Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
03 12月
プレイズとワーシップの違い
スコット•フィリップス
プレイズ(賛美)とワーシップ(礼拝)には大きな違いがあることを理解することは大変重要です。まずプレイズについて次の3つの事を理解することが大切です。
プレイズは自然なもの
聖書が多くの箇所で明確に語っていることですが、自然界のものはすべて、唯一まことの神を生き生きと賛美しています。
詩篇96:11−12「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは、鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」
すべての被造物は、創造主への絶え間ない賛美に参加しています。バラの花、草の上の露、或はふくろうの鳴き声や牛のモーという声など、すべての自然界は創造主を賛美していると言ってもよいでしょう。朝小鳥がさえずる声や夕方のコロロギの鳴き声の中にはメロディーもあります。これらはすべて神によって創造されたものたちの賛美の合唱の中で歌っているのです。
プレイズはすべての者がすること
エルサレムに入城されるイエスを群衆は喜んでむかえ賛美しました。主は、彼らをしずめるようにと言われた時、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」と言われました。これは賛美が止む事はないことを語っています。天の軍勢も自然界もすべてが賛美しているのです。
聖書は「すべてのものはひざをかがめ、すべての口が『イエスは主である』と告白する!」(ピリピ2:10−11)と言っています。今主を賛美するか、それとも後になってから賛美するかのどちらかですが、いずれにせよ、あなたは必ずイエスを賛美するのです。
プレイズするのに才能は不要
賛美は自然で誰もがするべきものですから、賛美をするためには何の才能も徳も必要ではないことがわかります。賛美をする理由は数えきれないほどあります。健康や富や知恵を与えられていることで私たちは神を賛美します。又、家族や家や必要な物を与えられていること、或は癒し、いつも守られていることに関して神を賛美します。これらは主がしてくださったことを感謝する賛美です。
ワーシップとは何か
それでは次にワーシップについて考えてみましょう。誰でもすべての人は、意識的に、或は無意識に神をワーシップしています。しかし実のところワーシップは、気弱な人のものではありません。それはプレイズとは全く異なるものです。聖書で最初にこの言葉が用いられたのは次の箇所ですが、「言葉はそれが聖書の中で最初に用いられたときの状況がその意味を最もよく表しているという法則(the Law of First Reference)」によるならば、私たちはここからワーシップの意味を深く知ることができると思います。
創世記22:1−5
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出掛けて行った。三日目にアブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたはろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝(worship)をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言った。
ワーシップは決して一面的なことではなく、多くの要素を持ち、多くの事柄を網羅していることを理解することが大切です。
真のワーシップの3つの面
1.真のワーシップは「降服 Surrender」する行為
アブラハムは、自分の希望、信仰、夢をすべて神の御こころと御手に委ね、降服することを決意して旅に出ました。
2.真のワーシップは「服従 Obedience」の行為
アブラハムは神から命令を受けたとき、何一つ疑いや不平なしに、それを果たすための作業に取り掛かりました。これは私たちには簡単なことではないかもしれません。多分ぶつぶつと不平を言うかもしれません。しかし、私たちが絶対的な服従という境地に到達するならば、その時こそ私たちは「ワーシップの領域」へと入っていけるのです。
3.真のワーシップは「いけにえ Sacrifice」の行為
いけにえはワーシップを完全なものにするための鍵となる要素です。いけにえのないワーシップはワーシップではありません。
ワーシップに必要なもの
アブラハムは旅に出るとき、3つのものを持っていきました。真のワーシップをなすためには、私たちは正しい材料を用意し携えて行かねばなりません。
1.薪
すでに死んでいるもの、火がつきやすいもの、燃えてしまうもの。即ち、いろいろな問題や疑いなどであり、すでに死んでいるもののことです。誰でもそのような薪をもっています。もしあなたが神のために生きているならば、火を燃やすに充分なたきぎを集めることができるはずです。
2.火
熱いもの、光があるもの、すでに死んだものと死ぬべきなのにまだ生きているものを焼き尽くすもの。火はそれに触れるのものすべての分子構造を変えます。あなたが薪に火を近づけると、死んだものを燃やすと共にその中でまだ生きているものを取扱い燃え尽くす環境を作りだすことができます。
