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Walk With God Ministries


20 07月

リーダーの出くわす不都合 キャサリン・ブラウン 7月20日


リーダーの出くわす不都合

キャサリン・ブラウン


人生は常に山あり谷ありだと言いますが、クリスチャンも人生の嵐から逃れることはできません。嵐の中でこそ、私たちはキリストの真実により頼むことを更に学ぶことができます。また嵐は、リーダーであることが「都合のよい楽なこと」であることはめったにないことを、もう一度教えてくれます。

私のリーダーとしての経験から学んだことは、リーダーであることは決してリボン飾りのついた素敵なプレゼントをもらうようなものではないことです。それは祝福された特権であると共に、しばしば非常な苦痛を与えるものです。喜びと共に悲しみの旅でもあります。往々にして孤独です。それは日常の生活から神との邂逅という未知の世界へと人を連れて行き、へりくだって神により頼みイエスの衣のふさにすがるという経験をさせます。
それは心もからだも感情も、そして霊的にも非常に過酷な任務です。しばしば、それはキリストとの深い交わりの場所に私たちを連れていき、神の弟子として訓練を受け続けることになります。それは自分に関しても、また人々をキリストと歩む改革的な信仰生活へと導くことにおいてもそうなのです。リーダーになるという恵みによって人々に仕えるのは慎ましい特権ですが、リーダーであることがいつも都合がよいとは私は決して言わないでしょう。

地域の外

私の家族に最近起こったことの 証しをさせてください。みなさんにとって励ましとなることを願いますが、それと共に聖書の真理に当てはまる比喩として役立つのではないかと思います。

子供たちをみんな学校に送りだしてから、私はミニストリーの合間にやっと時間をとって予約をしていた 美容院に出かけました。長い間美容院に行っていなかったので、髪をカットし染めてもらうのを楽しみにしていました。どういうわけか私の美容院は携帯電話の電波が届かないところにあり、そのお陰で二ヶ月に一度のこの時間は、いつもは誰にも邪魔されずに静かにゆっくりできる休息のオアシスなのですが、今回はちょっと違いました。

私が変な格好になったとき( 洋服を汚さないための黒いケープをつけ、髪には紫の漂白剤をべたべたつけられたとき)義姉が突然走り込んできて「ダニエルが学校から家に帰るようにいわれたの。今すぐ帰ってきて!」と叫びました。(ダニエルは私の二番目の息子です。)私があと30分は動けないと言うと、彼女は私の義母にダニエルを迎えに行ってもらうとぶつぶつ言いながら出ていきました。なにせ私の髪はその時化学物質で覆われていて、そのまま長く放っておけば髪が溶けてしまうかもしれなかったのですから!

ダニエルは2時間前に学校に行ったのですが、その時には 彼の身体に問題があるようには全然見えませんでしたので、一体何が起こったのか私には見当もつきませんでした。私は美容師に大丈夫だと安心させてから、静かに息子ダニエルのために祈り始めたのですが、その時は彼の病気がどれほど重大な状態になっていたかを知りませんでした。

しばらくすると、義母が真っ青な顔をして震えながら入ってきました。義母は 学校に車でダニエルを迎えにいったのですが、今、車の中にいるダニエルの手は麻痺し、しかも片目が見えなくなっていると言うのです。「私は椅子から飛び上がった」というのは非常に抑えた言い方です。最大の危機に取るべき行動、走るべき方向は、その嵐の目の中に走る込むことしかありません。ですから紫の髪と黒いケープのまま(このような時には他人がどう思うかは全くかまわないのです)美容院から飛び出してダニエルのところに飛んでいきました。彼は車の中で声を抑えて泣いていました。私はいとしい息子に手を置き、イエスの御名によって彼の目が癒され、頭痛が去り、右手の麻痺が癒されるようにと宣言しました。

