Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
31 12月
弱い者に引き寄せられる神
ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)
クリスマスはすばらしいシーズンです。多分90%の人は一年で一番楽しい時だと思っているでしょう。でもそう思わない人たちにはそれぞれ理由があります。愛する人を失ったとか、挫折や失敗というような理由です。このシーズン、喜ぶ人と共に喜んではいるけれども、自分は喜んでいない人たちが私たちの周りにいます。主はそれをそのままにしていてはいけない、すべての家庭にブレークスルーが必要であると言っておられるように私は感じています。この教会のすべての人に職が与えられることを私は願います。「職が与えられないのは神からの試煉だ。」と言って済ますことをしたくないのです。確かに神はそのような状況を用いてはくださいますが、神が計画されたことではありません。神が用いられるけれども神のご計画ではないことは沢山あります。私たちは自分たちで天国にはない神学を作ってしまっていてはいけないのです。神はすべてのことを、命を与えるもの、目的のあるものとして作られました。私たちはそのように造られたのです。もしそうでないとすれば、私たちが罪を犯したからそうなったのではなく、未だ私たちがその(神の意図した)レベルに到達していないということであるからです。
神が約束してくださったすべてのことを理解し受け取るという訓練を現在私たちはしています。その訓練を受けるときに、私たちは神の満ち満ちたものを受け取ることができるようになっていく(成長して)のです。
今までの5、6週間、私の心にずっと一つのテーマがありました。神の物の見方は私たちの見方とは全く違うことを、皆さんはご存知ですね。神はいろいろなことに惹き付けられるお方です。その一つは「弱さ」にです。「あなたの弱さの中に私の力はあらわされる。」と言われました。実際、神は弱さに惹き付けられます。それは強さを嫌うという意味ではありません。これは神にとってとても大切なテーマなので、ヨエル3:10で「弱い者に『私は勇士だ。』と言わせよ。」と言っておられます。弱い者たちが天と同意し、ご自分と一致し、強い者になることを神は望んでおられます。それは天と地が一つになるためです。
聖書は、経済的に貧しい人は信仰が強いと言っています。信仰を強くするためにあなたは一文無しにならねばならない、と言われているのではなく、貧しいとあなたの気を逸らすものがないと言う意味でそう言われているように思います。マタイ13:22で、イエスは「富のまどわし」のことを話されました。それは信仰とお金が共存できないからではありません。もしあなたの心が正しいことへ向けられてないのであれば、多くのことがあなたの心を惹き付け誘惑して、あなたをいるべき場所からおびき出してしまうからです。ヤコブ1:9に「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とあります。神は、人間が何かに「不足」し、何かが「必要である」状態に目を着けられ(向けられ)そこに信仰を与えてくださるのです。
神は又、悲しみに引き寄せられると言われました。「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」とあります。神の名の一つは「慰め主」です。それは勿論、神が人間が喜ぶことを嫌っておられるからではありません。聖書は喜びの言葉で満ちています。しかし、神は人が悲しむとき、その悲しみに引き寄せられるのです。そのような人たちに神は慰めを与えられる方であるからです。
しかし、一番ショックなことと言えば、神は罪に惹き付けられることです。勿論神が罪を容認し認めるわけではありませんが、罪を見て怯む方ではありません。「罪が満ちるところに恵みも満ちあふれます。」地上で最も暗やみに被われている場所に福音の働き人を遣わす時に、そこに大いなるブレークスルーが起こることを私たちは経験しています。途方もない神の偉大な栄光がそこに現されます。神は地獄のような場所の罪を見て、どうしようかとおろおろする方ではありません。実のところ、神はそこにある罪に引き寄せられるのです。なぜなら、そこにいるすべての人が、罪が取り除かれることによって喜ぶことを神は見たい、そのような事態を現したいと思われ方だからです。
私たちが「良くない」とか「駄目だ」と思うことに、主は引き寄せられます。そして悲しみには慰めを、罪あるところには悔い改めと義を、弱いところには強さを、不足のあることころには充足をもたらしてくださいます。
士師記20章を見て下さい。ベニヤミン族の者たちがレビ人のそばめに暴行を加えて殺しましましたが、ベニヤミン族の人たちは自分の部族の男たちがした恥ずかしい行いに対して特に悪いと思わず悔い改めませんでした。そこでそばめの主人であるレビ人は、そばめの死体を12に切り分けて、イスラエルの各部族に送りました。18節から28節までを読んでみましょう。