3.刀
ワーシップが本当に始るのはここからです。誰でも火はおこせますが、いけにえのないワーシップはただの野外料理です。私たちがすべてのものを捧げて祭壇に置くならば、その時、神が私たちの人生にもっと豊かにかかわってくださるのです。
「すでに死んだもの」を整え並べたならば、あなたは火を燃やし始めることができます。そしてそれは同時に神が捧げることを要求された「まだ生きているもの」の上に刀を振り上げる時なのです。あなたが賛美を超えて神の臨在の中に喜んで入りワーシップするとき、神はあなたに約束だけではなく確約をくださるのです。あなたが賛美の歌を歌うだけではなく、もっと奥深く神の臨在へと入って行く事を心から願うとき、あなたは想像をこえた神の祝福を受け取るのです。
ワーシップは人類に与えられた究極の光栄な特権です。御父が求められるのはまことのワーシップであり、そこは天使さえも入りたいと願う領域なのです。しかしそこはあなただけが占めることができる領域です。あなたには他の誰にも歌えない歌があるのです。あなたには他の誰にもない捧げものがあるのです。あなたは他の誰にも輝かすことのできない光を持っているのです。
肉のヴェールを超えるとき、聖霊の富と栄光があなたを待っています。(終り)
25 11月
神の車線に合流せよ
ハキーム•コリンズ (Hakeem Collins Ministries)
ある時、私が祈っていると、主が預言的なヴィジョンを与えてくださいました。ヴィジョンの中で、狭い道路に「合流地点」という標識が立っているのが見えてきました。その意味を主に尋ねると、神はキリストのからだが迎える次のシーズンについて語ってくださり、私たちがどう決定するかによって私たちの目的地が決められる、と言われました。
私たちが今という重要な転換期にする決断は、これから数ヶ月、あるいは一年間の私たちの歩み方を決定することになるのです。神は、私たちはこの年を最後まで力強く歩むと言われました。
目的地に着くために私たちが神に示された道を進もうとする時、敵は私たちを混乱させ、挫折させ、妨害し、中断しようとしてくるでしょう。「合流地点」という道路標識は、キリストのからだに対して「心してしっかりと物事を考察し、主に従って信仰をもって行動するように」と注意を促すために主が置かれたものだと信じます。それと共に、今は物事が移り変わる時であり、あなたが自分の行動をシフトし変えていく時だと主は言っておられるのだと思います。
聖霊の導きに従うならば、私たちは少しづつゆっくりと進み始め、体制を立て直し、次のシーズンに何をするか賢明な決断をするようになるでしょう。私たちは今、単に「次の」シーズンというだけではなく、「まさにこのシーズン!」という特別な時に入っているのだと思います。主の民が「リスクをも辞さない信仰」を持って賢明な決断をすることによって、主が用意されているものに素早く到達することを主は願っておられるのです。
合流
「合流 merge」の定義は、「~をもたらす、合併、合体、合同、混ぜ合わせる、徐々に合体する」です。
主は、私たちが「主の御こころ」や私たちのための「主のご計画」に合流することを望んでおられます。「御こころが天でなるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るべきなのに、しばしば私たちは、自分のやり方で行動し、自分の考えや思いで物事を進めて、どうかそれを成就してくださいと主に願ってしまいます。
神は一つの方向に向かって進んでおられるのですが、人生という対面通行の道路で神とは反対の方向に進んでいる人たちがいます。人生では時として、自分がやりたい事に振り回されて、神の示された道とは反対方向に進んでしまうこともあります。
神は今シーズン、私たちが自分のヴィジョンや心配事、夢、願望、目的を主に明け渡すならば、主が私たちに望まれる完全なご計画と到着地点を教えてくださると言われています。
私たちの多くは、ぐるぐると同じところを回り、右折する場所や出口を逃したりしているのです。しかしこれからは、聖霊が突然あなたの人生に来られて、主があなたのために用意されているものの方に合流するようにと合図されます。霊的挫折や衝突や事故はもう起りません。今は聖霊の導きによって正しい決断をするシーズンです。
神は定められた目的地にあなたが安全に遅れることなく到着するのを願っておられます。次のシーズンの到着予定時間は超自然的なものとなるでしょう。今あなたが下す決断は、目的地にいつ、どのように到着するかを決めるデスティニーの決断となるでしょう。神は他の人々のように広い道を選ばないようにと言われました。主は「主の道」に合流するようにと言われています。それは狭い道ですが、あなたの地上での召し、目的、任務を全うする道なのです。
このシーズン、主が「あなたのヴィジョンを主のヴィジョンに、あなたの願いを主の願いに、あなたの意志を主の意志に」と合流させようとされています。その備えをしてください。あなたは聖霊の助けと導きを得て、素早く預言の成就に到達するでしょう。
「あなたが神と共に進むスピードを落とさせるもの、即ち、障碍物、邪魔物、サタンが起こす回り道や妨害を、わたしは取り去っている」と主が言われます。今はシートベルトをしっかりしめて、成功への道を運転する準備をする時です。
