Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
10 08月
消えない光
ロバート・リカーデリ
多くのキリストに従う者にとって、 常に問題となるのはクリスチャン生活が二つの顔をもってしまうことです。そのような人たちは自分の生活を区分化して、 すべての瞬間、すべての呼吸、人生のすべての場に神の光が射しこむことを逸してしまっています。
光に関する聖書箇所をいくつかここに挙げてみます。
マタイ5:14「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」
箴言4:18「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」
ヨハネ8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
「ミニストリー」の定義:クリスチャン、又はクリスチャン・グループによる霊的働き又は奉仕
私たちが心から信奉できる最高の啓示の一つは、「私たちが人生で行うことはすべてミニストリーである」ということです。なぜならば 神の光は私たちの内にあり、私たちを通して輝くのであって、それは決して暗くなったりしないからです。すべての仕事、任務、家族、娯楽、そして何であっても聖霊が私たちを導くところは私たちの「ミニストリー」です。
コロサイ3:23−24「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」
あなたが受け取るのは主からの報酬であることを忘れないでください。主はあなたが受け取るべきものを必ずくださいます。あなたは主イエス・キリストのために働いているのです。私たちがすることはすべて王なる主と御国のために仕えることです。
あなたが何をしていても、すべて主のためにしているのであり、主と主の御国に仕えているのです。すべてのクリスチャンが「自分が行くところすべてに主の臨在を私は持ち運んでいるのだ」という啓示をしっかりと握りしめるならば、それはまず彼らを変革し、そして周りの多くの人を変革することでしょう。彼らは主の性質、主の愛、主の目的の中に歩むことを願い、 この地に神の御国を今日確立していくでしょう。
私が神を以前よりもっと深く 愛するようになったとき、次のステップとして当然私がとるベき道は四方を壁に囲まれた組織的なミニストリーの中でフルタイムの聖職者になることだと私は考えました。そう考えたのは「それが一番神を愛することである」という間違った思いからきたものでした。けれども聖職者としての働きの型に自分をはめようとすればするほど、私はそわそわと落ちつかなくなっていきました。とうとう主は私の頭をゴツンと叩いて「行く方向が間違っているよ。」と言わねばなりませんでした。私はやっと神は私のために違うご計画を持っておられるということが分かったのです。
そして私は、「私は主の中にいる。主は私の中におられる。主に従って私がするすべてのことは、法王や牧師、預言者、その他宗教が 与える様々なタイトルを持つ者と同じように霊的なことである。」ということをやっと理解しました。御父は私に「あなたがわたしの声を常に聞き、わたしのことばに従うならば、わたしとともにあるあなたの人生のすべてにおいて 、わたしはつねにあなたを喜ぶでしょう。」
主が私たちを主の似姿に変えていってくださるとき、人生のすべての面において主が私たちを通して働いておられるのを、この世は見始めるのです。私たちは自分の家族、ビジネス、自分が住む地域社会の中で、主の聖なる管理人となるのです。 主が与えてくださっているすべてのものの管理人となることが、各自のフルタイムのミニストリーとなります。なぜならば私たちは常に主の代理人だからです。私たちは何をするにしてもフルタイムのミニスターとして召されているのです。バスの運転手はキリストの光であり、説教壇から主の光を輝かせるものと全く変らない主のミニスターです。お母さんたち、あなたは外で働いたことがなくても家族や地域社会のミニスターです。私たちのすることはすべての主の栄光のためです。
