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Walk With God Ministries


21 01月

2013年は変革の年 カマル サリーム Kamal Saleem         2013年1月20日


 

2012年12月29-31日に行なわれたモーニングスター・ミニストリーの「ニューイヤーズ・カンファレンス」の中から、主な講師のメッセージをこれから3週間に渡ってご報告させていただきます。訳者 坂 達也

 

 

2013年は変革の年

 

カマル サリーム Kamal Saleem (12月29日夜)

 

 

リック・ジョイナー師によるサリーム師の紹介

 

私たちのミニストリーの人たちはカマルを愛しています。彼が日曜日の礼拝メッセージを取り次いだ後に、今まで聞いた福音の説教 gospel presentation のうちで最もすばらしいものであったと言うコメントが私のところに殺到しましたが、私自身もそう思っていたところでした。これほどすばらしくてパワフルなイエス・キリストの福音の提示(証)は聞いたことがないと思いました。この方は本当に主を愛し、神の民を心から愛する方であると信じます。彼は元テロリストでした。しかし今は悪魔側に対して強烈な霊的テロを行なっている人です。彼は毎日福音のために自らの命を危険にさらしています。彼の著書「小羊の血 Blood of The Lamb 」は福音の証の書として最もすばらしい必読の書の一つであるだけでなく、今私たちが関わっている多くの重要な課題についての深い理解を与えてくれている良書です。この方は私たちが大好きな人の一人です。それではカリーム・サリーム師をご紹介します。(拍手)

 

サリーム師のメッセージ

 

時が来ました。サタンは時が迫って来ていることを知っています。この世は大きく変わりつつあります。アメリカは自らの歴史で、かつて進んだことの無い未踏の道を進み始めました。しかしすばらしいことに、その道は、神を信じる者にとっては、もはや我々の道(アワーウエー)ではなく、神の道(ヤーウエー)であることです。

 

マルコ13章でイエスは、神以外には何がいつ起こるかは誰も分らないが、神は聖書で、起こるべき時を知らせる前兆を示しておられると言われました。今の時代の著しい前兆は惑わしが多く起こることです。そして、キリストの名を名乗る者が大ぜい現れることです。今の時代には新しいバイブルが出て来ています。それはキング・ジェームス・バイブルではなく、クイーン・ジェームス・バイブル(笑い)です。それはゲイ(同性愛)に属する教会のための聖書で、彼らも世の中が変わりつつあることを信じでいます。今日いわゆるクリスチャンと言われる人たちの半数(50%)が神の代わりにこの世の王を選ぶようになりました。

次に主は、戦争が起り、そして飢饉が起ると言われました。神がこのような災難が起るのを許される目的は唯一つ、神の栄光が現れるためです。

モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民が追いかけてくるパロの軍隊と海に挟まれた時、神はモーセに杖(木)を上げなさいと命じました。杖(木)はイエス・キリストとその十字架を象徴します。そして大きな奇跡が起こりエジプトは神の栄光を見たのでした。

 

今日、中東は再編成されて10のイスラム国家が興りました。彼らの目的はイスラエルとクリスチャン国を滅ぼすことです。神はそのことを詩篇83篇で語っており、それは神の栄光が現れるためです。今、中東では三つの戦争が起りつつあります。イランの戦争、サウジアラビアの戦争、そして最後の戦いとなるトルコの戦争です。トルコはこれから出て来て反キリスト迎えるその座となります。今トルコはイスラエルと平和を保っているように見えますが、私がこれから紹介しようとしている「反キリスト」であるモハメッド・アブドラ・メヘディ―をトルコが受け入れ、彼がイスラエルとクリスチャン国を滅ぼし、世界に新しい国家体制「イスラム」を建てようとしています。これはすべて聖書に書いてあることと一致するのです。そのためにイスラムは核の力(イラン)を備えようとしていますが、トルコは世界で中国とアメリカの次に大きな軍隊を整えつつあります。アメリカは今自国の軍隊を弱体化しようとしており、来年末にはそうなるでしょう。そうなればNATOは今までのアメリカに頼って来た体制がくずれ、一番大きなトルコ軍が中心となります。トルコが西洋諸国(ヨーロッパ)の平和を保つ(その逆の意味で)支配体制を造りつつあるのです。

 

2011年に、神は私に、非常にはっきりとした声で、「教会をこの世から切り離し、その間に距離を置く」と語られました。そして2012年には、「教会を教会から切り離す」と言われました。箴言6章で主の憎むものの一つに「罪のない者の血を流すこと」が書かれていますが、アメリカでは今、あちこちで何の罪もない子ども(学校)とか、ショッピングセンターで銃を乱射して人々を撃ち殺す事件が起っていて、銃の保持の規制が取り沙汰されています。その一方で、一日に3千-5千人の胎児が殺されていることには何も言いません。この国の教会の50%の人たちが、神よりも、そのように堕胎を容認する王(国家指導者)を支持するのであれば、神はそれをそうさせて置きます。サムエル記に書かれていますが、当時神から任命された最後の神の預言者・最高裁判官(士師)であるサムエルに対し、大半のイスラエルの民は自分たちにも他の国と同じように国王を立てて欲しいと願い出たので、神はそれを許されました。アメリカがまさにそうです。50%のクリスチャンが神よりも王を選んだのです。

2013年は、「政府から政府を切り離して移す」と主は言われます。それは神がこの世の政府から神を信頼する教会に政治を移すと言う意味です。今年は飢饉が多く起り、世の破壊が益々ひどくなり、民衆は悲鳴を上げます。神は2013年はトランスフォーメーション・変革の年であり、主が来られて栄光を現す年であると言われました。今、その主が来られる徴しが非常に多く現れています。主は「わたしを選ぶ人は祝福される」と言われます。飢饉が来る時は、神はヨセフのように教会を引き立てると言われます。エジプトで牢屋に繋がれていたヨセフは権威の座に引き上げられ、彼の権威により金のカップで世界の国々に食料を分け与えました。それと同じように教会が権威の座に上げられるのです。ヨセフのように教会によって世界中が神の祝福を受ける時が来ようとしています。

 

ヨハネ14:12で主は「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」と約束されましたが、主はあらゆる病人を癒され多くの祝福を与えられたのですから、それ以上、私たちに何が出来ると言われるのでしょうか。

主は終りの日に、今まで地上に送られたことのない多くの御使いを送ると言われました。彼らは今までにはない賜物とか知識、ものすごい栄光と力、今までの私たちには理解出来ないような新しいことをする、そのような力を地上の私たちに持って来ると言われたのです。今年はおちおち寝てはおられません。なぜなら今年は「突然事が起る年」だからです。(Year of suddenly) そのような神が今既に来ておられるのです。ところが私たちは用意が出来ていないのです。今年、神は突然素早く動かれると言われました。2013年は、今までに見たことのないような神の栄光がもたらされる年です。それを聞いて私は本当に興奮しました。

 

この世の王と祭司と人々が失敗する時、神は全く違ったことをなさいます。神は全く新しい祭司―ロイヤル・プリーストフッドと言われるイエス・キリストを送られます。又「王の王」を送られます。ですから今、私たちはその方を受け入れる用意が出来ていなければなりません。神はアメリカに今までとは全く違う新しい方向を与えられようとしています。神の偉大な栄光が顕される前には、神は多くの悲惨なことが起こるのを許されます。どうしてそれが分るのでしょうか?

