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Walk With God Ministries


04 10月

大いなる霊の大波  リック・ジョイナー       2011年10月5日


大いなる霊の大波

 

リック・ジョイナー

 

1987年に私は二日半に及ぶ預言的体験をし、これから起こる出来事のパノラマを主から見せられました。私はそこで見たことを「The Harvest」という本に著しました。私がその時見たことの多くはすでに現実となっておりますが、最も大いなる出来事であるこの時代の終りに起こる魂の収穫は、まだ起こっていません。しかしそれが今近づいています。

 

イエスは「収穫とはこの世の終りのことです。(マタイ13:39 )」と言われました。これは歴史上最大の魂の収穫であり、これまでのすべての収穫を合わせたものよりも大きなものとなるでしょう。私が見たヴィジョンの中で、収穫は2つの大波として現れました。第一の波は今まででは一番大きなものでしたが、それは来るべき最大の収穫のための働き人として神に召された人たちが刈り取られたに過ぎません。

 

この第一の波は、私がヴィジョンを見た直後から始まり、20年近く続きました。その20年間で、それまでの時代に救われたすべての人よりももっと多くの人たちがキリストを信じるようになりました。ピーク時には一日平均40万人もの人がキリストの下に来たという概算もあります。赤ちゃんが生まれる数よりもボーンアゲインする人の方が多かった国々もありました。アフリカや中南米、アジアで何千万人という人たちが救われました。

 

この波は北アメリカやヨーロッパにはほとんど達しなかったように見えますが、しかし、そこから多くの伝道者や働き人が世界中の大きなリバイバルのために遣わされました。そして、今、北アメリカやヨーロッパにも波が来ようとしています。一番目の波の後、神の最大の動きが始まる前に、しばしの 穏やかな期間があるのを私はヴィジョンの中で見ました。私たちは今穏やかな期間の最後に近づいていて、今まで地上でなかったようなリバイバルの波をまさに迎えようとしているのです。

巨大な収穫

 

津波が大海原の上を渡っているときは、さざ波のようにしか見えません。しかし陸に近づくと急激に高くなり、時として百メートルを越える高さに達します。数分のうちに穏やかだった海が高くうねり、行く手にあるものをすべて押し流していきます。 今は霊的に何も起こっていないように見えますが、霊の津波が来ようとしているのです。ですから私たちはそのために備えをせねばなりません。

 

ほとんどの教会が直面するであろう一番大きな問題は、爆発的な教会成長にどのように対処するかということです。ヴィジョンの中で、私は100人以下の小さな教会に時には一週間に千人もの新しいメンバーが加わるのを見ました。勿論、同じことがペンテコステの日に起こりましたし、他にも一日に何千人もが救われる事がありました。主から個人的に訓練を受けた12人の使徒にとっても、これはストレスとなりました。そのプレッシャーが最大になったとき、ディーコン(長老、監督)という新たなミニストリーが誕生しました。ここで生み出された教会生活の基礎組織は今もよいモデルであり、来るべきリバイバルを扱うために私たちはその機能的なシンプルさに戻る必要があります。

 

ヴィジョンの中で私は、教会が非常に大きくなり、フットボールやサッカー競技場を借りて礼拝をするようになるのを見ました。時には何千人、何万人という人たちが公園や大きな野外集会所に集り、聖書の教えを聞き、祈り、ワーシップをするようになります。全市をあげて、又、国全体がキリストに来るということが多く起こり、その国全体が一つの巨大な教会のようになります。

 

数年前、私は一週間 、一日に数時間ニュースを見ることに決め、良いニュースがどのくらいの割合であるかを調べました。そして一週間、私は一つも良いニュースを見なかったのです。ニュースはすべて難問 、危機、災害、苦難についてでした。それはまだ経済的にかなり繁栄していた頃のことです。今はもっと悪化しています。しかし変化がやってきます。次の波が来るときには世界中で良いニュースがほとんどになるのです。

 

何千、何万という人たちが、 祈りとワーシップのために計画もないのに自然に集まるというような出来事が起こり、それがその日一番のニュースになるでしょう。マスコミは、今は政治家や実業家たちを追っていますが、その時は使徒グループや伝道者たちを追うようになります。 主が「突然主の宮に来られるとき」には一番のニュースとなり、世界中の人がそれを知ることになるでしょう。

 

キリスト教の放送が今までに キリストに導いた人よりも、一般の放送局の人がもっと多くの人々を導くようになるでしょう。これはキリスト教の放送局の今までの働きを否定するということではなく、このリバイバルの 影響力のすごさを表しているのです。神がしておられる偉大な出来事のニュースのために、他のほとんどすべてのニュースは取り上げられないという期間が世界中で起こるでしょう。

 

ウェールズ地方やアズサ・ストリートでのリバイバルは、起こってから2年近く 世界中で繰り返し一面記事となりました。けれどもそれは来るべきリバイバルの前味であり、蒔かれた種であったに過ぎません。来るべき神のムーブはある面では過去に起こった沢山の神の偉大なムーブを一つにしたようなものと言えますが、しかし基本的に一つのことが異なっています。これは「神のムーブ a move of God」であるばかりではなく、「神が動いておられる God moving」ということになるからです。

 

これは単なる言葉のあやではありません。すべて真の神のムーブは 神が始められることだけは確かですが、神がその中におられない事が多く起こっても神は祝福してくださいます。しかし、これから起こることの中には神の顕在と臨在が非常に顕著であるので、人々は個々の真理とか神の業とかを追いかけるのではなく、主ご自身を追いかけるようになります。神のなされる業だけではなく、神ご自身のことを人々が話すようになります。このムーブはイエスを高く上げるものとなります。イエスが高く上げられるとき、すべての者が主に惹き付けられます。教義やプロジェクト、ミッションにではなく、主ご自身にです。

 

教義は勿論必要です。健全な聖書的教義を新しい信者に教えることは非常に必要とされていますし、すべてのクリスチャンが神の真理に堅く基礎を置くためにも教義は必要です。神の御心のプロジェクトやミッションの必要もあります。しかし、「最も大事なことを大事にしておくのが大事なこと the main thing is to keep the main thing the main thing」であり、「最も大事なこと」とはイエスです。真の使徒が伝えた福音はイエスでした。「彼らはイエスと死人のよみがえりを説いた。」のです。イエスが再びメッセージとなるでしょう。そして人々は主ご自身がしておられることに注意を向けるでしょう。