神の力がすぐにダニエルの癒しに顕れはじめました。私はダニエルに髪の漂白剤を洗ったら直ぐに行くからと約束して、義母にダニエルをそこから直接医者に連れて行き、いきさつを話すようにと指示しました。私は夫に電話をして ダニエルと他の三人の子供たちのサポートが必要かもしれないから家に帰ってくるように頼みました。この出来事に私は衝撃を受けましたが、しかし心は落ち着いていました。それと同時にサタンに対する義憤が私のうちに涌き上がってきました。私は確固たる信仰をもって「サタン、主の御名によって命ずる、おまえが息子に触れることは絶対できない。」と声に出して宣言しました。

私は紫の漂白剤を洗い流してもらって、15分後には医者のところに着きました。驚いたことにダニエルが大変なことになるかもしれない状態であるにも拘わらず、彼はまだ医者に診てもらっていなかったのです。私は受付に行って礼儀正しく、いつダニエルが医者に診てもらえるかと尋ねました。受付の人はちょっと横柄な態度で、ダニエルが後どのくらい待たねばならないかわからないと答えました。この決まり文句のような返答は、その時の私のように緊急事態で思い詰めた親には満足できないものでした。私は一息ついてから受付の女性の目をじっと見て、低い決意を込めた声で「息子はいつ医者に診てもらえるんですか? 息子は突然原因不明の麻痺と目が見えなくなっているんです。」と言いました。すると彼女は医者を探しに行ってくれて、少ししてダニエルは医者に診てもらうことができました。

医者の診断では、ダニエルは重度の偏頭痛の発作に襲われているということでした。(彼にとっては初めてことでした)医者はむかつきを抑える薬を処方してくれて、家に帰って横になるようにと指示しました。もしまた発作が起こったならば、すぐ来るようにと言われました。私たちは家に 帰り、私は愛する16歳の息子をベッドに寝かせ、大丈夫だよと言ってもう一度彼のために祈りました。主人は会社に戻り、私は家族の人たちにダニエルはもう大丈夫だという電話をかける作業にかかりました。みなさんもご存知だと思いますが、悪いニュースは他のどんなニュースよりも家族に早く伝わるものです!私はいろいろと助けてくれたみんなに(美容師にも)お礼をいい、ダニエルはもう大丈夫で危機は過ぎたと知らせるのは大切だと思ったのです。

嵐の中にイエスと共にいる

さて、この髪の漂白剤にまつわる私の長ったらしい話が、リーダーの「 不都合 」と何か関係があるのでしょうか? 大ありなのです! まず、リーダーの介入を必要とする危機というものは、普通、とても都合の悪いときに起こることに気づかれていますか? 危機はあな
15 07月

聖さは輝く フランシス・フランジペン 7月15日


聖さは輝く

フランシス・フランジペン



クリスチャンの人生に真の聖さがあるとき、それは輝き出てその人の回りは明るくなります。赤ちゃんや幼児は神の臨在にとても近い存在なので、彼らの霊は純粋であり汚されていません。ですから彼らも同じ光を放っています。 彼らの心は透き通っていて偽りがないので、彼らから目に見える光が発せられているのです。そのような聖いランプの輝きを私たちが放つためには、 彼らと同じような透明さと偽りのない心を持つことが必要です。それは神の御国で混じりけのない黄金となる道です。

一つのものだけを見る目

キリストが私たちの内に入って来られた瞬間に、私たちは聖くされ、神のために聖別された者となります。この聖さは、神殿の器物が聖くされるのと同じ種類の聖化です。即ち、器物は主に仕えるために用いられるので聖いのです。器物そのものには何の徳もありません。器物の材質が変ったわけでもありません。キリスト教もその意味において、おおむね、聖いと言えます。
しかし、私たちが求めている聖さは、主のために取り分けられて完全に聖くなるということです。 私たちを通して、天の父なる神の臨在が 回りに映し出されるような聖さを求めているのです。神の御性質そのものと、神のいのちの豊かさを私たちは求めているのです。

