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Walk With God Ministries


16 06月

神の計画表 チャック・ピアス           2012年6月16日


神の計画表

 

チャック・ピアス

 

レビ記23章で、神は神の民にカレンダーを与えています。この聖書的なカレンダーは私たちが日頃使っているものとは異なっています。聖書のカレンダーは太陰暦(lunar calendar)であり、月 を基準にしています。月が満ちたり欠けたりすることで聖書的な一ヶ月は決まります。線のように細い新月の時は常に月の最初の日であり、満月はその月の真ん中になります。月がなくなったときはその月の終りの日です。

 

神はある日々を「モアディム」、即ち「定められた時 appointed times」と宣言されました。主は「あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭(定められた時 appointed times)、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。」(レビ記23:2)と言われています。

 

これにはどういう意味があるのでしょうか? レビ記23章は神の(日毎の)計画表のようなものです。主が主の民と会われる日、アポイントメントを定めておられるのです。それは即ち、毎週の安息日、過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、ペンテコステ、ラッパの祭り、贖罪の日、そして仮庵の祭りです。

 

使徒パウロはこれらの例祭は本体であるメシアの影のようなものであると教えています。(コロサイ2:16−17)つまり、神によって定められた例祭の一つ一つは、メシアに関する何かを教えるものであるということです。

例祭のほとんどすべては、過去に起こった偉大な贖いの御業を記念するものです。例えば、種なしパンの祭りはエジプトからの脱出を記念しています。

 

しかし聖書の例祭は、終末に起ることのブループリントとしても捉えることができます。ある意味で、例祭は贖いのパターンを示しています。なぜならばすべての例祭は、 神が人と真に交わるために定められた時であるからです。例祭のために定められた時は、それぞれ神の贖いの計画の定められた時を予表しているのです。その意味で例祭はメシアのために予め定められた時です。「父がご自分の権威をもってお定めになっている時」(使徒1:7)です。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)というその定められた時を、例祭は表しているのです。例祭を学ぶことは未来を学ぶことです。例祭を学ぶことはメシアを学ぶことです。

神が定められた例祭を実際に祝う人たちにとっては、それは深い霊的な学びを得させるものです。一つ一つの例祭は私たちを生ける神と聖なる御子へ更に親しく近づかせます。ユダヤのお祭りに注目し、それをよく理解し、祝うことの重要さがここにあります。(終り)

 


29 05月

礼拝者たち(ワーシッパー)の軍隊       フランシス・フランジペン         2012年5月30日


礼拝者たち(ワーシッパー)の軍隊

 

フランシス・フランジペン

 

聖書が「天の軍勢(heavenly host))」と言う時、私たちは普通「天使の合唱隊」のことを考えます。聖書でいう「host」とは「軍隊」であることがヨシュア5:13−14からわかります。「天の軍隊は賛美し礼拝する軍隊である。」ということは大変重要な真理です。実際、まず神を礼拝する者でなければ戦いをすることは誰にもできません。

 

艱難における中心ポイント:礼拝

 

ヨハネの黙示録を少し読めば、神とサタンは両者ともに礼拝者を捜し求めていることがわかります。(黙示録7:11,13:4,14:7、11参照)何度も繰り返し「獣とその像を拝む者」と「神を拝む者」とが対比され、明確に区別されています。

 

イエス再臨の前に起こる最後の戦いにおいて、すべての人生の結末は「礼拝の計り」によって計られます。戦いのさなかに私たちは誰を伏し拝むのでしょうか。神でしょうか、サタンでしょうか?

 

この戦いによって遂には主の御国がこの地に打ち立てられるのですが(黙示録11:15参照)その戦いの本質こそ現在の私たちの戦いの中心点でもあることを、私たちははっきり認識する必要があります。

サタンからの攻撃や誘惑にあったとき、私たちは信仰をもって忠実に神を礼拝するでしょうか? 真の礼拝が今の私たちの日常生活の中で現れていなければなりません。 小さな攻撃を受けたときに不平を言う者が、明日の大きな戦いの中で神を礼拝することは絶対ありえないからです。

