Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
01 06月
弟子の人生はその人のものではない
リック・ジョイナー
使徒パウロは、終りの時代には多くの人が自分の耳をくすぐるようなことだけしか聞かないようになって惑わされると警告しております。 それは自分が責められるような厳しいことばを聞くに堪えなくなるからです。私はこれからの数週間、弟子になるための最も厳しい課題を先に取り上げたいと思います。そのよい例の一つが次のルカ14:33で主が言われた言葉です。
「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」
この御言葉は文字通りの意味なのでしょうか。その通りです。と言うことは、主が一人の(金持ちの若い)役人に要求したように(ルカ18:22)、私たちは持ち物を全部売ってそのお金を貧しい人に与えなければならないのでしょうか。必ずしもそうではありません。その意味は、私たちが自分の人生を主にお渡しした時から、私たちの持ち物はすべて主のものとなったと言うことです。私たちは、代価を払われた主に買われて、既に私たち自身のものではなく、主のものであるからです。
私たちが主の弟子になった時から、私たちは自分で自分を支配する権利を捨てて主の権威の下に入りました。私たちはもはや自分と言う一人の人間と関り合うのではなく、すべてにおいて宇宙を支配される主と関り合う立場になったのです。人間に関するあらゆる問題は、人が神に従わず神を無視して自分の好きなように生きることが出来ると考えるようになった結果として生じたのです。ですからすべての問題の解決は、神に立ち返り、すべてのことにおいて神に従い求めることにあります。それを徹底すれば、すべてのことがもはや自分のものではなく神のものであり、私たちは神の財産管理者であると言うことです。ですから財産のすべてを人にあげてしまうか、あるいは神の指示に従って管理するかは主が決めることであり、そうすることによってのみ、私たちは究極の自由を得ることが出来ます。
それには私たちにとって最も貴重なものである「(自分の)時間」も含まれます。と言うことは、私たちはもはやすべての面において、自分のために生きるのではなく、主のために生きるのです。それは自分のしたいことをするのではなく、すべてのことにおいて、主がなさりたいこと、主の御心が何であるかを主に求め聞くことです。
私たちが成熟してより忠実に主に仕える者となれば、私たちはもっと多くの自由と権威が与えられるようになります。忠実に仕える者は主の友となり、主はすべてのことを語り分かち合ってくれます。忠実な友は主がすべてのものを与えてくださる神の息子・娘となることが出来るのです。その分かち合って下さるものの中には、この世の人間の王でもとても考えられないような自由と権威が含まれます。しかし、その基本として徹底した従順がなければなりません。
真の弟子として生きることは、ある点では私たちにとって最も難しい人生であると言えましょうが、しかしそのと同時に最も自由で解放された、満足のいく、しかもエキサイティングな人生です。私たちにとって最高の自由が得られるのはキリストの奴隷になることです。それは簡単なことではないかもしれませんが、どのような面から見てもこの世の人生で最も価値のある生き方です。それにも増して、この世だけでなく、はるかによい人生を永遠に生きることが出来ると言う究極の恩典がいただけるのです。
このような生き方をするのは一体誰なのでしょうか。真の弟子は皆そのように生きるのです。多くはありませんが、ある人たちはそのように生きています。本当にそのように生きているか、見せ掛けだけであるのかは時が経てば分ります。主を信じることで地獄に行くのを免れるには足りるほどの、いわば保険を掛ける程度の信仰は持ちたいけれども、真に主が言われることを行なうことはしたくない、つまり主の御心を知るために主を求めることには興味を持たない人たちは、聖書の御言葉によれば、非常に悲劇的な結末を迎えるのです。
人間関係において最も礼を欠くことは、相手の人に対して無関心な態度を取ることです。黙示録3:16で、主は、信仰のなまぬるい人に対して「わたしの口からあなたを吐き出す」と言われました。神は恵み深く、忍耐強い方ですが、その忍耐には限度があることをいい加減に考えてはいけないことを明確に語っておられます。神の御名を用いて神を呼んだり呼ばれたりすることだけで安易に自分を神に従う者であると称するとすれば、それは最もゆゆしいことであるのです。主はそのことをマタイ7:21-23で次のように厳しく警告しています。
「 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
この御言葉によって私たちは、多くの人が主の御名を用いて多くの普通以上の業とか奇跡を行なったにもかかわらず天の御国に入れないことが分ります。その理由を主は「わたしはあなたがたを全然知らない」からであると言われます。ここで言う「知る」と言う言葉は、単に知っているのではなく、ちょうど親密な夫婦のように「深い親密な関係にある」と言う意味です。神はこのような深い愛の関係を人間と持つように人間を造られたのです。そしてこのような関係を持つことによってのみ、私たちは真に最もよい結果を生む人生を送ることが出来るのです。それはその人がどんなよい業や行いをしたかと言うこととは無関係なのです。
主とこのような関係を持つための時間は未だあります。すべての被造物にとって、今こそ神と親密な関係に入る最大のチャンスなのですから、このチャンスを無駄にしないで下さい。
(終り)
18 05月
チャック・ピアース師の預言 ー 先回に続く
2013年5月5日、テキサスのコーリンス(ピアース師の教会)にて、アン・テイト、チャック・ピアース、キース・ピアース、ルアン・スクイヤー、バーバラ・ウエントローブに与えられた預言
ドアが開かれるシーズン
