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Walk With God Ministries


10 01月

安息のオペレーション・システム    ボブ・ハートレイ         2012年1月11日


安息のオペレーション・システム

ボブ・ハートレイ

 

2011年から2020年への神の希望に満ちた見解

 

地上では様々な問題やチャレンジが起こっている今、主は、地上で起こるすべての問題の解決法を示し、 2011年から2020年のための希望に満ちた預言をキリストのからだに与えておられます。主ご自身が解決です。主は私たちをいろいろな方法で調えられ、それによって私たちが主の住まわれる住まいとなり、 ビジネスや教育機関、又家庭の中で主の臨在と希望を顕す器となるようにしてくださっています。主は私たちに今シーズン、「希望に満ちた眼鏡(天からの主の希望に満ちた視点で正しくものを見る能力)」と、「希望に満ちた補聴器(希望の神である主の御声を正しく聞く能力)」、そして「正しい武具(すばらしい仲間と、愛と希望に満ちたコミュニティーで自分を囲む重要さ)」で調えていてくださいます。そして今、主は「安息に基づく希望に満ちた新しいオペレーション・システム( 働き方)」を与えてくださるのです。

私と娘はこの新しいシステムを預言的に表すものについて 話合ったのですが、その時、私は主との親しい関係からではなく任務を遂行する義務感から働いていたことがわかりました。 この啓示は初め私個人に与えられものですが、その後、神は夢を通してもう少し詳しく教えてくださり 、キリストのからだ全体への言葉とされました。これらの夢が示すポイントは 、主と新たなパートナーシップを組む重要さであり、 私たちの人生にストレスと煩雑さを与えるものをはっきり見つけ出し、私たちの焦点を主を愛することに向けることにより、私たちが安息の達人になることです。今までキリストのからだは任務を遂行するために頑張り、ストレスや不信仰の中で機能していましたが、主はもっとすぐれた道( 主との親しい関係の中で安息し働く道、 主と共に主の解決法を天から見る道)を私たちに教えるために来てくださるのです。

出エジプト記33:15で、モーセは神に「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」と言っています。新しい機能システムの中核は、神の臨在を他のすべてのものよりも尊ぶことでありましょう。

 

 

安息という新しいオペレーション・システム

神は、臨在にある安息の中で働くこの新しいオペレーション・システムにと私たちを召しておられます。神はこのシステムを落ち葉の山の夢を通して私に説明してくださいました。この夢は私がミニストリーのために長年がむしゃらに働き、心身ともに疲れ果てていたときに見せられたものです。自分がとるべき次の道を求めていた時、神は夢という形でそれに答え始めてくださいました。夢は「10の落ち葉の山」から始まりました。

 

夢の中で、私はドイツのある村にむかって歩いていました。すると、一人の女性に出会いました。彼女は自分の庭の落ち葉を掃き集めて10の山にするようにと私に告げました。そこで私は彼女の言葉通りにしようとしました。しかし風が強く吹いていて、私はあちらこちらと走りまわって落ち葉をかき集めようとしましたが、混乱して疲れてきました。主が次のことを教えてくださいました。「10の落ち葉の山」は、現在キリストのからだが直面している必要や課題であり、確かに現実に存在していますが、それらは神に委ねなければならないものです。

 

夢の中で、私にはやるべきことがあまりも多く、進むべき方向もあまりにも多くありました。私は次第に疲れてきましが、何もはかどりませんでした。丁度その時、隣の家からめがねをかけた金髪の女性が私のところにやってきて、「10ではなく、一つの焦点」と言い、10ではなくて一つだけ落ち葉の山をつくるようにと告げました。「主の目を見つめる一つの焦点」と彼女は言いました。そこで、私は彼女の指図に従って残りの落ち葉を掃き集めると、安息をもって楽々とすることができました。

 

一つの焦点:主の臨在

夢の中で、神は「30年のための30日」と言われました。それは、「私が主に30日を捧げるならば、私は新しい軌道に乗る事ができ、新しいオペレーション・システムは私を変え、次の30年間私が機能する方法を変えることができる」という意味であると主は言われました。そして同じ約束がキリストのからだのためにも与えられていると言われました。この夢の中の眼鏡をかけた金髪の女性のことを、ある親しい友人に話したところ、彼は「私はその場所とその女性を知っています。」と言いました。

それから数ヶ月してから、私はその友人が教えてくれたドイツにある保養所に行きました。私は「安息に基づく希望に満ちた新しいオペレーション・システム」に入り、私の身体と心を回復させるために行ったのです。そこに到着すると、私は夢の中の眼鏡をかけた 金髪の女性に会いました。彼女は保養所の経営を助けている人でしたが、彼女は夢の中で私に言ったのと同じ言葉で 語りました。彼女は「一つの焦点」と、私がそこに滞在している30日間、何度も繰り返し言いました。「一つの焦点、主を見つめることによって、ミニストリーが、残りかすから細々とではなく、安息の希望の場所から溢れるように流れる」と。

 

そこでの滞在中に、神は「安息に基礎を置く、一つだけの落ち葉の山を作る、神だけを見つめるという意味の一つの焦点」というこの新しいオペレーション・システムをだんだんに明らかにしてくださいました。神はこれから私たちがこのシステムによって機能することを望んでおられるのです。この一つの焦点はエペソ4:4にあるキリストのからだへの召しです。エペソ4:4−6に次のようにあります。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちのおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」 神への唯一の焦点です。

 

