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Walk With God Ministries


15 07月

天の御国の弟子となる   リック・ジョイナー           2013年7月15日


天の御国の弟子となる

 

リック・ジョイナー

 

 

霊の目で見る

 

マタイ13:52「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 

ある者たちは他の人間の弟子になり、またある者たちはあるムーブメントやある教派、或いはある教義を強調することの弟子となります。弟子となった学者たちに言及している聖書箇所でイエスは、彼らは「天の御国の弟子」になるのであると明言しておられます。主は明らかに彼らは地上の者や地上の事柄の弟子になるのではなく、主の天の御国の弟子になるのだということを強調しておられるのです。

 

この世のものを霊的な目で見る

 

使徒パウロは天の御国の弟子のよい見本です。彼は当時最も学識のある者の一人でした。イスラエルで最も敬われていた教師の一人であるガマリエルに師事していました。パウロは知識人でありそのエリートでした。当初その事が災いして、パウロは自分が仕えていたと思っていた神と真っ向から対立し、主の真理を激しく迫害する者となったのでした。ある人間とかある一派の弟子となったときに私たちが行き着く先はまさにそうなるのです。そして、多分歴史上最もよく知られている劇的な回心により、パウロは今まで滅ぼそうとしていた福音のために最もパワフルに戦う者と変えられたのです。どのようにしてそのような事が起こったのでしょうか?

 

主がダマスコへの途上でパウロに顕れましたが、これは誰にでも起こることではありません。けれども、パウロの回心において、天の御国の弟子になるすべての人に共通して起こらねばならないことが一つ起りました。それは、パウロは霊の目で見るようなるために一時的に肉の目を盲目にされたことです。

これは肉の学びをするなとか、自然界に関する学問をするなと言っているのではありません。パウロが学んだ哲学や様々な学問は、後に彼が福音を理解し伝道するための助けになりました。しかしパウロは、肉的な目で霊的なものを見るのではなく、 霊の目で肉のものを見ることを先ず学ぶ必要があったのです。天の御国の弟子となる鍵はまさにここにあります。

 

変革transformationされる

 

肉の目で霊的なものを見ようとするのではなく、霊の目で肉のものを見ることが非常に重要です。第一コリント2:14−15にそのことが書かれています。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」

クリスチャンがキリストの身丈まで成長するのを妨げる最たるものの一つはこれです。パウロが経験したような変革を経験した人は殆どなく、又その必要性を理解する人も非常に少ないのです。それではどのようにすればその変革を遂げることができるのでしょうか?

パウロを霊的に盲目にしていたものを打破するために、神は彼を馬から落とさねばなりませんでした。私たちのためにも神はこれと同じことをせねばなりません。しかしその結果を出すのはパウロの経験ほどにドラマティックな出来事である必要はありません。同じ結果を得るために殆どの人が通る道があるとすれば、その方がいいかもしれません。それは、主 からへりくだらされるのではなく、自らへりくだるという道です。自分を吟味しへりくだるならば、主が手をくだす必要はないと私たちは聖書から教えられているからです。

 

パウロは肉体的な視力を取り戻しましたが、その直後に霊の目が開かれたわけではありませんでした。彼自身が言っていることですが、彼は11〜13年間荒野に退いていました。その後使徒職に任じられてからも彼の変革は続いていきました。彼の長い伝道期間を通じて、大きな絶え間ない変革が彼に起こっていたことを私たちは見ることが出来ます。それは恐らくすべての人にとって一生涯続くプロセスでしょう。私たちが常に天の御国の弟子であり続けねばならない理由はここにあります。

 

膨大なこの世の知識を持ち、この世的な訓練も受けていたパウロがこの変革を通るために、他の者よりも大きな衝撃とより厳しい懲らしめ、訓練を受けたかもしれません。ある人たちは生まれつき霊的な傾向があり、霊的に物事を見ることが容易であるかのようにも思えます。しかし、ここでのポイントは、私たちはみなこの変革というプロセスを通らねばならないにも拘わらず、それを経験する人が非常に少ないということです。私たちがこの世のものの弟子ではなく天の御国の弟子にならねばならない理由はここにあります。

 

大いなる任務

間違った視点からの学びが導く先は所詮間違いであることをよく悟った歴史上の人物の一人がパウロです。彼は真理と衝突し、その結果、クリスチャンを迫害し、それによって主ご自身を迫害することとなりました。その苦い経験により、彼は「何が真理に導くのか」に関して歴史上恐らく最も偉大な教えをコロサイ1:9−20で書き記しています。

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされ、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配のなかに移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」

すべてイエスなのです。御国への鍵は「イエスがどういうお方であるかをよく知ること」です。イエスは、私たちが天に上り、天のリアリティーを証明するものと地を支配する権威を携えて地に戻ってくるためのヤコブのはしごです。

