Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
25 03月
天の窓を開ける信仰の戦い
チャック・ピアス
敵の攻撃
信仰に満ちた皆様
これまでサタンは神からの祝福を私たちから隠すために覆いを用いていましたが、今はそれが取り除かれる時です。エゼキエル28:14に「You were the anointed cherub that covers with overshadowing wings. あなたは被い隠す翼で覆う油注がれたケルプである(直訳)」とあります。サタンは地に落とされたとき、地上の資源や祝福にその覆い掛けたのです。「今まで敵が土地、資源、恵みを隠すために使っていた 覆いは、今や切り裂かれ切り開かれました。天使の軍勢がやってくると、一瞬にしてわたしの民を整え直すので、彼らは新しい体制(formation)になります。」と神は言われています。
あなたの回りのムーブメントに目を留めてください。一旦神が私たちを新しい体制にするならば、あなたは敵が壊したり破ったりした箇所がどこであるかが見えるようになります。ですから、あなたはいつもすべてのものに対して 戦う必要がなくなり、又、啓示を受けたときに何をしていいかわからないこともなくなります。むしろ、あなたは破れた箇所がキチンと見えるので、主に「主よ、これは何ですか? どうやって入っていけばいいのですか?」と聞けばよいのです。あなたが破れを見つけたならば、それが神からあなたに与えられた新しい仕事(assignment)となります。
主は言われます。「もしあなたがそこに入って破れが修復されるまで堅く立つならば、あなたの前進を妨げるために敵がしていることをわたしは取り除きます。わたしの民は今新しい信仰の戦いへと入っていくでしょう。彼らは命令を受け、前進し続け、どこで栄光が失われているか、どこに破れが出来たかを見極めねばなりません。
しかし次のシーズンのための信仰の戦いは今やすでに解き放たれています。そしてわたしには力ある民がいます。喜んで服従する民がいます。用いられる準備の整った資源を今持っている民がわたしにはいます。止めることのできない、決して止まらない民をわたしは持っているのです!
ユダ族の獅子は今、敵を混乱に落とし入れる音サウンドを持つ体制を造り上げています。最初の破れはわたしの園で起こりました。あなたは先のシーズンでその破れに起因する寒さの中に進んで立っていたので、わたしはいまあなたがたのただ中に祝福を生み出します。
もう一つの破れは、解き放たれるべき資源と関連しています。すべて神をないがしろにする霊は打ち破られます。次の破れは先のシーズンで実りがなかったことと関連しています。わたしはわたしのからだである教会に癌や病気をもたらしたものを剪定するので、新しい果実が出てきます。あなたは今や、次の信仰の戦いへと任命されました。わたしの軍隊は勝利するのです。」以上が神からのことばです。
私たちは皆さんがこのムーブメントの中の一員になることを宣言します。新しい体制の一員になってくださることを感謝します!
信仰の大盾
エペソ6章にある信仰の大盾には、「thuria」という言葉が使われています。それに関してここで「Restoring Your Shield of Faith 信仰を回復させる」という私の本から抜粋させていただきます。
(以下、本からの抜粋)
黙示録は敵の攻撃の性質や戦略について深い洞察を与えてくれるものです。黙示録の中で、使徒ヨハネは激しい迫害の時代に超自然的なヴィジテーション(天からの訪れ)を受けました。迫害のさなか、ヨハネは全能の主なる神が統べ治めておられるのを見たのです! ヨハネはパウロと声を合わせて「毎日の生活の中で主に従う者たちは、絶えざる霊的戦いの渦中に入れられる。」と私たちに語っています。主がヨハネを訪れたとき、主はその地方の7つの主要な教会に関するメッセージを彼に与えました。このメッセージは又、今日の教会への神の御心を私たちに示すものでもあります。
ヨハネは黙示録4:1で次のように語っています。「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門(ドア door)があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』)
信仰の大盾はdoorという概念と密接に関係しています。doorはギリシャ語ではthureosで、 四角い盾を表すthuraから派生しています。ドアは家やテントや部屋を出入りするための入口です。ドアは聖書の中で様々なもののシンボルとして用いられています。アコルの谷(ヨシュア7:26)は災いの場所でしたが、後に「望みの門 a door of hope」になると約束されました(ホセア2:15)。その約束は、神の民をもう一度主に信頼させる要因となりました。私たちの艱難は、新しい勝利への入口へと変わり得るのです。
イエスはご自分を「門 the door(ヨハネ10:7、9)」と言われました。主を信じることが神の御国に入る唯一の道です。神は又、異邦人に「信仰の門 the door of faith(使徒14:27)」、即ちイエスを主と知る機会を与えてくださいました。イエスは戸の外に立って叩いておられます(黙示3:20)。主はすべての人を招かれておられます。しかし、主は私たちの許可なしにはお入りになりません。私たちは「どうぞ主よ、私たちを新しいチャンスのドアに 導いてください。」とお願いし、又 私たちがそのドアに入る力を頂くために、主が私たちの内に入る許可を差し上げようではありませんか。私たちの心のドアを開けて私たちが新しいチャンスのドアを入って行けるようにしようではありませんか。