ギデオンの時代に、イスラエルはミデアン人とかアマレク人等の強敵に囲まれ、今にも完全に滅ぼされようとしていました。その時主はギデオンを選び、彼に「立ち上がれ。軍隊を立ち上げよ。」と命じました。そして集まった人々の中から神はどんどん人数を減らし、本当に敵を恐れず主を畏れる人、自分のことよりも神ご自身の心だけを求める人たちを選びました。水の飲み方でテストして犬のように飲む者を帰し、最後に残った者は僅か300人となりました。ギデオンは恐れました。神は彼に、「恐れてはならない、わたしは彼らの力ではなくわたしの力で、圧倒的多数の敵を打ちのめすのを見せるためにこうしているのだ」と言われました。そのような時に神のものすごい栄光が下ります。

神は今、教会を同じ状態に置かれようとしておられます。教会の中が分けられるのです。イエスは花婿を待つ10人の娘を区別されました。充分油を用意している5人とそうでない5人に分ける、50%と50%です。

 

皆さんは今どちらの方に属しておられますか。誰を信じていますか。(この世の王ですか、神ですか。)その後で主は、私に特別でユニークな(聖書にある)範例を示されました。それはモーセがイスラエルの民をヨルダン川に近い(モアブの地にある)シティムまで来た時、そこで長い間民を逗留させたことです。当時その近辺の部族を打ち破って敵に恐れられ、何事もうまく行っていたので、イスラエルの民は安心して気の緩んだ状態にありました。その後ヨシュアが民を率いてシティムを出発し、ヨルダン川を渡る前にそのほとりで三日間留まらせました。その目的はイスラエルの民をきよめ気の緩んだ状態を引き締めるためでした。この「三日間」-非常に重要な三日の間に、神は民の罪を一切きよめ、しみもしわも無い状態にしようとされたのです。これは今の時点の教会に当てはまります。(「三日間」を「今年からの三年間」としてみる。)

神はそのとき、誰も行ったことのない約束の土地にヨルダン川を渡って入ろうとしている選ばれた民を、先ず聖別し神にささげさせたのです。神はここで再び木で造られた(十字架を象徴する)契約の箱(イエス・キリスト)を先頭にして、その後に民がついていくように命じました。川は氾濫していましたが、箱を担ぐ祭司たちの足の裏が一歩川の水に浸かると同時に川は堰き止められ、民は渇いた地を歩いて渡りました。

私たちは今、最後の時に来ています。約束の地へ渡ろうとしています。主はあなたの十字架を毎日担いで歩きなさいと言われました。(十字架、すなわち、木の箱を担いで約束の地へ入れ、という意味)十字架にこそ力があります。あなたが自分を十字架に架ける時、あなたの内におられる主があらわれます。そこにはものすごい主の力と栄光が現れ、すべての敵は撃破されるのです。

 

次の三年間はそのための準備の期間、私たちは徹底的にきよめられねばなりません。なぜ三年なのでしょうか。私は調べました。しばらく前にジョン・へギー師とかその他の人が「血のような月」の話をしていましたが、聞かれたことがありますか。日食とか月食により光が暗くなることです。自分たちは神の民であると信じるユダヤ人は、月による暦を使用し、神は陰暦によって色々な徴しを彼らに示されると信じています。なぜなら、彼らは神の光を反射する民であるからです。つまり、神の民であるあなた方は神の光が反射して輝く民なのです。いよいよ暗闇がこの地上を覆います。

イザヤ書60:1-3で主は「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」と言われます。この世が最も悪くなる時こそ、この世の人たちは私たち神の民(クリスチャン)を求めて来るようになると言われるのです。それはこの世が暗闇になる時にこそ私たちが輝かす神の光が彼らを惹き付けるからです。彼らはみな私たちのところに集まって来ます。あなたは彼らを受け入れる用意が出来ていますか。あなたは今の時のために準備が出来ていますか。今、私たちは川を渡ろうとしている特別な時にいるのです。

2013年は最早あなたが考えているような普通の年ではありません。神が私たちと共におられ神の栄光が満ちる時なのです。これから私たちが置かれる時(事態)と言うのは、私たちがひたすらキリストの十字架を担いで歩く時であり、たとえクリスチャンがこの世の王の前に引き出されても、何を言うかを心配しなくてよい、主がその時々に話すべき言葉を与えて下さる時となるのです。あなたはその王たちに対してミニストリーし、彼らの前で神の栄光を宣言する時なのです。

これからの時はいよいよ主が私たちに特別の好意を与えて下さるようになります。今私たちは、その神の特別の好意を受け入れる準備をしなければならない特別の時です。私たちは7年間、神のめぐみを受けて来ましたが、これからはいよいよ私たち教会が国々を祝福する時です。

 

多くの牧師達は機会を逸しました。(神のみを求める代わりに)この世で「政治的に正しい」立場を取り、自己を満足させる安易な生活に走りました。教会に通う多くの人たちもそれに習って、互いに安易な生き方でよいと納得し合いました。今こそクリスチャンは主の前に立ち返り、これからの生き方の指示を仰ぎ、とりなして祈る時、主の前に(もう一度)自らをささげ、聖められる時なのです。なぜなら、主は私たちが今までに見たことも経験したこともないようなことをされようとしておられるからです。

