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Walk With God Ministries


27 04月

聖餐(communion)の永遠の価値 ウェイド・テイラー


聖餐(communion)の永遠の価値

 

ウェイド・テイラー

 

ダイヤモンドのカットされた面を見ると、互いに反対を向いているような面があるのが分かります。ダイヤモンドが美しいのは、このように「反対」になっている面が互いに助長しあうからです。それと同じように、主の聖餐(communion)に与ることをどのように理解し、どのように経験するかにも多くの異なったものがあります。

 

ある人たちは聖餐を、主の御からだと血の「シンボル、象徴」として儀式的に受け取ります。シンボルや象徴にはいのちはありませんから、彼らは宗教的、或いは情緒的な満足を受け取るだけです。他の人たちは、主のいのちそのものを受けていると考えます。彼らは本当に主の御からだと血を自分の中に受け取っているのです。

 

聖餐に与るときには、「communion  霊的な親しい交わり」を効果的に受けるための準備の時間を持つべきです。主のいのちが私たちのいのちの中に流れ込むためには、私たちは主の臨在の中に引き上げられねばなりません。「主の臨在の中で主を待ち望む」ためには私たちがまず霊的領域に入らなければならないのと同じように、イエスの実際の(生きた)御からだと血を「受け取る」ためには、肉の領域と引き換えて霊の領域に入っていかねばなりません。

 

「communion 霊的な親しい交わり」という言葉は、コミュニケーション、即ちイエスが語られ私たちが聞き、そして私たちが話して主が聞かれる、ということと関係があります。ですから私たちがイエスと「 communion」に入り主と「一つ」となる時には、私たちは「枝」となり「ぶどうの木」に繋がって、主のいのちをいただくことができるのです。

 

まことのぶどうの木

 

私たちが聖餐に与ることに関して適応できる基本的な法則が神の御ことばの中に確立されています。

ロ—マ8:1−2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

 

この「罪にさだめられること」とは、罪を犯したゆえにアダムに与えられた裁き(死)です。この死の裁きを私たち一人ひとりが受け継ぎました。十字架で流されたイエスの血潮と私たちが一つになるとき、私たちは「罪の原理」から解放されるのです。私たちがイエスの復活と昇天と一つになるとき、「死の原理」から解放されるのです。私たちがいのちを与えるイエスと一つになるとき、私たちは「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」を受け取るものとなるのです。

 

第一コリント15:45には「 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす(life-giving いのちを与える)霊となりました。」とあります。これは、癒し、健康、長寿をも意味しています。イエスからこの「いのち」のギフトを受けたものは、他の人たちよりも健康の質や寿命においても特出しています。

 

イエスは5つのパンと2匹の魚で大群衆を養いました。その後、彼らは再び空腹になったときに又食べ物を求めてやってきました。イエスは彼らのためにもっと良い物があると言われました。

ヨハネ6:53、58「...人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません...これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

 

イエスは彼らに死ぬことのない高いレベルのいのちを与えようとされたのです。それを受ける条件は、彼らがパンと魚をもう一度食べるのではなく、主の肉を食べ主の血を飲むことでした。「永遠に生きる」という言葉は、第一には天国での永遠の命のことですが、私たちの今の生活にも適応できるのです。イエスは次のように言っておられます。

ヨハネ15:1−5「わたしはまことのぶどうの木であり...わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがは何もすることができないからです。」

 

イエスは「わたしはぶどうの木(いのちの木)であると言われました。そして私たちは枝であり、主のいのちを受け取るときに生きることができます。アダムの罪のために私たちはいのちの木と切り離され、知識の木につながれてしまいました。

 

主はけものを殺し、その毛皮でアダムとイブを被われました。血が流されたことによって罪の赦しがなされ、アダムとイブは赦されました。しかし、知識の木から食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に残りました。彼らは主のうちにとどまり主により頼むという状態を失い、もはやいのちの木から食べることができませんでした。それゆえに私たちすべての人間は知識の木につながれた状態で生まれるようになったのです。

 

私たちのためにイエスが十字架で完全に勝利されたことにより、私たしは知識の木から自分を切り離して、いのちの木に繋がることができるようになりました。そして「聖餐(communion)に与る」とき、私たちはイエスのいのちそのものが自分の中に流れ込むのを受けることができるのです。