パウロは常に新しい奉仕のドアを捜し求めていました!そして彼がイエス・キリストの名によって働くために入っていくドアが次々に開けられたのです。1コリント16:9には「というのは、働きのための広い門(a great and effective door)が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからからです。」と書かれていす。私たち一人ひとりの前には 伝道の機会への多くのドアがあります3。しかし、私たちに信仰のドア(大盾)が設けられていないと、ドアの後ろにいる敵に私たちは敗北してしまうのです。
私たちの信仰の盾、ドア、を高く上げようではありませんか。私たちはそのドアから主が導いてくださる新しい地に行くことを恐れる必要はありません。これからどれほど多くの敵が私たちの行く手に現れようとも、私たちの信仰の大盾はすべての火矢を消すでしょう。エレミや46:3は「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ!」と励ましています。自信をもって前進して行き、盾を高く上げてください。そうすれば勝利は約束されています。
ローマ軍の盾
神の民に対するサタンの攻撃がどのようなものであるかを見てパウロは、クリスチャンの霊的戦いはローマ軍の実戦に喩えることができると考えました。古代の戦いでは敵を恐怖に陥れるために矢を敵にむかって嵐のように 射ることがありました。もし私たちが兵士であって数千本の火矢がこちらに飛んで来たならば、 「ここから逃げねばならない!」とまず考えるでしょう。私たちがサタンの攻撃を受けるときもそのように感じることがあります。ローマ軍はこのように敵が攻撃して来たときのための堅固な防御策がありました。多くの場合、これこそがローマ軍に勝利をもたらした秘密兵器でした。その兵器とは盾でした。
この盾は映画によく出てくる丸い金属製のものではありません。ローマ軍の戦闘用盾は兵士の全身を覆い隠すことができる大きな長方形のものでした。ローマ兵は盾を身体の前に位置して互いに肩と肩を寄せて戦車のように戦場を横一列に行進していくのです。使徒パウロは私たちのサタンとの戦いについて考えたとき、神はこれと同じ盾を私たちに下さっていることに気がついたのです。それは信仰の大盾です。
パウロがこの盾について語るとき、彼はローマ軍の戦闘用盾の言葉を用いています。それは「thureos」で、ドアの形をした盾という意味です。(ギリシャ語でドアを表すことばは「thura」)thureosは高さ1.5メートル幅90センチほどの長方形の大きな盾です。それは 城の盾(castle shield)とも呼ばれました。即ち移動式砦だったのです。
この盾がどのように造られるのかに私は興味を持ちました。大盾は非常に大きいので、木やメタルで全体を造ると重くて運ぶのが困難になりました。そこでローマ人は大盾を造るのに、まず木で枠を作りました。枠の上に丈夫な雄牛か子牛の皮を12センチほどの厚さになるまで7枚張り、釘でしっかりと打ち付けます。兵士たちは戦場に出かけるのに先立って、近くの川に盾をしっかりと浸して、矢を止めるだけではなく、火も消せるようにしたのです。
イエスという名の私たちの盾
私がローマ軍の盾について調べていたとき、神が私に啓示を与えてくださいました。盾がどのような構造かを考えてみてください。雄牛か子牛の皮が木の枠の上に張り延ばされるのです。旧約では罪のの生け贄は雄牛か子牛でした。ですから雄牛や子牛の皮は贖罪のシンボルです。一枚の皮では充分ではありませんでした。盾として充分に役立つためには盾作り職人は7枚の皮を重ね合わせたのです。7は完全を表す数字です。これは完全ないけにえを表しています。この完全ないけにえは木の枠の上に張り延ばされ、打ち付けられました。その目的は兵士に向けられたすべての矢を受けるためでした。
この盾が表すものを見てください。贖罪の完全ないけにえを神は御子イエスを通して与えてくださったのです。この完全ないけにえは木の十字架に貼付けられ釘で打たれたのです。主イエスの目的は私たちへのサタンのすべての攻撃をご自分で受けるためでした!神は私たちにイエスという名の大盾を下さったのであり、そのことを私たちが知ることを願っておられます。イエスは私たちの盾となるために来てくださいました。サタンが私たちに向けて放つすべての矢をご自分に受けるためにイエスは来てくださったのです。(終)
17 03月
妥協のない者たちの群れ
シンディー・マクギル
今、何が起こっているのか
今は全く予想がつかない時代であると、皆さんも感じておられるでしょうか。
神は一歩ずつしか私たちに指示を与えてくださらないように見えます。ほとんどの人は長期のヴィジョンはベールに覆われていて、 先に進むことができず待たされているように感じています。しかし神は私たちの信仰のレベルを高めていてくださるので、私たちのためのご計画を必ず成就してくださることを信じることができます。私たちは信仰に堅く立ち、今年は恵み、召命、変革、開かれたドアの年であることを信じます。私たちの人生が神によってアレンジされ、神の最大の臨在が顕れるために戦略的に配置されていることを感じています。
更に、今は癒しと回復の時であるように見えます。多くの者は落胆や失望、裏切りを経験しています。しかし主は、神の民が目を覚まし、自分の目的にむかって歩き始めるようにと召しておられます。「整列!位置につけ!」の号令がかかり、戦場での強い力となるように召されているのです。今は解放され召命を受ける日です。神の計画と目的は、あなたが傷ついたり幻滅したからと言って終るものではありません。