主のイスラエルに対する召しは、荒野で神を礼拝し仕えるということであったのを思い出してください。 (出エジプト7:16)そして実際、 神のイスラエル人に対する愛と顧みをモーセが最初に彼らに告げたとき、彼らは「ひざまずいて礼拝した」と書かれているのです。(出エジプト4:31)しかし、試煉と困難がやってきた途端、民はつぶやき、不平を言い、そして明らかな反逆へと堕ちていきました。彼らの礼拝はうわべだけのもの、自分の益のための条件つきのものであり、心の奥底からではない外面的なものだったのです。

 

これと同じ上っ面だけの礼拝が、今日のキリスト教の大半に蔓延しています。主の民に対する大いなる愛、顧みに関するメッセージが語られると、私たちは熱心に身をかがめて礼拝します。しかし、日々の生活の中でプレッシャーが大きくなったり試みが来ると、私たちはなんといとも簡単に神に反抗し、主のお取り扱いに抵抗することでしょうか! 全能の主を真に礼拝することによって守られていない魂に、敵はやすやすと手を伸ばすことができるのです!

実際のところ荒野においてイスラエルのために主が持っておられた目的は、彼らが真の礼拝、即ち、 状況に基づくのではなく神のリアリティーに基づく礼拝、を完成させることでした。 荒野の苦しみの中で主を礼拝する心は、豊かな約束の地でも礼拝し続けることを主は知っておられます。

 

真に神を礼拝することなくしては、私たちが戦いに勝利することはありえません。サタンの攻撃や困難な状況の中で私たちから流れ出て行くものが、私たちの礼拝 の度合いを真にはかるものです。プレッシャーがかかったときに私たちの心から出てくるものが私たちの中にあるものなのです。それは安逸な時には隠されています。もしあなたが真の礼拝者ならば、どのような戦いのさなかでもあなたの霊からは神への礼拝がにじみ出てくるのです。 神への賛美、礼拝は、戦いの中で、私たちのたましいの回りに火の城壁を造るのです。

 

礼拝によって心を守る

 

殆どの人は、人間のたましいの基本的働きを理解しています。たましいは、知性、意志、感情で成り立っていると教えられてきましたし、それは正しいことです。普通、敵が教会を攻撃してくるのは、この3つの領域のどれかに対してです。私たちがサタンに対して戦うためには、これらの領域を守ることが非常に重要であることを私たちはしっかりと認識せねばなりません。

 

この戦いの特徴をさらにはっきりさせるために、知性と意志と感情に加えて、私たちの人生で起こる「様々な出来事」と「それらの出来事に対して私たちがどのように応答してきたか」が、私たちのたましいを形造っていると言うことを付け加えましょう。

現在の自分いうのは、今までの人生の中で出会ってきた事柄と、それに対して自分がした反応の集計からできています。虐待や苦難は私たちをある一方向にむけて打ち叩き、励ましや称賛は別の方へ膨らまします。それぞれの出来事に対する私たちのリアクションは、それがポジティブであろうとネガティブであろうと、私たちの個性を創りだす骨髄の中に注ぎこまれ、私たちの性質の中へと溶け込んでいきます。

 

私たちが記憶と呼んでいるものは、実際は私たちの霊が私たちのたましいの実体をじっと見ていることなのです。殆どの場合、一番よく覚えている出来事が私たちを一番作り上げているのです。実際、私たちの知性がある出来事を忘れられないのは、それが文字通り既に私たちの性質の一部になっているからです。

 

私たちのたましいは、過去の経験をどれくらい巧く、又はまずく扱ったかによって形造られます。聖書は私たちに、後ろを振り返らずに「うしろのものを忘れる」(ピリピ3:13、ルカ9:62参照)ように命じていますが、それは私たちがした「キリストのようではないリアクションに起因する結果を白紙にせよ」と言っているのです。神によってこれは不可能なことではありません。というのは、私たちの人生で起こった出来事はもとには戻りませんが、それに対する私たちのリアクションは今でも変える事ができるからです。私たちの過去に対する悪いリアクションを変るとき、私たちも変るのです。

言葉を変えれば、私たちは過去そのものを変えることはできませんが、神の前で礼拝する時に、その一つの行為として、祭壇の上に(神の前に)私たちの過去を差し出すことができます。このように自分の犯した過去の間違いをつつしんで神に差し出す―そのようなこころで真に神を賛美し礼拝する時に、神は私たちのたましいを癒し回復して下さいます。

 

