WWGM

Walk With God Ministries


11 02月

力に先立つ聖さ フランシス・フランジペン 2011年2月12日


力に先立つ聖さ

 

フランシス・フランジペン 2011年2月12日

 

多くのクリスチャンが神の力を得る近道はないかと探しています。近道を行こうとすると、その結果は一番よくてフラストレーションを起こしますし、最悪の場合は偽教師や偽預言者になってしまうことになります。注意して聞いてください。神の素晴らしい力が私たちのために備えられています。しかしそれは聖さなしには得られないものです。力の前に聖さが来るのです。

 

ヨハネがイエスを見た時

 

マタイ3:13−17「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。』ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』

そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると天が開け、神の御霊が鳩にように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

 

バプテスマのヨハネという預言者をよく見てみましょう。聖書によれば、ヨハネは「まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされて(ルカ1:15)」いました。又、彼はエリヤの霊と力をもって来ました。歴史家たちによれば、人々の心を貫き妥協を許さないヨハネのミニストリーによって、百万人近い人々が悔い改めました。大群衆がこの預言者の言葉を聞くために市街や町々から荒野にやってきて、神の御国の到来に備える悔い改めのバプテスマを受けたのでした。

 

堕落した人間の心の状態をヨハネ以上に完全に理解していた人はイエスだけでした。ヨハネの裁きを免れることは、どのような階級の者であろうと出来ませんでした。兵士、王たち、罪人、宗教指導者等、すべての階級がこの「決断の谷」に来たのでした。ヨハネが授けたバプテスマはただ単に水の中に入るだけではありませんでした。ヨハネは人々に義をもたらすだけではなく、彼等が自分の罪を口で告白することを要求しました。(マタイ3:6、8)

 

心に隠されたものを見る預言者

 

ヨハネが「預言者以上の者」であることをイエスは証言されました。主は、 女から生まれた者の中で「バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。(マタイ11:9−11)」と言われました。ヨハネは「霊で見る預言者」でした。彼には霊的領域が見えるオープン・ヴィジョンが与えられていたのです。彼は「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。(ヨハネ1:32)」と証言しています。彼は又、「必ず来る御怒り(マタイ3:7)」を予見したり、「天の御国(マタイ3:2)」が近づいているのを見ることが出来ました。

 

ヨハネは人の心の秘密を見る洞察力がありました。人々から敬われているパリサイ人のうわべを突き通して本当の内面を見ることができました。そして彼等の魂の中に「まむしのすえ」を見たのでした。人々に隠されている事柄でも預言者にはわかるということをよく認識してください。

 

そしてイエスがバプテスマを受けるために来られたとき、まだ天が開いたり御霊が下ったりする前に、ヨハネの義の尺度をもってしても圧倒されるような何かを彼はイエスの中に見たのです。彼はイエスの心を見つめました。そこには罪や偽り、欲望は一かけらもありませんでした。ヨハネは自分がメシアを目の前に見ていることを知りませんでしたが、 驚いて「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言ったほどの聖さをイエスの中に見たのでした。

 

神の小羊(ヨハネ1:36)」であるイエスは、しみも傷もなかったのです。この預言者がイエスの中に見たのは、まさに「しみのない心の純潔さ」でした。キリストの高潔さはヨハネが息を飲むほどだったのです!キリストの聖さが内から強く輝きでているのを感じたヨハネは、自分の欠け、足りなさを直ちに自覚させられたのです。ヨハネがイエスを見たとき、自分より崇高で聖い義を発見したのです。この偉大な預言者はイエスの心の中を見、キリストの聖さの輝きの中で「私にはまだ欠けがある。」と叫んだのです。

 

私たちも同じなのです。イエスを見る度毎にキリストの純潔さが更に示されるので、 自分の足りなさがもっとはっきり分かるようになるのです。キリストの聖さが 目前に顕されるとき、私たちはバプテスマのヨハネと同じように「私があなたからバプテスマを受けなければなりません!」と叫ばざるを得ないのです。

 

しかしながら、 信仰の歩みを始めた当初、私たちは物事の成功と達成のために自分の力で自分の技量を信頼して生きようとしました。確かに神に頼ったときもありましたが、それは往々にして悲しみや試煉の時だけでした。しかし、主が私たちを成長させてくださると、以前は自分の強さだと思っていたものが実際は弱さであったことを知るようになります。プライドや自信は私たちを神の助けから引き離していたのでした。 多くの自分のアイディアとか願いという喧噪、騒音が、神の小さく細いささやきをかき消していたのです。人間にとっては最高級の成功でも、神の目から見ればまことに「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸(黙示録3:17)」なのです。