神は渋滞を取り除く
神からの夢や目標を成就するのに近道はありません。しかし、あなたの人生の中の渋滞や、あなたの希望を奪い恐れを与える多重衝突を主は取り除かれます。
「あなたが自分のヴィジョンを神の御こころと合流させると決断したことによって、あなたははっきりと見えるようになった」と神は言われます。あなたが前方を見るための視力をぼやけさせてしまう人や場所や物事を、神は取り去られます。
あなたはあなたのデスティニーを成就する道を今走っています。ぐずぐずしている暇はありません。人生のあらゆる状況の中を主が導いてくださるので、あなたはガス欠状態で走るのではなく、聖霊という燃料と知恵で走るのです。
デスティニーの決断の鍵はあなたの手に
慌てることはありません。神はあなたが主のうちに安息し、じっくりとよく考えて、慎重に進むことを願っておられ、あなたが狭い道を選び取り、デスティニーの道へと合流していくことを主は願っておられます。
イザヤ35:8「そこには大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。」
マタイ7:13−14「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
ルカ13:24「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」
門は開かれ、あなたの目標へのハイウェイがあるのです。あなたの行動、言葉、宣言があなたの人生を決めていくのです。これらの聖書箇所を見てください。
今このシーズンにあなたがする決断はあなたのデスティニーと関連しています。人生で行きたい所に行く車の鍵は、あなたの手の中にあるのです。その鍵で何をするかは、あなた次第です。神は今もあなたに話しかけ、指示を出し、指差し、合図をして、あなたを失敗ではなく成功に導く目標への一方通行の車線にあなたが合流するように導いておられます。あなたがすると決断したことをあなたは宣言するのです。
ヨブ22:27−28
「あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。
あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道に上には光が輝く。」
あなたが成功するかどうかは、今この時、あなたが神の指示、導き、御声に従うかどうかによって決まるのです。今日神の車線に合流し、明日神の恩顧と祝福を経験してください!(終り)
19 11月
人生の目的の書
ダグ•アディソン(InLight Connection)
ユダヤ暦で新しい年となり、新しい霊的シーズンが始まりました。今年主は、今まで苦しんできた人々にフェイバー(特別な厚意)を解き放っておられます。事が思うように進んでいないように見えましたが、主はあなたへの約束を成就されようとしています。約束の成就が遅くなっていることに落胆してはいけないと主が言っておられるのが私にはずっと聞こえています。なぜならばそれはこれから起る偉大なことに私たちを整えるために必要な時間だったからです。
ハバクク2:3「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終りについて告げ、まやかしを言ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」
3つの書が開かれる
私は天にある3つの書が、今年開かれるのを見ました。
1。悟りの書
2。サタンの策略の書
3。人生の目的の書
神は人生の目的に対するあなたの更なる悟りを解き放っています。敵の策略を教えてくださり、あなたが障碍を克服するための戦略を明らかに示してくださいます。天にある書物は霊的なものです。それには私たちの人生に対する召しや任務、又、預言的指示が書かれています。
聖書の中には書物や巻物に関する記述がたくさんあります。イエスもルカ10:20で「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」と語られていますし、黙示録13:8には「小羊のいのちの書」のことが書かれています。
今は、あなたの人生に関する(特に新年に関する)天の書物が開かれる時です。
詩篇139:16「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物のすべてが、書き記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
悟りの書
ダニエル12:8−10「私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。『わが主よ。この終りは、どうなるのでしょう。』彼は言った。『ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。...しかし、思慮深い人々は悟る。』」
主は今年、今までよりも深遠な啓示を開かれていて、あなたのシーズンと召しに関する悟りの書が今開かれています。更に深い洞察、知恵、啓示を受け取る備えをしててください。