 

来るべきものは、使徒的福音の再来です。「道 The Way」とは一人のお方です。真理も一人のお方であり、もしそのお方を自分の命として知ることがなかったならば、実際のところ私たちは道も真理も知らないのです。主はご自分の教会の中で当然着かれるべき地位に着かれる(主個人が教会の中心となる)ために来られます。主がそうされるとき、教会は根底から変えられます。 「乞い願うものはただ主イエスです」と私たちが言うようになるとき(本来そうあるべきなのです)、教会は地上で究極の集団社会となり、大勢の人たちが流れ込んでくるでしょう。真のクリスチャン人生ほど偉大な冒険はなく、宗教ほど退屈なものはありません。宗教は真のクリスチャン人生によって取って代わられ、制度化した宗教は偉大な冒険によって押しやられるでしょう。

 

波を捉えよ キャッチ・ザ・ウエーブ

 

私たちは歴史上最もわくわくする時代に入ってきています。しかしこれは又警告でもあります。来るべきものに対する備えが出来ていないと、その犠牲になってしまいます。この世界的リバイバルは今までで最もチャレンジの多い出来事の一つとなるでしょう。神のムーブはこれまでもよく波に喩えられてきました。それは波が的確な喩えだからです。サーファーにとって大波に乗ることほどすばらしいことはあまりありません。しかし、あなたが波にただ漂っているときに大波が急に襲って来たら、砂を食み海水を沢山飲むはめになるでしょう。備えのない教会やミニストリーに対して、大リバイバルはそれと同じことをするのです。

 

波に乗るためには、波を捉えることの出来る正しいポジションで待っていなければなりません。波を捉えるためには、波がどこで砕けるかを見極めねばなりません。そして正しい位置で待機するのです。そして波が来たら正しい方向にむかって動き始めねばなりません。今はすべてのことが穏やかのように見えても、私たちは来るべきもののために、位置について波が来たときに正しい方向に動ける準備を整えておく必要があるのです。

 

私たちが正しい位置に付くために最も大切なことは、私たちの初めの愛—イエスへの愛―を回復し強めることです。私たちは皆、よい教えとかより良い生き方とかのためだけにではなく(これらも受け取りはしますが)、主のためにクリスチャンになったのです。 主のそば近くにいる人よりも 影響力の強い人は地上にありません。「主と共にいた」人たちは、今まで以上に人々の間で顕著になってきます。私たちは王なる主のうちに宿った分だけ真の霊的権威を持つことができます。来るべき大リバイバルに於いてリーダーとなるのは、主に最も近かった者たちでしょう。

 

来るべきものは、人間的なリーダーシップとか戦略でコントロールするには、あまりにも大きすぎるものです。万軍の将だけが率いることがお出来になり、そうされるのです。それはただ主の御ことば(書かれた御言葉から)聞くというだけではなく、御ことばなる主ご自身を聞くことなのです。来たるべきものに対する主な戦略は、主の御声を知り主に従うということです。主は御自分の民には個人的に指示を与えられるでしょう。これが使徒2:17−18の「終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」と言われている理由であり、 すべての人がこの中に含まれているのは明らかです。それは来るべきもののためには、このような導きが必要になる故であり、主を求める者にはこれまでもしてくださったように,私たちにもそのような導きを与えてくださるのです。

 

来るべき神のムーブは私たちが面する最大のチャレンジとなるでしょう。しかしそれはまた私たちの人生の最高の時ともなるでしょう。古き時代の預言者たちでさえ見たいと望んだものなのです。主は最高のぶどう酒を最後までとって置かれました。今これを読んで下さっている人の多くが、歴史上最大の神のムーブをその目で見ることになるでしょう。

 

私たちはそういう時代に生かされていることを感謝するべきですが、それと共にそれを大きな責任として受け取るべきでもあります。多く与えられた者からは多くが求められます。そしてこれからは多くの働きが必要とされるでしょう。しかし、マタイ11:28—30にあるように、くびきを主と共に負うとき、私たちは働きの中にも休息と安らぎを見出すことができるのです。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

くびきは寝るときにつけるのではなく働くためにつけます。しかし、私たちが主の働きの中で主と共にくびきを負うときには最高の休息と安らぎを得ることができます。主がこの世が始まる前から私たちのために備えていてくださった業をすること以上に、私たちを満ち足らせる職業はありません。それは人がほとんど経験したことがないようなレベルのエキサイティングで充実した人生となるでしょう。そして主にある安息を知り、そのなかに留まることがすべての人にとって最も重要なこととなります。大勢の人が新しく信仰に入ると、多くの働きが必要になります。その際、人間的に奮起し努力することに陥らないように気をつけねばなりません。御国の真の働きの中では、人間(肉)的な奮闘や努力はかえって働きを妨げることになるからです。

 

主は超自然なお方

 

私たちは霊なる神と交わりをもつように創造されました。ですから、霊的なもの、超自然的なものを深く慕う思いがすべての人の内にあるのです。多くの人はそれを抑え隠そうとしますが、神との霊的交わり無しに私たちが真に満たされ平安であることは決してありません。イエスはヨハネ4:23−25で次のように言われました。

 

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

使徒パウロは「私たちが肉体にいる間は(肉のからだを居心地の良い住みかとしているかぎり)主から離れている(第二コリント5:6−9参照)」と言っています。私たちは霊によって生まれた新しい創造なのですから、肉よりももっと霊的領域を住みかとするべきです。このことも来るべきものにおいては現実となるでしょう。また、山にむかって移れと言い、山が動くような「もっと大きな業」さえ起こり、神の御ことばが真実であることを証明することとなるでしょう。

 

真のクリスチャン生活は超自然的な生活であり、来るべきものにおいてはそれが現実となります。しかし、そのような奇跡を見るということは、そのような奇跡が必要な時代に生きるということです。人々は、主がなされる偉大な業への絶え間ない畏敬と驚嘆の中に生きるか、それとも世界の出来事に絶え間ない恐怖を抱いて生きるかのどちらかになるでしょう。使徒パウロは使徒行伝14:22で「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言っています。これは個人的にも、又世界にも当てはまる真理です。すべての試煉には御国への入口があり、全世界の究極的試煉の中には全世界が御国に入る入口があるのです。