真に聖くなるとは、私たちのうちに聖霊のいのちそのものを生み出すことを意味するので、 私たちは聖霊がどのような方であるのかを確実に知る必要があります。神の御霊は愛であって、宗教ではありません。神はいのちであって、形式ではありません。聖霊は私たちが単に異言で話したり、証しが出来るようにしてくださるだけではありません。御霊は私たちをイエスの臨在の中へと導いてくださるのです。私たちは聖さをその臨在の中で受け取るのです。即ち、イエス・キリストと一つになり、交わりを持つときに聖さを受けとうことが出来るのです。


又、私たちの求める聖さは、律法的な一連の規則でもありません。それはキリストご自身のいのちそのものです。聖霊は私たちのうちに働いて「もっと人を愛したい」という新たな願いを生み出すのではないのです。そうではなく、御霊はキリストご自身が持つ愛そのものを分与してくださるのです。 ただ単にイエスに対する自分の信仰を強くされるのではなく、主の持っておられる信仰を受け取って、 イエスが信じるように実際に信じ始めるのです。
私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神ご自身です。揺り動かされましょう。そして私たちが居心地のよい枝から振り落とされて、大いなる恐れと大いなる喜びをもって、深い礼拝と聖なる恐れをもって、ご自分の意志と目的をもって私たちを召してくださった神というリアルなお方に近づこうではありませんか。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか?」(第一コリント3:16)

神の御霊が私たちの内に住んでおられるのです。ですから、昔からされてきた「人とは何であるのか?」という質問を自分にしてみようではありませんか。私たちは自分が他人にどのように映るのかは知っています。しかし、もし神が本当に私たちのうちにおられるのならば、 天使や悪霊にはどのように見えるのでしょうか? 私たちは霊の世界でどのような者なのでしょうか。私たちの回りの輝きはどんなでしょうか。私たちは目に見えない世界にむかってどのような栄光を輝かせているのでしょう。「見てご覧なさい。気をつけて。神の子が歩いてきますよ!」と彼らは言っているのです。考えてみてください。始めに人間を神のイメージに造られた方、創造者の御霊があなたの中におられるのですよ、、、、まさに今。

聖さとは身体全体が明るいこと

しかしこれには限定があり、条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。あなたは光と闇とに、罪と義とに、自分と神とに兼ね仕えることはできません。あなたの内には光がありますが、闇もまたあります。私たちの世界は闇の世界です。私たちの先祖は闇の子供たちでした。私たちの肉的な思いは今も尚、闇が暗躍する舞台のままになっています。つねに選択をせまられる世界で、私たちは光を選ばねばなりません。成熟した光の子となるためには私たちは決して二心であってはならないとイエスが教えられた理由はここにあります。主は「からだのあかりは、あなたがたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と言われました。

もしあなたが心と思いをもって神にのみ焦点を当てているのならば、あなたのからだには光が満ち、神の栄光が完全にあなたのうちに顕れるのです。しかし、もしあなたが二心であるならば、もしあなたが罪深い、あるいは悪い考えを持っているならば、あなたの光はだんだん暗くなり、遂にはからだ全体が真っ暗になるのです。イエスは続けて「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

もしあなたが救われたにも拘わらず、神を求めず、或いは神に従わないとしたら、あなたは闇の中にいるのです。「いつか、どうにか、自分はきっと良くなる」というような空しい希望で自分を慰めないでください。はっきりした決意で身を固めてください!もしもあなたの内の光が闇の中にあるならば、その闇はなんと恐ろしいことでしょうか!光の子よ、あなたは闇を憎まねばなりません!暗闇は地獄の実体であり、神のない世界なのです!

