Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
30 12月
主にクリスチャンとしてのあなたの意志をいつも伝えなさい
グラハム・クック
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ピリピ2:12-16
「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
あなたが持っているものの中で最も力のあるものの一つはあなたの意志です。あなたが霊的に生きるために、事を進めて行くのはあなたの意志であって、感情とか、マインド(魂の部分)とか信仰ではありません。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせます。(上記2:13)
あなたの意志は完全に感情とは切り離して存在すべきものです。聖書の中に出て来る偉大な神の人たちは皆、自分の「意志」をどのように使うかをよく知っている人たちです。その例を挙げれば、ナタナエルがそうです。(ヨハネ1:45-50参照)彼にあっては意志が感情より大きいことが分かります。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせて下さいますが、私たちは自分の感情を全く切り離して、完全に自由な意志を持つ必要があるのです。そしてあなたの意志が強くなれば、あなたの意志が感情を用います。例えば主を礼拝する感情を起こさせるのはあなたの意志です。重要なことは、その逆ではないと言うことです。
ところが、私たちは感情に支配されやすく、その気にならないとか、あるいはそのような気分(感情)でない時には、意志があっても、それを実行に移さないことがよくあります。気分がとても悪い時などは、その感情に全く支配されてしまいます。しかし、神が来られてあなたの意志を完全に自由にして下さると、自分の感情とかムードに左右されずに、私たちが信仰で神の御心を知り、それを行うことを選べるようにして下さいます。ですから、私たちは自分の意志を聖霊にどのように言い表すかを学ぶ必要があるのです。
そこで毎日の生活の中で、あなたは神の御心にそって自分がしたいと思うこと(クリスチャンとして常に持つべき意志)を自分の意志として聖霊にお伺いする(提案する)と、聖霊がそのあなたの意志を御心に添って、実際に事が運べるようにして下さいます。
聖霊に申し上げると、時には一瞬のうちに自分が捕らわれている感情を払拭して下さいます。「私は主をいつもほめたたえ祝福したい、いつも喜んでいたい、いつも感謝したい(そんな気持ちが全くしない時でも)」というあなたの「意志」が実行できるようにあなたをネガティブな感情から開放して下さるのです。
ですから、私たちは毎日を過ごす時に次のような選択をしなければなりません。すなわち、あなたの意志が毎日、いつでも感情に捕らわれていないフリーな状態であることを選ぶのです。それはちょうどイエスが、その選択をして毎日を生きられた通りです。その秘訣は、神の御心であると信じるあなたのしたいことを、神にいつもお話しすることです。そうすればあなたの意志であるあなたの霊的活動―主を礼拝し、人に証をし、又すべてを祈り、霊の戦いに臨ませること―を聖霊がさせて下さるのです。それは自分がそうしたくないような気分の日にでも「父よ、どうか気のすすまない自分を喜んでしたい気持ちにならせて下さい。」と祈るのです。そうお願いすれば、直ぐにでもそのようにして下さいます。
ですから私たちは常に、自分が御心を行いたいと言う気持ちと意志を(それは神がどう言う方であるかと言う信仰に基づいて)コンスタントに主に訴え、打ち分け、親しく話すことが非常に重要であるのです。そうすることによって、主があなたに働いて御心を行なう気持ちにならせ、あなたの感情を変え、信仰を強めて下さり、すべてが御心のままに実行出来るようにして下さいます。最も重要なポイントは、「神がすべて私たちが実行できるように事を運んで下さる」ことです。(終り)
-Approaching the Heart of Prophecyより-
07 12月
毒 う り
ボブ ・ ジョーンズ Bob Jones
私は一つのビジョンの中で、主に仕える一団の若い預言者の仲間たちがいるのを見ました。その内の一人が野生のうりを鍋の中に入れていました。このビジョンを見て、私は直ぐにそれが第二列王記4章にあるエリシャの話であることに気が付きました。その話は第二列王記4:38-41にこう書いてあります。
「 エリシャはギルガルに帰った。その地は飢饉に見舞われていた。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたときのこと、彼は従者に、『大きな鍋を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい』と命じた。39 彼らの一人が野に草を摘みに出て行き、野生のつる草を見つけ、そこから野生のうりを上着いっぱいに集めて帰って来た。彼らはそれが何であるかを知らなかったので、刻んで煮物の鍋に入れ、 40 人々に食べさせようとよそった。だが、その煮物を口にしたとき、人々は叫んで、『神の人よ、鍋には死の毒が入っています』と言った。彼らはそれを食べることができなかった。41 エリシャは、『麦粉を持って来るように』(麦粉=神の癒しの力のシンボル)と命じ、それを鍋に投げ入れてから、『よそって人々に食べさせなさい』と言うと、鍋には有害なものはなくなっていた。」【新共同訳】