 

ここで良いことは、艱難はいつかは終るものであり、それに反して御国は永遠に続くということです。主のおそば近くに留まる人たちは、艱難を通っているということさえほとんど気が付かないでしょう。預言的体験の中で、私はある時霊で上げられ、自分が戦艦のレーダースクリーンの前に立ち、主ご自身が横にいるのを発見しました。スクリーン上にこちらに向かって 真正面からブリップ(反射波信号)がきたので、私は船に90度方向転換するよう指示しました。船は方向転換しましたが、相変わらずブリップは正面から来て、それがだんだん近づいてきました。私は船にもう一度方向転換をするように伝えましたが、 結果は同じでした。私は衝突すると思い身構えましたが、突然ブリップ消え、何事も起こりませんでした。私は 一体何が起こったのかと主に尋ねました。主は、レイダースクリーン上のブリップは大きな災いの時を表すと言われました。それは必ずやってきて、それを避けることはできない、しかし私たちが主の近くに留まれば、それを感じることすらないのだ、と言われました。

 

自分の真の目的の中を歩んでいる者にとっては、大艱難さえも小さな出来事となるでしょう。反キリストがしていることよりもキリストがしておられることにもっと関心が寄せられるでしょう。イザヤ60にあるように「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおう」まさにその時、主の栄光が御民に現れます。そして3節にあるように、国々も又栄光の中を歩むのです。光が勝利するのです!私たちはサタンの策略を知る必要があります。しかし真の保証はキリストが何をしておられるかを知り、主の目的において主と一つになることから与えられます。

 

ダニエル書2章にあるように、人間のすべての国々はことごとく砕かれて塵のように滅びますが、神の御国は大きくなり、全土に満ちるまでになるのです。「神の国をまず第一に求めよ(マタイ6:33)」という主の命令に従う者は終りのない発展を経験します。しかし、この世のものを第一に求める者は困難が増し加わるでしょう。そして年ごとに両者の差ははっきりしてくるのです。今は私たちの追い求めるすべてのものを越えて、御国を第一とする時です。

 

来るべき波を捉えるための最も重要な準備の一つは、私たちのために備えられている聖霊の賜物とその働きを知り、実際にその中を歩み始めることです。エペソ4章に書かれている新約時代の真のミニストリーへの指令 は、自分でミニストリーをするだけではなく、他の人々をミニストリーのために整えることです。この指令に従わない者は教会のリーダーシップからやがて姿を消すことになるでしょうし、人々を訓練し整える者はキリストのからだの将来のリーダーとなるでしょう。彼らは自分に委ねられた人々の能力を埋もれさせないで、それを育て大きく成長させていくのです。キリストのからだのすべての部分が各自の任務を果たすことなしに、 この時代にするべき私たちの任務を達成することはできません。

 

まとめ

 

私は過去5年間に渡り、 多くの困難、苦難が来ようとしていることをお話してきました。そして今までのところ、それらが正確であったことが証明されています。 私たちがお伝えせねばならなかったことを聞き信じた人は多くはありませんでしたし、正直なところ多くの厳しい言葉を言うのは私にとって楽しいことではありませんでした。ですが、これらすべての困難、試煉は御国に入る入口であり、私たちはそこを今通って行かねばならないのです。警告を聞いてそれに応じて備えた人たちはよい対処ができました。備えのある者はどんなときでも繁栄します。今の時のために私たちができる最も大切な準備の一つは、生活の簡素化です。

 

その日には、物を手に入れたり失ったりという事柄は、私たちが真の目的のために整えられて正しい位置についている事に較べれば重要なことではありません。持っているものを全部失ったとしても、来るべき最大の霊的機会を見過ごすことに較べれば、大したことではありません。私たちが人生で達成できる最も価値あることは、裁きの日に「よくやった。良い忠実なしもべだ。(マタイ25:23)」という最高の言葉を主から聞くことです。その日にこの言葉を聞くことを、自分がした すべてのことと喜んで交換しない人はないでしょう。今から私たちはその言葉を聞けるように生きるべきです。そのようにする人は最も幸せな人であり、その喜びは永遠に無くなることはないのです。(終わり)

 


26 09月

3種類の霊的覚醒 ジェイムス・ゴル 2011年 9月26日


3種類の霊的覚醒

ジェイムス・ゴル

ルー・イングルとの共著である「The Call of the Elijah Revolution」の中で、私は霊的覚醒awakeningの3つの段階、タイプについて書きました。穏やかな覚醒、荒々しい覚醒 、そして大覚醒の3つは、聖書の中ばかりでなく世界の出来事や教会の歴史の中にも見ることができます。

 

穏やかな霊的覚醒

あなたがクリスチャンになったばかりでないならば、この20年ほどで、神がご自分の民との親密な関係を 望んでおられることへの人々の理解が 深まったことを知っておられるでしょう。人々の目を覚ますために神が取られた方法は、聖霊の傾注outpouringsにより人々がもっと神を愛することが出来るようされたことでした。このような御霊の傾注は「川」とか「父なる神の祝福」とか単に「リニューアル」、又「リバイバル」とも呼ばれてきました。地上のあらゆる場所で、人々は神の臨在を自ら体験し、主の慈愛を愛し、笑い、楽しむという自由と解放を得ました。

それと時を同じくして、今までになかった規模でのとりなしの祈りのムーブメントが起こり、これは未だ衰える気配はありません。祈りのミニストリーには様々な形があります。例えば24/7の「ハープ・アンド・ボール」のワーシップととりなし、世界祈祷日、そして個人的なシンプルで忠実な祈りと断食などがあります。私たちのミニストリーはインターネットを通じて「Global Prayer Storm 」という働きをしていて、世界中の人々が「The Hour That Changes the World 世界を変える時」に参加出来るシステムを作っています。クリスチャン(特にペンテコステ、カリズマ、第三の波の人たち)が、愛情深い御父によって覚醒され、 祈りでもって熱心に昼も夜も「見張り 」を続けているのです。

この預言的な復興は、 福音伝道の働きが回復されたことに伴い、教会の重要な任務として始められました。祈り、預言、伝道の3つは、神の穏やかな覚醒、呼び起こし です。

教会のリバイバルと共に、イスラエルやユダヤ人の中に多くの進展がありました。 メシアニック・ジューの教会はイスラエルの中でさえどんどん増えています。 又、これまでにない多くの人々が世界中から移住し、それによってイスラエルの人口は増加しています。

