Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
06 03月
宗教の霊に打ち勝つ ― その2
リック・ジョイナー
大いなる惑わし
宗教の霊の惑わしの性質の中の最たるものの一つは、それが人々の神への熱心さを土台にして働くということです。私たちは「神への熱心さが悪いことなどあり得ない」と考えがちです。しかし、「私たちの神への熱心さは何が理由か」ということが実は問題なのです。
パウロはローマ10:2で「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」と言っています。パリサイ人ほど熱心に祈り、断食し、神に関することに熱心であった人たちは世界中探しても他にはいませんでした。しかし、神に対して、またメシアなるイエスが来られた時に、彼らほど激しく攻撃した者もいなかったのです。
タルソの若者サウロが神の教会を迫害していた時、彼は神への熱心さに突き動かされていました。 本当に熱心な者を止めるのは難しいものです。そのような者に対する敵の策略は、彼らが熱心さのあまり行き過ぎるようにさせることです。敵の策略の第一ステップは、彼らが自分の熱心さを誇るようにしむけることです。私たちに与えられた賜物や特質がいかにすばらしいものであっても、敵にそそのかされてそれを誇るならば、私たちは敵の手に落ち賜物を悪用するようになるのです。
主が地上におられた時、 主にとって悪霊は全く問題ではありませんでした。悪霊がイエスに出会うとすぐさま主の権威を認め、憐れみを乞うたのです。驚くべきことに主の最大の敵となったのは、熱心で保守的な宗教家たちのグループでした。神の御ことばに最も熱心であった者たちが、御ことばなるお方が肉体となって彼らの間に住まわれた時、御ことばを十字架につけたのです。今もそれと同じことが起こっています。
すべてのカルトや偽りの宗教を全部合わせたとしても、今までに教会内に侵入した宗教の霊ほどには神の働きに対して攻撃をしたり阻んだりはしませんでした。カルトや偽りの宗教は容易に識別が出来ます。しかし宗教の霊は、 今までに起こった恐らくすべてのリバイバルやムーブメントを邪魔したりその道を曲げて来ました。そして今も殆どの教会の中で大きな顔をして居座っているのです。
宗教の霊が足がかりとする土台
他の多くの敵の要塞と同じように、宗教の霊は基本的に二つの土台の上にその働きを建て上げます。即ち「恐れ」と「プライド」という土台です。私たちがイエスの十字架を通して神に承認され受け入れられるという道ではなく、主に承認されるために自分が働くようにと宗教の霊はクリスチャンをしむけるのです。ですから宗教の霊は私たちと神との関係を、キリストの十字架による生け贄によるのではなく、自分の努力によって築かせようとします。このように私たちを駆り立てる動機は、恐れ又はプライド、あるいは両者が合わさったものです。
恐れとプライドは、人類が罪に堕ちたことよって起こった二つの根本的結果であり、それから解放されるためには通常長いプロセスを要します。主がイザベルにさえ「悔い改める時(黙示録2:20−21)」を与えたのはそれが理由です。聖書の中のイザベル(アハブ王の妻)は非常に宗教熱心な女性でしたが、それは偽りの宗教でした。 彼女が悔い改めるための時を主が与えたのは、この霊の根が非常に深いからであり、完全に悔い改め解放されるには時間がかかるからでした。
しかしながら、主はイザベルに時間を与えはしましたが、テアテラの教会に対して、彼女をなすがままにさせていることを(20節)叱責しておられます。私たちが宗教の霊を持つ人たちに対して忍耐することはよいのですが、彼らが悔い改めをするのを待つ間、 彼らが私たちの中で働くのを放っておいてはいけないのです! もし、この霊に対して早急に対処することを怠るならば、それは他のどんな攻撃よりも、教会に、私たちのミニストリーに、家族に、又私たちの人生にダメージを与える可能性があるのです。
罪責感という土台
サムエルを育てた祭司エリは、罪責感を土台とした宗教の霊で神に仕えた人のよい例です。彼の主に対する熱心さは非常に激しかったので、契約の箱がペリシテ人によって奪われたことを知らされた時、ショックで倒れ息絶えたのでした。彼は一生の間、大祭司として主に仕えようと努力した人でした。サムエルが初めて預言を与えられた時、その預言は聖書の中で最も恐ろしいものの一つであり、しかもそれはエリに対するものでした。(1サムエル3:13−14)エリの主への熱心さは、彼が父親として無責任であったことの代償として生け贄や捧げものをするという形であらわれていました。罪責感は主への熱心さに拍車をかける作用をし、生け贄や捧げものは自分の失敗や罪を贖うためのものとなります。イエスの十字架のみが私たちの罪を贖うことができるのですから、これは十字架に対する侮辱です。このような熱心さは、たとえ 生け贄を永遠に捧げ続けたとしても、決して主に受け入れられるものではありません。
主はここで「エリの罪は赦されることはない」とは決して言っておられないことに私たちは注目せねばなりません。主はただエリが生け贄や捧げものをすることによって自分の罪を贖おうとする試みは絶対に成功することはない、と言われたのです。エリと同じように、 自分の罪や失敗、無責任な行動等を償おうと
することを土台とした主への熱心さをもつ多くの人々がいます。しかしながら、世界中すべての生け贄をもってしても、ほんの小さな失敗さえも贖うことはできません。
自分の生け贄によって神に受け入れられようとする試みは、宗教の霊にむかって大きく扉を開くことになります。なぜならばこのような奉仕はイエスの血潮を土台としておらず、自分で罪の贖いをしようとするからです。もちろんこれは私たちが主を喜ばせるために働いてはいけないという意味ではありません。しかし、主を喜ばせたいという私たちの動機は、それによって自分が受け入れられるためであってはならないのです。主が喜んでくださることだけを目的とすべきです。一方は神を中心とした動機であり、他方は自分を中心としています。これは十字架を回避しようとするものであり、自分中心の非常に破壊的行為です。(続く)
18 02月
宗教の霊に打ち勝つ
リック・ジョイナー
パート1.宗教の霊を識別する
神の第一の命令は神を愛することであり、それが私たちに与えられた最高の賜物です。第二の命令は隣人を愛することです。律法全体はこの二つの命令を守ることにより成就されると主は言われました。即ち、この二つの命令を守るならば、すべての律法を全うできます。(マタイ22:34−40、ローマ13:8参照)
もし私たちが主を愛するならば偶像を拝みはしないでしょうし、もし隣人を愛するならば、妬んだり、盗んだり、殺したりはしないでしょう。ですから、この二つの「愛しなさい」というポジティブな命令を守ることによって、 すべての「〜するな」というネガティブな律法を成就することができます。