私たちは今、どうしてもしなければならないことがあると信じます。それは神に真剣にとりなすことです。私たちの救い主以外の救い主はなく、他の方法もないからです。ノアを通して人類が生き延びるようにされたのは、方舟と言う木(イエスの十字架)によってです。モーセの導きでイスラエルの民が救われたのも木(杖)によってでした。洪水のヨルダンを渡れたのも木(箱)によってでした。その木のいのち(自らを十字架につけて死ぬことによって生きる)が今私たちの上に置かれています。イエス・キリストがいのちの木です。わたしから食べる者は二度と死ぬことはない、とイエスは言われました。そのいのちの木なるキリストが私たちのうちにご自身を顕されました。私たちがどのようにヨルダン川を渡るのかは分りません。主に聞く必要があります。今回渡るのは天に向けてです。天の領域が間も無く私たちを受け入れようとしています。私たちはそれを待っているのですが、その前にやらねばならないことがたくさんあります。今こそ教会が立ち上がらねばなりません。

 

以上が2013年に対して神が私に下さったメッセージのすべてです。今夜私は、皆さんが今までに聞いたことがないか、或いは味わったことのない何かをお分かちさせていただいたと願っております。しかし祈らなければなりません。ご一緒に主にお祈りしたいと思います。(メッセージの終り)

 

 

サリーム師のメッセージの後、ジョイナー師が受け継いで約30分ほど語りましたが、その中で上記のサリーム師のメッセージに関して次のようなコメントをしており、その要旨は下記の通りです。

 

1)カマル師は2013年からの「三年間」が非常に重要であると強調しましたが、これは今一番必要な主からの預言の言葉として理解すべきです。

2)この世の政府から主は油注ぎを取り去られ、それを神の政府に移すと言うことにカマル師は触れましたが、これは既に起こっています。今は世界中の政府(政治)経済がかって無かったほどに揺れています。

3)今は天のドアが開いていて「ここに上がって来なさい」と主は私たちを招いておられます。あなたが天にある御座に主と共に坐るなら、主の持つすべての権威と力を私たちが主と共に用いることが出来る。第一のリバイバルの波は既に来て、次に津波のような第二の波が今来ようとしています。津波が来る時には先ず潮が引きますが、それは警戒警報であり、私たちは今、皆高いところに避難しなければならない。その高いところとは天にある主の御座に主と共に着くことです。

4)カマル師が最初に触れたのは、終りの日には惑わしが来ることでしたが、まさに今は、主が言われ、使徒たちが何度も警告した「惑わし」が起っています。(終り)

 


14 01月

主と同一であること ナンシー・テイラー・ワーナー      2013年1月14日


主と同一であること

 

ナンシー・テイラー・ワーナー

 

第一ヨハネ4:17「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは、私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあって キリストと同じような者であるからです。」(口語訳)

何というパワフルな言葉でしょうか! ヨハネは、私たちの内に主が働かれ愛が私たちの人生の中で完全にされることによって、私たちの存在、又 行動のすべてが、主イエス・キリストのいのちそのものを映し出すと言っているのです。主のように私たちもなるのです! それ故に私たちが御座の前に立つ日には、恐れることなく確信をもって立つことができるのです。

 

私たちクリスチャンの神の召しとは、ただ主がそうであるように「ある be」ということです。決して証しを「する do」ようには召されていないのです。私たちは「地の果てまで」、或いは私たちが置かれたどのような場所、状況においても証人で「ある be」ようにと召されているのです。(使徒行伝1:8参照)

 

私たちの内での主の働きに明け渡すとき(それはしばしば日常の生活の中で起こることですが)、私たちは証人で「ある be」こと、或いは証人に「なる become」ことができま‘す。私たちがある状況に対応するとき、主を喜ばせるように対応するならば、キリストのいのちそのものが私たちの最も奥深い部分に吹き込まれ生きるのです。このプロセスを通して私たちは主のように「なる become」のです。私たちが主と一つとなるとき、主はご自分が望まれることをしてくださり、私たちの内だけではなく私たちの人生を通して御自身をこの世にあらわされます。

 

主がそこまで来るようにと私たちを召しておられる主と同一になることの極みがあります。そこでは主の御心が私たちの中に形造られるので、もはや「私」ではなく、私の中におられるキリストが生きているのです。(ガラテヤ2:20参照)私たちが主と一つになることによって、キリストの御性質そのものが私の性質となり、私が自分のやり方で応答するのではなく、主が応答されるように応答することを学び、そうする時に私は主との一致へと導かれていきます。私はキリストの人生、いのちそのものを経験するようになります。

その結果、人々は私を通してキリストのいのちを見ることができるのです。

 

神の友

 

アブラハムの人生にこの事があらわれています。彼は多くの試煉を通して神の御心そのものを知るようになりました。その結果、ソドムとゴモラに主の裁きが下ろうとしているのを知ったとき、彼は神の御心をあらわすことができました。

 

主が来られたときアブラハムは天幕の入口に座っていました。(創世記18:1)彼にはまだ成就されていない神の約束がありましたから、それに関して主に訊ねることもできました。でも彼はそうはしませんでした。そうではなく彼はすぐに主をもてなしたのです。(5節)

アブラハムが自ら進んで主をもてなした時、主はアブラハムの人生にこれから成就されるべき約束を宣言されました。(9節)そればかりではなく、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と考えられました。(17節)そして主がソドムとゴモラを訪れようとしておられることをアブラハムに話しました。主はアブラハムにソドムとゴモラが犯している罪の故に大いなる叫びが主のもとに聞こえている事を話されました。(20節)主は出かけていって実際にそのような罪が犯されていうかどうかを見にいくのだと、アブラハムに告げられました。(21節)

 

アブラハムは、それらの町には大いなる罪があることを知っていたので、主がそこを訪れたら何をご覧になるかを知っていました。彼は神の義を知っていましたから、神の裁きが下されることも知っていました。しかし、アブラハムは又、神の御心も知っていたのです。主の訪れが裁きとなることを知り、それと同時に神の御心を知っていたので、アブラハムはとりなしを始めたのです。彼は裁きが下される時に、罪人と一緒に義人が死ぬことがないようにと祈りました。聖書には、裁きが下る前にロトが町から脱出できたのはアブラハムのとりなしの祈りの故だったとあります。(19:29)

 

聖書にはアブラハムは「神の友」であったと書かれています。(ヤコブ2:23参照)彼の人生を見ると、彼は主の臨在を識別しすぐさま礼拝という行為で応答した人でした。彼は聞く耳を持っていたので、神は彼に語ることができました。彼は神の御心を知っていたばかりでなく、その神の御心と同じ心になってそれが叶うようとりなしの祈りを進んでしたのでした。それで神はロトを救うためにアブラハムを用いることが出来たのです。