私たちが行うすべてのことは御父を礼拝する行為となります。イエスの御名において、私たちは誠実で信頼できる者となり、周りの世界に塩と光をもたらすのです。聖職者としてのミニストリーではマーケットプレイス(実社会)にいる人たちには適応するのが難しくいろんな面で接触できなかったり、理解できなかったりするかもしれません。しかしマーケットプレイスにいる者が神の愛と力で歩むならば、主の目的のための革新的な道具となることができます。
第二コリント4:6−7「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
どこにでも神の臨在を持ち運ぶ
私たちが人生のすべての状況の中に神の栄光を持ち運ぶことができることを知るのは何という特権であり喜びでしょうか。主の臨在がそこにあるだけで、人々は解放されます。神の臨在によって簡単な会話やちょっとした関わりを通して人々が革新されるのを私は見てきました。
人々は「これは誰にも言ったことはないのですが、あなたにはどこか違うところがあります。私はあなたを信頼できるのです。」とよくいうようになるでしょう。私たちはその違いが何なのか、又何でないのかを知っていますね。勿論それは神を除外した私やあなたのことではありません。それは私たちの内におられる神であり、私たちを通して神の臨在が盲人を癒し、迷った人が神に戻る道を遂に見つけることができるようにしているのです。
自分が毎日絶えず主のミニストリーを活性化していうのだということを理解すると、私たちは常に、出会うすべての人のための 「恵みと憐れみを伝える生きた書簡」であらねばなりません。これは必ずしも彼らに説教をするという意味ではありません。 主の御声を聞く用意がいつも出来ていて、主が伝えるようにと言われることを伝えるのです。主の臨在の故に私たちの人生そのものが言葉以上に雄弁に語ることができます。自分の霊的な衣装をまとおうとすると、その行為は実を結びません。主は私たちに聖書の何章何節とかではなく、ただ一つの言葉を伝えるように言われるかもしれません。また、人々に愛や理解や励ましを与えることを望まれるかもしれません。私たちは聞く耳をもたねばなりません。その能力は御父とその御ことばであるイエスと共に時をすごし親密になることでしか得ることはできません。この親密さにより、 よい適切な機会に主からその人のための言葉を受け取る敏感さを私たちは得ることができるのです。
私たちは神の光を閉ざすことはできません。それは常に私たちの内に、私たちの上に、又私たちを通して輝いています。 神を毎日経験し、いのちの流れの中で生きていくためには、うわべだけの宗教になってしまう傾向を抹殺していかねばなりません。神の御国をパワフルに来らすために超自然的な愛で私たちは愛さねばならないのです。
祈り:父よ。私たちが生活の場で人々に仕え、あなたの栄光を世界に分け与えることが出来るように知恵と啓示をお与え下さい。
イエスの御名によって祈ります。アーメン(終り)
Robert Ricciardelli
Converging Zone Network & Visionary Advancement Strategies
Email: Agaperoad@gmail.com
06 08月
新たな喜びが殻を破る
チャック・ピアス
喜びの定義
最近私はジャクリーン・ヴァーネドさんの「喜びを運ぶ者となる」という本の原稿を読みました。この本は来月出版される予定ですが、皆さんも読まれることをお薦めします。混沌とした今の社会に何よりも必要とされるのは「溢れるばかりの喜び(joy)」です! 私たちはまず自分が喜びに満たされる必要がありますが、そればかりでなく、私たちが行く所どこにでも喜びを持ち運ぶ者にならなければなりません!