私たちはみな、この世では良いことと悪いことをそれぞれに受けます。しかし人生を良くするためには、神(いのちの源である方)が私たちの経験の中にまで手を伸ばしてくださり、私たちをネガティブなリアクションからあがなってくださる必要があるのです。主が私たちの過去にまで手を伸ばし届いてくださるための通路は、私たちが主を愛し主を賛美、礼拝することです。

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8−28)この聖句を成就させるための鍵は、私たちが霊で神を愛する者となることです。 「神を愛する人々」には悪かったことも良いことに変えられるのです。私たちが主を常に愛するならば、私たちが人生で経験したことのすべては清められその愛の中であがなわれます。こうして悪いことも神の力により良いことに変えられるのです。

 

ですから、私たちのたましいの救いのためにも、又戦いの中で守られるためにも、私たちが礼拝者であることは絶対に欠く事のできないものです。艱難の嵐の中で私たちを安全に運んでくれる船は賛美、礼拝です。

 

詩編84編の神への賛美の中で、礼拝がたましいに与えるすばらしい効果が表現されています。「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなた(神)にあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」(5、6節)

 

もしあなたが「いつもあなた(神)をほめたたえて」(4節)いるならば、あなたの神への礼拝は敵のネガティブな攻撃を、あまい清らかな水の泉に変えるでしょう。礼拝する者にたとえ何が起ころうとも、彼らの「涙の谷」はいつも「祝福」でおおわれた泉になるのです。神を礼拝するものに先ずなることなしに、戦いに勝つことも人生の荒野を安全にわたることも出来ません。

 

礼拝:創造の目的

 

私たちは神の喜びのために創られました。私たちは自分のために生きるのではなく主のために創られたのです。主は私たちが主からのギフトや人々を楽しむことを望んでおられますが、まず主が喜ばれるために創られたことを私たちが知るようにされます。今の時代が終ろうとしている時、 神を喜ばせるためだけに生きることを目的とする人々を主は集められます。彼らの中に、神は人を創造された報酬を見出されるのです。彼らは主を礼拝する者たちです。彼らは神を喜ばせるためにだけ存在しているのであり、主が喜ばれるときに彼らも喜ぶのです。

 

主は彼らを 他の人々よりももっと痛みや困難を通してさらに成長させます。往々にして、外面的には彼らは 「神に打たれ、苦しめられた」(イザヤ53:4)ように見えます。しかし、神にとって彼らは主に愛される者であるのです。彼らが花びらのように踏みにじられる時、彼らからは神への賛美、礼拝がにじみ出ます。その香りはまことに美しく希有なことなので、天使たちも彼らの神への全面降伏(ゆだね)に対してしずかな畏敬の念で涙を流します。彼らこそが主の創造の目的であるのです。

 

「神は彼らを守り彼らが傷つかないようにしっかり護ってくださるはずだ」と思う人がいるでしょう。 しかし、彼らは他の人よりも痛めつけられます。実に主は彼らを砕き悲しませるのを喜ばれるように見えます。なぜならば彼らの肉体的、感情的苦しみのさなかに、彼らのキリストへの忠誠は純粋で完全にされていくからです。そして迫害に会うとき、 彼らは神への愛と礼拝だけがすべてである―そのような存在になっていきます。

 

キリストのしもべが、そのように完全に主にすべてを明け渡すことができたらsurrenderedどんなにすばらしいでしょうか。それでも神は私たちみんなを喜んでいてくださるのです。しかしながら、御国が近づき終末の戦いが激しくなっていく今、神を礼拝するためにだけ創られた者たちが、力と御子の栄光をもって現れる時がやって来ます。彼らの口には神への賛美があり、書き記された敵へのさばきを行います。(詩編149参照)主の礼拝者の軍隊の将軍として彼らは導くのです。(終り)

 

(著者のThe Three Battlegrounds からの抜粋)

—Adapted from Francis’ book, The Three Battlegrounds

 


19 05月

その石を捨てなさい!   ビル・ヨント        2012年5月19日


その石を捨てなさい!

