Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
01 10月
危機(クライシス)の目的
グラハム・クック(Reclaiming Your Inner Territoryの講演より抜粋)
私たちは危機的状況におかれたとき、神のもとにいくのです。そこから「神とともに歩む」ことを学ぶプロセスが始ります。即ち、「神はどのように考えられるのか、どのように語られるのか、どのように事をなされるのか」を学び始めるのです。イザヤ55:8に「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」とあります。私たちは神がどのように考え、どのように事をなされるかを知るまでは危機的状況から抜け出ることはできません。
神は私たちを余りにも愛しておられるので、私たちを何の成長もなく現状のままにしておくことはされません。それ故に神は私たちに危機を与え、私たちに次の段階の霊的領域を与えられるのです。あなたが信仰の道を歩み続けるためには必ず危機を通らねばなりません。信仰の歩みとは私たちにチャレンジを与え成長させるものです。私たちの信仰は単に私たちの必要を満たすためのものではなく、周りの人を助けることができる信仰を持つようになることを神は望んでおられます。
ですから神は私たちをいろいろと異なる方法でチャレンジを与え成長させるのです。第一サムエル記1章で、ハンナは危機的状況にありました。彼女には子供が出来ませんでした。同じ家に住む彼女のライバルは子供を産み、ハンナを苦しめました。ハンナは預言的な祈りを神にささげました。子供を授けてくださったならばその子を主に捧げると約束したのです。そしてやがてハンナは妊りました。
危機は私たちの内に霊を確立させます。私たちは危機に立たされた時、主により頼むようになり、その中で神は新たな霊の場所を作られます。それは私たちがそのプロセスの中で主の臨在ともっと親密になることです。主は私たちが弱さの中にある時私たちを呼んでくださります。もしあなたが弱さをおぼえたならば、喜んでください。あなたの仲間が沢山いますから。(笑)神は私たち弱い者を召してくださり、私たちには絶対出来ないことをするようにと言われるのです。理屈に合わないこと、とんでもないこと、神が助けてくださらねば絶対不可能なことをするようにと召されているのです。
ですから、神があなたを新しい領域へと召してくださる時には、必ず危機が含まれます。なぜならば危機は私たちに「自分は弱い」ことを明確に教えてくれるからです。あなたは自信がなく、不確かであるべきです。あなたは神からの課題をこなすには不十分であるべきなのです。
しかし、そのまま不確かで不十分でとどまっていてはいけません。もしそうならばあなたは何もしないでいるしょう。その場所で「自分は何もできない」とぶつぶついうだけでしょう。しかし聖霊が来られ、あなたを不確か、不安な者(insecure)から、か弱い者、影響を受けやすい者(vulnerable)へと変えてくださるのです。両者はあまり差がないように思うかもしれませんが、実のところこの差はとても大きいのです。
「不安 insecurity」の中では、あなたは固まってしまってあなたを成長させる機会となるチャレンジを受けることができません。しかしあなたが「か弱く影響を受けやすい者 vulnerable」になることを学ぶならば、「私にはできません。でもあなたはお出来になります。」と告白することが出来ます。これこそすばらしいスタンスであり、安全なところです。神にむかって完全にか弱い者になり、私に力があるからこの召しを受けたのではないことを感謝できるのです。神は私が弱いからこそ選んでくださったのです。「神よ、あなたが何かをしようとされていることを信じます。」と告白して下さい。
私は神がどのように人選をされるのか不思議に思うことがあります。例えば、異邦人に初めて福音を伝えるのを誰にするか、どのように決められたのでしょうか。どうしてペテロが選ばれたのでしょうか? 神が天使たちに「異邦人に福音を伝えるのは誰がいいだろう?」と訊かれたとします。そして「弟子たちを舟に乗せ、イエスに水の上を歩かせて、最初に舟から足を出した者にこの仕事を与えよう」と言われたかもしれないのです。(笑)私には分かりませんが、これがもし本当であったとしても私は驚きませんね。(笑)
神は危機を与えられ、そこからプロセスへと私たちを導かれます。危機はあなたが魂(soul)ではやっていけないように圧倒してしまうためのものなのです。それによって魂が自分が握っていた権限をあなたの霊の人(spiritual man)に明け渡します。その時私たちの内に次のことが起ります。