もし神への愛があるならば、それだけで私たちの心の中の殆どの悪を克服することができるでしょう。そしてそれこそが世の中の悪に対する最もパワフルな武器です。神を愛することが私たちの最も崇高なゴールであり、それが人生の第一の焦点であるべきです。サタンの教会に対する最大の偽り、致命的な打撃の一つが、この究極的な追求の道から私たちをそらすことである理由は、実にそこにあるのです。敵の策略は、私たちが人生の「悪」にばかり目を留めるように仕向けることであり、それによって私たちは、自分が見つめるものに似ていくことを敵は 知っているからです。(第二コリント3:18参照)私たちが「悪」だけを見ている限り、敵は私たちを自分の支配下においておくことが出来ます。私たちが主を見つめ主の栄光を見るならば、私たちは主の似姿へと変えられていきます。
これは私たちが人生の罪や間違いを無視するということでは決してありません。実際に聖書では、私たちは自分自身をよく吟味して、いつも信仰に立っているかどうかを吟味するようにと命じています。問題は罪が見出されたときに私たちがどう対処するかというところにあります。善悪の知識の木に答えを求めるのか、それともいのちの木に行くのか、です。即ち、自分を改善することによって神に近づこうとするのか、それとも、イエスの十字架のもとに行き、赦しと罪に打ち勝つ力をそこに見出すのか、ということです。
敵の一番の策略は、私たちが(人の)悪にばかり眼が行くように仕向け、それが善いとか悪いとか言う知識の木から食べるようにすることであり、そうすることによって、私たちが主の栄光と十字架から目を離れさせることにあります。この敵の策略が「宗教の霊」という形でやって来ます。これは、私たちが神への真の愛と礼拝をしているかのように見せかけ、そう思わせる偽りの悪霊です。この悪霊は恐らく、 ニューエージやすべてのカルトが今まで教会に与えてきた打撃を全部合わせたよりも大きな打撃を、教会に与えて来ました。
宗教の霊の特質
宗教の霊とは、私たちが宗教的な活動を多くすればするほど、それが私たちの人生を通しての聖霊の働き(そのもの)であると思わせる「代替え、すり替え」の悪霊であり、その一番の目標は「見えるところは敬虔であってもその実(power)を否定する者(第二テモテ3:5)」と教会を貶めることです。使徒パウロはこの箇所を「こういう人々を避けなさい」という言葉で結んでいます。宗教の霊は「パリサイ人とサドカイ人のパン種(マタイ16:6)」であり、主が弟子たちに警告されたものです。
主は喩えを用いて教えられることがよくありました。宗教の霊はパンの中のパン種のように作用します。パン種はパンに栄養を増し加えることはなく、ただ膨らますだけです。宗教の霊もそれと同じことをします。教会にいのちや力を増し加えることは全くなく、ただ単に人のプライド(これは最初の罪の堕落やそれ以来のすべての堕落のもとになっているものです)を膨らますだけです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる(ヤコブ4:6)」という真理を、サタンは教会よりもよく理解しているように思われます。神はプライドによって膨れ上がった人の業の中には住まわれないこと、神ご自身がそのような業を退けられることを、サタンはよく理解しています。ですからサタンの策略は私たちに(自分で事を行なうことに)プライドを持たせることであり、それが良いことに関してのプライドであっても、例えば聖書を自分はどれだけよく読むとか、証しをするとか、飢えた人に食物を与えるとかということに対するプライドであってもプライドであることに変わりありません。もし私たちが神のみ心をプライドを持って行うならば、その業はかえって神の御国を阻むものとなり、ついには堕落への道になりえることをサタンは知っています。
サタンは又、一旦パン種がパンの中に入ってしまうと、それを取り除くのは非常に困難であることも知っています。プライドはそれが持つ性質により、取り除いたり矯正したりするのが最も難しい要塞となります。宗教の霊は、「神の御心や今神が言われておられる事、又何が神を喜ばせるかという事を自分はすでに知っている」と私たちに思わせることによって、私たちが神の御声を聞くことを妨げます。この惑わしは「神は私たち人間と同じような方である」と私たちが思うことに由来します。宗教の霊は又、「聖書の中にあるすべての励まし、叱責、矯正の言葉は、自分のためではなく他の人々のためである」と聖書を理解させるように働きます。
もし、宗教の霊があなたの問題であるならば、この本をここまで読んで来て「このメッセージは誰それにとってとても大切だ」と多分すでに考え始めておられることでしょう。この本はあなたに必要であるからこそ、神はあなたに渡されたのだ、ということなど思いもつかないのです。しかし実際は私たちすべてにとってこのメッセージは必要であり、宗教の霊という敵は私たち全員が程度の差こそあれ 戦わねばならない相手です。この破壊的な力を持つ偽りの霊から解放され自由になることは私たちにとって不可欠であり、そうなるまでは私たちが主を霊とまことで礼拝することは出来ません。
この悪霊の非常に強力な惑わしから私たちがどれだけ解放されているかという度合いが、 私たちがどれほど力強く真の福音を語れるかどうかを直接左右します。教会が宗教の霊に立ち向かう戦いは、終末の時代における大きな戦いの一つとなることでしょう。すべての人がこの戦いの中に突入し、一人ひとりがどちらの側に属しているのかがこれから決められていきます。自分が暗闇から解放されていなければ、人々を解放する権威を持つことは出来ません。この膨大な敵を克服し始めるためには、主が私たちの上に光を照らしてくださるように願い、宗教の霊がどのように自分と関わっているかを示していただかねばなりません。主がパリサイ人たちと常に戦わねばならなかったことから明らかなように、教会が始めから最も戦ってきたのは実はこの霊であるのです。パリサイ人の性質の中で最も顕著なものは、自分自身の欠点には盲目であるのに、他人の対しては悪いところばかりを見ることですが、宗教の霊は私たちをそのようにしむけます。(続く)
10 02月
益々強くなる主の臨在
フランシス・フランジペン
悔い改めようとしない世界が大艱難を受ける運命にある事を私たちは知っています。しかし、いのちがあり真に祈っている教会は、もし人々がキリストに似る者にされていくならば、 真のクリスチャンには携挙が起こる前に地上で大いなる栄光のシーズンが訪れるのです。
この聖なる目的をご理解いただくために、私が1973年に主と出会った時のことをお話させてください。 私はハワイで小さな教会の牧師をしていたのですが、それは神に近づくための激しい祈りと長い断食をした月のことでした。この期間が終るとき、夜中に主が来られ、私は起されました。主の姿を目に見える形で見たというのではありません。私は主の栄光を見、主の臨在の強烈な炎で圧倒されたのです。直ぐに私は死んだようになり、指一本動かすこともできませんでした。しかし霊においては、私の意識・感覚はそれ以来経験しなかったように高揚しシャープになっていました。私は黙示録にある「その回りも内側も目で満ちている生き物(4:8)」になったようでした。