「喜び・ joy」という言葉を定義するのは困難です。喜びは、前向きでポジティブな姿勢とか楽しい気分とかではありません。喜びは感情であると共に実でもあります。聖書の中には様々なレベルの喜び(うれしい、満ち足りている、陽気等)が表されています。私たち神の御民の喜びは、清く純粋であるべきです。それはまわりの状況に左右されず、状況を越えるものであり、神のご性質に焦点をおくものです。即ち、それは私たちが神の御こころを実践し表すときに、神がご自分の感情を私たちを通して周囲に顕されるものです。
義である神の子供等が経験する喜びは、すべての事を益として相働かせてくださる神の御霊によって生み出されるものです。その喜びがあるとき、私たちは未来への希望を持つ事ができるます。喜びが幸せ(happiness)と違うのは実にこの点であり、 喜びには悲しみや損失から私たちを立ち上がらせる力があるのはこの理由からです。
私たちはこの世で生きて行く時に、非常に多くの困難、試煉を通りますから、「主の喜びは私たちの力である」ということをいつも思い起こさせてくれる何かが必要です。もし敵があなたから喜びを取り去ることに成功するならば、それは即ち、あなたから力を取り去ることに成功することです。「力」とは、 次にやってくる敵の攻撃に耐える力のことです。ですからその「力」を保つことは、御霊に満たされた人生を送るための重要な鍵となります。
私が体験したトラウマ
私たち夫婦に双子が与えられたのですが、 先ず一人が天に召され、そのあと更に 二人目も召されました。私たちは野外で記念礼拝を捧げましたが、礼拝の中で妻のパムが立ち上がり、二人が埋葬された場所に向かい美しい賛美を捧げました。それは非常に感動的な場面でした。
二人目の子が死んでから一週間後に妻の友人が電話をかけてきて、「神が何故あなたがたの双子を天に召されたのか全く理解できずに苦しんでいる」と言ってきました。彼女は更に続けて「パムが、一見、揺るぎない信仰をもってこのトラウマに対処できていることも理解が出来ない」と言いました。
その時、私が今までに一番強い影響を受けた言葉の一つがパムの口から語られました。パムは友人に次のように言いました。「私が人生で何か 学んだことがあるとしたら、それは『出来るだけ早く神の御旨を受け入れて従うほど、それだけ早く私たちはサタンを撃退することができる。』ということです。私は今の状況の中で神の御手に服従することを選びとりました。そしてそうする時に、神は 敵に打ち勝つ力を私に与えてくださり、私は敵が奪ったものの2倍を取り返すことができるのです。」
それはまさに主が私の妻を通して語られた言葉でした。この言葉は私の霊に深く浸透し、それ以来ずっと私のうちにあります。私たちの人生に起こったことがたとえ理解できなくても、誰かを失った悲しみのただ中にある時でも、私たちは 神が私たちのために用意されている更に偉大なご計画に素早く服従することを学ぶ必要があるのです。私たちが服従するとき、私たちはその苦悩を耐えぬく力を与えられるのです。「服従して明け渡す」という意味は、私たちの上を神の慈愛と恵みの翼で被っていただき、敵からくる叱責、社会の非難、又自分が犯した過ちへの呵責から私たちを守っていただくことです。
もし 人生を常に神に 服従し明け渡して生きるならば、私たちは自分に進むように定められた道を妨げるものに対抗できます。そして 私たちが服従し明け渡すときに、損失が大いなる益に変えられることを実際に体験し学ぶべきです。私たちは神が私たちの状況を益とするように働かれるのを阻止するべきではなく、状況がいかに困難であろうとも神の愛に応答すべきです。こうして損失も又、喜びに変えられることができるのです。
私とパムは、二人の子供を亡くすというトラウマのただ中でも、神は私たちのためにもっと崇高な回復の約束を必ず実現させていてくださるのだ、ということをはっきり悟る事ができました。損失は、もし神の御手に服従し明け渡すならば、 私たちの内におられる神がいかに偉大な方であるかを知る機会を生み出してくれるのです。
私たちが経験する大変な困難も、主の御手の中でまことに祝福となり、 更にすばらしい預言の成就を人生に生み出します。そうです、辛く悲しく、最悪で耐えられないような時も、それを神の御手に捧げ、神に感謝するならば、それは喜びに満ちた時になり得るのです。そして時が入れ替わります。期待していた喜びを失った辛い記憶が、今あがなわれるのです。辛い状況は恵みによる変革によって、一生の間あなたのうちで祝福となるのです。
嘆きは喜びに
もし損失を経験しなかったならば決して知ることのないレベルの喜びがあります。悲しみが深ければ深いほど、より深い喜びを私たちは味わう可能性を与えられるようです。損失を経験したあとは、すべてのものが違って見えるようなります。聖書には「嘆きが喜びに変る」ことについて多く書かれています。
その例をいくつかあげてみます。
詩編30:5、11「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。..あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」
エステル9:22「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変った月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。」