ベニヤミン族に報復を加えることにした他の全イスラエル部族の人たちは、ベテルに上り神に伺って「私たちのために、だれが最初に行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と伺うと、主は「ユダが最初だ。」仰せられたので、イスラエル軍はベニヤミン族のギブアの町に対して陣を敷きました。そのとき、ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエル人二万ニ千人をその場で殺しました。しかし、イスラエル人はひるまずに奮い立ち、初めの日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをしました。そして主の前で夕方まで泣き「私たちは再び、私たちの兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と主に伺うと、主は「攻め上れ。」と仰せられました。そこで、イスラエル軍は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたのですが、ベニヤミン族は彼らを迎え撃ち、再びイスラエル軍のうち一万八千人の剣を使う者をその場で殺しました。
そこでイスラエル軍は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をして、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげました。(当時、神の契約の箱はそこにあり、アロンの子エリアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた。)そして「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それともやめるべきでしょうか。」とうかがうと「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」主は仰せられました。
これはとても奇妙な話です。神はイスラエル人を2回の負け戦さに行くように仰せられたのです。この時、神はイスラエル軍に何の落ち度も見つけませんでした。ヨシュアがアイを攻めて敗北したときには、キャンプの中に罪があったことがその敗因でした。聖書の中にはイスラエル軍が敗北した戦いのことが多く書かれていますが、そのすべてに敗北した原因があり、神はそれを咎め正されました。
しかし、この戦いの時、彼らは攻め上るべきかどうかを主に伺い、しかもユダが最初の行くようにという指示も受けました。ユダは「賛美」という意味があります。私たちは戦いに行くときは賛美を先頭にして行きます。士師記1:2でも主はまずユダが最初に上っていかねばならないと仰せられました。私たちの霊的戦いはサタンに焦点を当てるのではなく、神に焦点を当てるべきであるからです。又,別の聖書箇所では、聖歌隊がまず最初に進みました。まず第一に主に仕えることが勝利への鍵だからです。彼らはここで、「だれが最初に上っていくのでしょうか」と尋ね、主は「ユダが最初だ。」と答えられました。イスラエル人は主の言葉に従い、すべてのことを主の言われる通りに行ったにもかかわらず、その日ニ万ニ千人が殺されたのです。
彼らは陣に戻りもう一度奮い立って、神の御前に出て、泣いたのです。「再び戦うべきでしょうか。」と神に伺い、神は「もう一度攻め上れ。」と言われました。彼らは攻め上り、その結果一万八千人が戦死しました。彼らは又主の前に座りましたが、主からの咎めは何もありませんでした。彼らは「再び攻め上るべきでしょうか。それとももう止めるべきでしょうか。」と主に伺いました。主は「攻め上れ。今度は必ず勝利を与える。」と言われました。
ここがポイントです。私たちは通常、回りの悪い状況にチャレンジして、それを変えることが出来たときが「勝利」であると考えます。しかし神は、あなたが敗北したにもかかわらず再び神に祈ることこそ「勝利」であると考えられるのです。イスラエル軍は敗北しましたが、神からの咎めはありませんでした。彼らは又祈り、そして従いました。2日間の戦いで四万人の死者を出したにもかかわらず、3日目にも彼らは主に従って戦う用意が出来ていました。それによって自分も命を落とすかもしれないのにです。
私たちは回りの悪い状況を変えることに力を尽くしますし、従ってそれが戦いの究極的な目的となります。しかし、主は主の御こころと目的をしっかりと胸に抱くことができる民を建て上げておられるのです。
神の御こころは多次元です。「御心が天で行われるようにこの地でも行われますように」というのは、私たちの人生のすべての面で完成されるべきことです。それはおろそかにすることではなく、先延ばしにするべきでもなく、すべて主に従う者たちが実行すべきことーそれが究極的なレベルの神の御心です。しかし、神の御こころのレベルをどれほど喜べるかは、私たちの霊的成熟度によります。どうしてでしょうか?
