Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
20 02月
批判をとりなしに代える
リック・ジョイナー
どうして、今クリスチャンの間に光がもっと照り輝いてこないのでしょうか。
どうして癒しがもっと起こらないのでしょうか。祈りが聞かれないのでしょうか
今日私がお話しすることが最も大きな理由だと思います。
神の御座の前に絶えず行われているミニストリーが2つあります。一つはとりなしのミニストリーです。ヘブル7:25に「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」とあります。主は今も私たちのためにとりなしをしてくださっています。主は仲介者です。
そして、絶えず行われている二つ目のミニストリーは、罪を告発する悪のミニストリーです。サタンは「兄弟たちの告発者」と呼ばれています。サタンの一番の策略は兄弟同士を告発させ合うことです。サタンはこれを「日夜」していると書かれています。(黙示録12:10)サタンは天国から落とされましたから、どうやって日夜兄弟を御座の前で告発できるのでしょうか。それは、サタンが御座に行ける者たち(クリスチャン)を用いることによってできるのです。
とりなしをされる主のミニストリーよりも、「兄弟たちの告発者」の側に私たちがより一致協力していることがあるのではないかと私は思うのです。私たちはそこから解放される必要があります。
私たちの人生を他の何よりも画期的に変革することが出来る一番のことは、批判をとりなしに代えることです。これは、神が人々の間違っているところ、罪を見るな、と言っておられるのではありませんが、罪を見たときに私たちがそれをどのように扱うべきかをはっきりと教えておられます。
批判をするのが私たちの取るべき方法ではありません。非難、告発するのが私たちの取るべき道ではありません。 誰かに対する批判を私たちが始めたのではないにしても、もしそれを広めるならば、 その批判を言い始めた人と同じ責任を私たちは問われるのです。
誰かを批判をする人は一見賢いように見えます。 自分はその人より良い人間だと言っているようなものです。しかし、実はその人は一番おろかなことをしているのです。ある人の子供を批判するとすれば、 本当は誰を批判しているのでしょうか。その子供の親です。それでは、私たちが神の子供を批判するならば、私たちは一体何と言っていることになるのでしょうか。「主よ、あなたはご自分の子供たちを上手に育ててはおられませんね。私が望む標準に達していません。 」と言っていることになるのです。私たちは神が私たちに下さったリーダーを批判します。神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを与えてくださいます。他人を批判することは、私たちに出来る最も高慢な行為だと思います。
主は何と言っておられますか。主はこの事に関して非常に明確に教えておられます。マタイ18章ですが、最初の部分は、人のつまずきの石に絶対にならないように気をつけなさいということが書かれています。小さい者をつまずかせるくらいなら、生まれて来なかった方が良い、とまで主は言われています。そして次にどうのようにすればつまずきの石にならないかを教えておられます。
15節ですが、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。」と書かれています。そしてもしその人が聞き入れないならば、他の人も連れて行きなさい、と書かれています。これは、あなたがいろんな人の所に行って、兄弟の罪を全部ぶちまけ、一緒に言ってくれる人を探すということではありません。それはゴシップ、うわさ話をするということです。それはつまずきの石になるということです。そうではなく、神はあなたを一人の人のところに導き、罪を犯した兄弟をどうしたら回復することができるかを話に行くのです。どのようにしたら彼を取り戻すことができるかを話すのです。
イエスはこの世の罪を見たときに私たちを罪に定めませんでした。私たちを滅ぼされませんでした。主は私たちのためにご自分の命を投げ出して死んでくださいました。
私たちも主がされたように応答するとき、(主はいつもとりなしをしておられます)私たちも、どのようにすればこの人を助けられるのか、と考えるべきなのです。この人を助けるために、私はどのように命を投げ出せばいいのだろうか、と考えるのです。あなたはとりなし手となるのです。とりなしをするというのは祈リ以上のもの、祈りを越えたものです。
それでもその人が悔い改めないのならば、私たちはその人を教会の前に出すかもしれませんが、あくまでも、その目的はその人を回復させるためのものです。その人が本当に自分の罪を悔い改めるためです。
パウロもそのようにしました。コリント人への手紙で、罪を犯している人を取り除かねばならないといいましたが、しかしその人が悔い改めたならば、彼を受け入れなさい、彼は兄弟なのですから、と言っています。
ですから、私たちがある人の罪を取り扱う場合、どのようなスピリットで行うかが、とても重要です。もしあなたが その人を回復させたいという正しいスピリットを持たないならば、行ってはいけません。私たちの中に傷ついた心、怒りがあるならば駄目なのです。ベルゼブルとはハエという意味ですが、サタンは「ハエの王」と呼ばれます。ヴィジョンの中にハエが出てくるときは、それはほとんどいつも「偽り、嘘」を表しています。傷口があるときには、嘘(ハエ)がたかるのです。そして炎症を起させ、いやされないようにします。完治していない傷があるならば、祭司になることはできません。旧約聖書に書かれているように、かさぶたのある者は祭司になれません。ですから、もし私たちに傷があるならば、いやされる必要があります。自分の中に何かいやされていない部分があるならば、まずそれをいやさねばなりません。あなたの中の怒りをなくし、完全に赦さねばなりません。あなた自身が真にいやされて、それからその人を助けにいかねばなりません。その人を傷つけるためではなく、助けるために行くのです。
イザヤ59:9−12
そのとき、あなたが叫ぶと、主は答え「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりをのぞき、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、闇の中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたの古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。