 

何が起ころうとしているかをアブラハムが理解した時、彼は自分の思いや考えだけで行動しませんでした。彼は神の御心に従って自分の立場を決めたのです。彼は神の御心と一つとなり、それに従ってとりなしをしたのです。ロトが救われたときのアブラハムの喜びはいかばかりだったでしょうか。

 

喜びを分かち合う

 

今、私たちは神と同じように人々のことを思い愛するという経験へと 召されています。それは神の愛が、私たちの祈り、優しい言葉、親切な行為などの生活を通して目に見える形となることによってです。私たちが人々のために自分の人生を捧げ、それによって彼らの必要が満たされた時の彼らの喜びを共に分かち合う、その喜びは、自分が人々に捧げたことよりもずっと優って大きいのです。

 

第一テサロ二ケ2:19−20「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。」新共同訳

 

私がワシントンDCの近郷で牧会をしていた時、大雪に見舞われたことがありました。雪かきをしてもすぐに又積もってしまいました。教会の男性たちが手伝ってくれたのですが、彼ら自身の家の雪かきもせねばならず、また道路はすべりやすく教会に来るのは無理になりました。

 

私の父(ウエイド・テイラー)はその週末に行われる予定だったカンファレンスのためにうちに来ていました。私たちは分かる限りの人々に電話をしてカンファレンスには来ないようにと連絡しました。しかし万一来る人があるかもしれないので、私たちは教会に行かねばならないと考えました。でもそのためには家の玄関から道路までのドライブウェイの雪かきをせねばなりませんでした。

 

除雪車が道路の雪を両側に寄せて行ったので,私のドライブウェイの入口には雪が山のようになっていました。父も外に出てきて雪かきを手伝おうとしてくれましたが、聞いてみるとやはり彼の体力では 無理で苦しいと言うので、私は「心配しないで。私は雪が好きだから、中に入ってください。私がしますから。」と言いました。私とシャベルだけが残されました。父は家の中に入ってきっと祈り始めたのだと思います。

 

シャベルで雪かきをしながら、 除雪機を頼むとドライブウェイとパーキングの除雪で300ドルかかると言う事を思い出していました。そんなお金はありませんでしたので、私はシャベルを動かし続けました。湿った重い雪でした。必死でしてもほんの少ししかはかどりませんでした。祈りながら雪かきをしていると、雅歌の言葉が私の思いの中で動き始めました。

 

雅歌7:11−12「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って.....そこで私の愛をあなたにささげましょう。」

私は主が今私のいるところに召してくださったことを知っていましたし、私が主のぶどう畑に共にいることも知っていました。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」という言葉が私の心の中に響いていました。「主よ」と私は言いました。「雪かきが嫌だというわけではありませんが、私には荷が重すぎるのです。あなたの愛を私に見せてくださいませんか? 除雪機を送っては下さいませんでしょうか?」

 

その時、私が上を向くと、目の前に黄色い除雪機を載せた白いトラックが道路の向かい側を通って行くのが見えました。その時聖霊が私の内で働くのを感じ、私はそれによってジャンプさせられ、礼拝する時のように両手を上げて「おお!」と言わせられました。トラックの運転手は私が彼に手を振っていると思ったようでした。彼は引き返してきて何も言わずに私のドライブウェイの除雪を始めました。彼が巧みに仕事をするのを見て私の心は沈んでいきました。300ドルの料金のことを思い出し「なんてことをしてしまったんでしょう?」と思ったのです。

 

すると、トラックの後ろにクリスチャンのバンパースティッカーが貼ってあるのに気がつきました。仕事を済ませた時、彼はお金を受け取ろうとしませんでした。私が受け取ってほしいと何度も言うと、彼は次回はもしよかったら25ドル払ってくださいと言いました。私がその家に住んでいる間、大雪はもうありませんでした。私はこの出来事を思い出すたびに、事の成り行きに驚き、主に感謝しています。

 

この出来事を教会の人々に話すと、みんなとても喜んでくれましたが、 雪かきを手伝ってくれた人たちが特別喜んでくれました。シャベルで手伝ってくれた彼らには、除雪機がどんなに役にたったかがよく分かったからです。

 

私たちが人々のために祈ったり助けたりする時に、主がその人たちのためになさる事によって起る喜びを主と分ちあうことが出来ます。数年前に私たちの知り合いの牧師夫妻がより高いミニストリーの仕事に引き上げられたことを聞きました。それを聞いてすべての人が喜びましたが、私は本当に大喜びをして興奮しました。というのは私は彼らのためにとりなし、祈っていたからです。後になって彼らは「これはあなたの祈りの結果です。」と言いました。それはどうかわかりませんが、私もその一部であったことは確かなので、私は大きな喜びを与えられたのです。

 

主の御心と同じ心になる

 

私たちの召しは人々を建て上げ恵みを与えることです。人生の中でその人の必要が周りの人にも明らかされるときがあります。そして又、現代のライフスタイルの中には多くの異なるものがあり、その中には極端なものもあります。主は私たちがそのような人を裁いたり断罪するようには召しておられません。そうではなく彼らを愛するようにと召してくださっているのです。神が私たちを愛してくださっているのと同じ愛で、私たちも人々を愛するように神は私たちを召してくださっているのです。この愛が私たちの霊の中に形造られ、私たちが主の御性質に与るものとなるのを主は望んでおられます。主が人々を愛する愛を主と共に分かち合い、それによって主の喜びをも分ち合えるようになるのを主は望んでおられるのです。

 

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

「神とはどう言うお方であるか」―愛―を真に理解し、その次元に自分を置くことが私たちを完全に変革してくださり、私たちの考えを根本的に変え、主との一致へと導いてくださいますように。 祈りに時間を割くこと、やさしい言葉をかけること、親切な行為をすることなどで、自分の人生を喜んで(主のため、他の人のために)捧げようではありませんか。私たちのうちから聖霊の働きが溢れ出て、神の愛が私たちを通して外に流れ出ますように。アブラハムのように主を知り、主の臨在に素早く応答する者となりますように。神の御心を知り、神が語りかけることの出来る者となりますように。とりなしの祈りにより主と、そして主の御心と同じ心をもって完全に一致する者と私たちがなりますように。

 