 

もし聖餐のパンとぶどう酒をただシンボルとして受け取るならば、私たちは死んだ宗教の形式を受け取っているだけです。けれどもイエスはもはや死んではおられず、死からよみがえられ御父の右に座しておられます。ですからパンは主の生きたからだになった生きたパンです。ぶどう酒の杯は主の血潮、主の生きた血潮になったのです。私たちがそれに与るとき、主のいのちが私たちの中に与えられるので、主がご自身のいのちを私たちを通して生きることがお出来になるのです。

 

木のまわりから皮が全部はぎとられると、その木は死に始めます。根からくみ上げられるいのちをもはや受けられなくなり、やがて死んでしまいます。「ぶどうの木(イエス)」のいのちは、ぶどうの木につながって「枝」である私たちの中に流れこみます。そのためには枝(私たち)は、ぶどうの木に正しく繋がっていなければなりません。その時はじめてイエスのいのちが「永遠のいのちの力」として私たちの中に流れてくるのです。

 

いのちの木

 

それで、私は毎朝起きると、まず次のことをします。

「主よ、安らかな眠りを感謝します。主よ、アダムの罪により私は知識の木につながれて生まれてきました。けれども私のためのあなたの贖いの業により、私は知識の木から私を解き放ちます。そして私は枝としてへりくだってまことのぶどうの木のもとに来て、自分をいのちの木に再びつなぎます。それによって私があなたの生きた御からだ、あなたの生きた血潮をいただくとき、あなたのいのちが私のいのちの中に流れ込みます。」

 

肉体を保つために食事をすることは必要であり、私たちは一日に何度か食事をします。それと同じように、イエスのいのちを「摂取する」ことは選択の余地があることではありません。イエスの生きた「からだ」と「血」に与ることは、教会がやっているように第一日曜にするだけではなく、もっと何度もされるべきです。むしろ毎日するべきことであり、そうでないと私たちは霊的にも肉体的にも失うものがあるのです。

 

創世記3:22「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」

 

私は以前、「アダムは創造された時点で永遠に生きるように造られていて、罪を犯さなかったならば永遠に生きられたのだ」と考えていました。しかしながら、アダムは「土地のちり」から造られました。ちりから何かを形造るのは不可能です。そこには「湿り気」、即ち主イエス・キリストのいのちそのもの、が必要であり、それは私たち「ちり」の中にぶどうの木から注がれるものであり、それによって私たちは形造られ、調えられ、目的を与えられるのです。

「...今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)

アダムはいつもいのちの木に来て食べていたので、その結果、彼は生きたのです。しかし彼が罪を犯したときに、いのちの木から食べられなくされ、死への道をたどりはじめました。私たちが聖餐に与るとき、私たちは「手を伸ばし取って食べる」のです。

 

突然、私は何が言われているのかを悟りました。

アダムがいのちの木からそれまでのように食べることができたとすれば、彼は生き続けます。しかし罪の裁きは死です。主がこの裁きを執行するためには、アダムが聖餐(communion)にあずかれないようにすればよかったのです。ですから、主はいのちの木の前に炎の剣を持つ天使をおかれ、アダムが食べられないようにしたのです。

 

ペンテコステの日に、この「炎の剣」はさまたげではなくなり、そこに行くようにと導くものとなりました。炎の剣は天から下り、そこにいた120人の頭の上にとどまり、彼らは聖霊に満たされました。神殿の幕はすでに裂かれていて主の臨在に入る道が開かれていました。

 

黙示録2:7「...勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

私たちが「聖餐 (communion)」に与るとき、いのちの木への入口が私たちに開けられ、私たちはイエスのいのちそのものを食べることができるのです。主こそいのちの木です。

 

御からだのパン、 血潮の杯

 

イエスの奇跡を見るために出て来た群衆が空腹になった時、イエスは5つのパンと2匹の魚を増やして与え、彼らは食べて満腹しました。(ヨハネ6:1) 後に彼らが再びやってきてパンを求めたとき、イエスはご自分の肉を食べ血を飲まねばならない、と言われました。彼らは主をあざけり離れて行きました。主はその時、どのようにして御自分の肉を食べ血を飲むのかを説明することはできませんでした。それは私たちの罪のために主が十字架にかけられて死に、復活していのちを与える霊になる「時」ではまだなかったからです。イエスの地上での働きが完成されるとき、即ち十字架でいのちを与えられる前の夜に、主は私たちがどのように主の肉を食べ、主の血を飲めはよいのかを説明することが出来たのです。