 

歴史を見ると、ユダヤ人がイエスをメシアとして信じるリバイバルの波は幾つかありました 。最初の波は、勿論、使徒行伝の初めの部分に記録されています。それから時代を下ると、1880年から1900年(第一次世界大戦の前)にかけて、新しい波がヨーロッパに押し寄せました。10万人ものユダヤ人が信仰を持ったと言う人たちもいます。

 

1967年から1975年にかけて (この時エルサレムはユダヤ人のコントロール下となった)、先述の様々な発展を促進させたカリズマ的リニューアルが世界中で芽を出していました。カリズマ的ジーザス革命は、アメリカ全土で多くのユダヤ人をもすくいあげました。「ジューズ・フォー・ジーザス Jews For Jesus」や同様の団体がこの時に誕生し、「イェシュア(イエス)は生きておられる!」と宣言したのでした。このニュースは当然ながら疑いの目で受け取られましたが、多くの人々、特に若者たちがイエスの弟子となったのでした。メシアニックのリーダー達(父親たちと呼んでもいいでしょう)が立ち上がり、それはマラキ4:5−6の成就となったのです。

 

「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を滅ぼさないためだ。」

又、立ち上がったのは「父親たち」だけではなく、「子どもたち」も父祖を敬うことを学び、神がアブラハム、イサク、ヤコブとかわした契約をしっかりと自分のものとしたのでした。

 

1980年代の初め、イスラエルの国で小さなリバイバルが起こりましたが、その時代にあってこれは大きな出来事でした。恐らく5万から8万人のユダヤ人がイェシュアをメシアとして信じる者となりました。それに続いて1990年代初頭、もとソビエト連邦であった多くの地域(ロシア、ウクライナ、ベラルース) で霊的な動き、覚醒が起こりました。何万という「北の国からの」人々がイスラエルに移民してきました。次から次へと波のように多くのユダヤ人がイスラエルに、あるいはイエスの信仰へと入っていったのです。それは今も続いています。黙示録7:4に書かれている事の確実な意味はまだ秘められた奥義ですが、イスラエルの12部族からの14万4千人が「印を押されている」と書かれています。そしてこの印の実がその次に書かれています。

 

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」黙示録7:9−10

 

計画は着々と進んでいます。ゆっくりと穏やかにユダヤ人たちは目覚めはじめたのです。異邦人クリスチャンも目覚め始めていて、神の目的のために神とくびきを共にして、 ユダヤ人の兄弟たちに対して自分たちがとるべき責任があることに気付き始めたのです。異邦人クリスチャンは、イスラエルのために祈ることは即ち、神が地上のすべての国々にもっておられるゴールのためであるということも理解するようになりました。世界的リバイバルが、そして主ご自身が来られようとしています。そのすべての事がユダヤ人と関連し結びついているのです。私たち一人ひとりに果たすべき役割があるのです。私たちは聖霊に従い自分の住む地域で働くときにも、世界で起こっている事実に目覚めなければなりません。

 

以上は私が「穏やかな覚醒」と呼んでいるものの一部であり、神がご自分の民に優しく声をかけて促しておられるのです。神はそのあわれみと慈しみの故に、人々が義とまことの命へと回復することを望んでおられます。 神が優しく何度も招いてくださるのに応答しないときには、神は(これも又その慈しみとあわれみの故に)私が「荒々しい覚醒(乱暴に叩き起こされて起きる)」と呼んでいる方法をとられます。

 

荒々しい覚醒

 

人々が壁に顔を向けてしまって主の優しい呼び声に目を覚ますことを拒否するならば、彼らは乱暴に叩き起こされることになるのです。主の覚醒の核心は聖さです。預言者アモスは、神が重りなわを下ろして民の従順さを計られることを書いています。

 

「主は私にこのように示された。見よ。主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられた。主は私に仰せられた。『アモス。何を見ているのか。』私が、『重りなわです。』と言うと、主は仰せられた。『見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。イサクの高きところは荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。』」アモス7:7−9

 

神の重りなわ(神の完全な義の基準 )によって人々の罪が明らかにされる時、神は彼らの注意を喚起するために警報を鳴らします。これは多くの揺り動かしを必然的に伴い、しばしば実際の地震であることがあります。自然災害は、テロや戦争と同じく荒々しい覚醒という範疇に入ります。

神は近い将来に起ころうとしている世界的大覚醒の時までに、できるだけ多くの人々の目を覚ましたいと願っておられます。あわれみ深い神による優しい覚醒にすべての人が応答するのを待つには、あまりにも時が迫っているのです。荒々しい覚醒は心地よいものではありません。実際のところ人々は災難に次ぐ災難のように感じるでしょう。 しかし、それは効果があるのです。荒々しい覚醒は人々を全能の神に降伏しひざまずかせます。人々は悔い改めます。言葉を変えれば、人々は神の重りなわと一致するようになるということです。

イスラエルに関して言えば、荒々しい覚醒は人々を祖先の地へと帰らせることができます。 そして 不信仰な古い石の心に換えて新しい肉の心を彼らに与えることが出来るのです。

これは真にユダヤ人と世界にとって「死者の中から生き返ること」です。(ロマ書11:15)これが歴史上最大の霊的覚醒とメシアなるイエス・キリストの再臨への先駆けなるでしょう。

 

世界中が戦争の危機に直面しています。今の時代を 「第三次世界大戦」と預言的に呼ぶ人たちもいます。この戦争とは、過激派のイスラム教徒がイスラエルと西洋を破壊しようとしているテロとジハードのことです。これは本物の脅威です。 残酷な死が毎日起こっています。それにも拘わらず、ほとんどの西洋人たちは現状を把握せず、何の影響も感じないで安楽に暮らしています。彼らはイランの大統領アフマデネジャドや故ビン・ラデンの傲慢な脅しに注意を払わず、ただ自分の身辺の事だけを考えているのです。

 