しかし、私たちは光に希望をおいているのであって、闇ではありません。あなたの足は義の道を歩んでいるのであり、その道はだんだんに明るく真昼のようになるのです。「もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。(ルカ11:36)」という節は、 聖さが完成した時の姿をはっきり表しています。それは、ちょうどランプが明るく輝くように私たちの身体が栄光で輝いている姿です。なんという素晴らしい希望でしょうか。私たちが神の臨在によって全体が明るく輝き、私たちの内には「何の暗い部分もない」という姿です!

霊的に成熟した神の聖徒には、光と栄光に輝く衣が用意されています。それは山上の変貌の時のイエスの衣のようです。ただ永遠の世界のためだけのものではなく、この世で着る衣です。「曲がった邪悪の世代にあって」も「彼らの間で世の光として輝く」の です。(ピリピ2:14、15)

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ5:8)

この言葉は単なる比喩ではないのです! 神の栄光があなたの内に、あなたの回りにあるのです。それは霊的にリアルなことなのです。しかしあなたの中にまだある暗さはどうでしょうか。パウロは続けて言っています。
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。、、、けれども明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされるものはみな、光だからです。」(エペソ5:11、13、14)

あなたの暗やみを明るみに出してください。それを擁護したり弁解したりせずに正直に告白してください。それを憎んでください。断ち切ってください。暗やみが暗やみの中に留まるかぎり、それはあなたを支配します。しかし光の中に出せば、それは光になります。あなたの密かな罪を大胆に神の恵みの御座に持っていき告白するならば、神はすべての悪からあなたをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)もしまた罪を犯したならば、もう一度悔い改めてください。何度でも、あなたの中の罪の性質が砕かれるまでそうするのです。

昔の探鉱者のように、 あなたのために取り分けられた混じりけのない黄金を守るために、 御国にあるあなたの土地のまわりに杭を打って確保してください。(黙示録3:18)そしてあなたが恵みの御座にじっと座り続けるならば、永遠な何かがあなたの中で輝き始めるのです。それは溶解炉の熱い石炭のようなものです。あなたが全能なる主と共に留まるとき、主の臨在の聖なる火は、あなたが持っている木や草やわらのようなものを燃え尽くしてくださいます。イエスが持っておられた力があなたの内に奥深くに宿るでしょう。あなたの金が精錬され、あなたの衣が光り、あなたの人生が聖くされるので、天使たちも驚嘆して立ちすくむでしょう。(終わり)

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06 07月

「人を裁くこと」からの断食 フランシス・フランジペン 7月6日


「人を裁くこと」からの断食

フランシス・フランジペン


もしあなたが長期間の断食をされたことがあるならば、それが人生を変えるほどの経験であることがお分かりだと思います。断食(fast)には多くの種類があります。ニネベの王は国民と共に食物と水を断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、国を滅ぼすことをやめられました。そしてニネベの人々を断食と祈りが持つ力を世に示す者とされたのでした。(ルカ11:32参照)

断食はリバイバルを呼び起こす強い道具ともなりますが、又それとは逆に、ほとんど何も霊的な意味を持たないただの形式的な宗教的行事へと堕落してしまうこともあります。パリサイ人たちは週に2回断食をしましたが、それは人々に賞賛されるためでした。彼らの断食はプライドの故だったのです。断食の目的は 自分の目指す霊的目標に早く到達するためであり、ですからファーストFast(早い)といわれるのです。

イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちが断食をして飢え渇く目的は、正義が勝利をおさめるためです。それは私たち個人に関すること、また家族、教会、市町村、国に関する事柄において正義が勝利することです。断食(fast)はその目標により早く(faster)私たちを到達させるのです。

しかし、断食が自虐的な罰にならないように注意せねばなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではありません。あなたの肉体に栄養を与える代わりにあなたの魂を養うのです。主にもっと近づくのです。神の御言葉を読み、聖句を暗唱し、自分のためや愛する者、又教会のために祈るのです。

イザヤ58章では、断食は神の愛を人々に示すものであるとも言っています。「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。(6、7節)」と主は言っておられます。