聖書の最初の3章(創世記1−3)と最後の3章(黙示録20−22)を読んでみてください。完全につながる一つの話になります。その中間にあるものは、すべて神の回復の話なのです。贖い、和解、回復です。イザヤ11章には「狼は子羊とともに宿り....」と書かれています。神は創造されたパラダイスにこの地を再びしてくださるのです。ですから、私たちも同じようにすべての人が回復に向かうように扱わねばならないのです。私たち全員が今、回復へのプロセスを辿っているのです。それは何か大きな失敗をしたとか、大きな罪を犯したとかいう人だけではありません。私たちすべてがそのプロセスを通っているのです。古い自分を捨て去り、新しくされた者として生きようとしています。
ガラテヤ6:1
兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
神の友となるためには、何事に対しても、誰に対しても、どうすればそれを助け回復させることができるかといる思いで向かうことです。これが私たちに与えられた神からの最高の召しだと思います。(終り)
(このメッセージは2012年2月5日モーニングスター日曜礼拝の説教の抜粋要約です。)
11 02月
ACPEによる2012年への主の言葉
2012年1月6日
ACPE( The Apostolic Council of Prophetic Elders) は昨年11月末に2012年に対する主のことばを求めて会議を開きました。これは1999年から毎年続けられていることですが、現在世界中が揺り動かされているので、これまでで最も厳粛な会議となりました。世界の多くの預言者は、アメリカは2012年に改革に向かうためには大きくシフトされる必要があり、それはこの国が「光を照らす山の上にある町」として再び確立されるかどうかの瀬戸際の年となると言っています。
「12」という数は聖書では政府、 統治(government)を表しています。 今年の大統領選挙で、アメリカという国の今後の地位が決められます。アメリカ合衆国はその偉大さのかなりの部分をすでに失ってしまいましたが、今シフトがなされないならば更に多くのものを失うことになるでしょう。2011年のためのことばの中で、私たち(ACPE)は、2011年は傾きが変わる「ティッピング・ポイント」の年になるか、あるいは「完全なる嵐 パーフェクト・ストーム」の年のどちらかになることを感じとっていました 。世界的にこの予想は非常に正確だったようです。大変悲しいことですが、日本にとっては文字通り「パーフェクト・ストーム」の年となってしまいました。
しかしながら、2011年の揺さぶりは、これから世界中で起こる揺さぶりに較べれば、まだ小さいものであるという感覚が集まった人たちの中にありました。これからのシーズン、キリストのからだ全体が、地上の国々の中で影響力のある声と権威を持たねばならず、主が来られる日までこの地を「占領すること occupy」を学ばねばなりません。しかし、ACPEはある人たちのように世界の終りが2012年に来るとは信じません。
揺り動かし
ヘブル12:27−29と黙示録12:10−12が今年のことばとして適切であると感じました。
「この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺る動かされるものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」(ヘブル12:27−29)
私たちのリアリティーは、揺り動かされることのない御国に住んでいることだ、ということを忘れないでください。私たちは揺り動くことのないお方にしっかりと掴まっていなければなりません。私たちが自分の人生の中で持っている揺り動かされないものとは何でしょうか? 見つけてください。先のシーズンで清められ剪定されてシフトした事が、私たちの人生と信仰を新しいより高いレベルへと導いてくれます。
「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。』」黙示録12:10−12
キリストのからだが「エクレシア」又、法的権威として立ち上がるシフトがやってきます。多くの牧師が、「 political correctness この世一般が認める政治的同調」という束縛を打ち破り、自分の信じる事を明言するようになります。説教者たちは壇上から大声で妥協なしに聖書の言葉を語ります。これによって多くの政治家たちは、自分が「兄弟の告発者」になってあまりにも行き過ぎたことに気づき、主の恐れが多くの者の上に下ります。
このエクレシアのシフトにより、ある期間、エクレシアに敵対する者たちは信徒に対して激しい怒りを抱きますが、彼らも自分たちが行き過ぎていたことを知ります。アメリカとヨーロッパの牧師たちは、霊的覚醒と改革のための代弁人となります。新しい世代の「ウェスレイ」や「ウィルバーフォ—ス」たちが共に立ち、再び「教会」が道徳的権威として立ち上がるように呼びかけます。
今は使徒行伝4章のシーズンです。敵は教会を迫害しますが、教会は当時と同じように祈りによって戦います。しるしと不思議が数多く起こり、大勢の人たちが救われます。宗教組織は崩壊し、残るのは神の「レムナント 残りの者たち」です。私たちは妥協することなしに自分の場所にしっかり立っていなければなりません。
改革者に対する反撃はすさまじいでしょう。それはサタンが激しい怒りをもって反撃してくるからです。 メディアから攻撃が起こりますが、神ご自身がそれに対して応戦されるので、メディアは自分たちが神から攻撃されていることを知るでしょう。この戦いを通して、エクレシアは揺り動かされることのない輝く光として立ち上がってくるでしょう。
敵の攻撃に怯まなければあなたは勝利します。教会は自分の声を持ちます。リベラルなメディアは、堕胎に反対し聖書的な結婚観を支持する人たちに対して特に攻撃してくるでしょう。へイト・クライム(憎悪犯罪—人種、宗教、性的指向等の特定のグループに対する偏見、暴力)は正義的行為とされ、容認されるようになります。
まず初めに、「聖さのムーブメント」が教会に起こり、どんな罪も容認されなくなります。 悔い改めない者はあらわにされます。主が 性的罪やポルノにはまっている者たちを説教壇から取り除かれるからです。
経済は揺り動かされる
世界的な経済的揺り動かしを指し示す聖書箇所が幾つか与えられました。
「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」ダニエル2:34−35
今は神の御国が全地に満ちる時です。エクレシアが全地に満ちる山となるでしょう。これが示す意味は私たちに与えられませんでしたが 、神にご計画があることは確信しました。山々が崩れていくとき、神は解決の答えを持っている神の御民を、銀行、経済、教育、政治の領域に準備されています。軍隊さえそのシステムを変えるでしょう。