神の御こころが地上でなされるためには、奇蹟が必要であることは皆さん同意されますね。悪霊の圧迫からの解放、罪から義へと人生が変えられる、癒し等、すべて天国で存在するものがこの地に現れねばなりません。天国にあるのと同じ霊的領域を神が人びとの上に解き放つのです。それには奇蹟が必要です。奇蹟が起ると何が起るのでしょうか。ヨハネ2:11に「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現された。」とあります。すべての奇蹟は「栄光を現すもの」であるのです。神の栄光には重みがあります。
神というお方の重み、契約の重み、臨在の重み、顕在の重みという「栄光の重み」が、奇蹟が起る時には必ず現されます。この重みがそれを支えるだけの徳を持たない人の上に下ったときにはどうなるでしょうか。その人を祝福するための神の栄光が、実際にはその人を滅ぼしてしまいます。ですから、神は私たちへの憐れみのゆえに、ご自分の栄光に覆いをかけてくださるのです。栄光を出し惜しみしておられるのではありません。
神が「NO」と言われるのは、もっとよい「YES」が用意されているからです。神が「待て」と言われる理由は、その人が神からの答えを十分に受け取れる力を増し加えて下さるためにです。神はどうして神の民を訓戒されるのでしょうか。それは神が私たちに罰を下すのではなく、神の祝福が私たちを滅ぼさないためであるのです。ヨハネ16:12でイエスは「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われました。弟子たちは重みを受け止める力がまだなかったからです。
神が話される時はいつでも、その実質のリアリティーが解き放たれます。神は言葉だけを話されることはありません。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスが話されるとき、聖霊が解き放たれ、神の栄光の重さを持ってその場所でミニストリーをされるのです。イエスは多くのことを話したいが、今は彼らにはそれは耐えられないと言われました。ですからイエスはほんの少しだけ現してくださったのです。ブレークスルーをあそこで少し、ここで少し、という具合にです。それによって不思議を行われるお方に私たちが心惹かれるようにされたのです。私たちの中に神の栄光の重さの中で生きる力を養ってくださっているのです。それは神の臨在の栄光の中で生きていく力です。神はそれをすべての人に持って欲しいからです。今は神の憐れみのゆえに、少しずつ与えてくださいます。
私は祈りの答えを「種」の形で受け取ることがあります。神は樫の木を与えてくださる代わりに、ドングリを下さいます。それを私たちが管理して大きな木に、即ち私たちが願ったものに育てていくためです。種を管理して育てて行くときに、私たちの中に徳と力が増し加わり、元の祈りが最終的にかなえられたときには、それを巧く用いる力が私たちの中に育っているのです。結果は価値あるものですが、神は結果よりもそこに辿りつくまでの過程、プロセスに価値を置いて大切にされます。私たちを形作るのはそのプロセスにあるのです。
士師記の話では、神がイスラエルを2度の敗戦に導かれましたが、神はそれを勝利と考えられました。戦いに破れた後もイスラエルは神の御前にもどり、神に祈り、神に従ったからです。皆さんの中には、神が言われたと信じて従った結果、厳しい状況に置かれている方がいると思います。本当に危機に面している方もおられると思います。ある人の場合は神がそのような指示を与えられたでしょうし、又、ある人の場合は神ではなかったでしょう。でも大丈夫です。神はそれでも面倒をみてくださいます。神からの指示だと思って、馬鹿なことをしてしまった人はおられませんか? 私たちはみなそのような経験があります。
神は私たちをあることに導かれます。その結果、ある人たちはひどい破船にあって、やっぱりあれは神ではなかったのだと、考えます。でもあなたがその時、再び神の御前に出て祈るとき、神はそれを尊んでくださいます。結果は悪く出てあなたが望んだことではなくても、神の目にはあなたは勝利したのです。今日、神はここにいる方々にブレークスルーを与えてくださると信じます。神に従って失敗をしたことを神は逆転させてくださいます。(終)
08 12月
ハヌカの祭り:奇蹟への入口
キャシー・ペルトン
ヴィジョン
私は、11月22日に飛行機の中で眠っていたとき、これからの季節にとって意義深いヴィジョンを見ました。ヴィジョンの中で、私はカレンダーを見ていたのですが、その上には「ハヌカ Hanukkah」と書かれていました。それから私の霊は高いところに上げられたのですが、そこでは今まで経験したより、天ともっと深くつながっているように感じました。そしてそれは黙示録4:1にある「ここに上れ。」という神がすべての者に与えている招きに私が応答した結果であることを私は悟りました。