この世界大戦はすべての大陸に及びます。それは 人権の軽視、民族の大虐殺、腐敗、公然たる憎悪であり、多くの場合宗教的な表現で装われています。これは目に見える形に顕れた霊的な戦いです。よく聞いてください。これからもっと事態は悪化します。そしてそれに対する正しい応答は、目をつむることでも運命論者になることでもなく、祈りであり、それも多くの祈りをすることです。神の守りと助けがあるように祈ってください。そして本当の目標—霊的覚醒—に 焦点を正しく合わせることを忘れないでください。このように叩き起こされながら眠っている人があってはなりません。今は目を覚ますときです! 何故でしょうか? それは、神はまたこれからは良い事が起こることも宣言しておられるからです! 闇は一層暗くなりますが、光が今ある闇を貫き通して輝き出るからです。

 

世界的大覚醒

 

穏やかな覚醒と荒々しい覚醒の次に前代未聞の大覚醒があります!この大覚醒はすべての人を巻き込みます。それはこの時代のクライマックであるイエス/イェシュア、キリスト/メシアの再臨の先駆けであるからです。この大覚醒がどのようなものかは誰も知りません。しかし、それに対してどのように備えればよいかは知っています。どのように備えるのでしょうか? まず初めに私たちは神の声に応答せねばなりません。それは肉の耳には聞こえないささやきかもしれませんし、私たちの苦難の最中に神が叫ばれている声かもしれません。

 

人々の目を覚まされた神は今、世界中の多くのクリスチャンに行動をおこすようにと召されています。これらのクリスチャンは過激であり革命的です。彼らは現代のナジル人になれという神の召しを聞いたのです。 一心に心を定めて失われた世界を神の御国に奪回する勤めに身を捧げるのです。彼らは自分が払う代価の大きさをものともせず、 互いに結束し、犠牲的な生活をし、祈りと断食を進んでして、義とリバイバルのために堅く立つのです。

 

彼らの祈りの目標は、究極のイスラエルの霊的覚醒です。「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。

こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。』」(ロマ書11:26)

この後半の部分は預言者イザヤからの引用です。 「『しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』主の御告げ。」(イザヤ59:20)

 

預言者たちは次のことを指し示しています。エレミヤ31:34には「『…彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。—主の御告げ。—わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』」とあります。これは最終的な覚醒であり、神が選ばれた民、ユダヤ人への宣言です。終りの時が近づいています。あなたが異邦人であれユダヤ人であれ、目を覚ましてください! 主の顕在の臨在と主の来るべきその日を、どうか見過ごすことのないようにしてください!

すべてのことにおいて主イエスが高められますように!(終わり)

James W. Goll
Encounters Network • PrayerStorm • Compassion Acts
Email: info@encountersnetwork.com


19 09月

水がめを肩から降 ベン・ピーターズ         2011年9月20日


水がめを肩から降ろす

ベン・ピーターズ

 

モザンビークでのハイディとローランド・ベイカーのミニストリーの下で働いているとき、 新しいレベルで啓示の霊が働くのを私はいつも感じます。この8月にペンバに於いて私は今の時に適った一つの洞察を、とてもシンプルなことから与えられました。それはイスラエルの父祖の時代に普遍的であった習慣に関するものでした。この聖書箇所を私は今までに幾度となく読んだにも関わらず、このような洞察が与えられたのは初めてであり、これは「この時のために such a time as this」、預言的な人々、真摯な信仰者たち、キリストの花嫁として選ばれ整えられている人々のために与えられたのだと私は信じます。

 

「水がめを取り降ろしなさい」

 

創世記24章には、アブラハムのしもべがイサクの花嫁を忠誠を尽くして探す話が書かれています。イサクは、忠実で信仰に満ちた父親から大いなる財産と契約の約束を相続する者でした。多くの説教者や教師たちは、アブラハムのしもべを主イエスの花嫁を見つけ整えるために来られた聖霊に喩えています。

 

しかし私が 今回初めて心に止めたことは、 一見何でもないような表現がこの箇所で繰り返されていることでした。最初は14節に書かれています。「Please let down your pitcher that I may have a drink. あなたの水がめを降ろして水を飲ませてください。)」ここで重要なのは「あなたの水がめを降ろして」という所です。

 

15節ではリベカが「水がめを肩に載せて出て来た。」と書かれています。リベカは泉に行き水がめを満たし家路につこうとしていました。それは水の一杯入った水がめを肩にのせて長い道のりを歩いて行くことを意味していました。その時にアブラハムのしもべが水をのませてほしいと彼女に頼んだのです。

 

どうか18節に書かれていることに目を止めてください。「すると彼女は『どうぞ、お飲みください。だんなさま。』と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。」とあります。その次にリベカが、しもべがイサクの花嫁を選ぶために主に願ったしるし通りに、全部のらくだに水を飲ませたことを私たちは知っています。

 

リベカとラバンの家に着いて、アブラハムのしもべは自分の旅で起こったことをリベカの家族に話しました。45、46節に詳しく話しているのを見てください。

「私が心の中で話し終らないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください。』と言うと、急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。」

 

ここで直ぐに分かることは、泉から水をテントや家に運ぶ女性たちは、重い水がめを肩まで持ちあげて家までの長い道のりを帰らねばなかったのです。多分それは骨の折れる難しい仕事であり、若い女性はみな習得せねばならない仕事でした。水の一杯入った水がめを肩から降ろすのも、また大変だったでしょう。女たちは、のどの渇いている家族のために注意深く運んで来た貴重な水を少しでもこぼしたくなかったからです。

 

見知らぬ他人に水を与えるのは、家路を邪魔されることであり、水がめを肩から降ろし又持ち上げるという仕事が増えることを意味しています。それに水の減った水がめに水を汲んで足すという仕事もあるでしょう。

 

一人の人のために立ち止まる

 

ハイディ・ベイカーの「一人の人のために立ち止まる」というメッセージが力強く迫ってくるのはこの時です。私ならば、この見知らぬ旅人の願いは自分の現在の個人的目標を妨害するものだと思うでしょう。「この人は私がもう歩きだそうとしているのが分からないのだろうか?」とか「私や家族のための必要を満たす大切なものをもう肩に載せているのだから。」と思うことでしょう。遠くまで 汲みに行き肩に載せて帰らねばならないことを思えば、水の貴重さを強調しすぎるということはないのです。

 