ヨーロッパは揺れに揺れるでしょう。EUは、自分たちの政治から神を排除し福音を伝える牧師たちを逮捕しようとまで思っていたのですが、彼らは神ご自身によって取り扱われるでしょう。揺れ動きの最中に、神は歴史上今までなかったほどに教会を覚醒されます。ロシアとアジアの幾つかの場所も揺り動かされます。数カ国では、今までその国に君臨し動かされることはないと思われた独裁者が落とされるでしょう。
経済的揺り動かしの中で、多くの国家に暴動が起こるでしょう。神はこのシーズンを反キリストの霊の根を取り除くために用いられます。以前は、例えばイスラムのようないろいろな「主義」に信奉していた多くの人は、その真の姿があらわになるのを見てキリストに来ます。トルコとエジプトはイスラエルを脅そうとするでしょう。主は私たちにイスラエルと共に立たねばならないことを再び語られました。
エジプトはイザヤ19が成就されるシーズンを迎えるでしょう。 迫害の中で苦しむ教会を神が覚醒させ、一時的にはサタンが優勢かに見えるかもしれませんが、最後には神の大いなるムーブが勝利するからです。
今の時、国連さえも今までなかったほどに揺り動かされ、国連が持つ反イスラエルのアジェンダが暴露されるでしょう。
経済の見えなかった中身が「割れてあらわにされる」でしょう。地上全体に経済組織の揺り動かしがあるでしょう。しかし今、神はこの時のために用意されてきた神の「ヨセフ」を立て上げられるでしょう。主は私たちに恐れてはならないと、はっきりと言われました。
私たちは主にどのように備えたらいいのかを尋ねました。主は私たちに「危機のための備え」をしていなければならないと言われました。それは「地震とかの災害が起こったときのために必要な物資を蓄えて置くのは良いことである」という意味だと私たちは感じました。ある程度の物資を蓄えるのは賢明なことであると感じた一方、恐れのゆえに大量の貯蔵をする事に対する警報もありました。
「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。『宿営の中を巡って、民に命じて、「糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。」といいなさい。』」 ヨシュア1:10−11
今のシーズンに忘れてはならない大切なことが3つあります。
1.恐れに対して正面から立ち向かう
2.物資を蓄える
3.天の御国は決して揺るがされないことを知る
イスラエルはこの揺り動かしの最中にも繁栄を続け、世界の多くの者たちが銀行のシステムを確立する方法に関するアドバイスを受けにイスラエルに行くでしょう。イスラエルはイザヤ60の成就のシーズンです。
扉をしめよ
イザヤ22:15−22により、国家の最高の地位に着こうとする者たちが国民に対して父の心を持っていない時、神の教会は彼らに扉を閉ざすことを神が望んでおられることが感じとられました。選挙のサイクルに劇的なシフトが起こるでしょう。ある政治家たちはまだ心が定まっておらず(天秤の上に載っている状態)、 義しい票を投じるか、暗い闇に落ちて行くかのどちらかに傾くことになるでしょう。
アメリカの選挙では、神は人々からそれぞれの覆いを吹き飛ばして、本当に義であり保守である者を明らかにするでしょう。私たちはアメリカのために祈りと断食の年とすることを呼びかけています。アメリカはこの一年でよい方にシフトするか、ひどく震われます。
影響力のある3つの山
「任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。」使徒行伝12:25
「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国王へロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」使徒行伝13:1−3
今は、預言者と教師が一緒に働くべき新しいシーズンです。教えの賜物と神のことばの強い土台とは、教会に惑わしを入りこませない ために一緒に働かねばなりません。教師職にある者を私たちは認識し、他のミニストリーの賜物と同じように働きのために召し出さねばなりません。
この事は今年、特に大切です。それは今年最も重要な三つの山は、教会/宗教、家族、政府だからです。神は家族を再び一つにすると言われ、私たちは家族に焦点を当てねばならないと言われました。神は家族関係を癒し回復されます。
又、地域教会は神のエクレシアとして機能し、改革時代にアメリカを変えたよりも更に大きく国を変えていくでしょう。改革時代には牧師たちが自由のために戦いに参加しました。「その時の世論に同調する意味での政治的正しさ、political correctness」により機能していた様々な場所で「宗教の霊」が暴露されるでしょう。
上述のバルナバとサウロとマルコに関する聖書箇所から分かるように、今はミニストリーのために神が世代を結びつける時です。今は次の世代をメンタリングする(教え導く)シーズンです。エリヤとエリシャの関係にある人たちが共に立つてバトンを渡して行くでしょう。マントルがモーセからヨシュアに移ったように、「バプテスマのヨハネ」の働きをしていた人々が「ジーザス・ピープル(弟子たち)」の世代のために道備えをしていたように、移って行きます。
私たちは多くの人々が「地の果てまで出て行くように」という神の召しを聞く新しい宣教のムーブメントを見るでしょう。それはJ.R.MottのStudent Volunteer Movement以来見た事もないようなムーブメントとなるでしょう。神が大勢の女性たちを立て上げるので、多くの新しい女性たちがリーダーとなって立ち上がるでしょう。今は詩編68:11「主はみことばを賜る。良いおとずれを告げる女たちは大きな群れをなしている。」が成就するシーズンです。
人身売買、売春の犠牲者のために戦う「あわれみのミニストリー」のムーブメントが起り、今までになかったほど社会の中で教会が発言力をもつようになります。売春に対する神の裁きの「重りなわ」が天から下ろされます。様々なことが暴露され、政治のトップリーダーたちの性的犯罪も明らかになり、世界にショックを与えます。(この会議の直後に、世界的な売春組織が明るみに出された事がニュースとなりました。)
「家」の年
「それからイエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。『「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。』また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」マタイ21:12−14