エレミヤ31:13「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。」
イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。」
ヨハネ16:16−23は、イエスがご自分の死と復活を預言しておられる麗しい箇所です。20〜22節は、弟子たちがこれから経験しようとしている悲しみと喜びについて率直に語っています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びで満たされます。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
悲しみと喜びは深く結びついています。それは恐らく深い悲しみを経験すればするほど、喜ぶための力、度量を私たちが持つからかもしれません。それは丁度飢えと似ているのだと思います。空腹であればあるほど、食事はおいしく感じられ満足させてくれます。神はそれをご存知です。私たちには夜の悲しみと涙だけしか見えないかもしれませんが、神は喜びに満ちた輝かしい美しい朝をご計画されているます。私とパムはこの原則をよく理解していたので、ヨハネ16:22を私たちの双子の息子たちの墓石に刻みました。私たちの悲しみが、ある日喜びに変わり、それを奪い去るものは誰もいないことを知っていたからです。
神が悲しみのシーズンの後に喜びを与える一つの理由は、私たちの霊に新しい力の風をもたらすためかもしれません。嘆きは力を奪います。感情的霊的重荷によって私たちは弱り果てるのです。しかし 喜びが新しい勢いと力をもたらすことを神は知っておられます。「主の喜びは力(ネへミヤ8:10)」だからです。喜びは私たちが新しいシーズンに入るために必要な力を生み出すのです。
イエスが十字架にかけられた時の弟子のように、私たちも非常に厳しい、そして私たちを混乱させるような損失を経験するかもしれません。しかし、主が復活された時の弟子のように、大いなる喜びが私たちを待っていて、それを奪い去る者は誰もいないのです。
「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。(詩編51:12)」私たちの敵は私たちの喜びを奪い、救いを完成させるプロセスから追い出したいのです。それは決して敵が私たちの喜びを奪うことによって救いを盗むことができるということではありません。しかし、救いに伴うはずの赦し、癒し、繁栄、回復から私たちを遠ざけることができるのです。敵の策略は多くの場合、ダビデ王に用いたものと同じです。敵は私たちが罪を犯すように仕向けます。私たちの生活の中にある罪ほど効果的に主の喜びを奪い去るものはありません。
しかし今という時、主の民が更に深く悔い改めをして喜びを回復することを、神は強く願っておられます。罪によって作られた破れ口を修復して 喜びを回復させることが神には可能なのです。箴言17:22に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」とあります。喜びは薬のように私たちの骨に癒しをもたらします。聖書が「主の喜びは私たちの力である(ネへミヤ8:10)」というのはこの理由によります。喜びは私たちを癒し、神が私たちのためにくださる健康を維持する力を持っているのです。
ダビデは罪の故に喜びを失いましたが、詩編51を見ると、彼が喜びを回復してくださるように主に願うことができたことが分かります。キリストの血潮により、私たちはダビデ王よりも更にすばらしい恵みの中にあり、私たちの罪を赦し、救いの喜びを回復してくださいと主にお願いすることができるのです。皆様が回復、勝利、癒しによって満たされることが私の祈りです!あなたは喜びを持ち運ぶ者と定められています。喜びを持ち運ぶものとなってください! 新しいレベル、領域の喜びの中に入り、あなたの殻から抜け出してください!(終り)
16 07月
神からの崇高な召し
リック・ジョイナー
私たちがただ人々の後についていくのではなく 、各自主との交わりを持たねばならない理由が 、雅歌に書かれています。雅歌は特に人生の目的を王なるお方の花嫁となることにおいている人たちのために 書かれています。そのような人全員が学ぶべき鍵となる節は、雅歌1:7です。
「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」
もし私たちが仲間の群れの中に入っているだけならば、顔おおい(ベール)はつけたままで、ぼんやり主の栄光を見るだけであり、主の栄光によって変えられることはあまり起こらないのです。私のミニストリーのゴールは人々を私個人の弟子にすることでは決してなく、常に出来る限りすべての人がキリスト・イエスご自身の弟子になるように助けることであるのは、この理由によります。
ヨハネ10章からもわかるように、主の声を知っているのは主の羊であって 子供の羊ではありません。私たちが主にあって幼い間、主の声が分かるようになるまでは、他の人たちの後をついて行かねばならないでしょう。しかし、私の願いはまず私のベールが取り除かれることであり、それによって人々のベールをも取り除く助けをしたいことです。私たちがただ単に主イエスの友である人に似るのではなく、主ご自身に似る者と変えられるためには、私たちは主を見る必要があります。