「この男は私と私の家族のものを犠牲にせよと頼んでいるのだ」と私は感じるでしょう。 「彼の必要を満たすためには私の時間や労力、そして資源を与えねばならない。 私は自分自身の必要も考慮せねばならない。この男も自分の手があるではないか!自分で井戸から水を汲んで飲めばよいではないか。 私は水がめをもう肩に載せてしまっている。どうしてそれを又手に降ろして彼に水を飲ませねばならないのだ?」と私は思うことでしょう。

 

しかしリベカはこれを見知らぬ人を祝福するよい機会だと捉え、躊躇せず素早く肩(旅の姿)から水がめを手(仕える姿)に降ろしてしもべに水を与えました。リベカはイスラエル(ヤコブ)の産みの母となりましたが、この出来事は彼女の人生において、自分の将来ばかりか多くの人々や国々の将来を変えることになったのでした。彼女が少しの時間と労力と資源を犠牲にした故に、彼女はアブラハムの財宝からの高価な飾りの贈り物を受け、そして繁栄し富んでいる男性の妻となり、そして夫はユダヤ民族の偉大な父祖の一人として歴史を通して顕著な者となったのです。

 

妨げを神からのアポイントメントに変える

 

主は私たち個人に、またキリストのからだ全体に今語っておられるのだと思います。ヘブル13:2には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。邪魔が入っていらいらさせられるような時、それを神による運命的な出会いに変える機会として掴むことが私たちに出来るでしょうか? それとも自分の保身だけを求めて、神を信頼する必要もなく冒険もない普通の人生を送るのでしょうか?

 

生まれたままの肉の人間は、自分自身の家の安全、保証のために一生懸命働いて貯蓄し備えます。彼は自分が老年になった時、また自分が死んだあとのために、 十分な保険、年金、財産があるようにします。しかし、ある時、神が一人の人を彼のもとに遣わし、その人の必要のために自分の保身を犠牲にせねばならなくなるかもしれません。これは人にとってとても難しいテストであり、結論を出すまでには普通時間がかかります。

 

経済的資源を分け与えることは一番簡単なことかもしれません。神は、私たちの人生に神によって与えられた時間や労力、霊的賜物、聖霊の実を、私たちがもうこれ以上出せない、与えたくないと感じるときにも分け与えるようにと言われるかもしれません。又それは、私たちが何千人もの人々にミニストリーをするために極めて重要な聖会に行く途中であるかもしれません。たった一人の人のために立ち止まる時間などないのです。それで祭司やレビ人と同じように、私たちのエルサレムでの任務のために傷ついた旅人を通り過ぎて行き、「妨げ」を「よきサマリヤ人」となるべき神からのアポイントメントへと変える機会を失ってしまうのです。

 

神のなさり方は変ってはいません。神は今も「一人の人のために立ち止まる」特別のチャンスを私たちに与えてくださり、そうすることによって私たちは神に仕えることができ、自分が高められ祝福を受ける扉を開くことができるのです。聖霊と親密に交わりながら歩くことがどれほど重要かという理由がここにあります。私たちが出会う人々全員に彼らが欲するものを与えることは勿論できません。世界の多くの国では、一日のうちに何百人という乞食にあなたは出会うかもしれないのです。しかしその中の一人がイサクの花嫁を探している「アブラハムのしもべ」であるかもしれないのです。その人を逃したくはないでしょう。秘訣は聖霊の御声を聞きながらしもべの心を常に持って歩くことであり、 指令を受けたらすぐに立ち止まるこころの備えがあることです。

 

「わたしはリベカの霊を解き放つ」

 

イエスは主の民に対して語っておられると思います。主は今日、主の民に次のように語っておられると思います。

 

「わたしの聖霊は今、 わたしの花嫁がわたしの喜びとなるように真剣に整えています。聖霊は花嫁に水がめを取り降ろして主に水を飲ませてほしいと頼んでいます。しかし聖霊は他の人々、『一番小さな者』を通して水が欲しいと語られるのであり、誰が水がめを肩から降ろして渇いた者に水を飲ませるかを、一人ひとりテストしています。

 

又わたしは『リベカの霊』をわたしの教会に解き放っています。わたしは愛とあわれみのわたしの心と同じ心になる人たちの世代を興しています。彼らはテストに応答するでしょう。彼らは肩から水がめを手に降ろして、わたしのこころが祝福することを切に願っている人々に水を飲ませようとするでしょう。そうすることによって彼らは愛の捧げものをわたしに注いでいるのです。

 

彼らの従順の結果として、想像もできないほどの祝福がもたらされるでしょう。若いレベカがアブラハムのしもべからその時豪華な贈り物を受けとり、そしてイサクに嫁いだ時には莫大な富を得たように、わたしの王国にいる者たちは天と人々から突然にものすごい祝福を受けるでしょう。わたしはわたしの花嫁を、わたしと共に治め君臨するために聖め整えています。わたしの花嫁は、わたしが持つしもべの霊と愛とあわれみのこころとに完全にひとつにならねばなりません。互いに仕えあうことによって、あなたがたはわたしの永遠の花嫁を強め美しくします。それは又互いに愛しなさいというわたしのいましめを成就することにもなります。」

 

私たちの多くは、度々預言されてきた「富のtransfer移行」をずっと待ち望んできました。しかし、もしかしてある者たちは 肩に載せていた水がめを降ろすチャンスをすでに逃してきたのかもしれません。私たちは渇いている人々に水を注ぐことができたにも拘わらず、それはあまりに自分に都合が悪かったので、 助けを必要としている人のために立ち止まらないで先を急いだのです。

 

本当の犠牲なしにレベカは驚くべき運命を経験することは決してなく、富を受け取ることもなかったでしょう。しかし私たちがいままで水がめを降ろす機会を何回も逃してきたとしても、恵みとあわれみに富む神は、私たちが求めさえすればこれからもっとその機会を喜んで与えてくださいます。

 

しかし今までにも神の愛が多くのクリスチャンを通して流れだしており、それは見た目には小さいと思える沢山の犠牲を彼らがすでに払ってきたからであると私は信じます。そして隠れたところでなされたことを人々の前で報われる神は、彼らに大きな報酬を授けられるのです。

肩に水の満ちた水がめを載せながら、忙しすぎて誰かの必要を満たすことができないことがないように気をつけてください。それを取り降ろして神への生け贄として注ぎ出す時間と労力を惜しまないで下さい。その時起こる結果にあなたは驚くことになるかもしれません。(終わり)