イザヤ29:11「そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを読み書きのできる人に渡して、『どうぞ、これを読んでください。』と言っても『これは、封じられているから読めない。』と言うであろう。」
今まではあなたに理解できなかった事柄を主が解き明かしてくださるのを見ていてください。
サタンの策略の書
エレミヤ11:18「主が私に(敵の策略を)知らせてくださったので、私はそれを知りました。」
私は夜のヴィジョンで、多くの人々に対する敵の策略の書を見せられました。そのヴィジョンで見た私に対するサタンの策略の書は膨大で、ページはボーっとかすみ、細かいことは読めませんでした。私のうちに神の義が立ち上がるのを感じ、私は天の法廷に入り、正義を求めて嘆願し、サタンの悪だくみを教えてくださるように主に求めました。
このヴィジョンを見たのは2017年でしたが、その時私は「このヴィジョンはこれで終りではなく、まだ続きがあるに違いない」という感じを持ちました。このヴィジョンのことは今まで忘れていたのですが、今月(2019年10月)、あたかもそれが今起っているかのように、主は私をその場面に連れ戻してくださいました。すると前はぼーっとかすんでいたベージが今度ははっきりと見えて、私はサタンの策略を知ることができたのです。
ダニエル2:22「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」
主が言われました。「今までは暗やみにかくされていたサタンの策略を、今わたしはあらわす。サタンの策略の書は今開かれる。」
人生の目的の書
イザヤ書にある主の目的の書が天で黄金の巻物のように解かれるのを私は見ました。これはまさにイエスがルカ4:18−19で読まれ、主の地上でのミニストリーの開始を宣言された巻物でした。これは私たちのための主の目的の書です。
この年は私たちが成し遂げるために生まれた目的が開始される時となるでしょう。これが新しい年の預言のことばの中心となるものです。イザヤ61に関する多くのことがこれからどんどんと起ってくるでしょう。
イザヤ61:1−2「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、..」
主は人々を暗やみから解放するために新しい力をもたらしています。先が見えない不安という暗い牢獄の中で、人々が失望し抑圧されているのを私は見ました。主は扉を大きく開けて、闇夜や荒野からあなたが出るようにされています。あなたがそこから出て来るならば、新しい任務と人々を助けるための油を受け取るのです。
イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」
あなたの嘆きは終ります。この年は新しいシーズンの始まりであり、あなたは前のシーズンの灰を投げ捨て頭の飾りを受け取るのです。主はこの年、人々を新しい場所に植えられ、主の栄光を現す者とされます。
イザヤ61:4「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」
破棄された召しや任務、実現しなかった約束を、神が表し示されるのを注意して見ていてください。これはあなた個人のことでもあり、又都市や国家にも影響を与えるレベルのことでもあります。暴力や犯罪で満ちていた多くの都市や町が、今主の愛に目覚めようとしています。
イザヤ61:5−6 「他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、
外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」
主はこの年、物事を経済的にシフトします。神が人々を召しておられる御国のプロジェクトのための資金を生み出す戦略が立てられるでしょう。新しい厚意と助けがあなたの周りの人々から来るでしょう。
イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、
とこしえの喜びが彼らのものとなる。」
今年は、二倍の祝福の年であり、二倍のものが天から解き放たれます。
イザヤ61:8−9「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの喜びが彼らのものとなる。彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主の祝福された子孫であることを認める。」
主は公義をもたらし、過去の損失、損害を償われます。あなたの家族や思いがけない人たちに神が働かれるのをよく見ていてください。
イザヤ61:10−11「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」
主が今までずっと待ち続け悲しんでいた人たちに、活力と喜びをもたらしています。新しい霊的な権威がもたらされ、主がさらに深く親密な交わりの中でご自分をあなたに現されます!今は驚くべき神の方向転換のときであり、物事は突然シフトするでしょう!(終り)
10 11月
本当のイエス
フランシス・フランジペイン
嵐? 幽霊? それともイエス?
