Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
27 10月
奇跡を起こす心構え
ビル•ジョンソン
聖霊があなたに必要なものを授け備える理由は、あなたが「不可能」なことをすることが出来るようになるためです。聖書の中で主は何度もご自分のしもべ達に、「わたしはあなたと共にいる」と言われました。時には「主の御霊が彼らの上に下った」という表現もされています。私は聖書の中にある主が人々を訪れた時の箇所を、全部書き出してリストにしてみたことがありました。そしてそこから興味ある真理を見い出したのです。それは、主が「わたしはあなたと共にいる」と言われたときは、例外なく、その人が自分の力で達成することが不可能な任務を主から与えられた直後である、ということです。
神はそのような約束をモーセに与えました。それはエジプトでパロの過酷な支配下にあったイスラエルを、約束の地へと導くという彼の任務と関係していました。同じような言葉がヨシュアにも与えられました。彼は約束の地に入ることを許されなかったモーセの任務を引き継いだのですが、巨人や多くの恐ろしい強敵がいる約束の地へとイスラエルを導き入れる任務が与えられたからです。
同じ約束がギデオンにも与えられました。当時、脆弱で嘲笑されていたイスラエルを、ミデヤン人の強い抑圧から解放する任務が彼に与えられたのです。また、マタイ28章にある大宣教命令の中で、11人の弟子達に同じ約束が与えられました。それは彼らが世界の国々の人たちを弟子にするという任務が与えられたことと関係していました。
神の臨在が約束されているということは、私たちが主から大変重要な任務を受けることを意味しています。即ちそれは、私たちが通常では不可能なことを可能にすることを主が要求される時です。神の臨在という助けが与えられ、それによって私たちが不可能の領域に侵略して不可能を可能に変えることを神が期待しておられるのです。
神が私たちと共に臨在されていることがはっきりと示されるときは、常に、私たちが何かの任務を果たすことを期待されています。「聖霊はただ慰め励ますためにだけ私たちと共におられる」と考えるのは大きな誤りです。聖霊が私たちを慰め励ますーそれは確かにそうです。しかしそれだけに留まらず、聖霊は私たちの前にある不可能な任務を可能にするためにいてくださるのです! エペソ1:18−19でパウロが「主の召しによって与えられる望みがどのように偉大な力あるものであるかを私たちがはっきり見えるように」と神に祈っているのは、この事を指しているのではないでしょうか。
「神がともにおられたので」
神の永遠の御子であられるイエスに関する聖書箇所で、私が一番愛し、又私にもっとも影響を与えたものは次の使徒行伝10:38です。
「それはナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」
この節は福音書全体を通して表されていることを総括しています。即ち、イエスは御自分のもとに来たすべての人を癒し解放しました。病はサタンからきていることも明らかにしています。しかし聖霊がここで一番私たちに理解して欲しかったのは、癒しや解放をイエスがするのを何が可能にしたか、という事でした。それは即ち、「神がともにおられた」からです。イエスは永遠に神であられ、神でなくなることは決してありませんが、聖霊は「神がともにおられた God was with Him」という言葉を書く様にとルカに霊感を与えたのです。
この記述は、イエスが旧約時代のヒーローたちと同じであったことを私たちに教えています。神がともにおられる時、その人は不可能な領域を侵略するように期待され、又、可能にされているということです。これは、不可能を可能にする神の臨在が私たちの上にあることを見いだしはっきりと認識することによって、神から与えられている任務を私たちが遂行出来るようにしてくれます。
時計が10時38分を示しているのを見るとき、私は使徒行伝10:38を思い起こし、その時していることをやめて、心を神に向け、イエスの生涯の中に見られる神の性質と約束の啓示に対して神に感謝を捧げます。面白いことに、この文章を書いている今、携帯で時刻を見ると丁度10時38分でした。主の御名により、主の栄光のために、不可能な領域へ踏み込んで行こうとする多くの人の心の火を燃え立たせるこの聖句を、私は心から感謝します。神は真に私たちと共におられるのですから、それは可能なのです!