ですから(食を断って)断食をするときは、困っている人や苦しんでいる人を助ける方法も考えてください。断った分の食事のためのお金を困窮している人たちを助ける援助団体に寄付することもいいかもしれません。

とりなし手の断食

人生に最も顕著な変化をもたらす断食は、私がとりなし手たちに勧めているものかもしれません。私は彼らに、一月間の「裁くことから断食」を要請するのです。それを聞いたときの彼らの反応には実に興味深いものがあります。「じゃ、何を考えていたらいいんですか?」と彼らは訊くのです。 私が言いたいことは、皆さんの思いが 人を裁くことで決着するのではなく、むしろ憐れみをもってその人のために祈る結末となるようにと申し上げているのです。

すぐに他人を裁き批判するという性質は教会におかれた呪いであり、私たち一人ひとりに死をもたらします。「呪い? 死? 」と思われるかもしれませんが、そうなのです。私たちが裁く度に、 私たちは同時に神から裁かれているのです。他人を罪に定める度に、私たち自身が罪に定められているのです。(マタイ7参照) 

多くのクリスチャンは祈り、霊的戦いをし、サタンを叱責します。しかし往々にして彼らが戦っているのは悪魔からのものではないのです。それは当然受けるべき報いなのです。私たちの人生は、自分が人々に対応する態度によって計り返されるのです。常に人々を裁いているので、自分も常に裁かれる立場に立つ結果となっているのです。(マタイ7:2参照)

「裁くことから断食する 」と言っても、それは物事を判断し、見分け、識別することをやめることではありません。しかしながら、人を裁くことは識別とは違います。人のあら探しをするのは御霊の賜物ではありません。私たちが何か間違いを見るときに、ただ批判的になるのではなく、その状況に対する憐れみを祈ることを学ばねばなりません。確かに間違いはキチンと見るのですが、その時に自分の怒りを抑え、キリストの愛の力によってその間違いを贖うことを求めるのです。

イエスは「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)」と言われました。私たちが裁いたり罪定めをしたい衝動に打ち勝って、あわれみを祈るとき、驚くべきことが起こります。 あわれみの新たな扉が私たちの前に開くのです。お分かりでしょうか。日ごと一刻一刻、私たちの前には二つの扉が置かれています。一つはあわれみの大波を私たちの人生にもたらす扉であり、もう一つは困難と障碍だらけの人生への扉です。あわれみの扉にどうやって入るのでしょうか? 神のあわれみの祝福を受ける人生のかぎは、私たちがまわりの人々にあわれみを施すことです。(マタイ18参照)

私は霊的成長がもう何年も止まっているクリスチャンを知っています。彼らは教会に出席し、十分の一献金を捧げているのですが、人を批判的に見て裁く態度を常に持っているのです。彼らは他人を批判する言葉に事欠きません。それによって彼らは自らを神の裁きのもとに置いています。他人に対してあわれみを示さないので、神からのあわれみを受けることが彼らにはできないのです。

ヤコブは 「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)と書きました。これは厳粛な言葉です。あわれみを示さない者への裁きはあわれみがいただけないのです。

「自分はクリスチャンなのにイエスが約束してくださった豊かな人生をどうして経験できないのだろうか?」とあなたは思っていますか?(ヨハネ10参照) 多分それはあなたがあまりにも批判的で人を裁いているからです。でもよい知らせがあります。あわれみは裁きに打ち勝つのです。あなたが自分の人生には間違っているところがあり、自分は罪人であるとわかっていても、あわれみ深くなろうと努力するならば、神はあなたが他人に対応するようにあなたに対応してくださると約束されています。あなたのこころの中であわれみを必要としている部分は、神があわれみ深くしてくださる人生の中にいやしを見つけることでしょう。

愛する皆さん、これからのあなたの人生に変化をもたらすことが出来るのは何であるか、熟考してみてください。多分それはあわれみによる断食をすることではないでしょうか
29 06月

