WWGM

Walk With God Ministries


02 07月

ワーシップと主の臨在     ダン•ポッター          2014年7月2日


ワーシップと主の臨在

ダン•ポッター(2013年10月モーニングスター•ミニストリー•ワーシップカンファレンスにて)

15年くらい前のことですが、神が私の人生のいろんなボタンを押し始めました。私は押して欲しくなかったボタンだったのですが、神は私の人生を変えていきました。私はフォークソング・シンガーで、のんびりとした甘い歌を歌っていました。そしてクリスチャンになったのですが、同じように甘いクリスチャンの歌を歌っていこうと思っていました。やがてモーニングスター•ミニストリーに来るようになり、そこでリック•ジョイナーと出会いました。皆さんもご存知だと思いますが、彼は社交辞令を言うような人ではありません。非常に預言的なので、霊的にあなたを揺さぶる人です。

モーニングスターで6日間のカンファレンスをすることになり、いろいろなスピーカーによる集会がありましたが、3日目の日曜の夜にコンサートのようなものがありました。数人のミュージシャンが集まって順番にステージに立ちました。ジョン•エリオット、ジュリー•ジョイナーやスジーもいたと思います。私の番は最後でした。それらの人々が次々に演奏したり歌を歌ったりしたのですが、本当にどんどん素晴らしくなっていくのです。皆さんはそのような時、「そんなに上手だと困るなあ...」と思われたことがありませんか?-自分はその後に演奏しなければならないのですから、それよりうまくないとちょっと困るのです。私は自分の演奏曲目を頭の中で何百回も並び替えました。
私がステージに上がる番になったので、私は甘いフォークソング風のクリスチャンの歌をギターを弾きながら歌い始めました。それは人生で一番惨めな経験となりました。サタンが私の耳もとで「おまえは何をしているんだ。死んでしまった方がいいのではないかい?
もう家に帰ったらどうだ? これは預言的カンファレンスだよ。おまえは本当にバカだね。」とささやき続けるのでした。

私は2曲目の半ばまで歌ったときに、あまりにも霊的に乾ききりそのドライさがひどいので、もうやめて帰ろうと思い、歌うのを中止してこう言いました。「皆さん、こういう機会を与えていただいたことは感謝しているのですが、こんなにひどい苦しみに会った経験は初めてです。敵がひどく私を攻撃して来ており、どうしてもそれを振り切ることができないのです。私はこれ以上我慢することができません。私と同じように敵に腹を立てている人はいますか?」すると、そこには2200人くらいの人がいたと思うのですが、みんなが一斉に立ち上がり、叫びながらステージの前に走りよってきました。それには私も驚きました。

しかし、私の背後にいるドラマーのマイク•メイプルはずっとたたき続け、レオナルド•ジョーンズはベースギターを弾き続けました。私が何をしたからではなく、天がその場を支配し始め、霊的戦いが始まったのです。人々は叫び、ドラムはなり続け、私はギターをかき鳴らし続けました。甘い歌を歌うつもりだったのが、もう何の歌を弾いているのかもわからなくなっていました。ただ天からの油注ぎを受けてそれに押し出されるよう弾き続けていました。少し騒ぎが収まるのに2時間かかりましたが、それで終わったわけではありませんでした。私は何度も終わらせようとしましたが、止められません。人々がこれほど敵に腹を立てていたとは知りませんでした。サタンのネガティブな声を聞いて苦しめられていたのは私だけではなかったのです。

そういうことがあったので、リックがワーシップ•カンファレンスをしようと言い出しました。そのカンファレンスは最初「ダビデのこころ」というタイトルだったのですが、最終的には「ワーシップと霊的戦い」に変えられました。ワーシップは戦いだからです。そして驚いたことに、そのカンファレンスに大勢の人が押し寄せて来て、会場はあふれてしまったのです。

それは全くクレージーなカンファレンスとなりました。聖霊が主導権をとったのです。神が介入されたのです。私は自分がすることや自分のやり方には飽き飽きしていました。神にやって欲しいのです。皆さんはどうですか?
今教会で行われているワーシップに退屈している人はいませんか?それを認めるのは罪ではありませんよ。もっと高いものに対する飢え渇きを持つのはよいことです。飢え渇きがないときには退屈にはなりません。飢え渇きがあると、「私はもっと欲しい。私は絶対にもっと必要だ、欲しいのだ。」という思いがわき上がってきます。

その後数年の間、私は多くのカンファレンスを経験し、私の人生は神によって変えられていきました。しかし私の中である一つの小さなことが起こっていたのです。これはほとんど気がつかないうちに起こっていました。

最初の「ワーシップと霊的戦い」のカンファレンスの時、臨在の雲が舞台の上に立ったことがありました。勿論みんな大喜びで興奮しました。モーニングスターはその臨在の雲のおかげで有名になりました。多くの人がワーシップ中に聖霊に満たされたり癒されたりしたときに、そのワーシップをリードしているミュージシャンたちが、「これは自分たちとは全く関係なく起こっている」と考えるのは大変難しいです。どうしても自分の演奏と主の臨在とを関連ずけてしまうからです。

その年の秋にまたカンファレンスがありました。なんと、舞台に雲を立たせるのは「私の責任」という感じになってしまったのです。(笑)そんな試みにどのくらい成功率があると思いますか?
生ける神の臨在の雲を呼び起こすことなど、人間には到底できることではないのですが、しかし、人々はそれを私に期待したのです。私は胸が張り裂ける思いでした。人々の期待に答えるために何かをした経験のある人はいますか?
主はその時こう言われました。「今日のワーシップは全くドライになるよ。あなたは何もできないのだから。」と。

