Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
13 06月
油注ぎを受けて流し出す
マへシュ&ボニー・チャブダ
私たちが生かされている今、主は 一世紀以来なかったほどの油注ぎを神の民に与えておられます。主は私たちに油を注いでくださるだけではなく、私たちがその油をどのように管理し他の人に分け与えていけばよいのか、又、自分の人生の中の油注ぎを増し加えるためにはどうすればよいのかという事も教えたいと願っておられます。主は私たちに霊的勝利を与えたいと願っておられるのです。私たちは、神があらかじめ定めておられた特別なシーズンに 入っていくことをはっきりと自覚し、そのための準備をしなければなりません。それは非常に重要です。 教会の歴史の中で最も栄光ある今という時に、私たちが主の油注ぎを心から喜んで受け取り、自分の役目を果たすようにと神は私たちを招いておられるのです。
神は私たち自身の癒しや解放のために油注ぎを与えてくださいますが、それだけではありません。 私たちが油注ぎを受けて力を増し加えられ励まされることにより、他の人々のために主が奇跡を起される時に 用いられる器となることを主は望んでおられるのです。油注ぎがくびきを砕くのです。私たちは今、新たな預言的シーズンに入っているのであり、 私たちが神の栄光を持ち運ぶ者となり、束縛、罪、病というくびきを砕いてどこに行っても主の民を解放する者となるようにと、神は私たちを召しておられます。
御霊の息吹
簡単に言えば、油注ぎとは神の力が私たちのただ中に現れるということです。それは神の聖なる臨在の風であり、聖霊の息吹です。それはキリストの命と光が私たちの中に、そして私たちを通して輝き出ることです。油注ぎとは、神の命の泉からこんこんと湧き溢れるものであり、私たちの心から流れ出る「生ける水の川」です。
イエスは常に御霊の油注ぎの中を歩まれていました。主は公のミニストリーを次の宣言をもって始められました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18—19)イエスは偉大なみ業をされるときは常に、油注ぎに全面的に依り頼んでおられたのです。ルカはこのように書いています。「ある日のこと、イエスが教えておられると、、、、、イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(ルカ5:17) 主の御力とは油注ぎです。もしイエスが油注ぎを必要とされたとしたら、私たちはどれほどそれが必要なことでしょうか!
第一のものに焦点を当てる
主は私たちを御力で満たしたいと願っておられます。私たちが主の油注ぎの中を歩むことにより、主の愛、主の祝福、主のあわれみ、主の癒しの恵みがこの世界に流れ出ていくことを願っておられるのです。ほとんどのクリスチャンにとっては油注ぎを受けることは簡単です。難しいのはそれを保つことです。悔い改めと信仰をもってイエスのもとに来るとき、私たちは油そそぎを受けます。聖霊が 私たちの心の中に来て永遠に住んでくださいます。主の御声を聞いて従うことを私たちが学ぶとき、そして私たちが御霊に満たされるとき、私たちの人生に油が注がれ、それがどんどんと増し加わっていく顕れを私たちは見るようになります。
私たちが油注ぎを保つためには、一番大切な事柄に焦点を当てることを学ばねばなりません。まず第一に、 イエス・キリストに焦点を当てねばなりません。イエスは私たちの救い主であり、主であり、私たちのすべてのすべてだからです。イエスに焦点を当てるとは、主をますますよく知り、主をますます愛するようになることです。
二番目に大切なことは、 聖霊との個人的な関係を培うことです。聖霊をよく知り、歓迎し、聖霊の命の水を毎日深く飲むのです。聖霊は一人のお方、パーソンです。神と共に存在し、 神と共に永遠で、神と同等の方です。聖霊は私たちの助け手であり、教師であり、慰め主です。教会に在住される主です。聖霊は私たちに力を与えるために御霊の賜物をくださり、栄光の花婿イエスを映し出す者とするために油を注いでくださいます。 私たちを栄光から栄光へと変えてくださいます。
私たちの人生の油注ぎの力を必ずや減少させてしまうことの一つは、聖霊との個人的関係をおろそかにすることです。私たちは、自分のかたくなさ、ゴッシップや他のクリスチャンの陰口を言う事、クリスチャンらしからぬ言葉や行動、思い等によって聖霊を悲しませてしまいます。聖霊と常に一つ思いになるためには、日々の悔い改めが必要です。即ち、 あなたの思いや態度を聖霊の完全な光によって照らし出していただき、聖霊とその恵みによってもっとキリストの似姿へと変えていただくことです。
すべては愛による
ルカ4章で見たように、聖霊の油注ぎによって、イエスは失われた魂、貧しい者、傷ついた者のところへ導かれました。イエスのミニストリーの原動力は、燃えるようなあわれみの心でした。油注ぎの中を歩み、それを流し出して行くための鍵は、愛なのです。イエスがなされたすべての業はあわれみの心が動機となっていました。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)
それと同じように、誰でも癒しの油注ぎを持つ人の心は、助けが必要な人へのあわれみで溢れるようでなければなりません。プライドや批判、断罪、偏見、律法主義、人を裁く態度等の霊は、聖霊の油注ぎとは全く相いれないものです。イエスの業をなすためには、私たちもイエスのようでなければなりません。イエスのようになる唯一の方法は、 主によみがえりの命をもって私たちの内で 生きていただくことです。私たちの肉が自己を焼きつくす祭壇で 焼かれる匂いだけが、油注ぎの香りと力を放つことができるのです。油注ぎを自分のためにだけ溜め込むことはできません。油注ぎを保ち続ける唯一の道は、それを流し出し与えることです!