私は「内側の目」で、自分自身の義の真の姿を見ました。私がその時まで祈りと断食をしていたことを思い出してください。私は自分は満更でもないと感じていました。しかし突然私の人生の中の欠点が耐えられないほどに鮮明になり、途方もなく罪深いことがわかりました。私の罪は「時々犯してしまうもの」ではなく、私は絶えず罪深いことがわかりました。もっと愛情深く、もっと親切で、もっと人の気持ちが分かるべきであった時のことを沢山私は見せられました。又、私のほとんどすべての行動がいかに自己中心であったかも見ました。
しかし私のうちの大いなる闇にも拘わらず、主からの叱責や断罪を全く感じませんでした。私の罪を告発する天からの声もありませんでした。 断罪する唯一の声は私自身の声だけでした。主の臨在の光の中で私は自分をさげすみました。(ヨブ42:6参照)
自己義認や欺瞞もない全くの裸の状態で、私は自分がいかに主の栄光にはほど遠い者であるかを見ました。人類がどうしてキリストの血潮を必要としているのか 、又いかなる努力をしても私がキリストのようになることは絶対に不可能であることが分かりました。心の奥底からキリストのように生きることが出来るのはキリストだけだということを理解しました。神のご計画は私を改善することではなく、私はとり除かれ、主イエスご自身が私を通して実際に生きてくださることであったのです。(ガラテヤ2:20)主の内住 にのみ、私が主のようになる希望はあるのです。
そして外側の「回りの目」で、 寝室のビリビリと電気が走っているような空気は、本当は非常に遠くにあるものから発っせられていることが分かりました。しかし、遠くからではあってもキリストの臨在から発せられるものは、私の意識では、燃える火のように強烈に感じられました。天の生きものの行進が夜空から下りてきました。私は天が地上に下りて来ているのをかいま見ているのであることが分かりました。
列の先頭にはあらゆる種類、階級の天使がいましたが、それぞれが特別の輝きを放っていました。先頭から三分の一ほど後ろに主がおられ、主の後ろには数えきれないほどの聖徒がいました。しかし私は主の栄光を奥深くまで見ることができませんでした。というのは、主に従っている者たちが主のからだの一部となっていたからです。
主は地球を裁くためだけに来られたのではなく、この世を主の栄光で満たすために来られたのです。繰り返しますが、主は遠く離れておられましたが、主の臨在の輝きは私の意識上で生きて燃えている火となっていました。そのエネルギーは痛いほどでした。
すると、何の前ぶれもなく行列が近づいてきました。私に近づいたというだけではなく私たちの次元に近づいたのです。それはあたかも一つの時の線が越えられたようでした。直ぐに私は主の臨在の激しさに全く圧倒されてしまいました。もう一瞬たりともこれ以上主の栄光が激しくなるのを耐えることはできないと感じました。私の存在そのものが主の輝きの熱風で燃え尽くされてしまうようでした。私は今までに口に出したこともない深い祈りで、主に私を私の身体にもどしてくださりと懇願しました。すると直ちに、憐れみによって、私は再び私の感覚が慣れた世界に、私の寝室にいました。
これが意味するもの
夜が過ぎ明け方になりました。私は早く起きて服を来て外に出ました。一歩一歩、私はヴィジョンのことを思い巡らしながら歩きました。太陽が東の空に上った時、それに目を止めるようにと主が促されました。太陽を見たとき私は、太陽の光と主の栄光との共通点がわかりました。詩編19:1の「天は神の栄光を語り告げる」という言葉を今までとは違う意味で悟りました。
太陽は地球から9300万マイルも離れているにも拘わらず、私たちはその熱を感じその光の中で生きています。考えられないほど遠いけれど、そのエネルギーはここにも届いています。それは私たちを暖め、その光のなかでこそ私たちのいのちは存在しています。天にある主の栄光のからだから発せられる主の臨在も、それと同じようなのです。物理的には主は遠くにおられるのですが、時として私たちは主の臨在の光線をここで感じるのです。私たちは実に主の愛によって暖められているのです。太陽の光のように、キリストの栄光は、主が天にいて私たちから離れておられるならば「安全」です。
でも想像してみてください。もし何十年かの間に太陽が徐々に地球に近づいてきたらどうでしょうか。ラディエーション(放射エネルギー)、熱、光は劇的に増加します。近づくにつれて、今の世界は激しく変化するでしょう!
それと同じように、主イエスご自身と主の千年王国が近づくならば、この世界は霊的に劇的に変化するでしょう。主の臨在の輝きは私たちの世界をつつむ霊的領域にどんどん増し加わって注がれるでしょう。そして「天の万象が揺り動かされる(マタイ24:29、ヘブル12)」だけでなく、今までの世界そのものも劇的な変化を経験するでしょう。
もし太陽が近づくならば、熱と光が増し加わり、私たちはもうそのことばかり考えるでしょう。義人は主の臨在により「栄光と誉れと平和(ローマ2:10)」を経験しますが、その栄光は悔い改めのない世界には恐ろしい「艱難と苦悩(9節)」をもたらします。邪悪な者達は山や岩にむかって「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:16)」と叫ぶのです。
罪の中でかたくなになった者たちは、恵みによって悔い改めるか、もしくはパロのようにもっとかたくなになるでしょう。しかし粘土をかたくする太陽は、バターを溶かすこともできます。ですから主が近づかれるとき、義人の祈りは「私たちを小羊の臨在で満たしてください!」というものとなるでしょう。キリストの臨在だけがこころを満たすものとなるのです。主を愛する者は主の喜びをもっと味わい、天の蜜を味わうでしょう。主を喜ぶ者も主に敵対する者も、すべての人の心は神への思いで一杯になるでしょう。
マラキ4:1−3にある通りです。
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。—万軍の主は仰せられる。—しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。—万軍の主は仰せられる。—」
同時に二つの出来事が地上で現実となるでしょう。その二つともが「永遠の源」による結果です。ますます増加する臨在が悪者の上に怒りをもたらし、義人の上には神の栄光を顕すのです。私たち主を恐れる者のためには「義の太陽」が上り、その光には癒しがあるのです。(終り)
31 01月
終りの日の勝利者(2-2)
ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis
それでは1967年より前に同じことがいつ起こったかと言えば、それは1948年と49年です。この1948年はイスラエルが独立国となった記念すべき重要な日です。しかしそうなると、その前に起ったのはいつかと言う当然の疑問が出ます。それは、1948年から300余年も前になり、そのもう一つ前は1493年ローマ・カトリック教派で異端者(特にユダヤ人)を裁判するInquisition と言われる宗教裁判がスペインであった年で、確かにユダヤ人にとっては大きな出来事のあった年です。しかしこのような詮索には余程注意する必要があります。さもなければ2014年とか15年に世の終わりが来るのではないかと憶測し、必要以上に騒ぎ立てる人が出て来かねないからです。