裁きが下る前にロトが救い出されたように、終末の収穫が来ようとしています。 この時に対する神の御心を喜んで見つけ出し、とりなしをもって主の御心と同じになることによって、私たちも収穫の一端を担ったことを知るならば、私たちはどれほど喜びに満たされることでしょうか。

 

一緒に祈りましょう。

「主よ、あなたが愛されるように、私たちも愛したいと願います。それが可能となるために私の人生をあなたに捧げます。今現在私が置かれている状況に対してあなたが持たれている(思いと)御心を教えてください。私が共に生活し働いているすべての人たちに対してあなたが与えようとしておられるいのち(生き方)と願いを私が表現すためには、あなたの御心を知る必要があります。私の中にあなたの愛が形造られ現れるようにしてください! この国、そして世界の国々に対するあなたの御心を教えてください。主よ、私はここにおります。終末の収穫の働きの一部となりたいのです。どうかあなたの御心に私の心を加えて一つにしてください。貴い主イエスの御名によって祈ります。アーメン(終り)

 

Nancy Taylor Warner
Parousia Ministries (Wade Taylor Ministries)
Email: wade@wadetaylor.org

 

Nancy Taylor Warner 師は, 故Wade Taylor 師の娘さんで、長年お父さんのミニストリーを助けて来られましたが、現在は父の跡を継いで  Wade Taylor 師のParousia Ministries の責任者となっておられます。又、彼女は自身のAgape Fellowship in Christ教会の牧師でもあり、ペンシルベニア州ハリスバーグに在住されています。


30 12月

夢の草原か、悪夢の草原か      リック・ジョイナー   2012年12月31日


夢の草原か、悪夢の草原か

 

リック・ジョイナー

 

(ジョイナー師からの前書き:このヴィジョンはモーニングスタージャーナルの6.2に載せたものです。非常に多くの方がこれを今読み直し、今の世界状況に当てはまると感じておられることを知り、今回「預言の掲示板」に再び載せることにしました。これは1996年4月に発表したものと同じ内容のものです。その当時の解き明かしが今も正しいと思いますので、それも載せました。)

 

私がアメリカの 経済の将来について 祈っていたとき、長い、青々と茂った草原のヴィジョンが与えられました。これは長期間の経済的繁栄を表しているものだと私は感じました。そしてヴィジョンを見た時から現在までは、大体そのようだったと思います。1995年8月に祈っていた時、私はこの草原のヴィジョンを再び見たのですが、その時はもっと細かいところまで詳しく見せられました。長い生い茂る草原が続きますが、そのうちに霧が覆いはじめ、その霧に入ってからほどなくすると非常に険しい崖がありました。その崖の真ん中に細い曲がりくねった急な道があり、それは下るための橋のように見えました。その道は草原と同じように緑の草が生い茂りその草原の道は崖の下まで続いていました。

霧の中を歩いて行った人たちの大半はこの小道を見つけることが出来ず崖から落ちて行きました。死んでしまった人たちもいましたが、崖の下に網があったので多数がそこにひっかかって助かりました。しかしこの網は実は人々を救うためのものではなく、彼らを罠にかけて捕らえるためのものでした。又他の人たちは霧の中に注意深く入り、膝を地につけて歩き小道を捜しました。彼らはそこに小道があることを本能的に知っていたように見えました。小道を探した人の大半はそれを見つけ、膝をついてゆっくり下りていきました。幾人かはパラシュートを持っていましたので、崖から霧の中に飛び降りて行きました。

下まで下りると海があり、4種類の船が港に入っていました。奴隷船、軍艦、豪華客船、そして病院船でしたが、多くが奴隷船でした。次に多かったのは軍艦でした。病院船は5隻しかありませんでしたが、みんなきれいでよく手入れがされた港の中央にあるドックについていました。2隻の豪華客船は港の両端についていました。そのドックには溢れるような物資がおいてありましたが、ドックも船も汚くて手入れがあまりされていませんでした。戦艦はドックにはついておらず、港のなかを動きまわっていました。

 

網の中に落ちた人たちは奴隷船に乗せられました。小道を下りていった人たちの殆どは病院船のほうに行きましたが、豪華客船の方に行く人も多くいました。それらの人の中には捕らえられて奴隷船に乗せられる人もありました。

豪華客船はしっかりと護衛されていて、軍艦のコントロール下にあるようでした。軍艦はときどき奴隷船や豪華客船から取りたい人を取りたいだけ取っていき、それには誰も抵抗できませんでした。

病院船の人も他の船から人々を連れていきました。しかし、彼らは一番弱っている人や重病人、怪我をしている人でもう死ぬに違いない人しか連れていきませんでした。

病院船の乗組員は他の人たちから敬意を表されていました。それは彼らが輝くような武具をつけていたからです。崖からパラシュートでジャンプした人たちは皆病院船かそのドックに着地しました。

 

奴隷船は人で一杯になると出航していきました。行き先を知っているかのように何度も向きを変えながら進んでいきました。軍艦も非常に何度も向きを変えて進んでいくので、次はどちらの方向に進むのか全くわかりませんでした。軍艦が向きを変えた時にそこにいた船は、 攻撃され沈没しました。軍艦同士がぶつかった時は、どちらかが沈没するまで互いに攻撃しあいました。

霧のために多くの船が衝突して沈みました。海はサメが一杯いて、海に落ちた人は直ぐに食い尽くされました。混乱と絶望と恐れが霧のように深く港を覆っていました。霧が深くなると恐れも強くなっていきました。霧がわずかでも薄くなると人々の中に希望が起りはじめるのでした。 前方に開けた海が見えるまでに霧がはれたときには、船はそちらにむかって進み始めるのでした。

病院船だけが行き先を知っているかのように、混乱した港を難なくぬけて開けた海へと進んでいくことができました。そのうちの1、2隻がいつも海に出てゆき、しばらく見えなくなってから又戻ってきました。次には別の病院船が同じように出航していきました。

 ヴィジョンの中で私は病院船の一隻のあとをつけていきました。すると突然私はその船の司令室に立っているかのようでした。沖に出ていくにつれて空は晴れていきました。そして非常に高い高度をジェット機で飛ぶときにしか見たことがないようなきれいな真っ青の空になりました。私はその空に気をとられて海をしばらく見ていませんでしたが、次に海を見たときに、私たちは本当に高い高度を飛んでいるのがわかりました。

 

私たちは宇宙に飛んでいくのかと思ったのですが、やがて全く新しい世界のように見えるところに降下しました。そこには沢山の島があって、それぞれの島には違う文化、風習の人たちがいました。船に乗っていた負傷者は、それぞれ自分自身の文化の島に運ばれました。