これから、偽りのプランや計画が暴露されていきます。妬みやプライドで働いてきたリーダーは、御父の心で牧者のように導くリーダーに取って代わられるのを見るでしょう。
神の心で正しく事を忠実に行ってきた知られざるリーダーたちが、急速にトップに押し上げられるでしょう。「のがれの町」が作られつつあります。そこは人々が癒され、回復されるために設けられた安全な場所であり、彼らは変革に参加するようになります。この場所は人々が休息し元気を取りもどすオアシスであり、人々の計画やヴィジョンをもう一度よみがえらせるのです。このようなコミュニティーは、いのちを吹き込み、将来のための新しい出発点となります。
不正に取り扱われた人は、それと同じ分野、場所でより大きな権威を持つ資格を与えられます。私たちは過去に住むのを止めて、約束と昇格に満ちた未来を胸にしっかりと抱くことができるのです。
自分のアイデンティティーを守る
本当の「あなた」、前に出て下さいませんか? すべての人は自分の本当のアイデンティティーを探しています。あなた自身であることぐらい解放されることはありません。誰かの真似をしたり、他の人のミニストリーを真似ることが賢明であることなど決してありません。神はあなたがあなた以外の誰かになるようにとは召してはおられないのです。私たちは他の人々の意見から自由になってきています。あなたは神から出たものであり、あなたの心には真のアイデンティティーが焼き付けられているのです。
神がどういうお方かを知るとき、私たちも自分が誰なのかが分かります。自分の本当の姿で生きるとき、あなたが解放されるだけではなく、まわりの人々も解放されるのです。他人の意見という足かせを解かれて、あなたは今までになかったように自由に羽ばたくのです。あなたという人は他にはいません。自分に真実に生きることが一番大切です。あなたが自分に最も真実に生きるとき、神が最も純粋にあなたを通して表されるのです。
うさぎを見ましたか?
ポーチにいた犬がうさぎを追いかけはじめる比喩を聞いたことがあります。その犬が他の家を通りすぎると、その家の犬もうさぎは全然見ていないのに、その あとを追いかけ始めました。しばらくすると、何匹もの犬が列をなして自分のすぐ前の犬を追いかけるという結果となりました。しかし、神があなたに与えられた召しはユニークなのです。あなたが他の人を追いかけるのではなく、確かに神ご自身を追いかけるように注意してください。
霊の父と母が起されている
私たちの霊の父の一人であるボブ・ジョーンズ師は天に召されましたが、今年神は、次の世代を指導できる知恵と経験を持つ多くの霊的父、母を起されています。彼らは多くの戦いを経験してきた者たちであり、聞く耳と忠告を受け取る用意のある次世代のリーダーを指導できる真実な心と徳を備えています。私はヴィジョンで非常に大きな耳で聞き指導を受ける用意が出来ている人々を見ました。聞くことは勝利を得るための大切な要素です。これから現れてくるリーダーたちは、賢明で、教えを守り、自分の先を歩いた霊的父を尊び、試煉の時にも揺るがされない人格を立て上げて行きます。
これら霊的親たちは、ありのままの真実を語ります。彼らは時というテストを経て、人生の嵐を忠実に信仰をもって通り抜けて来ました。彼らは自らが手本となって導くので、聞いて学ぶ心を持つ息子、娘たちに多くの知恵と教訓を与えることができます。そして霊的親と霊的子が共に働くときに相乗効果が生まれ、この世も注目するようになります。それは闇の王国に投げ込まれるダイナマイトのように大きな力を発揮するでしょう。
あそこに宝がある
私は、大勢の人がヘッドライトのついた鉱夫用のヘルメットをかぶって立っているヴィジョンを見ました。外は非常に暗く、みんなは多くの人々が捕われている深い洞窟の中に入って行く準備をしていました。ヘッドライトは大層明るく、主の天使が先頭になり、その後ろからみんなも入り始めました。
暗やみの中にいる人々を見つけて救出せねばなりません。私たちが前進して行き、道をまっすぐに整えるためのすべての働きを、神は祝福してくれるでしょう。天使に助けられて働くことによって、今までになかったような恵みと権威を、私たちが遣わされた場所で受けるでしょう。深い闇の中に捕われていた人々は光に引寄せられ、闇から出て来て、今度は他の人を救出する強い勢力となりました。
イザヤ45:1−3「主は、油注がれた者クロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それはわたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。』」
妥協しない者の群れ
私の友人が非常に大きなビルを一つ贈与されました。彼はビルを探していたわけでもなく、教会を建てたいという願望もありませんでした。しかし、主が彼に「あなたは教会を建てるのではありません。ムーブメントの中に踏み込んでいく軍隊を立て上げるのです。」と語られたのです。この群れは勇気、信仰、行動において少しも妥協しないので、その結果として、今までになかった最も偉大な神の御霊の傾注が彼らの上にあるでしょう。