これらの若い預言者の一団は、次の世代の人々に神のことば・預言を伝える人たちですが、敵がこの機会に、これらの若い預言者たち(指導者たち)を一度に殺してしまおうとしている処がここに描かれています。今まで多くの預言的指導者が毒うり-すなわち「宗教の霊」-を良い果実だと思い込んで収穫してきました。毒うりは一見よい野菜のように見えますが、その中身には死が詰まっているのです。ガラテヤ5:22-23に書かれているような御霊の実を採集する代わりに、間違った霊の野菜が煮物(彼らの食べ物)の中に多く入れられていることに気が付かないのです。ですから、このように良いものと悪いものとがミックスされたメッセージを語ることによって、それを聞く人たち(キリストのからだ)を混乱に陥れ霊的な死に至らせるという警告です。ですから、キリストのからだは現在まで、信仰、希望、愛の代わりに、苦々しくて、争いと嫉妬心を煽るような煮物(霊的食物)を食べて来たのです。
40節で若い預言者たちがエリシャに叫んだと同じように、今の教会(からだ)は預言的指導者に向かって、(本物であって混じりけのない)真理を知りたいと叫んでいるような気が私にはします。真の預言者(と言える人たち)は、今まで自分たちがそれを食べたゆえに未だ自分の中に残っている毒に気が付いたので、それを取り除くために聖めと洗浄の期間を持って来ております。伝染し易い霊的な病に預言者自身が侵されている間は、純粋な主のみ言葉を人々に語ることは彼らには出来ません。なぜならそのような状態で預言を語るなら、キリストのからだ全体が毒に汚染されてしまうからです。私たちはもっと聖められた器から間違いのない主の言葉を聞く必要があるのです。
癒しの力
エリシャは41節にあるように、神の癒しの力のシンボルである麦粉を持っていました。それを煮物の鍋に投げ入れてかき混ぜてから「さあ、食べなさい」と言い、その麦粉が解毒しました。宗教の霊は非常に長い間教会を支配して来ました。しかし私はこれから真の預言者が出て来て、それを力のあるやり方で阻止することによってその毒を除き、キリストのからだに多くの癒しをもたらすと感じております。私たちの仕事は霊的な食べ物の中に混じっている死に至る毒、すなわち宗教の霊を取り除くことです。
今は多くの偽の教義とか異端的なものが教えられておりますが、それらに対して真の預言者が一旦矯正をし始めると、それはきれいごとでは済みません。事実かなりの混乱を来たす事態となるでしょう。しかしこの問題を取り扱える人は、主に心から仕え、神の御心を真剣に捉らえて徹底的に追求する主のレムナント以外にはおりません。なぜならこれらの虚偽 untruthこそがキリストのからだを長い間毒し、結果として殺して来た、あるいはこれからも殺すことになるからです。
神に選ばれ、エリヤの霊の倍の霊をまとったエリシャ(第二列王記2:9-13)は飢饉に見舞われていたギルガルに帰って来ました。(38節)ギルガルとは原語で「信仰の場所」と言う意味ですが、私は現在の預言者が今まさに宿るべき場所であると信じます。神の霊感によって語られる神のみ言葉を聞くことに関しては、最近は飢饉の状態であったと言えます。なぜなら、多くの預言的な声として認められて来た昨今の預言者の多くが、間違った鍋から食べて来たからです。
「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書 8:11)
今こそ多くの試練を通って来た真の預言的指導者が現れる時です。そして彼らが神からの真のメッセージを語り伝えることが「本物の食べ物」をキリストのからだに提供するのであり、その食べ物の持つ癒しの力が信者を開放に導くと共に、未信者を救いに導くのです。
成熟したレムナント
主は今、成熟したレムナントを召し、彼らに新しい権威を与えて用いようとしておられます。彼等は「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれない」(コロサイ 3:2)人たちですから、お互いが一致団結して主の召しに応えることの出来る人たちです。彼らがお互いに一致する時、教会の共通な目標であるコイノニヤ(一致した交わりの関係)を持つようになり、そのような彼らには上からの知恵が分与されます。このようなレムナントは1コリント2:6-10に見られます。
「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」
過去6-7年の間、教会は厳しい試練の中を通って来ましたが、それが今終わろうとしており、まさに新しいページが開かれようとしております。一つのシーズンが終り、新しいシーズンが始まろうとしているのです。これから出て来る人たちは聖霊から直接聞くことによって教会をリードするリーダーです。このようなリーダーが推進されると、神が何をなされたいか、そして、どのようにして行うかの理解が示されるようになります。
過去に起った事の善し悪しをとやかく言うことを止めて、皆が成熟し、皆が集まる会合で神の言われることを全員が聞けるようになって下さい。そうなることによって主の御計画と目的を皆が一致して実行に移せるのです。なぜなら、主のからだが主と完全に一致・同意出来るからです。そうするとこの新しく始まるシーズンが終わる頃には大きな業が行われるようになります。そのことがヨハネ14:12-13で次のように書かれています。
「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」
天の父はマッシュポテトが好き