聖書が神の家に関して最初に語っているのは、ヤコブが天にとどくはしごと神のメッセンジャーがそれを上り下りする夢を見たときのことです。この神の家に関する最初の箇所は又「神の家」と呼ばれる教会の第一の目的を啓示する箇所でもあります。即ち、私たちは神のメッセンジャー が天の領域に上り、天国の証拠と地への権威を携えて地に下ってくるための道とならねばなりません。

ナタナエルに会ったときイエスは、「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます」と言われました。イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」なのです。私たちが天に上っていく道である「イエスがどういうお方であるか」という啓示がどんどんと与えられていくのです。万物はイエスによって造られ、イエスのために造られ、イエスによって成り立っています。「その道 The Way」とは「このようにすれば出来る」というような方法ではありません。それは「一人のお方」なのです。私たちはただ霊的に成熟することを追求しているのではありません。キリストにまで成長することが私たちの目標です。

 エペソ1:10に「いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる」とあります。イエスが神の究極の目的です。御父は、造られたすべてのもののうちに、ご自分の一人子を探しておられるのです。神はご自分の息子を私たちの中に見つけようとしておられるのです。ですから、神が私たちの人生の中でされること、又私たちの人生の中に起こることを許されることのすべての究極の目的は、私たちをキリストの似姿に変えることです。

イエスがすべての創造の究極の目的であることを理解することなしには、私たちはこの世界を正しく把握することはできません。使徒たちが語った福音は「イエスと死者からの復活(使徒4:2)」であった理由はここにあります。私たちがイエスをすべてのものの目的であると理解するときに、すべてのものが明らか理解されます。「イエスがどのようなお方か」を顕す以上の崇高な啓示、深い真理はありません。(終り)


01 07月

顔のおおいを取りのける            フランシス・フランジペン              2013年7月1日


顔のおおいを取りのける

フランシス・フランジペン

 

私たちは、技術を真似るとか本を読んで学ぶとかで神の栄光を見出すことはできません。主の臨在は、マニュアルに従う時にではなく、インマヌエルなるお方に従うことを学ぶときに顕れます。

これまでの教会は、私たちが未熟であったために、様々なことをして人々から認められようとして来ました。そして自分の教会がユニークであるとか、ある事に関して力を入れているとかで知られたいと願いました。ある教会は異言で話すことで知られたいと願い、あるいは立派な教会堂や伝道集会のプログラムで知られたいと願いました。又、ある教会は教会運営に独特な方法で秀でることと特別講師を定期的に招くことを掲げて宣伝して来ました。

 

主との親しさで知られる教会

 

このように人々に知られ認められたいという願望は、多くの非聖書的な伝統を教会の中に作り出して来てしまいました。そしてそれらの伝統は教会同士を引き離したばかりではなく、私たちと神とを分離し疎外してしまったのです。しかしながら今日の弟子たちは、ただ次の一事において知られるようになるでしょう。それはイエスを真に知っていることと、主との親しさによって知られるのです。主の臨在が、-それは単に主に関する教義を持っことではなく、真に主の御霊の臨在に溢れ、その人たちが主に似た者となっていること―溢れるほど多くの「小羊なる主に従う者たち」を招き伴うようになるのです。

彼らの焦点はただ主にだけ向けられているので、神は遂には彼らの人生に大いなる力でが伴うようにしてくださいます。彼らが病人に手をおくと、直ちに癒しが起こることが普通のこととなります。これらの奇跡はイエスを愛することを一番にした人生へのほんの小さな報いにすぎません。

私たちの救いは、私たちが何かをする事にではなく、イエスが私たちにとってどのようなお方となるか、即ち私たちとイエスの関係に基づいています。キリストのみが私たちの義であり、徳であり、力です! 私たちがミニストリーをする時、それはイエスの力によってでなければなりません。そうでなければ実際のところ時間の無駄です。私たちの確信は主にあるべきであり、自分自身の能力にあるのではありません。信じる者にはすべてのことが可能ですが、主から離れては何もすることが出来ないという認識に、私たちはしっかりと基盤を据えねばなりません。

 

聖なる御臨在

 

私たちが探し求めなければならないことは、自分たちが陥っている人間的伝統に気が付き、それに安眠して来たことから目覚めることです。即ち、生き生きした神の臨在を追い求めその中に入ることです。万能の神は、私たちひとり一人に天からの特別の召しを与えておられ、その霊的な目標に向かって私たちは成熟するように召されているのです。

 

この希望は、憶測とか理不尽な期待とかに基づくものではなく、神の言葉から直接私たちに語られているものです。

第二コリント3:17−18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

ここに私たちの召しに対して栄光の希望があります。私たちはみな「おおいを取りのけられた顔」でキリストを見つめるのです。ここでパウロは「私たちは皆・・・主の栄光・・・を見る We all …behold…the glory of the Lord」と言っています。神のご計画の中によれば、預言者や幻を見る人や聖人だけではなく、あなたも私も「主の栄光を見る」人の中に入れられているのです。私たちに与えられたこの「聖なる特権」とは、私たちを神の臨在から隔てている「おおい」を取りのけることです。こうして私たちには主の栄光を仰ぐことが約束されているのです。

