れがあなた方を通して働くのです。それは私たちが日ごとに聖霊の深みと自分の深みとの間の親密な交わりをすることにより、 神の力により私たちが主のご性質にあずかる者へと変えられていくということです。(第二ペテロ1:3、4)
貴い聖霊の素晴らしい流れの一つ一つは、すべてのクリスチャンが与ることができるものであり、それは 私たちがこの世を主の栄光のために変革しようとしていくとき、常に前進し発展して進めるように助けてくれます。 神の七つの御霊のすべての機能、顕れが私たちの中に流れ込み、流れ出して、それによって完全に神の御国が現実となり勝利が得られるのを私たちに見てほしいと神は願っておられます。聖霊の七つの顕れは御国の深い奥義をあらわし、私たちに偉大なることをする力を与えてくれます。そしてあなたを通して働く主の偉大な力によって、主が栄光と誉れを受けることになるのです。
結論
町を一日で改革する、あなたの放蕩息子を家に帰らせる、政府を変える、大勢の人がいっぺんに癒される、あなたのミニストリーや人生が進展するというようなことのために必要なのは、主の絶えることのない臨在があなたの上にあることであり、知恵、悟り、力、知識、主を畏れるこころによってあなたを通して主の満ち満ちた様が働いていることです。これが即ち、制限や限界を取り除くと決意したすべての人が受け取ることができる「無限の油注ぎ」です。
もし聖霊が神の満ち満ちた様であり、神が永遠—絶えることのないものーであるならば、聖霊のすべての特性もそうであるはずです。主はこの絶え間ない生ける水の川(rivers)をあなたの中に流れ込ませ、 流れ出させ、あなたの人生が毎日聖霊の力ある流れを顕し、主の力によってこの地に主の栄光をもたらすことができるのです。部分的な勝利では歴史は作れないことを忘れないでください!(終わり)トップへ戻る
Page 88 of 131 « First ... « 86 87 88 89 90 » ... Last »