1974年に天の父が「わたしはマッシュポテトが好きであり、あなたたち全員がそうなって欲しい」と私に言われました。それから40年経ちます。それはつまり、主のからだである私たちのすべてが一つのからだとして一致するようになって欲しいと父が望んでおられると言うことです。そうなると、より大きな業が数々起るようになり、しかもそれが一々誰々の力でなされたと言われなくなるのです。それは団体行為であり、聖霊のリーダーシップの元ですべての信者のからだが一つとなって機能することによって、神の力が顕れるようになるからです。父は、レムナントのグループが一致してマッシュポテトのような状態になることによって愛があらわされることを望んでおられます。そして、その愛とは父と子と聖霊のために顕れるのです。
トマトとポテト
トマトとポテトは同じ種属です。トマトは地上で成長して枝に実り「誰にでも見える愛」を代表していますが、ポテトは地下で成長するので目には見えません。それは「隠された愛」を代表し、唯父のみがそれをご覧になれます。今、父への隠された愛が目に見えるように顕す用意をして下さい。そこに父の「主のからだ」に対する愛が顕され、それがマッシュポテトであり、又、コイノニアであるのです。からだが愛によって一つとなる時、そこには個人としての信者それぞれの見分けはつきません。ちょうどマッシュポテトのように彼等は皆同じに見え、主のために交じり合うのです。私たちが父に対して持つこの愛がより大きな理解を私たちに与えてくれます。すべてのものは父の御手の中にあり、父の御心ですべてのことは行なわれるのです。父は将来起ることに関して、御自分の息子娘たちに特別な理解を与えることを選ばれるのです。
からだが団体として父に対する一致した愛を持つ時に、その理解が与えられます。二百人のイッサカルの息子たちがおりました。その一致した人たちに団体としての理解(将来への)が与えられました。成熟した知恵者が一致して集まる時、より高い神の知恵が与えられるのです。このより高い知恵を私は理解と呼びます。聖霊は過去45年から50年の間、キリストのからだの中から、今これから現れようとしている人たちを備えつつ整えて来ました。
煮物の鍋の中に癒しの麦粉を投げ入れ、宗教の霊が扱われる時、からだは癒され、団体としての愛であるコイノニアで一致するのです。新しいリーダーたちが現れてそれぞれの位置に着き、その力を発揮し出します。それによって新しいことがキリストのからだに起り始めるのを私たちは見ることが出来ます。私たちが過去から現在に至るまで見慣れて来た教会の礼拝(の形式とか風景)は終り、大きく変わることでしょう。私たちが今までと同じ道を歩きながら聖霊に新しい油そそぎを期待することは出来ません。古いやり方のシステムは終わらねばなりません。そうすることによって新しい始まりに入れます。唯一レムナントだけがその新しい始まりの中に入れるのです。次のステップへの飢え渇きがなければなりません。そして今までの試されて来た時代に不動の信仰で着実に歩み続けた人たちが次のレベルの権威へと前進します。そして宗教の霊を死なせることによって、多くの人たちがその指導者の後を追います。又、その宗教の霊が頭を持ち上げようとする時、主のからだがそれを識別し、その霊が再び人々に深い根を下ろすのを阻止するでしょう。なぜなら、聖なる火がそれを滅ぼすからです。(終り)
30 11月
あなたは疲れ果てそうになってはいませんか
フランシス・フランジペン Francis Frangipane
預言者ダニエルは、悪魔がいと高き方の聖徒たちを疲れ果てさせてしまう時が来ることを警告しています。(ダニエル書7:25参照)終りの時代の最後の時にそれがどのように起るかは実際に見るまでは分りませんが、しかし既にその戦いは現実に起っております。神の預言(個人的なものも含め)の実現が限りなく遅れているかのように見えるので、それによって信者は完全に疲れ果てているのです。
皆さんの廻りに、その(執拗に攻めて来る)敵との戦いに疲れを感じている人がおられませんか。あなた自身はいかがでしょうか。もう何ヶ月、あるいは何年も前に解決されているはずの状態に、未だに閉じ込められている多くの人たちを私は知っています。彼等は神を愛する人たちですが、多くの場合、悪魔の妨害に出会って、彼らの計画の前進と彼ら自身の成熟が阻まれています。絶え間ない悪魔の妨害に出会う結果、多くのクリスチャンが徐々にですが、彼らの魂に圧し掛かってくる重圧に耐えられなくなり、ついにはそれに屈してしまうのです。
この闘いの多くは、自分の子供たちや伴侶との間に起る家庭内の不和や争いに根ざすもの、或いは彼らの属する教会内に分裂があり、それを引き起こした問題を未解決のまま引きずっているとか、もしくは仕事場での確執・争い、又は健康上の問題で長期の闘いが続行している状態などであり、それらが信者を疲れ果てさせます。このような長期の戦いが私たちから喜びや力、又クリスチャンとしての情熱を奪っているのですが、多くの者は何を奪われたのか、又どれ程奪われたのかさえ気付かずにいるのです。
又個人の生活環境だけではなく、大きなスケールで言えば世界中に色々な戦いが存在します。国と国や民族間に、ある場合には何世代にもわたる確執・闘争が続いております。
ですから、クリスチャンによるすばらしいワーシップとかプレイズの最中でさえ、天においては祭壇の下に集まる聖徒たちが常に「聖なる、真実な主よ。いつまで・・・・」(黙示録 6:10)と叫ぶことが理解できます。聖書では、初めから終りまでの間に58回も、待つのに疲れた人たちが「主よ、いつまでですか?」と同じようにを叫んでいます。