今年は「家」の年です。教会と同様に家族も「家」を表します。エクレシアは、すべての国の祈りの家となるでしょう。これによりすべての「politically correctnessその時の世論に同調する意味での政治的正しさ」からシフトしなかったものは、教会から追い出されるでしょう。まことの麦と一緒に育ってきた毒麦がどこにあるのかが分かるようになるでしょう。人々がどちら側に 立っているかを見分けられるようにするのが神の目的です。私たちは真理を語るために「教会のノンプロフィット 非営利団体」の特権をすすんで返上することさえ必要となるでしょう。
プライドがあらわにされ、クリスチャンのリーダーたちに新たな謙遜さが生まれるでしょう。その結果「祈りの家」に進んでなる者たちは偉大なしるしと不思議を見るでしょう。大勢の人々の解放が起り始め、多くの者が超自然的に強い束縛から自由にされるでしょう。新しい「ジーザス・ピープル・ムーブメント」が起こるでしょう。
私たちは、「祈りに浸された教会」を主が求めておられる、又、主は少数の選ばれた人たちだけではなく教会全体が祈ることを求めておられる、ということばを受け取りました。このことばにより、アメリカに祈りのムーブメントが回復されるように私たちが祈ることを神が求めておられることがわかりました。主はアメリカの祈りの歴史を私たちに思い起させてくださいました。
1980年代—地域教会で早朝の祈りと主の祈りが強調された偉大な神のムーブ
1990年代 — 祈りのムーブメントは主にパラ・チャーチの働きとなり、「AD2000」や「10/40のウィンドウの祈り」を通して多くの働きがなされました。この働きにより今までは福音に対して閉ざされていた多くの国が開かれました。又、ビル・ブライト師は断食祈祷のムーブメントを導きました。
2000年代 — 大学のキャンパスに神は祈りの家のムーブメントを起こされました。これはこれからも続けられ広がっていきますが、同時に祈りは地域教会にもどされ、今までになかったほどに教会全体が祈るまでになります。 祈りの家への情熱が取り戻されます。(ヨハネ2:17)
子どもと若者ユース
「そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。両親は彼を見て驚き、母は言った。『まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。』するとイエスは両親に言われた。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』」 ルカ2:46−49
子供や若者さえも、来るべき祈りのムーブメントの影響を受けます。子供と若者の覚醒が全地に起こります。イエスが賢者たちを驚かせたのは12歳のときでした。子供と若者の世代、特に10−12歳(tweens)が今までなかったように 立ち上がってくる時となるでしょう。
詩編110:3にあるメシア預言が実現するでしょう。
「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。」
ルー・イングル師は次のように言います。「夜明け前の暗い時間に、若者が集まり始める。乾いていた(誰もいない)地面は今や目の届く限りキラキラと輝いている。敵は夜眠りにつき、起きてみるとどこから現れたかわからない軍隊に取り巻かれているのを発見する。それは彼にとって最大の悪夢である。何も無かった平野が今や兵士で埋め尽くされ、彼らの武器は朝日に輝いている。文字通り一夜にして、献身した若者の軍隊が今ある暗やみから立ち上がってくる。この若者の大軍はすでに機動し始めている。今は目に見えないが、後に無敵となる。( Invisible now – Invincible later.)」
シンディー・ジェコブ師がつけ加えました。「彼らは神のあかつきの軍隊です! 戦いのためのフレッシュな軍隊、 聖さに燃え、主への情熱で真っ赤に燃えている軍隊! 彼らは聖く美しく、堕胎、貧困、ポルノ、同性愛やすべての性的罪の縛りを取り除く油注ぎを持っています。
今、極限の聖さが求められています。朝寝をするよりも神を愛する反世俗の戦士たちは、聖さの麗しさに心を奪われているので、世俗的な娯楽の楽しみを捨て去ります。聖さより美しいものは何一つありません。この世の誘惑もそれに勝るものではありません。言葉には表せないほどに麗しいのです。どんな詩人でも聖さの本質をことばで表現することはできません。彼らは主イエス・キリストと恋に落ち、主は言葉に表せないほどに麗しいのです。」(終り)
06 02月
警鐘をならす―聖霊は何を語っておられるのか
リック・ジョイナー
歴史上最大のリバイバルの一つは、1906年にロスアンゼルスのアズサ・ストリートで始まりました。以前は家畜小屋であったみすぼらしい建物は神の栄光で明るく輝き燃え、しばらくは「世界で2番目に有名な住所」と呼ばれました。神は同じことが又出来ますし、私たちがそれを必死で心から求めればして下さいます。
歴史上のすべてのリバイバルは、幾人かが神に激しく餓え渇き、酸素よりも神を更に求めるほどになった結果として起こるように思えます。そのように激しく神を求める人は決して神から否まれることはありません。今は「世界で最も知られる住所」となるようなリバイバルを求める時です。決して止まることのない神のムーブを求める時です。
私は数々のヴィジョンや夢で、大災難が起こること(特にアメリカ西海岸で)を見てきました。それで、私が西海岸に対して憎しみを持っているのではないか、と言う人たちも中にはいます。決してそんなことはなく、むしろその反対です。私がそのような夢を見るのは自分でコントロールできることではなく、精神分析では深層心理の現れだというかもしれませんが、私にはこれが預言的な夢であることがはっきり分かるのです。大災害の夢を見たあとの私の気持ちは沈み、人々が耳を傾けて悔い改めることによってその事が実際には起こらないことを望むのです。 そして攻撃や非難を受けても人々に警告せずにおられないのは、私が心から心配し悲しんでいるからなのです。
私は今の時代の終りに魂の収穫があるのを預言的に見ています。どうして大災難が来る前にリバイバルが先に起こってはならないのでしょうか? 神がヨナの説教を用いて邪悪なニネベを救われたとしたら、来るべき大災難で失われるかもしれない何百万人もの命を神は救われようとされないのでしょうか? 聖書には、神の本当の御心は人々を救いたいと願っておられるであると確かに書かれています。
それでは、どうしてそうされないのでしょうか? 神は自分の命や自分が成し遂げたい事を捨て、神の求めておられるとりなし手になる人々が現れるのを待っておられるのです。 どれほど人々から侮られ、馬鹿にされ、迫害されても神の真理、義、正義を妥協なしに伝える説教者が立ち上がるのを神は待っておられるのです。神は本当にそういうお気持ちおられるのです。私たちはどうでしょうか?
