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Walk With God Ministries


21 09月

金の鉢に入れられる祈り     ボビー・コナー    2014年9月21日


金の鉢に入れられる祈り

 

ボビー・コナー

 

 

 ヨハネ15:16に「..また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と書かれていますが、神の御霊は今、そのように非常に高レベルのとりなしの祈りの油を解き放ち注いでおられます。世界中の聖徒たちが祈りの勇士として召し出され動員されており、祈りの集会の大きなうねりが様々な場所で始まっています。これらの祈りの集会の中には、卓越した革新的な若者によって導かれているものもあり、彼らは「地上に神の御国を確立すること」だけを目標にしています。喜ばしいことは、それと同時に年配者からのとりなしの祈りも立ち上っていることです。

 

神の御座の前では祈りが大いに尊ばれていることを悟る

 

新たなる祈りの油注ぎを受けた私たちが、祈りに関して御ことばが何を教えているかを正確に知ることは極めて重要です。特に、私たちの祈りが天の領域に上ったとき、どのように取り扱われるかを知ることは 重要です。

黙示録5:8「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」

 

私たちの祈りは、天の小羊の御座の前で大変重要な位置をしめています。それは大切にされていて、金の鉢に入れられています。私たちの祈りは非常に麗しく芳香を放ち、大きな価値を持ち大変貴重なので金の鉢に入れられているのです。信仰に満ちた祈りの芳香は小羊の御前に絶え間なく立ち上り、御座を麗しい香りで満たしています。それは神の御前で行われているすべてのワーシップと崇拝の中で欠くことのできない大切な要素となっています。

 

熱心な祈りには大きな力があることを信じる

 

私たちの祈りがどれほど事を成し遂げるかは、全く驚嘆に値します。私たちの祈りは実際に全能の神の御手を動かすのです。(エレミヤ33:3)事実歴史上、命運をかけるような危機的状況において、多くの場合、祈りがその結果を生み出したのです 。キリストのからだとして私たちは、今は歴史的に大変重要な変革の時であり、又、重大な岐路であることを認識せねばなりません。私たちの祈りには大きな力があることを信じて、金の鉢をとりなしの祈りで満たすために充分な時間を掛けなければなりません。

聖書は神の慈愛に満ちた貴い約束で満ちており、神が喜んで祈りに答えてくださるという約束が数えきれないほど書かれています。神の御ことば私たちに次のように約束しています。

「義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)」

主イエス・キリストは福音書の中で、 私たちの望むものは祈れば、すべてかなえられると何度も保証しておられます。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)

私たちの祈りは、実に私たちが想像する以上に事を成し遂げるのです。「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方に..」(エペソ3:20)

 

サタンの嘘を見抜く

 

私たちの魂の敵であるサタンが、私たちの祈りを妨げるために、策をこらして容赦なく攻撃してくることは間違いのないところです。サタンは私たちが全く祈りを止めてしまうようにと狙っています。彼の一番の作戦は何でしょうか? それは神を中傷することです。「神はあなたの祈りなど聞かない。」というような冒涜的な嘘によって、私たちの真実なる王を糾弾するのです。サタンが話すときはいつも、例外なく、嘘であり偽りです。(ヨハネ8:44)嘘とは真実の正反対のものですね。ですから、敵が「あなたは神に祈りを聞いていただけるほど重要人物ではない」とか、「あなたは祈り方を知らない」とか、「過去に犯した罪のゆえにあなたはもう神の憐れみや恵みを受ける資格はない」とか、「神は無関心で不真実で愛がない」とか言うときは、即ち、真実はそれと全く反対であり、それはあなたの祈りが天の法廷で聞かれているということなのです!

 

あなたは失格であるとか、無視されているということは絶対にありません。それと全く反対に、あなたが信仰で神の御ことばの貴い約束に立って祈るとき、その祈りには力があり、効力があります。あなたが祈る度に、例外なしに、あなたは天の軍勢を動員するのです。あなたが疑いや不信の声を聞く時は、それが糾弾するサタンの声であることをこの際はっきりと識別して、彼を叱責し、否認し、その場から追い出してください。

 

力強い天使の助けを歓迎する

 

次のことに確信を持っていただきたいのです。それは、あなたの祈りは天で聞かれています。聞かれて金の鉢に大事に入れられるばかりではなく、それは大事に守られて、力ある聖なる御使いによって遂行されるのです。

黙示録8:3-5にこう書いてあります。「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」

絶対に忘れないでください。あなたの祈りは必ず遂行されます。祈りは、常に、間違いなく必ず天を動かすのです。

第二コリント6:2「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 

祈りは必ず結果を生むことを信じて期待する

 

地上であなたの口から祈りが発せられると、それは神の御座の前に立ち上り、天は直ちにそれに応答します。時として地は揺り動かされます。例えば、弟子たちが祈ると実際に地震が起りました。

使徒行伝4:31「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」

 

使徒行伝12章の祈りは、投獄されていた使徒ペテロの生死にかかわるものでした。ヤコブは既に剣で殺され、ペテロも同じ運命に直面していました。しかし聖書は「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた、、(使徒12:5-11)」と記しています。神に出来ないことはないのです。私たちの祈りは神の御手を私たちのために動かすのです。真に、祈りはパワフルな力です。

私たちの祈りは地からの応答を招くだけではなく、天からの激しい応答をも解き放ちます。上記の黙示録8:3-5で、私たちの祈りが天から地にむかって投げ返されるとき、いなずま(神の力を表す)が起ると書かれています。雷鳴やとどろきは神の御ことばが天から解き放たれることを意味しています。神の御声が語るとき、全世界が揺り動かされるのです。(出エジプト19:10-20)

 

信じて奥義を見出せ

 

神の御手を動かすのは信仰の祈りです。そうです、神にはすべてができるのです(ヨブ42:2)。創世記18:14に「主に不可能なことがあろうか?」という問いがあります。その答えは「No! ない!」です。私たちが信仰の祈りの領域に入るとき、神に不可能は絶対にないことがわかります。神は私たちが求めれば答えてくださると約束されています。このパワフルな約束はエレミヤ33:3に書かれている通りです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。Call to Me, and I will answer you, and show you great and mighty things, which you do not know.

 

この「大いなる mighty」という言葉は「囲まれた fenced in」という意味です。それは「切り離されて cut off、立ち入ることができない inaccessible」という意味合いを持っています。ですからエレミヤ33:3は、 隠されていたものが祈りによって見えるようになることを私たちに約束しているわけです。神は私たちに、又、私たちを通して顕し啓示してくださることを沢山持っておられることがこれによってわかります。しかし私たちが信仰の祈りを持って主を呼ばなければ決して受けとることはできません。神は今まで隠されていたものをあらわすことが出来ます。神はご自分の友にそのような奥義をあらわすことを願っておられるます。それはご自分の民を必ず助け守ることを決意されているからです。

申命記29:29に「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」とあります。神は私たちに教えたい秘密を持っておられます。しかしそれらは祈りによってしか手に入れることはできないのです!