この島々は全く平和で、島と島の間には美しい白い橋が架けられていて多くの人がその橋を渡って行き来していました。それぞれの島には偉大な都市のためのものすごく大きな基礎が作られていました。

島はそれぞれ皆違っていましたし、私が今まで見たどの場所とも異なっていましたが、私はどの島でもすぐにリラックスできました。一つ一つの島はパラダイスのようで、全く別の世界にあるように見えましたが、次に行く島も、実際は私が今去った島にとても似ていることが私にはわかりました。

 

ヴィジョンの解釈と考察

草原が尽きる所が見えるということは、私たちの経済的繁栄の終りがもう見えていることを表しています。ヴィジョンの終りの方で見たものは、私が考えたこともないほどに悲惨な状況でした。これからしばらく非常に暗い時代になるでしょう。しかしそれと同時に全く新しい世界が私たちのただ中に建てられていて、それは想像をはるかに超えたすばらしいものなのです。

    自分の人生と信仰の土台を世界経済の上に 建て上げていたのならば、私たちは非常にもろい土台の上に建てていたのです。すべて揺るがされるものは揺らぐ時が来ることを私たちは知っています。その時がくる前に私たちの与えられている時間は、備えをするための時間です。揺るがされることのない唯一のもの、即ち御国の上に私たちの希望と信頼を建て上げようではありませんか。

 

広い草原を歩いていたのと同じ調子で霧の中に入って行く人は、まわりの変化に気づかず、滅びるか、又は奴隷になっていきました。すぐに膝まづいた人は下に行く安全な道を見つけましたが、やはり下り坂でした。彼らはずっと膝まづいていかねばなりませんでした。その崖の道は非常に細く険しいので誰も立つことはできませんでした。膝まづくとは祈ることをさしています。霧、即ち混乱を見たならばすぐにそれからの一歩一歩は祈りつつ進まねばなりません。

 

すべての人が崖から下りていき、上って来た人は一人もいなかったということは、世界中が経済的な不況になることを示していると私は思います。これから起こる状況の中で生き残る人も多くいますが、現在の(生活)レベルにとどまることはできないでしょう。私たちの今までの生活水準はクレジットで保たれているものであり未来からお金を借りて成り立っていたものですが、 その未来にすでに来ているのです。借金を返さねばならない時が刻々と迫っています。それによって現在の生活水準は劇的に低下することになるでしょう。

 

奴隷船は銀行だと私は感じました。かつての大恐慌のとき、銀行はあまりにも手を伸ばしすぎたことによって多くが倒産しました。ですから今銀行は次の経済破綻をどうにか乗り越えるでしょうが、しかし彼らに負債のある者たちは(借金を返すまで)銀行の奴隷にならざるを得なくなるでしょう。

軍艦の大きさはまちまちでした。それは色々な異なる勢力・権力を表していると私は感じました。彼らは一致しておらず、他と同じように混乱状態にあり、皆互いに戦っているようにみえました。そして互い同士や他の船を強奪することによって生きていました。これからの時代には、小さな戦争がいたるところで、これと言った理由もないのに勃発すると思います。大きな勢力の道を阻むものは誰であっても困難な目に合うでしょう。

 

豪華客船は酷く汚れていて、奴隷船や軍艦よりはほんの少しだけましかもしれないというくらいに見えました。これからの贅沢は私たちが今考える 贅沢さとは違うことは明らかでした。更に豪華客船は軍艦によって絶えず強奪されており、とても堪え難い辛い場所に見えました。将来はほんの少しの贅沢も攻撃の的になるだけかもしれません。

病院船は教会であることが私には分かりました。船は白く輝き赤い十字架のマークがありました。船はとても美しく輝いていたので、ヴィジョンの中で衝撃的に際立っていました。白色は純粋さを表しています。赤い十字架は、彼らが十字架を負っていることを私に示しました。赤は犠牲の色でもあります。病院船はとても美しく、誰もが乗りたいと願うものでした。教会はこれからの世の中で最もみんなが来たいと思う場所となります。 十字架を背負い、犠牲の生き方を選びとるならば、教会は神から召されたとおりの純粋な清い船になれるのです。これからは、他のための犠牲と奉仕の人生こそがこの世でもっとも望ましいものとなり、本当に栄光ある生き方が出来るところとなるでしょう。

 

病院船に乗っている人たちは、輝く銀色の武具を身に着けていました。彼らが姿を表すときにはいつも衝撃的に際立って見えたので、すべての人は、軍艦ですら、敬意を示しました。これはクリスチャンが神の武具を身に着けることを学ぶならば、全世界の尊敬を受け、それ故に権威を持つようになることを私に示しました。

又病院船のドックは少しも汚れておらず、多くの物資で溢れていました。豪華客船よりもずっと多くの冨がありましたが、その冨は贅沢をするためのものではなく奉仕のために使われていました。病院船とその乗員は皆から大変尊敬されていたので、ドックの物資は山積みにされていて他の人たちが利用するのは自由であったにも拘わらず、それを奪おうとするものは一人もいませんでした。

 

争っている二隻の軍艦の間に病院船が入ると、軍艦は戦うのを止め彼らのうちの負傷者たちを看護船に渡すのでした。出来る限り争いを止めるのがこれら病院船の主な目的の一つのように見えました。

この混乱のただ中で、クリスチャンと彼らの船が示した威厳と決意、目的は驚くべきものでした。私が海に出て行く船の司令室に立ったとき、最高にすばらしい感覚が私を覆いました。それは「自由」という感覚でした。外海に出た途端に私たちは天のような場所に上っていったのです。霧を抜け出したならば、もはや地上を動くのではありませんでした。そして再び下に下りた時、それは一見新しい地球のようでしたが、実は私が出て来た世界のただ中であることがなぜか私には分かりました。

 

私が病院船の上で感じたすばらしい自由、解放感は、私たちが人に仕えるために自分の十字架を取り上げるときにこそ真の平安を見つけるということを表しています。そのようにする時、私たちは天のような場所に住み始めるようになるでしょう。その時私たちは地球を全く違う目で見るようになるのです。神がしておられることを見るのです。このパラダイスの島々はすでに私たちのただ中にあり、ただそれをまだ私たちは見ることができないのだと私ははっきり感じました。

 