すぐに私は二つの開かれた大きな門の前に立っていました。見ると、その門はそれぞれにメノーラの形をしていて、門の向こう側にある道は光を放っていました。私はヴィジョンの中ではその門をくぐって向こう側には行きませんでしたが、もうすぐ入って行くことになっているのがわかりました。次に私は16という数字を見ましたが、その時点ではその重要性はわかりませんでした。しかし、その門から入っていくならばすぐに、超自然的な奇蹟や勝利の季節に入るということはわかっていました。ヴィジョンはそこで終りました。
ヴィジョンを見る前のこと
このヴィジョンの意味を説明する前に、この数ヶ月私が経験したことをお話ししたいと思います。
私はこのところずっと提灯やろうそくのゆらぐ明かりに魅了されていました。私は提灯で家を飾りたいという思いにかられ、玄関に2つ取り付けて、毎晩ろうそくを灯していました。
私は今までの経験から、このように何かに強く惹き付けられる時は、ただ家を美しく飾って楽しみたいという私の願望から発しているのではなく、主が私に何かもっと深いことを語っておられるしるしであることを知っていました。
この数ヶ月、主人と私は何度もマタイ25章1−13節にある5人の賢い娘のたとえ話のことを示されていました。主は私たちが常に油で満たされているように召しておられることを私たちは知っていました。純粋な油は、ワーシップと祈りを通しての主の臨在の中に見つけることができます。
マタイ25章の言葉と共に 、人間の力ではなく主の力強い御腕により頼むことによって事を成すことを教える聖書の箇所を、私は強く示されていました。そのうちの一つは詩編147:10、11です。
「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」
又、主はゼカリヤ4:6をも示してくださいました。
「すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』」
ハヌカとは何か
ハヌカはユダヤ暦のキスレウの25日から始まりますが、二つの歴史上の奇蹟がその起源です。即ち、ユダヤ軍の勝利と、神殿の油が奇蹟的に供給されたことです。
ハヌカは、BC2世紀に侵略してきた強力なギリシャ・シリアの軍勢を、ユダヤのマカベア一族(マカバイ)の活躍により撃退したという軍事的勝利を祝うものですが、この祭りの最大のシンボルはメノ—ラであり、それは「油の奇蹟」の記念なのです。エルサレムから敵を駆逐したあと、ユダヤ人たちはアンティオコス4世エピファネスによって汚された第二神殿を清める作業に取りかかりました。
祭壇を建て直しメノーラに火を灯そうとしたとき、永遠に灯し続けるべきメノーラのための聖い油のつぼが一つしかないことを彼らは発見しました。それは一日分の油でした。しかし、不思議なことに、ともしびは新しい油が調達できるまでの8日間、昼も夜も燃え続けたのです。私たちがハヌカを8日間お祝いする理由はここにあり、光の祭りと呼ばれる所以でもあります。
イスラエルの立法府クネセトの向かい側に置かれているメノーラにはゼカリヤ4:6の言葉が刻まれています。それを見るとき、私たちはユダヤの軍事的勝利の歴史と共に、圧制者に対するユダヤ人の霊的勝利と究極的な神の勝利を思い起こすことができるのです。
私はこのヴィジョンの解釈を主に求めました。そして、私たちは今、ハヌカの季節に入ろうとしていますが、それは私たちが霊的に一つの門をくぐり、奇蹟と勝利の時へと私たちを導く道に踏み込むのだということを、主が教えてくださったのを感じました。
超自然的な奇蹟は自然界の供給をもたらす
これから私たちは超自然的な奇蹟を経験し、それは目に見える形での供給をもたらすものであることを私は感じとりました。又、私はたちが地上における奇蹟の時に導かれ、それは今まであまりにも長く神の民を抑圧し、威嚇してきた大きな敵の勢力に対して、私たちが勝利を勝ち取ることを得させるものである、ということも感じ取りました。
私は神が「もう十分だ!」というのを聞きました。私たちを抑圧する敵は私たちより多勢のように見えますが、私たちが祈りとワーシップの油を絶えず燃やし続け、主を畏れて主に信頼するならば、主は昔、マカベアの戦いの時のように私たちに勝利を与えてくださいます。
