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21 04月

「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」― その2 ジャック・ディーヤ Jack Deere 2013年4月21日


「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」― その2

 

ジャック・ディーヤ Jack Deere

 

 

「喜んでする気持ちがあるか willingness」

 

イエスの教えを聞いた当時の人たちは、特に彼を敵視する人たちですら、その知識の深さに驚き、その教えがどこから来たのかといぶかりました。そこでイエスは「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行おうと(喜んでしたいと)願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」 (ヨハネ7:16-17)と言われたのです。

この御言葉から神の御声を聞くために欠かすことの出来ない第二の必要条件が分ります。それは私たちが、どれ程神の御心に従いたいと思っているかに掛かっていると言うことです。つまり神は本心から御言葉を聞いてそれに従う気持ちのある人に語られるのです。イエスご自身は父の御心に従うことだけを常に願いました。それがヨハネ 5:30でよく分ります。イエスは「 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」と言われました。(ここで使われている「さばく」という言葉は「決めてそれを尊重する」と言う意味です。訳者注)私たちの心の奥底から御言葉に従う気持ちのない人に神が語られないのは、むしろあわれみの心からであると思います。なぜなら初めから従う気持ちのない人に語って、その人が行なわないのであればその人自身がさばきを招くからです。

 

短いこの世の人生であなたが誰を喜ばすかについて、既にあなた自身の結論を出しておられますか。「わたしはあなたのみこころを行なうために来ました」と言われたイエス(ヘブル10:7,8)と同じゴールをお持ちでしょうか。父を喜ばすことを最高のゴールとされ、父の御心をなすことをこの世に来られた最大の目的とされた故に、イエスはいつも父の言われることが聞けただけでなく、たとえ親しい人たちに裏切られ、ご自身の国民から拒否されてもそれを恨まずにすんだのであると思います。彼は親しい弟子たちを愛し、ご自分の国を心から愛しました。しかし、それ以上に父の御心を行うことを第一としたのです。しかもそれが最終的にどれ程の苦痛を経験せねばならず、又ご自分の愛する国民から拒絶を招くという最も惨めな結果になることが分っていてもです。それに対する報いが、彼の最も愛する方の御声をいつも聞くことが出来、それに従うことよってその方に喜んでいただける結果となったのです。

皆さんと私は、それぞれに神の御国でのすばらしいデスティニーを持っています。それを否むことの出来るものは何もありません。ゴシップとか、中傷、裏切り、どのような悲劇も、又悪魔ですら私たちのデスティニーを盗むことは出来ません。ただ私だけが私の王冠を投げ捨てることが出来、あなただけが、あなたの王冠を他人に譲り渡すことが出来るのです。但し私たちの人生のゴールが何であるのかが私たちの心の中の心ではっきりと決まっているのであれば、それは決して起きません。神は、私たちが従うことが分っておられる時に、私たちに語られます。なぜなら、神は私たちにとってそれが一番必要であることをご存知だからです。たとえ御声を聞いたときに、それが私たちに納得行かなくてもです。

 

ピリポはサマリヤで、しるしと奇跡の伴うリバイバルの真っ最中におりました。その時、主の使いがピリポに「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」と命じました。(使徒8:26)これは一見つじつまの合わないような命令でした。リバイバルが起っている真っ最中に、そのリーダーにそこを出て荒れ果てた寂しい道に下れと言われるのですから納得がいきません。しかし驚くべきことに、次の節でピリポはそれに従ってそこを離れて行ったと書かれています。結果として神が言われたことの理由が分ったのですが、もし彼が主が語られたその御声に喜んで聞き従わなかったら、それは起きなかったでしょう。

 

大分前の話になりますが、主がどうも私の趣味の一つを諦めなさいと言われているように感じ始めたことがありました。その趣味と言うのは何も悪いものではなかったのです。そこで私は主に、その趣味を諦めるのは喜んでしますが、その前に主が私に、はっきりとそうしなさいと言って欲しいとお願いしました。と言うのは、私は禁欲主義とか苦行生活に入るつもりはなかったからです。私の経験では、今まで単に主に気に入られるために、特に悪いことではないことで自分を否定する行為に出ることは決して霊的に得にはならないと思って来ました。今まで主が示されないで自分で何かを諦めた時は、結果として律法主義に陥り、独善的になるか、あるいは最終的に苦々しい思いで終わっていたからです。ですからその時私は、主に「私はこの趣味を大変好んでいます。でも主からの命令であれば私は(喜んで)諦めます。」と申し上げました。

それから約六ヶ月後のある日曜日の朝早くでしたが、半分目が覚め半分寝ているような状態の時に、その夜中に見た一つの夢を思い出していました。その夢の中で、私は友人のポール・ケーンと話していたのですが、最後の辺りでポールが「主があなたの趣味を諦めるように願っている。」と言ったのです。(夢の中で彼は私の趣味の名をはっきり言いました。)私はかすかに見た夢をやっとのことで思い出したのはよいのですが、それが本当に主からのものなのかどうかがはっきりしなかったものですから、私は主に改めて「もし本当にあの夢が主からのものでしたら、どうぞ今日ポール・ケーン自身からその夢について私に話をするようにして下さい。」と祈りました。ところがその週末は、たまたまポールが私のいる町に来ていましたのて、私が日曜日の礼拝で話をした後、ポールと昼食に出かけました。その後私が彼を空港まで送って行く車の中で、ポールが「昨夜驚くべきほどはっきりとした三つの夢を見たことを今でも明瞭に憶えている。」と言ったのです。