愛する皆様、絶対にあきらめないでください! 神に叫び続けてください! 答えは今あなたのところに向かっています。神は私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて成すことが出来るのです。(エペソ3:20)ハレルヤ(終)

Bobby Conner EaglesView Ministries
Email: manager@bobbyconner.org


07 09月

キリストに似る者となる   フランシス・フランジペン(In Christ’s Image より)  2014年9月7日


キリストに似る者となる


フランシス・フランジペン(In Christ’s Image より)


今日は、私たちの教会の最も中心的なヴィジョンを話します。それはキリストに似る者となることです。私たちがキリストに似る者とならないならば、教会の目的はなくなります。神は私たちの古い性質を抑制する「宗教」を与えてくださったのではなく、私たちに新しい性質をくださったのです。新しい命、即ちキリストの命そのものをくださったのです。パウロはガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言っています。イエス・キリストがあなたのうちに生きておられるかどうか、吟味してみてください。教会におけるすべての訓練(活動、ヴィジョン、適応、学びなど)の目的は、キリストを私たちのうちに解き放つことによりキリストが私たちを通して生きることにあるのです。私たちがどのくらいキリストの霊をこの世に解き放つか、自分の動機、自分の思い、自分の信仰をどれだけキリストに明け渡すか、そして私たちがどれほどキリストに似る者になるか、が教会の成功度のバロメーターなのです。人数ではありません。何人がキリストに似る者となるかが、教会の成功を測るポイントです。

真のリバイバルの証は、人々が倒れるとか、飛びはねるとか、転げ回るとかではありません。教会の建物を出たときあなたがどのくらいキリストに似る者になっているか、なのです。それによってあなたがリバイブされたかどうかがわかります。リバイブ(生き返る)するのは、あなたの中のキリストの命だからです。キリストが私たちの命なのです!キリストを顕すこと、すべてをキリストに明け渡すという唯一のゴールにフォーカスすること、それこそが人生の他のすべてのゴールをも達成させる道です。パウロがピリピ3章に書いていますが、この箇所は私の聖書では「人生のゴール」という見出しがついています。そしてそれは、「イエスを知りイエスに似る者となることである」とパウロは言っています。彼は信仰生活を始めたとき、多くの教会を設立しようと計画したわけではありません。新約聖書の三分のニを書くつもりもありませんでした。使徒になる計画もありませんでした。彼の唯一つのパッションは、「イエスを知ること」でした。

(彼はピリピ3:2で犬に気をつけるように警告しています。悪い働き人、肉体だけの割礼の者に気をつけるように言っています。一世紀の犬は今のように可愛いペットではなく、ゴミ捨て場をうろつく動物でした。エルサレムの12の門の一つはゴミの門で、その門の外はゲヘナと呼ばれゴミが燃やされていました。犬はそのゴミをあさって生きていたのです。教会にもゴミばかりあさっているクリスチャンがいます。何か悪いことがないかといつも鼻をぴくぴくさせているのです。腐敗したことはないか、不完全なものはないか、何か失敗した者はいないかといつも嗅ぎまわり、それを食べて生きているのです。そのようなクリスチャンには、どうかならないでください。神はあなたのためにもっと良いものを備えていてくださるのです。)

ここでパウロは「宗教」ではなく、キリストとの真の関係について話しています。
彼は自分の経歴を述べ始めます。「自分はパリサイ人の中のパリサイ人、ベンジャミン族の出、律法に熱心で非難されるところはなかった...」と自分の血筋の良さを書き並べたあと、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」と言っています。この「イエスを知りたい!」というパウロの情熱こそが、彼が「神からの約束」を得る推進力となったのです。もしあなたがイエスを知る情熱をもたず、キリストに似た者になることもせず、神からの約束の成就だけを願うならば、それはなかなか成就しません。キリストに似た者になることを人生の最大の目的とすることが必要なのです。

この教会はただ「人々」を求めているのではなく、「弟子」を求めているのです。
「弟子は師以上には出られません。しかし、十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)」とイエスは言われました。私たち弟子は、師であるイエス・キリストのようになれるのです。これがこの教会のゴールです。イエスを知ること、イエスのようになること、そのための情熱を持つこと、それが今日の話のテーマです。それはあなたが生きているこの世界でキリストのようになることであって、次の世に於いてではありません。次の世ではすべての人が完全にされますから、それは難しくありません。でも神は今ここで私たちがキリストに似る者となることを意図されているのです。即ち、あなたの仕事場でキリストのようなること、あなたが住んでいる町でキリストのようになることです。もし私たちがそれを目指して進むならば、神の約束がそれに添えて成就されるのを私たちは見るのです。私たちは神の約束を得ようと進んでいても、なかなかそこに到達出来ないと感じます。それは私たちが「神の約束は他のことと関係なく独立して存在し、成就するものだ」と勘違いしているからです。そうではなく、神の約束は私たちがイエスとの縦の関係を確立するとき、私たちの心がキリストを知ることを愛しキリスに似る者となりたいと情熱を持って進むときに、その「結果」として、神の選ばれた時に成就されるものです。

世界の国々のことを考えてみましょう。彼らが救われることを私たちは願います。すべてのものは膝をかがめ、すべての口が「イエスは主である」と告白して神を誉め称える時が必ず来るのです。イスラム教国であっても、共産国であっても、ヒンズー教国であっても、ある時にすべての人が「イエスは主である」と告白するのであり、それが真理でありリアリティーなのです。(拍手)現在と、それが成就するまでの間の期間に、教会はどんどんと今までになかったほどキリストに似る者となるのです。この約束が成就されるために、私たちはキリストに似る者にならねばなりません。第二コリント1:20でパウロは「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰すのです。」と言っています。「ことごとく」とは、神がイスラエルにした約束、異邦人にした約束、イエスによってもたらされた約束、神があなたにされたすべての約束、これらすべての約束のことです。健全な結婚、子供たちの救い、繁栄、健康など、すべてあなたが神からの約束と信じるものは、「この方において『しかり。』In
Him(Jesus) are Yes
」となったのです。もしあなたが約束の成就に到達したいと願うならば、まずイエスにある成就に到達せねばならないのです。イエスにあって成就すること、即ち私たちを通してイエスが顕されることが、二番目の祝福の扉、即ち神の約束の成就の扉を開けることになるのです。

人々はあまりにも多くの場合、焦点を間違えてしまいます。例えば、「繁栄」ということに焦点を当てます。「神は私を繁栄させてくださる。私が蒔けばそれは何倍にもなって返ってくる、と聖書は約束している。」と言います。でもその人はやがて破産してしまいます。どうしてでしょうか。その人は「信仰」をもって行ったのではないのですか?
聖書の法則に従って行動したのではないのですか?
違うのです。そのような約束はそれが独立して成就するのではなく、イエスにおいて成就するのです。私たちの人生の中心にイエスがおられるならば、主は光と力を与え、すべてのものをあるべき姿にしてくださり、二義的な約束をも成就してくださいます。
「イエスにおいて」「神の約束は」「ことごとく」「しかり(Yes)」なのです。考えてみてください。すごいことではないでしょうか。

あなたはあなたの結婚が、仕事が、家族の救いが、その他すべてのことが巧くいくことを願っています。神はそのすべてをイエスにおいて「Yes!」だと言われるのです。喜びの叫びをあげようではありませんか!
御父は御子をそれほど愛されているのです。イエスはそれほど私たちのために代価を払われたのです。天の銀行にある約束を引き出すためには、私たちは「イエスにおいて
in Him」生きねばなりません。イエスの御ことば、命があなたの命となって、神があなたの内側を変えてくださることによって、栄光から栄光へとあなたを内から外へと変革してくださるのです。イエスに焦点を当ててください。

イエスを顕すこと、そのことにために私たちは存在し、創造されたのです。もし、あなたがこのことを真剣に求めるとしましょう。あなたが今、「私はイエスに似る者となりたいです。」と神に申し上げるとします。あなたが女性とか男性とかは関係ありません。イエスがあなたに新しい性質、徳性を与えてくださるのです。あなたが若くても年寄りでも、男性でも女性でも、あなたを通してイエスの力、聖さ、柔和さ、愛、信仰、徳が顕れ出るのです。

これを真剣に願う人がいますか? 「主よ、私はそれを求めます。」と言いますか?
そのような人にはある事が起ります。主はあなたを「イエスのようでなければならない状況」に導かれます。
「主よ、私はあなたのようになりたいです。嵐の中でのあなたのようになりたいです、でも嵐はやめてください。」「私はあなたのように人を愛したいです。すでにあなたのように愛の人となった人たちを。」「わたしは水の上を歩きたいです。一月のアイオワで。」一月のアイオワは凍っていますから、誰でも歩けますね。7月に歩けたら進歩ですね。(笑)

私たちのゴールはイエスのようになることです。あなたがそのことを真剣に望むならば、そしてあなたの中でイエスのようでないところが一つずつ減っていくならば、何かが起り始めます。前もって警告しておきますよ。戦いが始るのです。「私はイエスのようになりたいと言いました。教会という安全な場所でね。牧師が『イエスのようになりたい人はいますか?』と聞いたので、『はい。』と言ったんですよ。でも教会を出た途端、ひどいことが沢山起こりました。」とあなたは言うかもしれません。でもひどいことが起るのはすばらしい事なのです。それはあなたが前進している証拠なのです。あなたは「私はそんな風に前進などしたくありません。私は安らかにまどろんでいたいんです。」と言われますか?