主は言われます。わたしの目はあなたを見張っている。これからわたしはあなたの進むべき道にあなたを導くが、あなたがよくわかるようにその道に光を照らしてある。わたしは見張って来たので、あなたがして来たことでわたしが見逃したものは何もない。これからはわたしがあなたを一歩一歩わたしの計画に基づいて導こう。わたしはあなたが今まで行ったことのないところへ導き始める。わたしの声があなたに向かって語るので、今まで曲がりくねっていたあなたの進む道は真っ直ぐになり始める。あなたはその真っ直ぐな道を探しなさい、その道には四倍の油が注がれていてあなたには四倍に倍増した報いが戻って来る。わたしの目があなたに注がれている。あなたが進む背後からわたしの声をあなたが聞こえるようにするので、わたしの指示する声を聞いてわたしの指示するステップを踏み出しなさい。
あなたが力尽きると、そこに一つのドアが現れる。そのドアに「開け」と命令しなさい。そのドアの向こう側に(あなたに必要な)体力、精神力と神のパワーを見つけることができる。あなたの信仰が尽きる時にドアが現われ、そのドアに「開け」と命じるとあなたはそこに(新たな)信仰と神のパワーを見つけることが出来る。あなたの健康が尽きる時、そこにドアが現われる。癒し主の神がそこにおられる、その癒しのドアに「開け」命じてドアが開くとあなたは癒しを得られる。
今は、私たちと血縁関係にある贖い主が私たちの前に現れるすべてのドアを開いて私たちのために必要なものをすべて取り戻してくれるシーズンです。
主は言われる。なぜあなたはドアの取っ手といつまでも戦っているのか。確かに敵は注意をそらす目的で取っ手をつけたが、よく見なさい。あなたが単にドアを押せばあなたの前のドアは開くのです。わたしは祭司職の衣装を変えることによって至聖所に祭司が入ることが出来るようにした神ではないか。そうです。わたしはあなたの前にあるドアを既に開けた神である。だからどのドアでもプッシュして開けなさい。そして中に入りなさい。なぜならわたしは、あなたがたがわたしの御座の前に来れる新しい方法であなたがたを歓迎しているのです。だから今日、あなたをわなにかけようとする妨害に気をそらされないで、手を上げてドアをわたしの聖なる名によって押し開き、あなたの前に開かれたものを見なさい。
あなた方はその取っ手をどうすればよいのかとか、どうなっているのか、どうしていいのか分らない等の質問をするのをやめて、とにかくドアを押して開き、わたしがあなたに授けるものを取るために中に入りなさい。主は言われます。もはや質問する時ではない。あなたへの答えがあなたの行く手に待っている。
私は今朝、主がこう言われているのを感じました。今はわたしが開けようとしているドアを閉める時ではない。今は(わたしを)待たねばならない時、と言うのは神があなたのために幾つかのドアを開けようとしているからだ。もしあなたが忍耐をもってわたしを待つならそのドアを通る道を与えよう。今はわたしが開けようとしているドアを閉める時ではない。なぜなら今あなたは新しいシーズンに入ったのであり、前のシーズンにはそのドアは閉められ鍵が掛かっていて、あなたはそのドアをわたしが開けることを望まなかったからだ。いや、一つのドアだけではない、多くのドアがあなたのために開けられようとしている。
神は言われる。敵に気をそらされないで、ただ一つの(わたしの示す)方向だけを見なさい。わたしはあなたが(霊的に)敏感になるようにしむけ、あなたの内に夢とビジョンが見えるようにしよう。たとえそれがドアが閉まっていた過去の夢とかビジョンであってもわたしを見つめなさい。わたしがそれへのドアを開くから。新しいシーズンに入ったのだからあなたが歩いて通る多くのドアをわたしはあなたのために開く。(5月5日の預言の終り)
[訳者より]
次に、5月16日に書かれたチャック・ピアース師から教会に宛てられた手紙の一部をご紹介します。それには、
(1)供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!
(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言
の二つが含まれています。
(1)供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!
今週は過ぎ越しの祭りから50日目に当たるペンテコステのお祝いの週です。ペンテコステは喜びをもって与える時です。もし皆さんが先週の私たちの礼拝に来られていたら、聖霊が私に次のように語られたのを聞かれたはずです。
「わたしは、あなたがたが自らを他人に与えるという賜物を具えてあなたがたを創造した。だから、与えることを差し控えてはならない。差し控えてはならない。今日わたしはあなたのうちに貯蔵してある油田に、わたしが手を伸ばしてその閉じ栓を開けるからだ。あなたの内には蓋を開け放出すべき油田が蓄えられている。もしあなたがそれを喜んで与える気持ちがあるなら、わたしは喜んでその閉じ栓を開けて噴出させよう。あなたが未だ見たことがない、あなた自身が人々に与えるために(神が初めから)秘蔵してあるものを放出させて与える時が来た。あなたが(ふんだんに)与えられるように、あなたをどのようにわたしが造ってあるのかを、あなたにあらわそう。」
これは非常にパワフルな御言葉です。これから主は私たちを導き、私たちが与えたいと望み想像するだけのものを私たちが(本当に)与えることが出来るようにして下さるのです。それは小切手を切ったりキャッシュで献金するという今までの与え方を遥かに超えた、新しいクリエイティブな与え方によってです。それこそ私たちには考えられないような多様性diversity を持たれる創造者の神を反映した与え方によってです。
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次にご紹介するのは最近、アメリカ政府の屋台骨を揺るがしかねないほどの大きな問題となりつつあるアメリカ税務局 IRS の逸脱したに行為に関する預言です。[昨日5月15日にこのアメリカ税務局のヘッドがこのスキャンダルの責任を取って辞任しました。]
(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言!