私には信じられませんでした。私はすかさず彼に「実は私も昨夜夢を見た。しかもその夢の中で私があなたと話している夢です。」と答えました。その後でポールが見た夢を色々と話してくれたのですが、結局私の趣味については何も触れませんでした。そこで私は運転しながら隣席の彼に、念のために、私の趣味の話を主はされなかったのかと聞き返すと、ポールはすかさず「実はあなたがその趣味をどんなに愛しているかを私は知っているので言わないで置こうかと思っていたところですが、それを聞かれたので言います。主はあなたがその趣味を止めることを願っています...」と言ってその趣味の名前を言い当てました。

 

最初は信じられないような気持ちでした。もうこれで止めない理由はなくなった――諦めざるを得ない――と言う落胆の思いもありました。しかし、主がどれほど私に気遣われて、超自然の方法でやさしく私にそれを伝えられたかということに気が付いた時、一瞬にして私の思いは喜びに変わりました。私は、主が趣味の代わりにもっと主の臨在を私に増し与えて下さることが分っていました。私はこれによってむしろ大きな得をすること、その上、私がこんなに早く主の御心を喜んでする気持ちになった(主がして下さった)ことを、少し誇りたい気持ちにさえなったのでした。

そこで私はポールに「他に何か私が諦めるべきことがあると主はおっしゃらなかったですか?」と訊ねると、ポールは私の質問に直接答えるのではなく、逆に私に聖書(マタイ19:16)に出てくる「富める若者」の話を知っているかと聞きました。そこで私は、その若者とイエスの会話について話すと、彼は「この若者は『何かまだ欠けているのでしょうか』という質問をしないで、はじめの質問だけで止めておいた方がよかったとは思いませんか?」と私に聞きました。

 

このポールの質問の意味を私が充分に理解するには少し時間が掛かりました。主はもっと後になって私に他のことを諦めるように言われるかも分りませんが、その時の私では、未だその他のことを諦めなさいと言われても、私が「はい」と答えて出来るまでに(霊的に)成熟していなかったことを意味していたのです。すなわち主はその時、私が喜んで諦めることが出来ることだけを私に要求されたのです。それは私がその時に反抗的であったからではなく、ただ未熟であったからでした。それは六歳の子どもに「しなさい」と言うことを三歳の子どもにやらせるのは無理であるように、十八歳の青年に「やりなさい」と言えることが、六歳の子どもにやらせようとは夢にも思わないのと同じです。

時に主は、私たちが主に対して反抗的であると言う理由でその人に語らないこともありますが、多くの場合は、反抗的であるがために主が語られないのではなくて、むしろ私たちが未熟なせいで語られないのです。私たちが主にあって霊的に成長するにつれて、もっと主の御心をしたいと言う気持ちに成熟する時に、主は私たちの生活の中でより大きな部分について話されるようになるでしょう。(続く)


15 04月

「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」    ジャック・ディーヤ Jack Deere        2013年4月15日


「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」

 

ジャック・ディーヤ Jack Deere

 

 

私はこの掲題の質問を多くの人から聞かれます。そこで私はある時決心をして、真剣にこの質問への答えを探してみました。先ず私は、聖書に出てくる人の中で神の御声をよく聞くことで有名なすべての人たちについて、祈りながら熟考 meditateしてみました。次に、現代の人で御声を聞くことで知られている人たちに聞いてみました。そして最後に、自分自身の今までの経験をかえりみながら、神の御声がよく聞けた時と聞けなかった時について分析してみました。その結果、神の御声がよく聞ける状態になるのには、三つの本質的な特徴があることに気が付きました。

それは「いつも 神に仕えている、あるいは、その用意が出来ているかavailability」、それを「喜んでする気持ちがあるかwillingness」、そして、「神に対して本当にへりくだっているかhumility」 の三つです。

 

「いつも 神に仕えるているか availability」

 

誰よりも神の御声を聞かれたイエスの生涯を調べてみて、真っ先に感銘したことは、イエスはどんな時でも無条件に神に対して仕える用意が出来ていたことです。私がそのことを最初に気付いたのは、私がクリスチャンになって一年ぐらい経った時でした。マルコの1章を読んでいた時、イエスは町中の病人や悪霊につかれた人たちを夜遅くまでかけて癒しておられた(32-34節)にもかかわらず、翌朝は「まだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)とマルコが語っています。普通の人にとっては、夜遅くまでミニストリーをした翌朝ぐらいは多少の朝寝をするのはもっともであり仕方がないと思われるでしょうが、イエスは毎朝の日課である神を求めて祈ることをおろそかにはしませんでした。(ルカ4:42、5:16も参照)