旧約では二つの「ベール(幕、おおい)」について語られています。一つは神殿の聖所と至聖所とを分けていた厚い幕のことです。聖所では神の定められた儀式に則って毎日捧げものがなされました。しかし至聖所には神の聖なる臨在が宿り、大祭司が年に一度贖罪の日に入るだけでした。それは非常に恐ろしいことでした。

イエスが息をひきとられた時、そのベール(幕)は上から下に真っ二つに裂かれました。それはキリストの購いにより、私たちが聖なる臨在に入ることができる新しい道を保証するものでした。幕が上から下に裂かれたという事実は、キリストの生け贄は私たちのための完全な購いとなったことを示しています。幕が裂かれたのが、キリストが息をひきとられたまさにその時であったということは、御父がどのように熱い思いで私たちを神の家族に迎えてくださったのかを語っています。(マタイ27:51)

しかしもう一つのベールとして、モーセが神の臨在を離れるときに顔につけたベール(おおい)がありました。これは神の栄光を見ることに耐えられなかったイスラエルが願ったことでした。神の栄光はモーセの顔から少しずつ消えていきました。しかし、このベールの必要性も又、キリストにあって取り去られました。神はもはや特別な一人の人だけが聖なる所に入り、他の者たちは離されているということをよしとされませんでした。新しい契約は、私たち皆を栄光の一団としたのです。—「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、主の栄光を反映する」のです。

ベールとは一体何なのでしょうか? それは見えるべきものを隠す障害物です。前述のように、 宗教的伝統ではあっても神の臨在を招かない伝統はベールになる可能性があります。神のためにしているまさにその宗教的伝統が、私たちを神から遠ざけている障害物かもしれないとは、なんと残念で恐ろしいことでしょうか。

第二コリント3:14「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至まで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、とりのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。」

宗教的伝統が私たちと神の臨在との間のベールになってしまっているかどうかを、どうすれば識別することができるのでしょうか?  今まで遵守するように教えられて来た間違った伝統や人間(文化)的伝統の殻を、実際どうやって打ち破ることができるのでしょうか? その答えは、私たちがどれほど神の御ことばを愛しているか、そして私たちの心が主の御声にどれほど開かれているかにあります。私たちが主の御声に聞き従うとき、神への回帰が始るります。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。(第二コリント3:16)」今、あなたは一人で神の御前にいます。「主に向く」というシンプルな行為があなたのベールを取り除くのです。

聖書は、誰でも聖霊によらなければ「イエスは主である」と言えないと言っています。今言ってください、「イエス様、あなたは私の主です。」と。

あなたの心を主に向けてください。恐れないでください。神殿の幕を裂いたのは主のお考えであったのを思い出してください。主はあなたが近づくのを願っておられるのです。あなたが心を向けた瞬間に「おおいは取り除かれる」のです。

祈り「主イエス様、私が持っている様々な伝統をお赦しください。主よ、特にあなたの御声から離れて生きていることをお赦しください。私はベールを今取ります。今あなたの生きた臨在に私の心を向けます。」(終り)


22 06月

生きている殉教者になる ウエイド・テイラー    2013年6月22日


生きている殉教者になる

 

ウエイド・テイラー

 

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

「私は生きている、しかし私が生きているのではない。I live; yet not I」という言葉は、自分を完全に主に明け渡した人ならば、心の奥深いところで共感すると思います。

キリストと一つになることが、 このように高い次元で日常的に実現するためには、私たちは一つのプロセスを通る必要があります。イエスが主の御からだ(私たち)のかしらとしてはっきりと顕され、私たちは透明となって(見えなくなり)、人々はただ主だけを見るようになります。その時、主は私たちの人生を通してご自分のいのちを生き始められるのです。これが終末における「証人」であり、この世に大いに影響を与えるものとなります。

 

使徒行伝1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして...わたしの証人となります。」

「証人 witness」と訳されている言葉は、原語であるギリシャ語では「殉教者 martyr」を表しています。私たちは自己中心の、自分で生きるいのち(生き方)に死ねば死ぬほど、イエスのいのち(生き方)を表すものとなります。私たちはこの証人となるべき者であるのです。私たちがイエスとの個人的関係に入り、自分の意図と目的が主と一つになるときに、私たちの人生を通して主のいのちが人々に見えて来ます。

殉教者として(肉の)いのちを捧げる機会を与えられるものは多くはないでしょう。しかし私たちは皆生きている殉教者になることはできます。 「私は生きているが私ではない I live; but not I」という人生の証人となれるように、神は私たちを デザインし造ってくださいました。

 

いかにして主の証人になるか

 

「神は人をご自分のかたちimageに創造されました。」(創世記1:27)

しかし人は罪を犯すことによって、神のかたちimage(私たちの霊)を失いました。キリストの贖いの業により私たちの霊は回復されましたが、私たちはそれを育み霊的成熟を遂げねばなりません。