私たちの魂(soul)と霊(spirit)が戦いはじめます。私たちの魂も確かに神を愛しているのですが、あくまでの自分のやり方で愛するのであり、魂は常に実権を握っていたいのです。救われる前、あなたはずっと魂で生きていました。私たちはみんな魂的soulishだったのです。あなたは神を求めて霊的なことを探求をし始めました。しかしすべてのことを自分中心で自分の方法でしていたのです。そして聖霊によって新生した時、私たちの中で死んでいた私たちの霊が突然生き始めました。そして私たちの霊と魂は、どちらが主権を握るかを競い始めます。そしてついには外なる魂の人ではなく、内なる霊の人として生きることを学ぶのです。
神は私たちを危機に突き落とされます。それはそれによって私たちの魂が霊の人に支配を明け渡すからです。私たちは内なる人に退くことを学びます。イエスは「その人の心の奥底から(innermost being)から生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。神があなたを全く新しい霊的次元、霊的領域に追いやるとき、神はあなたを危機に突き落とすのです。あなたの魂が圧倒されて降参するからです。魂が「私には出来ない」と言う時、内なる霊の人が立ち上がります。そして神が私たちのために物事を開き始めて下さるのです。
人生は常に「あなたの人生を支配しているのはあなたの魂か、それともあなたの霊か?」という点にかかっています。私たちは魂からでも何かとても良いように見えるものを生み出すことが出来ます。でもそれには何の力もないことが多いのです。スタミナがありません。魂は直ぐにやめてしまいます。魂は支配したいのですが、責任はとりたくないからです。魂も神を見出すことはできます。しかし霊の人は神と常につながっています。それによってあなたの心の奥底から生ける水の川が流れるのです。あなたの魂が渇いてしまうその時、霊の人はどのように水を飲めばいいのかを知っているのです。
もし私たちが魂にだけとどまっているならば、それは「肉(flesh)」を起き上がらせてしまうことになります。肉とは、魂が単独で行動することです。その時私たちは周りのあらゆるものから影響を受けてしまいます。霊の人は外からの影響は何も受けず、神からの影響を内に受けるだけなのです。何かが起こったとき、あなたの前には「反射的に行動するか(react)」、それとも「応答するか(response)」の二つの道があります。人生の中では色々な事が起こりますが、その時、あなたはreactすることもできます。即ち、「悪いことをされたら 仕返しをする、パニックになる、怒る、恐れる、苦々しく思う」というような反応です。それは魂が自分だけで立ち上がり自分で自分を防御しようとするからです。しかしあなたは別の道として「神がその時されていることに対してresponseすること」もできるのです。霊の人はresponse する道しか知らないのです。魂はreactすることしか知りません。その人が人生の出来事にどのように対処するかを見れば、その人がどこにいるのかがよく分かります。
「その人を落ち込ませたり、いらいらさせるためにサタンがどれほど努力をせねばならないか」によって人の成熟度を計ることができます。もしあなたが容易にいらいらしたり怒ったりするならば、あなたの中には誰が住んでいるか考えてみてください。あなたは成長する必要があるのです。魂から生きるのをやめねばなりません。魂からではなく霊から生きることを決断する時です。神に応答してあなたが霊に中に退き、あなたを攻撃してくる霊と全く反対の霊にならねばなりません。例えば「怒り」があなたにむかって襲ってきたならば、「平安」があなたから流れ出ます。あなたは敵と反対の霊で動くのです。「何が起こっているか」にとらわれるのではなく、「神は今なにをしておられるのか」にとらえられなけねばなりません。そうしてあなたは神の高きやぐらへと退くのです。そこは安全で平安です。「神というお方」の中へと退いて、そこで待つのです。周りの状況にreactしないで神にresponseするのです。
そのようにあなたの霊が神の中に退いて最初にすることは、神を礼拝し始めることです。神に感謝し始めることです。なぜならば今あなたにすばらしい機会が訪れたからです。それが何であるかを悟るためには、あなたはまず平安の中に入らねばなりません。あなたが出かけて行って物事にチャレンジするのではなく、神の臨在の中にとどまり、ただその中にいるのです。いつでも神に届く場所から私たちは戦うのです。神の憐れみ、慈しみ、恵みの中で生き、そこから生ける水の川が流れ出るからです。