前述のように、ヴィジョンの中で私はメノーラの形をした二つの門を見てから、次に16という数字を見ました。今年ハヌカは12月16日に始まり、12月24日(即ちクリスマス・イブ)に終ります。今年はハヌカがキリストの誕生を祝うクリスマスを迎える前の8日間であることは興味があります。これはユダヤ人の目からおおいが取り除かれて、彼らの救い主を見ることができるようになる時へと導いていくシーズンの中に私たちが入って行くのだと、私は信じます。(第二コリント3:13−16、ローマ11:25−32参照)
それと共に、二つの門にあったメノーラには、各々8本、合計16本のろうそくが立っていました。聖書的に16という数は、「愛」を表しています。旧約聖書にある神の16の名前やタイトルは、イスラエルの子らに対する永遠に変ることのない神の愛を特に表しています。
新約では、第一コリント13:4−8に「神の愛の16の特徴」が書かれていて、それらの特徴は私たちも持つべきであることをパウロは教えています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」
愛は神様から与えられたあなたのミッション!
これからの8年間には、教会が第一コリントにある愛の真の意味を具現していくときに、驚くべき数のユダヤ人が救い主を認めるようになると私は信じます。私たちは神ご自身が持っておられる愛で、彼らを愛するのです。今年のハヌカの季節は私たちを新しい門出へと導き、御父の愛の性格が表され、イスラエルやすべての国々において神の真の愛が実行されるのを人びとは見るでしょう。それは窓際に置かれたメノ—ラがそこを通るすべての人びとにはっきり見えるのと同じです。
現在のハヌカ・メノーラには8つの枝の真ん中に一つ高い枝がついていて、それは両側の8本のろうそくに火を灯すために使われます。これはイエスを表しています。主は私たちのための9本目のろうそくであり、奇跡的な勝利と奇跡的な供給という火をこれからの8年間、灯してくださるのです。「これからの日々のため、ワーシップがあなたのパスポート、信仰があなたの通貨。愛があなたのミッションです。」という御言葉を私は聞きました。愛があなたのミッション、召しなのです!
今は喜ぶべき時です。世界中で想像を絶する独裁やテロ行為が起っていますが、神はそれとは全く異なる宣言をされています。神の民が恐怖の軍隊の力を恐れるのではなく、主の力に服従して主を畏れて生きる時、神は力ある右腕を現してくださるのです。私たちは今、大いなる勝利と奇蹟の時に入って行っているのです
喜んでください! 今はワーシップと祈りであなたのランプに油を満たす時です。今は主に信頼し、主に対する畏れに中で安全に住む時です。そしてあなたの所に届くすべての悪い知らせや迷いを捨て去る時です。今門がまさに開かれ、光の御父が輝き現れて暗やみを追放するのです。おびただしい天の軍勢が神の民のために戦うためにやってきたのです。アーメン!(終わり)
01 12月
知恵と啓示を用いて戦う
ダッチ・シーツ
これからの季節は悪霊が活発に活動する時ですし、アメリカではエボラ熱やイスラム国の脅威、あるいは国境の警備の不備などで人びとが恐怖にとらわれています。しかしながら、ヘブル10:39の「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」という言葉を私たちは忘れてはなりません。
神は今、残りの者である勇者たちが、氾濫する悪を乗り越えて立ち上がり、「敵の最大の要塞をも打ち破る力のある戦いの武器を取るように(第二コリント10:4参照)」招いておられるのです。しかし私たちはその戦いを、自分が立てた戦略でしてはなりません。神はもっと高いレベルの戦いへと私たちを召しておられます。勝利を勝ち取るために教会が神からの導きを求めている今こそ、私たちは知恵と啓示をもって戦うことの重要性を考える必要があると私は強く感じています。
啓示的な夢
数年前に私の娘のハンナが主から一つの夢を見せられました。それはただハンナと私のためというよりは、キリストのからだ全体のためでもありました。ハンナの夢の中で、私は彼女を大学に送って行きました。キャンパスに入る前にハンナは新しい靴が必要だったので、それをSafeway(大きなスーパー食料品店)で購入しました。彼女は、なぜSafewayに靴があったのだろう、といぶかしく思い、振り返ると、店の看板がSafewayからOther Things(他のもの)に変っていました。