確かに2015年は預言的観点から見た教会史上では重要な変動が起きる(神の)パターンは継続していると言えます。しかし、2015年は何が起るのかは私にはよく分りません。これから来るべき世の終わりの大ハーベストが始まってもいないのですから、少なくとも世の終わりが来るには早過ぎると思います。ところで、2015年にはもう一つの天に現われる徴signがあります。それは、イスラエルにおける二つの新年を祝う祭日に日食が起こることです。神の暦による新年は過ぎ越しの祭りですが、2015年は3月20日です。又ユダヤ暦ではロッシュ・ハシャナの祭日が新年で、それは9月13日。この二つの新年の祭日に同じように日食が起こることになっています。
しかし、それよりも重要と思われることは、この2015年が「第50年目のヨベルの年」Jubileeに当たることです。50年目とは、7年X7回=49年が経った翌年の50年目の年に、自分自身を奴隷として売った負債の義務、あるいは自分の土地に対する負債が無効となり「開放」される年です。2015年がそのヨベルの年となる計算の根拠は、1967年エルサレムを奪還した6月7日から数えて49年、すなわち49年X1年360日=17,640日経った日がちょうど2015年9月23日になり、この日がたまたまその年の「贖罪の日」Day of Atonement・ヨム・キプールと呼ばれる重要なユダヤの祭日の一つなのです。従って2015年9月23日の贖罪の日に何かが起こる可能性が充分あると考えられる訳です。
私にはこの日が何を意味し何が起るのかは分りません。しかし、昨夜のメッセージでカマル兄弟は、2013年から始まる3年間の後には教会は存在しないと言われたのです。
それに関して私は、今の時代に残されているレムナントの一団に対する聖書の言葉をみたいと思います。それはハガイ書で「主はユダの総督ゼルバベルの心と、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせた・・・」(1:14)とあります。私は今、主が私たち残りの者を奮い立たせようとしているシーズンにいると信じます。私たちがこれからどこに向かっているのかはわかりませんが、奮い立たせている時は進む時であり、同じところに留まる時でないことは確かです。
私は2013年とはまさしくモーセのように雲の柱に導かれて、これからの時代における「獅子の口をふさぎ、火の勢いを消す」信仰の勇士たちであるひとかたまりのレムナントremnant companyが移動して前進する年であると信じます。このレムナントについて一つ言えることは、彼等は決して「生まれ付き出来上がっていて、苦労しないで来た」人たちではなく、むしろ地獄のような(信仰の)試練の中を通って来た人たちであることです。
自分のことを例に挙げるのは気が進みませんが、私にとって今年は困難な年でした。海外に多く出かけ、一年間に186,000マイルも飛行機に乗りました。その結果、言ってみれば私の車輪の一つが外れてしまいました。私はそれまで健康には全く問題なかったのですが、昨年9月の初めに突然気分が悪くなり、呼吸困難に陥って、通常の運動も出来なくなりました。医師に診て貰うと、彼は誤診をして肺炎だと言い、抗生物質をたくさん呑まされた結果、病状はさらに悪化しました。一ヵ月後の再検査で分ったことは、私の病気はサーカドーシスと言う肺と心臓に関する疾患でした。それまでの2-3ヶ月の間は私の脈拍が1分間に140回と言う速いものでした。正確に言えばそれは脈拍を打つと言うより「震えている」状態であると言われたのです。そこで私は三日間入院し、心臓の震えを平常のリズムに戻すためにカーディオバートと言うショック療法を受けることになりました。それを三回やったのですが、最後が10月21日でした。それから12月26日までは私の状態はよかったのですが、12月12日に私はモーニングスターを訪ねました。そこに私の可愛い孫娘イザベラが来ていて(その孫娘の母親である私の娘がモーニングスターで働いています。)私たちに預言を書いたきれいな紙切れをくれました。それにはこう書いてありました。「おじいちゃん、おばあちゃん、神様はあなたを愛しています。このクリスマスには神様があなたと共におられます。」これは二通りに解釈出来ます。(会場笑う)そしてその後に聖書を引用して次のように書いてあったのです。「About 9th hour, Jesus cried out,saying ”My God my God, why have you forsaken me? – 三時ごろ、(9時を指す)イエスは大声で・・・・『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』」(会場は爆笑)それを見て妻のワンダが「あなたは病院でうなってそう言っていたではありませんか。」と言いました。
そうしているうちに12月26日が来て私の病状は急に悪くなりました。家には家族が全員集まり、私の脈は140-185を打っていました。そこで私たちは主に期待して祈ったのですが、何も起りません。その日は夜までずーっと悪く、翌朝はさらに悪化しました。そして私の医師の事務所が開く9時が来ましたので電話をしました。その結果、その翌日に病院でもう一度ショック療法をしてもらう手はずが整いました。医師との話し合いがついた後、9時半ごろでしたか、私たちは孫娘を泊まっているホテルに送って行きました。そこで孫娘が私たちのために小さな祈りをしてくれたのです。
私はその時、前夜自分がどれ程の状態であったかを思い出していました。私はトンネルの中にいて、今にも私は自分の身体を去ろうとしていたのです。それは夜中の三時ごろの最悪の時でした。すると車を降りた孫娘が「おじいちゃん、私は神様がおじいちゃんを助けて下さるようお祈りしました。」と言い、私たちは別れました。それから2ブロックも走った所で私は自分の心臓が波打っていないことに気が付いたのです。胸に手をあててみると私の心臓は全く平常に戻っていました。そこで思い出しました。9歳の孫娘が預言してくれたAbout 9th hour 9時頃、実際は9時半過ぎに私の心臓は癒されていたのです。
多くのことを省略しますが、預言的に見て、この9th hour に何かメッセージがあるように思うのです。イエスが十字架上で叫んだ時、その午後三時(9th hour)は神殿で夕方のささげものをする時間でした。その至聖所の前の幕が真っ二つに裂けました。父なる神への通路が開かれた。言い換えれば、その前に一つの命があり、この瞬間を境にして、その後に新たな別の命が存在するようになったのです。私はそれが及ぼす意味についてここでは申し上げませんが、この瞬間9th hourに人間のすべての罪をイエス・キリストが洗われたことによって人間の罪が絶滅され、以降、神の義が私たちが受ける遺産となりました。この9th hourに起こったことによって、人間の歴史に一大変革が起きたのです。