何かが起り始めるのです。もしあなたが真剣ならば、主はあなたが立ち上がってキリストに似る者になるのを阻止しようとするものとの戦いに勝利できるように油注いでくださるのです。この戦いは神の御こころによって戦略的であり、計画、計算されていて、教会という安全な場所でまず調えられたあなたが、厳しい外の世界に出て行って勝利するように神が備えてくださったものなのです。そこで私たちはイエスのようになるプロセスを拡張していくことができるのです。教会の建物を出てからが実際の生活の場におけるリアルな訓練です。

あなたは将来の伴侶を求めているかもしれません。それは誰だか教えましょう。それはイエスです。「そういうことではなく、本当の誰かを望んでいるのですが….」と言われるかもしれませんね。でも、まずイエスと親しい関係になることがよい伴侶を見つける道です。幸せな結婚がしたい、よい家庭を作りたい、というあなたの願いは、まずイエスとよい関係を結ぶことから始るのです。主はあなたに最良の結婚を与えてくださいます。あなたがまわりのものに目を奪われることなく、まずイエスを目指して進むからです。

出エジプト1:11を見てください。「そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。」とありますね。12節には「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、」とあります。これが主のやり方です。あなたがある戦いで苦しめば苦しむほど、キリストがあなたの人生にふえ広がるのです。イエスがあなたの魂にふえ広がれば広がるほど、あなたはキリストに似た者とされるのです。

私たちには少しばかりの苦難、少しばかりの戦いが必要なのです。小説でも「葛藤がない話は退屈」でしょう?
私たちの中には「退屈な筋書き」の人生を送っている者があるのではないでしょうか。でも大丈夫です。あなたがキリストに似る者になりたいと真剣になったときには、主は必ず葛藤、戦いを送ってくださいます。主はあなたがキリストのようにならねばならない状況の中に置いてくださいます。キリストに似る者になればなるほど、神の約束はあなたの傍に引寄せられてきます。神はあなたの心の願いを与えてくださるようになります。戦いの中にあってもあなたが主を喜ぶとき、あなたが聖なる手をあげて祈るとき、神に愛を捧げるとき、生け贄を喜んで捧げるとき、神は祝福を与えてくださるのです。神の力があなた近づいてきます。あなたがキリストに近づくからなのです。私たちの教会のDNAは、イエスに従う者です。イエスのように変えられる者です。今日、私たちは神からイエスのようになるチャンスと力を頂いているのです。特権です。

質問します。あなたは他の誰かでその人のようになりたいと思う人がありますか? 考えてみてください。政治家ですか? 映画俳優ですか?
私はイエスのようになりたいです。あなたもそう思われるならば、あなたはその決心をせねばなりません。「主よ、これが私の生き方です、私はこのために生まれました。」と。イエスのようになること以外は、すべて死の世界なのです。私たちの魂のすべてがイエスにむかって「Yes!」というならば、キリストの御性質が増え広がっていくのです。すべての人が心からこの決断をすることが、私の願いです。「私はイエスに倣う者になりたいです。今までそれ以下のことを神としていたことを悔い改めます。」と。

イエスを離れて私たちは何もできないのです。徳を高めることも、力を得ることも、神の約束を手に入れることもできません。ある人は他の人がしていることを真似てそれらを得ようとします。しかしイエスを内に持たないではそれは不可能です。朝イエスと共に目をさまし、夜イエスと共に床につく、私の潜在意識までもがイエスの思いで一杯になるように、私の目が健全でからだ全体が少しも暗いところがなく明るいようにと願います。

祈りましょう。「父よ、私たち一人ひとりが、イエスのようになることに熱心になりますように。私たちの人生のすべての面をあなたが取り仕切ってくださいますように。父よ、私たちがイエスに似る者となることをお願いいたします。キリストのような心の態度で回りにいるすべての人に接することができますように。自分はいつもそうではないことを告白いたします。あなたや私の心を満足させるような態度ではないことを告白いたします。キリストのような心をすべての面において与えてください。父よ、私たちがイエスを顕す者となれますように。アーメン」(終)


01 09月

時とシーズン (その2)    ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス     2014年9月1日


時とシーズン (その2)

ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス(2014 年7月19日収録)

 

PK:私は「Thrones of Our Soul」という本の中で、救いの段階、プロセスについて書きました。救いは神からのギフトですが、油注ぎを受けるには代価を払わねばならないと私は思います。「勝利を得る者」には多くの祝福、報いが与えられると書かれています。勝利者ということは、何かと戦って勝利するということです。これについて少し詳しく話してくださいますか。

 

ボビー:箴言23:23に「真理を買え。それを売ってはならない。」とあります。買うというのは、即ち、代価を払うということです。これから数日のうちに、数ヶ月のうちに、数年のうちに、真理はとても高価なものになります。真理を水増ししたり、変えたりする教会が増えてきます。聖霊が来るときは、完全な真理を告げます。ですから私たちは聖霊のメッセージが必要です。勿論、愛をもってすべての真理を語るのです。あなたが愛していることを相手が信じるならば、語れないことは一つもありません。

 

PK:今まで私たちはいろいろとミニストリーをしてきましたが、これからはまた一段レベルの違うミニストリーが始ると思います。荒野でモーセはイスラエルの民に水を与えるために、一度目は岩を一度打ちました。それは神の力のデモンストレーションでした。しかし2度目は岩を打つのではなく岩に命令するように言われました。モーセは神の指示に従いませんでしたが、これは神の権威のデモンストレーションになるはずでした。このことが今の私たちへのサインではないかと思います。例えば、今までは人々に手をおいて癒しを祈りましたが、これからは権威をもって病気に対してその人から去るように命令するようになるのではないかと思うのです。ブラナム師(William Branham)はそれを「スーパー・アノインティング」と呼んでいましたが、その油注ぎがくると聖霊が「何でも言いなさい。そのようになります。」と言われたそうです。それはすごいことですよね。神はシンプルな事でそれを証明してくださいました。ある日彼はリスを獲りに行ったのですが、リスが見当たりません。神が「リスが現れるように言いなさい。」と言われるので、そのようにするとリスが一匹現れましたので、それを撃ちました。神は「もう一度やってごらんなさい。」と言われるので、彼はまた「リスよ、現れよ!」と言うとまた一匹現れたので、それを撃ちました。彼は「これは幻かもしれない」と思ってリスのところに行くと、血を流したリスが本当にそこにいました。彼は「権威ある言葉の力」というメッセージを語っています。ボビーさん、あなたも権威ある言葉の証がありますね。

 

ボビー:はい。いくつかの証があります。一つは9年ほど前のことですが、アメリカの北東部で山火事がありました。一日に百万ドル以上かけて消火活動が行われていましたが、まだ火は燃え盛っていました。私はその時、テキサス州の集会でメッセージをしようとしているところでした。主が「ボビー、あなたはあとどのくらいこの火事を燃えたままにするつもりですか?」と言われたのです。私は「主よ、この火事が私の責任とは思いませんでしたが、、」と申しあげました。主は「誰の責任だと思うのですか?」と言って、詩編115:16「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」を示されました。私が「何をすればよろしいのでしょうか?」と聞くと、主は「教壇に行き、手を挙げて,『主が大雪を降らせるので山火事は消える』と預言しなさい。」と言われました。私は「主よ、今は8月で気温は40度Cですよ。」と言うと、主は「言われた通りしなさい。」と言われました。ですから、私は人々の前に出て、「主が大雪を送られます。それで山火事は消えます。」と預言しました。