神の御計画の成就の遅延は、私たちの完全な信仰と人格の成熟のために時には神が敢えてそうされます。しかし一方、悪魔が事の成就を阻止しようとして私たちが疲れ果てて諦めるまで攻撃や邪魔をし続けることもあります。悪魔は別の名をドラゴン dragon と呼ばれ、その目的は戦いを引き延ばす(ドラグ-オン drag on)ことによってクリスチャンの力を消耗させるのです。悪魔は私たちが疲れ果て、諦め、ついには祈ることをも止めてしまうまで執拗に攻める手を緩めません。加えて、戦いの結末を予想以上に遅らせることによって、魂の疲れと苛立ちがその人を肉的に過度の反応を引き起こさせて、以前より悪い状態に追いやりかねないのです。私たちはそのような状態になると忍耐を失い、敵の攻撃に勝利することよりも、自分の肉的な苦しみから解放されることを求めてしまいます。その結果、神が期待するクリスチャンが保つべき高い標準とかその意識を現実と妥協することによって低くしてしまうことになりかねません。
忍耐強さ
聖書の黙示録にはこの perseverance 「忍耐」と言う言葉が七回も使われているのには理由があります。何度も何度もこの「忍耐する」とか「打ち勝つた」という言葉が出て来ます。又、「ビジョンを持つ」とか「聖なる動機を持つ」ことは重要ではあっても、それだけでは私たちの目標を達成することは出来ません。私たちはがまん強く忍耐しなければならないのです。がまん強さという言葉の元は severe 厳しい、ひどい、という言葉です。私たちが勝利するためには、厳しい試練の中を通らねばならないと言う事実に目をつぶるわけにはいきません。ヘブル書 10:36にあるよう、私たちが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なものは厳しい忍耐です。ヤコブ書1:2-4にこう書いてあります。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
多くの困難と試練を通してこそ忍耐強さや不動の信仰が育まれます。そして「キリストに似た者となる」品格が磨かれ、その教義が毎日のライフスタイルそのものになって行くのです。すなわち上記の「忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」が実現し、それが私たちに必要な真の霊的成熟です。
打ち破りが来る前に到達すべき品格
ダニエルが預言者の一人として、「終末に至って悪魔が聖徒を疲れ果てさせる計画を持つ」と前に述べましたが、神は彼に次のようなビジョンを与えました。「 私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。」(ダニエル書 7:21)
これがその戦いがどんな内容のものであるかを物語っています。その戦いは、時には私たちは敵の攻撃で圧倒されそうになるように感じますが、それは次の22節に書かれている時までです。「しかし、それは年を経た方が来られるまでのことであって、いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行われ、聖徒たちが国を受け継ぐ時が来た。」
ここに一つの原則があります。一度それを理解して従うならば、私たちはその戦いの勝利へと導かれるのです。もし私たちが忍耐をもって耐え抜き、もし私たちがそれによって神の高みに到達し、もし私たちが神を信じて委ね通すならば、「年を経た方」が来られ、私たちのために戦いに介入して下さる時が来ます。そして私たちが忍耐を通して強く錬られた人格を持つ者とされたことをご覧になる時、「あなたたちがここまで成熟するのをわたしは待っていた」と言われ、私たちの味方となってくださり、敵を裁かれるのです。
どのような戦いであっても―それがあなたの国のために祈ることであっても、あるいは子供たちのために堅く立つこと、あるは魂の救いのため、あるいは個人的な争いを和解に至らせることであっても、忘れないで下さい。私たちは単によい種を蒔き、あるいはよい土壌を持つことだけでは充分ではありません。刈り取らなければならないのです。―「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ 6:9)【口語訳】の御言葉の通りです。(終り)
= 以上は Frangipane 師の著書This Day We Fight からの抜粋です。=
11 11月
最近のモーニング・スター・カンファレンスでのメッセージ (2)
- - Worship Intensive Conference at MorningStar Ministries, Oct.15-19, 2013
ダン・ポッター
コンピューター・ミュージック ― 私の言う意味は、サウンドがすべてコンピューターを使って作られた(訳者注;デジタル化することによる)音楽のこと ― は人を怒らせたり、いらいらさせます。正直なところ私は自分のコンピューターで本当に心から怒ったことが何度もあります。恐らくコンピューターをよく使う人でいらいらした経験のない人はいないと思います。なぜでしょう。それはコンピューターが非常に単純なコンセプトで作られていることに大きな原因があるからです。それは binary と言われる考え方で、基本的にすべてをXかOか(0か1か)のどちらかであるとし、どんなに複雑な機械であってもすべてがあくまで黒か白かのどちらかで処理することの積み重ねであることです。宇宙には(特に霊的な領域においては)binary あるいは digitalデジタルのコンセプトでは決められない、処理できないことが多くあると思いますが、それらをすべてXかOかで処理することが人を怒らせるのです。デジタル は人間を完全に狂わせようとしています。