真理を探求している人が非常に大勢います。これは御国を打ち立てるための努力であり、多くの異なる流れが一つとなり共に働いて御国を進展させるでしょう。私たちが「真理の御霊」、即ちイエスご自身に従うとき、神の群れは妥協することなく神の導きと力で動くのです。この油注ぎは邪悪な王たちを失脚させます。そしてあなたの前の門戸は広く開き、最早それを 閉じる者はいません。このような戦略で行動すれば、あらゆる牢獄から捕われ人を解放するための道は明らかに示されるでしょう。神はご自分の財宝に目を注いでおられます。それは悪霊の力によって虜や奴隷として捕われている 者たちであり、神は彼らを愛しておられるのです。
イザヤ61に書かれている油注ぎは、捕われ縛られている者を解放するためのものです。悪魔の邪悪な計画や策略からの解放は、今年勝ち取られます。神は私たちが思いもかけないような方法で顕れ、御光を持って暗やみの中を勇気をもって進んで行く人たちを通して、ご自分の力を現してくださいます。ある人たちは罪の報酬をすでに受け取ってしまい、「つかの間の享楽」も終りを告げました。しかし今、破壊的な道から抜け出たいという強い願望を人々が持ち始めたのがはっきりと分かります。
リラックスしてください、神が運転しています
私たちを召して下さった方がすべてをコントロールしておられることを知る時、私たちは安心できます。どうか神の平安に覆われて、神があなたを行くべきところに導いていてくださるという保証を受け取って下さい。絶対してはならないことは、何も起こらないと思って焦り、 神からハンドルを取り上げて自分で運転しはじめて問題にぶつかってしまうことです。
あなたの未来を知っておられるお方にだけ、あなたの心と思いをいつも留め、主のご計画に合わせて行くようにして下さい。 扉を開けるのも閉めるのも神です。計画には タイミングと適合性があります。いま物事はあなたのために調えられています。あなたは、あなたのために備えられた場所にぴったりと適合するのみならず、あなたが繋がるべき人たちともぴったりと適合します。資金、資源はすべてこの仕事の中へ既に送りこまれています。
今は新しい時、新しい仕事、新しい一致、新しい導きの時です。私たちができる最善のこととは、自分の悟りに頼まないで、今私たちが進むべき道を神によって日々開いていただくことです。(終り)
10 03月
神の祝福を喜び祝う - 続き
ビル・ジョンソン 於リバイバル・アライアンス
知恵の3つの姿
知恵は、基本的に3つの姿で顕されます。箴言の中に繰り返し言われていることなのですが、それは「創造力、優秀さ、誠実さ」です。しかし、私たちがテストされるのはこれらに関してではありません。私たちがどれほど創造的であるか、優秀であるか、誠実かをこの世からテストされるのではなく、この世は私たちが与えられた「資源、権威、神からの祝福」をどのようにマネージして扱うかを見ているのです。権威を用いる第一の方法は正義、公義を行うことです。聖書は多くの宝が貧しい者の立っている地の中に埋められていると言っています。しかし不正が彼らにそれを掘らせないのです。権威がそこに行って不正を打ち破ることによって、彼らにその宝を手に入れさせます。施しや贈り物はそれはそれで大切ですが、与えるだけでは問題は解決しません.不正を打ち破ることで解決します。神はこのために私たちに権威を与えておられます。
それでは神からの好意、祝福をどのように扱いますか? 「神が何かすばらしいことをしてくださって自分はとてもうれしいのだけれど、高ぶっていると思われたくないので、あまり人には言わない」ということがあります。私たちが地上で生きる日数には限りがあることを知っていますね。そして私たち個人の力、肉体的、感情的、霊的、知的能力には限りがあることも知っていますね。それを越えて何かをしようとするならば多くの悲劇が起ります。
それと反対に私たちは無限の資源を天に持っていることもよくご存知ですね。それでは、どうして教会は繰り返し限りのあるものを犠牲にして無限なものを引き出さないでとっておこうとするのでしょうか。それは人を恐れるので、 無限にあるお金を守るために限りある人間的な財力を使い果たすのです。それが御国でしょうか? それは宗教的な事であり、人はあなたを誉めるでしょう。しかしそれが御国ですべきことしょうか。あなたはまわりにいるすべての人から認められるでしょう。しかしそれが御国でしょうか。神は今改革のためのシフトを一人ひとりに用意されていますが、真剣にもう一度お金をどのようにとり扱うかについて考え直す必要があります。勿論、惜しみなく人に分け与える寛大さは基本であり第一義的なことです。私にとってもそうです。しかし主は管理とマネージの点で私たちに教えたいことがあるのです。私たちは単に「気前が良くてやさしい人」として知られるだけではならないのです。
荒野と約束の地との違い
イスラエルがエジプトを出て約束の地に入るというのはとても分かり易すく、自分の人生に当てはめることができます。ここで私にとって痛いほどはっきり分かったことがあります。それは「毎日の必要を主により頼む」というライフスタイルを、 クリスチャン生活の究極の理想だと必要以上に称賛していたことです。しかし、皆さん、それは荒野での生活の仕方であって、約束の地に入ってからの生活ではありません。私の父は牧師でしたが、ずっとクリスチャンは祭司であることを教えていました。70年代の初めの頃から教会から王たちが社会に出て行き、そこで奇跡を起すことが強調されて来ました。そして多くの奇跡が起こりました。個々の奇跡だけではなく、社会が変えられて行きました。教育、政治,経済界にいる人々の上に油注ぎが画期的に増加しました。それは自分の召しに対する油注ぎをみんなが自覚したからです。 「王はマーケットプレイスに出て行き、祭司はミニストリーをする」という形でした。強調されたのは王たちが祭司と同じ油注ぎをもってマーケットプレイスで働くということでした。
