Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
13 01月
プレイズとワーシップの相違点
ボブ•ソージ(Bob Sorge Ministry)
プレイズとワーシップの幾つかの相違点を明確に把握することは、私たちの助けになると思います。多くの場合、この二つは違う領域で機能します。しかし、時にはこれらを区別することがほとんど不可能なこともありますし、同じ礼拝の中でこの二つが別々の人々によって同時に行われることもあります。
私たちが手を上げて主の御前で踊るとき、プレイズをしているのでしょうか、それともワーシップをしているのでしょうか? それはどちらでもあり得るのです。というのはプレイズとワーシップの外面的な姿は、多くの場合、全く同じだからです。
プレイズとワーシップを切り離すのは、魂と霊を切りはなすほどに難しいことです。魂と霊は人間の持つ二つの異なる面ということは確かですが、その違いをはっきり区別するのは簡単ではありません。自分の内に一つの感情が生じたとき、それが「霊由来のもの」、あるいは「魂由来のもの」と決めつけることが私たちにできるでしょうか? 魂と霊を見分けるほど鋭いものはただ一つだけであり、それは神のことばです。(ヘブル4:12)私たちは自分自身の内にあるものの違いさえも判断できないのです! 同じようにプレイズとワーシップは二つの違うものですが、切り分けられないことがよくあるのです。
祈り、感謝、プレイズ、ワーシップという4つ表現は、非常に深く関わっています。これらの4つは互いに互いの領域と重なって存在しているからです。
プレイズとワーシップの違いは、ほとんど「仮に違いがあると想定するならば」と言ってもいいほどです。しかし、この仮説ともいえる相違点を調べることによって、私たちはワーシップのエッセンスをもっとよく理解することができると思います。
1.まず第一に、神は私たちのプレイズを必要とされません。私たちに「神をプレイズする必要」があるのです。神は私たちに「プレイズせよ」と命じておられますが、それは「神がそれを喜ばれるから」とかではなく、それが私たちのうちに良い変化をもたらすからです。私たちが神と正しい関係となり、神の御前にへりくだるためのプロセスの中でプレイズは必要なステップなのです。
神はあまたの被造物からありあまる賛美を受けておられるので、私やあなたが賛美することを拒んだとしても問題はありません。しかし御父はワーシップをする者、ワーシッパーを心から求めておられます!(ヨハネ4:23)ここで、神が求めておられるのは「礼拝 ワーシップ」ではなく、「礼拝者 ワーシッパー」であることに注意してください。神は私たちのワーシップを必要とされるのではなく、ワーシッパーとしてのライフスタイルと思考態度を身につけた者たちを熱心に求めておられるのです。
2.2番目に、プレイズをする時は、主と自分との距離があまり近くない場合もありますが、ワーシップのときは主との親しい交わりがあります。プレイズをするとき、その人の心が神の近くにある必要はありません。私は飲んでどんちゃん騒ぎをしながら神を賛美し始めた男たちの話を聞いたことがあります。
ワーシップはそれとは違い、私たちを神のこころに引き寄せます。神との関係はワーシップには必須です。なぜならば、ワーシップは一方通行ではなく両者の間を行き来きして、受け取ったり与えたりするものだからです。プレイズは一方通行で上に上っていくことができますが、ワーシップには親密な交わりと communion が伴うのです。
3.次に、プレイズをすると、それは常に目に見えたり聞こえたりします。しかし、ワーシップは傍目には分からないことがあります。ワーシップがプレイズと同じようにはっきり傍目に分かることもありますが、いつもそうではありません。
ワーシップをしている人が主の御前に謙虚に自分をすべて注ぎ出すとき、まるで死んでいるかのように見えることもあり(黙示録4:10、11に出てくる長老の姿を参考)ですからワーシップをしているかどうかを外見で見分けるのは難しい場合もあります。賛美は目で見えるので、賛美をしているかどうかを判断することはできるかもしれません。しかし本当にワーシップをしているかどうかを判断できるのは、ただ一人のお方、神だけです。
4.4番目に、プレイズはその目的においてほとんど水平方向のものですが、ワーシップは縦の関係に動くものです。私たちがプレイズするとき、水平に多くのことが起こります。互いに主のことを語ったり、互いに主への賛美を宣言したりします。しかしワーシップはもっと個人的なものであり、三位一体の神にもっと集中してかかわっていくものです。ワーシップには少しは横の要素もありますが、それが主となるものではありません。
プレイズは多くの場合、ワーシップに入る準備になります。完全にワーシップに入る前にプレイズをまずするようにと、神が教えてくださることがよくあります。それは、自分の内なるすべてをもって主を賛美することを会得するならば、そこからすばらしいワーシッパーへになって行くのがたやすくなるからです。