イエスはご自分のミニストリーを大胆な告知で始められました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、…わたしに油を注がれたのだから。」(ルカ4:18)これはイエスのミニストリーの開始を告げる言葉であると共に、主のミニストリーの本質を表しています。それは人々に解放をもたらすものであり、主の上に神の御霊があった故に可能だったのです。
祈り
不可能な領域に踏み込んで行くという私の召しがどれほど栄光に富んだ希望であることかを認識し、そのために主の臨在が私とともにあることをもっと意識して主であるあなたに常に心を向けるように助けてください。また、その任務が、私の力では不可能であることをはっきりわかるようにしてくださり、私が自分の力に決して自信を持つことがないように助けてください。今日私が聖霊の宮とされている不思議と素晴らしにはっきりと気が付き、それによって今日という日が大いなる「打ち破り」の日となりますように。
宣言
主の御霊は、イエスの上に臨まれたのと同じ理由と目的をもって、私の上におられます。私は不可能への召しを心にしっかりと受け取ります。それは地上ですべての栄光が神に帰せられるためです。(終わり)
19 10月
聖さ:神を楽しむという召し
マイク・ビクル
多くの人は、「自分が聖くなることなど到底不可能だ」とか、 或いは「自分の努力で聖くならねばならない」と考えていますが、その考えはどちらも聖書が教えていることではありません。私たちが聖霊に助けを求め、聖霊から力を受け取るならば、聖霊ご自身が 私たちを強め聖い人生を送れるようにしてくださるのです。それでは聖さとはどのようなものでしょうか? それは神を楽しむという召しです。
すべての人は、神によって、或いは他の何かによって満たされ満足することを求めていますが、永遠のまことの喜びは私たちのために用意されていて、それは神のうちに見出す事ができます。詩編には、神が確かに私たちに心からの満たしと喜びを与えて下さる源であることが、溢れるように何度も書かれています。
詩編16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
詩編63:1-5「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。..私のたましいは脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。」
詩編36:7-9「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの水はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」
もし私たちが「真の魅惑が欠乏して何もない真空状態 facination vacuum」の中で生きているならば、一時の快楽の誘惑に打ち勝つことはできないでしょう。私たちはそれよりもっと優れた喜びで心が満たされていなければなりません。霊的に退屈しているクリスチャンには、サタンが心の扉を叩くとき、その誘惑に勝つことが困難なのです。それがキリストのからだの中でポルノが蔓延っている理由です。私はサタンが使う誘惑のリストを書こうとしているのではありませんが、現在、非常に多くのクリスチャンが肉的快楽のとりこになっているのは、彼らが霊的真空状態の中で生きているからであることを私は言いたいのです。彼らはのんびりと霊的に退屈している状態の中で生きることに慣れてしまい 、それで満足してしまっているのです。どうかそのような生き方に満足しないようにしてください。
誘惑に打ち勝つ鍵は、ただ単にイエスをぼんやりと愛して、罪を犯さないように望んでいるだけでは得られません。 霊的に強くしっかりと私たちの心を掴んでくれる何かが必要です。私たちは心を惹き付けられ魅惑されて facinated 生きなくてはなりません! 神に魅惑されるのです。それは聖書学校に行くとか、どこかへミッションに出かけるとか、伝道チームに入るとかいうことではありません。それよりはるかに私たちを捕らえるものが必要なのです。私たちの人生の秘密の場所で、イエスをもっと知り体験することです。ダビデの次の言葉を思い巡らすのはよいことだと思います。
詩編37:3-4「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
「聖さへの召し」とは、即ち、「神を楽しむことへの召し」です。聖さは「楽しいこと、愉快なことはもうできない」という召しではありません。確かに、私たちは罪深いことはもうできなくなりますが、私たちの心はそれを決して残念だとは思いません。罪深い行動は決してあなたを満足させませんし、あなたをリフレッシュすることもなく、あなたの人間関係を深くすることもありません。かえってあなたを傷つけ、孤立し断絶されたままの状態にするのです。