しかしこれからの数年にシフトが起り、今までのように祭司が王に霊的分与をするのではなく、王が祭司に霊的分与をするようになるのです。王のやり方こそが約束の地での生活だからです。教会が受け取る十一献金や捧げものは教会の収入のほんの一部という教会が沢山でてくると思います。これは教会が宝くじに当たるとかではなくて知恵によるのです。神が与えてくださるものを適切に管理、マネージするところからくるのです。教会が神から受ける恵みを自らの名を高めるためではなく、主のために知恵をもって管理するかどうか、この世は見ています。神が与えてくださる資源を私たちが恥と思わないで、回りの人々に影響を与えるために用いて行くのです。神は私たちを「仕える者の心をもって治め、王の心で仕える者」として召しておられるのです。私たちがそのような権威をいただいたのは、回りの人々がよりよくなるためであるということです。
シバの女王の言葉
シバの女王がソロモン王に会ったとき「主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王として公正と正義を行なわせられるのです。」と言いました。神はイスラエルを愛したが故にソロモンに知恵を与えました。つまり 神が私たちに途方もない恵みを与えてくださるのは、 神の愛する人々が私たちを通して恵まれるためだということです。もしその恵みを自分だけにとどめておくならば、それは大きな間違いです。自分もそれによって恵みを受けないということではありませんが、神の目的は私が出会う人々に力を与えることです。神からの私たちへの資源、恵みはそのためなのです。恵みを受けた者としてあなたは自分の選ぶ人に王の笏を差し伸べることができます。その人はあなたによって神の訪れを受けるのです。
祝福を願う祈り
この考えが聖書的であるか見てみましょう。
詩編67:1「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」
まさにこれは主に祝福を願う祈りです。それによって私たちは効果的に人々を祝福することができます。私はこれを読んだとき、祝福を願うのは良いことなのだと知って大変うれしく思いました。
私は犠牲的に献げることを信じています。私たち夫婦は超自然的に神様が満たしてくださることも何度か経験しています。そのような奇跡が今も続いていることを感謝します。私の大好きな話は、「宣教師の家族が何も食べ物がないのに食卓に空の皿をならべ感謝の祈りを終えたとき、戸を叩く音がし,食べ物を持ってきた人がそこに立っていた」というものです。これは本当にすごくすばらしいお話だと思います。私は神がそのように必要を満たしてくださる方であることはすばらしいと心から思います。しかし、私は食べ物を持って戸を叩く方の人になりたいのです。
「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださいますように」とありますが、これは「主の臨在の顕れのない祝福はいりません」ということです。人が私を見たとき、何かこの人には違うものがある、と分かって欲しいのです。私たちの町では、「あなたの教会員がうちの会社に入ってから何かが変った、彼が来てから会社の空気が変わった」といわれます。2節に「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」とあります。これは驚くべき言葉です。「神よ、あなたが私を祝福してくださらなければ、国々はあなたがどういう方であるかを知ることができません」と言っているのです。私たちが主の祝福をうまく持ち運ぶことに国々の救いがかかっていると言っているのです。
謙遜と思われることが、実は高慢、プライドであることが時としてあります。それは神が与えてくださる祝福を管理しマネージして、人々の心に持ちはこぶことを拒否することです。 私たちは荒野のマナではなく、約束の地での収穫によって主に栄光を捧げるべきです。「すべての国々」とあります。私たちは聖書のなかの「すべて all」ということばに鈍感になっていることがありますが、これはすべての国々が収穫されると言っているのです。そしてそれは 神の啓示、神の好意があなたの上にあるということに直接かかっているのです。
3−6節「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。国民が喜び、また喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。地はその産物を出しました。」
地は神のご計画にそって産物を出すことを待ち望んでいるのです。それを抑えているのは、神の民が神の自分に対する御計画を悟らないからです。ローマ8章にあるように地は神の子が現れるのを待ち望んでうめいています。神の子が正しい場所につき、自分のためにだけ蓄えるのではなく、神が与えてくださるものを回りの人に分け与えて仕え、神の恵みで地に味をつけるのです。あなたの上にある聖霊の麗しさは、まわりにいるすべての人の人生をより高めるものです。
7節「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」
この章は祈りから始まりましたが、最後の7節は 驚くべき告白、宣言です。これ以上偉大な約束はありません。「神は私たちを祝福される!地の果て果てがことごとく神を恐れる! God shall bless us and all end of earth shall fear Him!」と宣言しましょう!