 

第一コリント11:23−25「..主イエスは..パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのために裂かれたわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」

イエスが「このパンはわたしのからだです。この杯はわたしの血です。」と言われたことに注目してください。主は「これはわたしのからだと血のシンボルです。」とは言われませんでした。次にイエスは、御国で私たちと新しく飲むその日まで、ぶどうの実で造ったものを飲むことはないと言われました。

ルカ22:16「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

 

御ことばは「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)と言っています。私たちが聖餐に与るときに私たちに見えるのはパンですが、イエスは「これはわたしのからだである。」と言われました。私たちが杯を飲むとき、私たちが見るのはぶどう酒です。しかしイエスは「これはわたしの血である。」と言われました。子どものこころをもって、私たちはシンプルに、自分が見るものではなくて、イエスが言われたことを信じるのです。

 

ある人たちは「パン」と「ぶどう酒」は、まずイエスのからだと血に変えられねばならないと教え、祭司が信者のためにそれを行おうとします。また他の人たちは、それは祭司によらなくても自分ですることが出来ると言います。しかし私たちはイエスが言われたことを信じればよいのであり、パンとぶどう酒を信仰で受け取り、文字通りイエスのからだと血であると信じて受け取ればいいのです。必要とされる変化は私たちの内においてであり、パンやぶどう酒ではありません。

I コリント 11 「..これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

この「これを飲むたびに as often as you drink it」ということばは、私たちは好きなだけ何度も個人的に聖餐に与ることができることを明確に語っています。私たちはいつでも聖餐与ることがまったく自由にできるのです。教会の礼拝の中での聖餐式だけに限られてはいません。イエスは「わたしを覚えて」と言われました。それは主の十字架の死を覚えるということではなく、主が群衆にむかって「わたしの肉を食べ血を飲むように」と言われたときのことを私たちが覚えるようにと言われたのです。

 

ヨハネ6:66−67「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」

この時、イエスはどのようにイエスの肉と血に与るのかを説明できませんでしたが、今最後の晩餐のときにお出来になったのです。この理解をもってイエスの御ことばを信じるときに、子どものような信仰で私たちは文字通り主のからだと血をいただくことが出来るのです。それを受けるとき私たちは決断せねばなりません。「主よ。私が見るのはパンとぶどう酒ですが、私は見えるものではなく、あなたが言われたこと(これはわたしのからだ、わたしの血である)を信じます。」と。(終わり)

  

(ウェイド・テイラー師は2012年2月29日に天に召されました。彼は教師として、また霊の父として50年間人々に仕えられました。彼は主との歩みとその深い霊により多くの人々から愛され尊敬されました。彼は油注がれた著者であり、御霊の深い真理を鮮明にシンプルに説きあかし、多くの読者を主イエス・キリストとのより親密な歩みへと引き上げました。)

 

 


18 04月

天使の顕れ キース•ルーカー


天使の顕れ

キース•ルーカー

 

天使の顕れが続いている

 

去年の10月から今までに、ワーシップや賛美をしているとき、又楽器を演奏しているときに天使が顕れることが、81回の集会で連続して起こっています。これまでは2、3年に一回くらいの割にしか経験していなかったことが、今やすべての集会毎に起こっているのです。

 

それと共に、創造的奇跡(creative miracle)も、ワーシップの間に自然に次々と起りはじめました。最近テキサス州ルフキンにおいて、20年前の首の怪我が原因で脊髄と神経に損傷のあった女性が癒されました。怪我により彼女の右目は極度のトンネルビジョンとなり、自分がかけている眼鏡の端も見えないほどでした。ところがワーシップが終ってから彼女が廊下を歩いていると、右側からいろんな物が近づいてくるので大変驚きました。それで右目の狭まっていた視覚が癒された事に気がついたのでした。又、彼女の身体の右側全体がワックスをぬったように感覚が鈍かったのですが、ワーシップのあとで顔や腕を触ってみると、普通の感覚にもどっているのが分かったのです!