しかしながら、私たちが賛美するとき抑制されていて解放されていないならば、ワーシップにおいても縛られていることになるでしょう。ですから心からのプレイズはワーシップへの入り口と考えていいでしょう。多くの場合ワーシップよりもプレイズのほうが始めやすいでしょう。ですから、もしワーシップへ入るのに困難な時は、プレイズから始めればワーシップがもっと楽に流れ出すでしょう。私たちはプレイズに入るようにと歌い始め、そしてワーシップに入るためにプレイズをするーしかし歌うことが必ずプレイズに入っていくという保証はなく、又プレイズをすることが必ずワーシップへ入っていくという保証もありません。
5.この点に関しては例外がありますが、一般的に言うと、ワーシップは通常ゆっくりした歌によって行われ、プレイズは早めの歌によって行われます。
ゆっくりしたテンポがいつもワーシップを表して、早いテンポはプレイズだということではありません。そうではなく、ゆっくり目の歌のムードがよりワーシップにつながりやすく、早めの歌がプレイズの性質にもっとよりそいやすいということです。
勿論、時として例外はありますが、このように考えることは、私たちがプレイズとワーシップの違いを理解するのに役立つと思います。実際のところ、ある歌がプレイズのためかワーシップのためかを見極める最良の方法は、テンポが早いか遅いかではなく、歌詞の内容を見ることです。
しかしながら、私たちは次のことを忘れてはなりません。音楽はワーシップの一つの道具にすぎないのです。ある人は「私はワーシップをこのように強調することには全く興味がありません。私は歌うことが好きではないからです。」と言うかもしれません。歌を歌うのが楽しいとかいうことは全くワーシップとは関係ありません。音痴の人も沢山いますが、彼らもすばらしいワーシッパーになり得るのです。
ルカ7章で、イエスの足に油を注いだ女はワーシッパーの最たるものです。回りには何も楽器の演奏はなく彼女も歌を歌いませんでしたが、彼女は最も注目され賞賛されるべきワーシッパーでした。ワーシップは音楽的な活動ではなく心の働き a function of the heart であるからです。
6.プレイズとワーシップの相違点の最後ですが、プレイズをするとき、私たちは時に非常に積極的に煽る必要があります。そうすることによって私たちの肉と魂をかき立てて主を賛美することが必要な時も多いからです。
しかしワーシップはそれとは違うレベルで機能するようです。ワーシップは、プレイズと同じようには人間的な努力によって効果があるわけではなく、ワーシップは神の臨在の中に静かに無心にひたるという様なものだと言われます。私たちの霊は喜んでワーシップをしたいのですが、私たちの肉は弱く気が進まなくてしぶるのです。プレイズは肉を通して表現されるので、肉をふるいたたせる必要があります。しかしワーシップは霊の機能なので、必要なのは肉をふるいたたせることではなく、霊のドアの鍵をあけ、霊を解放することにあるのです。
以上のような説明で、ワーシップがプレイズよりも優っているとか崇高だと言っているわけではありません。両者ともに同じように重要であり、すべてのクリスチャンの人生やすべての教会にとって重要な役割を果たします。
もし私たちが「プレイズよりもワーシップの方がより好ましい、重要だ」と考えるならば、礼拝の中で常にプレイズからワーシップへと早く進んでいかねば、とあせる気持ちが働くでしょう。しかし、しばらくはプレイズに留まっていたり、最高のプレイズを頂点として終わるというのが一番適切な場合もあります。
又、ある人たちは歌詞は誰に向けて書かれているかにあまりにも注意を払いすぎます。即ち「この歌は自分に向けられているのか?それとも私の回りの人にか? それとも神にか?」という風にです。神に向かって語りかける歌が、神について語っている歌より優れているとかふさわしいということはありません。
神にとって重要なのは、その歌が一人称で書かれているか、二人称か、三人称かということではなく、私たちが神との麗しい交わりに入ることです。私たちはあまりにも自分の内側ばかりみて「今私はプレイズしているのだろうか?それともワーシップしているのだろうか?」と心配するようなことに陥らないようにしましょう。あなたの焦点を方法や技法にとらわれないで、主への愛を表して主を喜ばせることに集中しようではありませんか。
ある人たちは、プレイズは神殿の「外庭」であり、ワーシップは「内庭」だという間違った考えを持っています。プレイズとワーシップの間にはっきりした境を設けるのは不自然で人為的なことです。
例えば、プレイズの時に起る身体の動きはワーシップの中でも行われます。私が両手をあげているとき、プレイズをしているのでしょうか?それともワーシップをしているのでしょうか? どちらの可能性もありますし、もしかして両方しているかもしれません。ダンスはプレイズの形だと考えるのが普通ですが、ある時私は主の御前に力をつくしてワーシップの表現として踊ったときのことを覚えています。