霊の人は何が起ころうともキリストの内に確立されているのです。危機の中で私たちがどれだけ神の内にとどまることができるかというキャパシティーを、神は見ておられます。危機は「あなたが何者であるか、どのような者であるか、これからのシーズンにどれだけ神のために働くことができるか」を計る大きなテストです。危機によって私たちは神にしか助けられない所へと連れていかれるのです。危機の目的、ポイントはまさにそれです。私たちが弱くなり神に全くより頼むという所へと私たちを再び引き戻してくれるからです。
あなたが霊から生きることを学んだならば、危機はやがて減少していきます。あなたが魂から生きて物事を自分でしていた時、あなたは自分ですべてを支配していました。しかし、霊の人はすべてを神にささげ、神に仕えるだけで幸せなのです。魂は「御父よ、今の状況を感謝します。この厳しい状況を克服できるようにあなたが私に力を与えてください。それによって私が何々と何々と何々が出来るようにしてください。」と祈ります。よい祈りのように聞こえますね? しかし霊の人は全く違う祈りをします。「御父よ、今の状況を感謝します。あなたが来てくださらなければ、私はこの中で何の力もありません。どうか私のところに来て私の力となってくださるようにお願いします。それによってこの困難な中であなたが私を通して働かれますように。」と霊の人は祈ります。
魂は「自分で働くことができるように力をください」と祈るのです。でもこれは正しい祈りではありません。神があなたを危機に突き落としたのは、あなたに何かをして欲しいからではなく、神があなたのために何かをしたいからなのです。魂は自分が力を受けて自分で何かを成し遂げたいのです。霊の人は「私は何もできません。私の内に来て私の中であなたがされたいことをしてください。」と言うのです。自分で出来るための力を求めるのではないのです。神はずっと長い間あなたを弱くするために労してきたのですよ。だから今さらあなたに力を与えることはなさいませんよ。(笑) 神はあなたのところに来られて、あなたの源となりたいのです。あなたの中で生き働きたいのです。霊の人は神に実権を渡すのですが、魂は神が与えた仕事を自分の支配のもとでしたいのです。ここに大きな違いがありますね。
私たちがより良いものへと変えられるために危機を通され変革されるときには痛みを伴います。しかし、何も変らないで成長しない苦しみの方がはるかに大きいのです。(終り)
21 09月
王のうちにとどまることが王国の権威を生み出す
リック・ジョイナー
神の国は、地球とすべての自然法則を超えて支配する権威を持っています。イエスが行なった奇跡がそれを物語っており、イエスは地球上のいかなる自然条件をもどのようにでも支配できる神の国の権威を行使されました。私たちがその王国のうちにとどまればabideとどまるほど、―すなわち、それは王イエスに従い、王のうちにとどまるabide in the Kingことを意味しますが―その度合いに応じて私たちも地上のどのような状況にも打ち勝つ王国の権威を行使して歩むことができます。この終末の時代が終りに近づくに従って、この王国の権威で「生きることが出来るcan」が「権威を行使して生きねばならないmust」に変わって行くでしょう。
主はヨハネ14:12で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。イエスは彼の地上の生涯を通じて(私たちのために)その模範をデモンストレーションされ、私たちが同じ歩みをするように召しておられます。これは大変な召しですが、それを私たちが実行するには、この地上のいかなる法則をも超える力とその権威を持つイエスのうちにとどまるabide必要があります。従って私たちのゴールは力とか権威(そのもの)にあるのではなく、それらをすべて持つお方、その人にあります。そうであるように、いずれこの世の終りには「主のからだ」である私たちが、王である主の力と権威を行使実行することによって、来たるべき王国の道を準備するようになるのです。
今年の夏、私は今まで主からいただいた「夢」の中で最もパワフルな夢を見せていただきました。その夢の中で、私はすべての自然法則を支配する権威を与えられました。重力の法則に私が従わねばならないのではなく、その法則が私に従わねばならないのでした。それは、私が神の御座の前に出る夢とか、主を仰ぎ見る夢は別にして、今までにいただいたもう一つのパワフルな夢に匹敵します。20年近く前に見たその夢も先程の御ことば「・・・わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」に関連する夢でした。ヨセフがエジプトのパロに語ったように(創世記41:32)同じ夢を二度見ることはその夢が必ず確立・実現することを意味します。