 

又、集会中に天使が奏でる楽器の音やすばらしい歌声も聞こえてきています。最初にそれが起こったのは去年の10月で、カリフォルニア州レディングの家庭集会において、私がギターだけてワーシップを導いていたときでした。ワーシップをしている間、私の耳には他の楽器の音が聞こえていましたので、そこに集まっていた10人に何か聞こえたか訊ねました。「ええ、他の楽器がはっきり聞こえて、フルバンドのようだったので、あなたがCDを流してそれに合わせてギターを弾いているのかと思っていました。」と彼らは答えたのです!

 

カリフォルニア州ヴァカビルのヒーリングルームで私がワーシップを導いていたときも、ギターだけの賛美でした。礼拝のあと二人の女性が「フルート、オーボエ、フレンチホルンの音をはっきり聞きました!」と言いました。アーカンサス州のラッセルヴィレでは、一人の男性が礼拝後に私に「あなたが壇上で何をしていたのかしりませんが、千人の歌声が私には聞こえました!あなたの弾いていたギターの音が聞こえないほどでした!」と言いました。

 

このように天使の奏でる楽器の音や天使の歌声が毎回連続して聞こえ始めたのが、カリフォルニアのレディングにあるベテル教会で栄光の雲が再び現れ始めたのと同じ頃であったのは、とても興味深いことだと思います。神は何か大きなことをしようとしておられるようで、私はとてもわくわくしています。私は1992年に一つのヴィジョンを見ました。それは私たちがワーシップをしていると、聖霊が即興的にその場で歌詞とメロディーを与えてくださり、栄光の雲が現れ始め、奇跡がその場で次々に起り始めるというヴィジョンでした。そのヴィジョンを見てから今までの20年間で、集会の中でそのような霊的領域に入っていったのは数回だけでした。しかし、今はすべての集会でそれが起こっているのです!

 

Portals of Supernatural Worship

Whenever angels gather, God is manifesting His glory and the heavenly realm for a reason. Since angels are servants of God, sent by Him to minister to the saints, it is always a good sign when they manifest on earth. Our daily

 

超自然的なワーシップの門

 

天使が集まるときは常に、神がある目的をもってご自分の栄光と天的な領域を顕してくださいます。天使は神のしもべであり、聖徒に仕えるために神から遣わされるものですから、彼らが地上に顕れるときは、常に「良いしるし」です。私たちの毎日の祈りは「御国が来ますように!今、ここに、天にあるように地上にも!天で起こっていることが地上でも今起こりますように!」というものです。天のコーラスが地上でワーシップする者たちと共に歌い、超自然的、預言的ワーシップが天からの電流によって充電されるとき、黙示録に描かれている天の礼拝が地上でまさに起こっているのです!「おのおの立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。」黙示録5:8−9

 

超自然的ワーシップの門が「ヤコブのはしご」のように、地上のいたるところで開いていると私は思います。聖徒たちが地上で一つになってワーシップをするとき、その上を天使たちが上り下りし、天から人々のために奇跡を持ってくるのです。 地上での私たちのワーシップの仕方を、今、聖霊が変えておられます。天から聞こえてくる「新しい歌」に耳を傾け、一方的なワーシップではなく,神に聞くワーシップをすることが、世界中の集会で増えてきています。それによって 私たちはもっと主の臨在と力を経験することが出来るのです。

 

これは地上で天国を経験するすばらしいチャンスです。超自然的領域の扉や窓が私たちに開かれているのです! 1990年代中頃に、多くの者が神の臨在と力をそれまでより更に体験するようになったときには、天の窓が開かれていました。 今それと同じような窓が開かれているのを主は私に見せてくださいました。今の窓は前の時よりももっと大きく、それはもっと多くの人々が主の素晴らしさと愛を体験するためである、と主が言われました。リバイバルが再び来ようとしています!あなたは主をお迎えするために何をなさいますか?(終わり)

 

 

Keith Luker
Keith and Sanna Luker Worship
Email: keithluker@earthlink.net

 

Keith Luker is a revivalist with a guitar, leading prophetic worship and preaching with revival fire and miracles all across the globe. He is a presence-driven minister that loves people, and his heart’s desire is to light people up for the Kingdom everywhere he goes. He is ordained by Bill Johnson, a member of the Global Legacy (Bethel Church) and his spiritual papa is Jack Taylor. He lives in the San Francisco Bay Area along with his very anointed wife, Sanna, and their three miracle children who they are raising in the presence of the Lord.