眠りの霊の ヴィジョン  キャシー・ウオルターズ 6月29日


眠りの霊のヴィジョン

キャシー・ウオルターズ



最近のことですが、ある朝私が目を覚ます直前に、若くて美しい女性がベッドに寝ている夢(又はヴィジョン)を見ました。彼女はとても気持ちよさそうにしていて、美しく穏やかでした。 彼女は本当に「白雪姫」のようでした。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ1:18)

すると、ハンサムな王子が彼女に近づき接吻するのを私は見ました。彼が手を伸ばすと、彼女は目を開けて微笑みました。そして起き上がり王子と共に去っていきました。 それから私は同じヴィジョンを何度も繰り返し見せられたのです。
夢やヴィジョンの中の「若い女性」は、ほとんどの場合教会を表しています。しかし私は何故同じ場面が何度も繰り返されたのか不思議に思いました。そしてそれが多くの地域、場所にある教会のことだということに私は気がついたのでした。

「眠りの霊、まどろみの霊」は人を欺きます。というのは、眠りの霊が支配する教会や地域では人々が何もしていない、ということではないからです。人々は神のために忙しく立ち働いているかもしれないのですが、眠りの霊のために自分たちの真のアイデンティティーや神から受け継ぐべき遺産に対して眠ってしまっているのです。 御国のために非常に忙しく働いている多くの人々に私は今まで会いましたが、彼らは自分たちがどのような立場にある者か、光なる主の聖徒として受け継ぐべき物が何であるかに対して全く無知なのです。

眠りの霊は悪霊の中でも最も油断のならない、狡猾なものの一つです。というのは、眠りの霊はあたかも自分は神であるかのように装うからです。それによって人々は神に仕え神のために働かねばならないという「良心の呵責」をいつも感じさせられます。ある人たちは休みをとって楽しい時をすごすことさえも罪に感じるのです。しかし主は 「主を喜び楽しむ」ようにと私たちを召してくださったのです。マタイ11:30に「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とありますが、これはギリシャ語では「わたしのくびきはやさしくてわたしの荷は軽くて喜ばしい。それは厳しくもなく重くもない。」という意味です。宗教の霊はすべてのものを「重苦しく」してしまいます。

親しい友人が最近こう書いてきました。「私はもうすっかり疲れくたびれ果てました。一生懸命努力したり、色々なことを心配したことが主な原因だと思います。『これをしなくてはならない、、何かをしなくては、、』といつも感じるのです。本当にいやになります!」この人は私たちの真の召しが何であるかをよく知っている人なのですが、時として私たちは「頑張って一生懸命働かねばならない」という泥沼の中にまたひきずりこまれてしまうのです。

イエスは あなたを働きのために招聘したのではない

イエスはあなたに100%の資格を与えてくださいました。あなたが何かをして勝ち得る(取得する)ものはもう何もありません。救いは初めから終りまですべてイエスによるのです。主があなたを救い、あなたを召し、あなたを贖い、 御霊をくださいました。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることの出来る方」はイエスです。(ユダ24)

「新しい心と新しい霊をあなた方の内に授ける(エゼキエル36:26)」というのが新しい契約の約束です。あなたは主の勝利のトロフィーであり、作品であり、創造なのです。生ける神の御霊があなたの内に住んでおられるのです。これ以上あなたは救われることが出来るでしょうか?