天国の健全な希望センター

この新しいオペレーション・システムに入るために、主は「天国の健全希望センタ−」にあるいろいろな部屋を私に見せてくれました。そこで神は、この新しいシステムを開く鍵となる4つの部屋を見せてくださいました。即ち、主に安息する部屋、父祖を愛し敬う部屋、魂を養う部屋、身体を養う部屋の4つです。

 

安息の部屋

私たちが最初に入るのは「安息の部屋」です。この部屋で、私たちは新しいリズム、新しい焦点、愛と希望だけを求めて主の臨在に入り留まる新しい方法を学びます。ここでは、今までまとまらない焦点や主につながっていなかった状態から、明確に、集中して主にしっかり結びつくようになるのです。バビロンの混沌と混乱を後にして、ヘブル4:9−11に書かれている安息日の休息、即ち主の安息のリズムへと入っていくのです。

「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順な例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

この「安息の部屋」に入るときには、私たちは希望の神に信頼せねばなりません。即ちエレミア31:25で「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。」と言われる神を信頼するのです。私たちは「主を待ち望む者は新しく力を得る(イザヤ40:31)」ことを信じなければなりません。エレミア6:16にあるように 、私たちは四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、私たちの魂のいこいを見いださねばなりません。

 

20年ほど前にジンバブエに住んでいたとき、私たちはお互いの他は何も持っていませんでした。何も妨げるものがないので、私たちの間には深い愛と親密さが生まれました。私が特に鮮明に覚えているのは、私が妻と一緒にいつも散歩をしたジンバブエ通りです。散歩をしながら私たちの親密さは深まり、親密な関係が育って行きました。

「安息の部屋」で、主は私たちと「ジンバブエ通り」のような関係を求めておられます。そこで私たちは親密な関係を深める目的のためだけに歩いたのです。ヨハネ15:15でイエスは私たちに「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」と告げておられます。主は私たちに友として語られます。私たちが主にお返しできる一番の愛の行為は、主の御声に耳を傾けることです。その時にはじめて私たちは主の安息に入ることができるのです。

 

多忙という名の巨人

ジンバブエから帰る飛行機の中で、私は夢を見ました。夢の中で神は、私たちの国への約束を語られ、その約束を得るために戦わねばならない巨人たちを私に見せてくださいました。そのうちの一人は「バビロンの多忙、いのちのない活動」という巨人で、私の夢の「10の落ち葉の山」のようなものでした。キリストのからだのうちにある日々の必要や課題に関わって「10の落ち葉の山」を作っていると、私たちの焦点は定まらず主から切り離されてしまいます。私たちが主の心と結ばれていないで、その日の活動という動きだけをするようになるからです。

 

ずっと昔、私は海辺でライフガードをしていたのですが、私の当番の日に一人の少年が溺死してしまいました。この出来事は私に深い影響を与えました。それから何年も経ってから、神が、あの時と同じライフガードのスタンドに私がいる姿を見せられて、そろそろ私が自分で自分に課した責任の場所(スタンド)から降りてくる時間だ、と言われました。世界中のすべての人を救う(キリストのからだのすべての必要や課題に取り組む)のは私の役目ではないと、主は言われたのです。 少し経ってから、主が再びライフガードのスタンドを 見せてくださいました。しかしその時ライフガードとしてスタンドにいたのは主であり、私は主の横に座っていました。神は私たちキリストのからだに対して、私たちは主のパートナーであるけれども、スタンドにいるライフガードは主であられることを、はっきり区別し認識するように強調しておられるのです。

 

キリストのからだへの召し

神は私たちを「一つの落ち葉の山」に戻るようにと召しておられます。主は私たちを主の臨在の中の安息から働く新しいオペレーション・システムへと召しておられます。それは「天国の健全な希望センタ−」の中の幾つかの部屋を主のあとについて行く時に主が教えてくださるシステムです。

主を敬慕 adore することを忘れないでください。主がどのような方であるか、又主があなたの人生の中でどのように希望の神であったかを宣言してください。主はあなたをどのように見ておられるのか、これからの希望に満ちた日々のためにどのようによいことをあなたのために備えておられるかを、主に訊ねることを忘れないでください。主はあなたがこの「安息の部屋」に入るのをどれほど願っておられるかを訊ねるのを忘れないでください。この主があなたのために備えた新しいオペレーション・システムを通して、主がどのようにあなたを見ておられるか、どのように良いことを備えておられるかを訊ねてください。(終わり)

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31 12月

「今 いる場所でわたしを愛しなさい」 フランシス・フランジペン 2012年1月元旦


「今 いる場所でわたしを愛しなさい」

 

フランシス・フランジペン

 

主を探し求めているとき、最も困難な時期が 神の愛を経験するブレークスルー(打ち破り)に変えられる可能性があることを、私は見出しました。私にとってそのような時は、1979年から1981年の間に起こりました。私が属していたある教会の群れが、霊的惑わしに堕ちてしまいました。中心的な教義がどんどんとニューエイジの影響を受けるばかりか、不道徳が入り込み、主要なリーダーたちが 他の女性のために妻を捨て去りました。私はもはや黙ってはおられませんでした。それで、私は1979年に、それまで牧師として働いていたミシガン州デトロイトの教会を離れ、アイオア州にある教団の地区本部に赴きました。彼らに悔い改めを嘆願するためでした。しかし、上部のリーダー達との話し合いの結果は、私がその群れを去るようにと言い 渡されたことでした。

 

私が置かれた状況は、教会もなく、お金もなく、しかも4人の子供をかかえているという状態でした。最低限の住居を借りるお金もありませんでした。とにかくどこでもいい、と探し回った結果、アイオア州のワシントンという田舎に古い農家を見つけることが出来ました。それは築100年以上の家でしたが、実際はそれよりもっと古く見えました。家主と掛け合った結果、片付けやペンキ塗リ等の家の修理をすることを条件に、一年間ただで借りることができました。