 

Ben R. Peters
Kingdom Sending Center
Email: ohmint@gmail.com


12 09月

病とトラウマの霊に打ち勝 マット・ソーガー 2011年9月13日


病とトラウマの霊に打ち勝つには

 

マット・ソーガー

 

 

真に油注ぎのある御霊によるミニストリーをするためには、霊的領域を見分ける力が絶対に必要です。 霊の見分けが正確に出来るならば、私たちはもっとレベルの高い超自然的な力と権威を持って回りにいる人々の人生を変革することができるのです。

 

病の霊に勝利する

 

病気に対する悪霊からの影響を察知することに関して考えてみましょう。聖書を読むと、病気には自然的な原因によるものと、悪霊の影響によるものとがあることがはっきりと分かります。霊を見分けることによって病気の根が霊的なものであるかどうかが分かります。ルカ13:10−13がその例です。

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました。』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」

 

この箇所では二つの業が起こっていることが分かります。先ず、女は霊(病の悪霊)によって縛られていました。その霊は18年間も彼女を苦しめたので、彼女は腰が曲がって伸ばすことができませんでした。イエスは聖霊の力により彼女に霊的圧迫があることを見分けられ、その霊に対して権威を執行しました。この時主は悪霊に 直接話すことはされませんでした。主はただ「あなたの病気はいやされました。」と言われただけでした。そう主が言われるとすぐに悪霊は立ち去らざるをえませんでした。

 

彼女が病の霊から解放された後、イエスは彼女に手を置かれて曲がった身体を癒された、と聖書は述べています。悪霊は去っていきましたが 腰はまだ曲がったままであり、 彼女には身体の癒しが 必要だったことが分かります。悪霊の圧迫によって 背中と筋肉に与えられた影響は癒されねばなりませんでした。病の霊を追い出されたあとで、イエスは彼女に手を置かれて癒しをされたのです。

イエスは先ず霊の見分けによって霊的解放をされ、次に神の癒しをされました。私たちはここで解放と癒しが共に機能しているのを見ることができます。効果的なミニストリーをするには、私たちは解放のミニストリーも行う必要があるのです。イエスは両方をされましたし、私たちも時としてそうする必要があります。

 

霊的解放と癒しが共に働く法則は、ひきつけで苦しんでいた少年の上にも見ることができます。ルカ9:42で、イエスは汚れた霊を叱りつけ、子供を癒して父親に渡されました。

「その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それでイエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。」

 

イエスは地上でのミニストリーにおいて3つのことをされました。即ち主は悔い改めを説かれ、病人を癒し、悪霊を追い出されました。(マルコ6:12−13)私たちも今日主と同じようにその通りのミニストリーをすることができます。

 

トラウマの霊を扱う

 

数年前のある聖会でのことですが、身体の癒しを必要な人たちを前に招いたことがありました。ジョージア州の聖霊に満たされたメソジスト教会でのことです。すると93歳の夫と91歳の妻が 祈ってほしいと一緒に前に出てきました。これは癒しのミニストリーをする場合にどれほど霊の見分けが重要であるかを示すよい例です。夫は立っているのが大変だったので壇の上の椅子に座り、妻はその隣に座りました。そして彼の前にいた祈り手たちが癒しの祈りを始めました。私はこの夫妻を見ていたのですが、突然私の霊的な目が開き、夫の首と頭の後ろに小さな黒いボールのようなものが見えました。それは悪霊でした。

 

私は彼に近づき、手を彼の首の後ろに当てました。私は「悪霊よ、出て来い!」と大声で叫ぶことはせず、 静かに、しかし権威をもって「イエスの御名により命ずる。この人を手離せ。」と言いました。 悪霊に対する権威を神が下さったので私はそのように命令したのです。すると老人は直ぐにびっくりしたように目を丸くして私を見上げました。彼には何が起こったのか分かりませんでした。彼は涙を流しながら 「 一体何が起こったのですか?痛みが全くなくなりました!」と言いました。

 

私は彼に「どういう事があったのですか?」と訊ねました。 すると彼は「一年前、私は家の中でスーツケースにつまずいて転び、床で頭を強く打ちました。それからは頭が絶えず痛くて一年間眠ることができませんでした。」と教えてくれました。

このような場合は「敵(サタン)がトラウマの霊を使って感情的領域だけではなく肉体的領域にまでどのように攻撃してくるか」を理解する必要があります。トラウマを引き起すような経験をしたとき、敵はそれを利用しようとするのです。時としてトラウマを経験した人に(例えば交通事故とか怪我等)病の霊がトラウマの場所に引っ付いて、普通よりずっと長期にわたって痛みを引き延ばします。このように悪霊が引っ付くと自然に治癒するプロセスを阻み、病気を長引かせるのです。

 

このことは身体のトラウマにも心のトラウマにも起こります。愛する人を亡くした人たちがそれから何年も悲しみにくれているのを私は見てきました。普通に悲しむべき期間は勿論ありますが、その後で癒しが起こっていくのが自然です。悲しみの霊やトラウマの霊が心の傷に取り付くと、その悲嘆の苦しみはずっと長く続きます。あなたがトラウマの霊を見分けられるならば、それを追い出す権威を持つ事ができ、苦しむ人に解放と癒しをもたらすことができるのです。

 

病の霊はどのように人に取り付くか

 

この老人に起こったのは次のことでした。彼が転んだとき、病の霊がそれを利用して彼の身体の傷にくっついたのです。これはいつも起こることではありませんが、彼の場合はそうでした。彼には癒しの祈り以上のものが必要でした。人々が彼の癒しのために祈っていたとき、彼は癒されませんでした。しかし私が彼の苦しみに対する霊的見分けを与えられたとき、神の力は彼を解放し、次に癒したのです。彼がまず必要だったのは霊的解放の祈りであり、それによって悪霊の力は神の権威によって追い出されました。その瞬間に彼は癒されたのです。

 

次に私は彼の両耳に補聴器があるのに気がつきました。私は「補聴器を外してください。」と言いました。私は彼の両耳に手を当て 権威を持って聾の霊に向かいました 。聴覚の問題は自然なものの場合もあり、それに対しては癒しが必要ですが、他のものは聾の霊によって引き起こされています。この老人の場合は聾の霊によるものでした。私はその霊の上に権威を持って立ち去るように命令しました。