私は臨在の雲を現そうと必死にワーシップを導きました。非常に苦しい経験でした。会衆はとても好意的でナイスで、私の音楽に合わせて歌い踊って「とてもいいね」と楽しんでくれていました。でも霊的には非常にドライでした。ついに神は私に歌の途中で演奏をやめるように言われました。「これはわたしではない。」と言われたのです。私は「これは神様、あなたではないのなら私ということですね、わかりました。あなたではなく私なのですから、これは本当にどうしようもないですね。どうしたらよろしいでしょうか。」と申し上げました。すると神は「『わたしに赦しを乞う』ことをしてはどうか。ワーシップを止めて、人々に『神様に何かさせようとしていたことを悔い改めましょう。』と提案してはどうか。」と言われたのです。自分の力で主の臨在をもたらそうとした経験は、きっと皆さんもあるのではないでしょうか。

私はもう主の言葉に従うしかないところまできていました。それで演奏をやめて自分が自分の力で演奏していたことを人々に告白し、悔い改めました。人々は泣き始め、私を赦し、また彼らも「神ぬきで御国を現そうとしていたこと」を悔い改めました。「御国を来たらす」ことを自分たちの力でしようとしていたのです。でもそれは絶対に起こりません。そこで私たちはしばらくの間悔い改めの時を持ちました。すると主が顕われてくださいました。2、30分の間です。そしてまたアイオワに行ってしまわれました。(笑)その残りのカンファレンスの期間は引き続きとてもドライでした。私たちはどうにかしようとして戦い苦しみました。いろいろとしましたが、うまくいかないことが沢山ありました。

神の御国には統制・管理するガバメントがあります。クリスチャンは自分たちは信じているからガバメントは必要でない、みんなそれぞれの方法で神に従えばいいのだ、と考えがちです。私たちはナイス-いい人です。でも神はナイスではありません。神は親切で慈しみ深い方ですがナイスではない。ナイスというのは、うそをつくことです。神はうそをつきません。私たちはナイスなので、誰かに「やめろ!バック・オフ!」と言うことなど考えられないのです。

神が次ぎのように言われた時のことをよく覚えています。礼拝が始まる前、ミュージシャンたちと祈ったときに、私はこのように言いました。「私は今日のワーシップがどのように進んでいくのか実際のところ予測できません。」するとみんなは「オーケー」といってそれぞれの位置につき、好き勝手に演奏し始めました。私が舵をとらなかったので、他のメンバーたちが思うようにやり始めたのです。私がいてもいなくても全く関係がなかったでしょう。私は心の中で「エー、一体何が起こったんだ!」と思いました。すると主が「あなたがワーシップがどこに向かっていくか知らないからといって、それはあなたがリードしないということではない。」と言われたのです。神の御国にはガバメント、統制、統率があるのです。ガバメントが必要であり、それは確立されねばならず、人々はそれに従わねばなりません。それがないとき、主はワーシップタイムを祝福されません。主はそこには来られません。あなたが「主よ、来て下さい!」と一生懸命にお願いするのは自由ですが、主は来られませんよ。
という訳で、私たちはひどいワーシップを続けました。人々はすごくやさしく親切で、私たちのワーシップがドライであることを非難したりしませんでしたので、私たちはわからないままに演奏を続けたのです。幾度かのカンファレンスがそんな具合でした。

しかしとうとう、バンドが集まり、みんなで私のところに話にやってきました。彼らは私の権威のもとに従うと言って来たのです。言っておきますが、それは私にそのような価値があったからではありません。私たちのワーシップチームのミュージシャンの中には素晴らしい才能をもった人たちが沢山いました。誰でも問題なくワーシップリーダーを務めることはできました。けれども理由はわかりませんが、神は私をリーダーに選ばれたのです。彼らは「私たちはあなたに従いますから、どのようにすればいいのかを言って欲しい。」と言いました。

それからみんなが、私のリーダーシップに従う訓練をされたのです。
神は後ろで歌っている人に霊の歌を与え、それと同じのを私に与えられて、後ろの人をいらいらさせることがあります。スージーが「神が私に歌を与えられて私が歌おうとする前に、どうしてあなたが歌い出すの?私のチャンスをあなたは奪ったわ!」と言って怒ったことがありました。私は「どうしてかわからないけど、多分、神様はあなたがじっと神からのタイミングを待てるかどうかテストしたんじゃないかな。」と言いました。

ステージの上で起こることの半分は、人々の中でも起こることです。ワーシップチームはキリストのからだの中で起こることを目に見える形で表すものかもしれません。あなたが耐え忍ぶことができるか、あなたが主と一致することができるか、神はみんなをテストしているのでしょう。あなたがガバメントに従うことができるか、自分をしつけることができるか、と。これは難しいことです。でも私たちは今までのように生き続けてはならないのです。一歩前進せねばならないとあなたは感じておられるでしょうか?

音楽は音楽であり、どこででも聞くことができます。しかし神が音楽を使われるとき、私たちが神の音楽をどのように取り扱うかを知らなければなりません。

主は私たちのワーシップにすばらしい油注ぎを与えてくださいました。ジャクソンビルで起こった時のことですが、ある集会に朝9時に出掛けました。神が「今日わたしはある事をします」と言われました。私は「それは素晴らしいですね。それで一体何をされるんですか?」と聞きました。勿論神は教えてくださいませんでした。私に教えたらすぐにみんなにその秘密を吹聴してしまったことでしょう。

そこに着いて、私が作曲した「Who Do You Say I Am あなたはわたしを誰と言うか」という歌を演奏し始めました。この曲を演奏したのはその時が初めてでした。歌い始めて「あなたはキリストです」と叫ぶ部分にきたとき、突然停電になり、真っ暗になってしまいました。5秒くらいで電気はついたのですが、全員がこれは停電ではなく神がされたことに気がついたのです。神がそこにおられました。その教会の人が言っていたのですが、そこには私設の発電機があって停電には絶対ならないということでした。停電になることは不可能だったのです。