けれども、この家の状態は私の手に余るひどいものでした。暖房はほとんどきかないので、台所に薪ストーブを入れました。 何とその冬はアイオア州の歴史で一番寒さが厳しい冬になってしまったのです。家の中に霜が付き、すべての窓は下から50センチくらいは霜でした。風が吹くと-50度Cくらいになりましたが、それより寒いときも時々あったのです。

 

毎晩暖かく寝るために、台所のストーブから5メートルくらい離れている食堂の床に置いた大きなマットレスの上に、家族全員が身を寄せ合って 寝ました。ストーブの後ろのファンが温風を私たちの方向に送ってくれました。私の夜ごとの仕事は、当然のことながら、朝までみんなが暖かいようにストーブに沢山火を燃やすことでした。

ストーブに火を焚き続けながら、私は祈りながら神を求めました。ストーブは私にとって祭壇のようになり、毎晩私はそこで 自分の成就されていない夢や霊的孤独の痛みを神に捧げていました。勿論、 神が私の置かれている状況を知っておられることは分かっていました。私たちは本当に何もありませんでした。しかし神は、小さな多くの事柄を通してご自分を顕してくださいました。私はただ、主が私に何を望まれているのかが分からなかったのです。

 

季節が移り変り、次の子供が生まれ、更にベトナムの女の子を里子にしたので、子供は6人となりました。家族が増えても、ストーブの周りの狭い場所は私にとって聖なる領域でした。夏でも私はストーブの横の椅子に座って、祈り礼拝したのでした。

「この時期に私は主の喜びを見出した」と申し上げたいところですが、 自分の状況に次第に順応してはいましたが、本当は私の心には惨めな思いがいつもありました。非常に貧しかったこと(年6000ドルほどしか収入がありませんでした)もその原因の一つでしたが、それよりも、私は自分が主の御こころから外れてしまったように感じていたのです。私の祈りは常に「主よ、あなたは私に何をお望みなのでしょうか?」というものでした。

 

神を求めつつ3年が経過しましたが、私の内には空しさがまだありました。私に対する神の御こころは何なのでしょうか? 私は二つほど聖書研究会を始めていましたし、いろんな教会で数回説教もしました。しかし私は「自分は牧師である」という意識が強かったので、フルタイムのミニストリーを再びするまでは、 人生に対する神からの召しを私は失っているのではないか、という恐れを持っていたのです。

ミニストリーに関するこのような空しさを内に抱えてはいたのですが、 実際には私は霊的に(特に以前は耕されていなかった領域において)成長していました。私はキリストの御言葉を知り従うことに餓え渇いていたので、福音書を深く学びました。以前は、無意識のうちに、ミニストリーの成功は私の業や働きによって起こったと考えていました。しかしこの期間に、主は私を単なる一人の「イエス・キリストの弟子」にしてくださいました。

 

そして、 それまで聖書的だと思っていた多くの事柄が、ただの宗教的伝統に過ぎないことを私は発見しました。主は私が自分の心の中にある色々な考えを丁寧にもう一度吟味し直し、その中で本当に私が喜んで死ぬことが出来る真理(複数)を探すように望まれました。そして「そのために死ぬことが出来る真理のためにこそ、あなたは生きるべきです」と主は言われました。

 

携挙のタイミング、ワーシップのスタイル、霊的賜物などは、私も大切なこととは思いますが、率直に言いますと、それらは最も重要なもののリストからは外れていきました。私の焦点のトップに上がってきたのは、真にイエス・キリストの後を追う弟子になること(主の教えに従い、単に批評家としてではなく人を励ます者)になりたいといる熱い思いでした。又、 自分が徐々に他の教派や異なる視点を持つクリスチャンとの交わりを喜び、彼らからも学ぶことができるように心が自由に解放されてきたことが分かりました。

この変化は深く永続的なものでしたが、 ほとんど気がつかないほどにゆっくりと起こっていきました。それは私の心の中で静かに起こっていたことであり、その時主がしておられたことが分かったのは後になってからでした。この期間中、私はずっと「自分は神の御こころから離れてしまっている」という思いに捕われていたのです。 私への主の御計画を知りたいという祈りは、毎日続いていました。

 

ブレークスルー

ある日、私は台所のパントリー(食料庫)の中にいたのですが、いつものように「主よ、あなたは私に何をお望みなのですか?」と祈りました。その瞬間、一瞬の輝きの中で主が答えられました。主は直接私の心の中に 「あなたの今いる所でわたしを愛しなさい。」と語られたのです。

その時私は牧師でも聖職者でもなかったのです。私は家族を養うためにテレビの修理をし、その他雑多なアルバイトをしていたのです。私は自分の仕事が嫌いでした。以前牧会していた時には、テレビは良くないと教えていたのに、今は死んだテレビに「手を置いて」生き返らせているのです! 主からの答えは私の心に真っすぐに入ってきました。私はそのシンプルさに畏敬の念を感じました!私は「あなたを私が今いる所で愛するのですか、主よ?あなたが私に望んでおられるのは、ただそれだけですか?」と訊ねました。これに対して主は「それがわたしのあなたに望むことのすべてです。」と答えてくださいました。

 

この永遠の瞬間、平安が私の魂に洪水のように押し寄せ、私は「自分のミニストリーをしなければならない」と言う間違った期待に駆り立てられていた自分から解放されたのでした。神は「私が 神のために何をしたか」を見ておられたのではなく、「 私がどれほど神を愛する人間になったか」を見ておられたのです。主が問題とされたのは、私が牧師であるかどうかではなく、私が主を愛するかどうかだったのです。 何をしていても (テレビの修理人であっても)主を愛すること、、、それならば出来ます!