ビル・ヨント

 

最近私は一組の男女が 歩いているのを見ていたとき、 強い罪意識に襲われました。私は彼らの様子を見て、すぐに「彼らは深い罪の生活をしている」という結論を出し、その罪の内容までも断定し始めたのです。その時、聖霊が私の心の思いを遮ってささやかれました。「でも、もしかして彼らがわたしを見つけたいと心の内で叫んでいて、 奇跡なしには今日の一日を生きていけないのだとしたらどうか? 二人のうちの一人が『今日なにかよい事が起こらなかったら、命を断とう』と考えているとしたらどうでしょうか? そして、わたしが彼らを見る機会をあなたに与えたのですから、わたしが彼らに触れてわたしと出会うように出来るのは、あなたを通してだけだとしたら、どうでしょうか? あなたの手にある石を捨てなさい。」と。

「主よ、 あなたが見られるようにその人を見ることができるようにいつもしてください。私がもう二度と石を取り上げることのないように助けてください!」と私は心で叫びました。

 

文字は殺し、御霊は生かす


「わたしがあなたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」ヨハネ6:63

何年も前のことですが、交際をしている若いカップルのことを私は心配していました。彼らの関係が主の御前で清くないことを強く感じていたからです。私はその若い女性に、私はあなたとあなたのボーイフレンドと一緒に話をしたいのですが、と頼みました。彼女は承諾しました。これは彼らの交際の仕方に関しての「 聖なる対決」になると分かっていましたので、私は彼らの罪をはっきりと示すような聖書箇所を集め始めました。

彼らと会う前の夜、私は彼らをやっつけるための弾丸(聖句)を銃に一杯こめ終わり、私の指は銃の引き金を引きたくてむずむずしました。その夜ベッドに横たわると、主が寝室にはいってこられ、次にように 語られたのです。「息子よ、明日若いカップルと会うとき、彼らにはネガティブな言葉は一つも言わないようにしてほしいのです。あなたが疑いを持ち、あるいは事実として知っているような彼らの罪の生活に関しては、何も言わないようにしなさい。ただ『神はあなた方の人生に大いなる召しを与えられていて、それは予定通りのスケジュールで進んでいます!』とだけ告げなさい。」

 

主は私からつめた弾薬をすべて取り去られました! 翌日彼らと共に座についたとき、私はただ次の言葉を告げました。「あなたがた二人の人生には神からの偉大な 召しがあり、それは予定通りのスケジュールで進んでいます!」

その瞬間、彼らの顔つきが変わりました。彼らは私が彼らのライフスタイルを知っていてその話を持ち出すとばかり思っていたので、驚いたのだと思います。すべてのことをご存知である全能なる神ご自身が、自分たちの罪に目を留めるのではなく、恵みの目をもって自分たちを見ていておられることに(気が付き)彼らは衝撃を受け畏敬の念をいだきました。

私たちが人の霊にむかって話すならばその人の霊が立ち上がり、肉にむかって話すならばその人の肉が立ち上がることを、私は今教えられています。もしも私が話そうと思っていたことを話したならば、彼らはもう二度と私の前には現れなかったかもしれません。私が神からの言葉を彼らに告げた時から、少しずつ彼らの心は主に向かい始め、6ヶ月後に彼らは教会に通い始め、神を心から信じ、誰にも言われないのに十一献金をするようになりました。

 

人々に神のことを話す前に、まずその人たちのことを神に話し、神が彼らをどのように見ておられるかを知ることが賢明でしょう。人々を悔い改めに導くのは主の慈愛なのです。(ローマ2:4)もし私たちが神の見られるように人々を見て、神が彼らについて言われることを言うならば、魂の収穫はずっと容易く起こると私は思います。ヤコブ2:12−13「自由の律法によって裁かれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

神は私たちを愛しているだけではなく、好きなのです

 

何年も前のことですが、 ある祈りに対して主が私の思ったようには答えて下さらなかったので、私はいらいらしていました。いや、いらいらしたばかりか、神に対して一日中その事で腹を立てていたことを私は告白します。その夜、眠りにつこうとした時、主は次の日曜日に私が奉仕をすることになっていた教会のことを非常に明確に語り始められました。

私が一日中腹を立てて主に話もしなかったのにも拘わらず、主から私に話かけてくださったので、私はびっくりしました。私は主にお聞きしました。「私が一日中あなたに腹を立てていたのを知っておられるのに、どうしてこんな風に私に話しかけられるのですか?」主が答えてくださいました。「息子よ、あなたは私に腹を立てているかもしれない。でも私はあなたに腹を立ててはいません! わたしの愛はあなたの愛とは違います。あなたがわたしを愛していても いなくても、わたしはあなたを愛しています。何があってもわたしはあなたを愛していますよ!」と。私はすぐに悔い改めました。主は(私の本当の姿を知っていながら)主の見方で私をご覧になって私を愛して下さっているのです。神は私たちを愛しておられるばかりか、私たちを本当に好きだと言っておられることを、私は今教えられています!(終り)