イエスは常にあなたの信仰を完全なものにしようとしておられることを忘れないでください。(ヘブル12:2)本物のイエスならば、 あなたがいつか「不可能なもの」と正面から向き合い、不可能を可能とする神の力を信じることを必ず求められるに違いありません。
主が弟子たちにガリラヤ湖を渡らせた日のことを考えてみましょう。真夜中になったとき、主は水の上を歩いて弟子たちのところに来られました。(マタイ14:22−33参照)湖には強い向かい風が吹き荒れていて、舟は荒波に悩まされていました。勿論イエスは穏やかな日を待って水の上を歩いてもよかったのです。あるいは、超自然的に向こう岸まで瞬時で行くこともできました。でも違います。主はその時、ある目的をもって弟子のところに来られたのです。それは弟子たちに信仰について教えるためでした。
嵐は非常に激しかったことに注目してください。イエスは弟子たちに「水の上を歩くための基礎知識」という授業はしませんでしたし、水たまりの上での練習とか、湖が凍る冬まで待つこともされませんでした。
静かな海の上を歩くより荒波の上を歩く方がずっと困難なことは勿論です。それだけではなく、主は昼間ではなく真っ暗な夜に来られました。イエスは湖の真中に、嵐の最中の、しかも真夜中に、水の上の歩き方を教えるために弟子たちのもとに来られたのです。
イエスのなされる信仰のレッスンは決してやさしくはないのです!ここに描かれているのは本当にリアルなイエスがリアルな弟子たちを取り扱っておられる姿です。その時弟子たちの身体は疲れ果て、心は恐れに満ちていました。
真っ暗な荒波の上を歩いて来る姿を見た時、弟子たちの恐れは恐怖へと変わりました。彼らは「幽霊だ!」と叫びました。イエスは舟に近づき、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
あなたが激しい嵐の中にいるとき、イエスが「わたしだ。It is I. 」と言われるなら、それは信仰への呼びかけであり信仰への招きです。主が「しっかりしなさい。Take courage.」と言われるのは、行動への促しであり招きです。なぜならば本当の信仰は名詞ではなく動詞だからです。真の信仰は必ずある時点で「勇気」を必要とします。
ペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言いました。この言葉は実際のところ、とてもすばらしい言葉です。これによって真のイエスの理解が深まると同時に、ペテロとイエスの関係をもうかがい知ることができます。
ペテロはイエスと出会って以来、主が弟子たちに不可能なことを要求するのをずっと見てきました。即ち、病人を癒し、一人分の食糧で群衆を養い、死人をよみがえらせるというようなことです。ペテロはイエスが奇蹟をされるのを繰り返し見てきました。そして 主は、ペテロが目撃した奇蹟を ペテロ自身が行えるように何度も彼に力を与えてこられたのです。
嵐の夜、ペテロは素晴らしい識別力を発揮しました。これも又、私たちが特記すべきことです。「もしこれが本当に自分の知っているイエスならば、直ぐに不可能なことを私に命じられるに違いない」とペテロは考えました。そしてその通り、イエスはペテロに「来なさい。」と命じられたのです。
実際のところ、ペテロは水の上を歩いたのではありません。 彼が一歩踏み出したのは、「来なさい。」という主の御ことばの上を歩いたからです。「不可能なこと」を成し遂げる力は、キリストの御ことばに従う中にあることをペテロは学んでいました。彼はこの超自然的なリアリティーの上に立ったのです。
お分かりでしょうか、信仰とは「イエス・キリストの命令の確かさを信頼すること」に他なりません。水の上に一歩を踏み出したとき、ペテロは何か特別な力を感じたと思いますか?