 

私の内に深い驚くべき変革が起こりました。私のアイデンティティーは、もはや「牧師であること」ではなく、「神を真に愛する者になること」にありました。このように私が一番自分に重要なことは何かを決めた途端、驚いたことに、その2日後に私はアイオワ州マリオンの教会の牧師になるようにとの依頼を受けました。 ミニストリーに戻りたいという焦りをずっと持っていたにも拘わらず、私はそのチャンスに 飛びつきませんでした。なぜならば、私は主が私に真に何を望んでおられるのかを見出したからです。少ししてから私はこの依頼を承諾したのでしが、その時にはもはや私の焦点は「教会を導くこと」ではなく、「神を愛すること」に変っていました。

 

神が求められること

神は、私たちのミニストリーの働きよりも、 私たちの愛を求めておられます。主の偉大な戒めは、私たちが主を愛することであり、究極的に言えば、思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛することです。もし私たちが神を愛するならば、神が私たちに要求することはすべて満たすのです。(ヨハネ14:15)そして私たちが神を愛するとき、神はすべてのことを相働かせて私たちの益としてくださいます。(ローマ8:28)

 

愛する皆さん、神を愛することは難しくありません。私たちはどんな任務(メカニック、主婦、医者、大学生等々)に就いていても、私たちの天の父を大いに喜ばせることができるのです。主を愛するためにミニストリーの肩書きは必要ではありません。神は、実際に私たちの人生の価値を私たちの愛の深さによって計られるのです。真に神を求めるものたちに神が求められるものとは 、即ち、私たちの置かれた場所で神を愛する事です。

 

祈り:主イエスよ、あなたの愛を知り私はあなたに夢中になりました。あなたは私を引き寄せられるので、私はあなたのもとに急いで参ります。主よ、たとえ世俗的な生活をしている時でも、私はあなたへの愛を表して行きます。どうかあなたの愛の中で私を燃やし尽くして下さい。(終わり)


23 12月

神我らと共にいます ティファニー・アン・ルイス           2011年12月24日


神我らと共にいます

 

ティファニー・アン・ルイス


「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(インマヌエルを訳すと、神は肉の形をもって私たちとともにおられる、住まれる、人間として来られる、という意味である。)マタイ1:23

 

例年のようにクリスマス・キャロルが街に流れ、 あのすばらしい夜にベツレヘムの厩で生まれ、私たちと共に住んでくださる栄光のインマヌエルの降臨を人々に告げています。しかし、イエスは御父のもとに帰られました。ですから、今はどうなっているのでしょうか?

インマヌエルの預言は、国が歴史上困難な時期を迎えているときに与えられました。イザヤ7章には、神の民が戦いに直面していた様子が書かれています。当時アハズが王でしたが、 彼らが直面していた厳しい状況下で 彼らの心は「林の木々が風で揺らぐように動揺した。」(イザヤ7:2)と聖書は語っています。私にはそのことがよく理解ですます。悪魔が私の家を吹き飛ばそうとして強く息を吹きかけるとき、私の信仰心も風に吹かれてあちらこちらに揺れ動かされてしまいがちになります。

 

それで、神はアハズ王のもとに預言者イザヤを遣わし、神は敵の攻撃から彼らを守ると告げました。 続いて聖書は、私たちが神の約束を手に入れるために必要な御国の原則を忘れないよう教えています。即ち、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」(イザヤ7:9b)と書かれています。すべてのことは最終的には私たちの信仰に懸かっています。神は忠実な方であり約束されたことは必ず実行されると私たちが信じるかどうかにすべてが懸かっているのです。 真実に神に従う者たちを混乱させ惑わすために敵が用いる一番の戦略は、創り主の私たちへの愛とまことを疑わせることであるように思われます。

アハズ王は大きな決断をせねばなりませんでしたが、それと同じように私たちも毎日 難しい決断をせねばなりません。私たちは、神が御約束通り私たちと共におられ守ってくださると信頼するでしょうか、それともその状況から自分の力で抜け出そうともがくのでしょうか?

 

突然、神は考えられないようなことをされました。主はアハズにしるしを求めるようにと命令(そう、命令です。これがこの言葉の意味です。)されました。神が与えようとされたしるしは、そのしるしを見て王が力づけられ信仰が強まるものでした。神は王に確かなしるしを与えるから、それを求めなさいと言われたのです。 王は、よみの深みや天の高いところでしるしを求めることを命令されたのです。彼がそれをどこかで見つけ出すならば、そのしるしは神の全能の力、愛、真実を王に確信させるものとなったのです。(イザヤ7:11参照)

アハズは弱い王であり、自分の肉の弱さに葛藤する罪人でした、、丁度あなたや私と同じようにです。それにも拘わらず、神は驚くべき愛で、主の約束が成立するために必要なものを受け取るようにと、貴い招きをしてくださったのです。悲しむべきことに、神の最高に恵み深いこの申し出を、アハズは受けとらなかったのです。

 

私が驚くのは、アハズという名が「掴んだ、所有した、所有する者」という意味を持っていることです。それなのに彼は、神が彼に差し出しているもの、即ち神の真実さを彼に確信させるもの、に手を伸ばして掴もうとはしなかったのです。

しかしそれでもなお神は私たちに、しるしを与えてくださったのです。神は「与えるお方」であり、私たちにインマヌエルを与えてくださいました。一人の処女がみごもり、神の民を罪から救うためにイエスが生まれました。これこそ、私たちが一日も欠かさず毎日見ることができるしるしであり、 あらゆる状況の中で必要な希望と力を私たちは受け取ることができるというしるしなのです。 ハレルヤ!