この問題に関して、私(ピアース師)は少なくとも2012年5月3日、オハイオ州の教会での預言、2012年5月28日シカゴの聖会での預言、2013年2月21日ニュージャジー州の教会での預言、2010年1月25日テキサス州での預言、それに2005年6月に私たちが訪ねたFederal Reserve System(アメリカ連邦準備制度理事会)の発祥の地であるジョージア州ジェーキル・アイランドでの祈りとそこで与えられた預言と、過去数年にわたって主にうかがい、主からの預言をいただいて来ました。従って、これがアメリカにとって大変重要な問題になることは分っておりました。
その預言の主なものとして、2012年5月3日の主の預言をご紹介します。主は「・・・風向きは変わった。・・・わたしは来てあなたがたが抱えて来た重荷から開放しよう。・・・そこでわたしの民が捕らわれ支配されて来た敵の支配から解放される。・・・わたしの仮庵、会堂、教会、集会で前のシーズンになされていたことは覆される。・・・聞こえて来るサウンド・音を聞け。この国の税務制度の構造上の改革がやって来る。この国の税務制度を違法的に変えようとする試みが頭をもたげているが、わたしは頭をもたげたウジヤ王を死に追いやったように、わたしの教会を、しばらくした後に、違法的方法で支配しようとする動きを破壊するであろう。」と言われました。
続いて、2012年5月28日シカゴでのカンファレンスに向かう時に私(ピアース師)はこの国に関わる重要な一つの夢を見ました。それはシカゴが私たちの大統領の出身地であるからです。夢の中で、主は私をシカゴ市の地下にある下水構造システムに連れて行かれました。そこではネズミの会議が行なわれていて、彼等は下水のシステムに関しては法的決定が出来る権威を持っていました。彼等は相当長い時間を掛けて何かの企みの相談をしていましたが、議長のネズミが私がいるのを見つけて他のネズミに私を追い出すように命令し、ネズミたちが私に襲い掛かるところで夢は終わりました。
主はこの夢の意味を「このシカゴの町の心臓部の深いところで、この国そのものに影響する一つの陰謀が巧まれつつあるので、わたしはあなたをシカゴに連れて来た。それはこの国に起っていることについて天の法令を宣告させるためである」と言われました。ネズミたちは御国の前進を阻止する企みをしていたのです。ネズミたちは司法権をもっており、近い将来において、神の人たちと神の動きを妨害するための陰謀を協議していたのでした。それはアメリカの税法制度と国の負債額を利用して神の国の前進を妨げる企みで、違法と不正な戦略により神の人たちを縛ろうとするものでした。しかしこれらの陰謀は、あばかれ阻止されるので御国の促進は阻まれないと説明されました。地獄の会議は聖霊により、イエスの血潮によって明るみに出されるのです。今となっては大統領もその違法的やり方が行われたことを認め、それに同意しないと言っています。
そこで最初に触れましたが、2005年6月にFederal Reserve System(アメリカ連邦準備制度理事会)の発祥の地であるジョージア州ジェーキル・アイランドを訪ねた際の預言です。主は言われました。「サタンは一つの計画を持っている。しかしわたしがあなたたちを今回ここへ招集し、わたしはこの国の経済(政策)の心を正しくシフトすることが出来るようにする。この国にいるわたしの民を捕らえている膨大な借金と税務制度を逆転させる戦略を与えよう。ここにあなた方を招聘したのはこの地で一つの政府(機関・機能)である連邦準備制度が形成されたからだ。この政府機関は違法でつくられ、世界中の政府を支配して来た。あなたがたはわたしの(王国)の政府で成熟して来ているので、この地で民衆の政府機関のコースを変えてシフトさせるべく天からの布告を宣言することが出来る。わたしはあなたを呼び集め今解き放つrelease必要のあることをあなたを通して解き放つ。」
アメリカのIRS 税務局と Federal Reserve System 連邦準備制度理事会を支える屋台骨pillars は今揺れるであろう。わたしはサムソンを任命したようにあなたがたを任命する。但しあなたがたはサムソンより聡いので誘惑されて力を抜き取られるようなことにはならない。わたしはあなたがたを任命して、わたしの将来の建物として建てつつある「わたしの建物」を、敵が違法の建て方で支配しようとしているその間違った現在の屋台骨を壊すのだ。その屋台骨を押して引き倒すべく押しなさい。あなたたちが押せば状況は一変する。
今それが起りつつあるのです。(終り)
この最後の預言については私の「今月のメッセージ」にて少しご説明させていただきます。
坂 達也
12 05月
カリスマ誌4月号に載ったマイク・ビクル師のメッセージ
マイク・ビクル
過去において人類に与えられた最も力があり、最も重要な開放のメッセージとは神の恵みの福音です。クリスチャン生活はこのすばらしい真理に基づいて確立されております。その真理はキリストが十字架の上で私たちのためにして下さったことと、聖霊が私たちの日常生活で私たちの内でなさることを強調します。パウロが劇的に宣言するように、私たちはキリストにおいて新しく造られたものとなったことが私たちの生活に多大の影響を与えています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。・・・それは、私たち(私たちの霊)が、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:17-21)