停電になったとき、人々の叫びと共にいろんなことが起こり始めました。神が私に「わたしは誰が本当の勇士であることを示します。」と言われました。停電になったとき人々は慌てふためき、ミュージシャンは床に座りこんでいました。でもドラマーのマイク•メイプルはドラムを叩き続けていました。ベースのレイノルド•ジョーンズも弾き続けていました。そして、私もギターを弾き続けました。すると主が「これらが勇士たちです。」と言われました。他の人たちは全部床の上に座りこんでいました。しかし勇士たちは油注ぎのパワーの中でも機能し続けたのです。私たちはそのことを学ばねばなりません。

「油注ぎが激しくて人々は驚いて右往左往しています。」そうです。でもあなたの役目はなんですか。演奏を続けることです。「でも人々はたじろいでおろおろしてますよ。」そうです。でもあなたの仕事は何ですか。歌を歌い続けることです。「でも癒しがそこかしこで起こっています!」ええ、でもあなたの仕事は曲を演奏し続けることです。

油注ぎが激しく下ったとき、キチンと演奏することを投げ出してしまうことが何度あったでしょうか。その時主の臨在は去ってしまうのです。私たちは主の臨在をもてなしてその中で演奏を続けることが出来なかったのです。ですからどんなことがあっても演奏をやめてはいけません。主が「ストップ」と言われるまでです。簡単でしょう?
神のパワーが下るとき、おろおろしないで、もっとしっかり演奏を続けるのです。

10分くらいの大騒ぎのあと、やっと人々が落ち着き始めました。その時に10歳の女の子が救われました。それは溺れそうになっていたのが救われたのです。湖でボートに乗っていたときに水中に落ちたのですが、ちょうどそれは電気が切れた瞬間だったのです。電気がついたとき私たちは救いの歌を歌ったのですが、私は霊で感じて「誰かが救われた!」と言ったのです。その時にその女の子は水の中から救われました。それはその教会の駐車係をしていた人の娘でした。
このような小さなことの関連性はまったく無意味だと思われるかもしれませんが、神がされることはすべて重要なことで、神の目的があるのです。その目的が何であるのかをあなたは知らないかも知れません。あなたの歌う歌がまだ教会に来ていない人の耳に神が届かせているのかもしれないのです。

物事を統率するガバメントがあなたの教会においても確立されねばなりません。頭の中だけで賛成しているのではいけません。「私はガバメントに反対ではありません...私がボスでいられるかぎり。」とかね。(笑)でも一つの秘密を教えましょう。イザベルとう人物がいましたね。コントロールをする女性のことだと普通考えてしまいますが、そうではありません。それは聖書の言葉をあなたが生きている時代に合わせて変えてしまう霊のことを言うのです。彼女は「律法はすばらしい、私に適応されない限りは。」と考えたのです。「それは私には適応されないから、私は私の好きなようにするわ。」という霊なのです。

同じ霊が今の教会に来て「あなたたちは恵みによって救われたのだから、何をしてもいいのよ。不品行をしたり、偶像に供えた肉を食べてもいいのよ。」と言うのです。今教会でそれが起こっています。そしてその多くはミュージシャンを通して来ています。ミュージシャンはガバメントの下に従うことを拒否する傾向にあるからです。

恐らくこの私はそういう反抗者の頭でしょう。私を秩序の下に従わせるには長い時間が必要でした。15年間私は「どうやって私の王に仕えようか?
王よ、私は素晴らしいミュージシャンであり、あなたの御国のために素晴らしいことができるんですよ。」という風に考えて来ました。でも神は「確かにそうですね。でももう少し待ちなさい。わたしがあなたを解き放つまで。」と言われたのです。私は15年間、毎年、「今ですか?
今ですか?」と主に聞きました。でも主はずっと「ノー」と言われ続けました。50歳になっても「ノー」と主は言われたので、私はもう家に帰って何もしないでおこう、ミニストリーをもう一生できなくてもかまわない。」と思いました。すると主は「すばらしい。わたしはあなたを用いることができる。」と言われたのです。(笑)

皆さんは何かの賜物があるので、ワーシップチームに入っているわけです。でも神様があなたをひどく試されて、あなたの本性が顕われるまでになることに耐えられますか?
証明するとはそういうことです。あなたに試練を与え、厳しいストレスをかけて、あなたの本性が何であるかを露にするということです。それによってあなたは自分の性格、本性が見えるのです。自分の性格をはっきる見るのが好きな人はいますか?そんな時私は部屋の隅にうずくまって「何故私はこんな人間なんだ。」と言って泣きます。

でも主は「わたしはあなたの人生にパワーを与えるためにこうしているのです。火のバプテスマを通して。」と言われます。マラキ3:1に「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」とあるように、主は神殿、つまり教会に、精錬する者の火のように、布をさらす者の灰汁のように来られ、まずレビの子をきよめられて、ささげものが主を喜ばせるようにされるのです。私たちの王がそう言われます。「わたしはすばやく来る」と。火と洗濯が関係しているようですよ。まずレビ人からですね。レビ人とは主の前に仕える者たちです。

ですから私たちの人生に精錬する者の火が来るのです。ステージで煙の臭いがするならば、それは多分あなたでしょう。あなたに火がついているのでしょう。心配しないでください。水の入ったバケツと大きなブラシをもってあなたをごしごし洗ってくれる人が来るでしょうから。それはやはり嫌なことですね。でもこうされないとあなたはパワーをもって歩むことはできませんキリストにあって訓練されずにキリストと歩むことはできないのです。

ミュージシャンとして楽器を弾いている皆さんは、なんらかの方法ですでに訓練の中を通されています。練習しないで弾ける楽器はありません。皆さんは最初はうまく弾けなくても、練習を重ねてきたわけです。だからある意味で訓練されているのです。ですからもう一歩訓練をされて、キリストと共にパワーをもって歩んでください。