成熟したクリスチャンは聖く、又、力がある

 

やがて私たちは、すべての真の強さ、すべての真の有効さ(即ち、私たちの聖さそのもの)は、自分に欠けているもの、自分の足りなさを発見したときに始まることを見出します。私たちはだんだん弱くなり、自分の能力に対して自信を失っていきます。自分を正しいとする自己義認の外殻が壊されるとき、聖さと力を 叫び求めるすべての人はイエスご自身が神からの答えであることがわかるのです。

 

私たちは、「自分には霊的賜物がある」とか「自分は聖い」と思い込んだり、或いは人間的な成功で喜んだりするかもしれません。しかし 、自分を正しいとする自己義認を捨て去ってキリストをはっきり見るまでは、私たちが持てるのは、一番良くてもせいぜい「宗教」でしかないのです。

 

是非この真理を両手でしっかりと掴もうではありませんか。逃してはなりません。イエスご自身が私たちの聖さの源なのです! 私たちは主のために何かをしようと一生懸命です—自分の内面を変えなくてもいいならば何でもしますと。神は私たちに出来ることなど必要としておられないのです。神は私たちそのものをほしいと思っておられるのです。神は私たちを聖い民にされたいのです。聖くなるプロセスを早めようとあせらないようにしましょう。 私たちの 深い部分を整えられる御業を神にしていただきましょう。イエスは一つの力ある業をなされる前に、30年間の罪のない純潔な年月をすごされました!主の目標は偉大な業をすることではなく、聖い人生をもって御父を喜ばせることでした。

 

よく聞いてください。それと同じように私たちの目標は強い力を持つことではなく、キリストの臨在の伴う聖い者となることです。自分のキリスト教が効果的であることを望まれますか?それならば、キリスト御自身をあなたの聖さの源、目標として求めてください。あなたの人生のなかに神の力を見たいですか? そうであるならば、キリストの心の純潔さを知ることを求めてください。イエスによって「わたしの民」と呼ばれる者になるためには、私たちは聖さにおいて成長していかねばなりません。成熟したクリスチャンは聖く、且つ力のある者です。しかし聖さが力に先立たねばなりません。(おわり)

 

Francis Frangipane 
Ministries of Francis Frangipane 
Email: francis1@frangipane.org


02 02月

ACPEによる2011年の主の言葉 シンディー・ジェコブス 2011年2月3日


ACPEによる2011年の主の言葉

 

シンディー・ジェコブス

 

ACPE(Apostolic Council of Prophetic Elders 預言的長老の使徒委員会)は毎年、主から預言を受けることを目的として会合を開きます。 この会は信望ある預言者の集りであり、彼等は使徒行伝13:1−3を模範とすることを信じている者たちです。この聖書箇所は、単一の預言者が聖霊から御言葉を与えられるのでなく、預言者グループの一人ひとりが聖霊によって示されたものを照らし合わせ、それが主からの御言葉であると認めるというプロセスを通して機能していることが書かれています。ですから、これは各自がこの円卓会議にも持ち寄ったものを編集したもので、聖霊が私たちに語って下さった御言葉であるとACPEのメンバーが一致したものです。

 

ACPEは1999年以来会合を持ってきましたが、今年初めて、最近台頭してきている若いリーダーたちも招きました。その結果、今までで最も力強く主を求めることができたと思います。会合の最後にはインパーテーション、霊的分与の時がもたれました。

 

私たちはこれを「2011年への預言」と呼んではいますが、預言が成就するタイミングはカレンダーの一年という枠にはめられることはないので、むしろ「今シーズンの預言」と言ったほうが適当だと思います。

 

又、これは人々がこの御言葉にどれほど従順に応答するかどうかによって、私たちが聖霊によって見たよりも、遅延したり、変ったり、修正されたりすることも覚えてください。

 

変化、 移行の年

 

今年は天が開かれる、オープンヘブンの年になるか、それとも荒れ狂う嵐、パーフェクトストームの年になるかのどちらかです。

 

「11」という数は聖書では変化、移行という意味を持っています。2011年は私たちがある場所から他の場所に移行する年です。年が終るときに自分がどこにいるかは、聖霊の導きにどれだけ従順に応答するかに多分に懸かっています。

 