 

ローマ8:29「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

「同じ姿にされる  to be conformed」という言葉は、そのプロセスに私たちが服さねばならないものであることを示しています。

 

ピリピ3:13−14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえれたなどとは考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前にものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」とありますが、この「上に召してくださる神の栄冠を得る press toward the mark for the high calling of God」という機会を与えられても、すべてのクリスチャンがそれに応答するわけではありません。それには条件があり、私たちのあがないに反対する敵によって強い攻撃を受けるからです。しかし、私たちがひたむきに前のものに向かって進み続け、すべての反対を押し切るならば、私たちは「勝利者 overcomer」となるのです。

 

創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生き物(living soul)となった。」

主はアダムの中に「(複数の)いのち」の息を吹き込まれました。それは人が地上のいのちと天上のいのちという二つのレベルのいのちで生きるように創造されたからです。原語ではここの「いのち」という言葉は複数です。人は「形造られ」(soul)、次に「息(spirit)を吹き込まれ」ました。人は神に依存して生きるように造られたので、見守られ保護された環境の中に置かれたのです。

アダムが「依存する」ことを選びとるためには、「依存しないで独立する」ことを選ぶチャンスも与えられねばなりませんでした。神に依存する状態にとどまることによって、彼の霊は主と交わることができ、それこそが主の意図されたことであり、又、願いでした。アダムが善悪を知る木の実を食べたとき、アダムの「霊」の部分が死にました。アダムの罪の結果として、人はただの「ちり(soul)」となり、はじめに人に吹き込まれた霊の「分与」なしには、誰にも、また何にも堅く結びつくことができなくなりました。 そして創造主の購いの業なしには、人は自分が創造された神の意図、目的には入っていくことはできないのです。

私たちが悔い改めイエスを自分の救い主として受け入れた時、アダムが失ったもの(霊)が回復され、私たちのうちで機能し始めます。

 

神の栄光を身に纏う

 

第一ペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」

 

霊的な乳飲み子である私たちの中に回復された霊の部分は、成長、成熟していかねばなりません。購いの業によって「新生」を経験した私たちには、二つの領域に対する 認識、自覚が初めて与えられます。即ち地上(魂の領域)と天上(霊的領域)です。前者は私たちの肉的ないのちのことです。

第一コリント15:49前半「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように...」とあるように、私たちは簡単に地上の領域に対応し、その中で機能することができます。それは私たちの自然な環境であり生活です。しかし私たちの創造は地上の領域で存在するものと言うだけで終るのではありません。「二つのいのち(地上の魂のいのちと天上の霊のいのち)」が人の中に吹き込まれたからです。

そして第一コリント15:49後半「私たちは天上のかたちをも持つのです。」とあるように、私たちは「霊の領域」でも機能するように創造されたのです。しかし、私たちを魂の領域である地上に縛られたままにしておこうと暗躍する敵がいます。ですから、私たちが天上の領域で機能するためには主に依存する者にならねばなりません。そこにおいて私たちは主との関係をますます深めることができるのです。これは本当にすばらしことです。有限なもの(人間)が天の領域で無限な方(神)と親しく交わるのです。霊的ないのちという更に崇高な領域で霊的に成熟することによって、 イエスのいのちとミニストリーをこの世の人々に見える形で具現する「表現expression」に私たちはなれるのです。キリストのからだであるクリスチャンが皆で(ひとりの)イエスとなり、御父の栄光を具現し、神の千年王国を建設していくのです。

 

山上の変貌の際にイエスは、ご自分のうちにあるシャカイナの栄光を表されました。しかしその時はまだその栄光は私たちには与えられていませんでした。今、主の復活と昇天により、幕が裂かれ、私たちが主のシャカイナの栄光の中に入って主と一つになって共に輝く道が開かれました。最早「炎の剣」(創世記3:24)は私たちが主の栄光を経験するための妨げではなくなったのです。

アダムは自分が裸であるのを恥じて主の臨在から隠れたのだと言いました。この「裸」は衣服とは全く関係がなく、主の臨在の中に入り主と語りあうことを可能にしていた「シャカイナの被い」が失われたことを意味しています。

そこで主は彼らに別の「被い」を与えるためにけものを殺しました。それは過ぎ越しの小羊となり、そしてイエスの血潮となりました。私たちはイエスが与えてくださった罪の「被い」の中にとどまり主の赦しを受けることが出来ますが、アダム(私たち)が失った主の栄光で被われるまでには至っていないのです。

 

エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか...あなたがたが知ることができますように。」

多くの人は、イエスの十字架の購いによる救いの被いを受けただけで満足し、居心地よくそこにとどまってしまいます。主は私たちが失ったもの、主のシャカイナの栄光をすべて完全に回復したいと願う人々を求めておられます。