ところで、50年代以前に録音された古いレコード、例えばサイレント・ナイト等のクリスマスの歌を聞いて今でも郷愁の念に駆られない人はいないと思います。そのレコードはAが440ではなく432であり、又デジタルではありません。従って音が生きていて(霊の息が聞こえ)私たちの霊に触れるからです。ここでお断りしておきますが、私は音楽を奏でるバンドを悪く言っているのではありません。それを録音する方法を問題にしているのです。
これは変えられなければなりません。そうしなければ私たちは完全に破壊されてしまいます。その最も大きな理由は私たちの賛美(の point基点)が変えられねばならないからです。
人間の身体は通常62-78MHzメガ・ヘルツと言う振動数を持っています。メガは百万単位です。脳の frequency 振動数は72-90MHz、ノーマルは72MHzです。ところがとても興味が沸くことに、身体の振動数が低くなる、特に62以下になると身体に depression意気消沈とか病気を招くと言うのです。ところが私たちが日常生活している電気周波数(=振動数)は60サイクルですから、低い振動数を持つ人が壁のコンセントに近づくと私たちの身体の振動数(=周波数)を危険範囲となる60に下げる作用が働きかねないのです。これは馬鹿げていないでしょうか。ところで、60サイクルとは440ではBフラットの音です。これが432ではBフラット以下になり、心が平穏になります。不思議ですね。
〔これ以降は会場からの質問を受けてポッター師がそれに答える形式となります。〕
質問:CDでは2万サイクル以上の高音をカットしていると言うことですが、それを元にもどして高音を含んだCDは作れないのでしょうか。
ポッター:それは出来ます。但し現在のCDとは違うものになります。過去にその要望の声が強まり、業界ではSACD(スーパー・オーディオCD)と言うものを作って売り出す計画が出て来ました。想定値段も一枚27ドルとそんなに高くなく、これでもう一度みなさんにCDを買い直してもらえば、又大きく儲けるチャンスになると企画されました。しかし、これに横やりを入れて、この計画を駄目にしたのがアイ・ポッドでした。最初アイ・ポッドはCDの半分あるいはそれ以下の音質でした。後になってCDに近いところまで上げられたのですが、上限は相変わらず2万以下です。続いて出たMP3に至っては質の話をする価値もないような代物で、全く「霊の息」などないものです。又、小さくて便利なイヤープラグで聞けば、音のすべてが漏れなく聴けると言う錯覚を持たせますが、音質的には全く劣るものです。
これから起ろうとしていることがあります。もしそうなれば皆さんが思う以上に危険極まりない事態になります。預言者のボッブ・ジョーンズ師がビジョンで見たのですが、それによれば、身体が器械で作られている一人の男が地球にやって来て、その時代のすべての人間・世代を盗む計画をしていると言うもので、これは明らかに私たちに対する神からの警告です。これはルシファーがやって来てルシフェリアン・ティュ‐ニングによって世の中を完全に変えてしまうことに当てはまるように私には思えます。私たちはこれが起ることを何としてでも阻止して、私たちが元々神から与えられた基盤に戻さねばならないのです。
質問:最近ビデオ・ゲームが大流行していますが、このゲームに使われている音もCDと同じ部類なのでしょうか。
ポッター:多分、CD以上に悪いと思います。考えてもみて下さい。ビデオ・ゲームはそれ特有のハイピッチでヒステリックな音で、それを聞いているだけでいらつきます。これは興味のあることですが、人家の前を歩いていて、通りかかりの家の中で人々がテレビを見ています。その時、そのテレビそのものを見ないで、そのテレビの画面が窓に反射する影を見て下さい。まるで火がついたように見えませんか(ゆらぎも含めて)。これは暖炉で焚く焚火の火を何となく見ていると、まるで催眠術に掛けられたように魅せられ、惹き付けられるのと同じです。それと同じ現象で、眼が催眠術に掛けられたような状態になるのです。
これはハイ・デフィニッション(HD)TVが開発されるずっと以前にボブ・ジョーンズ師が警告したことなのですが、彼はテレビの画質がよくなり、画面が余りにも鮮明でリアルな映像を映し出すので、それは悪魔がテレビから出て来て人間を完全に魅了してしまうような時代が来ると預言しました。そのHDTVが普及すると共に、ブルー・レイの映画が出て来ました。そして3D画面がこれに続きます。ビデオ・ゲームと言うご質問でしたが、このビデオの開発は単なる遊びのゲームではありません。私たちを楽しませるために技術が発達して来たなどと喜んでいる場合ではないのです。これは背後の悪魔の計画が確実に進んでいて、今ではその悪魔の目的が達成されようとする寸前にまで来ているのです。それは私たち人間を、特に「キリストのからだ」を世界的な惑わしによって眠らせ霊的に死に至らせることによって、私たちが悪魔と戦うのを止めさせる計画であり、今ほとんどそれが実現しつつあるのです。
私たちは、私たちの内にあるキリストのいのちを励ますようなクリエイティブな音、私たちの内にある光りに目覚めさせるようなサウンドを見つけなければなりません。そしてそのサウンドが何であるかを人々に気付かせることは私たちが待ち望んでいる最後のハーベストが近づくことであり、そのサウンドを聞くことによってハーベストに参加する思いを人々に起こさせるのです。(拍手)
質問:今まで440で録音されて来たワーシップのCDをどうすればよいのか。