主は荒野の幕屋やエルサレムの神殿で、祭壇に火をつけられました。そして次に主は、祭司たちにこの火を燃えつづけさすように命じられました。それと同じように、本物のリバイバルを始めることが出来るのは神だけですが、その火を燃やし続けることを怠ってリバイバルを終らせるのは人間です。リバイバルが起こるためには、 根本的な神への飢え渇きと、神の目的のためには自分の目的を犠牲にして捧げる人々の献身がなければなりません。
過去数年に渡って、私は多くのネガティブなことを預言せねばなりませんでした。そして好むと好まざるとに関わらず(多くの人は好みませんが)それらが正確であったという結果が出ています。かなり多くの人々が私の言葉に耳を傾け、判断をし、信じて、それに備えをして、よい結果を得て栄えています。いつの時代にあっても備える者が栄えることを私は知っていますが、大災難の故に栄えることはしたくありません。私たちの第一の目標は、人々に警告を発することによって大災難が起こらなくなるようにすることです。大いなる裁きの日にはすべてのことに決着がつき正しい裁きがなされます。私はその日のために生きようと決意しています。
アメリカの西海岸は、今までになかったように揺さぶられようとしています。私は知人全員にもう少し大災害に備えるための時間が与えられるように祈るように勧めていますが、あまり時間がないのです。 同じような災害がミシシッピ川沿いのニューマドリッド・フォルトに発生するのを預言的に見た人たちもいます。ある人たちは、アメリカがイスラエルにエルサレムを分割するようにと強い圧力をかける時期と関係してこれが起こることを見ています。アメリカがイスラエルに対して行ってきた事とこの国を襲った自然災害との間には、驚くべき関連性があるのです。それは単なる偶然でそうなったのではありません。
東日本で大地震が起こったのを機に私がこのことを言い始めたことによって、私の人生の中の 物議を醸す沢山の事柄がまた一つ増えました。私は議論好きではありませんが、今の時代、何かを達成しようとすれば必ず物議を醸すことを避けられないことが分かりました。私が言葉を誤解のないように完璧に用いたとは思いませんし、自分自身でもどうかと思うこともあるのですが、この事に関してだけは私の言葉によってより多くの議論が起こった方がいいのです。これは真実の言葉であり、物議を醸していることはより多くの人がそれについて話す結果となっています。西海岸のある人たちは(非常に疑い深い人たちの中からも)耳を傾けるようになり、それを私は心から感謝しています。
そうではあっても、この事が西海岸に起こり始める日は、私の人生最悪の日となることでしょう。ずっと前に学んだ事ですが、 たとえ預言が正確でも、その預言者が死んでしまって最早脅威でなくなるまでは、正当な評価を受けることはあまりないのです。この理由から、私は自分が正しいと証明されることなどは考えてもいません。この事に関してはむしろ自分が間違っていた方がいいと思うのですが、間違っていないことを私は知っています。日本での地震と津波が起こって以来、私は西海岸に住んでいる人たちに対する嘆き悲しみをますます深く感じているのです。
又、非常に多くの偉大な教会や神の働きが西海岸にあることを私は感謝しています。そして願わくばそのすべてが災害を免れてゴシェンのように守られるといいと思います。災害が起こったときには、今までに無かったほどに偉大な教会、聖徒たちが必要とされることを私は知っているからです。それが理由で彼らがこの警告に耳を傾けないのかもしれない、と 考えたこともあります。神はすべてのクリスチャンがその地を去ることを望んでおられないからです。西海岸にいる神の民が強められ守られるように、そして彼らが神に大いに用いられ、命を亡くす人の何倍もの人が救われるようにと、私たちは今祈らねばなりません。
中でも最も必要とされるものは、バプテスマのヨハネ、或いはヨナの油注ぎを持って悔い改めを呼び起こす声であり、それによって人々に罪が示され悔い改めが起こり、主がもう少し時間的猶予を下さるようにすることです。アメリカが今置かれている危機を通リ抜けるためには、再び大いなる霊的覚醒が起こらねばなりません。しかし、 今は西海岸のリバイバルが緊急の課題です。このためにどうか私と毎日祈りを合わせてください。
皆さんの中には、これによって 私のミニストリーが損なわれるとの心配から、この事を話すのを止めるようにと望まれた方がありました。先ず、私は皆さんが心配してくださることを心から感謝いたします。しかし、実際のところこのことで私のミニストリーが損なわれているとは思いません。しかしもしそうであるとしても、私はミニストリーを立て上げるためとか、自分の名を挙げるためとかのためではなく、ただ神の御心を行うために生きているのです。主のしもべとなるべき者が受け入れねばならない「主の重荷」というものがあるのです。私の一番の心配は、私が臆病になり、人々が耳を傾けるような言葉で警告を発することができないことです。警報というものは、人々を叩き起こす程うるさくあるべきものですが、もし人々の目を覚ますことができたならば私は大変うれしいです。そうであっても、皆さんが心にかけてくださることを心から感謝いたします。(終り)
30 01月
終末における火のバプテスマ
ウエイド・テイラー
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」創世記3:8
アダムとイブが主の声を聞いたのは、「彼らが歩いていたとき」ではありませんでした。そうではなく、彼らは「歩いている声」を聞いたのです。この言葉は非常に深い意味を持ち、2つの事を明確に示しています。
まず一番目に、彼らが声を「聞いた」という事実は、主が私たちと話をしたいと願っておられることを表しています。
「耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:9