2011年は大きなプレッシャーとストレスの年になるでしょう。特に、最初の3ヶ月はそれが顕著で、あたかも敵の軍勢と正面から対決するような時となるでしょう。

 

ティッピング・ポイント( 秤のバランスが傾く転換点)の年

 

このシーズンのプレッシャーの中で、もし私たちが弱気になり気力をなくすと、 計りのバランスは私たちの反対側に傾き、大きな損失と敗北を経験する可能性があります。

 

海峡の年

 

「11」という数は、例えばスペインとモロッコの間にあるジブラルタル海峡のような場所に似ているといえます。私たちはそこで時として窮屈さを感じます。だんだんに狭まって行く場所を通ることによって、もし、私たちがそのプレッシャーに負けなければ、神が今シーズン私たちのために用意しておられる新しい場所に 、私たちを導いてくれるのです。

 

産道

 

「11」に関して主が与えてくださったもう一つの比喩は、産道です。生まれてくる赤ちゃんは、心地よいお母さんの胎の中から、圧迫され大変な産道を通って、新しい大いなる人生へと生まれ出て来ます。

 

夢を見る

 

ヨセフは自分が見た夢を11人の兄弟(創世記37:9に11の星として表されている)に話しました。そのことは兄弟関係に大きな軋轢をもたらしました。神は今年、夢やヴィジョンの大いなるシーズンを、若い者たちにも与えられます。人間関係に注意して見張り、もし問題が起きても自分の心を常に義しく保ってください。

 

大いなる期待の年

 

思いがけないことがきっと起こる年

 

ヘブル11:11が鍵です。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実・忠実な方として考えたからです。」

 

奇跡を期待してください!あなたの人生で、「なかなか叶えられない希望」という名の不妊を神は打ち破りたいのです。多くの者が移り行く時の中で自分の夢をあきらめ、小さなことしか信じられなくなっています。神の御国は拡大し続ける御国であり、神は後退ではなく前進の神です。

 

今は「神が言われたことはその通りには実現しない」とあきらめる時ではなく、「不可能なことはない」と信じる時です。神は人間のように嘘をつく方ではありません。神がある事をされると言われたのならば、ご自分の心を変えられることは決してありません。

 

準備の時、神と更に深く交わる時

 

試煉と火のシーズンの中で退かない者たちには、この変化、移行の年に新しい仕事assignmentsが与えられるでしょう。もっと神の深みに入り、神の臨在から新たな力を汲み出してください。そうすれば前進と油注ぎのある新しい場所に行くことができるでしょう。

 

箴言20:5「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。」

 

創造的な奇跡(クリエイティブ・ミラクル)

 

創造主なる神が創造の奇跡を解き放たれるので、奇跡のレベルが増し加わります。それはヒューマニズムや理知主義に真っ向から立ち向かうものです。

 

ダビデの幕屋の回復

 

今年はワーシップが再び大きく強調されます。ワーシップが鍵です!24時間ワーシップをする場所が新しく世界中に沢山出来てきて、その結果として国々の上に天が開き、多くの魂が救われます。今は収穫の時です!

 

使徒行伝15:16−17「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」

 

芸術、芸能界での大いなる収穫

 

芸能界、映画界で神のものすごい働きが起こるでしょう。大胆で新しい、福音を恥としない声が起こり、多く者が彼等の証しに耳を傾けるでしょう。

 

アメリカへの言葉

 

今アメリカは危機的状況への瀬戸際に立たされています。ですから今、祈りや義と公正のために行動することに倦んではなりません。このシーズンが与えるプレッシャーの中で娯楽に走ってしまわないで、今あなたの回りで起こっていることをしっかり把握しなければなりません。

 

攻撃が来る夢やヴィジョンを多くの者が見ています。私たちはテロリストからの攻撃を注意してよく見張らねばなりません。

 

私たちに与えられたイラストレーションの一つは「お前はランブルする(戦いのうなり声を上げる、揺り動かす)備えができているか?」という言葉です。これはレスリングの試合が始まる時にファンが熱狂して叫ぶ言葉です。この叫びはレスラーたちに試合開始が真近であることを伝えるだけではなく、群衆の中に高揚した期待感を涌き上がらせるのです。神は今アメリカのクリスチャンにむかって「あなたはランブルする用意ができていますか?」と聞いておられます。試合が始まろうとしています。神がこの国で次にされることを期待する私たちは興奮の頂点に達していなければなりません。

 