これから主の油注ぎのパワーが教会に臨み、教会を驚かせる時が来ようとしています。それはものすごい力なので、あなたが主にあって訓練を受けていなければ、うまく受け止めることはできません。主の臨在があまりにも濃いとき、それはあなたの身体に染み通り、あなたはどうすればよいかわからなくなります。あなたは主の臨在の中に留まることを習得していなければならないのです。主の臨在を知る訓練が必要です。自宅で何度も何度も主の臨在を知る練習をしてください。とにかく訓練し続けてください。主の御前で歌ってください。自分で歌を作ってなんでも歌ってください。

その時が近づいているのです。いえ、もうある所では始まっています。それは「収穫の音」と呼ばれています。主は失われた魂をミュージシャンを通して呼び寄せておられるのです。(終)


24 06月

思い起こし証しすることの力       ダッチ•シーツ      2014年6月24日 


思い起こし証しすることの力

 

ダッチ•シーツ(2014年6月15日 Golory of Zionにおける礼拝メッセージより抜粋)

 

 

6ヶ月ほど前のことですが、神が「わたしはあなたを一回りぐるっとフルサークルさせて、もう一度もとの所に戻す」と言われました。それを聞いたとき、私はそれが良いことなのか悪いことなのかとっさにはわかりませんでした。私たちが何か間違いをしたので、もう一度振り出しに戻ってやり直さねばならないのか、また荒野をさまようのか、と思ったのです。でもそうではなくそれは良い励ましのことばであることが霊でわかりました。

このことを思い巡らしていると、主は私の霊を天に連れていかれました。そこから私が地上を真下に見下ろしますと、地面に一つのサークルが輪を描いて回っているのが見えました。すると主は、次に私を横からそれが見える位置へと連れていかれました。すると上から見たときは一つの輪に見えたものが、横から見ると新しい輪は同じ高さではなく、螺旋を描いて上がって行き、始めのサークルより高い位置で円を描いていたことがわかりました。フルサークルでぐるっと一回りしているのですが、その高度が違い、それは違うシーズンに入ったことを表していることがわかりました。

 

最近オクラホマでメッセージをしました。その集会の後で一人のメシアニックのラビが私のところに来て訊ねました「あなたはテスティモニー(証し)というヘブル語の言葉の意味を知っていますか?」私は「いえ、知りません。」と答えました。

彼は「テスティモニーという言葉は、『もう一度する』という意味です。神が私たちに昨日してくださったことを覚えて宣言するとき、それと同じパワーが今日ふたたび解放されるのです。」と教えてくれました。

 

このことを聞いてから私はいろいろと考え始めました。彼の言ったことを信じなかったわけではありませんが、それが聖書的であるかどうかをしっかり調べてみることにしました。

その結果、「どうして私たちは過ぎ越しを毎年祝うのか、どうしてペンテコステを毎年祝うのか、過去に起こったことにどうして私たちはいつまでもつながっていなければならないのか、どうして切り離してはいけないのか」、ということが分かってきたのです。

 

リメンバー(過去に起こったことを覚えて証しする)ということばはヘブル語ではzkr

ザカーと言いますが、それは単に過去のことを思い出すことではありません。ただ単に昔起こったことを覚えているということではなく、それによって今日私たちがとらねばならない行動が1含まれているのです。

 

士師記16:28でサムソンは「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。O Lord God, remeber me, I pray!」と叫びました。神がサムソンをリメンバーされた時、サムソンに力が戻りました。神がリメンバーしたとき、もう一度同じことをされたのです。私はこの箇所を今までずっと理解できませんでした。神がサムソンのことを忘れることなどあるでしょうか?

そうではなく、サムソンはもう一度力をください、もう一度してください、と叫んだのです。神はサムソンをリメンバーして力を再び与ました。

 

第一サムエル1:11でハンナは「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心め留め(remember me)..」と祈りました。そして19節にあるように、主は彼女を心に留められ(and the Lord remembered

her)、ハンナはみごもって男の子を産んだのです。

 

最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちに「わたしを覚えて、これを行いなさい。(do this in rememberance of Me)」と言われました。「これを行う度ごとにわたしをリメンバーしなさい。」と言われました。パウロは第一コリント11:24−26でこれに言及しています。26節で「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と言っています。ただ頭で主の死を思い出すのではなく、その事実を今のものとして、その時と同じ十字架の力を宣言して受け取るのです。

 

テスティモニーはそれと同じです。私たちは昨日主がされたことを証し宣言して、それと同じ主の力を今日汲み取るのです。マラキ3:16にある「記憶の書 book of remembrance」はそのためにあるのです。

 

テスティモニーという言葉のヘブル語の語源には「繰り返す、何かを再びする」という意味があります。

ただ思い出し話をするというのではなく、「再び行う」ということです。あなたが証しをするときに、神はあなたをぐるっと一回りフルサークルされてもとに戻し、あなたはその時と同じ力の中に入り、再び同じ御業が起こるのです。

 

ですから福音を語ることは、ロマ書でパウロが言うように「救いを得させる神の力」です。それはただメッセージであるだけではありません。ただ主がされたことを思い出して語るだけではありません。あなたが福音を宣言するとき、十字架の救いの力が再び解き放たれるのです。

 

このメシアニックのラビが言いました。「私たちは今多くの奇跡を見ています。様々な病気をいやされた人々を私たちは街角に遣わしています。彼らがしていいることは、ただそこに立って自分に起こった奇跡を告げ知らせているだけです。彼らが何度も何度も繰り返して神が自分に5年前とか10年前とか20年前にしてくださったことを証しする時、同じ力が流れ始めます。なぜならば、彼らが証しをするときに主はまた同じことをしてくださるからです。主の癒しの力が再び解放されるのです。」

 

ヘブル的な考え方では、時というものは生きているのです。時は孕んでいるのです。彼らにとって時は一直線に進むのではなく螺旋を描いて回るのです。もとに戻るときに前と同じ力を汲むことができるのです。