ポッター:一つ申し上げたいことは、あなたの持っている440のCDであっても、もし神の油注ぎが感ぜられるものであるならば、実際にそうであるのです。神はそれがどんな音であっても、たとえばこのテーブルを私が叩く音であっても、それに油を注ごうと思われればそうされる神ですから、あなたのCDが油注がれ、主の臨在があると感じられるならば神がそうされたと信じます。しかし、そのCDがもし432で奏でたものであったとすれば、それに癒しの力が加わってくることは確かであると思います。
間もなく、多分金曜日にでもこのカンファレンスに現われるはずのレナルド・クーリー師は最近432で演奏したものを録音してアルバムを作りました。私もその演奏に加わりました。彼は既に432の音楽を実行し始めています。今私たちはそうしなければならない時です。それと同時に、私たちはデジタルのコンセプトに打ち勝ち、それを克服しなければなりません。
これは宣伝のために言っているのではありませんが、私も最近、全くコンピューターを使わずに432で録音をしました。そのためにはかなりのコストが掛かりましたが、今はそれを実行に移す時であると信じます。実際により高い品質のCDを録音する技術は存在します。後は、それに対応する高い音質が聴けるCDプレーヤーがあればそれだけよいものが出来ます。
この問題についてはもっとお話ししたいことは山ほどありますが、後は皆さんが皆さんの教会に帰ってからぜひ研究して下さい。
さて、最後に申し上げたいことは、あなたがピッチを変えることによって、癒しが起り始めたら、何が起こるでしょうか。又、多くの人があなたの教会に癒しを求めてやって来た時に、あなたの教会では432のサウンドが演奏出来ないとしたらあなたはどう思われるでしょうか。それではお祈りします。 (終り)
訳者より
ダン・ポッター師は日本にも来られてワーシップ音楽の指導をされており、その名は世界的にかなり知られつつあります。今回初めて彼のメッセージを訳させていただきましたが、正直なところ、基本的に音楽と音に関する専門知識があまりない私には理解出来ない部分が多くあり、あるいは誤訳したところもあるかと思いますので、その点の御理解と御容赦をいただけますようお願い申し上げます。 坂 達也
06 11月
最近のモーニング・スター・カンファレンスでのメッセージ (1)
- - Worship Intensive Conference at MorningStar Ministries, Oct.15-19, 2013
ダン・ポッター
私たち礼拝音楽を担当する者たちにとってはいつもしていることなのですが、演奏する楽器の音を始めにティューニングします。そのことに関して、皆さんの中でどの位の方がA-440ヘルツにティューニングすることを知っておられるでしょうか。音楽を演奏するに当たってはどこかに合わせてスタートしなければならないのですが、現在は皆一様に440ヘルツ(サイクル)のAに合わせています。(そうするとCでは128ヘルツになります。)私たちにとってそれは当たり前のこととして長い間そうして来ましたが、実はこのAの音を440ヘルツにするようになったのは比較的最近のことで、ある時から強制的にそうさせられてなったのです。
そのことについてこれからご説明しますが、その前に一箇所聖書をお読みしたいと思います。それはロマ書10:17, 18です。私がこれから読むのは詳訳聖書からです。私はこの聖書の訳が正しくてとてもよいと思います。
17 So faith comes by hearing [what is told], and what is heard comes by the preaching [of the message that came from the lips] of Christ (the Messiah Himself).
18 But I ask, Have they not heard? Indeed they have; [for the Scripture says] their voice [that of nature bearing God's message] has gone out to all the earth, and their words to the far bounds of the world. [Ps. 19:4.] これを日本語に訳しますと、
「17信仰は〔語られたことを〕聞くことから始まり、聞くことは〔救世主ご自身である〕キリストご自身の唇から発して語られた説教のメッセージを聞くことです。18でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」確かに、聞こえたのです。〔聖書-詩篇19:4では〕「その声は〔自然物すべてのものが共鳴して聞ける神のメッセージ〕地球の全地に響き渡り、世界の果てまで届いた。」となります。
(訳者注:特に日本語聖書、中でも新改訳聖書の訳とは大分違います。)
ここでメッセージを語る主の御声がサウンド(音の波、振動、音響)として全地に響き渡っていると言うことは興味のあることです。サウンドは音波の振動として伝わり、地球を今でもぐるぐる永遠に回っているのです。であれば、いつか私たちが皆神の御前で集まっているところに、たまたま、ぐるぐる回っている「私の生涯で私が発した振動音のすべて」が披瀝されます。そうなると一生の間に私が語った馬鹿げたスピーチが皆さんに聞かれて大変な笑いものになると言う訳で、実に恥ずかしいことになります。その時私は下手なスピーチが聞かれないように大声で「主を賛美しましょう、賛美しましょう」と叫ぶことになるでしょう。(笑い)