最初の夢を見た後に、私は一度だけその夢(で見たようなこと)を私自身が経験することができました。それは私にとって、この主の御ことば(ヨハネ14:12)が私たちへの真の「神の約束」であることを示す大変な励ましでした。そして、この夏の夢を見た後に、私はそのようなことが起こる時がいよいよ間近に迫っていることを確信したのでした。イエスが約束された、この地上での神の最も偉大な御業を私たちが経験する、すなわち、私たちが「・・・わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」がいよいよ実現するのです。
この世の終わる前に、マタ 21:21でイエスが言われる「・・・この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」を誰かが行ない、本当に山がその命令に従うのです。間も無くすべての病とか苦しみに対して王国の権威を行使して歩む(癒すことができる)日がやって来ます。
この王国の権威が実行される時は、王国のゴスペルが説かれる時とも一致します。そこにおいて一つの基本的な特徴(の顕れ)が起こらねばなりません。それは王国で働く人々がお互いにみな一致することです。それは王に従い王のうちに完全に一致してとどまるabide生き方をすることによってのみ起こります。
この世において真のクリスチャン生活を送ること以上の大きなアドベンチャーはありません。又人間の歴史上、これから終末に起こることに参加する以上のめざましい興奮の機会はありません。しかし、たとえどんな大きな奇跡が起こるときであっても、最も大きくて偉大な奇跡は、神の民が一致すること、そしてお互いが心から愛し合うことです。それに優る奇跡はありません。そしてどのような奇跡を見る以上に、私たちは神を愛することに専心しなければならないのです。そして神を愛することとは、その神への愛を他人を愛することで表現しデモンストレーションすることです。
地上に最初の二人の兄弟が生まれた時以来、人間はうまく折り合って生きることが出来ませんでした。その兄弟の一人が「この地上は二人が住むには狭ま過ぎる」と言ったのです。人々、氏族、国々はそれ以来お互いに闘争して来ました。教会が成熟して、その召された姿になる時、人々はクリスチャンの一致して生きる姿を見て驚くのです。それは主ご自身が父なる神に祈られた、
「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:22-23)とある通りです。
私たちが、イザヤ書60:1-2「 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とか、その他の聖書箇所に見られるように、私たちの上に「主の栄光」が輝くことが可能なのです。それが起こったとき世の人々はイエスはまことに父が送られた人であり、神はご自身の御子を愛されるように私たちを愛しておられることが分るのです。
神の栄光を経験した人たちが特別な形で結び合わされるということは、それを経験したことのない人に説明しても理解することが難しいのです。多くのクリスチャン同士を互いに隔ててしまった「些細なこと」とか「許せないこと」を、この栄光は単純にぬぐい去ってくれます。それは覆われない顔で主の栄光を見つめることによって起こり、私たちは主のイメージ、主に似た者に変えられます。私たちの第一の召しはキリストに似た者になることです。そして第二の召しは、主がされた業を私たちもすることです。もし私たちが主に似た者になれば、私たちは愛の中を歩きます。私たちが愛の中を歩めば、主は私たちに主の持つ力を(安心して)委託されます。愛の中を歩む者たちは、神の最も大きな宝物となり、そうなる目的のために私たちが造られたように、愛のお方に似る者になって行くのです。(終り)
(Abiding In The King Produces Kingdom Authority – The Path of Life, Part 31-Week 38, 2012より)
10 09月
神の臨在を尊ぶ ー その2
ビル・ジョンソン
人を尊ぶ
私たちの教会で起こっていることをお話します。