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け...」

イエスは栄光のうちに天に上られ、栄光のうちにもどって来られます。主の変貌の栄光を受けようと更に求める者たちは、終末において栄光の主の証人となり、彼らを通して、イエスご自身の大いなる臨在と力がこの世に表されるでしょう。

 

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ、やみが地をおおい、暗やみが諸国のたみをおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(終り)


18 06月

信仰について (2) リック・ジョイナー        2013年6月18日


信仰について (2)

 

リック・ジョイナー

 

 

信仰が私たちを変えます(transform)。エノクの信仰が彼を天に移したのです(translate)。

ヘブル書11:6に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(新共同訳)とありますが、ここで「神が存在しておられる」と言っているのは、過去形でも未来形でもない、現在形であることに注目して下さい。神ご自身が、自分の名は「わたしはある」I am who I amあるいは I amであると言われました。(出エジプト3:13,14)その意味は、神は常に現在形で存在している方であることを強調されたのです。

信仰の時制は常に現在形です。信仰で常に神と共に歩くのは現在形であるのです。過去に捕らわれている人、あるいは自分の立てた将来計画にこだわり捕らわれている人がおりますが、そのような人は神への信仰で歩いている人ではありません。常に「今」が存在しているのであって、常に「今」主と歩くのが信仰です。

 

イエス・キリストと言えば、過去の「ナザレのイエス」を信じている人たちがいます。その人たちは、イエスが現在天の御座に坐って、すべての権威を持っておられる栄光の主であることに心が及びません。又一方で「再臨されるイエス」だけを信じている人たちもいます。

そのよい例の一つを挙げれば、イエスの十字架の両側に磔られた二人の盗賊が、十字架上のイエスに話し掛けますが、一人は過去のこと、一人は将来のことを思って語っています。しかし真ん中におられるイエスは一人の盗賊に「・・・あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と現在形で話をされています。

又、ラザロが死んで四日経つのを待って訪ねて来られたイエスに対して、マルタもマリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」と過去に起ったことだけに思いをはせ、悲しみを訴えました。(ヨハネ11章)しかし最初に会ったマルタに対してイエスが「あなたの兄弟はよみがえります。」と言いいましたが、マルタは将来に思いをはせて「終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえるのを知っています。」と言い、ラザロが今よみがえるとは信じませんでした。二人とも目の前に立っておられる方が、栄光の「よみがえりの主」であると本当には信じられなかったのです。

 

アブラハムは主イエスを信仰の目ではっきり見ていたので、どこに行くのか分らないまま、主の言われることに従って旅立ちました。(主と共に歩き始めました。)彼は当時、世界でも最高の文化を持っていた郷里から、しかも大きな財産の持ち主であったにもかかわらず、その大部分を残して出たのです。これは彼の周りにいた神を知らない親族にとっては絶対に理解出来ない無謀なことでありました。アブラハムは夢を持っていたのです。それはイエスのビジョンを見たからです。

イエス・キリストと彼がされたこと(十字架の御業を含む)を実際にはっきりと霊の目で見た人には、この世のすべての栄誉栄光が色あせたつまらないものに見えるのです。この世の創造物は霊の領域にあるものに比べれば比較にもなりません。この世の被造物は霊の世界の影に過ぎません。私と私の影とを比較して見てください。影には私の実質は全くないことがお分かりになると思います。それと同じほど霊の世界のものとこの世のものとは比較にならないのです。

アブラハムはそのことが分ったのです。ですから神の言うことを信じて、故郷を出ただけではなく「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」(11:9)

彼は建てようと思えば、ものすごく立派な御殿を建てるだけの資産があっても、テント生活に甘んじました。11:10に「彼は堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。」とあるように、アブラハムは本当にその天にある都を待ち望んでいましたから、この世の安物の代替品では満足出来なかったのです。そして「その都を設計し建設されたのは神です。」と書かれている神をひたすら信じ求めて歩きました。

 

彼にとってこの世は、通りすがりの仮の宿でしかありませんでした。私たち信仰者は皆、この世の肉の世界から、それよりも遥かに良い世界(霊の世界)に向かって移行して行く途上にあるのです。

信仰は、どんな不慣れで予想外の場所に逗留することもよしとさせ、その人の一生を旅路として生活することに満足させます。その意味で、信仰で生きる私たちもアブララムと同じように「信仰の変人」でなければならないと思います。人があなたがやっていること見て少々おかしな「変人」だと思わないなら、あなたはもっともっと信仰を成長させる必要があります。そのために、私たちは天からの啓示と多くの天のビジョンを求めて行かねばなりません。なぜなら天のビジョンを持つ時にこそ私たちの信仰は成長するからです。

 

11:11には 「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」とありますが、信仰は子を宿す能力を与えます。信仰はこの世で普通に存在する限界とか限度を超えたことを起こさせるのです。

 