目を覚ましてください。主が呼ぶ声に目を覚まし、主にあるあなたの召しが何であるかに目覚めてください。王の王、主の主、宇宙の創造者、あなたの天の父(アバ)であるお方の子供とされることは何と素晴らしいことでしょうか。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。(雅歌2:2)」と主は言われています。主は「わたしのために働くように」と言われたのではありません。
 主はあなたを滅茶苦茶に愛しておられるのであって、あなたが主のために働くことを望んではおられません。イエスはあなたをご自分のために働くようにとあなたを招聘されたのではありません。主があなたを喜ばれるように、あなたが主を喜ぶようにと召してくださったのです。

私たちの受け継ぐものとは

あなたは プリンセスになって舞踏会に行きますか? それとも台所にとどまり召し使いのままでいますか? イエスも「わたしのするわざはわたしのわざではなく、わたしを遣わされた方のわざです。わたしの話す言葉はわたしの言葉ではなく、わたしを遣わされた方の言葉です。」と言われました。私たちもそれと同じなのです。私たちはイエスのために働くために召されたのではないのです。どうかわざという王座から降り、辞任し、退位してください。そして主の油をあなたの内に流れさせてください。それはがんばることではなく働くことでもありません。主の御霊に委ねるのです。主ご自身があなたの内に生きてくださるように主にあなた自身を明け渡し、主に生きていただくのです。

あなたの受け継ぐべき物に目覚めてください。 イエスはあなたが主と同じ遺産を受け取れるようにと十字架につき復活してくださったのです。御霊の領域、超自然の領域、天使、天国を訪問すること等はあなたの人生の中で普通の出来事となるべきです。あなたの遺産はこれです:主と踊り、主の内に宿り、主の内に歩むことです。

私は人々に 「Snuggle, don’t struggle. もがかないで主に寄りそいなさい。 Nestle, don’t wrestle じたばたしないで主に休息しなさい」という言葉を好んで申し上げます。すべての「一生懸命すること」があなたを眠らせ続け、愛する方にある喜びを味わえないようにします。そして「努力し頑張り続けるベッド」の中であなたはまどろみ続けるのです。しかし、あなたに出来ることはただ主に委ねて主を楽しむことだけです。主はあなたが主を楽しむようにと召してくださったのです。主を楽しむとき、初めてあなたは主に仕えることができ、何かお役に立つことができます。

よい知らせに目を覚ませ

申し上げにくいことですが、あなたの「宗教」に心から興味を持つ人など誰もいないのです。でも、もしあなたが何か良いものを持っているならば彼らは興味を示すかもしれません。神の慈しみはあなたの人生の中で人々に見られるべきものです。すべては主なのです! この良い知らせ
18 06月

BPのオイル流出に関する   ジョン•シールスキー   6月18日


BPのオイル流出に関する夢

ジョン•シールスキー


日曜日の早朝、主は私にメキシコ湾のオイル流出についての夢を見せてくださいました。主はそれを聖書の中の長血の女にたとえられたのです。興味深いことに、彼女は12年間長血をわずらっていました。12というのは神の使徒的完成の数であり、神の秩序、神の統治の数です。私たちは現在、 地上における神の統治の代理人であり、神の大使です。(私はこのオイル流出が12年間続くと言っているのでは決してありません。これはシンボルとしてのイメージです。)

長血の女と同じように、教会はその密やかな場所から今もなお血を流し続けているのです。しかし私たちは今までそれを認めようとはしてきませんでした。この「出血」を止めることができる唯一のものは祈りであり、それは即ち主との真の親密さ intimacy です。親密さの目的の一つは(人生のすべての面においてですが)産み出すこと、繁殖、再生、再現であるという事実を私たちは見失ってしまっています。
神は私たちのうちに 御子イエスの命を再生 reproduction することを願っておられます。ところが私たちは、他人にどう思われるかということを恐れてこの「重荷」を負って来ませんでした。その結果、責任を取らないが故に権威がなくなり、権威がなくなったが故に私たちには力がないのです!