ルビーよりも知恵をあなたは選び取らねばなりません。それは経済的犠牲を伴なうということです。しかし主はその後、知恵を追い求める者にはルビーをも与えると言っておられます。ですから「手放しなさい。そうすれば主は増し加えてくださいます。」これが御国の方法です。祝福された人生は、身体の健康や創造能力に反映されます。私の頭は雑多な思いに煩わせられることがないので、常に自由に解放されていて、チャレンジを受けたときに創造的に対応することができるのです。神は私たちのすべての面において祝福を与えてくださる用意があります。レストランに行く時、ビジネスをする時、近所の人と話をする時、彼らは私たちが彼らを愛し受け入れていることを感じてみんなそばに寄ってくるのです。本当にシンプルで小さなことですが、それも神様の祝福です。それと同じように大きな事柄に関しても私たちは神の祝福によってすばらしい決断をすることが出来ます。これからは一日なりとも神の祝福なしには生きないと決心しようではありませんか。
祈り
神様、ある人の今までの人生やあなたとの歩みを知らないで、その人を批判し裁いていたことをお赦しください。人々の遜りは喜びましたが、昇進を喜び祝わなかったことをお赦しください。私たちの心の中にもっと完全な御国の啓示をください。これから祝福が増し加わって行くシーズンに、あなたが与えて下さるものをどのように管理しマネージすればよいのかを悟る知恵をください。イエスのすばらし御名によって祈ります。(終り)
02 03月
神の祝福を喜び祝う
ビル・ジョンソン —- 2014年1月22日 於リバイバル・アライアンス
神の祝福の受け取り方
聖書には「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とあります。教会はこの言葉が大好きで、人が主の御前でへりくだるときに喜びます。しかしその人が高くあげられた時はそれほどには喜ばないのです。聖書は「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言います。私たちは人が神の国と義を求めるときには喜びます。しかしその人にすべてのものが与えられると、どう対応すればよいか分からないのです 。イエスは「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば隠れた所で見ておられる父が、あなたに(人々の前で)報いてくださいます。」と言われました。 私たちは犠牲的な施しを極めて高く評価します。しかし、主がその人を公に報いるとき、私たちはどのように反応してよいか分からないのです。
神よりも人を愛すことが起こりえるでしょうか? そうです、イエスはそのような人はわたしにふさわしくないと言われましたね。では人々を愛することなしに神を愛することは可能でしょうか? できませんね。これはとても不思議なことです。私たちが神を第一とするとき、他のものは一切無価値となります。しかしその時神は「最も小さいものにすることはわたしにすることだ」と言われるのです。ですから、人々を充分に愛することなしに、神を充分に愛することはできません。
では私たちは神よりも財産を愛することがあるでしょうか?ありますね。では財産をうまく管理しこの世のために巧く運用することなしに、神を愛することができるでしょうか? 私はそうは思いません。キリストのからだの中に、神が自分によくしてくださったときに、何かそれに対して謝らねばならない、恥ずかしいと思わせるようなプレッシャー、雰囲気があります。私は経済的なことだけを言っているわけではありませんが、それも含みます。魂の繁栄はすべての面に反映するからです。私たちはこの世に対して2つのことを示し与える責務があります。それはまず神との出会いであり、次に祝福された人生です。ある人が神に良くしてもらった時、それを隠さねばならないとか、そのことを謝るのを見るのは、私にはとても辛いことです。誰かが新しい車を与えられた時、どのようにしてその車を神が与えてくださったかを詳しく説明するのをよく聞きます。あたかもまわりの私たちが「彼はそのような車を持つに値しない」と 思っているかのようにです。 ある人が隠れた所でなした良い業に対して神が人々の前で報いた場合、往々にして私たちはその人の「隠れた所での良い業」を知らないのです。
地の塩、世に光の役目とは
イエスは「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら何の役にも立たず、 人に踏みつけられるだけです。」と言われました。私は今まで「塩は保存剤、防腐剤である」と教えてきました。肉は塩づけにすることによって長期間保存できます。私たちの内にある御国の文化をこの世の中で腐らせないようにするのが塩です。私はその真理を信じています。しかし、イエスが「あなたがたは地の塩である」と言われたのは、そういう意味ではないのです。それはこの世の上に私たちがふりかけられるということだと思います。つまり、この世にあるものをもっと味よくしてその旨味を増すということです。私たちのまわりにあるすべてのものに、よい味、よい風味をつけるのです。経済システム、教育システム、政治システム等すべての分野において、神を知っている人たち、神によってその場に置かれた人たちが創造的能力を用いることによって御国がもたらされ、よい風味が付けられるのです。