新しく造られた「人」とは私たちの霊の人 spirit man のことを言っています。その新しくされた私たちの霊によって私たちは神の義を持っているのです。(21節)これは私たちの新しい法的な身分(神との関係)を説明しています。―すなわち神は私たちを神との関係においてそのように、新しいものとして見てくれているのです。キリストのうちにあって、すべてのものが私たちの霊に関係して新しくなったのです。それは神が私たちを完全に(神に属する者として)受け入れ、イエスの御名を用いる権威が与えられ、私たちの霊の中に聖霊が内住する(自分の一部として保有する)ことを含んでいます。―これらすべてのことによって、私たちが罪と病気とサタンに抵抗して打ち勝つ日常生活を(神と共に)過ごす、それは、私たちの祈りを通して神の御業が私たちのために放たれるのです。この神との新しい法的関‘係へのシフトによって(私たちがキリストを知る前の)すべての古いものは過ぎ去り、もはや私たちが犯した罪の報いとその罪が拘束する力から解放されたのです。
もし私たちが新しく造り変えられてそのような自由解放を得たのなら何が問題なのでしょうか。不幸なことに、人間のもって生まれた真理をゆがめたがる性癖が邪魔をするのです。特に人間にとって最も基本的で重要な神の救いのめぐみ grace と言う真理ともなれば、そのゆがみの影響は非常に大きなものとなりかねません。端的に言えば、そのゆがみが一つの世代全体を重大な中核的危機に陥れる可能性があります。
私たちの時代における危機
使徒であるユダは、彼の時代において大きな霊的危機と戦わねばなりませんでした。ユダの書1:3-4にこう書かれています。「 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。」
考えてもみて下さい。これだけ明確なはずのイエスによる十字架の御業がなされているにもかかわらず、イエス・キリストがよみがえられた後の僅か一世代経たないうちに、既に真の「神の恵みのメッセージ」を擁護して戦わねばならない事態が起きていたのです。しかもそれ以来はどの時代においても、この問題が常に戦われて来ました。
ユダ(の書)は、ある人々が気付かれないようにひそかに教会に忍び込んで来ることに対して警告を発していますが、当時そのような人たちは聖書の教えをゆがめているにもかかわらず、その間違った教えがほとんどのリーダーとか教会員に気が付かれなかったのです。彼等は「神の恵みをみだらな放縦に変え」(1:4)てしまい、性的に不純な行いとそれに類する多くのモラルの妥協を許容した結果、多くの信者たちは自分の罪の行いを悔い改ることなく罪の生活を続行したのです。
恐らくこれらの間違った教師たちは表面的には敬虔にふるまったかもしれませんが、彼らの私生活では色々な肉欲の行いをそれなりのゆがめた理屈を付けて正当化し、悔い改めることはしなかったのでしょう。その結果は惨めな荒廃を教会に招きました。信者たちは人気のある教師たちが教える新約聖書の拡大解釈と妥協のライフ・スタイルが許されると結論付けたからです。現実に彼等は、主を信じる者はイエスを心から愛するゆえに主の教えに全面的に従って生きることを要求する新約聖書のメッセージ(例えばヨハネ14:15、21)からは外れてしまっていたのです。
これと同じことが現在の超過度の恵みhyper-graceを説く教師たちに当てはめられます。彼等は神の愛と赦しだけを強調し、主に対する心からの愛と従順の約束を事実上無視しています。彼等は悔い改めることなしに「すべてが赦されている」ことだけを説き、又、いかなる条件も付けずに彼らのいかなる状況においても神の祝福はもらえると説きます。彼らの説くところは「私たちはイエスによってすべてが赦され、どんな状態にあっても神はすべて私たちを祝福して下さる」と言う、実に栄光に満ちたものですが、本当の真理は「主と真の親密な関係の中で生きることを求め、主に全面的に同意し、主のリーダーシップと指示の御言葉に従って生きる」ことにあるのですから、全く違ったものであるのです。
ユダの戒めは、今の「キリストのからだ」に対する深刻な警告であるのです。恵みのメッセージがゆがめられるとその他の霊的生活におけるすべてのことがぼやけてはっきりしなくなります。事実今、この恵みのメッセージを聖書の御言葉に本当に忠実なものとして保持すること以上に重要な問題は他にありません。
悲しいことに、ある信者たちはこの水増しされた恵みのメッセージが現在霊的に大きな危機を招いていることにすら気が付いていません。そのような人は非常事態にあることに目覚めなければなりません。なぜならこの戦いが、今の時代に生きる人の魂に真の救いがあるかないかの問題そのものに掛かっているからです。ユダの言うように、そのように曲解して教える教師が密かに紛れ込んで来ても、今のテレビとかインターネットの発達した時代ではそれに気が付き難い時代であるからです。現代において、恵みをまげるメッセージをする教師の中には有名な人たちもいて、その人たちは、自分の名声と人気がその人のメッセージに信用性を与えていますが、それは勿論見せ掛けの偽の信用であって、真理に忠実なものではありません。
パウロは後の時代のクリスチャンに次のようなことが起こることを預言しています。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)このような人たちは真理よりも自分たちに都合のいい、自分のしたい罪の行いを正当化してくれるような教えを聞きたがります。一人の有名なテレビ説教者は「私たちが悔い改めねばならないことをイエスが既に十字架の御業でしてくれたので、クリスチャンはもはや悔い改める必要はない」とさえ言っています。その人は明らかに黙示録2:5、16、21-22;3:3、19等でイエスが繰り返し言っている悔い改めの必要性を見逃しています。
恵み:愛の力とイエスへの従順
数え切れないほどの信者が既にこのゆがめられた恵みのメッセージの満ちてくる潮におぼれて犠牲になっているとすれば、この危機にどのようにして耐えることが出来るのでしょうか。それは先ず、聖書の真理にしっかりと根を下ろし続けることから始まります。それは、私たちが「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ 12:30) と言う神の基本的命令というレンズを通して恵みのメッセージに近づく必要があります。