叫ぶ、手を叩く、歌う、、確かにこれらはプレイズの外面的な姿ですが、これらもワーシップでも用いることができます。しかし、全く外面的には何の表現がなくてもワーシップをしている場合もあります。
プレイズとワーシップはどちらが高尚なのでしょうか? その答えは、「その時に聖霊が導かれている方が一番すばらしく高尚である。」です。
ヨハネ4:23−24
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(終り)
30 12月
ニネベの断食
フランシス•フランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)
断食には色々なタイプがあります。あなたがもし長期の断食をしたことがあるならば、それが人生を変革するような経験であることがおわかりでしょう。罪を示されたニネベの王は、その国の貴族や民衆と共に、食物と水を完全に断ちました。神は彼らの真摯な悔い改めを見て、ニネベを滅ぼされませんでした。ニネベの人々は、「断食を伴う祈りがどれほど神の心を動かすか」という見本となったのです。(ヨナ3、ルカ11:32)
断食はリバイバルを活気づけるパワフルな道具ともなりますが、又ただの宗教的な慣習に堕ちてしまい、何の霊的意味も持たなくなることもあります。パリサイ人は週に二回断食をしましたが、それは人々から見てもらうためでした。パリサイ人の断食は宗教的プライドであり、全く霊的価値のないものでした。
真の断食とは
断食の根本的目的は、私たちが霊的目的地に素早く到達するのを助けることにあり、断食が 「fast (早い)」と呼ばれるのはそれが理由なのです。イエスは「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)」と言われました。私たちの飢え渇きは、自分や家族、教会、町、国家の上に義が満ちることを求める飢え乾きです。断食は私たちをその目的地に速く到着させるのです。
しかし私たちは、断食を「自分に課す刑罰」にしてしまってはなりません。断食は「肉体の苦行(コロサイ2:20−23)」ではないのです。断食は実のところ「恵みの賜物」なのであり、主と長時間交わることのできる機会なのです。普段なら食事をして肉体を養う時間を、自分の霊を養うために用いるのです。主ともっと親しくなり、御ことばを読み、暗記し、自分や人のために祈るのです。
イザヤ58章には、断食は又、神の愛を人々に示す時でもあると書かれています。
イザヤ58:6−7
「わたしの好む断食は、これではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、
しいたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか。」
ですからあなたが断食をするときには、不遇な人や傷ついた人を助ける手段を考えてください。食事のための費用を貧しい人々の援助団体に寄付するのも一つの方法です。
ニネベの人々
ニネベの王に戻りましょう。彼は「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。(ヨナ3:7)」という布告を出し、国民に完全な断食をさせました。
イエスご自身も、ニネベの人々が神の前に真摯に悔い改めた結果起ったことを、「打ち破りの見本」として賞賛されています。
皆さん、今アメリカには打ち破りが必要とされています。そして祈りと断食なしには決して起らない打ち破りがあるのです。私たちもニネベの人々と共に立とうではありませんか。(終り)
訳者よりの付記
今、打ち破りが必要なのはアメリカだけではありません。クリスチャンであれば誰でも、個人的に主に対する真の愛とその信仰の程が試される時がやってまいりました。そして日本が羊の国になるか、山羊の国になるかも、私たちクリスチャンの信仰に掛かっています。
新年には、主に示された時と方法により、日本とアメリカのために、ぜひ断食を伴うお祈りをしていただくことを切にお願い申し上げます。2020年良いお年をお迎えください。 坂 達也・柚実子
23 12月
権力より愛を選ばれた主
エディー L.ハイヤット(Hyatt International Ministries)
「愛」と「権力」とは水と油のようなもので、混じりあうことはありません。有名な社会学者であるウイラード•ウオーラー氏は、愛と権力には逆相関があることを発見しました。個人的な人間関係において、「愛が増し加わると権力が減少し、権力が増し加わると愛が減少する」という事実に彼は気が付いたのです。
彼はこの驚くべき現象を表すために「principle of least interest 最小関心の原則」という言葉を作り出しました。それは即ち、「その関係に最も関心がなく最も気にかけない人が、最も強い権力を持つ」という原則です。
これは結婚に問題のある夫婦がカウンセリングを受けるときに明確に現れます。カウンセラーは二人と話すと「愛が少ないのはどちらの方か」をすぐに見分けられるのです。なぜならば、「愛が少ない方の人」は「権力の座」に座って様々な要求を出すからです。本当に愛している方の人は、権力を手放し、結婚を守るために進んで犠牲を払うのです。愛と権力とは、少なくともこの世では、共存しないようなのです。