 

老人はまた更に目を丸くして私を見上げて言いました。「私の耳から何かが引っぱり出されている!」そしてポンと彼の両耳はたちまちに開いたのです。聾の霊が彼の両耳から引き抜かれました。93歳の両耳がポンと開いたのです。「まあ、それは歳を取ったということですよ。目がかすみ、耳が聞こえなくなるのは当然です。仕方ないですよ。」という人たちもいます。でも違うのです。神が あなたをイエスのもとへと連れていってくださるまで、ずっと健康で丈夫でいることが出来るのです。

 

この93歳の夫は頭の癒しを受け、また両耳もポンと開きました。次に彼の妻の方を見ると、彼女も一つ補聴器をしているのに気がつきました。私は「補聴器を外してください。」と言いました。すると彼女の耳もポンと開き、彼女は夫の方に身を寄せて「あなた、これからはお互いに大声で叫ばなくてもいいみたいね。相手の言うことが聞こえるようになったわね。」といいました。彼らは全結婚生活を通して叫び合っていたのです。といっても彼らは新婚一年目でした! 誰でも遅すぎるということはありません。(終わり)

 

Matt Sorger
Matt Sorger Ministries

Email: info@mattsorger.com


04 09月

「フランシスに会いたい、と伝えてください」フランシス・フランジペン 2011年9月5日


「フランシスに会いたい、と伝えてください」

フランシス・フランジペン

 

サタンは、この世的なものを使ってあなたの気を神から逸らすことが出来ないときは、あなたを疲れ果てさせるという手段を用います。実際、私たちはなんと簡単に疲労困憊してしまうことでしょう。神から力を受けずに 「善き業」をする時、私たちから命とエネルギーが奪われてしまいます。

ダニエルは終の時に関して、敵は「wear down the saints of the Highest One (いと高き方の聖徒を疲れ果てさせる)」 と言っています。(ダニエル7:25)私たちが神の臨在なしに御心を行うことなど、神は決して意図されませんでした。神の目的を達成するための力は、祈りとキリストとの親密な関係から生まれます。 尽きることのない霊的な力の川を私たちが見出すのは、 神と共に親密に過ごす時間においてです。

 

善き業で疲れきる

 

1970年代の初めに私がミニストリーを始めた当初、 夜明けから正午までの時間を主のために聖別するようにと主から示されました。私はその時間を、祈りとワーシップ、御言葉の学びに用いました。 何時間も主をワーシップし、すばらしい 愛の聖所から生れ出る 賛美の歌を作ったことも度々ありました。主の臨在は私の喜びであり、主と過ごす時間はただ有益であるばかりでなく、主と私にとってとても楽しい時であることが分かりました。

 

しかしキリストによって私の人生に 実が実り始めるにつれて、 聖霊は 助けを求めてくる人々を私のもとに送り始めました 。次第に更に多くの人が来るようになり、私は主との時間の最後の45分を省略するようになってきました。時としてミニストリーの時間が夜遅くまで続いたので、以前にように朝早く起きることもなくなりました。

 

教会の成長に伴う様々な問題で、残されたディボーションの時間もあまり充実したものではなくなってきました。教会で働く人たちが増え、新しいミニストリーのための訓練やカンセリングや霊の解放のために、 主との時間は使われるようになってしまいました。勿論この変化は一晩で起こったわけではありません。何ヶ月も何年もの間に少しずつ、教会が「順調に成功」して行くにつれて、私のディボーションの時間は削られていきました。遂にはミニストリーが拡大していく一方で、それを支えて行くための油注ぎは減少していくという状態にいる自分を私は見出したのでした。

 

ある日、私のために常にとりなしの祈りをしていてくれる友人から電話がありました。彼が言うには、前の晩に主が夢で私のことを語られたというのでした。主が友人に何を語られたのか、もしかして主は教会のアウトリーチを増やしてくださるのか、もしかして必要な財源を与えてくださるのか、と思い、私の心は早く聞きたいという気持ちで一杯になりました。そして彼に夢の話をしてくれるように頼みました。

 

主が言われたことは、私が時間を費やしているプロジェクトや何を優先するかということには直接には関係のないことでした。主はただ「フランシスに会えなくて淋しい、会いたいと伝えてください。」と友人に頼まれたのです。

 

ああ、私たちはイエスと時を過ごすという特権をおろそかにする時に、何という重荷を背負い、何と疲れを溜め込んでいることでしょうか。私は主の御前に悔い改めて泣きました。そして自分の人生で何を一番にするかという優先順位を改めて調整しました。もう午前中にカンセリングはしないでおこう、その時間は再び神と共に過ごそう、と私は決意しました。

 

その頃教会に来始めた幾人かを失うだろうことは明らかでした。彼らは個人的なミニストリーを求めて来た人たちだったからです。前のようには彼らのために時間を割けないことは分かっていましたが、私は神のために決断をせねばなりませんでした。

私は次の日曜日に 会衆の前で、「午前中は神のために私の時間を聖別する」と発表しました。私は言いました。「お願いですから、電話をしないでください。カンセリングもしません。主と時間を過ごさねばならないのです。」私がそう言ってから次に起こったことは、私を驚かせました。全員が立ち上がり拍手をしたのです!彼らは神ともっと時間を過ごすリーダーが欲しかったのです!彼らは疲れている牧師にうんざりしていたのです。

 

これからこようとしている時代に、私たちがするべき第一の業は、キリストに仕えることです。これからは確かにプレッシャーも増し加わるでしょう。大いなる収穫と霊的な働きも起こるでしょう。しかしどのような状況の中にあっても、私たちが変ることなく先ず一番に立つべき場所は、神の臨在の中です。イエスとの交わりの時間を今持たなければ、主の顕れの日に主の栄光を見ることもできないのです。

 

祈り:父よ、私たちが密室で主と過ごすときに受けるイエスの香りがこの世に放たれるときに、 あらゆる場所で人々は初めて 主を知るようになります。多くのことに気を使い心配していたことをお赦しください。あなたの足下に座ることだけが唯一必要なことです。私はよい方を選びとります。そして決して取り上げられることのない 良いものを、あなたとの親密さの中で感謝をもって受け取ります。(終わり)


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