ジョン・パイパー師(John Piper)を知っておられる方は多いと思いますが、彼は今、キリストのからだの中で最も影響力のある一人だと思います。彼は「Future Grace : Its Purifying Power」という著書の中で、「罪とは、私たちの心が神に満ち足りていないときに犯すものである。」と言っています。又、神を楽しむことに関しては次にように言っています。「神を楽しむためには、私たちは神をはっきりと知らねばなりません。神を見ること(親密に知ること)は神を心から味合い楽しむことです。Seeing is savoring. もし神がぼんやりと霧がかかっているようにしか見えないならば、ほんの一時は神に惹き付けられるかもしれませんが、あなたが大きな喜びで満たされることはありません。なぜならば霧がはれたときに、自分が 深い谷間の絶壁の崖っぷちに立っているのを見つけるかもしれないからです。私たちは、神に従い神を喜ばせるときに自分自身の幸福を見出しますが、それと共に、私たちが神に最も満足しているときに、神は最も栄光を受けられると言うことも真実です。」
ですから、聖さを得るための戦いとは、実際には、義なること、義なるお方で心が一杯になるための戦いであることが分かります。聖さとは、単に正しいことをすることではありません。まず、私たちが何によって、誰によって心が一杯にされているのか、即ち、何が私たちの心と思いを惹き付けているかということです。私たちの心がイエスの麗しさでとりこになっているとき、私たちの言動はその心から流れ出します。私たちが神のうちに喜びを見出だすならば、私たちの人生を神が喜ばれるものにしたいという願いが、どんどん強くなっていくのがわかります。人間関係、会話、お金や時間の使い方、考え方など人生のすべての面において、聖さを求めていくようになるのです。
であるならば、私たちはパウロの次の祈りをいつも心がけるべきではないでしょうか。
「主にかなった歩みかたをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(コロサイ1:10)(終)
12 10月
静まること
グラハム・クック
「静まること stillness」は、私たちと天とのコミュニケーションの回線を開きます。私たちは皆、自分の頭のバックグラウンドで聞こえる絶えまないおしゃべりを聞いています。私の友人であるイギリスの心理学者ジム・マクネイシュは、これを「頭の中の雑音
head noise」と呼んでいますが、それは頭の中で聞こえる声であり、私たちの人生に付けられたサウンドトラックのようなものです。それはDVDについているスペシャル機能のように、意識の流れに沿った絶え間ない一方的なおしゃべりで、私たちの人生の一瞬一瞬にコメントをつけるのです。
「静まること」は、どこか静かな場所に行くことではありません。それが助けになることもありますが、そうではなく、それは私たちの頭の中の声を静め黙らせることなのです。それを静めることはディサプリン(訓練)が必要ですが、それは大変重要なことであり、私たちは絶対にそれをせねばなりません。神が共にいてくださいますから、あなたには絶対出来ます。
しかし、もし私たちが、静まることなしに、性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、自分の頭の中で最初に聞こえたこの「雑音」を、そのまま「祈り」にしてしまいます。なぜならば私たちは自分を静まらせていないので、自分の力で祈ってしまい、自分が直面している重荷を背負ったまま、パニック状態で神の扉の前に行ってしまうからです。私たちはぺちゃくちゃとよく話をし、静まることは非常に稀です。
これは実際のところ、神の話し方とはまるきり正反対です。
神は常に静まっておられ、滅多に話されません。「主が私の内で語られる the Lord speaking in me」ことと、「主が私に語られる the Lord speaking to
me」ことは違います。私たちは「ああ、神が私に語られた。」とよく言います。しかし、それは大抵の場合、私たちの霊の倉庫にすでに蓄えられていた言葉、考え、想い、会話、聖句の中から神が一つ選んで、あなたの意識に中に呼び覚ましてくださったものなのです。