私のクリスチャン生活の最初の頃、私はよくこの話をして「イエスは常に神に対して時間をつくっていた」ことを強調していましたが、今はそう言う見方をしなくなり、むしろ神の子が過ごした時間は、生涯を通して「すべて完全に父の時間そのものであった」と見るようになりました。イエスは決して急いでことをしたり、時間が足らないということはありませんでした。なぜなら主はご自分の時間は常に父の時間と同じと見ておられ、父がしておられることを見た通りに、それだけをご自分も行ったからです。(ヨハネ5:19)そうして、彼は天の父の望まれることを成し遂げるために、常に正しい場所に正しいタイミングでおられたのです。

イエスは何をされるときでもその態度は全く自然で四角張らないことに私は気付かされ、それに益々感銘を受けております。イエスは予期もしなかった五千人以上の群集を前に話された時も、山上の垂訓を語られた時も、井戸端で会った一人のサマリヤの女と話をされた時も、常に語ることが準備されており、正しく必要なことだけを話されました。イエスが説教のメッセージを作るのに苦労したことがあるなどとは想像することも出来ません。なぜなら彼の生き様そのものがメッセージであるからです。それは毎日の、天の父との深い交わり(コミュニオン)から溢れ出るものによってなされたからです。それはイエスがどんな時も常に御父に仕えていたからです。

 

私がこんなお話をするのは、毎日主と「静かな時」を持つことを力説しようとしていると思わないでください。それよりもずっと深いことを話しているつもりです。私は、毎朝5時半から聖書を読んで主と「静かな時」を過ごしながら、それでいて、毎日をゴミ捨て場をうろつく犬よりも惨めで(心の貧しい)人生を忙しく送っている人々を知っています。毎朝主との時を持ちながら、同時に神に仕える生活を全くしていないことはあり得るのです。毎朝の静かな時を主と過ごす日課をやりさえすれば、後は全く神のことなど忘れて一日中自分の生活に没頭する人たちと違って、神にいつも真に仕える人たちは自分の一日はすべて神のものであると考えているのです。そのような人たちは一日中主の臨在を経験しながら、主に喜んでいただくことだけをすることで満足する人たちです。

 

多くのクリスチャンは、宗教的な義務を熱心に果たすことによって神に満足してもらえると思っているかもしれませんが、神が本当に喜ばれるのは、私たちが神と親しい「友人関係」になることです。(ヨハネ15:15)私たちの本当に親しい友人が困った時とか、助けが必要な時には、万難を排してでもその人のところに飛んで行って助ける気持ちになると思います。相互にそのような気持ちを持つ関係、それが真の友人関係です。すなわち、友人関係とはその人のためなら、いつでもその人のために尽くす用意がある関係、これがavailability です。天の父と私たちとの関係も同じです。神はご自分に最大限に尽くす用意のある人には、神もその人に最大限尽くされます。多くのクリスチャンは神がそのような方であるのは公平ではない、神はすべてのクリスチャンに対して、どのような時にもいつも誰にも公平に尽くされるべきだと考えがちです。そのように考える人たちは、神をまるで宇宙スケールのベル・ボーイ(使い走りの用足しをしてくれる人)とでも考えているのでしょうか。自分が神を必要としないときには、その人にとって神は何の関係もないのです。勿論そのような人は、神のめぐみと神との個人的関係を持つことの意味を全く誤解しています。神は豚に真珠を与えるようなことはしません。神を求める人が神を見いだすのです。(申命記4:29)

もし私たちが神と深い友人関係を持ちたいなら、私たちの過ごす時間はすべて神のものであり、私たちは常に神に仕えていると言う心構えを持っていることが非常に重要です。又、この気持ちで毎日を過ごすことの重要なのは、神は私たちが一番不用意で都合の悪い時に話し掛けられるからです。時として神は、ご自分の最もお気に入りのしもべを宣教の旅に出しておきながら、途中でその仕事を中断させ、別なところに行くように命じたりします。使徒行伝16:6-10に出てくるパウロたちがそうでした。神は彼らに時間と、お金、エネルギーを「無駄に使わせ」てから、彼らを別な方向に向かわせたのです。それは神が、あたかも私たちが本当に神に対して忠実に仕える気持ちが常にあるかどうか(彼らの時間は神の時間であることをいつも心得ているかどうか、又、自分のやり方でやるのではなく、神のやり方に従っているかどうか)をテストしておられるように思えます。