私たちが油注ぎの中を歩むとき、 自分中心から離れて外にむかっていきます。自分のための油注ぎではなく、自分を通して他の人々のため、即ち奉仕とミニストリーへのために油注ぎを用いる道を進むようになります。
この国や社会、そして地上のあらゆる国は、聖霊の油注ぎに餓え渇いています。ヒューマニズムや知性偏重主義、偽りの宗教など空しいものは、空虚さを埋めることも暗やみが襲ってくるのも押しとどめることができません。世界はイエスとイエスの力を見ることに餓え渇いているのです。私たち主の教会は、キリストの花嫁であり、主の命に満たされ、主の命を与えるために整えられ油注がれた者であり、希望を失い死に瀕している世界への主の光、主の癒しの力そのものなのです。主の御霊が私たちの上に注がれています。私たちが福音を伝え、癒し、捕われ人を解放するために主は私たちに油を注いでくださったのです。
Mahesh and Bonnie Chavda
Chavda Ministries International
Email: info@chavdaministries.org
05 06月
嵐の中の希望
キャシー•ペルトン
4月のある早朝、父からの電話で、母の病が重いので彼らの住むジョージア州に来るようにと言われました。医者たちは、母の命を救う希望をすでに失っているということでした。数時間後に私はサンフランシスコから故郷のジョージア州リングゴールドへの飛行機に乗りました。そして、私たち家族は母のそばで、辛く悲しい、でもうるわしい数日を過ごしたのでした。母はグッド・フライディ(受難日)に私の手を握りながら主のもとに帰って行きました。イースターの日曜日は両親の51回目の結婚記念日になるはずでした。
それからの数日、私たちは十分時間をかけて母のお葬式の計画を相談しました。いろいろな地から家族が到着し、私たちを慰め、又、母に別れを告げました。すべての式が終ったのは4月26日の火曜日でしたが、私たちはみんな身体も心も疲れ果てていました。
恐怖の嵐
父は葬儀がすむと、30分ほど離れたところにある兄の家でゆっくり休むことにしました。 母の思い出がつまった家に帰ってそこで一人で過ごすのは、父にとってまだ辛すぎたのだと思います。私の長男と彼のガールフレンド、そして私の三人は、そのまま両親の家で休むことにしました。すると家の異常気象報知器が激しい雷と雹の警告を発しはじめました。テレビを見ると嵐が次々にこちらにまっすぐに進んでいて、それは夜中まで続くであろうことがわかりました。
私たちはカリフォルニア州(地震多発地帯です)に住んでいるので、地震予報が外れることを何度も経験していました。しかし、この時は備えをせねばならないことを私は直感的に感じました。それからの数時間、私たちは嵐が近づいてくるのをじっと見守っていました。暗い空全体が地面に降りて来て巻き上がっていく様子を見るのは初めての経験でした。 激しい雷と雹という予報は、今度は竜巻の警告へと変わりました。
私には竜巻の経験は全くありませんでしたし、しかもこれは一つではなく数えきれないほどの複数の竜巻がまっすぐ私たちの方へ向かって来ていたのです。私たちは地下室に避難するために、懐中電灯、電池、トランジスターラジオ、毛布、水を用意しました。地下に行ったとき、1マイルの幅の竜巻が時速175マイルでまっすぐリングゴールドにむかっていることをラジオは告げていました。
息子のガールフレンドであるブリタニーは大学時代数年南部に住んだことがあり、何度かこのような警報を聞いたことがあったそうです。彼女は終始落ち着いた様子で行動していました。 息子は南部に住んだのは去年一年だけで、このような経験はありませんでした。地震なら私におまかせください。どうすればよいのか知っていますー大きな物の傍に行って身体を丸くすればいいのです。でも巨大な竜巻からそんな事で身を守ることはできないことは明らかです。地下室に避難してから直ぐに停電になり、風がうなり声をあげはじめました。稲妻は今まで見た事がないような非常に激しいものでした。落雷と落雷の間隔はほとんどありませんでした。私は恐怖を感じましたがブリタニーは落ち着いて 、あたかも日の出をただ待っているかのように静かに座っていました。ラジオは竜巻がリングゴールドの繁華街を襲い多くの建物がなくなったことを報じていました。
随分時間が経ってから、 やっと兄から「最後の嵐が過ぎ去ったから地下室から上に上がってもいい」という携帯メールを受け取りました。一階に上がると、息子とガールフレンドは居間のソファで寝てしまいました。私は真っ暗な中で座っていましたが、不気味な静けさがあたりを覆い、 息がつまるような今まで感じた事がないほどの恐怖が私を取り囲みました。嵐の最中も恐ろしかったのですが、それをもっと越えた恐怖でした。私は怯えました。私は手探りで電話をとり、カリフォルニアにいる主人に電話をしました。そしてテレビで気象情報を見て、こちらにもう竜巻が来ていないかどうかを調べるように頼みました。というのは、ここにラジオ局も被害にあってもう発信していなかったのです。もし兄のメールが間違っていて、また次に竜巻が近づいていたらどうなるのでしょうか?