世界がものすごい混乱状態に陥るまさにその時(それは多分経済の分野の混乱から始ると思いますが)神は人々の間に橋を架けられ、それが栄光ある未来の土台となるのです。今の時代が終りとは、即ちキリストが君臨される時代の始まりです。黙示録17:15に「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。」とあります。 預言的な言葉では、多くの場合、海は大勢の人を表します。崖の下の海がひどい混乱状態にあったということは、この世の王国がそのような状態になろうとしているということです。島々が表しているのは、それと同時に主がご自分の御国の土台を私たちのただ中に築いておられるということです。島々が混乱の海の近くにあったということは、主が地球上に建てようとしておられるタイミングが真近であることを表していると私は感じました。

 

今人々の間に橋が架けられています。橋は行き来するためのものであり、それぞれの島は何かすばらしいものを建て上げていて、それはその文化が生み出す最高のものであり、他の島々に分け与えるものだということが私にははっきり分かりました。そして都市のための新しい土台は、 地球の全く新しい始まりを表していました。今主のために、主の御国のために建てられつつあるものは、崩れることのない来るべき時代のための土台となるのです。(終り)


24 12月

超越した生き方     フランシス フランジペン         2012年12月25日


皆様、2012年のクリスマスを心からお祝い申し上げます。このすばらしい祝日を記念して、今年はフランジペン師のメッセージをお伝えします。

 

超越した生き方

フランシス フランジペン

私がクリスチャンの究極の目的(デスティニー)は「キリストに似た者になること」であると言いますと、ほとんどの人は確かにうなずいてくれるのですが、その人たちの大半は、それが私たちクリスチャンの生きる真の理由であると本当には信じていないことが私にはよく分ります。なぜなら、もし本当に信じているなら、彼らはもっと違った計画を立てて生きて来たでしょうし、もっと真剣に自分自身が変えられることを求めたはずです。

クリスチャンが自分の人生目標(デスティニー)について考える時、先ず思いつくことは、神のために何かしたい―神からいただいた自分のユニークな賜物を生かして、ミニストリーでよい働きをして神に貢献したい―と言うことではないかと思います。しかし、私たちに与えられた賜物とか召しに生きることが、クリスチャンの生きる中核の目的ではないのです。主のために「何かをする」ことではなく、主に対して私たちが「どのような人間になるか」の方がより重要な課題であり、それは、私たちの心を主に明け渡し、私たち自身を放棄することに他なりません。この神に対して私たちの魂を意識的に明け渡す時に、私たちは自分の真のデスティニーに一歩前進し、近づいて行くのです。

確かに私たちは人生において、それぞれの責任と仕事が与えられ、皆それぞれ違った人生を歩んでいます。しかし、そのような表面的なことを越えた私たちの人格の奥深いところで、もっと重要なことがなされなければならないのです。私は66歳になります。私の人生で私は色々な仕事をして神に仕えて来ました。チャーチ・プランテイングとか、霊の訓練学校とか、あるいはコンピューターのセールスマンを含む様々な仕事をして来ましたが、私は自分の本来の人生の目的とその時々の召しを混同したことはありません。

悲しい事実ですが、ミニストリーで大変パワーフルな賜物と召しを与えられ、天そのものを地上に持ち込むかと思えるような、クリスチャンの心を魅惑する働きをした優秀なリーダーたちが数多くおりますが、そのような人々の中には後で最も恥ずかしい罪を密かに犯していたことが明るみに出されてショックを受けることをしばしば経験しました。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

それは、自分の賜物と召しを追うことを第一とし、自分の内面の人格形成を高めることを二義的に考えて疎かにした結果であると思います。そのような人は悪魔の惑わしに堕ちる危険性を常に持っています。真の命は、自分の召しを求めることから来るのではなく、「召される主」ご自身を求めることから与えられ、増し加わって行きます。主が愛しておられる皆さん、「神は人をご自分のイメージimage にかたどり、神に似せてlikeness 創造された。」(創世記1:27、英語訳よりの意訳)とありますが、神のイメージとはキリストです。そのキリストのイメージに似るようになることが私たちの存在目的です。私たちは群集が拍手してくれるパフォーマンスを必要としてはいません。キリストのイメージを追い求める時にこそ、私たちは人生の意味を自分のものとすることが出来るのです。(終り)


15 12月

指輪の話 ジュリー・ジョイナー Dec. 15, 2012


指輪の話

 

ジュリー・ジョイナー

(2012年11月3日モーニングスター・女性カンファレンスでのメッセージから抜粋)

 

15年前ほども前になりますが、私にとってとても意味深い出来事がありました。私は主の花嫁であることを、主がとてもパワフルな方法で教えて下さったのです。

その時私は友人とロンドンに旅行していました。ある朝早く起きて、友人と二人でポートベラ・マーケットに買い物に出かけました。娘のために指輪を探すのが目的でした。 アンティークでかわいい指輪がいいと思いました。いろいろと見て回っているうちに、 とてもすばらしいダイヤモンドの指輪に目がとまりました。「すばらしい指輪ですね。ちょっとはめてみてもいいですか?」と店員にことわってはめてみると、本当に美しい指輪でした。そして値段を見てみると、高価で私にはとても買う事はできないと思い、指輪をもとの場所にもどしました。

それから2時間あまり、その指輪のことが頭から離れませんでした。最初は「絶対にあんな高価なものは買えない。」という思いでしたが、そのうちに、「絶対買えないってことはないかもしれないわ。」となり、次には「もしかして買えるかもしれない。」というように変っていきました。私の頭はそのような思いでぐるぐる回っていました。

 私はもともと宝石類にはあまり興味がない方です。今している真珠のネックレスは母の形見で、母の思い出に身につけているものです。他にはあまり宝石は身につけていません。ですからこの指輪をこのように真剣に自分のために買うことを考えるということは、私にとっては普通ではなく、簡単なことではありませんでした。でも何故かこの指輪のことが頭から離れず忘れることができなかったのです。

 

翌日私たちは、イギリスの戴冠式につかわれる宝石類の陳列を見に行きました。それは大層立派なものでしたから、あの指輪はそれにくらべればそう大げさなものではない、買ってもいいかもしれない、 主人もこの前モーターバイクを買ったし、と思いました。(笑) そこで私は家にいる主人に電話をして「ちょっと妙な話なんだけど、この指輪をどうしても買わなくてはならないという気持ちがするのよ。私を呼んでいるような気がするの。買ってもいいかしら?」とたずねました。主人は「私はそこにいないからわからない。あなたが決めればいいよ。」と言ってくれました。私は数日あの指輪のことばかり考えていました。 高価な指輪を自分のために買うのは崖から飛び降りるような気持ちでした。