主は私たちが神を心から愛して欲しいのです。なぜなら神は私たちをそのように愛して下さっているからです。この相互に心から愛する関係が御国における基本であるからです。事実これがまさしく父と御子との関係であり、栄光のミステリーと言われる「三つにいまして一人の神」の関係であるからです。(ヨハネ3:35、5:20、14:31、15:9、17:23、26参照)神の初めからのご計画は、人間を救い出して三位の神の愛の交わりに加えることにあったからです。
恵みのメッセージの中核となるものは、私たちが神と全き愛の関係に入り常に神と共に歩けるような機能を与えることにあるのです。これをイエスは「第一の戒め」と呼ばれました。すなわちマルコ 12:30にある「 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。
従って聖霊が最初にすることとは、教会において先ず「第一の戒め」を確立することなのです。と言うことはこれが私たちにとっても最初にすべきことであるのです。第一の戒めに基づかないで恵みを考えることは間違った標的を狙うようなものです。従って恵みのメッセージを第一の戒めを通して見るのでなければ、そこからゆがめられることになるのです。私たちはイエスを彼のやり方で愛さねばならないのです。イエスは第一の戒めを「従順の霊に従って愛すること」と定義されました。(ヨハネ14:15、21、23を見て下さい。)
主の御ことばに従うことを求めないでイエスを愛するということはあり得ません。イエスを愛することとイエスに従うことを求めることは同義語です。彼のすべての命令は彼の愛に基づいています。従って、聖書的恵みのメッセージとは、「私たちが(イエスの)義によって生き、不敬虔(不信心)であることを拒否すること」を教えるものであり、それによって私たちが神を愛していることが表されるのです。テトス2:11-12にこう書いてあります。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、・・・」(新共同訳)
もし不信心であることを否定しなくてよいと言うような恵みの教えを聞くなら、それは聖書的な恵みのメッセージではなく、ゆがめられたものであるのです。
法的立場と現実の状況
第一の戒めを通して恵みのメッセージを正しく見ますと、神と私たちの法的関係(立場)と私たちが実際に生きている現実の状態―それはイエスがなさったことへの私たちからの応答ですが―との間にある差を理解し始めることが出来ます。この差には鍵となる重要な違いがあるのですが、それに加えて、「過度の恵み」の主張者たちが自分に都合よく見逃している要素が見えてきます。
私たちの法的関係はイエスが十字架で確立されたことであるのですが、私たちの現実の状態は、イエスが私たちのために確立されたことに対する私たちの反応としてイエスが私たちに要求されるものであるのです。私たちの法的立場は、私たちがイエスの義を保持する者として神の前に立てることです。それは2コリント5:21に書かれている通りです。「 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(新共同訳)
この義を得ること、これ以上によい立場は存在しません。私たちがよみがえりのからだに変えられることによって得る義でさえイエスの義以上の立場は得られないのです。それは(神である)キリストご自身の義をいただくからです。しかもその義は私たちが生まれ変わった(ボーンアゲイン)その日に一瞬にして受け取ることが出来るのです。
一方、私たちの現に生きている状態は、私たちが自分の成熟するプロセスの進歩に従って義を得てゆく、すなわち、それは私たちのマインド(魂)が新しくされるrenewにつれて、私たちの行いと感情が聖霊によってトランスフォームされていくのです。
福音Gospelとは、神の義を受け取ることに関する良い知らせgood newsと言う意味で、三つの時間のテンスを持ちます。
1.Justification 法的身分の確立(無罪証明):神によって私たちの霊が義とされる―過去形
2.Sanctification(魂の浄化・聖め)現在の状態:現世において魂がきよめられる―現在形
3. Glorification(神の栄光の完成)永遠の生命:私たちに霊の身体が与えられる―未来形
私たちの救いの1/3は霊の救いによって達成されます。しかし、他の2/3である魂と身体の救いは未だ(経験的に)達成されていません。すべてのキリストを信じる者は自分の霊が救われたこと(恵み)により既に法的身分(神との関係)は確立されていますが、この世の実生活では、完全に救われた状態から見ればかなり低い救いの状態で生活しています。
救いの恵みについて多くの人が誤解している理由は、これらの真実(霊による法的身分と現世において魂がきよめられねばならないこと等)の違いを誤解しているところにその原因があります。多くの人は、イエスが私たちの法的身分のために(十字架上で)なさったことと、今この世で生きる私たちがそのイエスに応える義務があることとを混同しているのです。
イエスが既になされた十字架の御業による完全な救いの恵みが、私たち人間のために常に贈り物として備えられています。しかし私たちの日常生活で、私たちがイエスが望まれるように正しく生きるためには常に聖霊の助けによって、私たち自身が変えられる(トランスフォーム、心と思いの一新)恵みの力が必要です。ヤコブは、私たちが心からへりくだって神からもっと多くの恵みを受けて毎日を歩むことの必要性をヤコブ書4:6で「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』」と言っています。