神が人間への愛をこの世に現される時が来たときにご自分の権力を捨てられた理由は、ここにあるのです。パウロはピリピ2:6−7で、キリストが御父と共におられたときの力を捨て、仕える者の姿になったことを書いています。
ピリピ:6−7「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
これが神の愛を現すためにこられた救い主が、家畜小屋で生まれ、最初のベッドは飼い葉おけだった理由なのです。そしてこれがキリストが裕福な貴族の家ではなく、貧しい家に生まれた理由です。(ヨセフとマリヤは羊を買う余裕がなかったので、羊の代わりに律法で許されている「山ばと一つがい、或は家ばとのひな二羽」を捧げました。レビ記12:8、ルカ2:22−24)
そしてそれは又、イエスがエルサレムやローマのような権力の中心地から遠く離れた小さく名もないナザレで育ったことも説明しています。イエスがヘロデの王座やピラトの権威、或は大祭司の地位に全く興味を示さなかったこともそれは説明しています。イエスは神の愛を現すために来られたのであり、権力を求めながら愛を示すことはできなかったのです。
ですからイエスが弟子たちに「権力を求めるのではなく仕える者となるように」と教えられたのは当然のことでした。例えば、ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て、御国の2つの権威の座を願ったとき、イエスは彼らの権力への願望を叱責しました。(マタイ20:20−28、マルコ10:35−41)
権力は、人々に目に見える外面の行動を強要しコントロールしようとします。「愛」は人々の心にやさしく働きかけて内面を変えます。しかし、間違えないでください。この愛は決してめめしい感傷的な愛ではありません。か弱い自己中心的な愛でもありません。この愛は強靭な耐久力を必要とします。この愛は「相手にとって最高なこと」を望み、それを実現させるために「自分の願うことを自ら進んで犠牲にする」のです。この愛(ギリシャ語の新約聖書では「アガペ」です)の究極的な手本はイエス•キリストに見ることができます。
権力にまさる愛
この例を考えてみてください。ある父親が反抗的な息子に困り果て、何度も叱責し懲らしめていました。ある日、また懲らしめをしようと息子の前に立った父親は、深い悲しみと嘆きに圧倒され、そのまま息子の足もとに崩れ落ち激しく泣き始めてしまいました。息子は驚愕しそのまま無言で立っていました。しかし、その時から彼は変えられたのです。愛を表すシンプルな行動が、権力や強さを示す行動よりもっと効果的であることがあるのです。
旧約聖書では、神はご自分の力を現されました。神はシナイ山で雷鳴を轟かせ、海を分け、軍勢を滅ぼし、太陽や月を留めることさえなさいました。しかしながら、神の民はそれでも反抗し続けました。それはまだ神の愛を見ていなかったからです。
ここにクリスマスと十字架の意義があります。神がご自分の権力を捨て、人類に神の愛の深さを現してくださったのです。そしてイエスは弟子たちにも同じアガペの愛の中を歩むようにと召されたのです。
ヨハネ13:35−35でイエスは言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し(アガペ)合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたががわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
教会と権力
教会は初めの200年の間、キリストの愛を世に現し、その影響を全世界に広めて大きな成果をおさめました。教会は大ローマ帝国を軍隊や剣を用いることなく征服したのです。
しかしながら、コンスタンチヌスが教会に権力を混ぜ入れ始めたのです。教会は国家の権力を使って宣教活動を広げ始め、それによって「愛」は逃げ去ってしまったのです。キリストの名において恐ろしい暴虐が行われ、中世の教会は権力を得ましたが影響力は失っていきました。
宗教改革は、教会が権力から離れてキリストの福音へと戻る運動でした。しかし、今日の教会には「権力、力」を追い求めている者がまだ沢山います。彼らはその点において、キリストよりもコンスタンチヌスにより近い者だと言えましょう。
クリスマスに私たちは、神がご自分の権力を捨てて地に来てくださり、人類への愛を現してくださったことをお祝いします。この愛は十字架において頂点に達しました。なぜならばローマの十字架上にかけられている人の姿ほど弱さを表すものはないからです。
私たち教会に「クリスマス」が問いかけるチャレンジはこれです。私たちは権力を捨てることにおいてキリストの手本に見習っているでしょうか? 純粋な愛で歩んでいるでしょうか? それとも、コンスタンチヌスのように愛に権力を混ぜ合わせているでしょうか?