27 03月

真のアイデンティティーを持って選択する グラハム・クック    2012年 3月28日


真のアイデンティティーを持って選択する (先週よりの続き)

グラハム・クック

 

「私はどのような者になりたいか」を把握することは、自分のアイデンティティーの問題です。 「私は何をしたいか」を知ることは自分のデスティニーに関わることです。両者は一つのコインの両面であり、切り離すことはできません。

 

そして両方とも、 熟考して決断することを前提とした意識的な「選択」を必要としています。選択すること(こそ)が力の根源です。その力の優劣のレベル(度合い)は選択の度合いによるのであって、決して自然にそうなるというものではありません。山の頂上までふらふらと漂いながら到達することは不可能です。 「単なる空想pipedreams」は実際に人生を生きる人(競技をする選手)のものではなく、人生をただ傍観しながら暮らす(見物人的生き方をする)観客のものです。真に夢を描くこととは、現時点で目的志向の生活を生み出し、その目的に到達するための数多くの選択(決意)をすることによって未来を掴み取ることです。

 

今私たちがはっきり選択(複数)することによって、自分のやることの優先順位が決まり、それが違った未来を保証します。このような選択をするときには常に(必ず)、自分のアイデンティティーとデスティニー、自制、情熱、それに力が関わってきます。

 

1974年に私は4つの預言を受け 、それが30年以上も私の人生を導いてくれました。そのうちの一つは「預言の賜物」に関するものでした。即ち、私は預言者の職を受けること、預言の学校を経営すること、預言に関して古典と言われるような一連の著作をすること、でした。

 

また、私が受け取るこの霊的賜物には、生と共に死も、友と共に敵も、祝福と共にのろいが伴うことが告げられました。 私は愛されると同時に憎まれ、称賛される一方でそしられ、受け入れられる中で退けられ、本物と言われ、又背教者と切り捨てられる、しかもこれらすべてがイエスの名においてなされると告げられました。

 

私の上にこの重荷が負わされたのは、21歳の時でした。当時はまだ預言を与えられることさえ無かったのです。37年後の今、これらの預言はすべて成就しています。私はミニストリーにおいて今も前進しており、それを証明する様々な傷あと、戦傷を持っています。

 

今までの道程の一歩一歩において、私は人生の旅路の選択をしてきました。当初私は、自分のアイデンティティーやデスティニーに基づく選択をするのに慣れていませんでした。それで私はいろいろな仕事を転々としながら、いつも最も抵抗の少ない道を選んでいました。私は何かが起こることを祈ってはいましたが、目標・目的を持ってはいませんでした。計画のないヴィジョンはただの空しい希望wishful thinkingにすぎません。私の決断のない優柔不断さは非常に高いものにつきました。私は目的を遂行するのに長い余分の年月を費やしてしまいました。やがて私を信じてくれていた人たちも私に厳しくなりました。しかし、主が私をどのように見ておられるかという視点から選択をし始めたとき、私は主の私に対する熱情(愛からの期待)に対して目が開かれていきました。

私が預言的になることに対して主は非常に情熱をいだいておられたのです。 主が私に対して持っておられた情熱と期待を私が(理解して)受け取り、それを自分のものとしてしっかり胸にいだいたときに 、転機がやってきました。

 

私のアイデンティティーに対する主の視点を私が選び取り、やがてそれを自分のものとしたことが数えきれないほどありました。 主が私のために創ろうと願われた結末を私が選択したので、 主の御名によって私がすることが私のデスティニーとなりました。主が選ばれた道を辿るためには、 その道から外れないために断念せねばならない選択も多々ありました。勿論、私の回りの人々もそれぞれの決断をしていて自分の決断が回りの人と何の関係もなく出来るわけではありません。(従って)自分のした選択を人々から批判され、攻撃されたときに出来ることは、受けた傷を戦利品として、それを悲しみや喜びと共に身につけることです。

 

私は預言の賜物をものすごい勢いで学び、耳を傾け、練習し、追求する道を選択しました。その決断は、私がどのような者であるのか、私が何を達成するために召されているのかをはっきりとさせました。アイデンティティーとデスティニーは、このような結果の結実です。