そのほかに、エリヤがカルメル山で450人のバアルの預言者たちと対決たし際に、エリヤが天に向かって祈った時が9th hourでした。神は、その祈りに応えて天から火を降らし、エリヤがささげた全焼のいけにえを焼き尽くしたのでした。(1列王記18:36)その結果、イスラエルにリバイバルが起きました。9th hourを境にチェンジ或いはシフトが起ったのです。
又、捕囚のイスラエルの民が大きな不信の罪を犯しているのを聞いて、エズラがその民の罪に対し涙を流して悔い改めととりなしの祈りを神にささげたのも9th hourでした。その結果リバイバルが起きました。(エズラ記9:5)又、ダニエル書9:21-27に書かれていますが、ダニエルが民の犯した罪を告白しとりなしている時、御使いガブリエルが現われ、ダニエル七十週として知られている重要な知恵(預言)をダニエルに授けたのも9th hourです。これらを見て分ることは、9th hourに神は、非常に意味深い、物事とか時代における「シフト」あるいは「トランジッション」(移り変わり)を起こされているのです。
このパターンが正しければ、今私たちはこれから起ころうとする9th hourのイベントの直前に立っております。その意味は、仮庵の祭りに関連して預言的に暗示されているイベントがこれから現実に起ろうとしていると言うことです。仮庵の祭りは復原restorationの祭りと言われ、神殿が復原された時、仮庵の祭りを祝い始めるようになりました。ソロモンは仮庵の祭りの最中に神殿を完成して主にささげました。その時主の栄光が宮に満ちて祭司たちは立っておられなくなりました。皆さんもそのような経験をしてみたいと思いませんか。私はそれが実現する時に今向かいつつあると信じます。
新約の時代では、ペテロとヨハネが9th hourに宮に入って最初の使徒的癒しを行ないました。(使徒行伝3:1)又、最初の異邦人コルネリオが御使いに出会って救いに導かれたのも9th hourでした。(使徒10:30)そうであれば、私たちも「9th hourの遭遇」を祈ることが出来るはずです。私はたった今分ったのですが、このモーニングスターの人たちの中で、私と同じように26日に3人の人が同じような心臓関係の疾患で倒れたと言うことを聞きました。それも何かの意味があるのではないでしょうか。
最後にチャンピオンの心臓についてお話をして終わりたいと思います。2002年に私は Book of Destiny と言う本を書きましたが、その本の最後に競馬馬として有名なセクテリアットの物語を紹介しました。皆さんの中でこの馬の映画を見ていない人がおられますか?(ほとんどいない)その馬の心臓については? セクテリアットは競馬史上最大のレースを走った馬です。それはベルモント・ステーキにおけるレースで、1マイル半のレースを2分24秒で走ったのでした。この馬はアメリカの三大競馬であるケンタッキー・ダービーとプリークネス・ステーキ、それにベルモントの三つをいずれも記録的なスピードで優勝しました。(その記録は未だ破られていません。)
このセクテリアットはベルモントのレースで勝つことはあり得ないと言われていました。なぜなら、身体が大き過ぎてこれだけの長距離レースを早いスピードで走り切ることは不可能と言われていました。下馬評では、このレースの勝ち馬は間違いなくSham と言う馬であると言われていたのです。このシャムと言う名の意味は贋物とか模造品と言う意味ですから、まるで作り話のようですが本当の話です。
レースが始まるとこの二頭の馬は始めから飛び出し、第一コーターの時間は今まで二頭の馬が競走して走ったどの記録よりも速いものでした。しかも第二コーターでは、どちらも第一コーターを上回る記録的猛スピードで通過しました。セクテリアットの騎手は、この馬は自分のペースで自分自身の時間で走る馬であると言いましたが、その日の朝起きると、今日こそは自分の日が来たことを自分で決めたかのように、朝から激しくいななき、直ぐにでもレースに出られる勢いであったそうです。それはあたかも、自分はこの時のために、今日のレースを走るために生まれて来たことを知っているかのようでした。これは何とすばらいいチャンピオンの姿imageではありませんか。どうして分ったのでしょうか。創造者がそのように決めておられたとしか言いようがありません。
第三コーターにかかるとセクテリアットは益々ペースを速め、他の馬を20馬身も引き離しました。実況解説者たちはこぞってスピードを落とせ、こんなスピードで走って倒れなかった馬は今まで一度もないと叫びました。
しかしこれは本当にあったストーリーですが、このレースでの真のヒーローは、エディーと言うこの馬の世話人(馬に親しくささやく人whispererとも言う職業)でした。彼は前の晩から泊り込み、この馬の傍らで寝ていたのですが、彼の書いた本によると、彼は明け方に夢を見たそうです。その夢で、25馬身ほど離して独走しているセクテリアットが、第四コーターを回った後に突然倒れました。彼はそこで冷や汗をびっしょりかいて目が覚めたそうです。彼は咄嗟に何とかしなければならないと思い、必死で祈り始めたました。これこそ絵に描いたような今日のとりなり手の姿です。
25馬身離したセクテリアットは、スピードを落す替わりにもっとペースを速めたのです。騎手が後でインタービューされた時、聞き手が、どうして25馬身も引き離して、勝利は間違いないのにあそこでスピードを落さなかったのかと聞くと、騎手は「私は全く関係なかったのです。(私がどう指示しようと)この馬は全く自分自身のペースで走り続け、私は落馬しないのが精一杯でした」(笑い)と答えました。セクテリアットはその通りに第四コーナーを回ってゴールに向かって走り続けました。ゴールに達した瞬間も、彼はスピードを上げ続けていたのです。
セクテリアットは19歳で死にました。死後の解剖で分ったのですが、死んだ時この馬の心臓は全くの健康な心臓でしたが、そのサイズが大きくなっていて、重さ22ポンド、通常の平均より2.5倍大きかったそうです。通常心臓が肥大することは健康とは言えません。しかしこの馬の肥大した心臓はパーフェクトに健康な状態であったのです。‘
2002年に書いた本book of Destinyで私は、勝利者の一団a body of overcomers-神のチャンピオンたち-について書いたのですが、その人たちの心臓(英語でハート、そのハートの日本語は心)は他の人たちとは(大きさが)違うことを述べました。私はよく分りませんが、神は今私たちのハート(心)の問題を取り扱おうとしておられるのかもしれません。私は2002年に上記のハート(心)、特にセクテリアットの大きくされた心臓のことを書いた後に導かれた聖書の御言葉が、「わたしの心に適った者」と神が言われたダビデの次の言葉です。「あなたがわたしの心を広くされる(大きくされる)とき、わたしはあなたの戒めの道を走ります。」(詩篇 119:32、口語訳)ここで「心を広くされる」とは心を大きくするenlarge my heartと言う意味です。この御言葉に導かれた時に私はショックを感じました。