ヤコブはボーンアゲインした信者にこれを呼び掛けています。信者は霊においては既に最高の恵みを得ているのでそれ以上の恵みを法的身分としては受けることは出来ませんが、日常生活を神聖に生きるために罪で汚れた魂が浄化されるための恵みを受けることが出来るのです。(ロマ書12:2)
イエスによる八福の教え(マタイ5:3-10)
私たちの日常生活において私たちを変える恵みをもっと経験したいと願う人は、この世に生きた最も偉大な恵みの教師であるイエスが言われたことに従わねばなりません。神の祝福(の計画)に協力(参加)する私たち信者の役割に関する最も包括的な教えが、マタイ5-7章にある「山上の垂訓」に記されております。特にマタイ5:3-10に書かれている、「イエスの八福の教え」によって、「毎日の生活を私たちがどのように生きればよいか」についての聖書的な恵みの理解を得ることが出来ます。
特に重要な教えは、5:6に書かれている「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」でありましょう。ここにおいてイエスは、私たちが日常生活において神に対しより多くの義を解き放って下さるように求める必要性を強調しています。しかしそれは既にフルにいただいている法的な身分への義に飢え渇くのではなく、私たちが持つ(古いままの)自分の性質とか人格(魂の部分)が変えられるための義が働く力を求めて飢え渇くと言う意味です。
一方、信者たちの中には、毎日の生活で自分の義が増してゆくことに飢え渇かない(関心がない)人たちがおります。それよりも彼らの関心は、救いを失わずに今までのような罪の生活をどこまですることが出来るか、そのためにイエスと話さねばならない最低の限度ぎりぎりを知りたいと願っています。
想像してみてください。今結婚式の誓いを済ませたばかりの二人が「一人となって」式場の中央廊下を手を組んで歩きながら、新郎が小声で新婦にこんな質問をします。「これからはあなたと離婚しないですむ範囲で、どの程度まで他の女性と付き合うことが出来るでしょうか。」あるいは「離婚しないですむために、あなたとは毎週どのぐらい話をしなければいけないのでしょうか。」大変な傷を新婦に負わせた挙句に、その新郎が「ところで、我々は今結婚証明書にサインしたのだから、あなたのすべての持ち物は私も共有する法的権利が出来た」と言い加えたとすればどうでしょうか。勿論新婦は、夫が彼女を全面的に心から愛しているのではないこと、結婚した理由は夫婦であることの最低の条件を充たし、尚かつ法的に問題とならない最低条件で結婚することに関心があることが分っったのです。
ある人たちは、「恵みと言うものは上記のたとえで描かれるように、神に対する真心からの愛がなくてもよい」と言うように教えているのです。それよりも紙の上で(理屈的に)必要条件を充たしているかどうかにより関心があるのです。元々の神の意図は、「神と私たちが互いに愛し合う愛の関係に入ること」であるにもかかわらずです。悲しいことに、恵みのメッセージを第一の戒めと切り離して考える時に、この間違いが起きがちです。
神の恵みをどのように受け取るか
恵みは決して濫用されるべきではありません。しかし現代のキリスト教会が危機に陥っていることが証明するように、それが起りえるのです。神は人間に、神との個人的関係に入り、神の御言葉に従うかそれとも従わないかを決める選択肢を許しておられます。―すなわち従えば、恵みによって真の自由を得る特典が得られます。従わなければ得られません。それ故にパウロがコリントの信者に「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(2コリント 6:1)と言っています。
恵みの福音は主に二つの点で間違って理解されています。一つ目は、「神の愛を私たちが努力して何かをすることによって得られる」と説明することによるものであり、二つ目は、「神の愛に応えるために、私たちは神を真に心から愛すること」を人々に薦めようとしないことによってです。
聖書的な恵みのメッセージの実は、神の愛を賜物として受けることと従う霊を同時に併せ持つことに対して確信が深まることです。もしこの二つのうちの一つの要素が欠けているのであれば真のメッセージではありません。ですから神の恵みを無駄に受け取ることとは、その恵みによって神の愛に対して確信が持てないか、あるいはイエスのリーダーシップに(すべてを)心から応じる(委ねる)決意をするだけの確信が持てないか、そのような神の恵みの受け取り方をすることです。どちらの場合でも私たちの霊的生活に大きな被害をもたらします。
一世紀の使徒ユダのように、私たちは真実な(本当の)恵みを語らないことに対しては真剣に戦わねばなりません。私たちの国の若者の魂が今、天秤にかけられています。しかし、良いニュースは、聖霊が今この霊的危機に光を当てきわだたせて見せており、聖書に書かれている真の恵みのメッセージを回復させて下さろうとしていることです。聖霊がキリスト教会に力を放ち、教会が第一の戒めを第一とする教会になることを、完全に用意が整った花嫁(黙示録19:7)を迎えに来られるイエスの再臨の前に確立することが確かであることです。(終り)
05 05月
「あなたの立っている地面をほぐして砕き、今の場所から飛び出して、前進せよ」 2013年5月5日
チュック・ピアース
以下の預言は、テキサス州にあるチャック・ピアース師の教会においてピアース師を含む数人の預言者により、去る4月14日に預言された主からの御言葉です。