2011年はアメリカの歴史の中で最も重要な危機的な年の一つです。国家の土台、基盤が燃えて破滅する危機にあります。私たちは断食と祈り、又特別の方法をもって天と地を「ランブル 揺り動かす」必要があるのです。

 

時迫る第11時! 11−11−11

 

11−11−11という日付は、 第11時(マタイ20:6参照、 即ち、終末に近いとき)である現在にとって、特に重要な意味を持ちます。‘

ヨハネ11:11b「わたしの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」

 

メイフラワー誓約書は1620年11—11に調印されました。神は今、危機に面しているアメリカを目覚めさせるために堅く立って戦うと、神と人に対して誓約する新しい世代の改革者を求めておられます。

 

 

箴言11:11「直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。」

 

世界

 

世界的規模で学生によるボランティア活動が地球上至るところで生まれようとしています。20世紀初頭に学生によるボランティア活動が初めて起こったときと同じように、今回もサタンは必死で戦争を起そうとします。第一次世界大戦の勃発により学生たちは戦場に送られ互いに戦うこととなり、学生のムーブメントは絶たれてしましました。私たちは第三次世界大戦が始まることがないように祈らねばなりません。サタンが自分の目的を果たすために世界情勢を加速度的に悪化させているからです。

 

詩編110:3「あなたの民は、あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれをささげるであろう。あなたの若者は朝の胎から出る露のようにあなたに来るであろう。」

 

韓国

 

韓国のために特別な祈りが捧げられねばなりません。非常に偉大な宣教のムーブメントが韓国から起こることが定められていて、それは地の果てまでとどくでしょう。

 

私たちは又、李大統領は北朝鮮からの挑発に対して堅く立たねばならないと強く感じました。

 

中東

 

私たちが中東へのとりなしを始めなければ、クリスチャンに対する大きな迫害が起こるでしょう。しかし、シリヤ、エジプト、サウジアラビア等の国々の若者から神のムーブメントが起こり、彼等は自分の命さえも惜しまないでしょう。

 

経済

 

私たちはハイパーインフレーション(超インフレ)にならないようにとりなさねばなりません。もしそれが起こると人々は世界宣教のために捧げる力をなくしてしまうからです。

 

知的財産

 

神から知的財産として アイディアが与えられ、そこから生まれる新しい富が大いに解き放たれます。神の御国の前進のために富を用いる人たちに、新しい創造的アイディアの油注ぎがあります。

 

子供たち

 

世界規模の大いなる子供たちの覚醒がまさに起ころうとしています。子供の伝道者が教会や大競技場でメッセージを語り始め、何千人もが救われ癒されるでしょう。(終わり)

 

 Compiled by Cindy Jacobs, ACPE Convening Apostle 
Generals International Email: generals@generals.org

 


22 01月

教会を運営する牧師の働きについて リック・ジョイナー 1月23日2011年


教会を運営する牧師の働きについて

 

リック・ジョイナー

 

牧師の働きについて書かれているのは新約聖書の中で一箇所(エペソ4:11)だけで、教会を立て上げるために与えられている他のミニストリーと共に書かれています。牧師の働きの定義や説明も新約聖書には書かれていません。それにも拘わらず、牧師という一つの働きが三世紀以降、教会の指導権を実際的には握ってきました。この聖書箇所からわかるように、 新約時代にあるべき真のミニストリーの姿はチーム・ミニストリーであり、 本当に調えられた教会になるためにはすべてのミニストリーを私たちは受ける必要があるのです。

 

ほとんどすべてのプロテスタント、福音派、ペンテコステ派、カリズマ派は、牧師という肩書き、タイトルを持った人によって導かれていますが、彼等の中には聖書的な意味での「牧師」はあまりいません。これは彼等が真のミニスターではないということではなく、ほとんどの人が、本当は教師、伝道者、預言者や或いは使徒であることが多いということです。しかしほとんどのクリスチャンは牧師というタイトルに馴染んでいるので、教会を指導する人は「牧師」というタイトルを持つことになるのです。それはそれでまずまずよかったのですが、これからの時代には私たちは教会の指導力に関してもっと聖書的になる必要があるでしょう。

 

新約時代の預言者の働きを説明するためには、新約のチーム・ミニストリーがどのように意図されたものであるかを調べる必要があるでしょう。預言者を始めてとして、教会を調えるための他のすべてのミニストリーを本当に理解するためには、ミニストリー同士の相互関係を先ず理解する必要があります。これはすべての新約のミニストリーに関して言えることでもあります。一つ一つは教会に与えられているチーム全体の光に照らして検討されねばなりません。