第一ヨハネ4:20に「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これはナチュラルな肉の世界で実行出来ていないことを、目に見えない霊の世界で実行していると言うことはできないことを言っています。もし私たちが「神の臨在こそ一番尊く価値がある」と言うのであれば、私たちの個人的な生活、人間関係、団体生活において どのように人々を価値あるものとして取り扱うかが大変重要な問題となります。人に接するとき、私たちは「その人がキリストにあってどのような人か」を常に土台として接せねばなりません。
次の2つの理由から地上のすべての人を私たちは尊ぶべきです。
1.すべての人は神に似せて、神のかたちに創られている。
2.すべての人は神から賜物をいただいている。たとえ神を敬わない人であっても 美しい歌をつくることができるのは何故でしょうか。 以前私は彼らはサタンからタレントをもらっているのだと考えていましたが、そうではないのです。彼らも神に似せて創られているのであり、神が賜物を与えたのです。たとえ彼らが神を否定し、或いは冒涜したとしても、賜物は神からのものです。
イエスがナザレで奇跡を行えなかったのは、人々がイエスを預言者として尊ばなかったからです。彼らは神の霊がイエスに下っているのを認めることができませんでした。もし私があなたを人間的なレベルで尊ぶならば、それはよい真っ当なことです。あなたを尊ぶことを通して私は神を尊んでいるのです。
しかし聖霊があなたの上に臨んでおられる時、聖霊があなたの中で働いておられるのを見る時、又あなたの上に超自然的な神の恵みが臨んでいる時、もし私があなたを尊ばないならば、私は神を尊ぶチャンスを逃したことになります。
完璧主義(perfectionism)は「宗教」であり、優秀さ(excellence)は「御国」なのです。「宗教」の中では、私たちは人が完全であることを要求するのです。「人を尊ぶ生き方」では、ある人が「〜ではない、〜が完全にできない」ということに目を留めるのではなく、その人をその人としてあるがままに喜び祝うのです。
自分の子供のことを考えれば分かると思いますが、音楽の才能がある子に「お前は数学ができない」と言って叱る親はいないと思います。私たちは神が一人ひとりに下さっている賜物を喜ぶのです。
キリストのからだの中においても、神の霊が人の上にとどまって恵みを与えておられることを知り、そのようにお互いを取り扱うならば、多くの傷は癒されるでしょう。ある人は神の御声を聞くことができるけれど教会運営は下手だということがあります。その時は運営の賜物のある人が手伝えばいいのです。
教会がこの真理をつかめば大きな変革が起ります。主はまずご自分の家から変革されねばならないのです。そうすれば私たちは変革する力をもって社会に出ていくことができます。これによって私たちの住む街が変っていきます。政治、教育、ビジネルの分野ではこのことがすでに起こっています。
即ち社会の人々を喜び祝う(セレブレイトする)のです。勿論、人々がキリストのもとに来ることはどうでもよいということではありません。しかし、ビジネス界の人たちが大きなリスクをとりながら成功し社会に貢献しているのですから、その人は尊ばれるべきなのです。今まで教会はその人が救われて教会の会員にならなければ興味がないような態度をとってきました。
大きな犯罪を犯した人が私たちの教会で救われました。裁判官は彼が悔い改めて全く別人にようになったことを認め、本当ならば20年の刑に処せられてもおかしくないところを6ヶ月に減刑してくれました。私はその裁判官に感謝の手紙を書きました。又、古くなったアパートを建て替えて人々が住めるようにしたビジネスマンにも私は感謝の手紙を書きました。教会がこのような人々を尊ぶことは希有でした。先の裁判官も誰かから感謝の手紙をもらったことは初めてだったと言っていました。
私たちの街で「人々を尊ぶ」ことが始まり、例えばレストランでも私たちは励ましの言葉を語ります。よいサービスを受けたときにはウエイトレスや店主に賛辞を送り、チップも沢山します。時には食事代よりも多いチップをあげることもあります。そして私たちの街によいレストランを下さっている神に感謝します。私たちはいつも人々を喜び祝うチャンスを探しているのです。これによって人々の考え方が変革されてきています。
私の妻が買い物をしてレジに行ったとき、レジの人が妻のハンドバッグがすてきだと言いました。そこで妻はハンドバッグの中身を全部だして、バッグをその人にあげたのです。これは「気前がいい、generous」という以上にその人を尊ぶ、honor」ということなのですが、確かに 気前がよくなければ人を尊ぶことはできません。
祈り:主よ、すべての場所において人を尊ぶ姿勢を広める人となりますように。あらゆる状況の中でも主の恵みを持ち運ぶことができますように。天に住む者のように行動し生きることができる恵みをお与えください。あなたの臨在から生きる者として、人々を価値ある者として尊ぶことができますように。