 

イエスと同じように

神が私たちと共に住んでおられるのは全くすごいことです。しかし、 インマヌエルなる主は、更に驚くべきことを示されました。 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。そのかたはあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16—17)

 

主は更にヨハネ17:22で、主が地上におられるとき、御父が主の中におられ、主が御父の中におられたように、今日私たちも 同じ関係を持つことが出来る、と言っておられます。「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」

 

この驚くべき言葉をイエスが言われたのは、主が十字架へと向かう備えをしておられる時でした。弟子たちはいまや「インマヌエル 受肉した神が共におられる」を、まさに失おうとしていました。しかし、主は御父のところに行こうとしておられたのであり、それによって弟子たちは(そして、私たちも)かつて人に与えられたことのないものを得ようとしていたのです。それは「神が私たちの内におられる」ということであり、それこそイエスが持っておられたものなのです。

 

愛する皆さん、イエスが私たちに与えようとしておられることは、神とのユニティー、一つとなることであり、「受肉の神が私たちと共におられること(インマヌエル)」では達成できなかったことです。今日私たちが所有できる約束とは、 イエスが持っていたのと全く同じように、神を私たちの内に持つことが出来るということなのです。私たちは、イエスと全く同じように、神の中に生き、動き、存在することができるのです。イエスが持っておられたのと全く同じ親密さ、 祈りの力、 霊的洞察力を持つことができるのです。

この事実は私には偉大すぎて、理解できないほどです。でも私は必死で「インマヌエルなるお方」が下さったものを掴み所有したと思います。私たちは(人間としての)イエスが生涯でされた御業を見るとき、 人間にすぎない私たちには到底無理なことだと考えがちです。「主が水をぶどう酒に変えるのは当然です、主は神の御子ですから。主が愛し難い人を愛し、病人を癒し、水の上を歩くのは当然です、主は受肉され私たちと共に住む神なのですから。」と考えるのです。このようなメンタリティーのために、多くのクリスチャンは、今日彼らに差し出されているものを十分に所有していないのです。

 

ピリピ2章で聖書は、「イエスは神のあり方を捨てることができないとは考えないで、受肉され、私たちと共に住まれた神『インマヌエル』となられたときに、ご自分を無にされた。」と教えています。主イエスは、神の御子としての特別の特権を、今日私たちに与えておられるものの他に何か持っておられたのではありません。主自らが言っておられるように、主はご自分の力では何もされませんでした。すべての業はご自分の内におられる御父がされるのだ、と言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業をしておられるのです。」(ヨハネ14:10)

愛する皆さん、神がイエスと共におられたように、神は私たちと共におられるのです、、全く同じようにです。

 

嵐のただ中で

マタイ8:23—26で嵐が起こったとき、弟子たちには同じ舟に乗っておられる「インマヌエル、神が彼らと共におられる」がいました。大波が襲い、舟に水が入ってきました。彼らは経験をつんだ漁師であったことを思い出してください。嵐の海をどのように乗り越えればよいのか、知っている人たちでした。それにも拘わらず、自分たちの力ではコントロールできない嵐のただ中で、彼らはイエスのところに来て「主よ、助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ8:25)と告げたのです。これは私たちすべてに起こることであり、 プレッシャーが大きくなった時に同じように感じたことがあなたにもあると思います。

一方、イエスは嵐に対して全く違うやり方で接しました。 主と御父は一つであったので、主は嵐の中でも眠っていたのです。弟子たちは主を起さねばなりませんでした。愛する皆さん、あなたはどう思われますか。 もし私が嵐に直面したならば、主が嵐のただ中で持っておられたような平安を私も持ちたいと切に願います! 実際、波をしかりつけて波がおさまるのを見たいと思いますし、イエスがしたように、嵐に襲われたときにも周りで起こっていることに影響されないで、波の上を歩きたいとさえ思います。

インマヌエルは私たちに「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)と言われました。

神は本当に私たちに しるしをくださいました。「処女がみごもっている。男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」というしるしです。そして「インマヌエル」が私たちと共にいたとき、 聖霊をおくってくださると約束してくださいました。それは聖霊が主の中におられたのと同じように、私たちの中にも住まわれるようになるためです。このクリスマスに、またこれからもずっと、私はこの約束をしっかりと掴みたいと思います。アーメン(おわり)


18 12月

神殿の建設地 フランシス・フランジペン      2011年12月18日


神殿の建設地

フランシス・フランジペン

 

主の家(教会)を建てるとは、私たちが必要な時に助けてもらうところを作る(見つける)というだけではなく、もっと重要な意味があります。神から最高のものを受けるためには、代価を払う必要があります。主から最高のものを受けたいと望むならば、 自分が一番愛するものを主にささげねばならないのです。

 

2つの神殿

聖書には2つのタイプの神殿のことが書かれています。一つはイスラエルに建てられた石の神殿であり、もう一つは生きたからだで造られるもの、即ち教会です。 第一神殿(ソロモンの神殿)は、神があらかじめ定められた場所に建てられました。 主が石の神殿建設の地を注意深く選ばれたように、 私たちを生きた主の神殿にするために、私たちのこころの地形を主は調べておられます。

 

神殿建設地が定められるために、2つの重要な出来事が用いられました。2つの出来事は長い年月を隔てて起こりましたが、その二つには私たち自身が見習うべき大切なポイントが含まれています。最初の出来事はアブラハムの人生の中に見ることができます。