夫のジェフは「最後の嵐がこの町を過ぎてアトランタの方にむかっているからもう大丈夫だ」と教えてくれました。でも私は「本当にそうなの?本当?」と何度も言い続けました。主人はテレビをずっと見て何か変った状況になったらすぐに電話をすると約束してくれました。午前2時になって やっと私は数時間の眠りにおちいることができました。目を覚まして分かったことは、数時間のうちに150もの竜巻が襲い、リングゴールドの街の大部分が破壊され、 300人の命が失われたということでした。 竜巻の一つは幅が一マイルもあったのですが、私たちの家をほんの一マイルほどよけて通って行ったのでした。
嵐が一番激しかったとき私は本当に恐ろしかったのですが、列車に轢かれるようなすさまじい恐怖に襲われたのは、すべての危険が去ったときだったのです。それは母の葬儀などのストレスで疲れ果てていたのだ、と思うこともできました。でもそれは「恐れの霊」というべきものが来て、嵐が過ぎ去ったにも拘わらず、私は平安を取り戻すことができませんでした。
敵の策略
もしあなたが大変な問題、艱難にあったことがあるならば、その中を耐えていく恵みを神が与えてくださることを知っておられるでしょう。それはその困難をあなたが感じないとか傷を受けないということではなく、あなたより大きな存在である「誰か」が困難の中であなたを運んでくださるということです。嵐が過ぎ去り青空が広がるとき、回復のときが始まります。そして敵は私たちが回復するのを憎むのです。静けさが戻ったときを、 あなたから平安を奪いとるチャンスとして敵は使うのです。穏やかさの中で敵は、「また恐ろしいことが起こるぞ」とか、「お前は決して立ち直れない、回復しない」というような言葉をかけてくるのです。
ロトの妻のように、 あなたが将来への希望を望み見る代わりに、災難が起きた過去へとあなたを振り向かせようと敵はします。
「太陽が上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」創世記19:23−26
ロトの妻は塩の柱となって固まってしまいました。そうなのです、恐れの霊は一所に固まってしまうようなものです。あの夜私を襲った極度の「恐れの霊」を経験したのは、 人生の中で他には1、2回しかありませんでした。私は恐れで固まってしまい、慰めを受けることも、聖霊の御声をはっきり聞くこともできませんでした。何が起こるか分からないという恐怖が、 熟知していたはずの主の御声までも聞こえなくしてしまったのです。
助けを求めなさい!