以前起こった癒しや素晴らしい祈りのムーブメントの話を何度もする時、それは懐かしい話にとどまらず、私たちは宣言しているのです。主が昨日してくださった力を今日解き放つのです。主はイザヤ55:11で「わたしの口から出るわたしが語ることばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言っておられます。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。ことばは生きていて、永遠なのです。

 

第一テモテ1:18に「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」とあります。パウロは預言を忘れるな、と言っているのではなく、それをもう一度宣言することによって預言を通して与えられた神の力が再び解き放たれると言っているのです。

 

ヘブルの学者たちは「時」を螺旋状のものとして捉えています。過ぎ越しからペンテコステまでの50日は、ヘブルの考えかたでは、直線上にあるのではなく、螺旋を描いているのです。ペンテコステ、即ち50日というように数えてもおりません。それは私たちの考え方です。彼らは1週間が7回ある、と捉えています。7日のサイクルが終わると、次にもう一段高いレベルでの7日のサイクルの輪が来る、これを7回、栄光から栄光へと繰り返すのです。そしてその次の日が新しい始まり、ペンテコステです。私たちは7日間の円を描きながら次々と上に上っているのです。7といる完成の数字に達し、私たちは神が備えておられる新しいシーズン、即ちペンテコステの力を受けるのです。私たちは天にまで届くのです。

 

主の聖餐にあずかる度ごとに、あなたは十字架の力を新たに経験します。過ぎ越しから7週を過ごした次の日のペンテコステにはあなたは屋上の部屋で弟子たちが経験したのと同じことを経験し、火があなたに再び下るのです。

 

フルサークルです。主がされたことを証してください。それを今日に持ってくるのです。

出エジプト2:24に「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(remembered)。」とあります。神はアブラハムを忘れていたのではなく、「わたしはアブラハムに言ったことを思い起こす」と言われたのです。「わたしはアブラハムに語ったことを完全に今日遂行する」と言う意味です。「エジプトもパロもわたしがイスラエルのためにすることを止めることはできない。なぜならば、わたしはアブラハムとの契約をリメンバーしたからだ」と言われたのです。「わたしがリメンバーするとき、わたしが語ったすべてのことは今現実となり起こる」と言われます。

 

神はヤコブにベテルに戻れといわれました(創世記35:1)そこには天に開かれた門があるといわれたのです。そこに行けば、そのような力が今日そこに現れる、そこに戻りその力を汲みなさい、と言われました。時間の中で埋もれていたものがその場所に戻るときにもう一度あふれ出るのです。

 

ネヘミヤは廃墟にもどって宮を立て直すといいました。ネヘミヤ1:8で彼は「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください(remember)。」と祈りました。神がモーセに約束されたことを思い出すならば、それらすべての力が再び解き放たれるのです。すべての過ぎ越しの時に起こったこと、紅海が分かれたこと、それらすべての力が解き放たれるのです。

 

カレブはヘブロンで巨人と戦いました。ヨシュア記14:6で彼はヨシュアに「私は約束されています。」と言いました。神が彼に与えた約束の言葉を思い出しています。45年も前のものです。「私がいくら年老いたとして、私の周りの人が次々に死んでいったとしても、私は死にません。私には主からの約束、契約があるからです。私はその契約の言葉を保っています。それは昨日の言葉ではなく、今日の言葉です。なぜならば私はそれを思い出しているからです。主が私に語ってくださったことを私は今宣言します。それは今の言葉であり今、力がある言葉です。その力は今ここに私のためにあるのです。」と彼は言っています。

 

あなたへの神の契約、約束のことばを思い出して宣言するならば、あなたはその契約の力、約束の力を今日、汲み出すことができるのです。(終り)


13 06月

清められ、備えられる    ボビー・コナー       2014年6月13日


清められ、備えられる

 

ボビー・コナー

 

備えの時

愛する皆さん、私たちは今、聖霊の働きが大いに増し加わる時代のまっただ中にいます。キリストのからだは、神の新しいご計画が始る日のために今、調えられているのです。神の御霊は今、新しいことをしておられますから、私たちが聖霊と共に働くためには調えられる必要があるのです。(イザヤ48:6、7)このプロセスが完了するまでに長くかかるかもしれませんが、神はこの日のために長年の間ずっと私たちを準備してこられました! この世の基が築かれる前から神が私たちのために用意されておられたデスティニーへと、今私たちは動いているのです。

 

今は準備のシーズンです。真理の御霊は信じる者たちを深く取り扱っておられ、 私たちが今まで持っていなかったような聖さで一心にキリスト・イエスご自身に近づくようにと、私たちを召しておられます。主の民は燃える火のような主の臨在の中で主とお会いできるように調えられているのです。 心をつくして主を捜し求める者はすべて神を見出すことができ、またその者たちのうちに神は見出されるのです。(エレミヤ29:12、13)

 

まことに「淵が淵を呼び起こす(詩編42:7)」のです。今は中途半端でなまぬるいままでいる時ではありません。今は深みに入って行き、使徒パウロと共に「キリストを知りたいのです  that I may know Him(ピリピ3:10)」と叫び、主の似姿に変えられ、主の臨在を持ち運ぶ者と変えられるべき時です。花嫁はキリストとの真の結合を経験するために調えられています。それは主と親密になり主を深く知り、私たちの霊、魂、身体、すべての面において主と似る者となるためです。

 

聖さの啓示

の啓示それでは、私たちはどのようにして変革されているのでしょうか? 真理の御霊は私たちが純粋で正しいことを強調されています。それは私たちが皆、真の聖さを持ち主を恐れかしこんで歩むためです。(2コリント7:1)これは律法的に生きるということではなく、王なるキリストへの愛と忠誠から生まれる聖さです。

 