 

主がアブラハムに息子イサクを与えたので、彼の霊的願いは成就されました。しかし、やがて神への愛と神によって与えられたものへの愛とのどちらかを選択せねばならない時がやってきました。主はアブラハムに息子をつれてモリヤの地に行くように命じました。そこでアブラハムは神が選ばれる山でイサクをささげるように言われたのでした。

 

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。』と言った。」(創世記22:4−5)アブラハムの「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」という最後の言葉に目を留めてください。ここに礼拝をささげる中での信仰の完成を私たちは見ます。アブラハムは信仰によって 二人とも戻ってくることを知りましたが、彼が山にむかって上って行くことができたのは彼の礼拝の態度でした。この物語はよく知られています。 主のみ使いがナイフを手にもったアブラハムを止めて、イサクの命は助けられました。しかしながら、ご自分のしもべからこのような従順を要求されるのは、神の計画であり、目的であったのです。アブラハムの神への愛は試みられ、真実であることが証しされました。

 

それと同じように、主の家の一部となるために私たちがまず持つべき心構えは、礼拝するこころです。私たちは 自分が最も愛するものを神に喜んでささげねばなりません。もし牧師であるならば、それは自分のミニストリーや教会に関する個人的な夢を、主に明け渡すことかもしれません。もしとりなし手であるならば、ローカルな祈りのグループでのリーダー役を手放し、人々が更に大きなキリストのからだの中に組み入れられるようにすることかもしれません。

 

すべての人は死ぬときは究極的にすべてのものを神に明け渡すのです。キリストの家を建てるために召されている者たちは、彼らが最も愛するものや成就させたいと願っていることを、全能の主に明け渡すことによってそれを成し遂げます。それは肉的な死と似ています 。人間的にそれを取り戻す希望は捨て去り、神にのみ依り頼むのです。 アブラハムは彼が一番愛するもの、イサク(彼はアブラハムの霊的成就の具現でした)を神にささげました。彼は自分の持つ夢のすべてを、自らの手で築いた祭壇の上に置いたのでした。

 

アブラハムは、全能の神にとって死はなんの妨げにもならないことを知り、神が約束を成就してくださると、こころから信頼(することに)したのです。同じように、主の家を建てるために主が用いられるのは、自分の一番愛するものを神に喜んで明け渡す人々です。主にすべてを明け渡して主を礼拝する人々のこころの中に、主はご自分の家を建てられるのです。

 

 

全額を支払う

霊的な神殿の「DNA 遺伝子」を示す第二の出来事は、ダビデ王の人生に起こりました。彼はエルサレムを見下ろす山の上に立っていました。彼の罪により、主の裁きが国に下りました。主はダビデの悔い改めを受け入れ、オルナンの打ち場に主のための祭壇を築くように言われました。オルナンは全焼のいけにえのために自分の牛やたきぎをただでダビデに差し出しましたが、ダビデはそれを受け取りませんでした。そして「私に打ち場の地所を下さい。そこに主のための祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私に売って下さい。神罰が民に及ばないようにするためです.....私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」(第一歴代誌21:22—24)と言いました。ダビデの態度はまさに神が私たちに求めておられる心構えの良い模範です。

 

私たちが「ありのままで」キリストのもとに来て救われるのはよいのですが、救われた後に主の神殿として建て上げられるためには代価を払わねばならないのです。私たちが神に仕えるのであれば、全心と代価全額(full heart and full price)をもって仕えようではありませんか。

 

ここで更に、オルナンがユダヤ人ではなくエブス人であったことを考えてみましょう。先の戦いでオルナンの民はその地からダビデによって追い出されました。しかしオルナンはその地に留まっていたのです。ダビデ王はオルナンの土地を戦勝品として取り上げることもできたにも拘わらず、全額を払って買い取ったのです。

 

愛する皆さん、ダビデの態度は、 アメリカの典型的なキリスト教と全く正反対です。私たちの多くは、近道を探したり、ヴィジョンも献身もないままでうろうろしています。神への近道を探すことは止めましょう。 他人のものを主にささげるのも止めましょう。むしろ全額を支払おうではありませんか。

ダビデが祭壇を築き、神殿を建てると定めたのは、まさにこの打ち場でした。

 

深い洞察

時がすぎ、ダビデは他の人々と同じように死にました。ダビデの神殿のヴィジョンを完成したのは息子のソロモンでした。神殿の建設地について聖書が語っていることに耳を傾けてください。

 

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(第二歴代誌3:1)

驚くべきことに、ダビデがそこに立ち、代価を払わずにいけにえをささげることを拒否した場所はモリヤ山であり、それは6世紀前にアブラハムがイサクを神にささげたのと同じ場所でした。

 

愛する皆さん、聖書は、キリストが地上に戻られる前に主の家の山は建てられ、すべての国々の人々がそこにやってくることを私たちに保証しています。(イザヤ2:2) 自分の最も愛するものを神の祭壇の上にささげる礼拝者として私たちが召されていることを、しっかりと受け止めようではありませんか。そうです、私たちの人生の中に、私たちの時代に、主の家が再建されるのを見るために、全額を支払おうではありませんか。

 

祈り:主イエスよ、あなたにすべてささげることを私は願います。代価を払わないいけにえや、借り物の贈り物をささげたことを、どうかお赦しください。主よ、私があなたのために何ができるかではなく、あなたが私をどのような者としてくださるかが、一番大切な問題であることを知っています。私のすべてをあなたに明け渡します。私の人生の材質があなたの家を建てる建材としてふさわしいものでありますように。私のイサクを祭壇に持っていくための信仰と礼拝のこころをどうかお与えください。イエスの御名によって祈ります。アーメン(終わり)