ピリピ2:5−8でパウロは、私たちがどのような態度や道を取るべきかをはっきりと述べています。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト•イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。」
正義は必ずなされる
愛は私たちを無抵抗で傷つけられやすくするので、人から利用され傷つけられるのを恐れて「愛によって歩きたくない」という誘惑が来るときが私たちにはあります。そのような時、「正義」は愛には欠くことのできない本質的な要素であることを忘れてはなりません。神は正義の神であり、誰もそれを避けることはできません。
ですから、主が再びこられる時、主の権威、力は全面的に現されるのです。次は主は家畜小屋の赤児としてではなく、宇宙の力ある主権者として来られるのです。主の愛を拒んだ者たちにとって、それはうれしいことではありません。ヨハネは人々が山や岩に向かって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」という姿を見たのです。
テサロニケの教会が激しい迫害の中にいたとき、「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように務めなさい。(1テサロニケ5:15)」とパウロは励ましました。
しかし彼は同じテサロニケのクリスチャンに次のようにも言っているのです。
「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(2テサロニケ1:7−9)」
クリスマスにあたり、私たちは全能の神に仕えている者として権力を追い求める必要がないことを忘れないでください。そうではなく、互いに愛を示し、今日神の愛を受け、来るべき神の怒りを受けることのないようにしてください。
(終り)
16 12月
マリヤのようになる (その2)
マイク•ビクル(IHOP Kansas)
博士たちが帰ったすぐ後、天使が夢でヨセフにヘロデによるイエス殺害の企みを知らせ、エジプトに逃げるようにと警告しました。想像してみてください。若いマリヤは妊娠中、親戚や友人たちから恥を受け汚名をきせられました。
そして今度は、王が自分の幼子を殺すというので、外国の地へと逃げねばならなかったのです。これが神に祝福され厚意を受けていることなのでしょうか?
神のすばらしい約束を心から受け取り、神が示される通りの道を歩いていても、時としてこのように全く予期せぬ困難に出会うことがあるのです。
この後、マリヤの人生は更に困難になっていきます。
ヨセフはイエスが12歳のときにはまだ存命でしたが、その後何年かして亡くなり、マリヤは寡婦となりました。マタイ13:55−56によると、イエスには4人の弟と数人の妹がおりました。夫を失った女性が7、8人の子どもたちをどのようにして養ったのでしょうか?
夫を失くした痛みと悲しみに加えて、マリヤはたくさんの子どもを抱えた寡婦として大きなプレッシャーに耐えねばなりませんでした。
イエスが30歳になったとき、彼は6週間大工仕事を休んで荒野で断食と祈りをしました。そして聖霊の油注ぎを受けて家に帰りましたが、イエスが育ち愛した町の人々は彼を退けました。
イエスは最も信頼に足る若者であり、評判もすばらしくよかったのです。しかしユダヤ会堂の長老たちは、イエスの「自分はイザヤが預言したその者である」という言葉に激怒しました。怒りのあまりイエスを崖から突き落とし殺そうとしたこともあったのです。(ルカ4:29)
マリヤは息子が町の長老たちにひどい取り扱いを受けるのを見なければなりませんでした。その後もイエスがミニストリーをしていた間、マリヤは信仰により自分の心を神の約束に合わせ一致させる必要があったのです。ガブリエルは「イエスは偉大な者となる」とマリヤに言いました。ですからどうして町の長老たちがこれほどまでイエスに反対するのかと、マリヤは訝しく思い悩んだのではないでしょうか。
イエスがミニストリーを始めらてからも主の兄弟たちは主を信じませんでした。(ヨハネ7:5)ということは、マリヤがイスラエルの神を敬うように育てた子どもたちは、若者になってからも「イエスを信じなかった」のです。イエスのミニストリーの期間中、マリヤは自分の子どもたちの霊的状態に苦慮していたに違いありません。親しい友人や家族の中にもイエスの言動を見て「彼は気が狂ったのだ」と思っていた者たちがいました。(マルコ3:21)
ユダヤ教の最高指導者たちは、イエスは悪霊に憑かれていて人々を惑わす危険なカルトのリーダーだと結論づけました。(ヨハネ7:47、8:48)彼らはマリヤがイエスをみごもった時の「不品行の噂」で、主と主のミニストリーの信用を傷つけようとしました。(ヨハネ8:41)