ある人の子供達全員が彼の親友に似ていたとしたら、その人はどう思うでしょうか? もしも私たちリーダーが、人々を主にではなく自分の型にはめようとしているとしたら、一体自分は何をしようとしているのかをよく考える必要があります。私たちの人生は人々にとってよいお手本となり得ますし、またそうあるべきです。しかし使徒パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている。」と言っています。これこそ私たちの目標です。
25年前に主から見せられた大収穫のヴィジョンの中で私が非常に励まされたことの一つは「今までに存在した中で最もパワフルなメッセンジャーの世代が起り、彼らはすべて『御国のための宦官』となる」ということでした。これは肉体的な宦官ではなく霊的な宦官を意味しています。肉体的な宦官は花嫁への願望は持ちませんが、自分が仕える王が花嫁を喜ぶのを見て満足する者たちです。彼等は主の宦官となるのです。彼らの願望のすべては、王なる主が花嫁なる教会を喜ぶのを見ることです。彼らは教会が、自分や他の誰かではなく、主ご自身が望まれるものになるのを見るために献身するのです。彼らは花婿の真の友です。
聖書の中に「神の孫」がいないのにお気づきでしょうか? すべての人は神にとって一代目の子供です。私たちのミニストリーの究極的な目標は、私たちに何が起ころうとも(死んだり、いなくなっても)私たちが教えた者たちが神を追い求める歩みを一歩たりとも踏み外したりしないことです。彼らが、私たちの教えではなく決して失望させることのない主との関係の上に基礎をおいていれば、彼らは揺るがされることはありません。
先述のように、子羊(新し信者)は、羊飼いなるお方を知り主の声を十分知るようになるまでは、他の羊のあとをついていかねばなりません。ですから成長するまでは他の人についていくのは間違いではありません。しかし、真の霊的成熟は、 単に主を信じる人と親しくなるからではなく、主ご自身との親密さの結果として起こるのです。
ですから、私は常にどのような成長過程にある人にも理解し受け取れるように書き、又教えるように努めていますが、どのメッセージの中にも使徒パウロが「キリスト・イエスにある神からの崇高な召し the high calling of God in Christ Jesus (ピリピ3:14)」と呼んでいるものを追い求めている者に対する招きの種をも蒔いています。先述のように、ピリピ3章でパウロが「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と言っているのは、救いとか贖いのことを言っているのではありません。それらのものは彼がキリストの贖いの犠牲を信じたときにすでに受け取っていました。パウロは人生の終盤においてもまだ 崇高な召し(high calling)—それを受け取るクリスチャンは非常に稀ですーに到達したとは思っていました。崇高な召しを確実に知っているものはこの人生で得られる最高の宝です。これこそ私たちがこの人生で究極的に捜し追い求めるべきものです。 (終り)
06 07月
自分の箱から抜け出る
ジョン・ベルト
1.重い荷をおろす
今のシーズンに神は 「自分の箱から抜け出す」新しい方法で物事を行うように、教えておられます。「あなたの」やり方にだけに固執して固まってしまわないで、神のやり方を学びしっかりと受け取ってください。それはどういうことでしょうか? それは物事をこの世が考えるようには考えないということであり、又、この世が「正常・普通・ノーマル」と呼ぶものをそのまま受容しないということです。私たちは、自分の召しを妨げるものがあるならば、何であってもそれを捨て去ることをいとわないフレッシュな福音のメンタリティーが必要なのです。
神はご自分の召しに喜んで応答する人々を求めておられるのです。取税人マタイや他の弟子のことを考えてみてください。イエスは「わたしについて来なさい。」と言われましたが、その時イエスに従った人々がどのような犠牲を払ったのか、という詳細を私たちは知る事はできません。
マタイ11:28−30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
この召しに応答した者だけが発見できる隠された宝があります。マタイにとってそれは、この世のシステムの中で取税人(退屈な仕事)として働いていたことからの解放でした。神は私たちを福音の冒険の人生へと招いておられるのです。それは私たちの想像をはるかに越えたすばらしいものです。私たちが神の招きに応答したとき、神は人生のすべての重荷を取り去ってくださいます。マタイは大きな重荷を負っていたと私は思います。退屈だけれどいろんな心労があったことでしょう。彼が主に従うことを選んだとき、今までのすべてのものを後にしました。イエスの負いやすいくびきを受け取ったとき、彼の重荷は過去のものとなりました。重荷の代わりに イエスのそばで 神の栄光を経験することを選んだのです。
つまるところ「私たちは何のためにここにいるのか?」という問に行き着きます。何か意味があるのでしょうか? 私たちはここで天に宝を積み上げているのでしょうか? それとも地上での報いを求めているのでしょうか? イエスが「わたしについて来なさい。」と言われているのに、尚も私たちは自分の栄誉を求めているのでしょうか? 主は重荷を取り去ってくださり、すばらしい喜びといのちと平安へと導いてくださいました。福音は今も変らず「良き知らせ」です。それをあなたは常に心に感じていますか?