コンピューターのファイルのように、私たちの中にすでに蓄えられていた宝を神は引き出してくださるのです。「ああ、そうだ。確かにうなずける。主が語っておられるに違いない。」と私たちは考えます。神は長い沈黙の間に、稀に言葉を入れられます。そして神が語られる時、それは大した出来事、大事件です。神があなたに語られるとき、何かが分与されます。神の深い臨在が顕れます。神が一度語られると全地が創造されたくらいなのですから。
神が語られると、何かが起り、何かが揺れ動き、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られる時、そこには必ず主の臨在のダイナミックな深い余韻が残り、それが「 確かに主が語られた」という証しとなります。
詩編46:10で神はダビデに次にように言われました。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」
この言葉は非常に困難な状況の中にあったダビデに語られ、非常に深い神の臨在をダビデにもたらしました。詩編46は地震の描写で始まり、「静まれbe still」で終っていることは興味深いことです。地震の最中に「静まれ」と語ることが出来るのは神だけです。あなたの人生のすべてが足元から揺らぐ時も、神だけは「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることが出来るのです。
神を知る知識は、平安と静まることを通して得られます。神は私たちを兵士として霊的戦場に送り出したいのですが、まずその前に私たちが静まることを知らなければ、戦いの中でどうやって平安を見つけることができるでしょうか?
敵に対して持つ私たちの最高の武器は安息です。なぜならば、安息することによって私たちは神の中の秘密の場所に隠れることができるからです。敵は私たちの想像を越えた憎悪と敵意をもってあなたを憎んでいますが、馬鹿ではありませんから、至聖所(神の臨在の真ん中)にまであなたを追ってはきません。もしそこに踏み込んだら、あなたではなく神ご自身と対面せねばならないことを敵は知っているからです。私たちは敵が来ることのできない私たちの避けどころ、砦、高き所、隠れ家である神の内に隠れる方法を学ばねばなりません。敵があなたを見つけることが出来ないならば、あなたを傷つけることもできません。神はご自分の中にあなたのための秘密の場所を備えていてくださるのです。
あなたが神と共に歩きたいと思うならば、パニックに陥る能力を無くさねばなりません。心配する能力も、案ずる能力も失わねばなりません。私たち一人ひとりのために秘密の隠れ家があるのです。神は愛です。何が起ころうとも、あなたが神の内に住む場所を、神は愛をもって必ず確保しておいてくださっているのです。
神はその場所がどこにあるのかを人びとに教えるのが大好きです。それは、神の子供たちが秘密の場所に入れば、人生を100%エンジョイできるからです。
どんなことが襲ってきたとしても、彼らはそれに立ち向かうことができるのです。
静まることなしには、私たちの神の経験は限られたものとなります。静まることは、主のうちに安息するための先達であり、絶えず神の臨在を体験する人生へと私たちを導く霊的訓練です。安息すること、静まること、そして神の秘密の場所を知ることこそが、神との途切れることのない交わりをもたらすのであり、また聖書が「絶え間ない祈りunceasing prayer」と呼んでいるものをもたらすのです。(終り)
05 10月
大収穫のしるしが見えますか?
スチィーブ・スクロッグス
私たちの回りのしるしと不思議
イザヤ8:18「見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」
「しるし、しるし、しるしだらけですね。あなたもしるしが見えますか?」ジョン・ハリスさん(神の人です)は、私と会うとすぐにそう切り出しました。そして続けて「私はこの国に大規模なリバイバルが始まるのをヴィジョンで見ましたよ。大競技場に大勢の人が集まっていて、聖霊に触れられた人びとが証をするのを聞きました。」と言いました。
神からの御声で奥義が啓示されたとき、もしそれに明確なしるしが伴っているならば、私たちはその啓示に充分な注意を払うべきです。
アモス3:6−8にこのように書かれています。
「町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起れば、それは主が下されるのではないだろうか。まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」
この箇所は少なくとも4つの問いに対する答えを求めています。
1.神は語られているのか? 2.神は何と言われているのか? 3.神のメッセージにしるしが伴っているのか? 4.もしそうであるなら、どのような行動をとればよいのか?