ところでアブラハムは完全な人間ではありませんでした。しかし私たちはアブラハムの時代に比べれば聖書もあり、すべてに恵まれているにもかかわらず、アブラハムよりも完全な人間になる人は少ないと言へます。アブラハムはイシュマエルのことで頭を悩まされましたが、私たちは通常もっと多くの頭の痛い問題を抱えてはいないでしょうか。しかしアブラハムには約束の子イサクが与えられていました。(私たちにはイエスがおられます。)

 

私たちが荒野を通る時に、真の信仰を持つ者の信仰は弱くなるのではなく強くなります。そのために神は約束を与える時点とその約束が達成する時点の間に、通常、試練の荒野を置かれます。その荒野を通る時に、真の信仰者と見せ掛けだけの信仰者が別けられるのです。

 

続く11:12 には「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」と書かれています。ここで最初に理解する必要があることは、信仰は数を増やす(multiply)と言うことです。信仰を持つことによってどんどん増し加わるのです。それを止めることは出来ません。

次に、アブラハムは二つの種子seed(子孫)を見たことが書かれています。一つは天の子孫、すなわち霊的な子孫であり、もう一つはこの世での肉の子孫です。とちらも数え切れないほど数多い子孫が生まれました。

 

私たちにとっても信仰によって多くのことが増し加わらなければなりません。ついては、ゼカリヤ 4:6-7 に書かれている聖句を見たいと思います。

先ず6節に「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」とあります。

ここに出てくる「ゼルバベル」の意味は「バビロンの種」あるいは、「混乱の種撒き」と言う意味です。しかし神は大きな目的を持っておられました。私たちは混乱するかもしれませんが、神はそれを通して私たちを信仰に導きます。

7節にこう書かれています。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

 

今朝ここにおられる皆さんは、それぞれが目の前に、最初は一見して乗り越えるのは不可能と思えるような大きな山(難題)を少なくとも一つは抱えておられると想像します。神は私たちが(混乱し絶望するのではなく)その山に登って征服することを望んでおられるのです。英語のcrisis と言う言葉は中国文字で「危機」と書き、それは危険を伴う困難さが「良い機会」となると言う意味であると聞きます。パウロは「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦難を経なければならない」と言っていますが、その一つ一つの艱難に御国に入る門が備えられているのです。

 

それではここで、皆さんと共に立ち上がって、それぞれの前に立ち塞がる大きな山に向かって『恵みあれ。これに恵みあれ』を大きな声で叫びたいと思います。どのような不可能と思われる山も、聖霊の力によって主が平らにして下さるのを見ようではありませんか。主は私たちが信仰によって大きなブレーク・スルーを経験し、その証をどんどん聞くことを期待しておられます。

私が一つ証をしますと、ある時ボブ・ウエイナーさんと遠方の地に出掛けることになり、二人で飛行場のカウンターまで来た時、彼が私に「ファーストクラスで行くのですね。もしそうでなければ私が払うから」と聞くので、私が「値段の問題ではないのです。勿論私はいつものようにエコノミーです」と答えました。すると、彼が切符とカウンターに向かって『恵みあれ。これに恵みあれ』(grace, grace to it!)を一緒に叫ぼうと提案したのです。早速私たちはそれをしました。そしてカウンターに近づくと、係りの女性が私の切符をファーストクラスにグレードアップしてくれたのです。私はその後、何度も試してみましたが、この「叫び」は効果があるのです。

勿論これは魔術で呪文を唱えるのとは違います。真の信仰は私たちが誰を信じているかを確認させ、私たちのうちにおられる聖霊にアピールするのです。

 

それでは、皆さんのそれぞれが自分の前に立ち塞がる山、それは人間関係の問題であるかもしれませんし、経済的な問題であるかもしれませんが、今、これから叫ぶ対象の山をはっきり心に思い浮かべて下さい。そして立ち上がって皆で力いっぱい叫びましょう。(終り)

 

(訳者注:今回の(2)では、スピーチの全部を訳しますとかなり長くなりますので、主なところを要約させていただきました。ご了承下さい。)


09 06月

信仰について (1)   リック・ジョイナー            2013年6月9日


信仰について (1)

 

リック・ジョイナー

 

 

私たちのゴールは、クリスチャンの教義を学ぶことにあるのではなく、信仰が成長することにあります。私はこれから信仰について少し掘り下げてお話したいと思いますが、その結果として、皆さんの中で大きなブレーク・スルーを経験する人が出て来ると信じます。今はそのような時であると思います。

信仰とはこの地球上に存在する最も大きくパワフルな力です。信仰を持つ一人の人は、どのように強力な軍隊とか組織よりも大きな力を持って事を成し遂げることが出来るのです。なぜなら、信仰が不可能なことのない神を動かすからです。

 

私たちは信仰について単に話すだけではなく、それを「見ること」によって、育て成長させねばなりません。信仰はからし種のように成長する種と比べられます。種は耕した土壌に蒔き、水をやり、周りの雑草を取り、育成することによって成熟させ実らせなければなりません。もし私たちがキリストの内にあって成長しているのなら、私たちの信仰が育成されることによってどんどん実がなるはずです。マタイ18:19-20で、主は「二人が心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる」と言っています。