 

多くの人は旧約の預言者を新約の預言者のモデルとしてきましたが、それは誤りです。預言の賜物自体は旧約時代、新約時代を通して同じかもしれませんし、啓示のタイプも似ているかもしれません。しかし、その適応が同じではないのです。旧約時代に預言者は、イスラエルが主なる神から離れている事を警告し、又 王たちにさえ度々警告しましたが、それは預言者が単独で行いました。しかし新約の時代の預言者は、キリストのからだを立て上げるチームのメンバーの一人なのです。聖書の中で新約の預言者たちが大きく用いられている場面を見ることができますが、人々を正すのは使徒や長老たちを通して行われたのであり、預言者一人でしたとは一度も書かれていません。

 

エペソ4:11から分かることは、 教会を立て上げるためのすべてのミニストリーが持つ中心的目的は聖徒を調えることであり、 ミニストリーの働きをするのは聖徒たちであるということです。ですから預言のミニストリーが持つ主要な働きは聖徒を調えるということであり、調えるとは、すべての神の民が神の御声を知り預言さえもできるように助けることと関係しています。第一コリント14:31で「あなたがたは、みながかわるがわる預言ができるのであってYou can all prophesy one by one」と私たちは言われています。クリスチャンは誰でもいつでも預言するように用いられることができ、ほとんど全員が少なくとも一度はそのために用いられるでしょう。

 

人間が罪に堕ちてから最初に神と共に歩いたのはエノクでしたが、彼は預言をしたと書かれています。(ユダの手紙14節参照)教会の歴史を見れば、「神と共に歩く人はすべて預言をするであろう」と言っても過言ではないでしょう 。神が今も預言を通して語られることを信じていない人が、非常に正確に預言するのを私は聞いてきました。ただ彼等はそれを預言だとは呼ばないだけなのです。

 

預言のミニストリーは将来のことに関する啓示を受けるだけではありません。しかしこれは預言のミニストリーの重要な一面です。 将来に関する預言的啓示が与えられるのは、神と共に歩いた人たちに与えられてきた特別な伝統的遺産であり、これからの時代にとってはますます重要な賜物となります。預言者は旧約聖書では予見者とか見張り人と呼ばれています。それは「見ること」が彼等の仕事だったからです。イザヤ29:10では、預言者は「目」であると言われています。即ち、彼等はキリストのからだの 「目」なのです。預言者がからだの目なのですから、預言のミニストリーのない教会は事実上基本的な部分で盲目なのです。

 

使徒パウロがコリントの人々に 警告したように、からだの一部分が他の部分にむかって「おまえは不要だ」と言うべきではありません。しかし実際からだの大部分が今までこのように言ってきたのであり、それは預言者に対してだけではなく、他のミニストリーに対しても「おまえは不要だ」と言ってきたのです。

 

ほとんどの教会は自分たちが盲目であることを知らないかも知れません。なぜならば彼等は動いていず、どこにむかっても進んでいないので、暗いところでもつまずかないのです。しかしながら、そういう教会がもし動き始めたならば、預言的ヴィジョンがなければつまずいてしまうでしょう。まあ、手探りで這いずりながら進むことはできるかもしれません。しかしこれからの時代には、その教会やミニストリー、ミッションが預言的ヴィジョンがあるかないかの差が非常に大きく顕れるでしょう。

 

使徒行伝2:17−18には、「終りの日」に主が聖霊を注がれることが書かれていますが、その結果はヴィジョン、夢、預言という形で預言的啓示が与えられるということです。これは「終りの日」には必要とされることなのです。なぜならば、終末に近づいている今、私たちはこれまでよりもっと預言的導きを 必要とするようになるからです。(終)

 


16 01月

イスラエルの二度目の回復 リック・ジョイナー


イスラエルの二度目の回復

 

リック・ジョイナー

 

イザヤ11:11「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。」

  

これは私の2011年最初の文であり、又、今私たちは神の御声を知り神が教会に与えられた預言の賜物について学んでいるので、今回はクリスチャンが多分一番多く受け取っているメッセージの一つについて話したいと思います。私が最も頻繁にされり質問は、「11−11は一体何を意味しているのか」というものです。時計を見ると丁度11時11分だったことが何度もあるとか、その他のことにおいても、多くの人々が過去何年にもわたって「11−11」を与えられているのです。今年の元旦は1/1/11、あるいは1-1-11でした。これは普通2度目の機会、チャンスを指していて、それが又、イザヤ11:11のメッセージでもあります。なぜならば、神はイスラエルを彼等の地に2回目に回復させることを約束されているからです。