端的に言えば、イエスの生涯とミニストリーはガブリエルが約束したような「偉大なもの」とは全く見えなかったのです。多くの点で、それはまるで正反対に見えました。マリヤは「神の約束を信じ神の正しい導きを信頼する」ことを、くり返し何度も決意し直す必要があったのです。
数年後に、マリヤは息子がイスラエルから拒絶され十字架で死ぬのを見ていました。ユダヤ教の指導者たちの企みで、群衆はイエスではなくバラバのいのちを求めました。三年半のイエスのミニストリーは何も実を結ばなかったように見えたのです。
イエスは何千人もの人を癒しましたが、復活後に主を信じて祈りの場に集まって来たのは120人だけでした。(使徒行伝1:15)マリヤは神の召しに従い神の導きを信頼して人生を送りましたが、人々からの誤解や予期せぬ苦しみを耐え忍ばねばなりませんでした。
そして息子の地上でのミニストリーは終了しましたが、息子は王として称えられるのではなく、国から拒絶されたのです。
神の約束はなかなかやって来ず、そればかりか成就するのは不可能にさえ思えました。しかしマリヤは初めから神を信頼していましたし、この時も恵みによって神を信頼し耐えることができたのです。
マリヤは約束の成就の全貌を見ることなく死にました。彼女はガブリエルを通して与えられた神の言葉により、聖霊によってみごもり、神の御子をこの世に誕生させました。
しかし、ガブリエルはマリヤに「息子は偉大な者となり永遠に治める」とも言ったのです。イエスが地上にいる間、多くの者からさげすまれ、兄弟や故郷の人々、そして国の政治家や宗教の指導者たちから拒絶されました。イエスは罪人に救いをもたらすために苦しみ死なれたのです。
イエスに対する約束の完全な成就を私たちもまだ見ることができません。しかしすべての人が、「主は愛と力と恵みとに満ちた偉大な方である」とわかる日がやってきます。マリヤは初代教会のリバイバルにその栄光をほんの少し垣間みたかもしれませんが、それが完全に成就するのは将来のことです。
マリヤのこころ
マリヤの人生は、神の導きに対する心の正しい応答の形そのものです。完全に理解できない時でも、彼女は神の導きを信頼し続けました。すべてを失うかもしれないような時にさえ、マリヤは「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言ったのです。(ルカ1:38)
このようにマリヤが神を信頼し進んで神に用いられ、神を喜びとしたことは一度だけではありませんでした。それは彼女の一生を通しての生き方そのものだったのです。彼女は困難に出会う度に何度も又自らを捧げ直したのです。彼女は神を信頼し、自分の心を神の言葉と合わせ一致させていったのです。
状況が厳しくなった時にもあきらめることなく、神の恵みによって耐え抜いたのです。
私たちはあまりにもしばしば、自分の祈りが直ぐに聞かれないと、「神は本当に約束を果たしてくださるのだろうか?」と疑い、信仰をなくしてしまったり、或は、「自分の祈りがあまりに弱くて効果がないのだろう」と結論づけてしまいます。
しかし、私たちの祈りは確かに「人間の弱い祈り」ですが、それはイエスの血潮の力によって充分に効果があるものであり、神の御こころと一致した祈りなので、神のもとに届いていくのです。
自分の祈りが弱くて効果的でないと感じてしまうとき、私たちはどのようにしてマリヤのような信仰を持つことができるのでしょうか? 祈りの効果は、目に見える祈りの結果や、祈った時の感情的高揚の有無で測るのではなく、神が御ことばの中で何と言っておられるかで測らねばなりません。
イエスは「誰でも願い続けるならば受け取る、誰でも探し続けるならば見つける」と宣言しておられます。(マタイ7:7−8)
私たちのすべての祈りは聞かれています。私たちが祈りを捧げたときに何も感じなくてもです。祈ったときにどういう感じがしたとかではなく、その祈りがどれほど神の御こころと御ことばとに一致しているかで判断してください。愛する皆さん、私たちのか弱い祈りは、自分を感動させはしないかもしれませんが、神の心は動かすのです。
使徒ヨハネは私たちが祈ったときの感じ方に関係なく、「祈りは聞かれている」と確信してもよいと強調しています。第一ヨハネ5:14で彼は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と言っています。
神は私たちの日毎の行動を、私たちが肉の思いで評価するのとは全く違う方法で評価されます。キリストにある私たちの人生の豊かな栄光は、私たち自身の目や今の時代の人々の目からは隠されているのです。しかし神の栄光やマリヤへの約束の成就は、イエスが再臨される時に共にすべてはっきりと表されます。
コロサイ3:3−4には「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と書かれています。