主のレーマの言葉を語り、人々の心を主にひきつけることができますように。
クリスチャンに反目していた人々が作っていた壁も「人を尊ぶ生き方」が浸透していったとき、溶けてゆきました。そして街にいのちが吹き込まれました。「人を尊ぶ生き方」がどんどん伝染して広まりますように。
キリストのからだがそのマントル、油注ぎを受け取ることができますように。「 まず福音を語らねばならない」という宗教的プレッシャーをかけることなしに、人々を喜び祝うことが出来ますように。
教育、政治、ビジネスの分野にこの変革の力が解き放たれますように。(終リ)
02 09月
主の臨在を尊ぶ
ビル・ジョンソン
私たちは「御国を来らせたまえ」と祈りますが、天国の一番の特徴は「神がそこにおられる」ということです。神は光であり、神が臨在される天国には影はありません。そしてすべてのことは神を中心とし、神が喜ばれるように行われます。すべてのことは神により、神のために、神ゆえに起こるのです。もし私たちが「御国と同じことが地でも起こるように」と祈るのならば、この地でも神の臨在こそを宝として尊ぶべきです。
もし、教会がこの真理を中心にして機能するとしたらどうでしょうか。残念ながら、この数百年、もしかしたら1800年間くらいかもしれませんが、教会は毎週「説教」を中心として集まってきました。けれどもイスラエルは「主の臨在」の周りに宿営していたのです。もし神が私たちの教会のやり方を劇的に変えようとしておられるとしたらどうでしょうか。即ち、「一人のお方」を尊ぶというやり方に変えるのです。
神学的に「2人、また3人が主の名において集まるところには、主もいる」と宣言することは出来ます。又、確かに主は私やあなたの中におられます。しかし、主のマニフェステイション(臨在の顕れ)というものがあり、それを私たちはお迎えすることが可能なのです。それは自動的に起こることではありませんが、実現可能なことです。私たちは主の臨在をお迎えしてそれを尊び、敬い、祝うことができます。その時、私たちは聖霊のパートナーとなり、聖霊がしておられることを私たちもすることができるのです。
主イエスは御父がしておられることを見たことだけをなさいました。御父が言われることだけを言われました。イエスに臨まれた聖霊によってそのような霊的領域がイエスには開かれていたのです。
私たちはアジェンダを持っていますし、それは良いことです。それらは御国の法則を私たちが取り入れているものです。例えば「人々をキリストに導く」というアジェンダを考えてみましょう。これは意味のある正当なアジェンダです。その法則を用いて私たちは集会で人々を導くことができます。しかし、もし私たちが「主の臨在」から機能することを尊ぶならば、「法則」から機能するより優れたものとなります。もし「主の臨在」から機能することをあなたが学ぶならば、魂の収穫はもっと著しいものとなります。
癒しを例にとってみましょう。私は「癒しのために皆で祈りましょう」と会衆を導くこともでき、その時癒しも起ります。しかし癒しの力がその場に強く臨み、会衆全体を覆うことがあります。主の癒しの力が臨んで癒されるのです。そのような臨在による癒しは爆発的なものとなります。
主は一人ひとりにユニークな賜物をくださっていてそれにスポットライトを当ててくださいます。あなたと私は違う賜物を持っています。そして私たちに与えられている「賜物の法則」から機能する方が、「主の臨在」から機能する(ことを学ぶ)よりもやりやすいかもわかりません。
しかし、法則から機能すると、私たちはもっと労せねばなりませんが、臨在から機能する時、その結果としての実は途方もなく大きいのです。この違いを学ぶことは大きな意味があります。
主の臨在への敏感さを、ミニストリーのための必要性だけから会得することは出来ません。それでは「professional intimacy 職業上の親密さ」とでも言うべきものになってしまいます。むしろ何もミニストリーの必要性がないとき、アジェンダがないときにこそ、真に主の御声を聞き、主の臨在を尊び感知することをあなたは学ぶべきです。
もしあなたがミニストリーの中でだけ主の臨在を知るならば、それは非常に限られたものとなります。神の御声を聞くことに関してさえ、あなたはprofessional 職業的なアプローチしか出来なくなってしまいます。
「主よ、次は何をしたらいいでしょうか?」「主よ、何を祈ればいいでしょうか?」「主よ、どう預言したらいいでしょうか?」と言う具合にです。