 

今はイスラエルが台木—神ご自身—に再びつぎ合わされる時

 

イスラエルがイザヤ11:11のメッセージを受けた時は、彼等の地からまだ一度も散らされたり集められたりしていない時でした。終りの時のしるしについて人々がイエスに質問したとき、主が言われたことの一つは、いちじくの木—これはイスラエルを象徴していますがーをよく考えなさいということでした。イスラエルは際立った預言的メッセージの一つであり、預言者たちは常にイスラエルをじっと見つめ観察しています。

 

イスラエルは人類のバロメーターです。イスラエルの内や外で絶えず紛争があります。紛争があまりにも長く続いており、人々は平和を強く願うあまりに、 平和が得られるならば自分たちの小さな国土の大半を差し出してもいいとさえ考えるようになってきています。しかし、それは平和を生み出すことにはならず、彼等が差し出した土地は彼等を攻撃する基地になってしまっています。彼等の平和は人間の手によってもたらすことは決して出来ず、神によってしか実現しないものなのです。そして、良い知らせは「平和は神から確かに来る」ということであり、それがイザヤ11章の最も基本的なメッセージです。

 

神が私たちに与えてくださったものをあきらめて手放すことによっては、平和は決してきません。そうではなく、神が与えてくださったものに「人との平和」以上の価値を見出し、神の目的を命よりも価値のあるものとみなすことによって、平和は来るのです。今はイスラエルが台木—神ご自身—に再びつぎ合わされる時です。彼等がその地に再び集められはじめている時ですが、それよりももっと重要なことは、彼等が主のもとに再び集められるということなのです。

 

イスラエルは神がご自分の言葉に忠実であられるということのしるしです。エレミヤ31章で主は、イスラエルに対する主の約束が成就されないことがあるとすれば、その前に太陽、月、海の波に定められている法則がまずくずれるであろうと述べておられます。多くの人は、「霊のイスラエル」である教会において神の言葉は成就していると信じています。確かに多くのことに関してその通りなのですが、しかし、神の約束が「肉のイスラエル」のためでもあるということを否定することはできません。主はご自分のみ言葉の多くの箇所で、これらはアブラハムの肉の子孫への約束であることを明確に述べておられます。使徒パウロの「新しい契約の神学に関する最も重要な書簡」、即ちローマ人への手紙の9章から11章を読むと、彼がこのことを断固として主張していることが明かです。この箇所で警告されているように、私たちが「もともとの枝に対して高ぶる」ことは大きな誤りです。(ロマ11:18参照)

 

今年は失われていたものを回復する時である

 

イスラエルの国が再び集められることに関して私たちが受け取るべき中心的メッセージは、神はご自分の言葉に忠実な方であるという事です。私たちが忠実でないときでも、主は忠実であられます。そして主は忠実であられる故に私たちにもう一度チャンス を下さるのです。イザヤ11章全体は、地球が最初創造されたようなパラダイスに回復されることについてであり、それは全地球にとって2回目のチャンスなのです。即ち、イスラエルが「2回目に」集められるというのは、この回復が間近であるしるしなのです。イエスが地上におられたとき以来神の民がずっと祈り求めてきた「神の御国」が間近に来ているのです。

 

今年は失われていたものが回復される年です。多くの約束が成就する年、バックスライドしていた人たちが戻ってくる年です。それは祈り、とりなし、そして多くの場合断食から始まります。ダニエルはエレミヤの預言からイスラエルが彼等の地から散らされている期間は70年であることを知りましたが、彼は「帰る時が来た!」と言ってただ喜んだのではありませんでした。彼は神の言葉が成就するように断食と祈りを開始したのでした。

 

神が約束されたことが成就するために、どうして私たちのとりなしが必要なのでしょうか? 詩編115:16に「天は、の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。主は地上での権威を人に委任されました。それが「私たちが主に願うまで主は地上のことは何もされない」理由なのです。これは又、イエスが人となって地上に来られ仲介者となられた理由でもあり、地上では常にご自分を「人の子」と言われた理由なのです。イエスは神の御子でもありましたが、人が失ったものを回復するために地上に人としてこられたのでした。

 