 

それからの私は持っていないお金を使いました。人が眠っている時間を私は寝ないで用いました。行くべき所に行くお金は必ず与えられると信じて何万マイルも旅をしました。土地や家を何回も買うことができるほどのお金を人々に与えてきました。どうか、あなたが行きたいところに種を蒔いてください。

 

「自分はどのような者になりたいか、そして何をしたいか」を確信するならば、神があなたのために創られている結末にそった選択をしていかねばなりません。あなたが望む人生を神からの贈り物として喜んでしっかり受け取ってください。そうすればあなたは主の情熱を受け取り、あなたが 犠牲を払わねばならないときにそれが力を与えてくれるでしょう。

 

あなたは自分自身で考えねばなりません。それを効果的にするためには、キリストの内にあって自分自身が何者であるのかを理解せねばなりません。(主から与えられた)自分自身の人生の意義と目的を理解していないならば、あなたは長い目で見た自分の将来に対する考えを持つことは出来ません。あなたが考えたことをまず紙の上に書いてください。そしてそれ見て祈り、熟考し、計画を立てていかねばなりません。

人生は決して偶然起こるのではなく、計画されるものです。(終り)


09 03月

神の予知に従って選ばれる ウエイド・テイラー    2012年3月10日


神の予知に従って選ばれる

ウエイド・テイラー

 

 

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ....第一ペテロ1:2

「従うように..選ばれた人々」:私たちが選ばれるのは、 私たちの内に霊的可能性があると主が見られる結果です。神は「予知」によって 、主に喜んで従い、従順に応答する者たちをすでに知っておられます。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。イザヤ1:19

自分の奥深くに隠されている能力を実現させるだけのキャパシティーと堅忍力があると、主が「 予知」によって見られる者たちを、主は選ばれるのです。

主は今も大いに働いておられます。主に対する純粋な思いを持ち、 あらゆるプレッシャーや人生のあらゆる状況下の問題に打ち勝つことを喜んで「選ぶ」者たちを、主は今調えておられます。私たちに必要なのは、揺るぎない霊と従順な心です。

 

パロの戦車の馬

 

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。マタイ25:14−15

 

「予知」により、主は私たちが生まれる前から私たちが(おのおのその能力にしたがって)する選択を知っておられました。ですから主は、私たちに対する御心と目的に私たちが向かっていくように、静かに導かれるのです。

わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。雅歌1:9

 

この箇所は 正しく理解するならば、非常にパワフルで意味深い賛辞となるのです。パロは当時世界で一番偉大な支配者でした。彼の使者たちは当時知られていた世界全域に遣わされて、まだ未成熟で「可能性を持つ」子馬を捜し求めたのです。それらの子馬の中からパロの戦車を引かせるための馬が、激しい訓練としつけを受けて調えられました。

そして、特別の機会には、それら注意深く選ばれた馬たちはパロの戦車に繋がれて、地上の美、力、調和をあらわす華麗なる姿で戦車を引いて行き、 堂々とした 栄光の パロの姿を民衆の前に示したのです。

 

それと同じように、主も又、王の王なる方の戦車に繋がれる可能性を持つと主が(予知によって)見る者たちを、今調えておられるのです。彼らは天の美しさ、力、調和を輝かしく映し出し、「その日」 堂々とした栄光の主の姿を世界の国々の前に表すのです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。使徒行伝1:8

ここでいう「証人」とは、「私たちがしていること(what we are doing)」ではなく、「そのようになった者(what we have become)」であることに注目してください。

 

わたしの「選び」

 

招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。マタイ22:14

 

1944年に、私はジョージア州サヴァナの西にあった陸軍のキャンプにいたのですが、ある日、そこにあった小さなチャペルに入っていきました。他に誰もいないことを確かめてから、私はひざまずいて祈りました。「神様、この戦争で私が死なないようにしてくださったら、軍隊を出たときにはミニストリーをします。」と。

 

この出来事は深く私に影響を与えました。私はこのような事を言うつもりはなかったのですが、チャペルを出たとき、私は何かものすごいことが起こったように感じたのです。私はニュースを聞くためにPX(軍の物品販売店)に走って行きました。というのは、もしかしてヒットラーが降伏したかもしれないと思ったからです。でもその時は何も変ったニュースはないのを知って私はがっかりしました。