神は夜中の三時にぐっすり眠っているあなたに夢を与えて目を覚まさせ、忘れないようにそれをメモに書き取らせたりします。あなたがどんな時でも忠実に神に仕える用意があるなら、神もあなたに仕える(祈りに応えてお話しをする)用意があることを思い出してください。イエスが十二人の使徒を選ばれた時、先ず山に行かれて父に祈り一夜を明かされました。(ルカ6:12)そして明け方、ご自分の望まれる弟子たちを呼び寄せて、十二人の使徒を任命されました。(マルコ3:13-15)ここで明らかなことは、イエスが彼らを任命した目的は、彼らを世に遣わして福音を述べさせ、悪霊を追い出させることでした。しかしその前に、先ず使徒たちをイエスの身近に置かれました。彼らにミニストリーをさせるためには、彼らが常に神に仕える用意があるように習慣づけさせることが先決でした。イエスと親しく緊密な関係  intimacy を持つことがすべての主のミニストリーの基礎であるのです。福音を説くとか証をする場合に、その証しが、その人の持つ神との親しい関係から自然に溢れ出る時に、油注がれ、それを聞く相手の心を動かす力が伴います。常に神の傍に仕えていることが、ミニストリーをするに当たっての第一のプライオリティーであり、又、神の御声を聞くための第一の必要条件であるのです。

 

その仕え方には受動的な面と能動的な面があります。多くの場合に私たちは、ただ主を待ち望むことが必要ですが(エレミヤ42:1-7、イザヤ40:31)、その反面、能動的に何かを行なうことが必要な場合もあります。(マタイ6:33)どのくらい待てばよいのでしょうか。朝三十分、昼食後一時間、夜二時間位でしょうか。その正しい答えは、私たちは主が現れるまで求め続けることなのです。(ホセア10:12)多くの人は毎朝、三十分とか一時間、聖書を読んで祈り、たとえその時に主の臨在が現れなくても満足します。しかし同じ人が、その人の友人の一人と一時間話をして、もし相手の人が本当に聞いてくれていると言う反応がなかったら、恐らく満足しないでしょう。単に宗教的な義務感からディボーションを長年続けて来た人たちにとって、何十年もの間ほとんど神の臨在を経験したことがないために、神の反応がないままでも(それに慣れてしまって)満足してやり続けている人たちが意外に多くいるのです。(訳者注:宗教的な人たちです。)

 

ハバクク2:1で「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。」と書かれているように、常に神に仕えている人は、神が話してくださることを当然のように期待します。そのような人の態度はいつでも神に対して「お話しください。しもべは聞いております。」(1サムエル3:10)であるのです。まさに「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)ではないでしょうか。(続く)


31 03月

宗教の霊に打ち勝つーその4         リック・ジョイナー   2013年3月31日


宗教の霊に打ち勝つ その4

 

リック・ジョイナー

 

光の天使

 

パウロがコリントのクリスチャンに「宗教の霊で働く者たちを警戒せよ」と言いましたが、それは始ったばかりの教会に律法主義というくびきを負わせようとする者たちに対する警告でした。彼は次にように説明しています。

 

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(第二コリント11:13−15)

 

「光の御使い」という言葉は「真理のメッセンジャー」とも解することができます。最も偽り深く恐ろしい変装は、義のしもべになりすまし、 真理を破壊することを目的に 用いることです。サタンは聖書を引用し知恵を用いることに長けていますが、その知恵は知識の木の知恵であり、人を殺すものなのです。彼は人の欠点や落ち度を的確に指摘することが出来ますが、それはその人に解放といのちを与えるのではなく、その人をズタズタにしてしまうようなやり方でするのです。

 

宗教の霊から力を得た「光の御使い」は、まず最初に人の正しいところではなく間違っているところを探そうとします。この霊は通常、羊を守り真理や主の栄光を守るようなふりをしてやってきますが、実は邪悪で批判的な霊であり、常に分裂や破壊という結果を招くのです。

 

批判とか批評は一見知恵のように見えますが、実は最も卑劣なプライドの一つなのです。私たちが誰かを批判する時、本当のところは「自分は彼よりは良い」と宣言しているのです。私たちはある面では他の人よりまさっているかもしれません。もしそうだとすれば、それはただ神の恵みによるのです。真の神の恵みを理解するクリスチャンは、決して人を見下すような道を探すことはせず、むしろ人を建て上げる方法を探すのです。

 

宗教の霊と殺人

 

アダムとイブが善悪の知識によって生きることを選びとったとき、彼らは宗教の霊を受けたのです。その最初のあらわれは「自分中心」でした。即ち彼らは自分自身を見始めたのです。彼らがこの実を食べたあとカインが生まれましたが、カインは聖書の中で宗教の霊によって支配された者の最初のモデルです。

 

カインは「地を耕すもの(創世記4:2)」でした。彼の思いは「地」にあったのです。宗教の霊は、私たちを天の領域ではなく地の領域に焦点をおくように常に企むのです。「カインの子孫」は目に見えるものによって物事を判断し、「目に見えない方を見るようにして忍び通す者(ヘブル11:27)」を理解することができません。

 

黙示録13章には二番目のけものが「地から上って来た」とありますが、これはカインの霊の子孫は地を耕す者であるからです。「地に思いをおく、地のことだけを考える」ことは、歴史上最も邪悪なけものの一つを生み出すのです。

 

カインは又、自分の労働の実を主に捧げようとしました。主はその生け贄を拒絶し、アベルの血の生け贄は受け取られました。私たちの労働の実は、決して主への捧げものとして受け入れられることはできません。神が小羊の血だけを生け贄として受け入れられることは始めからの神の御こころでした。カインは訓戒を受け入れて悔い改めることをせず、アベルを嫉妬し殺害しました。自分の働きによって生きようと試みる者は、往々にして、小羊の義により頼む者に対して激しい怒りを抱くものです。