(ここで祈りに入る。)主よ今朝、どうぞここに集まっている私たちの心を大きくして下さい。そして心のキャパシティーを増して下さいますように。皆さん手を胸(心臓)の上に置いて下さい。主よあなたが今朝私たちの心の大きさについて語っておられます。主よ、今私たちの心のすべてをお受け取り下さい。私たちの心はあなたのものです。私たち自身も私たちのものではありません。あなたが払われた代価で買われています。私たちは私たちの肉の心臓と霊の心をあなたに差し出します。そしてどうぞ今ここにおられる方、又テレビ中継を見ておられる方々の心(心臓)のキャパシティーを大きくして下さい。そして私たちの心を挑発して奮い立たせて下さい。主よ、私たちの心は燃えたではありませんか。イエス・キリストの啓示が今の時にあらわれます。主よ、あなたは神の御前に立っている御使いをこの地上に送ると言われました。どうぞその御使いが私たちの心に燃えている炎をもっと煽って下さいますように。あなたの信仰のメッセンジャーが地上のメッセンジャーを生み出し、あなたの御言葉がその唇に与えられ、あなたのパワーフルなメッセージを声を出して伝えさせ、悪しきものの根を抜き、取り壊し、破壊してしまうと同時に、(信仰を)生まれさせ、建て上げる御言葉も語らせて下さい。エゼキエル36章にあるように、主よ私たちの心にきよい水を振り掛けて下さい。
主は1ヶ月前に、2013年に2012年の荷物を持ち込まないことを、人々に伝えるようにとおっしゃいました。わたしはあなたがたにめぐみの力を与えるので、あなたの過去のすべての汚れたものをきよめて白紙の状態で新しい年を迎えなさいと言われました。今私たちはそれぞれ主にお願いして、汚いもの、よくない決定、よくない行動、よくない態度を取ったことに対してすべてのことをイエス・キリストの血潮できよめられるよう今朝お願いして下さい。そのために主は年の始めに当たってめぐみの断食の時を与えて下さっております。主は、「あなたがたはすべての汚れからきよめられる、すべての偶像のけがれからあなたがたをきよめる、そして、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊を授ける」と言われます。どうぞ今、私たちに新しい心を下さいますようにイエス・キリストの御名でお祈りします。(終り)
27 01月
このメッセージはモーニングスター・ミニストリーの「ニューイヤーズ・コンフェレンス」の二日目、12月30日(日曜日)朝のメッセージです。
終りの日の勝利者(1-2)
ポール・キース・デイビス Paul Keith Davis
本朝は、何かが起ると信じております。天が開いて主がここに降りて来られるのを期待します。私の願いは天が開いてヨハネが見たように主を見ることです。私はそのことを一日も欠かさず毎日祈っています。
私は、七つの金の燭台の真ん中に立たれ、足までたれた衣を着て金の帯を締め、その髪の毛は白い羊毛のように、雪のように白く、燃える火のような目を持つ・・・そのような主を見たいのです。その主は、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は太陽のように光り輝くお姿、その右手には神のメッセンジャー(御使い)を抱えておられます。(黙示録1:13-17)皆さんもそのような主を見たいと思いませんか。しかしそのような主を見る前に、私は先ず変えられ整えられ(トランスフォームされ)たいのです。今私たちは、そのような「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンに入りつつあると信じます。ですから、私たちは今、そのような最も大事な場所と時代(タイミング)に生かされている訳ですから、それを実際に経験出来ると信じるのです。
さて、リックと知り合ってから丁度20年になりますが、これまでボブ・ジョーンズも交えて多くの預言の話をして参りました。ところが今までは、いただいた多くの預言が実現するのを信じてそれを信仰で言い続けて来たのですが、多くの預言が実現には至りませんでした。しかし今の時は、それらの預言が成就するシーズンに入ったように思えます。
特に、御国の御子が立ち上がられなすべきことを実行し始める、そしてキリストの花嫁が栄光に輝き、聖められ、七つの霊で油注がれて主と同じ業をするようになる、と言うような重要な預言が実現する、そのブレーク・スルーの時、待ちに待ったカイロス・モーメントが来つつあるのです。
今私たち、特にリーダーの人たちは、信仰の弱い人、真にへりくだっていない人、自己満足と安易な「なまぬるい」信仰生活を送っているラオデキヤの霊に陥っている人々―主はそう言う人を口から吐き出すと言われる通り、クリスチャンがなまぬるいことを最も嫌われます。―そのような人たちを戒め、さとし、整えることによって、主にふさわしい「キリストのからだ」にすることを委任されていると信じます。と言うことで、今朝は黙示録21章を見てみたいと思います。
「 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』
すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」(黙示21:2-8)(この聖句を読んだ後に祈りが続く。)
2010年の終りに、私は自分のやって来たミニストリーの過去を振り返ってみる気持ちになりました。その2年前に私の妻が、夢の中で「あなたがこれから何をするにしても、既に勝利した姿勢ですべてのことを行ないなさい」と言う主の御声を聞きました。いろいろな終末に関する神学がありますが、私たちがすべてにおいて、主にあって既に勝利したことを前提とする信仰の姿勢を持たなければならないと私は信じるに至りました。クリスチャンの信仰の歴史を振り返ってみると、確かに脱落者が出てアポスタシー(背教)が起り中世のダークエイジを通りました。しかしその後に発展的に信仰の回復と(宗教)改革が起り、20世紀の初めに至って著しい聖霊のアウトポアリングを見るに至りました。それが使徒の時代の回復を示す顕著な癒しのミニストリーの再現をもたらしたのです。その癒しのミニストリーの再興に寄与した人の一人にアレキサンダー・ダウイーがおります。私が今回の集会でメッセージを取り次ぐことが決まった時は一週間程しか準備の時間がなく、私は何を話すべきかを主にお伺いしたところ、「アレキサンダー・ダウイーが癒しのミニストリーを開始した時の神による就任式の話をしなさい」とはっきりと言われました。
ダウイーは1875年に28歳で120人程の小さな組合教会の牧師に就任したのですが、その翌年に大きな疫病がその地方を襲い、一年で40回の葬式を出すという事態になりました。死者40人のうち30人が彼の教区のメンバーで、その40人目の葬式を終えて帰宅したダウイーの心は悲しみで引き裂かれ、涙ながらに主の前にひざまずきました。その時彼に使徒10:38が示され、聖書を見るとその箇所が輝いて見えたと書かれています。病を起こすのはサタンであっても、それをすべて癒されたのはイエスである、そのイエスは昨日も今日も、永遠に変わることがないことをはっきりと啓示されたのです。それは彼にとってのカイロスの時となりました。主から電撃的な啓示を得たダウイーには大きな信仰の力が沸いて来ました。その時誰かが玄関をノックするのが聞こえたので出てみると、もう一人の病人が死にかけているから直ぐ来て欲しいとの知らせでした。駆けつけたダウイーは死にかけている少女を前にして、医者に部屋を出て行くように命じ、少女を祈りによって瞬時に完全回復させたのでした。その後は死人は一人も出ず、葬式もありませんでした。