そして、私はテキサス州から消火活動の基地になっていたモンタナ州ミズーラに飛行機で行こうとしましたが、非常事態であったのでそこには行けませんでした。それで、そこから数マイル離れた一つの町に行きました。始めてお会いする牧師が出迎えてくださり、燃えている山が見える場所に連れていってくれました。祈り始めると、主が「わたしはあなたの祈りが聞かれるというしるしを与えます。」と言われるので、「主よ、どの聖書箇所ですか?」とお聞きすると、「聖書ではありません。中華料理店の3つ目のフォーチュンクッキーの中です。その牧師にそう言いなさい。」と言われました。私はちょっと困りましたが、「あの、主がこのミッションが成功するしるしをフォーチュンクッキーの中にくださるそうです。」と牧師に告げました。彼と私の間にさっと壁ができたのを感じましたね。(笑)でも彼は「それは面白いですね。私の一番好きな中華料理店がすぐそばにあります。そこに行って食事をしましょう。」と言ってくれました。食事のあと二つのクッキーをおばあさんが持ってきてくれましたので、私は「すみませんが、もう一つください。」と頼みました。彼女がくれた3つ目のクッキーを私は震えながら割りました。するとそこには「神はあなたの祈りを聞いてくださるばかりか、それを成就してくださる。」と書かれていたのです! 私たちは山に戻り、「神よ、イエスの御名によって大雪を送ってください。」と宣言しました。モンタナ州ミズーラの新聞をインターネットで調べてみてください。翌朝大雪が降り、火事は鎮火され、消防隊員はすべて下山したことが書かれています。(拍手)

 

もう一つの出来事があります。私がテキサス州にいたとき、主が「ウクライナに行きなさい。」と言われました。理由は告げられませんでしたが、従いました。ウクライナに着くと、がちがちになった雪が膝の高さまで積もっていました。ホテルの後ろの湖では氷に穴をあけて魚を釣っていました。「主よ、どうして私がここに居るのですか?」と聞くと、主は、「シリアの軍隊がロシアとウクライナから毒ガスを購入してイスラエルに爆弾を落とそうとしています。あなたはそれを祈りで阻止するのです。あなたのミッションが成功したしるしとして、明朝までにすべての雪は消えてなくなります。あなたと一緒にいる人たちにそう宣言しなさい。」と言われました。私は「主よ、雪は深く、湖は凍っています。」と申し上げたのですが、主は「言われた通りにしなさい。」と言われました。私は言われた通りにしました。そして翌朝起きてみると、すべての雪と氷は溶け去っていたのです!湖ではボートが走っていましたし、道路は雪が全部とけて水浸しでした。夜のうちに天候が一変して大雨が降ったのでした。

神は事を成就させ、それをしるしをもって確証してくださいます。マルコ16:20に「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とありますね。

 

もう一つの出来事はこれです。私は旅行をするときはいつも小さなナイフをひげ剃りの道具箱の中に入れて持っていきます。これはボブ・ジョーンズ師からもらったもので、高価なものとかではないのですが、私はとても大事にしていました。ところがあるホテルにそれをうっかり忘れてきてしまいました。ホテルに連絡をして探してもらったのですが、どこにも見つかりませんでした。私はすごく残念で腹が立ちました。集会をして忙しくしていましたが、ナイフの事が頭の片隅にいつもありました。家に帰ってスーツケースを開け、ひげ剃りの道具箱を取り出したときに、又怒りが湧いてきて、私は大声で「おい! ナイフを返せ! Hey! I want my knife back!」と叫びました。すると何かが空中から現れてベッドの上に落ちたのです。何だったと思いますか? 私のナイフでした!空中から現れてベッドの上に落ちたのです。ビル・ジョンソンは私のこの話を聞いて彼の教会で話したところ、人々はそれを実行して無くしたものを沢山取り返すことができました。本当にすごいですね。

 

何かを宣言することには大きな力があります。生と死があなたの口にあるのです。

イザヤ50:4に「神である主は、私に弟子の舌を与え(the tongue of the learned)、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」とあります。今のこの多難な時代に私たちはどのように生きたらいいのでしょうか。私たちは人々にどのように話したらいいのかを主から学ぶことができるのです。

 

PK:私たちは今、容易ならぬ霊的戦いを迎えようとしていると思います。その多くは教会内での戦いだと思います。確かにこの世との戦いもあると思いますが、ほとんどは教会内だと思います。その一つに使徒の定義に関する戦いがあります。真の使徒的ミニストリーと、人間によって使徒とされた人たちによるミニストリーとの間に、はっきりとした線が引かれると思います。聖書的な使徒は、神によって使徒と任命された人であり、そのような人たちは人を生き返らす力を持つと思います。

 

ボビー私たちは時が来ていないのに慌てて使徒の定義をしようとしてしまったのではないでしょうか。そしてピラミッドの頂点が使徒であると考えました。でも本当は逆で、使徒は一番下で人々を支える人です。人々は「使徒」というタイトルを求めましたが、神は本当に使徒として機能する人を求めています。 

使徒は、まず神の御ことばを熟知し御ことばで満たされた人でなければならないと思います。ヨハネ1:14に「ことはば人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。御ことばを熟知していなければ使徒的であることはできません。又、使徒はイエスをその目で見た者だと思います。

 

PK:ヘブル12:1に「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、」とあります。このような証人を認める教会と認めない教会がありますが、証人たちは、ある意味で私たちよりももっと生きています。彼らは私たちを取り巻いているとはっきり聖書に書いてあります。私たちと彼らの間にある幕は今非常に薄くなっています。今この部屋にも天使や証人たちが満ちていて、神が幕を少し開けるならば、霊の領域にいる天使や証人が見えるのです。私たちは霊の領域に対してもっと心を開かねばなりません。そのことばかりに心を捕われるということではありませんが、神が私たちのために霊の領域からメッセンジャーを遣わしてくださることがあるのです。メッセンジャーには色んな種類があるのです。あなたはイギリスでそのような経験をされましたね?

 

ボビーこれは確かに教会内において争点となる事柄だと思います。人々は頭で理解できないことを恐れます。そこが問題です。私たちは物事に対して頭ではなく霊で近づかねばなりません。霊の領域に進もうとするときに最大の障碍となるのは頭です。私たちは聖霊によって教えられ導かれねばなりません。

ある時、私は切符を買ってロンドンに行きなさいと主から言われました。

私「どうしてですか?」

主「わたしがそう言うからです。」

私はロンドンでの集会の予定など何もありませんでしたが、ロンドンに行き飛行機から下りました。

私「主よ、ここで何をするのでしょうか?」

主「あそこのホテルにチェックインしなさい。」

私「どうしてですか?」

主「わたしがそう言うからです。」

私はホテルにチェックインして部屋に入りました。

私「主よ、何をすればいいでしょうか?」

主「そこの椅子に座りなさい。」

私は茶色の皮の椅子に座りました。私は、ロンドンに行けと言われ、ホテルにチェックインせよと言われ、椅子に座れと言われたことすべてに腹が立っていましたので、異言の祈りもしませんでした。

私「主よ、いつまでこの椅子に座っていればいいんですか?」

主「わたしが立てと言うまでです。」

私は祈りもせず、椅子に座り、前の茶色の木の壁をにらんでいました。

かなり長い時間座っていました。そしてそこで次に起ったことをお話します。

 