どのように共に祈り、天から聞き、天にとどき、天と一致すればよいのか

 聖書には、この長血の女は手を伸ばしてイエスの衣のふさに触れたと書かれています。当時その衣は人が祈るときに頭から被るものでした。イエスが「祈るときは奥まった部屋に入り戸を閉めなさい」と言われたのはこのことでした。ラビ達が衣を被って祈る時、彼らは外の世界を遮断し、邪魔されずに祈ることができ、父なる神の臨在の「密やかな場所」である「祈りの衣」の下で一人になることができたのです。

 神の家は常に「祈りの家」としての役割を持っています。これは最も重要な中心的課題と取り扱われるべきであり、私たちが実際に実行すべきことです。これまで私たちはそれについて議論したり、神学的に取り扱ったりはしてきましたが、キリストの身体とし実際にそれを実践することはほとんどありませんでした。私たちは、祈りとは「そのような召しを受けた」とりなし手たちのグループだけがするものだと感じています。しかし、そうではないのです! 教会はこのような現状なので流れ出す血が止まらないのです。

長血の女がイエスの衣のふさに触れたとき、彼女は実際に永遠の命に触れ、それと一つになったのです。永遠の命とは、即ちイエスが持っておられた御父との個人的な霊的交わりであり親密な関係です。(ヨハネ17:3参照)その時、彼女の血の源はすぐに止まったのです。

同じように、祈りについてイエスは次にように教えておられます。「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19、20)

 私たちが共に祈り天から聞くことを始め、天が語り天が願っていることに関して一致するならば、神は、メキシコ湾の現在の事態の当事者たちの心と思いの中に、超自然的な知恵と理解を解き放って、オイルの流出を止める方法がわかるようにしてくださる、と主が言われているように私は感じたのです。

見方を変える:神の慈しみと憐れみのうちの希望

 今まで私たちが感じてきた一つの大きなジレンマは、すべての出来事を地球に対する「神の裁き」であると解釈していたことにあります。起こっていることはすべて神の裁きだという見方をするならば 、祈ろうと考えることさえ神の御こころに反する非生産的なことのよう思えます。
 それは愛と信仰を相殺して(二つの電流を)ショートさせることになり、私たちを 弱く無力で希望のない気持ちにさせます。しかしよい知らせがあります! キリストが私やあなたの中に生きておられる限り、神の栄光を見る希望も私たち一人ひとりの中にあるのです!私たちを通して全世界が希望を見る事ができるように、この希望を解き放たねばなりません!

もし私たちがそうすれば、この事態に対処する力のある人たちに素早く解決策が与えられるばかりではなく、今後このような大事故を阻止する発明や技術に関する新しいアイデアが天から解放されると私は信じます。この問題を解決する創造的アイデアは、悪いものを良いものに変えるという意味において最高のものです。ですからそのように祈ろうではありませんか!

もう一つ皆さんに祈ってほしいことがあります。それはこの事故に関連したすべての人たちが適正に裁かれるだけでなく、主の光の前に導かれることです。皆さん、私たちにはこのような権威が与えられているのです! 今はつぶやいたり不平をいうのを止めて、権威の中に歩むときです! しかし先ず私たちはその中での自分の役割、或いは責任を負わねばなりません。そうです、私たちが御国の住人となったのは「この時のため(エステル4:14)」なのです!

私たちの「長血」とは?

私たちの長血の問題とは、つまるところイエスの血潮と、それによって表された御父の愛を私たちが本当に理解し受け取っているかどうかの問題であると私は思います。 このような大きな愛を、私たちは自分の心やおもいの中にまだ完全には受け入れることができないでいます。その結果、私たちの見るものはすべて曲がったり歪んだりしてしまうのです。それは 御父との真の交わり、親密さを私たちが経験することを望んでおられる御父の思いまでも歪めてしまっています。あわれみは常に裁きに打ち勝ち、最後に勝利するのです!

メキシコ湾のオイル流出は私たちの密やかな場所からの血の流出と平行しています。私たちは「初めの愛」から離れてしまったのです! 私たちみんなが 、祈りと一致により「イエスの衣のふさ」に手を伸ばして触れることを始めるならば、私たち自身の血の流出が止まるだけではなく、メキシコ湾の環境大惨事も解決されることでしょう。(終わり)


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