ですから、今は神の約束が成就される時だと知ったならば、私たちは祈りと断食をもって天と交わり、「いつも生きていてとりなしをしておられる」イエスと一致してとりなし手となる必要があるのです。(ヘブル7:25参照) イエスは永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司であられますが、私たちも同じ位の祭司なのです。この理由により、神の民の持つ最も重要なメッセージと務めとは、私たちが召されているその祭司職を回復することでしょう。(終わり)

 

Rick Joyner
MorningStar Ministries
Email: info@morningstarministries.org


10 01月

栄光の焦点 スタン・スミス 2011年1月11日


栄光の焦点

 

スタン・スミス

 

神は今、どんどんと「オープン・へブン/天が開かれる」という体験を神の民に与えていてくださいます。即ち、イエスのヴィジョンを見る、天使が訪れる、神の栄光にまみえるというような体験です。これらのことは以前にも時々は起こっていましたが、 神は現在、このような体験をもっと頻繁に、そしてもっと多くの人たちに与えておられます。

 

これはイザヤ60:1−2に書かれていることであり、この世が大いなる闇におおわれる時代に神の栄光が訪れるという約束の成就なのです。今の時代のために神が持っておられる目標、ゴールは、教会が光輝くことです。これを実現させるために、神はご自分のより大きな光を私たちの人生の中に注ぎこんでおられるのです。

 

私たちの多くにとってこれは今までになかった新しい体験なので、それを誤って解釈してしまう者も出てきます。天使を見た経験をすると、そこからオーバーな期待を抱いてしまう事もあり得ます。また見当違いな見方をしてしまうこともあります。しかし聖霊の賜物を聖書に基礎をおいて解釈しなければならないことを私たちが学んできたのと同じように、天が開くという体験もそれと同じ扱いが必要であることを私たちはこれから学んでいくことでしょう。

 

私自身が神との出会いを体験してから、私は聖書を新しい目で見るようになりました。それは3、40年前にカリズマ・ムーブメントが始まり教会が聖霊の賜物に対してオープンになった時に私たち多くのものに起こったことを想起させるものです。私たちはそのことが起こる以前に読んでいたのと全く同じ聖書を読んでいたのですが、なぜかそれは新しいもののように思えました。それまで象徴的に受け取っていた聖書箇所が、突然生き生きとして文字通りのものとなりました。

  

今それと同じような感覚があります。聖書に書かれていることは、私たちが思っていたよりも、文字通り真実であることを今私たちは見出しているのです。

 

今ここで私は、一つのなじみ深い聖書箇所が 、今教会で起こっている「天が開かれる体験」という光に照らされるときに新しく異なったものに見えることをお分ちしたいと思います。それは私たちが一つのものだけに焦点を当てることの重要さを語っています。分かりやすくするために、この聖句を4つのポイントに分けて書きます。

 

キーポイント#1:神にあなたのランプを灯してもらいなさい。そうすれば、神があなたを正しい場所に配置される。

イエスは言われます。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」(ルカ11:33)

 

誰がランプを灯すのでしょうか? もし私たちが自分で灯すのならば、それが光る場所に私たちが自分で置かねばなりません。神が灯すならば、神が私たちを配置されます。

 

 

マタイ5:14で、イエスは私たちは世の光だと言われました。ヨハネ8:12では、イエスはご自分は世の光だと言われました。私たちは主から光をもらわなければなりません。主が私たちのランプに火を灯してくださるのです。イエスが燭台の上にランプを置くと言われたとき、その時それを聞いていたユダヤ人たちは神殿の聖所にある7つの灯皿のついた燭台のことを思い浮かべたかもしれません。聖所の火は何世紀も前に神によって与えられましたが、それを燃え続けさせるためには、祭司たちが灯芯を調え灯皿に油を満たすという務めを遂行せねばなりませんでした。

 

私たちのある者は神の火を何年も前に受け、それ以後はその火によって自分が用いられ影響を与えられるような場所に自分を配置する事に時間を費やしてきました。私たちのある者は油が少なくなり、その灯芯はくすぶっています。私たちはバーンアウト、燃え尽きているのです。しかし私たちはレビ人ではありません。私たちは新しい契約の保持者であり、イエスは私たちのランプにもう一度火を灯すことができるのです。それは実際にはどのような事を意味するのでしょうか?