敵は盗人のようにあなたの希望を盗みにやってきます。そのような時には、あなたの回りにいる人たちに助けを求めてください。恐れであなたが押しつぶされないように、あなたに真理を語り正気にもどしてくれる人に助けを求めてください。私にとってそれは主人でした。彼は私の命を危険にさらすことは決してしないし、 確信のあることだけを告げてくれる人であることを私は知っていました。
主人は天気予報のチャネルだけではなく、インターネットで沢山のサイトを調べてくれて、もう危険はないから眠るようにと私を安心させてくれました。真理と彼の励ましの言葉が、その夜、恐れの声を黙らせてくれました。その真理とは、もしも竜巻が家を襲い私たちの命が取り去られたとしても、私たちは主の御前に完全なる勝利を握って立つことができると言う事です。私たちは艱難の中にあっても救いの希望があるのです。
アメリカ南部で起こっている竜巻や、日本での地震や原発事故のような歴史的規模の大災害が「主の日」までこれから続くことを私は疑いません。しかし私たちは嵐の最中でも平安と希望を見出すことができるのです。もし私たちが平安を無くしてしまったときは、主にある兄弟姉妹が真理と慰めをもって私たちを励ましてくれるでしょう。
「兄弟たち。それがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」第一テサロ二ケ5:1−11
互いに結び合わされなさい
敵が「キリストの身体」を懸命に分裂させようとするのにはわけがあります。それは私たちがお互いを非常に必要としているからです。主はこのことをご存知であるので、聖書全体を通して互いに励ましあうようにと私たちは勧められているのです。イエス様さえ、裏切りを受けた夜、ご自分の弟子たちを求められました。弟子たちが目を覚まして祈っていることを知るだけで、主には大きな慰めとなったことでしょう。多くの兄弟姉妹が今、又将来、多くの問題に直面している時、眠ってしまうことのないようにしようではありませんか。
今は主が「キリストの身体」の中であなたに与えて下さった人間関係、結びつきを大切に育てる時です。主があなたをどこに植えたいと願っておられるかをみつけて、そこで成長してください。主イエスは地上におられたとき、ご自分の回りに親しい者たちを沢山おかれました。私たちも同じようにせねばなりません。「キリストの身体」の中にいる者だけが御父の計画を知ることができます。御父の計画は私たちを導く真理であり、私たちはこのことを深く悟る人たちによって
励まされる必要があります。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」ヨハネ15:15
私たちは回復されている
嵐が過ぎたあとに回復の時が始まると私は先に述べました。これはもっと大きな事柄に関しても真理です。これから地上での問題がますます悪化し、大災害が起こっていくとき、私たちは絶対的完全な回復の時にどんどん近づいて行くのです。私たちは「主の日」へと近づいており、その日にはそれまでに罪と死が破壊したものが、すべて完全に回復されます。私たちの主との関係も完成され、互いの関係も完成され、天と地は新しくされるのです。
私たちは慣れ親しんだものが好きです。自分が知っているものを欲し、未知のものを(たとえ真理の御霊がそれは望んでいたものや夢見たものよりもっといいものだと言われても) 恐れます。私たちは信仰により真理にむかって進んでいます。しかしロトの妻のように後にしたものを振り返りたいという誘惑にかられるのです。私たちは希望をもって前のものを見ようではありませんか。私たちの回りの地は激しく揺れても、揺るがされることのない希望が私たちの前には備えられています。それは私たちの救いの希望です。回復の時はすでに始まっています。ある時にはそれは手の届かないところにあるように見えますが、そういうときはお互い同士、また「希望を与える方」に手をのばして、その方が希望と成就の間をつなげてくださることを知ろうではありませんか。
家に帰る
主のもとに帰る前の最後の数日間、母はよく「(天の)うちに帰りたい」と言いました。母がその他に言うのは「愛しています。I love you.」という言葉だけでした。主は母を愛して下さったので母をうちに連れて行ってくださいました。母はこの世のものは何も持っていきませんでした。母が行くところにこの世のものは何も—身体さえもー持って行かれませんでした。
今までになかったほどの愛で愛してください。神を愛し、あなたの家族や友人を愛してください。そしてあなたの前を通り過ぎてゆく神が愛されている他人をも愛することを忘れないでください。(終)
Kathi Pelton
Compassion Arise
Email: jkpelton@sbcglobal.net
26 05月
ブレークスルーを起す勇気ある礼拝
カレブ・クリング
ギデオンの話といえば私たちは普通、羊毛の上の露のことや、神の御臨在の中で角笛を吹いた300人の兵士がおびただしい数のミデヤン人を打ち負かしたという話を先ず考えます。しかし、このパワフルな話には重要な背景があったのです。イスラエルを勝利に導く前に、ギデオンはまず自分の町での勝利を勝ち取らねばなりませんでした。
個人的に主に降伏する