その壁がさっと開いたのです。そこから、いにしえの聖徒たちが出て来て、私の前に立ちました。彼らは私に挨拶はしませんでしたが、私がそこにいることはわかっていました。彼らが一人ずつ私の前に立ったとき、私はその人がボーンアゲインしてから死ぬまでに主のために行ったことを全部知りました。本当に細かいことまでです。次から次へと私はそれを知ることができたのです。そして最後にイエスが来られました。

主「彼らがいるからこそ、今あなたがそこにいるのです。」

私「主よ、彼らとは誰のことですか?」

主「雲のようにとりまく証人たちです。」

 

証人たちは何か言うことを持っているのです。「証人」という言葉を調べてみてください。見たことを告げる人ということです。彼らはただ私たちを眺めているだけではありません。 自分たちが見たことを私たちに告げたいのです。彼らは私たちのためにものすごく祈り、とりなしているのです。それは彼らが受ける報酬に私たちが深くかかわっているからです。

 

PK:先日リック・ジョイナー師と食事をしたときに、彼がエリヤとエノクに会った話をしてくれました。これは多くの人から「そういう事はありえない」と批判されることです。しかし、エリヤとエノクは彼らが終末の大いなる御霊の傾注に深く関わっていることを彼に話したそうです。私はジョイナー師がエリヤとエノクに会ったことを100%信じています。

 

ボビー:私のやり方はこうです。聖書に超自然的なことが書いてあるのを読むと、私は神に「あなたは人をかたより見ない方です。これと同じことを私にもしてください。あなたは顔と顔を合わせてモーセと話ましたよね!」と詰め寄ってあきらめないのです。ついに主は「もし同じ経験をしたいならば、彼らがしたと同じことをあなたもせねばなりません。」と言われます。彼らがどんなことをしたかを聖書から学ぶのです。

 

例えばモーセです。神がシナイ山に下りてこられた時、数百万のユダヤ人は恐れのあまり逃げ去りました。彼らは「もう私たちは直接神のことばを聞きたくありません.モーセ、あなたが言って聞いてきてください。」と言いましたね。モーセは震えながら雷鳴の鳴り轟く山に登りました。みなさんも同じことをする覚悟がありますか? ほとんどの場合、私たちは代価も払わずに恩恵だけ受けようとしているのです。

 

PK:最後に、私たちが超自然的なものに対する飢え渇きをもっと強く持ち、神がそれを与えてくださるように祈りたいと思います。終末の時代は暗やみが深くなると同時に、神の超自然的な力がもっともっと解き放たれて、輝かしい時代になると私は信じています。同時に神の大いなる裁きもあります。今は神の御ことばで満たされるべき時です。世の中では「悪」を「善」と呼び、「善」を「悪」と呼ぶ時代になってきています。ヘブル4:12にあるように、神のことばこそが、善と悪を切り分ける正しい基準なのです。今はなまぬるいラオデキヤの霊が蔓延し、人々を眠らせ、無関心にしています。イエスはそれらの人々を口から吐き出すと言われました。私たちはラオデキヤの霊に打ち勝たねばなりません。

「癒しのミニストリー」はすばらしものであり、必要ですが、そこで留まっていてはいけないと思います。イエスは癒しを人々の関心を高めるために用いられました。そして次にイエスは人びとに本当に語りたいことを話されました。それは生ける御ことばのミニストリーであり、「霊」と「たましい」を切り分けるものでした。その時イエスの人気は落ちていきました。人びとは厳しいメッセージを聞きたくないからです。私たちはあくまでも御ことばに忠実に従う者となりたいと思います。(終)


24 08月

時とシーズン (その1) ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス 2014年8月24日


時とシーズン (その1)

ボビー・コナー & ポール•キース•デイビス 対談

 

P.K.デイビス:ボビーさんと私は最初に会った1991年から今までの23年間、ボブ・ジョーンズ師と共に数えきれない集会などで一緒に働いてきました。まず、あなたの最初の記憶について話してください。

 

ボビー・コナー:これは誇張ではなく本当の話です。1943年に私の父は性病にかかり精神病院で亡くなりました。母は私を妊っていましたが、医者が胎児も父親と同じ病気にかかっている可能性が高いと言いました。母にはすでに子供が二人いましたが、上の男の子は生まれつき身体が不自由でした。母は絶望的な気持になり、コートハンガーを延ばして自分の身体の中に入れて、胎児であった私を堕胎しようとしたのです。その時イエスの御手が胎の中にのべられて、私を片方に引寄せられたので、母のハンガーは私に触ることができませんでした。胎児の私はそのことを記憶しているのです。母がそのことを話してくれたのはずっと後のことでしたが、私はその前から知っていたのです。私の妻は「胎児であったときのことを憶えている人なんか絶対いないわよ。」と言います。でもエレミヤ1:4に「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」とありますね。これが私の最初の記憶です。

 

そして、私が5歳のときのことですが、神が「家の裏に行きなさい。」と言われました。兄と姉は学校に行っていなかったので、一人でいた時でした。そこにはこんもりとした木々がありました。私は一人ぼっちで面白くなかったので、木の下に肘をついて寝そべり「あーあ、やっぱり僕は一人なんだ。」と声に出して言った瞬間、風が起こり木の梢をそよがせました。そして、そこから声がして「あなたが一人ぼっちということは絶対にないのですよ。見てごらんなさい。」と言うのです。見ていると天が開けて、たてがみとしっぽが燃えている数頭の馬が行ったり来たり走っているのが見えました。それは天使だったのだと思いますが、5歳の男の子には燃えている馬のように見えたのです。

 

P.K.:その後もいろんなものが見えたのですね?

 

ボビー:私には天が開いていろんなものが見えました。又もうじき電話が鳴るとか、もうじき誰かが車で家に来るとかが全部わかりました。事が起る前にわかったのです。見た事のあるビデオ通りに物事が起るという感じでした。でも私は誰でもそんな風にわかるのだろうと思っていました。ある時、友達に天が開けて見えたことを話すと、随分嘲笑されバカにされました。それで私は天が見えることをそれ以来誰にも言わないと心に誓いました。

 

8歳のときアルコールを飲み始めました。アルコールが含まれているものならばなんでも飲んだのです。酔っぱらった状態で、人に「私は天が見えるよ。」と言ったのです。おかしいと思われる方がいるかもしれませんが、私は ボーンアゲインする前に賜物を頂いてしまったのです。救われたのは1968年でしたが、賜物は生まれてからずっとあったのです。

 

P.K.:「ポニーに乗ってはいけません。」と主が言われた話をしてください。

 

ボビー:私の家族はテキサス州に住んでいましたが、1943年に父親が死んで貧乏のどん底にいました。私がある日裏庭で一人で遊んでいると、声がして「ポニーに乗ってはいけません。」と言うのです。びっくりしてじっとしていると、また同じ声がして「ポニーに乗ってはいけません。」と言うのです。私は家の中に飛び込んでベッドに潜りこみました。兄が私の様子を見て「どうしたんだ?」と聞くので、私は「ポニーに乗っちゃ駄目!」と叫びました。兄が「どのポニー?」と聞くので「知らないけど、ポニーに乗っちゃ駄目だよ!」と私は叫んだのです。その後も静かにしているとその声が何度も聞こえました。

ある日、母が小さな箱の中に私と兄の洋服を入れました。おじさんが車で来たので、母と私たち兄弟は乗り込み、とても長い間ドライブしました。車の中はなぜか重苦しい空気が漂っていました。途中で公園に止まったりしましたが、何故か母は悲しそうな顔をしていました。やっと目的地に着き、おじさんがエンジンを止めたとき、一人の婦人がポニーを連れてやってきたのです。そして「坊やたち、ポニーにお乗りなさい!」と誘ってくれました。兄と私は後ずさりして、「僕たちはポニーには絶対乗らないよ!」と叫びました。そこは孤児院で、子供たちを騙して親から引き離すためにポニーを使ったのです。私たちは「ポニーには乗らない!」と叫び続けました。母は泣き始め「ああ駄目だわ、私にはとてもできない、、家に帰りましょう。」と言ったので、おじさんは私たちを連れてそのまま引き返したのでした。もし私が「声」を聞いていなかったならば、家族はバラバラになってどうなっていたかわかりません。