神は語られているのでしょうか? ご自分を表現されることは神の永遠の御性質の一部です。アダムが堕落する前は、神はそよ風の吹く頃にアダムと話をされていました。エノクは神と共に歩き、神と話し、ある日そのまま天に行きました。イエスは御父との絶え間ない交わりのうちに生活され、それと同じように私たちも御父との関係を持つようにと祈られました。(ヨハネ17:20−22)イエスの祈りが聞き届けられないことなど想像できますか?
イエスは地上を離れる前に聖霊を送られると約束されました。そして、聖霊は私たちを助け、教え、先に起ることを告げ知らせると言われました。主のことばは3つの方法を通して語られます。
1.グラフィ(ギリシャ語でGraphe’ )聖書に書かれていることば (マタイ4:7)
2.ロゴス(語られたことば、即ち生ける御ことばであるイエスの語られたことば(第一ヨハネ1:1−3、14)
3.レーマ(その時々に語られることば、現時点の神のことば)
地上の誰もが神の御声を聞きますが、神の羊たちは御声を聞いてそれに従います。神はご自分の子供たちに話したくないというような父親では決してないのです。
二つのしるし:ボブ・ジョーンズとアーサー・パート
既にかなり前から、預言のミニストリーが、「終末の霊的覚醒が地上に起り始めている、そしてこの最後の大リバイバルは10億以上の若者たちを神の御国に導く」と発信しているのを私は聞いてきました。キリストのからだはこの霊的覚醒の中で、説教、預言、確かなしるし、驚くべき不思議、すばらしい癒し、創造的奇跡(何千人もの給食、聖霊による国から国への瞬間移動、天の倉庫から身体の器官が下りてくることなど)によって神の栄光を顕すようになるのです。
このとてつもない神のムーブメントの中心には、御父からことばを聞くために生きている中核となる人びとがいます。私は次の言葉を聞きました。「信仰篤い一人の年老いた賢者(曾祖父)と一人の預言者(祖父)は共に御ことばを語った。そして彼らの人生と死は一つのしるしである。今がその時である。」
このメッセージにはしるしが伴っているでしょうか?この神からのメッセージには二つのしるしが伴いました。一つ目のしるしはボブ・ジョーンズ師です。彼は「最後の霊的覚醒が起こると、10億以上の若者が御国に入れられる」と預言しました。1975年に彼が一度死んで主の御前に立ったとき、主は彼の手をとり、まだ彼が天国に入る時ではないと言われ、地上に戻るようにと願われました。ボブが同意したときに、主は「一人の魂を勝ち取るために戻ってほしいのではありません。わたしは10億の若者をわたしのもとに引き寄せようとしています。あなたがそのムーブメントの中で活躍するリーダーたちに預言し教えるように地上に戻ってほしいのです。」と言われました。2014年2月14日にボブが天に召されたのは、彼がその任務を完了したというしるしでした。預言者の人生は常に目に見えるしるしなのです。神はご自分の計画を進めておられます。
二つ目のしるしは、アーサー・バート師です。彼は神の家族の中では曾祖父的存在でしたが、2014年8月28日に102歳で天に召されました。1912年生まれの彼は、若い頃、スミス・ウイグルワース師と共に伝道旅行をしました。ウイグルワース師は、水道屋から伝道者となった人ですが、神と共に歩き、驚くべきしるし、不思議、癒し、奇蹟を行い、御国に大いなるたましいの収穫をもたらしたのでした。バート師は彼がウイグルワース師と共に働いた日々のことをあまり話しませんでしたが、ある日一緒に朝食を食べている時、私に「スミスさんの事といえば、彼について書かれている本など、実際に彼の集会で顕された栄光に較べれば全く色あせたものです。」と語ってくれたことがありました。ボブとアートは今は王の王なる方と共にいますが、私たちは彼らがしるしとなったことに注意を傾けるべきです。