2. 天の戦略を用いる時
私たちは今、神が典型的な方法とは違う、かえってそれに反するような新しい戦略を、私たちのために解放しようと願っておられる時に生きています。ものごとの成果をあげることができるやり方があるのです。 多くの者は、何回も同じことを繰り返し同じ結果を見るという宗教的なパターンにはまってしまっていて、 新しく新鮮な違ったものを学んでいません。このように宗教の型にはまってしまった者は、冒険や新しいこと、違った方法を恐れ、自分たちの平安を保つために他の人たちをも抑えつけてしまっているのです。不幸は仲間を求めるのです。「恐れ」が持つ大きな特徴の一つは、「支配、コントロール」です。恐れを持つ人は自分のために物事を安全に守るために自分で物事をすべてコントロールせねばなりません。 主に信頼し物事を委ねることができず、それらを自分の手中の支配下におさめておきたいのです。
箴言3:5−6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
主に信頼することを学ぶならば、私たちは物事に対して新鮮な捉え方をすることができるようになります。自分の小さな箱の中にいた私たちは、主を信頼することを学ぶと、箱から這い出て、箱の中の暗闇ではなく青空と日の光を見るようになります。 神が見られるのと同じように私たちが物事を見るようになるときに、それが起こるのです。神は私たち一人ひとりのために、命を解き放ち神の愛と臨在を持ち運ぶものとするブループリントを持っておられます。主に古い場所から出してくださるようにとお願いしてください。自分の考えがもしかして間違っていないかどうか、よく考えてください。あなたの考えは、もしかしてこの世で受け入れられている人間的なものでしょうか? 神はもっとよい道を持っておられるのでしょうか? そうならば、天からの新鮮なブループリントを得るために何かを捨てる必要がありますか? それを喜んで捨てる用意がありますか?
3. 「しかり。」というハーモニーの経験
第二コリント1:20−22 「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神の栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。」
私たちが神のご計画に参加するとき、それが私たちのための主のベスト( 最善)であるという証印として主からの「しかり。」を受けるのです。「良いこと good」は「最善のこと best」の 敵です。自分の人生のための神からの最善の計画を私たちが発見するとき、 私たちを承認してくださる主の声を聞くという更にすばらしい経験をします。私たちが聖霊と一致し調和を保つとき、聖霊は神が承認しておられる啓示の中へと私たちを導いてくださいます。イエスは神の承認の声を受け取られました。それはイエスが神の御子であったからではなく、主が父の御心の願いに一致して歩まれていたからです。父の承認の声がさらに明瞭になる、的確で優れたときがあります。それは私たちが父の声と願いとに全く一致するときに起こります。
4.ふたつのものの合計
先月のある日のこと、私は自分の息子がなんとすばらしく形造られているかと驚嘆しながらながめていました。その時、彼は「ふたつのものの合計」であるという考えが浮かびました。ふたりが一致するときに力があります。一人のときの能力は限られていますが、私たちが神の思いと心に一緒になるとき、私たちが達成できることは無限となります。イエスが「ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」と言われたのはこの理由です。使徒行伝を見ると、弟子たちはふたり一組になってでかけました。神はご自分の力が解放されるように 一致し一つになる人びとを求めておられるのです。私たちが同じ思い、同じ心となるときに、神はとてつもなくすばらしいことがお出来になるのです。バベルの塔の話を見るとき、神は彼らに出来ないことはないと言われました。
創世記11:6「主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』」
彼らは同じ言葉を話し一致して、サタンの力によって働いていました。私たちが聖霊の力で一致して働いたならば、どれほど不可能なことがなくなるでしょうか?