(“When the Many Are One”からの抜粋)

 


12 12月

2012年への聖霊の言葉「あかしの燭台」ジョン&ジョリーン・ハミル 2011年12月13日


2012年への聖霊の言葉「あかしの燭台」

 

ジョン&ジョリーン・ハミル

 

毎年9月11日頃、私と妻のジョリーンは新しい年に私たちのミニストリーが目標とすべき言葉を受けるために、主の御こころを求めます。2012年のために聖霊は 「 あかしの燭台」という言葉を私たちに語られました。

「 あかしの燭台 」とは、 地における神の契約の輝きです。神の愛は「火の炎、主のすさまじい炎(雅歌8:6参照)」です。聖書全体を通じて、燭台は度々ワーシップととりなしの象徴として用いられています。

つまり、神の燭台とは神の生きた炎を燃やすために召された器のことです。2012年が近づいている今、私たちは自分の燭台が主によってどのように評価されているかを知ることが大切です。私たちは主イエスを照らし出しているでしょうか、それとも自分自身をでしょうか?  神は私たちすべてを、イエスへの初めの愛に戻るようにと招いておられるのです。(黙示録2章参照)

 

ハヌカの祭り:あなたの宮を再び聖別し献納する

喜ぶべきことに、今多くの人々が心から神の御こころと契約とにアライン(一致し沿い従う)しはじめています。それこそ2011年から2012年に移るにあたって、私たちがまず第一にするべきことです。

今月後半に始まるユダヤの光の祭り(ハヌカ)は 、神がいかに私たちとの出会いを求めておられるかをいきいきと表しています。ハヌカは、敵によって意図的に汚された神殿を聖別して主に再び献納したことを祝う祭りです。神殿が敵によって汚されたとき、神殿の火も消されてしまいました。

神殿を再び献げるために、神の祭司たちは聖なる火を再び灯しましたが、油は一日分しかありませんでした。しかし奇跡がおこり、 新しい油が出来るまでの8日間、燭台は燃え続けたのです! ユダヤ人のメノーラと呼ばれる燭台が、光の祭りの一番大切なシンボルとなったのはその理由によります。

多くの学者が、マリヤは世の光である主イエスをハヌカの時に妊ったと考えています。あなたがこのシーズンにキリストとの契約を新たに結ぶとき、聖霊があなたを覆い、あなたを力づけ回復させる主の御ことばと御業が、あなたのうちにどのように妊るかを見守っていてください。

 

ハヌカの奇跡—神によって点火されたろうそく

8年前に私とジョリーンが結婚した時、私たち自身がハヌカの奇跡を経験することができました。 結婚式はたまたまハヌカの祭り(8日間)の最初の日にあたっていました。そこで私たちは式の中に燭台、メノーラを取り入れることにしました。式が始まり、私たちはメノーラのろうそくに火を灯しましたが、真ん中の一番大きなろうそくは「私たちが一つになるユニティーのろうそく」として後で点火するためにそのままにしておきました。

私たちが主にワーシップを捧げ、主の栄光を下してくださいとまさに祈っていたとき 、私のベストマンであったウィル・フォードが 涙を流して私の方に身を寄せ、メノーラの方を指差しました。不思議なことにユニティーのろうそくはひとりでに灯っていたのです!

すべての人が見ている前で、神は私たちの燭台の中央のろうそくを、ハヌカの祭りの最初の日に、私たちの結婚式の中で灯されたのです。私たちのミニストリーはLamplighter (火を灯す者)ministriesという名前なので、この出来事の深い意味を今でも繰り返し私たちは思い巡らしています。

 

燭台を整え、 再び火を灯す

しかし最初から私たちに分かっていたことは、ハヌカの奇跡は私たちのためだけではないということです。長年祈り続けてきましたが、今この言葉を公に( 即ち、このことばと体験はすべての人が受け取ることができるということです)解き放つ時が来たと私たちは感じています。個人にも、また地域にも、神は「わたしはあなたの燭台を整え、 再び火を灯す!」と言われています。

もしかしてあなたは、敵があなたの主への情熱を真っ向から攻撃してきたように感じておられるかもしれません。あなたがコントロールできない状況や失敗、裏切り、又は明白な悪意によって、あなたの神殿は汚され、あなたの火は消されたようにあなたは感じているのです。

神は 新しい栄光のシーズンへとあなたを招いておられます。私たち夫婦のためにしてくださったことを、主はあなたのためにも必ずしてくださいます! 2012年が始まる前に時間をとり、 主への献身を新たに誓い、このプロセスへと進んでください。 聖餐式のパンとぶどう酒を用意してください。敵によって汚された部分を主に清くしてもらってください。あなたの燭台を整えて炎を燃やしてくださいと、主イエス・キリストに願ってください。

 

2011:契約を更新する年

聖書では「12」という数は、統治(政府)を表します。「御国の契約」がどのように「御国の統治」を解き放つかを理解することはとても重要です。

アメリカの国家的レベルでは、2011年は前例がないほどにイエス・キリストとの契約を再び整えた年でした。Reformation Prayer Network(RPN)とHeartland Apostolic Prayer Network(HAPN)のリーダーたちが、シンディー・ジェコブ師とジョン・ベネフィール師のリーダーシップのもと、今まで教会が犯してきた偶像礼拝の罪に対する悔い改めを、国内にある殆どすべての偶像の宮で宣言したのです。ホセア2章にあるパターンに従い、バールからの決別を乞い求め、それを獲得しました。そして この国と神との間の契約を更新してくださるようにと主に願いました。