ここで難しいのは、往々にして、私たちが自分の人生の中に神の栄光を見ることができないことです。神の栄光は、私たちの感情や五感からは隠されているので、私たちはそれを感じたり認めたりできないのです。私たちは自分の人生を、小さくてか弱く、退屈でつまらないものとして見てしまうのですが、イエスは栄光の富というレンズを通して私たちの人生を見てくださるのです。
主は私たちには見えないものを見られます。私たちの祈りに関してもそうです。私たちの多くの「小さな従順な行動(祈りも含む)」は神の目には栄光に富んでいるのです。自分の「か弱い祈りの価値」を理解することによって、私たちは自分の祈りを「意味があり適切で力があるもの」として見る力が与えられます。肉の目では弱いものに見えるかもしれませんが、神のみこころに沿ったすべての祈りは、神にとっては大切であり重要であることを私たちは信仰で確信しなければなりません。
神がマリヤを導き用いられた方法は、神の完全なリーダーシップを表しています。神の約束の成就はしばしば遅延し、苦難の中で一歩づつ徐々にゆっくり実現していきます。そのゆっくりしたプロセスの中で、私たちは主にしがみつき、愛と信仰とへりくだりにおいて成長させられていくのです。
主のパートナーとなることの大切さ
たとえ歴史を変えるような事のために神に用いられたとしても、その人が愛において成長するとは限りません。神はマリヤを召し彼女がもっと偉大な愛に成長するための旅路につかせたのです。
神は敵意に満ちた世の中でご自分の御こころと目的を明らかにされ、敵を用いて神の民(私たち)が愛とへりくだりを学び、神とのパートナーシップにおいて成熟していくようにされたのです。神は、どのような事があっても常にあきらめることなく「はい」と応答し信頼する者たちとパートナーになることを望んでおられます。
マリヤのように私たちも神の約束に同意し一致し、困難な状況にあっても神の導きを信頼する必要があります。たとえ遅延や不幸な出来事がおきたときでも神の約束は真実です。主はそれらを私たちの益になるように用いられるのです。(ローマ8:28)
私たち達が約束をしっかり握りしめて困難な中でも神を信頼して喜ぶことを選びとるならば、神は恵みを与えてくださり、喜びをもって忍耐し、愛に成長する力を与えてくださいます。私たちが主の召しに喜んで応答するならば、神はそれに答えてありあまるほどの恵みを与えてくださるのです。(終り)
09 12月
マリヤのようになる (その1)
マイク•ビクル(IHOP Kansas)
クリスマスの物語は、御父がある女性を用いてどのようにご自分の息子を地上にもたらしたかを証しする驚くべき物語です。それは栄光に満ちており、御父がどのように私たちを導かれるのか、そして私たちがその導きにどのように応答すればよいのかを明確に示しています。
天使ガブリエルがマリアに「あなたはみもごって、救い主を産む」と告げたとき、マリアは主の導きを信頼して「はい」と答えました。神はこのような信頼した心からの応答をご自分の民の中に探し求めておられるのです。
クリスマスの物語を読むとき、私たちはただマリヤの決断の気高さを賞賛するだけであってはなりません。実にマリヤの人生は、私たちが一生を通して神の導きに正しく応答するように励ましてくれるお手本であり、それは困難な状況において特にそうなのです。
御使いのガブリエルは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)
ガブリエルがあなたに現れて、「あなたの人生はこのようにすばらしくなります」と宣言することを想像できますか? 神から特別の厚意を受けるということは、すばらしくすべてが祝福された人生を送るのだ、とあなたは思うのではないでしょうか。しかしながら、マリアが受けた栄光ある神の約束は、予期しなかった多くの苦しみを通りながり次第に解き明かされて行くのです。
マリアは一生のあいだ、ガブリエルの力強い言葉を忘れないで、神からの約束をしっかり心の中に持ち続けていなければなりませんでした。
マリヤに挨拶したあとガブリエルは、彼女が聖霊によってみごもり男の子、イエス、を産むと告げ、その子はすぐれた者となりいと高き方の子と呼ばれると言いました。
そしてイエスは、ダビデの王位を与えられ、永遠の治めるであろうと告げました。ガブリエルはイザヤが何百年も前に預言したことを伝えたのです。
イザヤ9:6 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
マリヤはこの聖書の預言をよく知っていました。そして今ガブリエルが、まさに彼女こそがその救い主を産む者だと告げたのです。その時マリヤは恐れや疑いによって尻込みするのではなく、神がされると言われた栄光の約束に心から進んで応答したのです。彼女は神を信じたのです。
ガブリエルが最初にマリヤに言った「おめでとう Rejoice(喜びなさい)」という言葉は、実際に役立つ励ましの言葉であり、神の約束を常に心に抱いて人生を送る中で彼女がいつも心がけたことでした。それはこれから起ころうとすることに「一度だけ大喜びしなさい」というのではありません。