しかしここで言う「心を一つにする、同意する」の意味は単に頭で同意する以上のことを言っています。お互いにすべての歯車がぴたりとかみ合って動くと言う状態にあると言う意味で、例えばクリスチャン用語としてよく使われるギリシャ語のkoinoniaコイノニア(普通交わりと訳される)がそれに該当します。しかしこのギリシャ語の意味は多くの場合非常に浅い表面的な意味にしか取られていません。本来は「一致・同意して交じり合った二人のどの部分を取ってもどちらがどちらであるのか見分けが付かない程同じものになっている状態」を指しています。私たちは「キリストのからだ」であると言いますが、その意味もまさに同じであって、私たちは何事においても不可能がない主と見分けが付かない程同心同意で一致していなければならないのです。又英語で言うabide in(・・・のうちにとどまる)と言う言葉も同じ状態を指しています。

 

それが信仰が何であるかの基本的な意味であり、定義であると私は信じています。それを単的に言えば、「主が誰であり、どこに座しておられ、どのような支配、権威、権力、主権の上に高く置かれている方(エペソ1:22)であるかを認識すること」であり、そのようなお方と私たちが一体となって同意すること、それが信仰であると思います。

ですから信仰はフィーリングとか感情ではありません。それは主を霊の目で見ることです。信仰とはそのような権威を持って天の御座に座しておられるイエスを見ることです。その主と共に歩くことが、私たちの持つ教義とか考え方を変革して下さいます。勿論、教義と教えは私たちにとって最初に必要であり、それを学び正しく理解しなければなりません。しかし私たちは単に教義を理解するに留まらず、信仰そのものを持ち、それに成熟していかねばなりません。

その意味で私たちはこれから毎週生きた信仰のブレークスルーを経験した証を分かち合う時を持ちたいと思います。

 

その信仰の成長のために、私たちはこれからヘブル書11章を深く掘り下げて学んでみたいと思います。第一にこの章は信仰の定義を教えてくれます。しかしイエスが御国の定義について一つだけ定義を言われたのではなくて、何度も「御国とはこのようである」と色々な説明をされたように、信仰の定義も、あまりにも大き過ぎてそれを簡単に集約して一言では定義出来ないことが分ります。しかしこの11章では信仰に関する多くの深い洞察を学ぶことが出来ます。最初に1:1で「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(口語訳)と書かれていますが、信仰は他の人が見えないことを見ることです。それは霊的なビジョンに基づいています。肉の目では見えないものを見て確信するのです。

そこで皆さんは、主がどうして私たちに「信仰で生きなさい」と言われたのか、考えたことがありますか。それよりも、私たちがすべきことを簡明に語って下さればいいではないですか。私たちは主の言われることに従いたいと思っているのですから、それをはっきりと語って下さればよいのに、と思いませんか。しかし私は思うのですが、私たちは常に(信仰で)信じなくてよい、信仰で生きなくて済む方法(生き方)を求めてはいなでしょうか。

この世では、私たちは常に部分的にしか見えず、部分的にしか預言をいただけず、部分的にしか知らされていません。主は、一人の人にすべてのことをお与えにならず、いつも必ず私たちが信仰で知るしかない部分を残しておられるのです。一方私たちは、(主の御心を知ることに関して)絶対に間違いがないと言うことがはっきりするまでは絶対に行動を起こさない(間違いを犯すことを恐れて)と決心します。しかし、それでは信仰で一歩踏み出すと言うことは絶対に起こりません。私たちは未だ肉の目では見えていないけれど、心の目で見る霊の領域があることを知り、その領域を持たねばならないのです。霊の目で見て知り、信じて行動を起こすようにならなければならないのです。

 

パウロは、私たちは心の目を開いて、霊の目で見て行動しなさいと教えています。私たちの目標は、「肉の目で見ることより霊の目で見ることの方がより現実的で確かである」と言う確信を持つようになることです。旧約の時代の預言者がそうでした。しかし私たちクリスチャンは皆旧約の時代よりもよい契約を持っているのですから、それよりよくなければいけません。私たちは新しく創造されたもの、霊的に生きるように創造されています。そのことを私たちは真に理解して、そのように成長、成熟して行かねばなりません。もし私たちがイエスに向けて成長しているのであれば、肉の領域で生きるより、霊の領域で生きる方がより自然であると思うようにならねばならないのです。

勿論新しい創造であると言っても、私たちは霊的であると同時に肉的でもあるのですから、時にはハンバーガーを食べなくてはなりません。私たちは自分の肉の身体とかその他諸々のこの世のことを処理して行くことに変わりありませんが、そうしながらも霊によって生きるように成長して行くのです。私たちは肉の人間で時々霊的経験をするのではなく、霊的に生きる者であって、時々肉的経験をする――これが「新しい創造」のあるべき姿です。そのように成長して行かねばならないのです。未だ肉の目では見えないものでも、霊の領域を見る心の目をしっかり開いて見つめながら生きることによって、そこに見えてくるものを信じるのです。そしてそれに対応する行動を起こすのです。