ヨハネ10:3でイエスは「わたしの羊はわたしの声を知っている」と言われました。私たちは主の声を聞き分ける能力を今高める必要があります。聖霊に導かれなければ生きていけない時代がくるのです。私たちのように小さくて貧しい家族をも神は心にかけてくださり「ポニーに乗ってはいけません。」と声をかけてくださったことを、私は心から感謝しています。

以前は、もし神が本当に私に言いたいことがあったら、私を両手で掴んで大声で「ボビー!」と言うと思っていました。でもまったく反対でした。「もしわたしが叫ばなければならないとしたら、それはあなたが未熟だからです。」と主は言われました。「あなたがわたしのすぐそばに居るならば、わたしはただまなざしだけであなたを導くことができるのです。」と言われました。又、「わたしはわたしの真理は叫びますが、わたしの秘密は小声でささやくのです。」とも言われました。真理は聖書の中に書かれていますから誰でも知ることが出来ますが、神の秘密を知る者は少ないのです。神の秘密を知る方法を知っていますか? それは私たちの耳を神の口元に持っていくことです。ヨハネ15:15にあるように私たちは神の友にならねばなりません。

 

PK:あなたが救われた時のことを話してください。

 

ボビー:私は預言の賜物を胎の中から受けていましたが、サタンはそのような神からの召しを知ることができ、それを阻止することに全力を注ぐのです。8歳のときにアルコールを飲み始めたと言いましたが、とにかく何でも試してみました。サタンは私の頭をおかしくしようとしていたのです。やがて麻薬の売買など、本当にひどい生活をしていました。家族は「ボビーは21歳になるまでには死んでいるか気違い病院に入っているだろう。」と言っていました。やがて私は結婚して子供も出来ました。でも私の生活はメチャクチャのままでした。私は自分にこう言ったのです。「もし人生がこんなものならば、もう生きていても仕方がない。もう止めよう。」と。私は妻と小さな息子をバプテスト教会まで車で送って行きました。もうその二人には会うことはないと決めていました。それから私は車で森の奥深くに入り、座席の下から拳銃を取り出し、銃口を口に入れました。車の中は悪霊ども(demons)で満ちていました。彼らは「やれ!やれ!今だ!」と叫びました。その時突然、私はぶるぶると赤子のように震え出したのです。私は拳銃を後ろの座席に放り出して、教会に戻って行きました。夜の10半ごろになっていました。教会の駐車場に車を停めてじっとしていました。私はもうどうしていいかわかりませんでした。私は「イエス様、もしあなたが私の人生を変えることが出来るならば、どうか変えてください。」と言いました。その途端、主が来て下さったのです! 本当にすばらしいことでした。私の心は喜びで満たされ夢見心地でした。車から降りたときは、私はもうまったく別人になっていました。

教会の中に入ると、ほとんどの人はもう帰ってしまっていましたが、教壇の前に数人が祈っているのが見えました。ポールというドイツ人がその教会の牧師でしたが、私は彼をずっと憎んでいました。マーケットなどで会うと私は汚い言葉で彼を罵りました。でもポールはいつもきれいな青い目で私を見て、「ボビーさん、愛しています。」と言うのでした。ボール牧師と私の妻と息子、そして二組の夫婦が私のために神に嘆願していたのです。「神よ、なんとかしてボビーを救ってください!」お分かりでしょうか?私が銃口を口に当てたとき、彼らが祈っていたのです。

私は赤子のように牧師にすがりついて泣きました。妻を心から愛する気持で一杯になり彼女を抱きしめました。その夜神が語られ、私に「全世界に行って福音を伝える」という召しを与えてくださいました。私は「そんなこと絶対に起りっこありませんよ。」と申し上げたのですが、神は本気でした。

神が私のような者を用いてくださるのなら、誰でも用いられることができるのです。私が育つとき、家はひどく貧しく、母は小麦粉を入れる袋を農家からもらって、それで私たちのズボンやシャツを作りました。教会に行くときは、道路にみんなで並んでヒッチハイクをしました。 小学一年の時、私が「主、我を愛すJesus Loves Me This I Know」を歌うと、ある男の子が「ボビー、神様はお前のことなんか愛してないよ。もし愛していたらもっといい洋服や靴をくれるはずじゃないか。」と言ってあざ笑ったのです。私はその子の言葉を聞いて受け取ってしまい、その時、私の心の中に神に対する憎しみが入ってしまったのです。その憎しみは1968年の秋に救われるまで消えなかったのです。でも私は死から命へと一瞬にして移され、新しく造り変えられたのです。私が何かをしたのではありません。私は追い込まれてどうすることもできない状態でした。神の救いの御手が届かないほどの深みに落ちることなど、あなたは絶対にないのです。

 

P.K.:本当にすばらしい神の恵みですね。それからあなたはテキサス州ブラードのバプテスト教会の牧師になったのですね。

私は1991年の11月に、主に示されてベニー・ヒン師主催のイスラエル旅行に参加しました。主がイスラエルで私に語ると言われたからです。その旅行でボビーさんはヒン師の助手を努めていました。私とボビーさんを引き合わせるのが神のご計画だったのです。

イスラエル旅行を通してボビーさんが神から深い油注ぎを受けていることを見て、私はすぐ次の日曜日に、8時間ドライブをしてテキサス州の彼の教会を訪ねました。礼拝の後でボビーは私を壇上に呼んだのですが、彼の回り1メートルの範囲は本当に肌で感じるアノインティングがあったのを忘れることができません。彼は私に預言を始めました。彼が知るはずもない私の子供時代のことなどを彼は話したのです。私は当時ビジネスマンで、ミニストリーをすることなど全く頭に浮かんだこともなかったのですが、彼は私が預言的ミニストリーをするようになると言いました。そして彼は「誰かこの人から預言を受けたい人はいますか?」と会衆に聞き、一人の老女が手をあげるのを見て、私に「彼女に預言をしてください。」と言うのです。「冗談ですよね!?」という感じでした。でもとにかく預言をさせてもらったのですが、その時から私たちはとても親しくなり、一緒にミニストリーの旅をするようになりました。

1994年5月にボビーさんがボブ・ジョーンズ師を紹介してくれました。それから私たちは数えきれないほどの集会を、ボビー、ボブ、私の三人でするようになったのです。三人が椅子に座っていろいろと話すという形式で、預言的、啓示的なことを多く話しました。

ジョーンズ師は今年2月に主のもとに行きましたが、私は先週本当にリアルな彼の夢を見ました。彼は地上にいた時と同じようにゴールデンブロンズの美しい肌をしていました。夢かトランスか幻か、わからないのですが、私は彼に近づいて「ボブさん、お会いできて本当にうれしいです。ここは一体どこですか?」と言いました。天国なのか、地上なのか、私にはよくわからなかったからです。彼は私の前に彼のてのひらを広げて突き出しました。私は自分の手の指をそれにぴったりと合わせました。ボブさんは以前から、親指は使徒、人差し指は預言者、中指は伝道者、薬指は牧師、小指は教師としていました。彼は私に「どの指が感じますか?」と聞くので、私は「親指と人差し指と小指です。」と言いました。彼は「今は人差指と小指だけれど、親指がもうじきです。」と言いました。その意味は、「今は預言的ミニストリーと教師のミニストリーのシーズンだが、使徒的ミニストリーが間もなく起る」ということだと思います。ボビーさん、あなたも最近ボブ師の経験をしましたね。

 