マリヤは、これから経験する多くの困難や人々受ける誤解の中で、自分の人生を必ず主が正しく導いてくださっていることを「常に喜び、常に信頼せよ」という命令をしっかりと握りしめている必要があったのです。困難の中でも神の約束を喜ぶことを選び取ることによって、マリヤの心は常に神の心と一つになり、それによって忍耐力を与えられ、信仰が成長していったのです。
厚意と逆境
神の厚意のもとにある人生とはどのようなものでしょうか?マリヤが思いもよらなかった様々な苦労を何十年にも渡って耐え忍んだことを私たちは見落としがちです。ガブリエルが言ったように、マリヤは聖霊によってみごもりました。神が共におられましたが、彼女はその時大変な恥辱を負うことになったのです。
ガブリエルの訪れの後、マリヤはユダヤから南に100マイル離れた村まで旅をし、そこでエリサべツと3ヶ月暮しました。そしてナザレの家に戻ったときには、彼女が妊娠していることは人々にわかったことでしょう。彼女はすでにヨセフと婚約をしていたのですから、これは大問題でした。
当時は、婚約を破棄するためには正式な離婚手続きが必要でした。もしマリヤが他の男と一緒であったのならば、石打ちの刑になるのが法律で決められていました。彼女は神によってみごもったと言いましたが、人々にはマリヤはひどく厚顔な嘘つきか、もしくは妄想家であると見えたに違いありません。
マリヤの婚約者であったヨセフは、非常に悩みました。うわさは近所に広まりました。30年以上経った時でさえ、マリヤの不品行のうわさはまだエルサレムでされていたのです。(ヨハネ8:41)
神が介入されマリヤの言葉は真実であると分かるまでは、ヨセフはマリヤとの関係を解消しようと考えていました。主はマリヤを非常に劇的な方法で用いられましたが、マリヤは自分が最も愛する人たちから恥辱と誤解を受けたのです。それのすべての経験を通して、マリヤの心は愛と信仰とへりくだりにおいて成長していったのです。
私たちが愛と信仰とへりくだりにおいて成長するのは、思いがない困難や神の約束の成就の思いがけない遅延を経験するときにも、神を信頼することをくり返し選び取ることによってなのです。
私たちが怖じ惑って肉で行動してしまいそうになるとき、立ち止まって「神よ、私はあなたの導きを信頼します。」と言うならば、私たちは自分の心を神の心と約束に一致させているのです。神の約束を信じて、困難な中でも信仰と感謝をもって応答するならば、私たちはマリヤと同じように喜ぶことができるのです。
このように自分の心を何千回も一致させるプロセスを通して、私たちは、愛と信仰とへりくだりにおいて少しずつ成長して行くのです。マリヤは人生の中でこのプロセスをくり返し行い、それによって主への愛に成熟し、主の正しい導きに対する確信に成熟して行ったのです。
マリヤはお産が間近になった時、人口調査のためにヨセフと共にベツレヘムへの辛い長旅に出掛けなければなりませんでした。そしてベツレヘムに着いたとき、彼女は産気づきましたが、宿がありませんでした。
彼女は汚い家畜小屋の中で出産のために苦しみ、生まれたばかりの愛する子を寝かせるには飼い葉おけしかありませんでした。天使ガブリエルは「神の厚意、祝福があなたに注がれている、その子は永遠に治める者となる」と告げたのですから、出産の時の環境はもう少し良くてもいいのではないかと、私ならば思ったことでしょう。
マリヤはすばらしい神の約束をガブリエルを通して与えられたあと、何ヶ月もひどい恥ずかしめを受けながらすごし、今はお産に適した場所も赤ちゃんを世話する場所も与えられなかったのです。
このようにマリヤは苦難を通らされましたが、イエスの誕生に際してはいくつかの超自然的な出来事が起こりました。イエスが生まれて間もなく、羊飼いたちが飼い葉おけの中の赤ちゃんを見るために興奮してやってきました。
それは天使が救い主が生まれて飼い葉おけの中に寝ていると彼らに告げたからです。彼らは天使の軍勢がマリヤの子の誕生を祝い神を称えているのを見たと、マリヤに告げました。
マリヤとヨセフがイエスを神にささげるためにエルサレムに行ったとき、シメオンとアンナがイエスの栄光ある身分を預言的に証言しました。その後、東方の博士たちはイエスを礼拝するために贈り物を携えてやってきました。
マリヤはガブリエルの訪問を受けてからずっと多くの患難に耐えてきたのですが、これら超自然的な出来事によてイエスに関する約束を確認することができ、神が本当に自分と共におられるのだという励ましを受けることができました。
これらのすばらしい主の約束を確認できる出来事があってからの人生は少しは楽になるかと、マリヤは期待したかもしれません。しかし確かに神はマリヤの人生に力強く働かれていましたが、それ以後も多くの困難や失望、忍耐させられることを彼女は経験せねばなりませんでした。(続く)
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