これらは勿論、正しい質問であり正当で必要なことですが、すべてミニストリーのために御声を求めるということです。けれども神との真の親密さとしてはどうでしょうか。神の御声を求めるのは、私たちが何かミニストリーをする時だけであってよいのでしょうか。
「業、働き」をすると称賛を受け、うれしい気持ちになります。自分の働きが役に立ったという喜びを感じます。これは悪いことではありません。しかし、あなたが主の臨在から機能する時は全く違うのです。
ある時、私は1500名ほどの癒しの集会のメインスピーカーとして招かれました。集会の最後の私のメッセージがかなり長くなり、人々が癒しの祈りをはやく始めて欲しいという気持ちを持っていることを強く感じました。
私はワーシップを一回だけ短くするように導かれました。するとワーシップの霊が私に臨み、私は歌うこと止められなくなりました。心の中では早く止めて癒しの必要な人のために祈らねばならないと思うのですが、ワーシップを続けることが御心であることがはっきり分かりました。ある時点で私は「癒しの祈りは今日はしない」と心に決めました。
主催者側から祈りに入るようにというプレッシャーはかかりませんでした。しかし私は「講師として期待されていることをせねばならない、責任を果たしたい」とう思いがあったのですが、それを断ち切ったのです。更にワーシップを続けて3、4分たったとき、主が突然私にあることを思い出させてくださいました。それはその日私が集会所に入ったときに主が語られた「deafness 耳が不自由なこと」という言葉でした。その瞬間、主がワーシップを止めなさいと言われていることがわかり、私は会衆にむかって「聴覚に不自由を覚えている人は手を挙げてください。」と言いました。すると82人の人が手を挙げたのです! 主の臨在が部屋の中を覆いました。そして聴覚の神経が癒される等、著しい大いなる聴覚の癒しが起りました。もし私が法則から癒しを行ったならば、もっと時間を要したでしょう。主の臨在を尊ぶことはこのようにパワフルなことであると思います。(つづく)
21 08月
人間の究極の目的—神を愛する
リック・ジョイナー
どのような分野においても秀でることを追い求める人々はおりますが、大抵の人は、その時々が何とか過ごせる程度、そこそこのところでよしとして終わってしまいます。そういう人たちは、「もっと頑張ろう」と決意し、意気込んでしばらくは頑張るのですが、長続きせずに又そこに留まってしまいます。
残念ながらクリスチャンは、信仰に関しても同じように、そのときに何とか満足できる程度で止めてしまうように見えます。黙示録で主がラオデキヤの教会に言われたように、なまぬるい者を主は嫌悪され、「わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われます。これは「自分で勝手に決め込んでことを運ぶ」(presumptionな)やりかたで非常に危険です。人間関係において「無関心」ほど人を侮辱することはありません。私たちが主に対して無関心であるならば、それは大変恐ろしい間違いを犯しているのであり、主は「なまぬるいよりは冷たいほうがいい」とまで言われたのです。
人間の究極の目的は神を愛することであり、人生における究極の成功とは「私たちがどのくらい主を愛する(ようになる)か」によって決まります。主を真に知ろうとする者たちがなまぬるいままでいる事は不可能です。なまぬるい者は「自分は主を知っている」と思うように騙されているのです。私たちは、主を親しく知る(愛する)関係になくても、主の名によって多くの偉大な業をすることは出来ますが、主が警告されたように、大いなる裁きの日に「わたしはあなたを知らない」という言葉を主から聞くことになりかねません。勿論、主は私たちが誰であるかをご存知です。主がここで「知る」と言われているのは、最高に深く知ることであり、最も親密な愛の関係を表しています。
使徒パウロは当時の偉大な競技者たち(競走やボクシング)を喩えに使って、主にある私たちが自分の目標をどのように追い求めるべきであるかを説いています。私は優れたプロのスポーツ選手を沢山知っていますが、その分野でトップになる人たち全員に共通のことがあります。それは人一倍ものすごい努力をすることです。勿論、彼らは運動能力と技術を基礎として持っていなければなりませんが、人一倍努力をするという決意がなければ、決してトップには近づけません。