ギデオンが主の使いと最初に出会った時、彼はまことの礼拝をもって応答しました。士師記6:21にあるように、彼は主の使いに自分の贈り物を捧げました。すると神の火がそれを焼き尽くしたのです。この出会いの後、ギデオンは主のために祭壇を築きました。「捧げもの」は「礼拝をしている時」を表しますが、一方「祭壇」は「 絶えることのない神への礼拝と神への完全な服従というライフスタイルそのもの」を表しています。そしてこの祭壇こそ、ギデオンがこの後経験したすべてのブレークスルーの土台となったのです。
神から与えられた任務
神は私たちが良い行ないに歩むようにそれをあらかじめ備えてくださっています(エペソ2:10)「祭壇」は私たちの心を天と一致させ、神が備えてくださった任務を受け取り、その任務を権威をもって成就できるように私たちを整えてくれます。ギデオンが彼個人の祭壇を築いたとき、主から最初の任務を受け取りました。それは軍隊を招集することでもなく、イスラエルを神に引き戻すための作戦を練る事でもありませんでした。彼の最初の任務は、自分の故郷、即ちオフラ村に礼拝の祭壇を築くことでした。彼個人の礼拝の祭壇は最初のレベルでした。そして今度は彼の個人的なブレークスルーがまさにオフラ村全体に影響を及ぼそうとしていたのです。
士師記6:25−27で、主はギデオンに告げました。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛をとり、切り倒したアシュラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」
神からの任務を遂行するためには、大変な勇気が必要でした。町のほとんどはバアルを礼拝していましたし、その中でも彼の父親は一番のバアル礼拝者でした!バアルの祭壇は彼の家の庭にあったのです。 自分たちの「偶像」が壊されるのを人々が喜ぶはずは勿論ありませんでした。
「光」と「闇」とがまさに衝突しようとしていました。ギデオンの主への従順は、 悔い改めを本当に必要としていた社会に罪の自覚をもたらすことになったのです。
燃える仲間
ギデオンはしもべの中から10人を取り、主が言われた通りにしました。しかし彼は父の家の者や町の人々を恐れて、昼間ではなく夜に行動しました。(士師記6:27)彼はまだ成長過程にあったのです。彼は恐れを克服しようとしていました。勇気というのは恐れがないことではありません。勇気とは、恐れに直面した時でも神は必ず支えてくださることを信じ、主に従順に行動する信仰です。ギデオンは恐れと戦わねばなりませんでしたが、それでも主に従ったのです。
全焼のいけにえ(100%すべてを神にささげる)をささげるために燃やす仲間である10人のしもべをあつめました。夜中にこの10人の男たちは町の真ん中で礼拝のたき火に火をつけ、それによって偶像礼拝を打ち破り、神の目的と臨在へと突き進んだのです!あなたの町で真夜中に兄弟姉妹が一つとなって集まり、 祈ったり礼拝することによって発揮される力を低く見てはいけません。 彼らが切り倒した偶像の木は、神を真に礼拝する火のための薪となったのです!
合同の炉
個人の礼拝の祭壇(ライフスタイル)は大変重要ですが、町を変革出来るのは合同の礼拝の祭壇(2、3人以上)です。ギデオンが神からの任務を果たすために10人を連れて行ったのは、彼が恐れたからではありませんでした。それはこの任務が一人でするには大きすぎたからです。この任務はただ一人の情熱だけではなく、町の一致した働きを必要としていました。
バアルの祭壇を打ち壊し主の祭壇を築くだけではなく、雄牛を全焼のいけにえとしてささげねばなりませんでした。成長した雄牛は2000ポンドくらいの重さになります。全焼のいけにえをささげるという礼拝は、一人で出来るものではありませんでした。いけにえを祭壇に持ち上げるだけでも仲間が必要でした。主を礼拝することを誓った仲間が一緒に力を合わせる必要があったのです!
いけにえの残り火
まことの礼拝は常に反応、リアクションを引き起こします。ダビデが裸で踊った時とか、マリアがナルドの香油を主に注いだ時、人々はまことの礼拝をした者に対して賛同か批判かのどちらかのリアクションをしました。朝になってギデオンの町の人々が目を覚ましたとき、自分たちの祭壇と偶像が壊され、 主の祭壇が新しく築かれ、その上に2000ポンドの雄牛が燃えているのを発見しました。そこで人々はリアクションを起しました。
それがギデオンの仕業だと知ったとき、人々は彼の父のところに暴徒のように押しかけ、ギデオンを殺すために引き渡せと要求しました。しかしギデオンの父は思いがけない返答をしたのです。「もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」と。
ギギデオンの命が救われたのみならず、父親の心に大きな変化が起きました。ギデオンの勇気ある情熱的な礼拝は、それまで父の人生を虜にしていた偶像礼拝の霊を打ち砕いたのです。まことの礼拝の祭壇の残り火は、情熱を失ってしまっていた者の心に火をつけ、初めの愛に戻るように引き寄せるのです。
デオンは軍隊を率いる前に、10人の礼拝者を率いて自分たちの町の中で主のために燃えました。そしてこれがその後のすべての勝利の土台 となったのでした!