と言うことで、私たちはイエスの唇から語られるお話を聞いて信仰が増すのです。そうです。私たちは地上で私たちの内におられる栄光の望みであるイエスを私たちがmanifest表すことを学び始めています。
ところでイエスは、彼が地上に帰って来られる前に来られることを皆さんは御存知ですよね。それは主が、雲に乗って地上に再臨される前に、先ず皆さんとか私の中に帰って来られると言う意味です。そしてその後に雲に乗って来られる時イエスは、私たちの中にご自身がおられるのを見て喜ばれるのですが、その時、歌声の大音響が鳴り響きます。それはJudson Conwell ジャドソン・コンウェル師が「プレイズとは救われた人たちが歌うものであるが、ワーシップは救われた人々に内在する神ご自身が(私たちを通して)御自分に向かって歌われる賛美である」といみじくも言ったように、地球上で爆発するような大礼拝の賛美が起るのです。
さて、先程の話に戻りますが、私たちがA-440にティューニングするようになったのは1950年代に入ってからです。その前は世界中がA-432ヘルツでした。このA-432についてグーグルを検索されると驚かれると思いますが、実はこの432と言うのは地球が造られた時の地球のサウンドそのものであったのです。つまり、創造時に共鳴、共振 resonance する音でありました。それは又、私たちの身体にある水が共鳴するサイクルであり、これによって私たちの脳の働きも活性化されます。
ですから現在使われている440ヘルツは被造物が共鳴できる自然音ではないのです。猫や犬がレコードプレーヤーの前でどんなに大きな音で音楽を鳴らしていても知らぬ顔をして反応しないのはそのせいです。
1939年にドイツのヒットラーはそれまでの432を440に上げることを提案しました。理由は440にすると音楽とか演説がより強要力を持つ、より興奮させる効果があるからです。ヒットラーはナチの音楽を440にしてその音のダイナミックを変え、これに世界中が乗ったのです。こうして第二次世界大戦に入りました。
しかし、これからもう一つの世界戦争が起るでしょう。それは440を432に戻すことにおいてです。それはこれから起きます。
それなら、どうして今世界中が、元の432に戻そうとしないのでしょうか。それはピアノをはじめ多くの楽器がそのように設定されており、今更変えることは大変手間の掛かることであり、それをする必要はないと考える人が多いからのようです。しかし、この432で演奏すると身体が音楽に共鳴しますから(身体の癒しの振動数は432)もっと多くの癒しが起こることは確かです。又528という振動数は人間のDNAを 是正することが出来るそうです。1920年に名前を忘れましたが、誰かが自分の好みの振動数を作り出す器械 frequency machineをつくり、これによって癌が100%癒されたそうです。その後その人はどうなったのでしょうか。何者かによって殺されました。あまりにも成功したからです。
身体の癒しとメディテーションによい効果があると言うA-432にティューンした音楽が、光の速度と人体をharmonize調和させる(振動を一致させる) と言われます。これを別の言い方で言えば、その音楽が人間の体内の中に光を造り出すと言ってもよいと思います。イエス・キリストは「わたしは世の光です。わたしに従う者は・・・いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言われたように、キリストによって造られた人間はその人の中に光を持ち、真実それは、「いのち」であるのです。
と言うのは、元々神は生き物を432の振動によって健康に生きるように造られており、私たちが病気になること自体が奇跡に近いことであるのです。その点からすれば、病気を持つのが当たり前のようになっている現代の私たち、特にクリスチャンは、もっと病気に対する権威を発揮すべきであるのです。科学者の分析によると、440の振動は身体にエネルギーを与えるのではなく、元々体が持つ振動のバランスを崩すと言うのです。もし病気になればその人の、特にその疾患部の振動が弱まっていて、健康な強い振動との間のバランスが崩れる。そこで432の振動が来れば、その弱い部分にエネルギーを与えて癒しに導くと言うのです。440の振動は人を怒らせ、心を憂鬱にし、又不眠症を起こす原因の一つとも言われます。一方432は心を平安にし、ストレスを少なくします。ストレスは癌の主な原因と言われます。又、高血圧症によい効果を上げ、そして心を集中させるのに役立ちます。
さて、私がモーニングスター・ミニストリーに来た年のある時、私はモーレビアン・フォールの岩の傍にリック・ジョイナーと立っていました。その時私は、「多くのミュージシャンよ、ここに集まって来い!」とに空中にむかって叫びました。それを聞いたリックは「風に向かって叫ぶのかね?」と笑いながら私に聞きました。 そうです。私は風に向かって叫ぶのです。その年のモーニングスター・ミニストリー・スクールの応募者の25%がミュージシャンでした。それが次の年には60%に増え、3年目には新しく入学した80%がミュージシャンでした。そこで学校のヘッドの人が来て、一体どうなっているんだと私に聞くのです。そこで入学の申込用紙を調べてみて分ったことは、用紙に書かれている質問の一つ「あなたはどうしてこのモーニングスター・ミニストリーの学校を選びましたか」に対する答えに「私はサウンドを聞いたのです。それでここへ来なければならないと言う気になりました。」と言うのがあったのです。「サウンドを聞いた」とはどう言う意味でしょうか。