 


16 05月

意図 Intention を持って選択する グラハム・クック         2012年5月17日


意図 Intention を持って選択する

 

グラハム・クック

 

キリストの内なるいのちのすべては、意図・目的intentionで満ちています。神の目的は、多くの成熟した息子、娘たちを栄光へと導くことです。私たちは主に似る者となるように造られています。そしてすべてにおいて征服者という以上の圧倒的勝利者となることを学んでいます。私たちは地上に住む天国の市民です。キリストの花嫁であり、イエスの兄弟であり、又神の子、主のしもべ、主のよき兵士、主と共にある神の相続人です。御国のすべてのものは、(創造者の神の)目的と意図というアイデンティティーに連なっているのです。

 

人生に於けるあらゆる状況において、 その時々の私たちに対する神のご計画intention(御心)を私たちが選んで実行することを私たちは今学んでいます。神と私たちの関係は、決して一次元的なものではありません。神が 私たちに対して偉大な御計画と期待を持っておられるがゆえに、それは複数次元のリアリティーであるべきなのです。私たちを主に似る者とするために、主は今、この世という次元に生きる私たちを、御霊にあって既に永遠に生きているという天の次元で生きるリアリティーに引き上げねばならないのです。この世の人生において私たちは、すべての主権や権力を遥かに越えた天の所(御座)に(既に)キリストと共に座っているというデスティニーを持っているのです。

 

勿論、私たちは天で生きるより低いレベルで生きる人生を選ぶこともできます。すなわち、この世を卓越して生きる替わりに、世的に生きることを選ぶこともできます。戦士ではなく敗者になることを選ぶこともできます。相続人ではなく雇い人の方がいいと思うかもしれません。(ルカ15:19)自分の夢をやりやすい程度に小さくすることもできます。けれども神にはそのようなお考えは全くないのです。神は忠実で力強いお方であり、私たちに対して意図と目的をもっておられ、私たちがその神の意図と目的に従って生きるとしか見ておられないのです。

神にしか創ることのできない私たちの人生を生きるためには、当然ながら、まず 私たちへの主のヴィジョンを私たちは受諾せねばなりません。主が良いと思われるアイデンティティーに私たちが同意する時、私たちは神の意図と目的の場に踏み込まねばなりません。その道を選ぶならば、私たちは御父と同じ意図で歩んでいかねばなりません。そうであるならば、すべての状況は主の内にとどまることAbidingに連なっています。

 

そして主と同意し一致することによって、主にとどまり、安息し、大きくなることを学ぶのです。あなたが今それによって生きている人生の選択は、あなたの運命を世的に了解して(甘んじて)されたものですか、 それとも御国におけるあなたの場所(地位)から出た選択ですか?

すべての出来事は私たちにとって有益です。(なぜなら)すべての状況が私たちに、私たちのアイデンティティーを思い起こさせ(挑発し)神が私たちに対していかに親切であるかの意図を更にはっきりさせてくれるからです。 主がご自身の性質のある一つを特別にあなたに表されるときに、それがあなたのためにであることが疑いなく信じられるようになります。即ち、主はあなたが置かれたいかなる状況に於いても常にあなたに親切な味方であることを宣言しておられるのです。主が親切さを私に表されるとき、私の思いと心はそれに打たれて圧倒されます。そして主は、私が主の親切を受ける経験をするだけではなく、私自身が親切そのものになることを願っておられることが分かり始めました。

どんな状況においても(私がいつも)「親切であること」が私に対する主の心からの思いであることが分かるようになりました。それは私の証しとなりました。そして私のアイデンティティーは更に一段と向上しました。私のまわりの状況の中で明らかに表される神のご性質が、そのまま私の人々に対する行動に於いて明らかに表現されねばならないものとなりました。私たちは意図をもって選択するのです。 あなたに対して主がどのようなご性質を表して下さっているかをよく注意して見て下さい。

 