二つ目に、主が「歩いておられる」という事実は、主はご自分が語りたいことを続けて語って行くことを表しています。すなわち、主は昨日言われたことを越えて、今日は今日のことを語りたいと願っておられるのです。
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」ヨハネ16:12−13
明日主は、今までに語られた事を越えたことを話されるのです。
その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」黙示録4:1
主の預言的カレンダー
創造は6日間で完成されました。そして主は7日目に休まれました。ペテロはこの時を「一日は千年」としても理解できると言っています。この7日間のうち、初めの4日間が旧約の時代、次の2日間が新約の時代、そして最後の7日目は千年王国として分類することができます。
これは預言的な「時」のことであり、必ずしもカレンダーに基づく時ではありません。 この考えに基づくと次の箇所はこのように理解することができます。
イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは(教会時代)、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目(千年王国)に全うされます。』」ルカ13:32
人類の歴史の中で、 各「千年という一日」が終りに近づくころ、主が直接的に介入されましたが、その都度、主は一人の`人物にご自分を顕し、その結果その人はその時代に大きな影響を与えました。
最初の「千年という一日」を通して、ずっと主は人類と共に歩かれました。その終りに洪水が起こり、ノアとその家族以外のすべてのものが地上から取り除かれました。洪水に対してノアが備えられるように、主はノアを訪れました。2番目の「千年という一日」を通してずっと主は共に歩かれ、やがてアブラムがカルデヤのウルから呼び出されました。神の訪れにより、彼は神の友、信仰の父であるアブラハムとなりました。そして神と人との個人的関係が確立され、アブラハムは「ソドムとゴモラ」に対する神の裁きに関して、神と論じ合いました。
次の「千年という一日」を通して主はイスラエルの中を歩かれました。この時代が栄えたときに、主はソロモンにご自分を顕したので、彼は「雅歌」を著し、神殿を建てました。神殿には神の栄光が顕れ出ました。
4番目の「千年という一日」の間、イスラエルは少しずつ主から離れて行きました。この「一日」が終る頃、天使ガブリエルがマリヤに現れ、神が彼女の身体を用いて御子をこの世に送りたいと願っておられることを告げました。マリヤはそれに服従し、イエスが生まれました。後にバプテスマのヨハネは「荒野で呼ばわる声」として召し出され、イエスを「神の小羊」として世に示しました。
5番目の「千年という一日」の初めに、イエスの十字架、復活、昇天によって贖いの業が完成されました。屋上の間で待っていた120人の上に聖霊が注がれ、教会が誕生しました。聖霊が下ったとき、炎のように分かれた舌が一人ひとりの上にとどまり、彼らは聖霊に満たされ、彼らの知らない言語で神の栄光を語りました。
主は5番目の「千年という一日」、即ち教会時代の最初の「千年という一日」の中を使徒的力をもって歩き続けられました。そして当時の世界はそれによって大きな影響を受けました。次第にニコライ派(信徒を統治する者たち)が支配力を強め、超自然的であるべきものを 宗教という形式と儀式とに置き換えてしまい、それによって「暗黒時代」がもたらされました。
この時代に、紀元1150年頃、クレアヴォクスのバーナードが、神の恵みに関する啓示を受けました。この光は広がって行き、やがてローマ・カトリックの神父であったマルチン•ルターの人生の中に明るく輝きました。
神の歴史の6番目の「千年という一日」、即ち教会時代の2番目の「千年という一日」、が始まったとき、主は歩き続けられ、贖いの光が 暗黒の教会に再び輝き始めました。
ヴァチカンの建設費用を集めるために、ローマ・カトリックは「煉獄」での苦しみを免れることが出来ると言って「免罪符」を販売しました。マルチン•ルターは「救いは恵みによる無償の贈り物であり、買収できるものではない」という理解を神から受け取りました。そして1517年に彼の論文を教会の扉に打ち付けました。これによって教会への重荷を持っていた真の「教師たち」が回復されてきました。続いてこれに対する大きな迫害が起こりました。
1600年代に神の言葉「聖書」が印刷され広まり始めると、バプテストの人々が、「もし私たちが恵みによって値無しで義とされるならば、地域教会の中で育つ人たちにこのことを伝えねばならない。」という啓示を受け取りました。キリストのからだの中に「牧師」が回復され、彼らへの迫害がまたもや起こりました。
1700年代にも主は歩き続けられ、ウエスレー兄弟が、「義とされた者は、目に見える形での献身の証しがなければならない。」という啓示を受け取りました。それによって起きたリバイバルは1800年代まで続き、キリストのからだに「伝道者」が回復されました。
1901年の大晦日に、カンサス州トピカの小さな聖書学校で一人の若い女性が聖霊のバプテスマを受けました。他の人たちもこのバプテスマを受け始め、この神の訪れはロスアンゼルスのアズサ・ストリート・ミッションへと広がっていきました。「義とされ、聖化され、福音を伝えていくならば、その目的のために私たちは力を受けねばならない。」という啓示が示されていきました。
このようにして使徒行伝1:8が その時の「 今の言葉」となりました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
ペンテコステの神の訪れが世界に広まっていくにつれ、またもや迫害が起こりました。
しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。 ガラテヤ4:29