サウンドと言うものに私たちはもっと注目しなければならない時、それが戦いを引き起こすことにもなる、そのような時に来ています。それは、すべての被造物が私たちクリスチャンの主への賛美に参加するようにされた神の御子-創造主の計画が実現する時でもあります。(このことに就いては後で触れます。)
私は長い間音楽に関係して来ましたが、その間に色々な変遷を経験しました。その最も大きなものの一つは、レコードからCDに変わった時です。レコード業界は、新しいメディヤのCDを、その他の利点と共に「サウンドがクリーンでずっとよい」と大々的に宣伝し、その結果ほとんどのレコードをCDに焼き直すことに成功し、それによって音楽業界は莫大な利益を得ました。なぜならCDにするにはほとんどコストが掛からず、又、音楽の演奏者に改めて払うお金が掛からなくて済んだからです。しかし、CDにして問題となったのは実際には音の質を落としたことです。御存知のようにCDに録音し直す時、2万ヘルツ以上の音を(フィルターを通して)録音からカットしました。それ自体はそれ程大きな問題ではないと思われました。なぜなら人間は年を取るにつれ高音が聞こえ難くなり、老人は1万2千ヘルツまで、若者は1万5千ヘルツ、一番よく聴こえる子供でも1万8千ヘルツまでで、人間の能力ではそれ以上の音は聴くことが出来ないからです。しかしこのカットしたことが大きな問題となりました。それは霊の世界の振動は2万ヘルツ以上であることに配慮していなかったことです。このカットした2万ヘルツ以上を称して「 air 空気」と言いますが、それはむしろ霊的には「breath 息」と呼んだ方が皆さんにはよりよく理解出来るかと思います。ですから2万ヘルツ以上をカットしても可聴周波数的には問題はないとしても、演奏者の心とか霊的なものが全く感じられないのです。特に音楽の背後にいる悪霊を識別出来ないことが私たちに大きな問題を残しました。実際にCDが作られた時の最初の音質はドライで、硬い、奥行きがないと言うことで非常に不評でした。そこで業者は苦肉の策として、シューと言う高音のノイズを加えてCDの限度を気が付かせないようにしたのです。
問題は、それ以来新しい世代のサウンドとして、霊的に惑わしがある音楽が多く出て来るようになったことです。その一例は、同じ節を何度もくりかえす音楽が多く出て来ました。その何度も繰り返し歌うことによって(麻薬でとか呪文にかけるかのように)人を惹きつけ、おぼれさせてしまうテクニックが巧妙に使われるようになったのです。クリスチャンでもそれにめり込んでしまう理由は、音楽の背後にある霊の識別が出来なくなったからです。それが出来れば、繰り返して歌う部分が霊的におかしいと感じた時に、いち早く警戒することによってはまり込まないで済むからです。
又、古いレコードをCDに変えることによって、古い世代の人たちが益々若い人の音楽について行けなくなったのは事実です。CDが出回り始めたのは80年代の終り、90年代に入ってからですから、今50歳以上の年配者はCDの音よりもレコードの音により親しんで来たと言えます。つまり、2万ヘルツ以上の「霊の息」を音楽から感じることに慣れ親しんだ人たちです。ですからそのような古い年代の人たちは、新しい年代の音楽、特に霊的な息が欠如しているものを聞くといらいらして来るのです。
音楽に対する年代間の差はいつの時代にもありましたが、特にCDの出現を境にそのギャップは益々大きくなったと言えます。しかもそれが霊的に重要な意味を持つのです。しかし、この年代間の分裂 splitが大きくなるのを許されているのは神の御計画であると信じます。なぜなら、神は私たち人間社会のかけ離れた父と子の関係を修復して、この地上にある最も大きな「のろい」の一つから開放することを計画しておられるからです。
音楽に関する現在の年代差は、音楽のスタイルとかメロディーの問題ではなく、サウンドにあります。ですからこの問題の解決策はあるのです。
昨夜の集会のワーシップでは私たちは432で演奏しました。(拍手)これは真実ですが、昨夜の礼拝音楽を聞いた人の中で癒された人が出て来ました。そして、気が付かずに癒された人も大勢いることを私は疑いません。保証します。なぜなら神は神の正しいサウンドを解き放って、それが人間の身体に触れ、癒す必要があるところを癒さないことはあり得ないからです。
100年も前に存在したルドルフ・スタイナーと言う人は(訳者注:Rudolf Steiner 1861-1925、オーストリア人、ウイキぺディヤによれば、第一次大戦1919後のナチの台頭で、晩年にヒットラー等と理論闘争した社会改革・教育・哲学・精神科学者)人間が440と言う「ルシファー的Luciferic blightness」サウンド を使うようになることを警告しました。彼は440を悪魔のサウンドであると言ったのです。ピッチ440は悪魔・ルシファー的ティューニングであり、地獄から来たものです。しかも私たちはそれを毎日聞いている・・・私はそれを知って心底から怒りを覚えました。スタイナーは440にティューンする音楽は、人間の貪欲の力を増すものであるとも言いました。私たちは悪魔に完全に惑わされて来たのです。ところがそれに気が付かないのは人間だけで、被造物全体はそれを知っていて、今まで「うめいて」来たのです。(ロマ書8:22)私たちが目覚めるのを被造物は待っています。神はこの432と440のティユーニングのことが、人間と悪魔との戦いにおける次の大きな対決となるとし、今私たちを目覚めさせ闘いへの準備を整えつつあるのです。(続く)
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