 

パリサイ人の中のパリサイ人であったタルソのサウロが、クリスチャンに対して怒り狂ったのはこの理由によります。パリサイ人が人生をかけて築き上げてきたものを最大限に脅かす者、それがクリスチャンだったのです。それ故にパリサイ人たちはクリスチャンの存在に耐えることができなかったのです。自分の業を土台にしている宗教は、いとも簡単に暴力化するのです。キリスト教と称するセクトで、キリストの十字架の業を自分の業に置き換えてしまった教義をもつものも、これと同じです。

 

主は、兄弟を憎むならばそれは殺人と同じであると言われました。(マタイ5:21−22参照)宗教の霊によって駆り立てられる者が、人を実際に殺す以外の方法でその人を滅ぼそうとすることはありがちなのです。教会やミニストリーに対して浴びせられる批判、非難の多くは、カインにアベルを殺害させたと同じ霊が怒り狂う結果なのです。

 

真のメッセンジャーのテスト

 

エゼキエル37章で、エゼキエルは乾いた骨の谷に連れていかれ、これらが生きることができるか、と主に訊かれました。次に主は「骨にむかって預言せよ」と命じられました。彼が預言すると、骨は集まってきて生き、大いなる軍隊となりました。これは真のミニストリーが合格せねばならない重要なテストです。真の預言者は、乾涸びた骨の中にさえ偉大な軍隊を見ることができねばならないのです。エゼキエルは骨にむかっていのちを預言し、骨がいのちを得て軍隊になるまで預言し続けたのです。宗教の霊を持つ偽りの預言者は、骨にむかって「お前たちはどれほど乾涸びているか」を告げ、彼らを罪に定め絶望させるだけであり、彼らにいのちを与えるとか、今の状況から抜け出す力を与えたりはしないのです。

 

使徒と預言者は、「建て上げ、また崩す権威」を与えられています。しかし、まず建て上げることをしないならば、崩す権利はないのです。霊的に人々を養い、建て上げてきた人以外には、私たちに責任のある人たちを正す権威を与えてはなりません。「預言者」と言われている人であっても、人々を建て上げる心を持たないならば、その人はミニストリーから取り除かれるべきだと私は思います。

 

しかしながら、エリの悲惨な例に見るように、羊を養い世話はしても彼らの間違いを正さないならば、その牧者はわざわいです。真の神の恵みは、「人のあら探しをする不義」と「(神が罪と定めたものを承認してしまう)聖ではないあわれみ」という両極端の中間にあるのです。この両極端のどちらもが、宗教の霊の結果である可能性があるのです。(続く)


24 03月

宗教の霊に打ち勝つ - その3 – リック・ジョイナー      2013年3月24日


宗教の霊に打ち勝つ - その3

リック・ジョイナー

 

宗教の霊が用いるプライドという土台

宗教の霊が偽装する姿の中で最も偽り深く破壊的なものの一つに理想主義があります。理想主義は ヒューマニズムのとる一つの形であり、人間に端を発しているものです。一見それは、最高の水準を求め神の栄光を追求しているように見えます。しかし理想主義は恐らく、真の啓示と真の恵みに対して最大の毒をもつ敵なのです。それは、人々が神の恵みと知恵の中へと成長することを阻み、神の栄光を追い求めつつもまだそこまで到達していない人々が立っている土台を攻撃し破壊してしまうからです。

 

私たちが理想主義を掲げるならば、神が人に求めているもの、又それを達成するためにその時点で与えておられる恵み以上の水準を、その人に対して押しつけてしまうのです。 このような宗教の霊に支配されている人は、例えば、自分と同じように一日に2時間祈らない人を断罪してしまう可能性があります。人がそのくらい祈るのは神の御こころかもしれませんが、どのようにしてそこまでに達するかが、実は一番重要なのです。神の恵みは まず一日に10分祈るように私たちを招かれるかもしれません。やがて私たちはそれによって主の臨在で大いに祝福され、更にもっと主と共に時を過ごしたいと思うようになり、10分、そして1時間が過ぎても祈りを止めたくなるのです。そしてついに2時間祈るようになったとき、それは私たちが祈りを愛し主の臨在を愛するからであり、恐れとプライドからではないのです。

 

理想主義に根ざした宗教の霊を持つ人は、通常、「完全な教会」を探します。そしてそれ以下の教会に参加することを拒みます。他方、聖霊に導かれる人も又、教会に対しては高い望みを持つかもしれませんが、どのように小さな仕事にも自分を捧げ、その奉仕によってその教会のヴィジョンと成熟度が増すように助けようとします。聖霊は「助け主 helper (ヨハネ14:26)」と呼ばれます。聖霊によって真に導かれる人は、ただ高い所から教会を批判するのではなく、 自分が手伝えることはないかと常に探します。

 