ギデオンと同じように、あなたも王の王なる方を自分の町で礼拝できますように祈ります!(終わり)
Caleb Klinge
New Life Christian Center
Email: office@nlcci.org
14 05月
清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目)
フランシス・フランジペン
霊的なものを感知するには、心の清さpurityが基礎、土台となります。人生の中で何を見るか、又それをどのように見るかを決定するものは、私たちが内で何を思考しているかという内部思考に根ざしているのです。もし私たちが神の御国に関する オープン・ヴィジョン(霊的な目で見るヴィジョン)を鮮明に見たいのならば、清い心を持つ事が第一の 条件となります。
神の御座で 啓示を受ける
黙示録には驚くべきことが書かれています。「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(黙示録4:6、8)」 ここでこれらの生き物に関してあれこれ推測するのが今の私たちの目的ではありません。私たちの目標は、神を意識しながら神の御前で生きることによって得られる清い心を持つことです。私たちは神の御座で起こっている事柄を(霊の目で見える)オープン・ヴィジョンを求めているのです。
これらの「生き物」は多くのことを表していると思いますが、一つのことは確かだと思います。即ち、 ヨハネは、からだが目で満ちている六つの翼を持つ、気味の悪い生き物を見ているのではないということです。ヨハネが見たのは深い真理を象徴している姿でした。多くの「目」とは、(霊の領域に)開かれていてすべてを包括的に見るヴィジョン(目)を表し、それは神の御前にいることによって可能になります。
このことを知ってください。主がおられるところには主の御座もあるのです。もしあなたが主と出会ったことがあるならば、それはあなたの霊が主の御座にいるからです。あなたが霊的に生まれ変わったとき、あなたは上から生まれたのです。(ヨハネ3:3)今のこの時も、 あなたの霊は聖霊を通して、キリスト・イエスとともに天のところにすわっているのです。(エペソ2:6 )主の臨在があるところにはオープン・ヴィジョン(霊の目で見るヴィジョン)もあるのです。
これらの「生き物」は、人が神の臨在の中で生きるときに発見する生き方のシンボルです。主にあって私たちの目は考えることができるのです。それらの目は、 識別と理解をもち合わせてものを見ることができます。キリストの思いが私たちの視覚(ヴィジョン)と一つに融合して、私たちの狭い認知力によっては見ることが不可能なものを、「前と後ろを同時に見るように」はっきり顕してくれるのです。私たちのヴィジョンはまた「御座の中央」からも来ます。私たちは離れたところにある霊的真理を見るだけではなく、神ご自身の深みまで及び、探ることができるほどお傍近くに居るのです。(第一コリント2:10)
しかし、それと同時に神のおそば近くに居ることは、私たちに「内側の目」、即ち自分の行動の動機を監視する目、罪から自分を護衛する内なる目、を与えます。私たちの霊の目で見るヴィジョンが開けば開くほど、私たちに神の聖さがますます見えるようになります。そして、私たちの人生のほんの小さな罪が重大な罪に見えてきます。主の御前に居ると、私たちは清く生きるようにと迫られるのです。
神の御座の前で「生き物」は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者(黙示録4:8)」と絶え間なく叫んでいます。昼も夜も神は聖であられます。私たちの霊の目が開かれるとき、私たちの口からは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という言葉だけが出てきます。
まことのイスラエル人は霊で見ることができる
イエスはナタナエルのことを「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。(ヨハネ1:47)」と言われました。イエスがこのように感嘆したこの若い弟子はどのような人物だったのでしょうか? この若者の心の中には狡猾さや偽りがなかったのです。私たちもこのような清さを持ちたいものです!ナタナエルは「内側の目」を持っていました。彼は自己欺瞞に陥らないように自分を護っていました。私たちは内なる真理をしっかり握っていれば、外にある真理を認知することができます。ですから、ナタナエルはイエスを見てこう宣言しました。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。(49節)」
イエスはナタナエルに言いました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(50—51節)」ナタナエルが清くまっすぐな心を持っていたので、必ずオープン・ヴィジョン(霊の世界を見る目)が 与えられることを、主は知っておられたのです。オープン・ヴィジョンは清い心の当然の結果です。罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たち、あなたがたの努力は神を見るための準備です。あなたがたは天が開くのを見るでしょう。
私たちは自分の心が鈍っているので、今の世が霊的に盲目であることを、残念だけれど仕方がないこととして受け取ってしまっています。しかし本当はそうではないのです。旧約の中での罪に対する神の裁きの一つは、天が「青銅」になることでした(申命記28:23)。ほとんどのクリスチャンは、このように天は閉ざされているものと考えています。オープン・ヴィジョン(霊に開かれた目)で天の領域で起こっていることを見たり、自分の心の中を見たりする人はほとんどありません。かたくなな心にとって、天はいつも「青銅」です。しかし、主は「あなたがたは天が開けるのをみて、神の御使いを見るであろう」と約束されたのです!