5. 敬う霊
第一ペテロ2:17「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」
聖書はすべての人を敬いなさいと言っています。もしこれは信仰を持たない人をも含むとすれば、信仰を持つ人を私たちはどれほど敬うべきでしょうか。
人を敬うとはどういうことでしょうか? 神は私たちすべてに、人を敬う機会を与えてくださいます。ダビデはサウロの上着のすそを切り取った時、罪の責めを感じました。そして心を痛めました。あなたは誰かの悪口を言った時(その人が間違ったことをしたとしても) 心が痛みましたか? 私たちは蒔いたものを刈り取るのです。もし風を蒔けば、つむじ風を刈り取るのです。私たちの口は人々を祝福するためのものであり、人々をのろうためのものではないのです。
あなたは「あの人は悔い改めるべきだ。」と思っているかもしれません。人々を悔い改めに導くのは神の慈愛だということをご存知でしょうか? 神の慈愛を人々の人生の上に祈ってみてください。人々のうわさ話をするのではなく、彼らの上に神の愛、慈愛、憐れみが注がれるように願ってください。それとも、私たちは自分の苦々しい思いの故に、人が変えられるのを望んでいないのでしょうか。
多くの場合、人々は他人のために祈るよりはうわさ話をするほうを好みます。 祈祷会が「うわさ話の会」になってしまっているものもあります。人々は自分の意見を吐き出す場所を探しているのです。もしこのようなことが起こっているのを見たならば、その場ですぐにはっきりと言わねばなりません。その人がいない時にネガティブなことを言うならば、その人を暴露し辱めることであり、それは裏切り行為なのです。
神はこのようなことを喜んではおられません。人を敬うこころを持つようにしてください。人を辱めることを言う人を避けるようにしてください。自分を清く保ってください。そして神の愛と慈愛がそれらの人に降り注がれるように祈ってください。密室で人を敬うとき、神はあなたを公の場で敬われます。あなたの言葉が塩で味付けされているようにしてください。塩は清めるものです。ものを保存し、癒し、回復させます。
神は忠実なお方です!(終り)
John Belt
Overflow Global Ministries
Email: office@overflowglobal.com
25 06月
今から9月までは物事を完成させる時
ダグ・アディソン
私の母は、神を愛し、熱心に祈り、聖書をよく学んだすばらしい女性でした。母は 脳腫瘍が原因で1999年に亡くなりましたが、天において今なお私の最も大事なとりなし手の一人となっています。私は母から伝道者として召しと、母が毎日の祈りと学びのために使っていた聖書を遺産として受け取りました。
そして今年になって、私は母の聖書と非常に興味深い超自然的な出会いを経験してきました。まず聖霊が私に一つの聖書箇所を語られるので、そこを母の聖書で開いてみると私に驚くべき預言的な洞察が与えられる、という具合なのです。私はそこに私のために書かれたとしか思えないようなことを母が書き留めてあるのを何度も見つけました。母が15年以上も前に書いた小さな覚え書きが、母の死後何百万人もの人々を勇気づける助けをすることになるとは、母は思っても見なかったことでしょう。
15週間の完成の期間
2012年6月12日に、 傍にあった母の聖書を見たとき、神の御霊が「ハガイ書」というのを私は聞きました。ハガイ書は神が神殿を再建するようにとご自分の民に言われた預言の書です。この時私に与えられた預言的洞察は、「次の年、神は私たちの人生に驚くべき祝福と目的をもたらすことへと私たちを召しておられる。しかしまず、まだ未完成なことを完成させねばならない。」というものでした。
母の聖書のハガイ書のところには、「15週の期間」と書かれていました。これが預言的な言葉であることが分かったので、私はカレンダーを見てみました。すると6月12日から15週間後は9月25日の火曜日でした。そして興味深いことに、それはユダヤ暦のヨム・キプルにあたっていました。これは「贖罪の日」とも呼ばれ、神が私たちの人生を調べて昇格や霊的な発展を与えてくださる日です。私たちは最早ユダヤの律法や祭日の下にはおりませんが、神は今でもユダヤ暦で働いておられ、多くの祭りは預言的な意味を持ち続けています。