 

キーポイント#2:あなたの目はランプである。あなたが何に焦点を当てるかによって、あなたがどれほど明るく輝けるかが決定する。

 

「良い目」とは、単純にただ一つのものを見つめる純粋な目のことです。それは私たちが真心をこめて純粋にイエスに焦点を当てるという意味です。イエスは「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いとからだも暗くなります。」と言われました。(ルカ11:34)

 

何年も前のことですが、私は謙遜になろうと努力しました。しかし、それは勝ち目のない戦いでした。そしてやがて私は自分自身を見るのではなくイエスを見ることを学び始めました。主は謙遜なお方です。主に従っていくうちに私は主のように行動することを学びました。これは助けになることの一つです。

 

しかし、もう一つ私が謙遜について学んだことは、もし私が自分の心のうちを探るならば、謙遜は不可能になるということでした。ある時には私には謙遜がないことがわかりました。それよりもっと悪いのは、確かに自分には謙遜があることを発見しましたが、それを称賛した途端に私の謙遜はもう消えていくことでした。

 

何年も経ってから、私は 信仰に関しても同じことを学びました。自分は本当に信じているのかと自分の心を探ると、信仰は逃げていってしまいます。私が自分と自分が祈っていることの不可能さから目を離し、イエスを見上げると、信仰が自然に起こります。私たちがイエスに焦点をあてると、私たちのからだは謙遜と信仰の光で輝くでしょう。私たちが何かイエス以外のものに焦点を当てるときに、問題が起こるのです。

 

キーポイント#3:イエス以外のものに焦点を当てることは私たちの光を弱める

 

 主にだけ焦点を当てていることは努力のしがいがあることです。間違ったものに焦点を当てるならば、私たちのうちは暗やみで一杯になるでしょう。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」と言われました。 (ルカ11:35)

 

私たちは全員このようなことを経験してきました。ミニストリーのあれやこれやの様々な問題に焦点を当ててしまうと、私たちの灯火は暗くなるのです。イエスに焦点を当てれば、明るく輝くのです。

 

時には霊的戦いをする中で、私たちに見えるのはサタンがしていることだけになってしまいます。私たちはダビデのようでなければなりません。彼は自分の肉の目を巨人に向けていましたが、心の目はヤーウェに焦点を当てることによってゴリアテに打ち勝ったのです。

 

私たちがイエスに焦点を当てるとき、私たちの霊的感覚が開かれます。しかし私たちが他のものに心を捕らわれてしまうとき、それを想像するようになってしまいます。それはちょうど静電気が起こると私たちの(神の御声を聞く)聴覚が妨げられ、曇りガラスを通すと私たちの視覚が曇るのと同じです。神からの指示をもっと明瞭に知るために、あなたの集中力をイエスから逸らすものは容赦なく断ち切ってください。

 

神はレビ人にウリムとトンミムを与えて民を導くようにされました。この二つの言葉は文字通り「光と廉潔 lights and integrities」        

という意味です。光は神が与える啓示です。廉潔は心の潔癖さ、単一さであり、動機の純粋さです。

 

イエスは父からの光と 一つのことを見つめる潔癖さとで生きておられました。主は当時の「宗教の霊に捕らわれた人たち」に抵抗されましたが、宗教家たちの堕落に焦点を当てられることはありませんでした。そうではなく、主は常に父がしておられることだけをじっと見ておられたのです。主は一つのことだけを見ておられたのです。

 

キーポイント#4:神の戦術は私たちをもっと明るい光にし、その光を輝かすことの出来る場所に私たちを配置すること。

 

自分を配置するのは私たちの仕事ではありません。私たちの仕事は主に焦点を当てることであり、そうすれば私たちのからだは光で一杯になります。もしサタンがやって来ても、サタンが「俺のものだ」と言える暗やみを私たちの中に見出すことはできません。

 

「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかり(ランプ)が明るく輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」ルカ11:36

 

私たちはイエスをどのくらいはっきり見ることが出来るでしょうか? どのくらい頻繁に? どのくらい一貫して? これが私たちの明るさを決める鍵でしょう。そしてその明るさによって神が私たちを配置される場所が決まります。神が天を開いておられる今、私たちはイエスに焦点を当て続けることに心しなければなりません。いろいろな現象が起こってくるでしょう。使徒行伝に書かれているようなことが。オープン・ヴィジョン、天使からのメッセージ、大きな奇跡など。それらが起こったときはそれを楽しみ、そこから力を得てください。しかし、それよってあなたがイエスから目を逸らせてしまうようなことは決してあってはなりません。主を見つめることがあなたのランンプを燃え続けさせるのです。(終わり)


 Page 82 of 131  « First  ... « 80  81  82  83  84 » ...  Last »