神は私たちが真の霊的ヴィジョンを持つことを望んでおられます。聖霊が教会の中で生き生きと働いておられる一つのしるしは「青年は幻を見、老人は夢を見る(使徒行伝2:17)」ことです。天にある神の御国とこの地の御国とは繋がっているのです。
「超自然的なことは一世紀にだけ起こったことであり、現在は『見るところによってではなく、信仰によって歩む(第二コリント5:7)』べきである。」と考える人たちもいます。確かに次の一歩で何が起こるのかがわからない時でも、信仰によってその一歩を 踏む出すことが私たちにはしばしばあります。しかし私たちは内におられる主(の御心)を感知しているのです! それは盲目的信頼ではありません。すでに(過去の経験からはっきり分かる)証明済みの確信と、状況を霊の目で見ることによる信頼です!信仰によって歩むことと霊的なヴィジョンを見ることは、どちらか一つだけしか選べないものではありません。パウロは「信仰によって歩む」と述べているほんの少し前に、「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く(永遠な)ものだからです。(同4:18)」とも言っています。パウロは霊的な領域の啓示を受けていました。彼は天で彼のために用意されていて彼がやがて来るのを待っている、永遠に生きる霊の身体を見ていました(同5:1、4)。彼は「この人が、、、、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(同12:3−4)」と言っています。
パウロの霊的感知についてあれこれ考えるのもいいですが、彼が新約聖書の三分の一をキリストのオープン・ヴィジョンによって(キリストを霊の目で見つめながら)書いたことは事実なのです。彼はどのようにそれらのことを見たのでしょうか? 彼は「顔のおおいを取りのけられて鏡のように主の栄光を反映させながら、、、(同3:18)」と言ったすぐ後で、「恥ずべき隠された事を捨て(同4:2)」と言っています。そして少し後に「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。(同7:1)」と続けています。彼の清められた心、完成された聖さから、神の栄光を見る目のオープン・ヴィジョンが与えられたのです。
忘れないでください。私たちは「体験」を追い求めているのではなく、清い心を追い求めているのです。ヴィジョンを追いかけているのではありません。聖さを求めているのです。初代教会においては、霊的領域の出来事は当然起こるべき現象として考えられていたと同じように、彼らの心の清さは当然そうあるべきこととして考えられていました。ですからヴィジョンを追い求めるような愚かな人たちのようにはならないでください。あなたは清められること、聖化を求めるべきであり、あなたの準備が整ったときに、それが神の御心ならば、主は超自然的な方法であなたに語られるでしょう(使徒行伝2:17−18)。イエスとの「霊的体験」をどうにかして持とうとしないでください。清い心を持つことを求め、キリストが毎日あなたを吟味し調べ、汚れを取り去ってくださるように願ってください。主が御ことばをもってあなたを洗い、主の聖さによって懲戒されるとき、主はあなたを御臨在へと引き寄せてくださるでしょう。主はあなたの目を「外のものへも、内のものへも」(霊的に見えるように)開いてくださるでしょう。(終わり)
07 05月
「妨害行為」を克服する主との出会い
テレサ・フィリップス
私は窓のそばで暖かい日差しを浴びながら本を読んでいたのですが、その時「SABOTAGE・ 妨害」という言葉をはっきりと聞きました。私はほんの少しの間動揺しましたが、直ぐに生ける神の御霊が私を大きな平安で包むのを感じました。私は両手を挙げて主を賛美し始めました。私の心は平安で、主が 統べ治め愛しておられる感謝で一杯でした。
しかし、この「SABOTAGE・妨害」という言葉は何なのでしょうか。辞書には「誰かの努力とか達成を破壊したり妨害したりする行為」とあります。
その時、私は涙を流して苦しみ始めました。 何が起こっているのかが私に分かったからです。主の敵が何かをまさにしようとしていたのです。すると又、私は静けさに包まれるのを感じ、もう一度手を挙げてイエスがなされたすべての業を祝福したいという思いにかられました。その時点では、間もなく預言的なメッセージが私に与えられようしていることを全く知りませんでした。1、2日経ったときのことですが、親しい友人と話していた時、私は突然幻の中に引き入れられました。その幻で見たことをお話ししたいと思います。それは強烈でとても力のある幻でした!