イエスは又、私たちは世に光であると言われました。私は今まで「光はすべてのものを照らし出しあらわにするものである」と教えてきました。けれどもイエスはその後続けて「山の上にある町は隠れる事ができません。」と言われました。ですから町の役目は暗やみにあるものをあらわにすることではなく、失われた人たちがその光を見て道を見つけることです。主は町を人々に見えるところにおかれたからです。この光は人を引きつけ引寄せるものです。
旧約と新約の真理
次のシーズンに主が私たちを導こうとしておられることは、旧約の真理と新約の真理が一つになることです。或る事に関して聖書の中で一番最初に書かれている記述は、その後のすべてのそのことに関する記述の基礎、基準となり、それを正当化しサポートするものとなります。人の内に働く聖霊に関する最初の記述は出エジプト記35章30、31節にあります。
「見よ。主はユダ部族のフルの子であるウリの子ベツアルエルを名ざして召し出し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」
ベツアルエルは神殿を建てるために必要な創造的な知恵と英知を主から与えられました。新約では、聖霊の全きあらわれは力であると言われています。主が新しい真理を顕されるとき、それがそれ以前の真理を無効にすることは決してありません。実際、前の真理は、次の真理のためのセッティングのようです。ダイヤモンドの指輪のセッティングがまず用意され、次にその上にダイヤモンドがおかれ、しっかりと固定されるのです。旧約の啓示は宝石がはめられる場所を用意することであり、それがあるからこそ宝石はしっかりとはめ込まれるのです。旧約は第一段目の真理の基礎を築いています。ですから聖霊の全き顕れは、まず知恵として顕れねばなりません。そして聖霊の傾注によりその中に力が注がれます。この二つが一つになることが、私たちにリバイバルのチャンスを与えるばかりでなく、改革の知恵を与えるのであると思います。知恵という文脈の中でこそ、天にある型どおりの家庭、ビジネス、地域社会、国家など、すべてのものに形が与えられ、どのような文化の中にあっても神の力が顕されるのです。
真のリーダーの役目
リーダーは人が与えられている力をすべて発揮できるようにと導く人のことです。もし私が御国の真のリーダーであるならば、 人々は私が与えるものによってより恵まれるはずです。彼らは神の意図された人生へとより近くなるのです。私たちが地の塩としていろいろなシステムに振りかけられるならば、社会全般において人々をより味のあるよい働きをする者に変革してゆくことができるはずです。神がその人のために意図された人生から、敵が多くの人を迷い出させていますが、私たちはそれと逆に人々を神が意図された人生へと導くのです。
知恵が力と一つとなって物事を本来あるべき姿に引き戻します。興味深いことに、 「塩けを無くす」という言葉は、 「愚か foolish」と同じ言葉なのです。即ち、塩けのない塩は「愚か」ということです。聖書の中でそれは知恵の反義語です。
パンと種の違い
エペソ3:10に「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」とあります。教会は今、神の知恵をこの世の主権、力に対して示すと書かれているのです。天にあるものを地でもあらわすのです。それは私たちがどのように生きるか、どのように人間関係を築くか、どのように財産をマネージするか、どのようにパンと種を区別するのかという知恵です。自分の種を食べてしまうのは愚かなことです、種は将来の収穫のために蒔くべきものだからです。パンと種を与えてくださるのは主です。種を食べるのは愚かなことであると同時に、パンを蒔くのも愚かなことです。
私たち夫婦は常に20%主に献げてきました。献げることが私たちの人生の重要な要素でした。しかし最近、私はこのことに関して学ばされています。と言うのは主が私に「あなたは自分のパンを蒔こうとしている。」と言われたのです。
例話をお話しましょう。私の誕生日は7月ですが、その日私は自分の3人の息子とその妻たち、9人の孫に私がプレゼントを上げるます。父の愛がどのようなものであるかを示すチャンスは他にないからです。私の誕生日の一ヶ月ほど前に二人の孫が「おじいちゃんの誕生日に何を買ってもらうの?」という会話をしていたのを耳にしました。(笑)私は常日頃、子供や孫、そして友人たちがどのような願いや夢を持っているのかを注意深く聞いているのですが、それはとても楽しいことです。彼らの顔がどんな時に輝くのか、うれしそうにするのかを注意して見ているのです。どんな香水が好きかとか、どんな料理道具が好きだとかを聞くと、それを心に留めておきます。それが私の人生の喜びの一つです。