主は今あなたのためにどのようなことを示しておられるでしょうか?主は常にご自分の意図を明らかにされます。主は絶えずあなたのための主が用意されている結末を見ておられるのです。主はあなたが主のようになることを選びとって おられます。ですから、主の知恵により、主の力によって容易く避けられることも(時に)私たちに上に起こるのを許されます。主は 私たちが力を得て私たちの内や私たちを通してアイデンティティーへむかって前進向上できるような状況を私たちのために選ばれるのです。主の意図を私たちは選択するのです。主の意図は私たちのアイデンティティーとなります。ですから私たちがする選択は 想像以上にずっとパワフルです。私たちは 状況を自分で選択するのではありません。(神の選択したものを選択するのです)

私たちは神の意図を選び取るのです。私たちは、神の意思(御心)が私たちの心をアイデンティティーの場所にまで高めてくれるのを待ち許すのです。意図は、疑いや恐れ、不安に勝利します。アイデンティティーは その時の状況に正しく対応できるレベルへと私たちを高めます。御霊にあるいのちが内なる御臨在から外部の状況へと流れ出るのです。

 

御国は いつも私たちが信じるもののために経験を与えてくれます。主にとどまることによって私たちは主の意図の中にとどまることを選びとっています。それによって私たちは信じ続け、そしてついに経験を受け取るのです。カナンに巨人がいると聞いたとき、イスラエルはエジプトに戻ることを選択したかったのです。

神の意図は私たちに立ち向かう敵によって私たちがより鋭くなることです。ですから巨人は私たちをより大きく、より勇敢に、よりすぐれた者にするために(私たちの前に現れるように)デザインされたものです。(従って)巨人は、私たちが神の意図の中で次にどのような者になるかを教えてくれます。あなたの未来には少なくとも一人の巨人がいるはずです。私たちの上に普通に起こる問題というものは、私たちが一つのレベルから次のレベルに上がる階段をつくるものです。すべての問題は私たちがレベルアップするための高さとなるのです。それは上にあげてくれるもの;すなわちステップ(アップ)のバネ、すべてをレベルアップするための学習です。


巨人は私たちを一気に数段高いレベルへと 連れて行ってくれるエレベーターです。羊飼いの少年から王の宮殿へ、石投げをする少年から王になるという具合にです。私たちは自分のことを過小評価しているので、このように高められる用意がほとんどの場合出来ていません。私たちが自分に対する神の意図を信じるならば、その時私たちの選択によって、それにふさわしい著しく高いレベルへと私たちを押し上げてくれるのです。(終り)


05 05月

最も偉大なる希望    リック・ジョイナー     2012年5月5日


最も偉大なる希望    リック・ジョイナー

私たちはイエスの復活をお祝いしたところです。ですから今、この真理に基づいて生きることを決意しようではありませんか。スポルジョン師は「復活を信じるクリスチャンは極めて少ない」と書いています。これを読んだ時、これは印刷間違いだと思ったのですが、すぐにこれが事実であるという内なる聖霊のあかしがありました。ロ—マ10:10に、私たちが義と認められるのは、ただ頭だけではなく心で信じたときであると書かれています。私たちは復活の教義は信じています。しかし、もし本当に心で復活を信じているならば、私たちの人生は劇的に違ってくるはずです。

どのように違ってくるのでしょうか? まず第一に、私たちは一時的なものに心を奪われるのではなく、永遠のものに目を向けるでしょう。「あまりに天国のことばかり考えていて、この世では役に立たない」という言葉があります。しかし 実際は、「 クリスチャンの多くは地上のことばかり考えていているので、天でも地でもあまり役に立っていない」というのが本当のところです。歴史的に見ても、一番天のことを思っていた人たちがこの世においても一番良い業を行ったというのが事実です。

天のことを思う人たち、即ち「天の御国をまず求めなさい」という勧告に従っている人たちは、地上で最も解放された自由な人たちであり、これからの時代にはそれがますます明らかになってくるでしょう。コロサイ3:1−4にこのように書かれています。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

ある看護婦が「クリスチャンはどうしてもっとうまく死ねないのか」という質問をしてきたことがあります。彼女は「もし彼らがキリストを信じていて永遠のいのちを持っているとしたら、どうしてあんなに死を恐れる必要があるのか」という疑問を持っていたのです。これはもっともな質問です。すべてのクリスチャンは大いなる喜びと期待をもって死んでいくべきです。そして究極的な束縛である「死の恐れ」から解放されているのですから、私たちは地上で生きるときも同じように最も自由な者として生きるべきです。