6月12日から9月25日までの15週間は、 今まで神がするようにと言われていたのに 完成させないで放っておいたことを完成させるために開かれた戦略的チャンスの窓です。今は物事を完成させ、完結させるために一生懸命に働くときです。なぜならば、神は新しい任務をこの9月に解き放たれるからです。今は神が私たちに与えておられた仕事をよく考えて思い出し、それをやり遂げる時です! 今はあなたがデスティニーに到達するのを推進するエクサイティングな時なのです。
私自身も、まだ達成していない幾つかの事があります。一つは「Understand Your Dreams Now あなたの夢を今理解する」という本を完成させることであり、それは9月末に出版される予定になっています。この預言に対して私たちがするべき対応は、まだやり遂げていないこと、(例えばガレージを片付けるとか、何かのクラスを受講する手続きをするとか、自分の履歴書を更新するとか、とうシンプルなことや生活の中のことでも)を探すことです。
劇的な転換
私たちは今まで「苦労しても成果が少ないシーズン」の中にいました。
「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。」ハガイ1:6
しかし、 神が私たちの人生に与えられたすばらしいデスティニーの建て直しにむかって私たちが進み始めるとき、 これらのことは劇的に転換、シフトします。2012年10月から神はよりすばらしいデスティニーと目的を解き放たれます。それは2013年に入ってから私たちが 御国の影響力をもっと大きく持つための準備となるでしょう。
失業者に関する報告を信じるな
神は6月に霊的領域において何か新しいものを解き放たれます。私たちは新しい仕事、関係、思いがけない昇格を見るでしょう。もしあなたがそれを必要としているならば、その領域に入っていく備えをしてください。敵は失業を用いて人々を押さえつけていました。それは単に経済的にだけではなく、人々を孤立させ落胆させていたのです。あなたがするべき事をして備えるときにこのような枷が取り去られるのを見てください。又、将来の昇格につながる移動にも注意していてください。
神と時を合わせる時
私は先月「変化の風」という預言の言葉を伝えましたが、その風は5月15日に始まりそれ以来吹き続けています。神が私たちの人生の中にある瓦礫を吹き飛ばしておられるので、霊的空気が変化しているのです。これは裁きの言葉ではなく、今起こっている新しいムーブメントには神からの恵みが沢山あるのです。今起こっている変化は、神の御計画にそった道に私たちを連れ戻し、神のタイミングに私たちを合わせるためです。
6月20日
6月は古い考え方や正しくない思いを打ち破るために一生懸命に頑張る必要がある時です。神はすべての限界を取り払っておられます。私たちが直面する最大の限界は、自分自身の思いです。6月20日に注意していてください。よいチャンスの窓が開き、もっとはっきりと見えるようになります。7月までには、私たちの中に確立されつつある神の新しい御計画を理解し洞察することができるようになります。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ガラテヤ6:9
失望してはいけません。今は神が私たちに約束してくださったことのために戦うときです!
皆さんがこれを読まれるときに、 あなたが神から受けていた古い仕事に関して神が語られ、それを完成する力をあなたがいただくようにと祈っています。そしてあなたがデスティニーへの次の一歩である新しいエクサイティングな御国の仕事を神から受け取る用意ができるようにと、私は祈っています。それが起こり始めるのを見るのはすばらしいことです!(終り)
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