私の息子のブライアンはワーシップのミニストリーをしています。今から話すことは本当のことではなく、ただ仮にそうであったらという話です。私がブライアンのために特注のギターを注文したいと思ったとします。私はいつも彼の言うことを注意深く聞いていて、彼はどんな色が好きか、どんな木が好きか、サイズやデザイン、すべてのことを長年の間に書きとめてきました。そしてやっと息子にぴったりの完璧なギターを作れる職人を見つけたとします。そこに行って「私の誕生日が7月に来るのですが、このようなギターを息子のために作ってくれますか」と頼んだとします。すると彼はその通りのギターを作ってくれました。私の誕生日が来て一人ひとりが私からのプレゼントを受け取りました。ブライアンの番になり、彼はギターを見て大喜びをし、私もすごくうれしかったのです。さて、次の日曜日、私は何を見ているでしょうか。彼がそのギターを使って演奏しているかどうかです。でも彼を見ると、そのギターを使っていません。まあ、何か不都合があったのだろうと自分を納得させます。次の日曜日も、そして次の日曜日も、彼はそのギターを使っていないのです。3週間くらいたって私は礼拝後ブラリアンに「すばらしいワーシップだったよ・・・ところで、私があげたギターを使っていないようだけど・・・」と聞くと、彼は「お父さん、本当にすばらしいギターをありがとう。誰それがギターを必要としていたから、その人にあげたんだよ。」と言うのです。さて、父としてはどういう気持になるでしょうか? 父はギターを息子に「蒔くべき種」としてではなく、「息子が 食べるパン」として上げました。父(天の父)の喜びは息子がそのギターを喜んで弾くのを見ることだったのです。
私たち教会は今、持ち物、財産、経済に関して、ある解放を必要としていると私は感じています。信仰があれば財産が増えるという考えは、馬鹿げています。でもその誤った考えに対しての反動が大き過ぎると、それも又誤りとなります。今はこの問題に関して教会は混乱していますが、しばらくすればこの世と天、即ち物質世界と霊的世界とを御国として調和させることができる世代が生まれてくると信じます。私たちが物質世界でどのように物事を扱うかをこの世はじっと観察しています。それを通して私たちは 御国の生活方法をこの世に伝えることができるのです。(続く)
15 02月
生ける水の泉
リック・ジョイナー
羊飼いのいない羊を見て憐れみを感じた主は、彼らの羊飼いになられました。又、暗やみに住む人々を憐れまれたとき、主は彼らの教師となられました。まことの霊的権威はすべて愛を土台としています。 神の愛が自分の心に溢れ発露したと知るとき、私たちは自分の召しと果たすべき使命の場所を知るのです。
神は私たちをこの世の基が据えられる前に創造されたお方です。ですから、私たちの内に心からの真の願いを入れられたのは神です。イエスは生ける水が「その人の心の奥底から流れ出る」言われました。ですから私たちが神によって創造された目的は、私たちの心の一番深い願いと結びついているのです。私たちの中にある一番深い願いを認識することは、神が私たちの内に設けられた生ける水の泉を開くためには非常に大切で不可欠なことです。この泉は一度開かれたならばその流れは止むことはありません。
しばしば私は人々から相談にのったり指導するメンターになってほしいと頼まれます。私はそのように頼まれることは感謝しますし、名誉なことだと思います。しかしながら、その人に対する特別な愛を主から受け取らない限り、 そのような役目を決して引き受けません。私がその人のために出すべき生ける水は、私の「心の奥底」から湧き出なければなりません。そうでないと私がその人に与えられるものは、単に原則的なものだけになってしまいます。原則的な教えを示すことは助けにはなるかもしれませんが、イエスの大宣教命令が示唆する弟子訓練を指導することには遙に及ばないものです。
私たちは自分の子どもたちを心から愛するので、 自分自身が達成した域以上に子どもたちが育って秀でたときには大変喜びます。そして、そうなることを彼らのために心から祈ります。霊的な子供たちに対してはそれと同じか、むしろそれ以上でなければなりません。もし私が誰かのメンターになるならば、 その人が私が達した域を越えてより成熟することを心から願います。もし私が自分の仕事の一つとして(本当の主の愛持たないで)メンターになるならば、私はただの雇われ人にすぎません。
ある一つの国を弟子訓練するように召されたときも同じことが言えます。その国に対する主の愛を私たちがしっかり持ったとき、主が私たちをその国のために召しておられることがわかります。しかし、主の愛は人間的な愛を越えるものであることを私たちははっきり理解する必要があります。その違いは何であり、どのようにして区別できるのでしょうか? もしそのような質問を私たちが持たねばならないとすれば、そのこと事態がまだ主の愛を充分にいただいてないことを示していると思ってよいでしょう。主の愛とは人間的な同情とか魅力、親しさとは違います。なんとか言葉でそれを伝えようとしても私にはうまく言い表すことができません。それは経験しなければわからないものです。
それではどうすれば経験できるのでしょうか? まず第一にそれを願うことです。ヨハネ17章で、主イエスは「御父がイエスを愛された愛が私たちの中にあるように」と祈られました。神の御子の祈りは必ず聞かれることを私たちは確信できます。御父と同じ愛でイエスを愛するキリストの弟子たちが地上を歩く日が来ることを私たちは知っています。ですから、私たちはそのような弟子の一人となれるように絶えず願うべきであると思います。(終)
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