復活は「起り得る最低最悪の事でさえ、すべて勝利に変えられる」という最も偉大な希望です。第二コリント2:14で「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と言っている通りです。ですから主に従う者にとっては「勝利するかどうか」ではなく、「どのように勝利するか」というのがポイントです。キリストに従うならば絶対に敗れることはないからです。

戦争やスポーツにおいて一番人々に称賛される勝利は、最も困難な状況の中で勝ち取られた勝利です。キリストにおいてもそれと同じです。私たちは 超自然的な神の力を見たいと思います。しかしその力を必要とする状況におかれるのは嫌なのです。偉大なる勝利を見たいのですが、それを必要とする立場に立たされるのは嫌なのです。しかし、今私たちはそれらを必要とする時にいるのですから、その機会をしっかりと捕らえようではありませんか。

聖書の中の偉大な英雄たちでさえ、主に用いられるまでには信仰において成長せねばなりませんでした。ダビデはゴリアテと直面する前に、獅子や熊と戦いました。私たちも同じです。主はいつの日か私たちを 偉大なる歴史的な戦いへ、そして勝利へと導かれるかもしれません。しかし、その日に備えるために、私たちは今日与えられている小さな戦いを見逃してはならないのです。

勝利がいかに大きくても、又小さくても、すべての勝利を喜んでください。試煉がいかに大きくても、又小さくても、しっかりと受け取ってください。キリストに従っているならば、私たちがそのすべてに勝利しないことなどあり得ません。主が私たちを勝利以外に導かれることはあり得ないからです。けれども先ほどの聖書箇所にあるように、それは「キリストによる勝利」であり、私たちだけの勝利ではありません。それでは、主の勝利とはどのようなものでしょうか?

最も偉大な勝利

この世で起りうるもっとも偉大な勝利は十字架上で起こりました。しかしそれは勝利のようには見えませんでした。イエスが十字架の上に釘づけされたとき、地上で生きた最も偉大な善であるお方に対して悪が勝利したかのように見えました。しかし、最大の敗北と見えたものが、実は最も偉大な勝利だったのです。ですから、偉大な勝利というものは、初めは偉大な勝利のようには見えないかもしれません。ですから、 あたかも悪が勝利したかに見えるときでも、私たちは希望を失ってはならないのです。しばしの間は悪が勝っているように見えても、それは決して長くは続かないのです。究極的なキリストの勝利は確実であり、それは永遠に続くものです。

心で復活を信じている人たちは、究極の恐れから解放されていますし、又それ故に地上で最も自由で幸福な人たちです。キリストは常に私たちを主の勝利へと導いてくださることを知り、すべてのことにおいて究極的に勝利があることを心で信じるならば、 私たちがすべての戦いに勇気をもって臨めないことなどあるでしょうか?

ローマ8:28で、すべては私たちの益になるという神の御ことばの約束をいただいています。もし主の御ことばが真実であると信じるならば、すべての戦いにおいて喜びながら勝利を期待するべきです。そのことがヤコブ1:2−4に書かれています。

「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」とヤコブが言っているのは「キリストに似た者」になるということです。人生のあらゆる出来事は、私たちの内にキリストの御性質を生み出すためのものです。これにより私たちはすべてを受け取り理解することができるのです。これは又、すべての事が私たちの益になると言っているローマ8:28のすぐ後にも書かれています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8:28、29

私たちはキリストにあって神の相続人となるように召されています。これ以上崇高な召しは全創造を見てもありません。私たちの人生に起こる事はすべて、私たちの内にキリストの御性質を形つくることによって、より高い召しへと私たちを整えることを目的としています。キリストは人間のすべての問題に対する答えであり、今私たちが直面しているすべての問題の答えです。私たちがお仕えしている方がすべての規則、権威、支配を越えた方であるという知識をもって生活しているならば、どうして私たちは恐れることができるでしょうか?すべてのチャレンジは信仰が成長する機会ですから、勝利の人生への鍵は、私たちに与えられている試煉を一つも無駄にしないことです。