宗教の霊がプライドを土台としている場合、それは完全主義によってはっきり証明されます。完全主義はすべての事柄を黒か白かに区別したいのです。ついには、すべてのもの(人、教え等々)は、100%正しいか100%間違っているという極端な判断をするようになります。もしそのような基準を人々や或いは自分自身に課するならば、私たちは重大な惑わしに落ち込むことになります。

 

宗教の霊を持つ者は、非常に正確に或る事に関しての問題点を指摘することが出来ますが、それはすべて建て上げられたものを崩すだけのものであり、 殆どの場合問題に対する解決策はもってはいません。すでに存在するものの進歩を止め、将来の発展を阻む失望落胆の種を蒔くのが、敵の策略です。これは「もし山頂まで登れないのなら、最初から登らない方がよいのだ。ただ自分に死ねばよいのだ」というメンタリティーに人々を陥らせるのです。しかしこの「死」は神が求めておられる「日々自分の十字架を負う」というものではなく、それを曲解し歪められたものなのです。

 

完全主義者は、自分にも他者にも、真の成熟と成長の息の根を止めてしまうような基準を課すのです。真の神の恵みは、山頂まで私たちを一歩一歩導いてくれるものです。神は私たちが登っていくとき、何回かつまずいたからといって 私たちを断罪されたりはしません。神は恵み深く、憐れみ深く、私たちを立ち上がらせてくださり、私たちが又進んでいけるように励ましてくださるのです。私たちは勿論頂上まで行き着くというヴィジョンを持たねばなりませんが、それと同時に、登り続けている限り、まだ頂上に達していないことで自分を断罪するべきではありません

 

ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。(ヤコブ3:2)」と言っています。 主のために働くためには私たちは完全になるまで待たねばならないとしたら、誰一人としてミニストリーをする資格のできる者はいないでしょう完全なる従順と悟りを常に私たちの目標とするべきではありますが、それは決して私たちのうちに見つけられるものではなく、「完全なるお方」の中に私たちが完全にとどまることによってのみ可能なのです。

 

私たちは今「ぼんやり映るもの(第一コリント13:12)」や部分的にしか物事を見ていないのですが、信仰や教えに関して更に正確に知ることに対しては常に心を開いていなければなりません。すべての惑わしの中で最も大いなる惑わしの一つは、「自分はすでに理解において完璧である」とか「自分は物の考え方、認識、行動において100%正しい」と思ってしまうことです。宗教の霊を持つ人は、通常、「自分は更なる理解に対してオープンである」と言い張るのですが、殆どの場合、それは彼らの教えに対して人々をオープンにするためであり、自分は他の考えに対して頑に心を閉ざしたままでいるのです。

 

主の弟子養成のスタイルは、「私に従う者はしばしば間違いを犯すが、その間違いから学ぶ機会を私は与える」というもののようです。もし自分の子供がまだ小さいのに完全に成熟することを要求するとすれば、その子が成長する道を阻み窒息させてしまいます。教会においても同じなのです。私たちは確かに間違いは正さねばなりませんが(それによって学ぶのですから)、その方法はその人を励まし自由を与えるような矯正でなければならず、罪に定めてその人の芽を摘んでしまうようなものであってはなりません。

 

恐れとプライド

宗教の霊が、恐れとプライドの両方を土台として働くときは、最もパワフルで人を大きく惑わす霊となります。このような宗教の霊に縛られている者は、失敗をした時は深く落ち込み後悔の時を過ごしますが、これは偽りの悔い改めでしかなく、更なる自己卑下という結果を生み、自分は主に受け入れられるためにもっと生け贄を捧げねばならないと思い込むのです。又彼らは、往々にして、次にはその逆の反応を示し、自分が他のクリスチャンよりも優れていると信じ込み、他の意見、教えを受け入れなくなります。又、人からの勧告も聞くことができなくなります。彼らの意見、立場のよりどころは、真の信念からというよりは外からのプレッシャーによります。

 

この種の宗教の霊は非常に巧妙で捉えにくく、それに対処、言及、対決しようとするあらゆる試みからすりぬけてしまいます。プライドに対して言及すると、恐れ、不安の念がその人のうちに起り、同情をひこうとしてきます。恐れに対して言及すると、信仰のふりをした宗教のプライドが頭をもたげます。

 

偽の「霊の見分けの賜物」

宗教の霊は通常、偽の「霊の見分けの賜物」を人に与えます。この偽の賜物は、ある人に対する神の御こころを知りその人を助ける道を与えるのではなく、その人の悪いところを見つけて喜びそれによって力を得るのです。これこそまさに宗教の霊が教会に最大の打撃を与える方法の一つなのです。宗教の霊によるミニストリーは、癒しや和解ではなく、分裂やダメージを教会に与えるのです。宗教の霊の知恵は善悪を知る木に根ざすものであり、その言うところは真理かもしれませんが、それは人を殺す霊をもって人に作用するのです。

 