聖書や教会史の中に明らかなように、神の訪れを受けた者たちは各々、その時代にそれまでに知られ受け入れられていたものを越えた啓示を受け取ったのです。そして、その一つ前の啓示を受け取った者が、次のレベルの神の訪れと啓示を迫害する者となっていきました。
その理由は、彼らが自分たちのレベルの霊的経験に満足し、そこに安住してしまったからです。ですから今もルーテル派、バプテスト派、メソジスト派、ペンテコステ派が存在し、彼らはその場所から進んでいないのです。
しかし、主はどんどんと歩き続けられたので、それから40年後に「後の雨 Latter Rain」における主の訪れの時に、次の啓示が受け取られました。それは「もし私たちが福音を伝えるために力を受けるならば、超自然的な賜物が働き、しるしが現れるはずである。」というものです。この啓示により、「預言者」と「預言の賜物」が教会に回復されました。
迫害がまた起こりました。ペンテコステ派が「後の雨」の訪れを受け入れなかったからです。しかし、真理が少しずつ回復されるために、誤解されたり拒否されたりするという代価を喜んで払う人たちがいました。
それから更に40年が経ったとき、「カリズマ運動」における神の訪れが、主流教派の教会の中にも聖霊のバプテスマをもたらしました。ですからこれまでに、教師、牧師、伝道者、預言者が回復されたのです。
カリズマ運動の神の訪れの時、「使徒」が回復されるべきはずでした。バプテスマのヨハネは「聖霊と火のバプテスマ」について語りました。このバプテスマは、屋上の間での聖霊のバプテスマのときには起こりませんでした。なぜならば、火のバプテスマははっきりと招かれなければ起こらないからです。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。マタイ3:11−12
終末の聖霊の火のバプテスマ
私たちは、今までに異言や力あるミニストリー、賜物を伴う聖霊のバプテスマを経験してきました。しかし、「聖霊の火」によるバプテスマにまで到達する必要がまだ残っているのです。それは、 使徒になるべき人の罪を完全に取り去り清めて、使徒職の回復のために備えるものであり、又、キリストのからだの中の人々に使徒的な働きをする力を与えるものです。そしてそれはキリストのからだが今までに達成したレベルを越えて教会を前進させるものです。
この終末の(真の)「使徒的なもの」の訪れによって「聖霊の火」が分与され、それは主のシェキナ(栄光)の回復への道備えとなります。これによって人生の真の聖さと霊的一致が起こり、「創造する力を持つ言葉 creative word」が権威をもって語られます。
使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇跡と不思議と力あるわざです。第二コリント12:12
超自然的なものの現れは、真の使徒的ミニストリーのしるしです。栄光の顕れの中での創造する力のある言葉が使徒によって回復されるとき、それは世界の国々に対して再び大きな影響力を及ぼし、千年王国が確立されるための備えとなります。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。イザヤ60:1−3
罪を犯してアダムは「シェキナ」の覆いを失いました。そしてその「シェキナ」が、人がいのちの木に行けないように道を守る炎の剣として、アダムの敵となってしまったのです。しかし、ペンテコステの日に屋上の間で120人が祈っているときにこの「シェキナの火」は友となり、一人ひとりの頭の上に戻ってきてとどまったのです。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のように分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。使徒行伝2:1−4
彼らすべては聖霊で満たされましたが、「火の舌」は彼らの頭の上にとどまったことに目を留めてください。「火」が彼らの内に入るためには、もっと何かが起こらなければならなかったのです。
これら一つひとつの神の訪れによる前進により、教会には霊的生活とミニストリーが徐々に回復されていきました。そして「カリズマ運動」による神の訪れにより使徒的なものも回復されるはずでした。
しかし残念なことにこの神の訪れは、ミニストリーのための賜物、特に癒しと個人預言という表面的なムーブメントにとどまりました。キリストのからだの中で使徒的油注ぎと力をもって機能できる「使徒職」の回復の備えをするための「火」が、個々人の中に入り聖めることができるスペースが与えられなかったのです。
ですから、現在、カリズマの訪れは薄れつつあります。有名なリーダーたちが堕ちるとき、彼らの失敗は、彼らがその代表となっていたカリズマの訪れには「火」が無かったことを指し示しています。もし「火」が来ていたならば、彼らは完全に聖められて、失敗を犯す余地はなかったはずなのです。
「使徒的なもの」が完全になるためには、私たちが主の臨在の中で物事を見ること、臨在の中にとどまることが必要です。内面的な聖め、罪の追放なしには、主は主の宮に入って初代教会と同じレベルの力で使徒職を回復することはできないのです。
私たちは主の「parousia」(主の顕れ)のときに今生きています。主の終末の目的のために参加する備えの出来ている者に、主の顕れがあるのです。イエスがそのような者たちに顕れるとき、主は力と確たるしるしを伴う真の使徒の油注ぎを彼らに分与されるでしょう。
ですから、今現在の主の言葉はこれです。「宴会に招かれていた者たち (各教派やカリズマティック・ミニストリー)が応答しなかったので、聖霊は今大通りやわき道に行きキリストのからだの中で賜物のない者たちに、宴会に来て使徒の油注ぎと力を身にまとうようにと招いておられます。」(マタイ22:3−10参照)
現在、神の働きのスポットライトは、 牧師の説教台(説教者、指導者)を離れて会衆の座っている座席(一般信徒)の方に移り始めています。キリストのからだの中で「目に見えるような」目だった能力や賜物のない者(信徒)たちが聖霊の呼び掛けに応答する時、彼らは主の顕れの臨在によって、使徒職の回復の中で機能する備えをすばやく調えられつつあります。