「あなたの足は一箇所に長過ぎるほど留まって来た。あまりにも長いので足の下に根が生えており、わたしはそれを今根こそぎ引き抜こうとしています。あなたの足はそこから移るよりも、そこにもっと長く留まろうとして来ました。あなたの敵は、あなたがたの幾人かの足の周りをセメントで固め、あなたをそこに沈めようとさえしました。しかしわたしは言う。わたしの栄光をもって深く下り、あなたの足の根の周りに固まった土を打ち砕く。そして過去にあなたに与えたわたしの言葉と言うハンマーであなたの足の周りを打ち砕いてそこから自由に離れるようにします。そこから離れなさい、出なさい、行きなさい。」と主は言われます。
あなたがたの幾人 some かの足は主が望まれない場所に長い間植え付けられて来ました。それがあまりに長いシーズンなので、あなたの立っている地面にあなたの足型が付く程でした。しかし、主は言われます。「わたしはその場所にあなたを留まらせる意思はなく、今のシーズンにそこから出るようにあなたを召しています。」と。
「必要ならあなたの足元に火を付け、そしてかって前例がないような新しい方法であなたを動かすので、わたしが望まない場所にあなたを留まらせないとわたしは言って来ました。と言うのは、今のシーズンにわたしがあなたを留まらせたいころは、あなたが『私は主のもの、主よ、あなたは私をどのようにでもして下さい。なぜなら、今のシーズン、私は主を見上げ、あなたにだけ仕える堅い決意をしているからです。』と言う場所にしっかり留まり足型をつけてもらう計画を持っているからです。今こそあなたは、主が望まれる以外のところに立ち留まる意志がないことをはっきり宣言布告しなさい」と主は言われます。と言うのは主は「あなたの足元から、わたしの栄光が間欠泉のように噴き上げるのであなたのものの見方(考え方)がすっかり変わり始める」とおっしゃるからです。主があなたを地上から天の中空へと噴き上げ、「あなたはわたしの手(指図)によってすべてを治める」と主は言われます。
「わたしがあなたを上空に噴き上げる時、今まであなたを捕らえて来た敵をあなたは見ることが出来るでしょう。知りなさい。あなたの下の深いところで今水が噴き上がる準備がされており、それが吹き上がってきてあなたを空中に押し上げるのを」と主は言われます。
そして「その間欠泉が噴き上げるのを押さえ、わたしの栄光が吹き上がるのを抑えているのは、(他ならぬ)あなた自身の(習慣となっている)ものの見方、考え方 mindset であり、わたしは今それを打ち砕くために来ている」と言われます。「そのような考え方が、あなたを今まで限られた一つのところにあなたを立ち留まらせ、あなたはわたしが用意している最もよいものを見逃して来た。今のシーズンはそれを打ち破って前進する時であり、わたしがその古い考え方を壊し、あなたが今までに見たこともないものを見えるようにする、今まで経験したことのないことを経験することが出来るようにする」と主は言われます。
「(あなたのために)わたしはそのためのはずみ、勢い momentum を今つけようとしている。これから新しい場所に前進し上ってゆくために必要な一歩一歩のステップをあなたが踏み出せるようにする」と主は言われます。そのために、「わたしはあなたに今まで見たこともないビジョンを与えよう。わたしはあなたが低い一つの場所に留まらせるつもりはない。さあ、わたしのところに上がって来なさい。あなたの人生になければならないものを見せてあげよう。このシーズンが“そうあるべき”シーズンであり、又、あなたの生涯に絶対必要なものがあることを教えよう。そのためにわたしはあなたがたの今までの考え方mindsetを壊し、あなたが踏み入れるところがどこであるか、あなたの将来のためになければならないことが何であるかを理解出来るようにする」と言われます。(以上です。)
28 04月
「どうすれば神は私にもっと語ってくださるのか」-その3
ジャック・ディーヤ Jack Deere
「神に対して本当にへりくだっているかhumility」
聖書で、イエスの次に神の言葉をよく聞いた人は誰だったでしょうか。聖書によれば、それはモーセです。モーセの実姉であったミリヤムは、実の弟モーセを彼女と同等の人として見ていたと言う愚かな間違いをしました。主はそのことで彼女を叱責しています。
「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数記12:6-8)
主はミリヤムに、主の御声を聞くことに関してはモーセの右に出る人はいないと言っています。そのことを主は彼女に次のように語りました。「ミリヤム、モーセはもはや、あなたの弟ではない。彼はこの地球上で常日頃、わたしが顔と顔を付き合わせて語る唯一人の男である。」と語り、又同じ聖書の箇所の少し前で「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)と公に誉めています。これで分ることは、謙遜であることと、主の御声が聞けることとは密接な関係にあることです。聖書に出てくる人の中で主の御声をよく聞ける人はすべて謙遜な人であるとも言えましょう。
ダニエルも神の御声が驚くほどよく聞けた人の一人です。御使いの一人が来て次のようなメッセージを彼に伝えました。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」(ダニエル 10:12)又、ユダの王の中でも最も邪悪な王として知られるマナセ王ですら、彼が真に主の前にへりくだった時に、主は彼の願いを聞かれました。「悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(Ⅱ歴代33:12-13)
「謙遜、へりくだること」とはどう言うことでしょうか。私の好む定義は、サムエルがサウロ王を諌めた時の言葉の中に見つけることが出来ます。サムエルは「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、・・・」(Ⅰサムエル 15:17)と言いました。自分の目には自分が小さな者でしかないと思うことは、自分に価値がないと思うことではありません。あるいは、自分には能力がない、よいところがない、と言うことでもありません。そうではなく、私たちが自分の能力とか自分が持つているものを全く頼りにしていない(出来ない)と言う意味です。