この偽の「霊の見分けの賜物」は、疑いと恐れを原動力とします。 疑いは自分は拒否されたという思い、自分の縄張りを守りたい思い、不安感、自信のなさ等に根ざしています。真の見分けの賜物は、愛によってのみ機能するのであり、愛以外のすべての動機は、霊の見分けを歪めてしまいます。誰かがある人、又はあるグループに対して裁きや批判をする場合は、いつでも私たちは(その人が裁いている相手に対して愛し仕えていたことを知っている時は別として)その言葉を無視せねばなりません。(続く)


10 03月

ボブ・ジョーンズ師に聞く (聞き手: リック・ジョイナー師、ポール・キース・デイビス師)       2013年3月10日


ボブ・ジョーンズ師に聞く

(聞き手: リック・ジョイナー師、ポール・キース・デイビス師)

 

以下はこの2月23日に、モーニングスターで行なわれた預言的パネル・デスカッションでジョーンズ師が最初に語ったメッセージをまとめてお伝えするものです。尚、この後1時間ほど三師によるデスカッションが続きますが今回は省略します。

 

ボブ・ジョーンズ師:モーニングスター・ミニストリーが到達すべき場所まで導かれると、次にはモーニングスター・ミニストリーは、神が用いようとしておられる多くの教会を到達すべき場所へと導き始めます。その「場所」とは何でしょうか。愛です。あなたがミニストリーをする時にあなたの中に必要なもの、それがあなたのところへ来るのです。それは愛です。多くの異なるグループの人が集まっている皆さん、それは丁度軍隊のようですが、その人たちである皆さんのひとり一人の意識と霊を愛が支配し始めると、次のようなことが起こり始めます。今までですと、ミニストリーが必要な人があなたの前に現れても、その人のところに行って祈ることにしりごみしていたもの―自分を必要以上に卑下することは最も悪いことです―が、もしあなたがその人に対して愛を持つなら、その人にミニストリー出来るようになるのです。それはあなたが「主の愛のからだ」になるからです。愛があなたの内に成熟する時にはあなたの良心はきれいでなければなりません。

 

次に愛によってなされる業は何ですか。信仰です。信仰が何をするのでしょうか。イエスは自分からは何もなされませんでした。彼自身は何のしるしや奇跡も行ないませんでした。彼は常にご自分のパパを呼び出す信仰を持っておられたのです。つまり、イエスは愛を持ち、信仰を持っておりました。その信仰で父の心の思い(父がなさりたいこと)が分かるのです。同じようにあなたが愛と信仰を持っていれば、誰かのために祈る時に、パパを呼んで、パパがその人に対して何をしようとしているのか、その思いを下さるのを待てばよいのです。パパはあなたのパートナーです。天のパパほどよいパートナーがいるでしょうか。あなたが地上でパパの声になる、これこそパパが地上のパートナーとしてのあなたに望んでいることです。あなたがパパのパートナーとして、地上でしるしと奇跡を起こすことが天の父に栄誉をもたらすのです。その意味ではあなたはイエスと同じ立場にいます。しかもイエスが持っておられたのと全く同じ特質をあなた自身も自分の内に持っているのです。

 

そのあなたの内にあるイエスと同じ特質があらわれるために、あなたはあなたの「古い人」を超越しなければなりません。しかし私は言います。これから非常に多くの人が古い自分を超えるのを私は見るでしょう。

あなたが誰かを愛している時、あなたは勇気を持ってその人のために祈るでしょう。そのような時に、誰も天の父があなたにどうすべきかを伝えることがあなたには分っていないとは思わないでしょう。

それで私は前回死んだ人を生き返らせた時のことを思い出しました。私は友人と一緒にあるレストランにいて鶏料理を楽しんでいました。すると突然、近くに坐っていたひとりのご婦人が床に崩れ落ちました。人々が集まり彼女を抱き上げましたが、彼女は息をしなくなっていると言うのが聞こえました。私はただ坐って見ていました。すると、私の中で声が聞こえて来ました。その声は「あなたはそこにただ坐っているだけで何もしないのですか?」そのような時に遭遇するほとんどの人が私と同じことをすると思います。そこで私は立ち上がってそのご婦人の席に近づき「私はミニスターです。」と言いました。その一声でそこに集まった人たちはさあっと私のために道を空けてくれました。そこには三人の娘さんが集まっており、倒れたお母さんの誕生日のお祝いをしていたと言いました。

そこで私の頭には何も思いが来ませんでしたので、主に聞きました。「私はどうしたらよいのか(頭に指を差して)ここでは分りません。でもあなたが私をここに連れて来られたに違いありません。そうでなければ私に語りかけることをなさらなかったでしょうから。そこで私はどうしたらよいのでしょうか?」と。そして(主は何もおっしゃらないので)私は異言で祈り始めました。周りの人は皆私のしていることに注目していました。私は、主は目的があって私をここに呼ばれたのだと考えながら祈り続けました。そして5分ぐらい祈ったと思ったのですが、実際は少なくとも25分は祈ったはずです。と言うのは、その町の反対側にある場所(教会?)から誰かが駆けつけて来て、急病人の世話を私から引き継いでくれたのですが、その場所からレストランまで来るのに少なくとも車で20分は掛かるからです。私はそこを立ち去る時に死んだご婦人の頬に血の気のバラ色が戻って来たのを見ました。彼女は生き返りました。後で分かったことは、彼女を救急車で病院に運んで、彼女の持病である心臓発作が起ったことが分りましたが、(精密検査の結果)彼女の心臓の問題はすっかり無くなっていることが判明しました。