確かに今キリストのからだは、単に 「イエスが救い主である」という教義で主を知的に知るだけでは最早満足していません。この主の民の飢え渇きに主は応答してくださり、 私たちの霊の内にイエスというお方を顕してくださっています。今まで「頭の知識」として理解していたものを、私たちは霊的啓示を通して経験し始めるのです。そして私たちの心の目が開かれるので、私たちの人柄、性格、ライフスタイルが変革されていくのです。(エペソ1:17、18) 誠実さ、正直さが一番大切になります。私たちは毎日の生活をそのように歩みはじめ、主はそれを見て喜ばれます。(コロサイ1:9、10)

 

作戦、戦略の啓示

主のためにより深く聖められた結果として、多くの者が今の重要なシーズンに用いるべき神の戦略を受け取るでしょう(ヨハネ16:13)。 主の求めならば何でも応え、ためらわずに主のことばを聞くと決意したすべての者に、真理の御霊は啓示的洞察を解き放っています(ヤコブ1:22)。神のご計画と目的がますます進展して行くのをあなたは見るでしょう。 聖さと力を持ち、キリストの絶対的権威の中で生き、動き、存在する人々を、神は持たれるでしょう。

 

デスティニーの啓示 

今あなたが「自分はデスティニーの中を歩んでいる」と感じているかどうかにかかわらず、あなたは王の王なる方によって主の良き目的のために調えられています。あなたは神によって選ばれ、永遠の昔からデスティニーを与えられているのです。どうしてでしょうか? 主はあなたを御自分のパートナーとして神の御国の将来を共に造る者として召しておられるからです(2コリント6:1)。これはあまりにもすばらしくて信じ難いことですが、神のことばなのです。エペソ2:10にこう説明されています。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

「神の作品」とはどういう意味でしょうか? 「作品 workmanship」と訳されているギリシャ語は「poiema」で、英語の「poem (詩)」もこの言葉に由来しています。まさに私たちはずっと昔に書かれた神のポエム(詩)であり、地上での神の臨在の生きた証しとなるように書かれたものです(詩編139:16、17)。すべてのクリスチャンは例外なく、神があらかじめ備えてくださった良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって創造されたのです。

 

油注ぎの啓示

多くのクリスチャンは「あなたのみわざをあなたのしもべらに見せてください(詩編90:16、17)。」と必死で叫んでいます。幸いなことに、神の油注ぎは イエスに従う聖く正しい者たちの上にとどまり、私たちは 地上の主の目的を果たすことになるのです。神は私たちのために良い行ないを備えてくださったのみならず、それを達成するために必要な恵みをも与えてくださっていま

す(ピリピ4:13)。私たち一人ひとりは神の目的を果たすために油注がれています(使徒1:8)。

 

私たちが今、神からの啓示を敏感に受けとるシーズンへと入っていくとき、私たちの召しとデスティニー(即ち人生の第一の目的)は、愛するイエス・キリストのうちに留まり、主にだけ目を留め続けることだということを決して忘れてはなりません。私たちは主の光の中にだけ光を見ることができるのです(詩編36:9)。主の臨在の中にだけ、私たちは喜びと聖い心を持つことができるのです(詩編16:11)。

 

聖い心のリーダーたち

喜びと聖さという成熟した徳は、多くのクリスチャンの中に見られますが、特にリーダーたちがキリストのからだのために更に高い基準を示すことは大変重要です。私たちが主を見るためには、心の聖さと動機の純粋さが必要とされます(ヘブル12:14)。地上で神の御国を打ち立てることを唯一の目標としている神から選ばれたリーダーたちが、今現れてきています。

 

心の聖さはすべてのクリスチャンやリーダーにとって絶対に必要とされるものです。なぜならば、かつて経験したことのないようなしるしと不思議のシーズンに入っているからです。しかし、警戒する必要があります。超自然的なことは、聖霊だけからではなく暗やみの勢力からも現れるからです。聖書は、終りの時には惑わしが強くなると警告しています(マタイ24:24)。敵は多くの者を惑わそうとしますが、キリスト・イエスはさらに大きなわざをなすために調えられた人々を、ご自分のために持つようになります(ヨハネ14:12)。

 

キリストのからだなるクリスチャンやリーダーは、「どうせ今までとあまり変ったことは起きないだろう」というようないい加減な気持でいてはなりません。今から進んで行こうとしているところは、今まで行ったことのないところだからです(ヨシュア3:4)。この先にあるもののために私たちは皆準備をしなければなりません。それは全能なる神への畏敬を胸に抱くようにという召しです。すばらしい主への畏敬の念が神の民に戻り、それによって神の知恵が解き放たれています(詩編111:10)。これから何百万という人々の心が神の力によって触れられ変えられていきます。それは神の民がキリストへの熱狂的な愛へと戻るからです。(終)

Bobby Conner
Eagles View Ministries


05 06月

預言のことばが教会を助ける    ジョン•ベルト           2014年6月5日


預言のことばが教会を助ける

ジョン•ベルト

 

追い求める心

今神は、ご自分を追い求める心を持つ教会を助けたいと願っておられます。神はご自分の民にむかって御手をのばされ、懸命に助けようとしておられるのです。神は教会の信徒たちを今、調整、更新、改革したいと望んでおられるので、見る目と聞く耳を持つ神の預言者たちを教会に遣わすことによって助けようとしておられます。教会の中で何が起こっているかは、時として外部の人のほうがよく見えることがあります。

 

黙示録2:1、2、4「エペソにある教会の御使いに書き送れ。右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦を忍耐を知っている。また、あなたが、悪く者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。..しかしあなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』」