主がモーセのところに来てイスラエルの民を約束の地に導き入れなさいと命令した時、モーセは「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」(出エジプト 3:11)と答えました。モーセはそんな大役を果たせる能力など自分には全くないと言う気持ちを主に表明しました。ギデオンも同じような返事をしました。(士師記6:15)
へりくだった人たちとは、自分の肉的な力とか知能、あるいは幸運がことを左右するのではなく、最終的な結末を決めるのは主であることをよくわきまえた人たちです。従って、へりくだることとは、物事が人間の意図と努力で決まると言うよりも、むしろ神のあわれみ深い力に絶対的信頼を持つことです。
へりくだった人のもう一つの特徴は、自分より低い地位にいる人と喜んで共に働き、その人に仕えることが出来ることです。(ロマ書12:10、ガラテヤ5:13、ピリピ2:3-4)このことにおいてもイエス・キリストの右に出る人はおりません。(ピリピ2:5-11)父なる神も本質的にへりくだった方であられます。それはイザヤ書57:15に「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(新共同訳)と書かれている通りです。(他にイザヤ書66:2)
又、聖書の中で最も恐れ畏まる気持ちにされる御言葉の一つは詩篇138:6です。それには「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。」と書かれています。これから明らかなことは、神はへりくだった人とは親しくされますが、高ぶる者は遠ざけられると言うことです。
中でも宗教的プライドを持つ者を神は最も嫌われます。イエスが最も激しい言葉で叱責されたのは、性的な罪を犯した者にではなく、霊的なプライドを持った人たちに対してでした。今日の教会で最も許容されている罪の中でもその筆頭がこの罪です。教会は霊的に高ぶったリーダーたちを報い、高ぶりの心から出るユーモア(ジョーク)に笑い、自分たちの宗教グループ以外の人たちを見下げます。高ぶった人たちは神からの超自然的な啓示など要らないのです。恐らくそれが原因で、キリストのからだなる教会のある一部には神の超自然的な啓示がほとんど起っていないのではないでしょうか。
主と使徒たちはくりかえしこの「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」というテーマを強調しております。(マタイ23:12、ルカ14:11、18:14、ヤコブ4:6、1ペテロ5:5)私たちが少しでも主の御声を聞きたいのであれば、この「へりくだること」を本当に自分のものとしなければなりません。イエスは心優しく、へりくだっておられましたから、彼と親しい関係にあった全ての友人たちも皆そうでした。高ぶった人たちは、私たちの教会ではリーダーになれるかも知れませんが、イエスの親しい友と言うサークルからは締め出されます。
神が私たちに与える最も高い形での名誉は、神と親密な関係intimacyになること、友人関係に入ることです。神は私たちすべての者を立派な預言者にされようとしているのでしょうか。あるいは私たちすべてにすばらしい知識の言葉を与えてそのミニストリーをさせようとしているのでしょうか。そうではありません。私たちを父に喜んでいただける賢明な神の息子、娘とするために、主は私たちひとり一人がそれぞれに必要なものを与えて下さろうとしておられます。主は私たちの心が主の愛に圧倒されるまでに御声をかけてくださり、私たちの親しい友となってくださるのです。
もし私たちが自らを神に喜んで差し出し、主が言われることをすべて喜んでしたいと願い、しかも私たちの心を神にだけ集中するへりくだった心を追い求めるようになれば、主は語って下さいます。
私が未だ学生の頃でしたが、ある時飛行機で乗り合わせた隣席の人に一時間半にわたって証をしたことがありました。私は自分の得意な知的論法で相手を説き伏せようと努力しましたが、相手は私の議論にことごとく反発して屈しません。とうとう目的地に到着する時間となり私は焦りました。その時の私は自分の「人を説き伏せる」能力に全く自身を失くしていました。そこで私は、主の前にへりくだり真に主の助けを求めました。その瞬間、主ははっきりとした声でその人に言うべき言葉を私に語って下さったのです。それは「あなたは罪人です。あなたには救い主が必要です。」ただそれだけのメッセージでした。私はその短い御言葉だけを相手に語って後は黙りました。すると、あれだけ反ぱくしていた相手の人が突然泣き崩れました。この経験を通して私は、今までに申し上げて来た三つのこと、特にへりくだることがどれ程大切であるかを学んだのでした。
しかし、こうして失った私の自信が戻って来る(訳者注:前のように御声を聞かずに自分の力で説得し始める)までには、残念ながらそれ程時間は掛かりませんでした。その結果再び主の御声がはっきり聞こえるようになる(へりくだる)までには長い時間が掛かりました。又、上記のシンプルで短い主の御言葉には力がありましたが、それはあくまで主がその時その人に必要な言葉として与えたものであったからです。その後私は何度も同じ言葉(言い回し)を用いて福音を語りましたが、必ずしもそれが誰の場合にも通用するものではないことを学びました。なぜなら神が与えて下さる「その時その時の御言葉」(御声)にはその時に(だけ)適して通用する力が備わっているからです。(終り)
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