使徒的権威の新しい波が、再び、神の力によって諸国を揺り動かし、諸国はそれによって再び大きな影響を受けるでしょう。
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 黙示録2:26−27
その結果、神の御国が義と平安の内に確立され、大いなる喜びが世界中にわき起こるでしょう。イエスが王の王、主の主として顕されるからです。(終わり)
Wade E. Taylor
Wade Taylor Ministries
Email: wade@wadetaylor.org
17 01月
輝かしい新年のために
グラハム・クック
新しい年を迎える時、私たちは自分がいまいる所はどこか、これからどこに向かうのか、これからどのような人生を望むのか、というようなことを考える伝統があります。何かが変ることを望んで、 決意のリストを作りますが、大概一月が過ぎる頃には駄目になってしまいます。
失敗する理由は、私たちが間違った動機で、間違った種類のリストを作るからだと思います。大抵私たちは自分自身や周りの状況の中で一番変ってほしい事のリストを作ります。リストの大半は否定的、ネガティブなことです。
「今年は人に利用され踏みつけられないようにしよう。この体重を減らそう。怒らないようにしよう。 気が短いところを変えたい。あまりくよくよ心配しないようにしなければいけない。私はどうしてこうも悲観的なのだろう、変らなければ。」という風にです。
私たちの動機は、改善したい、増やしたい、向上したい、というものです。もっと良いものを、もっと沢山ほしいのです。 そこで問題なのは 、私たちが自分のネガティブなところに焦点を当てると、ネガティブのサイクルに陥ってしまうことです。真実ではない自分の姿に取り付かれてしまい、自分が抜け出そうとしている穴の中にまた落ち込んでしまうのです。
ネガティブな思いにはまり込んでは、ネガティブな事を変えることはできません。私たちの人生は 、自分に欠けているものによって特徴付けられ識別されるものでは決してないのです。私たちが否定的なことに焦点を当てると、それ自体が弱々しく貧弱な自分のアイデンティティーを作ることになってしまいます。そして失敗を繰り返すこと、否定的になり、自分の可能性を認めようとしない方が、私たちにとってはよほどたやすい道なのです。
写真の世界でネガティブ(ネガ)とは、それからポジティブのプリントを作る事ができるイメージのことです。ですから、個人的な変革に関して言えば、私たちの中のネガティブのものは幾つかの段階を経ることによって、自分に対するイメージがポジティブに変えられるような過程を通らねばならないのです。
先ず、自分が変えたいと思うネガティブなもののリストを作ってください。次に、その一つ一つをポジティブに変換してください。
例:
「人に利用され踏みつけられないようにする」から「 自分の価値と大切さがもっと大きいことを知るようにしよう 」に。
「体重を減らそう」から「身体がひきしまり、より健康になって楽しもう」に。
「怒るのをやめよう」から「もっと優しく愛の人になるようにしよう」に。
「気が短いところを変えたい」から「自分の時間をもっと上手に使う人になる。もっと微笑み、そして親切になろう」に。
「あまりくよくよ心配しないようにしなければいけない」から「もっとすべてに信頼し、物事をあまり気にしない、ハッピーな人間になって楽しもう 」に。
「私はどうしてこんなに悲観的なのだろう」から「 自分に喜びと笑いを引き起こすような人生を生きよう」に。
お分かりですね。否定的なものを肯定的なものに変換して、真実の姿ではないあなたを見るのではなく、あなたがこうなりたいと思う人物になることを目標として生きる決意をするのです。
第三に、古い自分はすでに死んでいることを忘れないでください。否定的なリストを肯定的に変え、 焦点を自分の古い性質からキリストにある新しい性質へと移すのです。ローマ人への手紙6:2−14を読んでください。これは新しい歩みをするための型板です。私たちが成功し幸せで力を持つためには、キリストにある私たちの人生のすべて の土台は、この御言葉でなければなりません。キリストにあって私たちは古いものには死んでいるのです。古いものは過ぎ去ってすべてが新しいのです。(第二コリント5:17−21)神にあるあなたの新しい自分に生きてください。そして人々が 古いあなたに息を吹き返そうとするのを絶対に許してはなりません。イエスにある新しい自分を喜んで自分のものとし、楽しみながらそれを現実のものとして確立させてください。
第四に、「新しい人」になろうとしないでください。キリストにあってあなたはすでに新しい人なのですから! あなたは自分の言動を変えることによって新しい人になるのではありません。すでに存在しているキリストにある自分を受け入れて、そのように行動するのです。キリストの内に留まり、住まい、ずっとそこにいてください。あなたの心の中にある主のリアリティーから自分が離れることを許してはいけません。 あなたが主に焦点を当てるならば、すべての状況の中で表に現れてくるのは、主の平安、喜び、そして冷静な知恵でしょう。
最後に、この主にあっての新しい旅を楽しんでください! あなたは「状況のただ中」に生きるのではないことを忘れないでください。あなたは「キリストの内」に生きるのです。そこに留まってください! そこから物事を見つめてください。 そこから人生を生きてください。主の観点で物事を見て下さい。それが主の内に住まうということです! 今年は喜びがあなたと共にいつもあるようにしてください。主の喜びこそがあなたの強さ、勇気、堅固さ、健康、スタミナ、エネルギー、力、意図するところとなることでしょう。
すばらしい新年をお過ごしください !(終わり)
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