ボビー:夢でしたけれど、とてもリアルなものでした。私は机に座って仕事をしていたのですが、聖霊が「訪問客が来ました。」というので、私は立ってドアの方に歩きかけました。すると聖霊は「いいえ、窓からやってきます。」というのです。窓を見ると、天から真珠色に光るエスカレーターのようなものが下りて来て、ボブさんがそれに乗っているのです。彼はとても顔色がよく溌剌としていました。私が心の中で「ボブさんはどうやって入ってくるのだろう。窓を開けたほうがいいだろうか。」と思った途端、彼はすっと部屋の中に入ってきました。そして最初に言ったことは「You are doing fine. あなたはちゃんとやっているよ。」という言葉でした。そして「I am doing wonderful.  私はすばらしくやっている。」と言いました。私たちは会話をしたのですが、口に出す必要はありませんでした。彼は「最近、あなたは自分の髪の毛に気がついていますか?」というので、私が髪を撫でると、手の中に鉛筆ほどの太さのまっすぐな棒のようなものが並んでいました。彼は「もう一度やってごらん。」というので、私はまた自分の髪を撫でました。それを何回もすると私の手の中には大きな麦の束が出来ていました。彼は「これはハーベストのことですよ。今は預言的ミニストリーが大きく用いられる時です。預言により収穫をするべき畑に働き人を送ることができるので、まだ実っていない畑に行く無駄が防げるのです。

 

P.K.:レムナントの一人になるにはどうすればよいか、又将来に関してあなたが示されていることを話してください。

 

ボビー:エレミヤ31:17に「あなたの将来には望みがある。」とあります。現在から将来の間は、歴史の中でもっとも困難な激動の時となるでしょう。しかし、暗やみが深くなる時、神の栄光は最も輝くのです。世界は激動の時を迎え、想像以上に軍事的行動が起ります。今私たちが「キリスト教」と呼んでいるものは役に立たなくなります。今主は勇士を召しておられます。戦うことが出来る者たちです。ユダの手紙を読んでください。私たちは今その時代に生きているのです。ある人たちは「私たちはもう救われているから、どのように生きてもいい。」と言っていますが、それは間違いです。私たちがどのように生きるかは大変重要なのです。今は戦って勝ち取る(contend)時です。その意味は、あなたの血の最後の一滴まで戦うということです。イエスは「わたしが戻ってくるときに信仰を見つけることができるであろうか。」と言われましたね。私たちは信仰を守るために戦わねばなりません。今アメリカではキリスト教とイスラム教を一つにするというムーブメントがあります。これは本当にとんでもない馬鹿げたことです。使徒行伝4:12に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあるではないですか。

昨夜の集会中に 天使たちが香炉を会衆の上に振っているのが見えました。 それは、とりなしの祈りの油注ぎを人々に与えていたのです。すばらしいですね。私たちは天の助けが必要です。ヘブル1:14に「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。ですから天使にどんどん助けてもらってください。

 ある時私が天を見ると、天使たちが退屈そうにしていました。私は「主よ、彼らを働かせてください。」と言うと、主は「天使に仕事を与えるのはわたしのすることではありません。」と言われました。あなたがレストランに行くとウエイターがいますが、彼は客のあなたに向かって指図はしませんね。客であるあなたが彼に何をしてほしいかを指図するのです。天使は私たちを助けるために仕える霊なのです。モレビアンフォールに行って天使と会ったとき、彼らは「ここに来るのにどうしてこんなに時間がかかったのですか!」と私を責めました。彼らは長い間仕事がなくて退屈していたのです。

 

レムナントはどのような人かという御質問でしたが、それはイエスのような人です。第二コリント7:1に「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」とありますが、これがレムナントのマークです。私は「神よ、このようなレベルの聖さを人々が求めのは、どのような約束が用意されているからなのでしょうか?」とお聞きしました。主は「成熟した神の息子、娘となる約束です。」と言われました。神がご自分の仕事を安心して任すことができるほどに私たちが成熟するのです。第二コリント6:18に「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」とあります。私はそのようになりたいと思います。あなたもそうではありませんか。(続く)


17 08月

主とのモーターバイクの旅 リック・ジョイナー    2014年8月17日


主とのモーターバイクの旅

リック・ジョイナー(2014年8月3日日曜礼拝説教からの抜粋)

 

私はこの7月にモーターバイクで旅をしました。これからそのお話をさせていただきます。私は仕事で東海岸にいましたが、その仕事を終えた後、休暇を取って、メキシコ湾沿いにあるいつもの場所で家族と落ち合う予定でした。

ところが私の車が故障してしまいました。修理工場に持って行きましたが、どうしても故障の原因を突き止めることができませんでした。それは神がある目的のためにそうされたからでした。

 

車が修理できないことを知らされて、まず私が考えたのは、「オーケー、じゃあ飛行機で行こうか、それともレンタカーにしようか」ということでした。そのとき、主が鮮明に語られたのです。「モーターバイクで行きなさい。」と。850マイルほどの行程です。私は「主よ、こんな長距離をバイクで行くのは、ティーンエイジャーでも大変ですよ。」と申し上げました。モーターバイクで1マイル行くのは、車で何マイルも行くくらい大変です。確かに車よりずっと楽しいですが、すごく神経を使い、集中しなければならないし、エネルギーを使います。普通でしたら100マイルも走ると疲れ果ててしまいます。しかも私は膝が悪いのです。「主よ、800マイル以上あるんですよ..」ともう一度抗議しました。しかし主がモーターバイクで行くようにと言われるのを私は明確に聞きました。「わかりました、やります。」と私は答えました。

 

「多分3日か4日かかるだろう、途中で宿泊しながら行こう」と考えました。結果として、そのモーターバイクの旅は私の人生で最も重要なことを主から受け取る時となったのです。 もし、私がその時主に従わなかったならば、私はその召しを逃していました。もしモーセが燃える柴を見たとき、自分が行こうとしていた道から逸れてそこへ行かなければ、主からの使命を逃していたのです。モーセは自分がしていたことを中断して道を逸れて行きました。そして主から人生最大の召しを受けたのです。(出エジプト3:3 あちらへ行って turn aside)私はもしあの時私が従わなかったならば、それをミスしていたと信じます。主は1年後、又は2年後にまたチャンスを下さるかもしれませんが、下さらないかもしれないのです。私は以前もう少しでチャンスを失いかけたことがありました。

 

雅歌5章のシュネムの女が寝る用意をしてベッドの中にいる時に、愛する人が戸をたたきました。彼女はほんの少し「ためらった」だけでした。彼女は床の中でとても心地よかったので、愛する人のために起きるのをほんの一瞬ためらったのです。彼女が気を変えて戸の所に行ったときには、既に愛する人は去っていました。これと同じことが幾度私たちに起ることでしょうか。私たちは最近「とても心地よい、pretty comfortable」と感じて暮らしているのではないでしょうか。主は 時として心地よくないことをするようにと言われるのです。そしてそれは私たちのためにです。

 

まず私は息子の誕生日を祝うために娘のいる250マイルほど離れたチャールストンに行き、そこで一泊しました。まだ600マイルほどあります。翌日は、フロリダ州のジャクソンビルかレイクシティーまで行きたいと考えていました。ジャクソンビルに行くまでに、嵐に2回遭遇しました。雷や大雨を伴うひどい嵐でした。モーターバイクで嵐に遇ったら、ガソリンステーションや高架の下などで嵐が過ぎるのを待つのが常識です。でも私は主がはっきりと「走り続けなさい。」と言われるのを聞きました。「これは大変だ、容易いことではない」と思いました。このスピードで走ると雨は銃弾のように肌をさすのです。でも 不思議にあまり痛くありませんでした。私は半ズボンとサンダルといういでたちでした。(笑)確かにバカでした。でも南に下って行くからきっと暑いと思ったのです。ガスステーションや高架を通りすぎる時、そこで雨宿りをしているバイカーたちがみんなあきれ顔で私を見ているのがわかりました。2つ目の嵐に遇った時には、私はもう「嵐が大好き!」という感じでした。全身びしょぬれでしたが、とても涼しいので最高でした。70マイルで走っていると嵐を過ぎればすぐに乾きます。(笑)私は嵐に遇うのが楽しみになってきました。「主よ、もう一つ嵐をお願いします。」という感じでした。