黙示録に書かれている諸教会を見ると、それぞれの教会が取り扱われねばならない問題を持っていたことがわかります。私は神の取り扱いの方法が大好きです。神はその教会が間違っている点を先に挙げるのではなく、その教会の良い点、正しい点を挙げて励ましています。そして最後に教会が取り扱うべき難しい事柄に言及します。パウロの手紙においても同じことが言えます。彼はまず「挨拶」から始め、その教会の素晴らしい働きに対して励ましを与えます。そして次に、キリストの福音を正しく述べ伝える「狭い道」に教会がとどまるために必要な厳しい真理を語っています。

 

預言のことばをしっかり受け取る

そして今もそれと同じです。地域教会のリーダーたちは、知恵と祈りと識別力とをもって、自分の教会で起こっていることを見る目を持つ外部からの正しい預言のことばに対して、心を開かねばなりません。すべて揺り動くものは揺り動かされます。今、キリストのからだが新しい時代へと移行するとき、五役者のミニストリーを知恵をもって全面的に受け入れる者たちは、神の豊かな秤によって生きるという実を楽しむでしょう。これらの任務(使徒、預言者、牧師、教師、伝道者)は、神の豊かさを教会に完全にもたらすので、信徒はキリストの身丈にまで完成された大人になることができるのです。(エペソ4:11−13)

 

神はご自分の教会を愛しています。ですから今残っているものを取り去ってしまうのではなく、それを保持するために外部から助けを遣わすのです。牧師たちに明確にチャレンジを与える鋭い預言のことばがあります。それは往々にして、牧師の性格を逆なでしたり、牧師が普段持っている視点や考え方とは異なるからです。

イエスが私たちの肉をいら立たせる形で私たちのところに来られる時がありますが、私たちは、主がご自身を顕される形や方法を察知ー認識するためには十分にへりくだらねばなりません。それが常に私たちの益となることは確実であり、私たちの成長を助け、主の臨在の庭の中で私たちが大きく育つために剪定であるのです。パウロが言うように、剪定はその時には喜ばしいものではありませんが、後に私たちの人生に義の実を結ばせるのです。賢い者は良い助けとなる矯正を喜んで受け取ります。私たちは神の剪定を喜ぶことを学ばねばなりません。それは私たちを画期的に助けることになるからです。

ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 

あなたが牧師であるならば、今心を開いて、神があなたに何を示し何を告げようとしておられるのかを見る目と聞く耳を与えてくださいと祈るようにお勧めします。どのような調整が必要なのでしょうか? 神はそれを直接あなたに示されるかもしれませんし、あるいは又、今までのあなたの考えとは全く違う思いもよらない方法で来られるかも知れません。神はあなたを揺さぶる方法を知っておられ、最早神にしか信頼するものがなくなるように物事を揺さぶる方法をご存知です。

 

預言の言葉によって繁栄・成功する

エズラ記で、ハガイとゼカリヤが預言することによって民は促進されうまくゆきました。預言のことばが実際に働く力をここに見ることができます。民は預言者たちに聞き、宮を建てることができたのです。

エズラ記6:14「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。」

地域教会は、神がご自分の臨在の住まいの場所として建てておられる生ける石である人々です。主の臨在の聖所となるために必要な預言による備えをする覚悟のある教会を、神は探しておられるのです。

 

聖霊は脇役ではなく、中心です。聖霊は地上に顕わされた神だからです。聖霊は私たちのうちにある栄光の希望なるキリストです。私たちが聖霊を私たちの心と教会の中に歓迎するとき、私たちのただ中に神のご性質を迎えることになります。なぜならば聖霊は「聖い霊」であられるからです。私たちが聖霊を歓迎しているかどうかを調べるリトマス試験紙は、私たちが神に喜ばれないこと、聖くないもの、を私たちが退けているかどうかです。イエスはそうされました。主を恐れることは悪を憎むことです。(箴言8:13)神は主の御心を追い求める純粋で聖い人々を求めておられます。そうでなければ、神が私たちのために用意された最高のもの以下でよしとしていることになります。

 

聖霊を歓迎してください。恵みと知恵と見分ける力と預言のことばをあなたとあなたの教会に与えてくださいと、主に願ってください。あなたが内側からは見えないけれど神が外側から見ておられるものを正直に見て下さい。私たちが主の臨在に心を明け渡すならば、主は主の道へと誠実に私たちを導いてくださり、旅路を助け、主の栄光のためにキリストのからだを建て上げてくださいます。

主の愛は決して絶える(不足する、見捨てる)ことがありません。His Love Never Fails!(1コリント13:8) (終り)

 

John and Brandi Belt
Overflow Global Ministries
Email: office@overflowglobal.com
Website: overflowglobal.com


28 05月

あなたの夢を眠りから覚ませ!         ジョイ・レターナウー             2014年5月29日


あなたの夢を眠りから覚ませ!

 

ジョイ・レターナウー

 

創世記37:5「ある時、ヨセフは夢を見て、....」

私たちにはみな夢があります! 私たちの内のどこかに、心を情熱で燃やし喜びに溢れさせる何かがあります! それは古い夢かもしれませんし、新しい夢かもしれません。 それは冬眠状態で起こされるのを待っているのかもしれませんし、或いは人々に新しい命をまさに吹き込もうとしているところかもしれません。あなたの心の中にある夢がどのような段階であったとしても、今はその夢が目覚める awakening ための準備をする時です!

 

生き返ることができようか?