1999年に主は私に「ボブとヴァイオラ(ボブの妻)との間に家族のように親しい関係をつちかいなさい。」と言われました。私はどうすればよいかわからなかったので、ボブが「ユダヤ人の運転手さん」と呼んでいた私の友人に話してみました。友人は私が毎週水曜日にジョーンズ師宅を訪問できるように取りはからってくれました。約5年間、私はジョーンズ夫妻を訪問しました。彼らの家で、お互いの人生や家族の話などをしましたが、その間には「今日、神からどんなヴィジョンを受けましたか?」という質問もしました。彼がヴォジョンを話すときは、彼の人生の逸話や聖書からの啓示も沢山話してくれました。私たちはそれらに耳を傾けたのです。
ある日、ボブは次のように話をしてくれました。「今日ヴィジョンの中で、主の御使いが来て主のことばを伝えました。『あなたが生まれた年に、わたしはあるグループの人びとに一つのことばを与えました。そのグループの中でまだ生きているのは一人だけです。わたしはあなたにその人を励ましてほしいのです。彼が死ぬ前にそのことばは成就し、彼はそれを見る、と伝えてください。彼は年老いていますが、このことばはまだ成就していません。彼はそれを見るであろうと伝えてください。』と主が言われたのです。でもその御使いはその人が誰なのか、どのようなことばなのかを私に告げずにそのまま去ってしまったのです。」(御使いはアーサー・バート師のことを言っていたのです。)
同じ日の夜、キャシー・ウオルター師がウエイルズ地方の旅行を終えて帰国し、ボブに電話をしてきました。ウエイルズ地方に対する神からのことばがあるかどうかをボブに聞くためでした。彼らの会話は次のようなものでした。
ボブ:「ウエイルズ地方へのことばはありません。でもウエイルズ地方に住むある老人へのことばがあります。あなたがその人の家を訪れたばかりだということが私にはわかっています。」
キャシー:「それはアーサー・バート師に違いありません..彼へのことばとは何ですか?」
ボブ:「彼に告げてください。『あなたはそれを見るでしょう』と。」
キャシー:「それを見るって、何を見るんですか?」
ボブ:「それを見ると告げてください。私も神が彼に与えたことばを知りません。彼はずっと昔、それを受け取ったのです。あるグループに与えられたのですが、残っているのは彼だけで他の人たちは皆死んでしまっています。彼に、『あなたはそれを見るであろう』と告げてください。」
神が語られるときは天にしるしがあらわれ、地では私たちのまわりの人たちの中にしるしがあらわれるのです。
ボブがこの話をしてくれてから数ヶ月経ったとき、私はキャシー・ウオルター師がアーサー師と電話で話したときのことを書いた次の記事を読みました。
私はアーサーに電話をして言いました。「アーサーさん、キャシー・ウオルターです。ずっと昔、あなたはグループの人たちと一緒に神から一つのことばを受け取り、そのことばの成就をずっと待っているのですか?」
アーサー:「そうです。私たちは神からことばを受け取りました。」
キャシー:「そうですか。どんなことばだったのですか?」
アーサー:「グループの人は皆死んでしまいました。残っているのは私だけです。」
キャシー:「ええ、知ってますよ、アーサーさん。ことばは何だったのですか?」
アーサー:「今でもはっきり聞こえるようです。いつもちゃんとポケットに入れてありますからね。」
キャシー:「アーサーさん、何ということばだったのですか?」 私はもう彼に向かってほとんど叫んでいました。
彼が電話口で私に読んでくれた神のことばはこれです。
「それは息のようにやってくるでしょう。息は風を呼び、風は雨を呼び、やがて洪水、洪水に洪水、激流、激流に激流が起るでしょう。暴風の中で樫の大木から散る木の葉のようにたおびただしい数のたましいが救われるでしょう。腕や足が天から下りてくるでしょう。そのムーブメントは衰えることは決してありません。」
息が吹いている
アーサー・バート師がどうしてこの ことばに伴うしるしなのでしょうか?