 

ジャクソンビルを過ぎましたが、主は走り続けるように言われました。「主よ、わかりました、出来るだけ頑張りますけど、私は膝が悪いのです。」と申し上げました。レイクシティーに着きました。主は「走り続けなさい。」と言われます。私は「オーケー」と言い、高速からおりて走り続けました。その時に主は今まで私が聞いたことがなかったほどはっきりと、又違う調子で語られました。私は以前から啓示や夢、幻を沢山受けましたが、主からこれほどの親しい語りかけを受けたのは始めてだったような気がします。 私は主がモーターバイクの後ろに乗っておられるのがわかりました。主は後ろから私の耳もとに語ってくださったのです。主は目的地までこのまま走り続けなさいと言われるのです。私としては今日はタラハシまで行くのがやっとだろうと思っていました。でも主は「大丈夫、最後まで行ける。」と言われます。私は「主よ、私の膝を癒して下さらねば無理です。」と申し上げました。もう膝が限界だったからです。すると主は癒してくださいました。(拍手)行けば行くほど膝が良くなりました。まだ完全ではなく80%くらいでしょうか。もう少しバイクで旅行をせねばならないということでしょうね。(笑)

 

タラハシに着きましたが、私はとても元気でした。早くまた出発したいという感じでした。私は夕食をとりガソリンを入れて出発しましたが、どんどんとすばらしい走行となりました。今までで一番すばらしいモーターバイクの旅でした。行けば行くほど快適になりました。650マイルを一日で完走して目的地に着いたとき、私は疲れもなくピンピンしていました。それは主の臨在があったからです。

 

そして主は私を昇格させてくださったのです。 主と私はずっと会話をしていました。私は「主よ、私はこの本は絶対に書き上げます。」と言うと、主は「労働は安価です。友は高価です。でも息子はとても貴重でお金では買えません。Labor is cheap, friends are expensive, but sons are priceless.」と言われたのです。そして「あなたはもうわたしに仕えるのではありません。わたしは今日からあなたを友と呼びます。」と言われました。

 

私は主の時を知り、その時にするべき事を知る知恵を得るために、イッサカルの油注ぎを下さいと、主にずっと願っていました。主はそのためにはイッサカルがしたことをせねばならない、と言われました。イッサカルは苦役を強いられる奴隷となりましたから、私もよい奴隷となるように長い間一生懸命務めました。私がよい奴隷になったというわけではありませんが、出来る限りよいしもべ、よい奴隷になるように主に仕えてきました。でも今主は「わたしはあなたを奴隷のメンタリティーから解放します。もはやあなたは奴隷ではなく、わたしの友です。」と言われたのです。

 

考えてみると、今まで私が主のもとに行くときは命令を受けるためでした。よい兵士は王から命令を受けて、それを忠実に遂行するのです。その意味で主と私は友達ではありませんでした。主は「あなたはもう奴隷のメンタリティーを捨てなさい。あなたがここに到達するために奴隷の道を通るのは必要でした。でも今は変ることを学ばねばなりません。」と言われるのです。私にとって主と友になるのは、ぎこちなくておかしな気持でした。私は神のベイビー友達です。全く新しい主との関係に入ったばかりなのです。沢山の預言的な人から私が近々何らかの転機を迎えることは告げられていました。でもこれは私が思っていたよりもずっと深いことでした。主はまた、「自分で勝手に『私は神の友だ』と思いこむことはできません。わたしが友と呼ぶまでは待たねばなりません。あなたが奴隷として仕えることを充分に学んだので、わたしはあなたを友と呼ぶのです。」と言われました。私が良い奴隷だったというわけではないのです。主は恵みと憐れみによってそのように言ってくださるのです。

 

私はこれからは主の最良の友になりたいと願っています。今始めたばかりです。そして「息子」になるのには又かなりの道のりがあるでしょう。皆さんは、「リックは今まで40年も信仰生活をして来た。そして今やっと友に昇格したと言っている。私には到底無理ではないだろうか?」と思っておられるかもしれません。でも皆さんは私のように頑固ではないかもしれません。(笑)私のように沢山の召しをミスしてはいないかもしれません。私はある時は自分のしたいことで頭が一杯で、主が召しておられるのも聞こえませんでした。主の一日は千年、千年は一日ですから、私には40年かかったことが、あなたは一日でできるかもしれません。時間の長さではないのです。時間のメンタリティーから抜け出さねばなりません。それは奴隷のメンタリティーです。何年服役するかということではないのです。大切なのは私たちが変るということです。新しいクリスチャンが私よりずっと早く主の友となれるかもしれません。

 

聖書にはこの行程が書かれています。私たちはボーンアゲインせねば神の御国を見ることはできませんが、ボーンアゲインしたから神の御国が見えるとは限りません。実際のところ、ほんのわずかな者だけしか神の御国を見てはいないのです。ボーンアゲインした者は、「神のベストフレンドになり、息子となる力を得る道」を歩むことができます。男性がキリストの花嫁になれるのですから、女性も神の息子になることができます。(笑)私たちは常に神の御声を聞いて召しを受け取ることができるようにアンテナを張っていなければなりません。

 

「労働は安価である」:しかし、私たちはよりよい働き手になる必要があります。主の業に従事しているクリスチャンは多くはありません。真の弟子であるクリスチャンは少ないのです。 私もしもべでなくなったわけではありません。それは土台ですからなくなることはなく、毎日その上を歩むのです。

 

「友は高価である」:皆さんは何人友達がいますか? 神はあなたの友ですか? もしそうならば、その友情のためにあなたはどの位、時間や労力を注いでいますか。この世の友情でもそれを保つには、意図的に努力をせねばなりません。電話をしてランチに誘ったり、一緒に何かをします。何度断られてもあきらめません。意図的に努力をすればするほど、よい友情が育まれます。これはどの人間関係にも言えることです。神との友情も意図的でなければなりません。

 

あなたがもし神のしもべならば、あなたはしもべの権威を持っています。神の御前に出て、神から指示やインストラクションを頂くのです。でも神の御前に友として出るときは、それとは全く違うレベルの権威を持つことになります。

私は最早しもべとしてではなく、友としていつでも神のところに行ってお話ができます。私はそのことにまだ慣れていません。でもとてもすばらしいです。又、主は「あなたがもし神の息子ならば願わなくてもよい-ただ宣言すればいいのです。」と言われます。 宣言をよくするクリスチャンもいますが、彼らはまだ息子ではないので、あまり何も起りません。たまに何かが起ることもありますが。神との関係によってあなたの権威のレベルが変るのです。

 

 私はある場所で集会をするためにモーターバイクで行く時は、一直線にその場所に行くのではありません。その町の回りをぐるっと巡ってとりなしをします。主はその町で何が起っているのか、どのようにとりなせばいいのかを語ってくださるようになりました。主の御こころを打ち明けてくださいます。そのような絶え間ない主からの啓示や語りかけは今まで経験したことがありませんでした。

 

 

主が友と呼ばれたボブ・ジョーンズ師が息を引き取ったとき、マグニチュード4.1の地震がありました。それは偶然ではないと思います。彼の一番好きな聖書箇所は黙示録4:1でした。「...天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起る事をあなたに示そう。』」

私たちはもっと高く上らねばなりません。すべてのものは管理を怠ると崩れていきます。

一番大切なことは主との関係です。主との関係を意図的に深めていかねばなりません。どんどんとすばらしいものとなります。ある時には自分にはできない、と思われるような旅に出るようにと主が言われるかもしれません。でも私はもっともっと記録を延ばして長距離のモーターバイクの旅をしたいと思っています。常に記録を破ってさらに進み続け上に上って行かねばなりません。(終)


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