私とハンナはこの夢について祈りました。そして主が新しいシーズン、新しい段階 phase (新しい靴)が来ると言っておられると感じました。この新しい出発に際して、私たちは安全(safe)で慣れた道を行ってはいけないのです。神は今、他のもの(other things)をしようとされているからです。神はキリストのからだを、驚くほど成長させ、パラダイムをシフトさせることによって、新しい活動や方法の先駆者となる人たちを調えようとしておられるのです。又私は、私たちが主の御前に常に何度も行くように努めることによって、主から何を、いつ、どのようにすればよいかを詳細に教えていただく必要があることもわかりました。
夢の続きの中で、ハンナは大学の寮で自分の部屋を割り当てられましたが、それは「灰色の階」の「601号室」でした。聖書的には灰色は知恵を表すことを私は知っていました。又、私が御ことばを勉強する時に用いるストロングのコンコーダンスで601番はギリシャ語の「啓示 revelation」であることを知っていました。
そのことから、私はこれはエペソ1:17−18の「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。又、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを..(あなたがたが知ることができますように。)」をさしていることがわかりました。
自転車の両輪
この夢は私にとって非常に意味深いものでした。ハンナに割り当てられた部屋は示唆に冨み象徴的で、興味深いものです。広い場所(灰色の階)は知恵を表していますが、それは啓示(601号室)がなくては完全ではありませんでした。片方だけでは十分に機能しないのです。残念ながら、ほとんどの教会は、バランスよく両方を大切にするのではなく、どちらか片方だけに焦点を合わせています。キリストのからだの多くは、知恵と知識の必要性を強調しています。私も知恵の必要性を決して過小評価するわけではありませんが(夢の中では灰色の階全体という大きな部分を占めています)、啓示のない知恵は私たちにとって益とはなりません。
知恵とは、過去の啓示がプロセスを経て一つの考え方になったものです。それは
神の方法、意図、法則が長年の間に習得されたものであり、基本的な物事の考え方です。知恵は私たちの基礎、土台として用いられます。一方啓示とは、
罪の故に私たちの心に掛けられていたおおいが神によって取り除かれることであり、私たちが新鮮な洞察を神から直接に受け取ることを可能にするものです。(第二コリント4:3−6参照)啓示は、現時点の状況を理解しそれに対処するために特別に与えられるものであり、今日用いることが出来る真理です。
啓示は、知恵という大きな文脈、相互関係の中で解釈されねばなりません。それと同じように、私たちが神が望まれることを建て上げたり、敵と戦ったりして達成するためには、長年の間に培った知恵と知識だけを土台とするのでは不可能です。私たちはその知恵を正しい時に正しい方法でどのように適応すれば良いかに関する啓示をも求めなければなりません。もし知恵だけを土台にすると、あなたは古い皮袋になり、新しいぶどう酒、即ち神の今の御ことば、を入れることができません。啓示がないと、私たちはただ自分のミニストリーを維持していくだけに終始し、御国の進展のために真に働くことはできません。私たちは絶えず神の御前に行って新しい真理を受け、それによって私たちの若さが鷲のように新しくされねばならないのです。(詩編103:5参照)このような心構えでいるならば、私たちは既存の型を破り、神が私たちを通して解き放たれる更なる深みへと新しい崖から飛び込む勇気を持ち続けることができます。
希望を持つためのレセピーRecipe
効果的なとりなしの祈りは、啓示と非常に深く関連しています。どのような問題、状況であったとしても、その為に祈るときは、どの聖書箇所を適応すべきかをいつも問わねばなりません。また、この状況に関しての御こころや神の戦略は何でしょうか、と聖霊に訊ねることが大切です。主がどのような手段で私たちに語ってくださるかはわかりませんが、神にふさわしい権威の座に座っていただくならば(私たちが神を見上げて待つとかの)、私たちは必ず神から御ことばを頂き、神が望まれる勝利者になることができるのです。これらの原則を用いることによって、歴史を通して数えきれないほどのクリスチャンが、反抗的な配偶者や放蕩な子どもたちを、祈りによって十字架の下に連れてきたのです。又、貧困や病気の悪循環から家族を救ってきました。知識の言葉や預言が語られることによって、レストランで働いていた人たちが真のデスティニーへと歩み始めました。聖霊の促しにより、無名で知られてない人たちが神に用いられて、ある民族全部、あるいは一国全体を解放し変革したのです。
あなたは今一見絶望的な状況の中に置かれていますか? 心が恐れで一杯になるような状況ですか? あなたはある事に関して導きや方策を必要としていますか?