私はこの話を二日ほど前に読んだのですが、昨日もう一度読むように主にうながされて、読み返してみて気が付いたことがあります。それが起ったのは何とニュータウンと言う名の町であったのです。私は忘れていました。勿論ダウイーの場所は違う国、オーストラリヤの町でしたが、つい最近起ったコネチカット州で惨事が起きた町と同じ名前であることを見過ごした私に、主が気付かせて下さったのです。一体それは何を意味するのでしょうか。もしかして、それはダウイーが使徒の時代の遺産を啓示によって改めて受け継いだように、今度は私たちがダウイーのミニストリーの遺産を主の新たな啓示によって受け継ぎ、信仰によって今の危機の火中に飛び込む、そのような新たな信仰に燃える私たちを通してイエスがあらわされる時が来ようとしているのではないでしょうか。当時癒しの使徒と言われたダウイーは20世紀の初頭にアメリカの癒しのミニストリーのパイオニアとなりましたが、同じようにアメリカでニュータウンの名前が浮上した今、新たな使徒のミニストリーを主がこれから起こされようとして、その啓示を与えようとしておられるのかもしれません。
ここで先程言いかけた2010年の終りに、私のミニストリーを振り返り考えてみた時の話にもどりますが、私は当時、過去に自分がして来たミニストリーでは信仰による奇跡とか、主からの啓示を受けることの大切さをいくら強調してもそのようなことに興味を示さない人たちが大勢いる、それよりも(個人)預言を中心とする預言的ミニストリーに転向した方がよいのではないかと言う思いが横切ったのです。それは勿論、単なる私の考えであって、本気でそうする積もりも又その能力もないことは分っていました。
その時私は御声を聞いたのです。主は「もしわたしが『 ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たち(の信仰の行い)についても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』これがあなたの召しである。」(太字部分はヘブル書11:32-34)と私に語られたのです。ですから今私が読んだような「ライオンの口をふさぎ」「火の勢いを消し」「他国の陣営を陥れる」ことと同等の、信仰による大きな奇跡をこれからする人たちが既にこの世に存在することを私は知っています。その目的を持って、この時のために生まれて来た人たちがいることを私は疑いません。そこで私は、「それらの人たちをどうすればよいのですか」と主に聞きました。
すると主は「あなたの旗印を挙げなさい、すなわち、あなたのメッセージを語りなさい。そうすればあなたと同じDNAを持つ民がメッセージに惹かれて集まるでしょう。メッセージそのものがその人たちを目覚めさせるのです。」と語ってくださいました。主は右手に七つの教会の御使い(メッセンジャー)である七つの星を持って来られ、今こそ私たちが御国のメッセージを世に告げる最も大事なシーズンなのです。
ここで私は2008年に主から受けた啓示についてお分かちしたいと思います。昨夜メッセージを取り次がれた兄弟(カマル・サリーム師)が言われたことに追加することになりますが、昨夜彼は、今までこの地球に遣わされたことのない御使いたちが地上に解き放たれると言いました。私はその御使いを見たのです。主はその御使いについて、それがどんな御使いで、どのような使命を帯びて送られて来るのかを語って下さいました。
ここで先程私が読んだ多くの信仰による圧倒的勝利者overcomer のことを心に留めておいて下さい。彼らは世界の基いの置かれる前から主が認知していた人たちでした。そして皆さんも同じようにこの世が存在する以前から主に用いられることが決まっていた人であり、特に今の時代に目的を持って生まれるように(カイロスの時)定められているのです。
2008年のある夜でした。私は寝ようとしても寝られないので祈り始めました。妻は既に隣で寝ていました。真夜中12時頃になって、もう祈ることもなくなり寝ることにしました。私の頭が枕に触れるか触れないうちに私は身体を離れて霊の領域にいました。そこは言葉では言い表すことの出来ない、全く別の世界で地球の基いの部分のようでした。そこに道路にあるマンホールのようなものがあり、そこに何とも形容出来ない生き物がいるのが見え、私は恐ろしさで叫び声を上げ、何かを口にしていました。隣に寝ていた妻が私の叫び声と叫んでいることの一部を聞いたのです。この生き物がそのマンホールを開けると、中から黒い煙が立ち昇り、その中に亡霊のようなもの、悪霊がたくさん出て来て、その中にはスターリンとかヒットラーであることが識別出来るような、多くの歴史上の専制君主のイメージを見たのです。地球の奥底から出て来た彼等は、暗闇(悪魔)の世界を信じ、その領域に自らをささげ、その恐ろしいところであらゆる魔術とか、暗闇の術を使って生存することを学んだ人たちでした。私は寝室に出て来たそれらの悪霊に圧倒されついに耐えられなくなりました。
すると大きな音が天からとどろき、「光の子が同じように応えねばならない」と言うのが聞こえて来ました。私が見上げると天にある大きな門が開き、そこからおびただしい数の御使いが出て来ました。彼等は栄光の領域においてどのように歩けばよいかを人々の寝室に入って語り始めたのです。これらの御使いは、今まで地上に送られたことはなく、世界の基いが置かれる前から主の御前に仕えながらこの時を待っていたと説明されました。これらの御使いについてはイザヤ書63:9で「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い・・・」と書かれていると言われましたが、御使いとはメッセンジャーです。その神の御前に仕える御使いが、定められた今の時に地上に送られて来て、これからの時代に「火の勢いを消し、獅子の口をふさぐ」目的で召された人々を、超自然の方法で教える、そのために天で今まで待機していたのです。ですから私は昨夜の兄弟が言われたことに同意し、それは真実であると申し上げたいのです。
私はそのような領域に住みたいのです。私のDNAは、超自然的奇跡を起こす証を聞くことを好むだけでなく、私自身がそれを実際に経験したいと言う願いが強いものなのです。ですから今朝の私の願いは、皆さんを挑発し、皆さんにも同じようにそれを望んでもらいたい、主がそのために皆さんを召しておられると信じていただきたいのです。そのような霊の領域が開かれたら、皆さんと共に私もその領域に入りたいのです。私は、今そのシーズンに来ており、そうなると本当に信じております。