聖徒の特徴

ローマ14:17で神の御国は「聖霊による義と平和と喜び」であると私たちは告げられています。もし 主の目に正しいことを行っているならば、私たちは他の何によっても得られない平安と喜びを与えられるのです。困難、恐れ、暗やみが世界に増していくとき、御国に住む者たちはその平安と喜びによって更にはっきりと現されていくのです。これからの時、平安と喜びが御国の真の民であることを示す最大のしるしとなるでしょう。すべての規則、権威、支配を越えて治めておられる方を知り、その御国が必ず来ることを知って従っていくとき、私たちが平安と喜びを持てないことなどあり得ません。

「その主権は増し加わり、その平和は限りなく(イザヤ9:7)」と書かれています。価値が決して下がらず、常に上昇していく株に投資したいですか? では御国に投資してください。そうすればあなたの投資は限りなく増加していきます。

神の御国をまず第一に求める者には、御国の平安と喜びが増し加わるでしょう。箴言4:18に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とある通りです。クリスチャンの人生の本来の姿は輝きがどんどんと増し加わるものです。世界がどのように暗くなったとしても、私たちには更に明るさが増していく別のリアリティーがあるのです。

世界はますます暗くなるでしょう。しかしこの世界は私たちのリアリティーではありません。イザヤ60:2に「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とあるように、「義の道」にとどまる人には光が増し加わります。

世の中が最も暗やみとなる時は、 私たちの上に主の栄光を見るときでありましょう。次のイザヤ60:3には、国々はあなたの輝きにやってくると書かれています。光が勝利し、国々がその光にやってくるのです。夜明け前はもっとも闇が深い時です。しばらくは暗さが増していきますが、それは神の民の上に現れる栄光をもっと明るく輝かせることになるのです。

今の私たちの目的

死への恐怖は究極の恐れですが、復活への保証によってそれが克服されたならば、他のどの恐れであれ、そのくびきを打ち破るのは容易くなるでしょう。復活を覚えて祝うことがどれほどクリスチャン生活にとって重要であるかという理由はここにあります。この真理の知識のうちにとどまるならば、私たちは他のどのような恐れも容易く克服することができるはずです。

私たちを圧迫し支配するためにサタンは恐れを用います。キリストにあって、私たちは恐れによるのではなく信仰によって歩むのです。恐れは本質的にサタンの武器であり、恐れによって支配されることを許してしまう者は、彼らがどのように弁明しようとも、キリストよりもサタンに仕えているのです。黙示録21:8にそれが明らかです。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄とに燃える池の中にある。これが、第二の死である。」

この箇所でおくびょう者 は、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言う者より先に挙げられています。恐れによって支配されるおくびょう者はキリストのものではないというのが真実であるからです。なぜならば、黙示録20:14−15で言われているように、火の池に投げ込まれる者とは、いのちの書に名がしるされていない者たちだからです。真に信じる者は勇敢であり、恐れによってコントロールされません。キリスト教の中におくびょう者がいる場所などありません。このように真に主を信じる者はやがてはっきりと見分けられるようになります。決して恐れによって支配されないで、よみがえられた神の御子を信じる信仰によって生きることを、今、決意しようではありませんか。私たちはこの世に対しては死ぬように召されています。死んだ者に対して何ができるでしょうか? 死んだ者は失敗や拒絶、その他どのようなことに対しても恐れを持っていません。もし私たちがキリストと共に死んだのであれば、今主の復活の力によって歩くことができ、恐れなどないはずです。

いにしえの預言者や義人たちは、 私たちが生きる特権を与えられている今の時代を見ることを願いました。それらの偉大な信仰の英雄たちに会って話が出来るときを夢に描いている人たちは、彼らが今の時代に生きた聖徒たちと話をすることをもっと願っていたことを知ってショックを受けることでしょう。一番偉大な信仰と一番偉大な業は、試煉を無駄にせず、神と歩む最も偉大な機会を無駄にしない人たちによって、ほどなく現されていくでしょう。

2012年には多くの物事が揺さぶられるでしょう。しかし、私たちは揺るぐ事のない御国を持っており、揺さぶられているものはすべて御国が現れるためにそうされているのです。あなたの人生を、決して揺るがされないもの、そして決して失望させられない希望の上に築き上げてください。復活の信仰で生きることを決意してください。(終り)


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