 

エゼキエル37:3「主は私に仰せられた。『人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。』」

今、私たちは主と共に 、私たちの夢の干からびた骨を見ています。敵はその夢を盗み、殺し、滅ぼそうとしました。神は私たちに「これらの夢は生き返ることができようか?」と聞かれます。主は私たちの答えを待っておられます。私たちは長引いた期待で病んでいる心からその問いに答えてはなりません。むしろ、私たちがすでに孕んでいるもの(主はそれをあなたと共に産み出すパートナーになるのを待っておられます)にむかって語りかけねばなりません。

 

御父は、あなたに対してあることばを語るというのではなく、あなたの内にすでにあるそのことばを呼び起こし召し出そうとしているのです。御父はあなたがもう一度夢を語り始め、一歩ずつ主と共にその夢を生き始めて完全に成就させるようにと願っています。期待が長引く前にあなたが持っていた喜びを取り戻してください。古い夢、死にかかった夢、休止状態の夢は、あなたが考えるよりも生きています。そしてあなたは自分で思っているよりもその夢を実現する力をうちに持っているのです。あなたの中には子供がいて、その子は夢を見る方法を知っているだけではなく、シンプルな信頼と信仰でそれを実現する方法をも知っているのです。

 

「タリタ、クミ」

 

私たちがエチオピアから引越す前に、私はまるで現実かのようなリアルで強烈な夢を見ました。主が私を埋葬場のような所に連れて行きました。そこには6つのひつぎが置かれていました。主はその中のある一つのひつぎに私を連れていき、「手を差し伸べていのちを預言しなさい。」と言われました。まだ夢の中だったのですが、私は主がすぐそばにおられることを身体で感じていました。私が手を差し伸べて語りかけると、 ひつぎの中の子供が起き上がりまっすぐに座りました。

 

私はこの子供の姿こそがこれからの時代の鍵となるものだと信じます。この夢から2年近くも経ち忘れかけた頃、 神はその夢の意味にいのちを与える言葉を、 マルコ5:41−42から語ってくださいました。「そして、その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われました。(訳していえば、『少女よ。あなたに言う。起きなさい。』という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。」

 

このような子供こそが、私たちの夢がいのちを取り戻しこの世で実現されるための鍵となるのです。私たちの中にある夢が実際に叶い、その御国のリアリティーが表現されるためには、私たちはもう一度幼子のように御父と歩むことを学ばねばなりません。

 

イスラエル人がヨルダン川を渡って約束の地に入るときもそのようにしました。彼らは一歩、又一歩と、夢と約束の中へと入って行きました。川の流れに未だブレークスルーが起こる前に、彼らは最初の一歩を踏み出していました。すなわち、それが現実のものとなる直前に彼らは一歩一歩を既に踏み出していたのです。ー子供がするのはそういうことです!  御父は今、「若さ(若者)に溢れた」リバイバルを生み出そうとしておられると信じます。それはあなたの中にいる子供であり、そして又、あなたのすぐ横にいる若者です。両方とも「この時のために」起こされているのです。神は多くの場合、思いもよらないような人々や作戦を用いて動かれました。そして今も又、神はこの世の「からの器(2列王記4:3)」を探しておられるのです。それは私たちの考えているものとは全く異なる「神の最高のもの」を入れるスペースを持っている者たちです。

今はあなたの中にある子供のような信仰をよみがえらせる時です。その子はあなたの夢に語りかけて目を覚まさせ、あなたを力づけるのです。そして又、今はあなたの周りにいる若者を見つけ、夢を見るように励まし力を与える時でもあります!今という時は両者が共にもう一度夢を見る時です!

 

地に落ちる神の約束は一つもない

 

私が持っていた古い夢や神からの約束の中で、いのちを吹き返し以前より更に強くなったものが一つあります! それはサムエルの話から来ています。サムエルはあまり主の御声が聞かれなかった時代であったにもかかわらず預言者として立たされました。彼はまだ非常に若かったのでが、彼に与えられた使命を神と共に生き始めました。御父と共に働く子供としてです。それは彼にその資格とか悟りがあったからではなく、彼が「主に明け渡す」性質を持っていたからであり、それは母ハンナから受けついだものでした。

 

このようにサムエルは神の預言者として非常に若い時から主のために預言をしたのですが、彼について次のような証しがあります。「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。(1サムエル3:19)」

 

私はこのことに驚嘆します! 毎日の任務として神の代弁者として語り、地に落ちることばが一つもなかったということがあり得るでしょうか? 私たちは預言のことばをいとも簡単に口から出してしまうことがあります。しかし主のために預言をする任務を少年の時から与えられた者の言葉が、 無益に地に落ちることが一つもなかったというのです。なんとすばらしいことでしょうか。

もし神とサムエルとの間のことばが一つも地に落ちなかったのならば、神が計画された人々の人生の目的が一つとして地に落ちないということも大いにあり得るのではないでしょうか。

 

私たちの人生の目的は、それぞれに非常にユニークなものを神から特別に与えられいるのです。もしサムエルのことばが一つも地に落ちなかったとするならば、 神の子供であるならば誰であっても、その人の人生の目的が地に落ちることなどあるでしょうか? これこそ私たちが夢を持ち続けなければならない理由です!

 

あなたの中には他の誰もが持っていないユニークな目的があるのです。御父にとってあなたがどのような存在であるか、ということだけであなたには(ものすごい)価値があるのです。御父はあなたを無条件で愛しておられ、 あなたを信じています。私も信じています!御父はあなたをユニ—クで特別な目的へと召しておられるのです。

 

今はあなたの中にある夢を呼び覚ますときです。今は子供のように主を信頼して歩み、この世が示す夢ではなく、あなたの本来の夢を生き、あなたの目的が実現するのを見るときです。神があなたの中に入れた目的が、一つも地に落ちることがないように祈ります。今は夢を持つときであり、それはぼんやりと夢想することではありません。 実際にこの世でそれを最も必要とする人のために用いられるあなたに与えられた目的、使命を実現させる夢のことを言っているのです。

あなたがあなたの目的を生きることによって国が変えられることを想像してみてください! 目を覚ますことを選び取った者たちを通してその希望は息づくのです。(終わり)

Joey LeTourneau
M.A.R.K. 10:14 Family/Heavenly Hope Ministries
Email: joey.letourneau@gmail.com取った
Website: bringhishope.org / uncommonvision.org


 Page 55 of 131  « First  ... « 53  54  55  56  57 » ...  Last »