2007年に主は私にノアの時代について教えなさい、と言われました。私は気がすすみませんでした。「人の子が来るのは、ちょうどノアの日のようだからです。」(マタイ24:37)とありますが、そうであるなら、終りの日のモデルとなるのはノアの時代しかないことになります。確かにノアの時代とはユニークな時代でした。そうなると創世記6章に書かれていることを取り扱わねばなりません。そこには神の子らが人の娘たちを妻として娶り、出来た子どもが巨人であったとか、少々不可解なことが書かれています。その巨人たちは洪水で死に絶えました。そこで私は自分では出来る限りのことを教えました。なぜなら、主はノアの時代に打ち勝ったのなら、あなたたちの時代にも打ち勝たねばならないと言われたからです。すべての人間社会の悪事は、そのルーツが創世記6章にあるからです。殺人、性的不道徳、魔法、魔術と言った今私たちが直面する社会問題の最も成熟した形の悪の根元は創世記6章にあります。私たちはその悪の背後にある悪い御使いとか、捕らわれの霊、悪霊に打ち勝たねばなりません。それらの問題を調べてるうちに私はたまたまアイザック・ニュートンに出くわしました。ニュートンは「終りの時が近づくにつれ一団bodyの人間が起こされ、人が騒ぎ立て反対する中で、彼等は預言とその文字通りの解釈に多くの注意を払う。」と書いておりました。私は既にその時が来ていると信じます。又、彼は終りの日には多くの新しい真理の海が与えられるとも言いました。今はその時代です。今私たちは、金塊のように貴重な多くの啓示を得ております。啓示が押し寄せる海のように与えられる時がやって来ます。いや、既にそれを経験し始めました。
黙示録5章に七つの封印で封じられている巻物が出て来ます。それは贖いの書、御国の奥義、イエス・キリストを啓示する書です。終りの日まで閉じて置かれるようにダニエルによって封印された書が開かれるのです。であるからこそ、今の時、私たちは知恵と啓示の霊によって油注がれていることが絶対に必要であるのです。
この封印された書がいかに大切なものであるかを、ヨハネは黙示録5章で書いています。この巻き物を開くにふさわしい者は天にも地にも地の下にもいないと聞いて、ヨハネが激しく泣きました。すると長老の一人が、ユダ族から出た獅子ダビデの根が勝利を得たのでその書の封印を解くことが出来ると宣言します。ほふられたと見える小羊がその巻き物を受け取った時、四つの生き物と二十四人の長老が小羊の前にひれ伏し、新しい歌を歌い「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、・・・」(5:9)これは世の終わりに起る史上最大のハーベスト、しかもそれは世界中の異邦人が救いに導かれるハーベストを歌っています。そしてその救われる異邦人を「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(10節)と称えており、ここに偉大なハーベストが実現する過程が書かれています。ここにおいて御国の奥義であるイエス・キリストのなさることの全貌が顕されました。キリストが多くの異邦人を贖い、そしてその人々を「祭司とし」、「地上を治めさせる」と言われるのです。(どのようにしてでしょうか。)
啓示が来ます。それは「あなたがたのうちにキリストが形造られる」という啓示です。それはどう言う意味でしょうか。それは未熟な私たちをして「信仰の一致とキリストに関する知識の一致とに到達させ、完全におとなに成熟させ、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」ように主がされるので、地上において成熟した「キリストの花嫁」となることであり、又、御国の息子たちsons of Kingdom になることでもあります。
最近私はイスラエルの祭りについての理解を深めておりますが、イスラエルの祭りは(神が定めた特別の日で、この日に神は偶然そうなったかのように重要なことをよくされる)デバイン・アポイントメントの(神が定められた)日です。私はこのことを理解し始めたのですが、もし過ぎ越しの祭り(エジプトを大勢で出た日を記念して祝う日)がこの(今の)ディスペンセーション(神の定めの時)において成就されるとするなら、又、ペンテコステの祭り(聖霊降臨)がこの時代に解き放たれるのであるのなら、(今の時の)仮庵の祭りとは何を意味するのでしょうか。それは、神が人々のからだという仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれ、その人のすることを支配されると言うことではないでしょうか。聖霊は、既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが「祭司」となり、「地上を治める」にふさわしい者「成熟したキリストのからだ=キリストそのもの」になる、あるいはそのようにすると言われるのです。
さて私は上記に関する色々な学びと調査をしている中で、リサーチをされているマーク・ビルツ牧師(シアトル在住)を知る機会が与えられました。彼が発見したことは2014年と2015年に二年続けて、過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りの日に月食が起こることでした。聖書によればイスラエルの三大祭(過ぎ越し、ペンテコステ、仮庵)は主に属する祭日(聖日)あるいは記念日ですから、二つの神の祭日に月食が起こること、特に二年続けて起こることには何か重要な意味があることを、神が人々に知らせようとしておられると考えられます。(ここで会場の上部にあるスクリーンにその月食の起こる日にちが写し出される)
2014年 過ぎ越し 4月15日 仮庵 10月 8日
2015年 “ 4月 4日 ” 9月28日
それでは過去に同じことが起こったとすればいつでしょうか。一番最後に起ったのは1967年と68年でした。
1967年 過ぎ越し 4月24日 仮庵 10月18日
1968年 “ 4月13日 ” 10月 6日
私はこれを知って、自分でもNASA等のデータを調べてそれが事実であることを確認しました。ところで1967年には何が起ったでしょうか。それはイスラエルが首都エルサレムを取り返したことです。この出来事が終りの日を示す重要な日であることがゼカリヤ書で預言されています。先ず3節で、その(終りの)日に主は、エルサレムをすべての国々にとって(つまずきの)重い石とする、と言われているからです。そして8節で「その日、主はエルサレムの住民のために盾となられる。その日、彼らの中で最も弱い者もダビデのように(強く)なり、ダビデの家(イスラエル)は彼らにとって神のように、彼らに先立つ主の御使い(イエス・キリスト)のようになる。」(新共同訳)
主は終りの日に、最も(へりくだった)弱い者が集められたイスラエルの軍隊が、ちょうど(主に対してへりくだった)ダビデのように強くなって戦い、その先頭に立つ主イエス・キリストのようになると預言されているのです。私は主に「ダビデの家は彼らにとって神のようになる」とはどう言う意味なのかを尋ねました。すると主は2週間ほど経ってから「わたしの花嫁はわたしに非常に近いので、花嫁が語る時にはわたしが語るように語る。」と言われました。(会場が沸き立つ)(以降は翌週に続く)
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