グリーン・ベイ・パッカーズというアメリカンフットボールの選手であるレジー・ホワイトと私は彼の書斎で話したことがあります。彼のチームメイトの一人も一緒でした。彼らは二人ともオール・プロ・プレーヤーでした。彼らが言うには、試合のために訪れる多くの都市の観客の中には、彼らよりも能力とポテンシャルのある人々がいるに違いない。しかしそのような人たちには、スポーツでトップレベルになるために不可欠な「能力を伸ばしていく努力」が欠けていたというのです。その結果、そのような優れた可能性を持った人たちは、自分が出来たはずのプレイを見るためにお金を払って観客席に座ることになってしまったと言うのです。これはすべてのスポーツや職業において同じことが言えるでしょう。これは残念で悲しいことです。しかし、もしこれ(自分が努力しなかった結果)が永遠に自分の将来の位置づけを決めることになると(気がつくと)したら、それこそどれほど悲しいことでしょう。
マイケル・ジョーダンとバスケットをプレイしたことがある人たちが言っていたことですが、彼は確かに普通以上の能力を持っていたけれども、それで彼が偉大になったのではなく、彼がバスケート・コートに足を踏み入れるたびに出来る限りの努力をするという目標を持ち全力を尽くすという意気込みがあったから彼は偉大になったというのです。これは試合の時だけではなく、練習の時も彼は誰よりも早く来て、一番最後まで練習していたということを含めての話です。
クリスチャンもこれと同じような分類をすることができます。ある人たちはクリスチャンとして何とか通る(と思う)最低限度のことしかしようとしません。次に、大多数の人は「よいクリスチャン」になりたいと思い、キリストにあって学び成長しようと一応の努力をする人たちがいます。そして、主に対して特別の熱意を持ってデボーションを続ける一部の限られた人たちがいます。そのような人たちは常に聖書と参考書等を読んで学び、特別な講師を聞きに出かけたり、主のことを(個人的に)もっと知り主を(深く)経験できるのではないかと 色々な教会やカンファレンスに出かけていきます。私たちはこのような人たちを「主に燃えている人」と呼びます。しかし、生ける神に救われて出会った人が主に燃えないということがあり得るでしょうか?
この記事を読んでおられる人は、多分3番目の部類に入る方でしょう。あなたは神を追い求めておられます。多分朝早く起きてディボーションの時を持ち、主からの新しいマナを求めておられるでしょう。あなたは地の塩、世の光となる召しを真剣に受け止めていて、祈祷会に参加して祈ります。あなたには祈るべきことが沢山あります。あなたが聖書を読み勉強するのはちゃんと目的があるからです。あなたはこれからやってくる史上最大の神のムーブの一部となる人でしょう。そのようなあなたの熱意と努力は必ず報われます。
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クリスチャンが受ける最も偉大な賜物は、霊の飢え渇きです。主を知り主の道を知るために費やした時間と努力は、私たちが思い描く以上に報われようとしています。それに反して、神を追い求めることや主にある自分の目的に関して怠けていた者は、自分の熱意が欠けていたことをやがて大いに悔やむことになるでしょう。しかし、主は恵み深くあられ、もし私たちが自分のなまぬるさを悔い改めるならば、私たちが失った時を取り戻してくださるでしょう。
これから私たちが迎えようとしている時代には、なまぬるいままでいる人たちはやっていくことができません。主のお言葉を熱心に聞いて従うことをしなかった人は、岩なる主の上に自分の人生を築かなかった人です。多くの人はこれから来ようとしている嵐を通りぬけることができないでしょう。岩なる主の上に人生を築いて来た人は史上最大の収穫を刈り取り、終末に主に仕えたものとして永遠に知られるようになるでしょう。
私たちに訪れようとしている最大の出来事は大艱難ではなく、この時代の終りにくる大収穫なのです。今はまさに昔の預言者や義人が見たいと切に望んだ時であり、私たちはこの時代に生きるようにと召されたのです。すべてにまさるこの最大のチャンスを決して無駄にしてはなりません。
これからの時代において、嵐に耐える家を建てるためにもっとも重要なことの一つが、主のお言葉を聞くということです。そのために私たちは主がどのように預言的に語られるかということを学んできましたし、これからも続けたいと思っています。しかし、主が言われることを聞いても、私たちがそれに従わないならば、何の役にもたちません。
もし私たちが主を追い求めることにいい加減であったならば、今こそ真剣になり、他の人がどうであれ、真剣であり続ける時です。やがてすぐに熱心であったことを喜び、浪費した時を残念に思う時がやってきます。今から先は、自分がするすべてのことにおいて、それが喜べるようになる決意をしようではありませんか。(終わり)
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