 

そこで、私はその婦人に起こったことと何の関係があるのでしょうか。私はただ立ち上がってその人のところに行き祈っただけです。どう祈ればよいか理解して祈ったでしょうか。ノーです。私は霊で祈り、彼女は生き返ったのです。二週間後に私は彼女と会いその後の様子を聞きましたが、全く問題ありませんでした。レストランにいた人たちは彼女に何が起こったかを目撃しました。私たちは彼女を全く知りませんでした。私がしたことはただ祈っただけです。しかしそこに残った人たちは、自分たちの今までのやり方を変えねばならない。そのために新しい教会を起こそう、と話していたそうです。私が知っているのはそれだけです。

 

お分かりになられたと思いますが、私たちがしなければならないことは、必要を持つ人に対して私たちが先ず充分な愛を持つことであると思います。それは誰にでも言えることで、誰もがいつかはそのような機会にぶつかるはずです。あなたの充分な愛が主に伝わり、父の心の思いをあなたが聞くことが出来ます。私はそのようなミニストリーをする時が来たと信じます。既にそれが分かった他の教会もいると思いますが、このモーニングスターのグループがこのことを取り上げて開花する時が来ていると思います。なぜなら、最近夢で見たのですが、しるしや奇跡を起こすのは私ではなく、あなたがたであったからです。あなたがたが愛で充たされて行動する時に、それから信仰が出て父の心を聞きます。その時、父の心とあなたの心の間に合意が出来る、それによって過半数が成立します。私が言わんとしていることは、祈って、聖霊が父の心の思いをあなたに語って下さるのを待つ。それからその父の思いを実行する。――私は、それがこのモーニングスターで起り始めると思います。私は子どもが癒しのミニストリーで用いられるのを見て来ました。父の心を知って実行する限り、ベイビーでも父の心は分り、立派に癒しを行うことが出来ます。

 

私は思うのですが、私たちがしなければならないことは、イエスを愛することです。私たちが主イエスを愛すれば、父は子であるイエスを心から承認しているのですから、もし私たちが本当に主を愛していれば、父はあなたを心から承認して下さるはずです。そうであれば父は、あなたに必要な「知識のことば」とか必要なものを何でも与えて下さるのです。今はそれが起ろうとしています。私は、モーニングスターでこの三月のいつかからそのようなミニストリーが始まると予期しています。もう既に始めている教会/ミニストリーもあると思いますが、実際にこれが開始されたのは昨年の秋遅くからであったと思います。

私たちがその場所に到達して、今はそのようなミニストリーをすることのコミットメントをする時です。主はその時期が今年の初めに起ると言われました。ですから、あなたが今年成熟したいと思うことについて祈って下さい。又今年あなたがどんなことで用いられたいかを祈って下さい。その上で、あなたがそのあなたの願いを変えないことを主にコミットするのです。そして、あなたがコミットしたことに対してこれから一年間ずっと父を求め続けて下さい。

 

次に、あなたの一生で、あなたが父にしていただきたいことを祈って下さい。あなたが主によって生かされているあなたの人生の目的をあなたに示して下さるように祈って下さい。そして主からその答えを聞いたら、あなたはどんなことがあってもあなたのコミットしたことを守って下さい。あなたが守れば、主はあなたにコミットしたことを守られます。その主が守られるコミットメントはあなたに対してだけでなく、あなたの子どもたち、あなたの孫たち、曾孫たち、又その子どもたちに対してまでも守られます。

ですから、あなたが今ここでなさねばならないことは、信仰における「打ち破りbreak through」です。その打ち破りは、父があなたの人生を所有してどのように用いるかを示す啓示revelationとして示されます。あなたはそれを今年聞くことが出来ます。もしあなたが愛を持つなら、信仰が来て、その信仰によって、父があなたの人生に対して持つておられるご計画を啓示されます。それはあなただけではなく、あなたの子どもたち、その子どもの子どもたちの人生に対するご計画も明らかにされるのです。

 

これから、この地球にものすごい揺り動かしが来ます。しかしあなたの子どもたち、その子どもたち、又その子どもたちは生き永らえます。その揺り動かしを通り抜けるのです。と言うことは、あなたが今していることは、これから出て来る次の世代に(神の子どもとしての)模範と信望prestigeを残すことです。これからの試練の時代は、ほとんどの人が考える以上に長く続くと思います。しかしあなたの子孫は(守られて)それを通り抜けます。あなたが率先して通り抜けるのです。それはあなたがた(家族)だけでなく、他の人とも一緒に通り抜けるのです。

 

これが本日、主が私に話されたことです。人々に伝えて下さい。私たちが先ず、内に充分な愛を持つ。それが信仰を呼び、その信仰によって、父が私たちの人生を用いてご計画を進めるために必要な啓示を私たちに下さいます。(終り)


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