まず、神が一つのグループの人たちにそのことばを語りましたが、彼がそれを持つ最後の人でした。第二に、預言者であるボブ・ジョーンズ師が聖霊によって、バート師は死ぬ前に「それを見るであろう。」と預言しました。それで彼はしるしとなったのです。シメオンと同じように、彼は霊的覚醒をその目で見る、と聖霊から語られたのです。ですから「息」はもう吹いているのです。風はここにもう吹いているのです。雨が降っています。洪水が満ちています。激流がこようとしています。神が何をしておられるかというしるしをもしあなたが待っているならば、今神がしておられることに参加してください。リバイバルはここに来ているのですから。
最後の質問です。では、あなた自身はどのような行動を選びとりますか?
最初に選ぶべきことは、このしるしを認めてこのことばを信仰で受け取ることです。2番目は、
「主よ、あなたは私が何をすることを望まれますか?」と祈ってお聞ききすることです。あなたの口から出る言葉は人びとに希望を与えるものとなります。神があなたの口に言葉を与えてくださるからです。3番目はあなたが一歩踏み出して与えられているディスティニーを実現させ、心にずっと秘めていたあなたの夢を成就させることです。4番目は神が動かれているところを探して神の働きに参加することでしょう。
「しるし、しるし、しるしだらけですね。あなたにもしるしが見えますか?」あなたは御ことばに信仰を合わせて行動し始めますか?
神は今、ご自分の息子や娘たちを通して 地上の出来事に参入して来られ、いつまでも記憶に残るような愛と栄光と力を顕しておられます。
20世紀始めのリバイバリストであるジョン・G・レイク師は、死ぬ前に次のように預言しました。
「さて、愛する人たち、私の霊は将来を見分け、人びとの心に触れ、神の願いを知りました。私には聖霊の新たな現れが天から力をもって来るのが見えます。
この新しい現れは、御霊の麗しさ、愛、優しさ、力をもって顕れ、私やあなたが見た事も想像した事もないようなものです。神のいなずまが人びとのたましいを刺し通して光ります。神の息子たちが暗やみの息子たちに立ち向い、勝利します。イエス・キリストが反キリストを滅ぼします。(1921年2月23日にジョン・G・レイクによって説教の中で語られたことば)」
地上でで起るべき出来事はすべて調えられ出番を待っています。未来は聖書のページの中から地球上の実際の出来事へと動き始め、神の息子と娘たちが現されてきています。聖書をみれば、霊的覚醒と神の裁きは常に平行して起ることがわかります。神の力と尊厳の現れは人の心をへりくだらせ、永遠の命を受けとるように調えます。たましいの収穫は、暴風に吹かれる樫の大木の葉が散るように数えることができないほど大いなるものとなるのです。神の息子と娘たちは信仰によって歩み、その信仰は創造的な奇蹟を生み出し、腕や足など失われた身体の器官を出現させます。
終末のミニストリーから電話が来て、「もしもし、サムさんですか? 教会のジョンです。 あなたは足を必要としていますか? ここにあなたの名前のついた足があるので、取りに来てください。」と言われたら、人はどう思うでしょうか。
今もう、始まっているのです。あなたもこの霊的覚醒に参加することが出来ます。あなたの心を広げて友人や親戚の人に触れてください。まずあなたが知っている人たちから始め、そこから次第に広げていってください。(終わり)
Steve Scroggs
The I AM Network Email: stevescroggs1@gmail.com
Website: stevescroggs.com and theiamnetwork.net
28 09月
主の臨在の中で生きる
ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談
(WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)
ポール•キース•デイビス:ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?
ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何をなさりたいですか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしはある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ―ションが始まります。それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。
私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。
PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。
ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。
PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。
ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。
PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。
ブラッド:その通りですね。
私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。
私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ-に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。
いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。
PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイトするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。
ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。
その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。
終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイトの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。
「コンテンプレイトな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。
ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。
イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。
PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。
第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。
ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(終)
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