彼が感じたのはただ嵐だけだったと私は思います。興奮で鳥肌が立つとか、栄光で身震いするとかは無かったと思います。ただ主の御ことばへの従順があっただけです。
波しぶきを顔に受けながら、ペテロは揺れ動く舟の縁に座り、荒れ狂う水の上に足を伸ばし、風と雨を通してイエスを見つめました。そして荒れ狂う海の上に下りて真っすぐに立ったのです。
パシャ!一歩進みました。パシャ!一歩、又一歩と彼はイエスのそばまで歩きました。これは決してほんの短い歩みではありませんでした。
誰でも水の上を確かに最初の一歩は歩けます。二歩目からが難しいのです。ペテロは波に気を取られるまで歩いたのです。そしてイエスから目を離してしまい沈み始めました。勿論、主は彼を助けました。そして二人が舟に乗ったとき、風はやみました。
私たちは 主が「ペテロ、やったね!」と言われるのを聞きたいような気がします。ペテロも「水の上を少し歩いた」という実績を誉めてもらうことを期待したかもしれません。でも違いますね、イエスはやさしく彼をたしなめて「なぜ疑ったのか?」と言われたのです。
キリストはペテロの内に何か素晴らしいことが起り始めていることを見て、それが宗教的プライドや自己憐憫で汚されることをよしとされませんでした。私たちの多くは、何か神のために善き業をする度に栄誉のメダルが欲しいのです。しかし主は、私たちやペテロが自分の功績を(特にそれが始まったばかりの時には)記念する碑を建てることを許されないのです。
この奇蹟がアメリカの誰かによってなされたのであれば、2週間もたたないうちに「水の上を歩いた記念日」とかTシャツやツアーが出来ていたことでしょう。しかしイエスはご自分の弟子にはそのようなことは一切許されませんでした。主はペテロの中に素晴らしいものが現われ始めたのをご覧になりました。しかし主が求められたのは、弟子たちがご自分に似る者となる事だけだったのです。
忘れないでください。神のゴールは私たちがキリストのようになることです。本物のイエスであるならば不可能な事をするようにと私たちを招いてくださるのです。神と共に歩むとは、私たちが今までしたことのないことに召されることです。あなたはイエスがあなたの前を(恐らく何らかの嵐の中を)歩いて行かれるのを見るでしょう。その後について行くならば、あなたは変革され、あなたの周りの世界に影響を与える奇蹟が始まるのです。
祈り:主よ、今まで超自然的な人生を求めることなく、安全な人生だけを求めていたことをどうかお赦しください。もっとあなたを求めます。私が馴れ親しんだ舟(何も変ったことは起こらない日常的な世界)から私を呼び出してください。主よ、失われた人々に手を差し伸べるために、どうか私の信仰を増し加え、あなたと共に「神の可能性」という水の上に立つことが出来るようにしてください。イエスの御名によって祈ります。アーメン (終り)
07 10月
神との関係をレベルアップする(その1)
グラハム・クック
今日は、私たちが主との関係をもっと深めることが主の御計画だということをお話したいと思います。それは私たちが今混迷の時代に生きているからです。世界で今混乱していない国は一つもありません。この無秩序な混乱に対して私たちは、イエスとの関係をもっと深めて立ち向うことが不可欠です。まず、今はエレミヤ31:3の時であると思います。
エレミヤ31:3「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。(I have loved you with an
everlasting love.)それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(I have drawn you with
unfailing kindness. わたしは絶えることのない優しさであなたを引き寄せてきた。)』」
この聖句をよく読んで、次のように自分に問うことが大切だと思います。即ち、「私は本当に主に引き寄せられた所にいるだろうか?