 

私たちは小さなホテルに泊まっていたのですが、トイレは部屋にはなく、廊下の突き当たりにありました。その日の夜中に私がトイレに行くために廊下を歩いていると、主が私に語られました。「あなたの手を見てごらんなさい。」と。それで私は自分の両手を見てみました。右手の指には私が高校を卒業したときに両親からもらった指輪がありました。小さなダイヤモンドが幾つかついているもので、 とても大事で大好きだったので、 もらってからずっとはめていました。そして左手の指には結婚記念日に主人がくれた指輪をしていました。結婚した時主人は指輪を買うお金がなく、ずっと後になってくれたものです。私たちの5人の子供に因んで5つの小さなダイヤモンドがついています。

主が言われました。「あなたの手を見てごらんなさい。右手の指輪はあなたが両親から受けたもののシンボルです。それはすばらしく良いもの、美しいものです。左手の指輪はあなたが夫から受けたものを表しています。それも又すばらしいものです。でもこの指輪はわたしがあなたに与えるものであり、わたしがあなたの人生にあたえるもののシンボルです。それはあなたが両親から受けたものや夫から受けたものとは別のものであり、区別されるべきものなのです。そしてあなたがこの指輪を人生のすべての日にはめていることは、とても重要なのです。わたしのあなたへの愛、ただあなたへの愛がどれほど大きく、どれほど偉大であるかを、指輪を見ることによっていつも忘れないでいることが、あなたにとってとても大切です。」主の言葉を聞いて、私は深く感動しました。そしてこの指輪を買ってもいい、否、買わねばならないと決心したのでした。次の日、私からの連絡を受けて宝石屋が指輪を持って来てくれました。「一つの指輪を買うのにこれほど考える人はいませんよ。」と言っていました。

私はこの出来事により、 私たちがどのような所に立つ者になることを主が望んでおられるかに関する新たな思い、新たな理解、新たな洞察を得たのです。私はまだまだそのような者にはなっておりませんが、主は私をそこへ今日も導いておられます。毎日この指輪を見ることによって私はそれを忘れないでいることができます。この指輪は他の2つよりも大きくて、大きなダイヤモンドのまわりに12の小さなダイヤモンドがついているのです。

 

私は多くの人々に出会う機会がありますが、殆どの女性は自分の価値を計るのに、自分の人生の中の男性、即ち父親とか夫、が自分をどのように評価しているかを基準にしていて、いつもそれを気にしています。でも主は、このような思いから私たちを完全に解放したいと願っておられます。もしあなたがこのことについて考えたことがないのでしたら、一度じっくりと考えてみることをおすすめします。 主は私たちがそのような基準で自分を評価するようには全く計画されていなかったのです。

私たちの多くは、自分は人の役に立っているというよりは、人のお荷物になっているのではないか、と感じています。多くの者は、自分は計りにかけられて「足らない」と言われたように感じているのです。でも主は、そのような私たちの理解、思いを完全に変えたいと切に願っておられます。私がロンドン旅行から帰ってから、ずっと主は私に語ってくださっています。少し前に主は「あなたは女王です」と私に言ってくださいました。ボブ・ジョーンズ師は毎朝鏡を見て、「私はまことに美しい」と言うそうですから、彼がそう言えるのなら私も「私は女王だ」と宣言できるのではないかと思うのです。(笑)私たちは自分を卑下するような思いから解放してくださいと主にお願いせねばなりません。

 

私は人からよくこんな質問をされます。(皆さんは絶対しないでくださいね。)「ジュディーさん、リック・ジョイナーさんと結婚しているというのはどんな感じなんですか?」(笑) リック・ジョイナーは確かに素敵で私は彼を心から愛しています。彼はすばらしく驚くべき人だと思います。結婚して35年たちました。でも彼は神様ではないのです。(笑)彼は主ではありませんし、私の主でもありません。これはとてもシンプルなことですが、これを悟るのに私は随分長くかかったのです。というのは、私が彼と結婚したのは19歳の時でした。私は彼にどこまでもついて行こうとしましたし、彼が私のすべての必要を満たしてくれることを期待しました。彼を私の主としてしまっていたのです。それで私は自分と主との関係を深めるという努力をしませんでした。

そのような主人との関係は少しの間はうまく行きました。でもやがてうまく行かなくなったのです。うまく行くようには始めから計画されていないからであり、神が私たちのために備えられた道ではないからです。主は私をそのような場所からもっと前進させたかったのです。

 

主は第2コリント6:18で、「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。」と言われています。また、ホセヤ2:16では「その日、—主の御告げ。—あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。」とあります。

主はこのお言葉通りに私たちの父となり、私たちの夫となりたいと思っておられます。私たちの人生の中で、実際にそうなりたいと願っておられるのです。主はあなたの夫になりたいのであって、バアルにはなりたくないのです。私は夢の中でバアルを見たことがあります。それは本当にいやーな姿をしていました。夢の中で私はバアルに殺されそうになりましたが、一人の人が来て私のために命をささげ、バアルの霊と戦ってくれました。その人の姿はイエスのようではありませんでしたが、私にはそれがイエス様だとわかりました。イエス様は私がバアルの霊に打ち勝つように命を捧げてくださったのです。

 

バアルの霊はあなたをさげすみ、あなたを押しつぶそうとします。そしてあなたが自分を計りにかけて「自分は足らない者だ」と言うようにするのです。

みなさんの今までの人生がどうようなものであったか私はわかりません。一人ひとり違う人生を歩んできたと思います。酷い父親だったけれど、夫はすばらしい人かもしれません。やさしい父親だったけれど、夫は酷い人かもしれません。あるいは酷い父親で酷い夫かもしれないし、すばらしい父親ですばらしい夫かもしれません。或いは父親がなかったかもしれませんし、夫がいないかもしれません。

でも、そういうことはまったく関係ないのです。すべてのことに対する解決、答えはみな同じです。すべての傷の癒しがあり、傷に塗るギルアデの乳香があるのです。あなたは癒されて前に進むことができるのです。過去のことはもう終ったのです。

神が私たちの父であり、夫であることを知ればいいのです。神は絶対にあなたを虐待しません。神はすべてにおいて完全なすばらしいお方です。このことを神はあなたにしっかりと知ってほしいと切に望んでおられます。(終)

 


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