そして私たちのこの働きは、7月4日(アメリカ独立記念日)にワシントンD.C.のリンカーン記念館の前の階段で「契約の宣言」を主に捧げたときに頂点に達しました。人々はアメリカ南部地方にある南北戦争の数々の戦場で祈りを捧げ、又アメリカ北部にある霊的覚醒が起こった霊の泉で祈ってから、最後に3つのチームがこの場所に集合したのでした。

私たちのとりなしの祈りの旅は、リック・リディング師の「Nutcracker Prophecy くるみ割りの預言」に基づくものでした。1998年に北部と南部から人々がワシントンD.C.に集り、互いに契約を結び祈った時リックは「悪魔の抵抗という堅い殻」を主が割っておられるヴィジョンを見ました。そして彼は主がこの「くるみ割りの預言」を 2011年に再び強調されているように感じたのでした。そして その御ことばを解き放つために祈りの旅を企画遂行するようにと聖霊が私たちに語られたのです。

 

しるし:記念碑にひびが入った!

私たちはこのヴィジョンに従い、 神が私たちの国と再び婚姻関係を結んでくださるように、また、北部と南部を聖霊によって覚醒し一致させてくださるようにとお願いしました。それに対する神の応答はエクサイティングなものでした。それは一月半後にワシントンD.C.で地震があり、まさに 偶像礼拝の中心となる記念碑(私たちが悔い改めた偶像礼拝の最大のシンボルであったもの)にひびが入ったのです!

これは神が本当に私たちの叫びを聞いて下さったしるしであると、私たちは感じました。主は堅い殻を割ってくださったのみならず、それよりもっと重要であるイエス・キリストと この国との契約の更新への私たちの嘆願に対して「YES」と答えてくださったのです。

 

2012年:あかしの燭台

前述のように、「あかしの燭台」とは、この地での主の契約を証しするものです。神の民が主のもとに立ち帰った時はいつも、契約が回復されたことの主からの証しとして天から火が下りました。ハヌカのように、これこそ神が2012年に計画されている「あかしの燭台」だと思います。

ダビデやエリヤの時代において、主との契約を国が再び結ぶことにより祝福が与えられると、神は 祭壇に新たに火を下されました。又、主がアブラハムと契約を結ばれたときには、煙の立つかまどと燃えるたいまつが主の約束の証しとなりました。

主イエスは「世の光」であり、「あかしの燭台」の極みです。 2011年のハヌカには、主がご自分のからだと血潮によって獲得された聖なる契約を世界へ証しするものとして、神の炎が更に輝きを増してこの世に放たれるでしょう。世界の国々は主が昇られる輝きに引き寄せられるのです! 多くの者たちが今年、目を覚ますでしょう。彼らは立ち上がり、自分の灯火を整え、花嫁なる主をお迎えするために出て行くのです!

 

目を覚まして輝く

今シーズン、聖霊がゼカリヤ4章に特別な光を当てておられるように私たちは感じています。この箇所はハヌカの奇跡(あかしの燭台に絶えることなく油が注がれる超自然的な出来事)の預言そのものです。この箇所を祈りをもって注意深く読まれるようにお勧めします。あなたの人生に奇跡が起こることを請求してください! この箇所は次のように始まっています。

「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります....』」

すごいですね! まず超自然的な霊的覚醒の動きが解き放たれています。ゼカリヤは目を覚まし、御座の部屋の燭台のヴィジョンを見るのです。

前述のように、 燭台はしばしばワーシップととりなしの祈りを表します。霊的覚醒の動きが進んでいる今、私たちがこのヴィジョンを捉えることを神は望んでおられるのです。目を覚ましてあなたの燭台から輝きでている「世の光」なるお方をじっと見つめてください。主を仰いで礼拝してください!

 

休眠状態であった約束をとりもどす

この天使はすでに先のシーズンでゼカリヤに語ったことに目をとめてください。これはとても重要なことです。天使がゼカリヤを起したとき、眠る前に彼に託され休眠状態になっていた約束の種をも天使は目覚めさせ活性化させたのだと思います。なぜならばこのヴィジョンは、神がすべての約束を完成させたいと願っておられるという預言だからです。

ゼカリヤのヴィジョンはゼルバべルに対する預言でした。ゼルバべルは、ミニストリー及び社会における使徒的な統治を象徴しています。彼はバビロン捕囚後の神殿修復を担いました。 神が「新しい活躍、新しい資源、新しい正確さを今年は与えら」と主のゼルバベルたちに言われているのが私に聞こえます。

恵みあれ!修復の仕事を完成させよ!

使徒的見地からいうと、燭台の出現は、神が 修復の仕事を完成させるために新しい恵みを解き放っているというしるしです。新しい年、私たちが今までより大きな統治の権威を発揮するにあたり、祈りのムーブメントがその業を下から支え推し進めていく力となるでしょう。

最も理解すべき重要なこと:今シーズン、御座の部屋の恵みがあなたに与えられていて、神があなたに託したヴィジョンをその恵みによってあなたは完成させることができます。あなたの人生で神が揺り起こし活性化している約束が何であるかを示してくださるように、主に願ってください。主があなたをおおってくださるように、主がその約束の上をおおい完成させてくださるように願ってください。そしてその約束が目の前を通るなら、その後について人生の冒険の旅に出かける備えをしてください。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主が言われます!(終わり)

Jon and Jolene Hamill
Lamplighter Ministries

Email: admin@lamplighterministries.net


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