引き寄せられることを自分に許しているだろうか? 私の人生に、又私の状況の中に永遠の神の愛を期待し待ち望んでいるだろうか?」と問うのです。
あなたの周りに問題はなくなりませんね。それは様々に形をかえてやってくるのです。状況や問題がやさしくなることはありませんから、私たちが成長し変ってゆかねばなりません。そうなるためには、自分の内におられるキリストがどのような方であり、神が私たちのためにどのような方になってくださるのかを、まず自分の人生の土台に据えねばなりません。
どのような事態、問題の中でも、私が神に好んでする質問は「この問題の中で、あなたは私のためにどのような方になってくださるのですか?」というものです。私たち一人ひとりに対する神の第一の目標は、私たちが神を大好きになることだからです。あなたの人生の状況や問題を用いて、私たちがどうしたら神のようになれるかを、神は教えようとしておられます。それが「御国における関係の学び Relational Learning in the Kingdom」と呼ばれるものです。
神は私たちを救助するためではなく、私たちを元気づけ、回復させ、私たちが問題の下敷きになって押しつぶされるのではなく、その上で生きるようにしてくださるために神はいてくださるのです。
イザヤ63:7にはこう書かれています。
「私は、主の恵みと、主のくすしいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」
私たちはこの場所から生きるのです。即ち、完全に期待し、信じて待ち望む場所です。私たちに対する神の御思いが、そのまま私たちの思いになるのです。神があなたをどれほど愛しておられるかを知るとき、あなたはどれほど信じ期待してよいかを知るのです。
もしあなたに娘がいるならば、そのことが理解できると思います。私の娘はそばに来て、「あのね、お父さんは私をすごく愛しているよね。」と言います。私は「まあね。」と答えます。娘は「私をすごく愛しているのはお父さんの様子をみればわかるわ。」と言うので、私はまた、「まあね。」と言います。私は娘が何をねだるのかを待っています。娘は父親にねだることができることを知っているのです。でもそれがあまり高価なものである時は、買ってやることができない時もあります。娘が肉の父親である私にねだることができるように、天の父にもねだることができる事を、私は娘に教えました。そして天の父のほうが勿論、私よりもっとよくしてくださるのです。だから娘は私に期待するように、天の父に期待していいのです。
今娘は私が持っている会社の一つを経営していますが、私にお金をねだったように、御父を信じて期待しています。それは素晴らしいことだと私は思うのです。自分がどれほど相手に愛されているかを知るとき、その人との
関係が築けるのだと思います。自分はその人からどれほど厚意を得ているかを知るならば、その厚意を用いることができます。
神は私たちに願ってほしくないものもあります。神がすでに与えておられるものを私たちが更に願うことを、神はしてほしくないのです。考えてみてください。あなたが神に願ったのに、何も起こらなかったことが何度ありましたか?
それは神が「あなたが願っていることは、キリストにあってあなたはすでに持っています。 すでに与えているものを『下さい』と頼んではいけません。
あなたが持っているわたしとの関係を調べてみてください。その関係がどう改善されるべきかを知り、その関係に入ってください。」と言われるのです。
私たちは今日、そのような神との関係に入りたいと思います。私たちには果たすべき任務や召しがあり、それを果たすためには、
神との関係を今よりも深め強めなければなりません。これは皆さんを批判しているのではなく、神との関係はどんどんと深く強いものになる可能性があるということです。私たちは更に深いレベルでイエスからすべてを受け取ることができるのです。
神は私たちを情熱的に愛しておられ、それが私たちの内にも熱心さを生み出します。神が私に関わってくださる方法が私は大好きです。私はそれを探検するのが好きなのです。イエスは大きな国ですからね。私たちは彼がどのような方なのか、「キリストの内にある」とはどういうことなのか、「キリストを内に持つ」とはどういうことなのかを探求せねばなりません。
そのような領域をあなたは掴み取らねばなりません。あなたは その領域、
約束の地を今すでに受けているのです。約束の地とは、即ち、「あなたの内にキリストがおられ、キリストの内にあなたがいる」ことです。そして私たちはその領域を探求せねばなりません。ただ個人や家族としてだけではなく、地域社会としても探求するのです。私たちは今までとは違うレベルで祈り始め、必要からではなく、必ず答えられると予期して祈り始めねばなりません。
もしあなたが預言の言葉を受けているならば、それを祈りの中に組み込むことが必要です。もし神からの約束を頂いているのなら(約束は天国の通貨です)、その約束をあなたの思考や物の見方、言葉、祈り、讃美の中に組み込むことによって、あなたがそれに取り囲まれるようになることを神は望んでおられます。