11:2に「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と書かれていますが、その後の11:3に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあるように、すべてのものは目に見えない領域で先ず造られることを理解しなければならないのです。あなたの召しも、目的も、デスティニーも含む、あなたの人生のすべてのものが先ず見えない領域で造られます。そこでは、他の人には見えないものがあなたには見えるのです。

 

これが信仰の始まりです。信仰とは基本的に創造的であるのです。それは創造者の神の最も重要な創造の一つです。信仰は(創造者と共に)創造することですから、信仰を持つクリスチャンこそこの世で最も創造的な人たちであるはずです。神を知って神に親しく従いながら神について行く人たちよりも創造的な人はいません。

 

11:4では「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」と書かれています。ここで気が付くのは、アベルは何かを「見た」ことです。神はカインの捧げ物を退けざるを得ませんでした。そのことがお分かりですか。カインの捧げ物を神は受け取ることが出来ない、それは永遠に出来ないのです。なぜでしょうか。アダムの罪によって地が呪われ、その呪われた地から出来た産物をカインは神に捧げたからです。神は罪で呪われたものを受け取ることは出来ないからです。しかもカインはその呪われた地から(神と関係なく)自分の働きと自分の努力で出来上がったものを神に捧げました。(信仰から出たものではなかった)

一方アベルは何かを見たのです。彼はいけにえを見たのです。血を見たのです。アベルは心の目で見たものを信仰で信じて生きたのです。信仰の父と言われるアブラハムもその一人でした。イエスが「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日が来るのを楽しみにしていて、それを見て大いに喜んだ。」(ヨハネ8:56)と言われたように、アブラハムはイエスの十字架のあがないの御業を二千年前に霊の目で見てはっきりと信じ(理解し)ました。それは多くの人が二千年後の今の時代にイエスの御業を信じた以上の信仰で信じたのです。

 

あなたは時間を超越して霊の目で何かを見ることが出来ますか。あなたはそれを見る霊の目を持っていますか。私たちが信仰を持つ時、主がご自身を最も優れた「義のいけにえ」として捧げられたことによって、私たちも、神の永遠の目的のためならば、一時的なこの世での犠牲を惜しむことなく、より簡単により速く捧げることが出来るようになるのです。真の信仰は、私たちがもう一つの「真の目的」のために生きるようにしてくれます。

 

ヘブル11:5には「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」と書かれています。この聖句のどこに、エノクのしたことで私たちには出来ないことが書かれていますか。私はエノクがしたことを私たちもしなければならないと思います。エノクが死ぬことなく天に上げられたのは目的があってのことでした。エリヤが死ぬことなく天に上げられたのもそうです。

「この二人はこの終末の時代に多くの影響を与える」と私が言うことを信じてください。二人とも今の私たちの時代がどうあるべきかを啓示しています。私たちは今移されていなければならないのです。英語のtranslateと言う言葉には「移す」と言う意味がありますが、「生きたままで天に移される」あるいは「形を変えて表す」と言う意味もあり、それを別の英語で言えば transformです。それは私たちが今「天の領域に移される」時であると言う意味です。それは私たち(の霊的成熟)が天の領域と同じレベルにまで追いつくと言うことです。私たちは常に主と共に歩いているはずです。そして主と共に生きているはずです。

 

私は人々が「私は、自分が減少decreaseするように努力している。それによって主が増大increaseすることが出来るように。」と言うのをよく耳にします。しかしヨハネはそうは言っていません。ヨハネが言っていることは前後が逆なのです。英訳で言えば”He must increase, but I must decrease.“と言ったのです。(訳者注:これはヨハネ 3:30の聖句、日本語訳で「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」の英語訳を引用して言ったものです。)すなわち「主が増大しなければならない。それによって私たちが減少し、最終的に『自分』が空になることが目標である。」と言う意味です。

「エノクは神と共に歩いた。そしていなくなった。」と言う意味を私たちに当てはめれば、キリストが私たちに代わって生きているので、私たちの「自分」の存在が徐々に空になり、いなくなることです。これが私たちのビジョンであり、クリスチャンの目標でなければなりません。私たちは、パウロがガラテヤ2:20で言ったように「・・・生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と言えるようになることです。

私たちが主と歩いているうちに、私たちの中に今までしっかり構えていた(自分中心の)自分(自我)が次第に消滅して、ついにはキリストが私たちと置き換わって私たちのアイデンティテーになることです。もし私たちがエノクのように常に主と歩けば、私たちはいなくなるのです。それは天におられる主のもとに挙げられた状態であるのです。それはよいことであって決して悪いことではありません。それは自分で自分をなくそうと努力することではありません。常に主と共に歩くことです。(続く)

 


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