 

その時の私には、非常に重要な何かが確かに起こったことを理解する力はありませんでした。私は主に自分の人生を明け渡し、主がそれに答えられたのです。「予知」によって主は、私の人生が主に捧げられ、この文章が何年もあとになって書かれるのを知っておられたのです。

 

チャペルでひとりで祈っていたとき、ひとつの「選び」が行われ、その日から私の人生は私が気づかないうちに主によって変えられ導かれていったのです。主の私に対するご計画と目的を邪魔したり妨げたりする状況や物事も、主によって道が開かれたり、変えられたりして行きました。

「予知」によって主は、私が主を選び正しく応答することをみられたので、それによって私の人生に対する主の「選び」は確立されました。

 

主は私のこころの意図(すべて願うこと、そうなりたい姿)を知っておられます。そして、私たちがそれよりも高いレベルの主の御目的のためにそれを明け渡すかどうかを知っておられるのです。主の「選び」は主によって決められる一方的な選択ではなく、むしろそれは、主が私たちの人生の終りを始めから見ておられるという事の結果です。主はアルファでありオメガです。

 

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子をあわせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ12:1−2

私たちに要求されることは沢山あります。そして主は私たちが正しく応答するかどうかを知っておられるのです。

 

「あなたは忘れたがわたしは忘れなかった」

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。黙示録3:21

私たちにとって「勝利する」とは、主に正しく応答し、私たちが主と共に歩くことを妨げるすべてのものを「越える」ことを意味しています。

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界がわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それで、モーセは民のことばを主に持って帰った。出エジプト19:5−8

 

民の意図は良かったのですが、彼らは自分たちが言ったようには行動しませんでした。よい意図だけでは十分ではありません。私は主に「もし主が私の命を守ってくださるならば主に仕えます。」と申し上げました。私は1945年の秋に陸軍から解任されました。それからの5年間、わたしは殆ど教会に行きませんでした。主との約束を全く忘れていたのです。

けれども、今日私は主に仕えています。それは私が忘れていたことを主は覚えておられたからです。主の予知と選びがないならば、私は今のような主との関係は持つことはできなかったのです。

 

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。エペソ2:10

 

その時から私は「神の作品」となり、主は私の人生の状況を深く取り扱うのに非常に忙しくなられました。私は大変儲かるビジネスの経営者となっていたのですが、人生にはもっと何かがあるのではないか、となぜか感じていたのです。私はそのビジネスを売り、人生を主に捧げ、聖書学校に行きたい、という思いに心が引き寄せられるのを感じ始めました。

主が私の内にこの願望を置かれたのです。それは「その時」になったならば、 主が私の人生に割り込み主の思い通りにされるのを私が許可することを、主は知っておられたからです。

 

私は軍隊にいたときに私がした主への約束を完全に忘れていました。しかし、 主が私の霊を引き寄せられたときに私は応答し、 主を人生の第一としました。ビジネルを売却した当日、主は私の記憶を呼び起し、「あなたは忘れたけれど、わたしは忘れなかった。」と言われました。私が軍のチャペルにいたあの日に、主は私が繁盛しているビジネスよりも主を選びとることを見ておられたのです。

私たちは一人ひとり、主がどのように自分の人生を捕らえられたか、どのように自分は主の「選び」によって現在のところに導かれたかという証しを持っているのです。

 

あなたの現在の霊的経験を越えたところに主が導かれることを、あなたが許可することによって、あなたの人生における主の「選び」が100%完成されますように祈ります。そしてあなたが王の王なる方の戦車に繋がれ、すべての膝がかがめられるときに人々の前に主をお連れすることができるようにと祈ります。(終り)

 

Wade E. Taylor
Wade Taylor Ministries

Email: wade@wadetaylor.org

 


03 03月

止まって、見て、聞きなさい! ボブ&ボニー・ジョーンズ 2012年3月4日


 

止まって、見て、聞きなさい!