あなたは約束を掴み、用いて、その上に立つのです。約束はその許可証です。聖書の言葉も許可証です。預言も許可証です。それは神が「そうだ!」と言っておられることなのです。
神が何年も前にすでにくださっている物を願うことを止めてください。ずっと以前に預言の言葉を受けているならば、その言葉を奥の方から一番前に出してください。
ずっと以前にその預言を受けた時、それはあなたにとっては耳慣れない言葉であり理解が出来なかったのですが、今のあなたにとっては、まさにそれは「今この時のための言葉」かもしれません。今はその預言が解き放たれる時です。神が必ずよくしてくださると期待し予期することによって、今は問題だとしか思えないことを、可能性として捉えることができるようになります。
もしあなたに問題があるならば、それと共に神は必ずそれを解決する可能性も用意されるのです。あなたがキリストにあり、キリストがあなたにあるならば、すべてのことは可能なのです。即ちすべての問題は可能性に変えられ、あなたは期待と確信をもって神に近づくことができるのです。
私は「Brilliant Perspectives」「Brilliant TV」「Brilliant Book
House」という3つの会社を経営していますが、スタッフには「私は、あなたたちを『問題』を取り扱うためにではなく、『可能性』について話し合うために雇ったんですよ。問題を可能性に変えるために皆さんに給料を払います。私のところには、問題についてではなく可能性について話すために来てください。神は可能性の神であり、私たちは御国の住人であり、御国では違う法則が適応されるのです。この世では艱難がありますが、御国では別のものを与えられるのです。
ですから、あなたはどの立ち位置から生きるのか、どなたの内に生きるのか、そして人生の土台は何かを決めねばなりません。個人的に、また家族、教会のキリストにある霊の土台がもっと強められる必要があります。
それによって私たちはただ期待するだけではなく、必ず良いことが起こると予期する生き方をすることができるのです。
今の混沌とした世界で、私たちは混沌の中の問題を見るのではなく、天にある可能性を見るのです。
私たちは今「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:2)」という時に生きていて、そのレベルまで上る必要があるのです。そしてそうさせてくれるのが、期待、約束、預言、御言葉なのであり、クリスチャンに与えられた特権以下ではなく、それより上のレベルへ私たちを上げてくれるのです。
自分が神に愛されていると知り、神のあなたへの情熱は愛に根ざしていると知ることは不可欠です。神はあなたに情熱的であり、それは神があなたの中にいるキリストに情熱的であるからなのです。神はあなたの中にキリストを与えて、神がイエスを愛するのと同じようにあなたを愛することができるようにされたのです。
ヨハネ17:23−26でイエスは「わたしたち(御父とイエス)が一つであるように、彼らも一つであるように。あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛するように。」と言われました。これこそがあなたがキリストのうちにある意味であり、これによりあなたがどれほど愛されているかを知ることができるのです。
あなたの人生の中でその愛を強めるために、神がどれほどつくしてくださったか、そしてあなたはその神の愛を知る故に、神にねだってもいいのです。
娘は私に愛されていることを知っていたので、それをいい事にしてつけこんだのです。それは娘への愛の故に私が許したからです。
そして神は私より何百万倍も大きい方であることを娘に知って欲しかったのです。それは娘の霊的学びのために本当に大切な事でした。娘は今そのような生き方を実践しています。
私たちは、イエスの慈しみと厚意をもっと高いレベルで
知ることがとても大切です。私たちは、神がどれほど自分を愛し助けくださる方であるかに感動することなしに、山を動かすことはできません。預言や約束を成就させるために神のパートナーとなりたいならば、イエスとの関係を今の生ぬるいままにしていてはいけないのです。
集会に来たら自分がレベルアップされると考えるのを止めねばなりません。レベルアップはあなたと神との関係によってなされるのです。怠惰であってはなりません。
私も怠惰なときがありました。自分は霊的に怠惰で、誰かのミニストリーに助けてもらっていました。でもイエスとの関係を深めることは、自分でしか出来ません。みんなそれは分かっていますね。何もしないで関係を深めることはできません。イエスが私たちと一生懸命に関係を持とうとしておられるのに、どうして私たちは努力をしないのでしょうか。神はそのような私たちが変るように助けたいと思っています。(続く)
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