「食卓に着きなさい!あなたの神と交わりなさい!」
幻の中で一本のろうそく立が見え、主が「これはあなたのミニストリーです」と言われるのが聞こえました。するともう一本、また一本と次々にろうそく立が見えました。そしてこれら一本一本の美しい銀のろうそく立が集まってきて華麗な形をした多灯架燭台になりました。目の前には磨き込まれた食卓がありました。その長い食卓は美しく飾られていました。私は燭台が食卓の一番先に動いて行くのを見ました。また、突然沢山のろうそく立が集まってきて、それが集まっていくつかの華麗な燭台となり、ピカピカに磨きこまれた食卓の上に置かれました。一つ一つの燭台は食卓の上をすべるように動いていました。それは私に黙示録に書かれているガラスの海を思い起こさせました。その瞬間、これは地上のことではないことが分かりました。天で起こっていることに違いありません。「食卓に着きなさい!あなたの神と交わりなさい。」という情熱のこもった声が響き渡るのを私は聞きました。 その言葉を発した天の生き物はすぐにいなくなりました。
私が入口に立って食卓を見ていると、「愛する者よ、入りなさい。」という声が聞こえました。私は中に入りましたが、そこで私が見たり聞いたりした事は全く驚くべきことでした。多くの人々が食卓に着いているのが見えてきました。有名な人たちや、少しだけ知られている人たち、そして全く無名の人たちが集まっていましたが、この食卓ではすべての人が平等でした。
再び「SABOTAGE・妨害」という言葉を私は聞きました。私はじっと静かに立っていましたが、その時、白と紫の衣に腰に紫の帯をし、頭には精巧に造られた金の冠を冠っている主が入って来られました。 数人のよろい持ちの天使が主に従っていましたが、各自「PRAISE・賛美 」と書かれている盾を持っていました。(これを書いている今も私にはその様子が見えています)
全会衆はじっと静かにしていました。主はほんの短く次にように話されただけでした。「わたしはあなたがたに新しい戦略を与えます。あなたがたの間に起こっている妨害をあなたがたが止めるのをわたしは助けます。あなたがたは攻撃されて苦しんできました。」
エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。—それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
「そうです。あなたがたは互いに助け合い、今までなかったほどに一致を表さねばなりません。わたしはあなたがたが兄弟姉妹との間に平和をつくるようにお願いしています。彼らのことをあれこれと中傷することを止めなさい。彼らはわたしの子供たちなのです。わたしはあなたがたすべてをこの食卓に着いてわたしと共に食事をするように招いたのです。」
妨害という敵の攻撃に打ち勝つ戦略
突然、ありとあらゆる種類の食べ物が食卓の上に現れました。しかし誰も食べようとしませんでした。すべての人が主をじっと見つめていました。主は一人ひとりの目を慕わしそうに見ておられました。気がつくと私も食卓に着いていましたが、私は食卓の下に隠れたいような気持ちでした。考えようとする前に、私は過去、現在、未来で主の食卓に招かれるべき人はどのような人なのかを思い出し始めました。
「私がこれ までに口から出した 、牧師や教会、あるいは自分の国に対する批判の言葉をお赦し下さい」と私は静かに心の中で祈り始めました。これを書いている今でも涙が頬を流れます。「天におられる私たちのお父様、どうか私を赦してください。」
食卓に着いていた人たちがみんな同じことをしているのに私は気がつきました。私たちは全員で共にする悔い改めのために呼び集められ、それを天が記録していたのでした。すると主が再び語られました。「出て行きなさい。そしてすべての人を弟子としなさい。出て行って一致をもって生きなさい。出て行って信仰組織からのけ者にされている人の友となり、今度訪ねるときには家に招きなさい。」
私の目は愛と共に恥ずかしさの涙で一杯になりました。主が妨害という攻撃に打ち勝つ重要な戦略を始められたことを私は知りました。
愛の祈り
私は次のように祈ります。
1.愛は多くの罪をおおう(第一ペテロ4:8)
イエス様、あなたのように愛せるように私を助けてください。
2.指導者を敬う
第一テモテ5:17「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」
イエス様、尊う心を表せるように助けてください。
3.与える
ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人人は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
イエス様、これまで以上に与える者としてください!
4.神の家族を回復させる
ガラテヤ6:1「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」
イエス様、私が兄弟姉妹を愛し、愛と尊敬をもって回復させ、彼らが人生のデスティニーを成就できるように私を助けてください。それによって「この地で人々が救われ、主に仕える用意ができるように」というあなたのヴィジョンが完成されますように。
私たちは一致によって勝利する
私は砕かれて祈り、そして勝利して立ち上がりました。私は盾をもう一度見てみました。そこには「賛美」と書かれていました。私の信仰が涌き上がりました。私は心に新たな勝利を感じてイエスを賛美し始めました。
これらの盾を見ていると、食卓の上に何もないことに気がつきました。誰も食物を口にしたものはいませんでした。私たちは主の慈しみを味わい変えられていたのです—永遠に変えられたのです。イエスはあがないの時を今一度私たちに見せてくださいました。そしてあがないはすべての人のためなのです!
これを読んでおられる皆様、どうか私と共にみんなで主イエスと一つとなって立とうではありませんか。平和を作り出す天の軍隊に入り、私たちを愛してくださる主を賛美しようではありませんか。この地で肩と肩を組んで、私たちが天の我らの神に従い仕える用意ができていることをこの世に示そうではありませんか。教会に行っていないクリスチャンや救われていない人を混乱させる様々な意見の相違は横に置きましょう。
私たちは天にのぼり、祈りにより神の食卓に着いて主と交わり、聖なる巻物から天の新しい知恵、洞察を頂かねばなりません。私は永遠に変えられました。あなたもそうなることを祈ります。(終わり)
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