ボブ&ボニー・ジョーンズ

 

教会への警告:私たちはキリストに焦点を合わせ続け、真理の御霊に導かれねばならない。私たちは教え(teaching)を追いかけるのではなく、教師(the Teacher キリスト)に焦点を合わせねばならない。

 

私はヴィジョンで、 小さな男の子がお父さんの手を離し、まわりをよく見ないで走って道路を横切っていくのを見ました。 向こう側に置いてあるものに興味をひかれて、それにむかって走り出したのです。 向こう側の道路わきには大きな机と 椅子が置いてあり、それは 粗大ゴミとして捨てられて回収されるのを待っているかのように見えました。

 

その男の子は幼くて未熟なので、空しい望みに目を奪われて、一番大切な物への焦点を失ったのでした。 私は、このヴィジョンが教会への警告であると感じました。私たちはキリストに焦点を当て続け、真理の御霊によって導かれねばなりません。

 

私たちは教え(teaching)のあとを追いかけてばかりいてはならないのです。私たちは教師(the Teacher キリスト)に焦点を当てねばなりません。私たちは、立ち止まり、見て、聞かねばなりません!子供たちが小さいとき、道路を横切るときにまず教えられるルールの一つは、「立ち止まり、見て、聞くこと」です。

この簡単な子供の歌を覚えれば、あなたにとってこれが一生のガイドになります。

「道を横切るときは、止まって、見て、聞くのですよ

最初に目、次に耳、それから最後に足を使いなさい」

 

ストップ!:神は私たちが自分の業をやめ、 主に安息して真理の御霊に導かれるように召されていると思います。私たちは自分の悟りに頼らず主により頼んで生きるようにと召されています。今まで私たちは、自分の魂によって動かされてしまい、聖霊と一つになった私たちの霊に よって動かされてはいませんでした。

 

見なさい!: 私たちは常に聖霊を見つめ続けることにより、聖霊がしておられることを注意深く識別せねばなりません。そうすることによって、私たちは正しい道にとどまることができ、期待して待つことによって、聖霊が言われることへの備えができます。

 

聞きなさい!: 私たちが自分の業から安息して、主を見つめるときに、聖霊が言われることを受け取る準備ができます。神の御声を聞くとき、私たちは愛によって動機づけられ、信仰と従順をもって出て行くことができます。

 

教えは大切です。私たちは聖書から教えられる必要があるからです。しかしキリストのからだは、聖書の教えを越えて生きる神との直接の経験へと進んでいかねばなりません。

 

私たちが自分の業を終えて主に委ね安息するときに始めてこのことが出来るようになります。私たちは主をじっと見つめ続けて、期待をもって主の指示を待たねばなりません。私たちは「私たちの肉に良く見えるもの」によって気を逸らされ混乱させられる余裕などないのです。

 

もし私たちが焦点を見失うならば、 視野に死角が出来てしまい盲点をつかれます。

ですから、私たちは、キリストについての初歩の教義とか教えをあとにして、霊的に成熟した者に属する霊的完成completeness and perfectionを目ざして着実に前進しようではありませんか。(宗教的形式的な)死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。ヘブル6:1、2

 

「学位Degree」が終り、「宣言Decree」が始まる!

今シーズン、私たちは神の息子、娘へと成長して行き、「古い方法がもたらす死」から「新しい命」へと移っていくのです。それは新しい出発です。それは 魂(soul)により支配されてきた私たちの人生が終息し、私たちの 霊の人が知性、意志、感情を支配し始めるのです。キリストのからだは学位(degree)に終りを告げ、新しい事を 宣言(decree)し始めるのです。

 

今までは魂(soul)が支配権を持っていたので、教会は学位を重視するメンタリティーで機能してきました。学位は、大学や神学校の課程を終了したときに与えられるものです。単純に言えば、肉や魂の業を称賛する称号です。それには知性の力はありますが、霊の力はありません。しかし今、キリストのからだは「宣言」へと進んでいるのです。

 

あなたが事を決めると(decide and decree)、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。ヨブ22:28

 

宣言(decree)とは、法律的権限を持つ命令です。権威を持ってなされる決定です。真理の御霊が私たちを導くとき、私たちは聖霊の力と勢いを受け、主と一致して私たちが宣言する事は成就し、確立されます。

ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子ども(sons)です。(ロマ書8:12-14)(終り)

 

Bob and Bonnie Jones
The Prophetic Ministry of Bob and Bonnie Jones



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