あなたが啓示がいただける部屋を見つけることを神は望んでおられます。それは往々にして時間と非常な忍耐を必要とするプロセスですが、どうかあきらめないでください。神に近づいてください。神があなたをその部屋に導いてくださいます。あなたが置かれた状況がどれほど困難であっても、聖霊は天の策略と洞察をあなたに喜んで示してくださいます。それによってあなたは束縛と苦難から解放されます。あなたのデスティニーは王なる勇士となることであり、イエス・キリストの御国の権威を持って人生に勝利することです。灰色の知恵の階にある啓示の部屋に住むならば、あなたにはそれができます!(終)
15 11月
祈りの学校#1:何故祈るのか
シンディー・ジェコブス
私たちは祈り方はもう誰でも知っているだろうと思い勝ちですが、でも実際は、新しいクリスチャンや、今まで教えてもらう機会がなかったという人など、祈りの基本をまだ知らない人がいます。これから私の「The Power of Persistent Prayer 」という本にそって祈りについてお話していきたいと思います。
それでは何故祈るのか、ということをお話していきます。まず聖書には何と書いてあるか見てみましょう。
ルカ11:9−13「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
「神様はすべて私の必要をご存知なのですから、なぜ
『それをください』と私がお願いする必要があるのですか」という質問をよく受けます。それに対する一番目の答えは、神が求めなさい、願いなさい、と言っておられるからです。
私が「願い求める祈り」と呼んでいる箇所が聖書の中には沢山あります。ゼカリヤ10:1には「後の雨の時に、主の雨を求めよ。」とあります。ヨハネ14:14には「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とあります。ヤコブ1:5には知恵を求めなさい、とあり、ルカ11:13には聖霊を求めよ、と書かれています。
私の子どもや孫のことを考えてみますと、彼らが何を必要としているのかはもう私はわかっているかもしれません。しかし、彼らが直接私に願い出て欲しいのです。ある人にお願いすることは、その人を敬い尊ぶことです。又、必ずかなえてくださるという信仰が必要です。私たちは与えられるように求めなさい、と言われています。ですから一番目は「神はあなたに必要なことをすべてご存知であるけれども、あなたに願い求めて欲しい。」ということです。
私が二番目によく質問されるのは、「ほんの小さなことで神様をわずらわせるのは避けるべきではないでしょうか」というものです。私が結婚したばかりのとき、夫が「小さなことを頼んで神をわずらわせるのは止めた方がいいと思うよ。神は大きな方だから、大きな事だけを頼んだらどうかね。」と言ったのをよく憶えています。 でも実際は、私たちが自分の子どもたちや友人、親戚など親しい人たちのことはすべて、小さな事でも関心があるのと同じように、神も私たちの小さなことにも深い関心を持たれ、そのすべてをお話しすることを喜ばれます。あなたの人生の最も些細な事柄や、あなたが心を痛めた話とか、悲しんでいる事など、すべてを話して欲しいのです。
神はご自分と親しく交わるように私たちを造られました。祈りで最もすばらしいことは神との交わりです。ですからあなたが神のところに行ったとき、あなたになにか必要があるならば、隠さず全部話してください。
あなたの必要を書き出してリストを作ってください。
以前、私は困窮していて、必要の大きさに圧倒されてしまいそうのなりました。そのような時、私のすべての必要を紙に書き出すことを学びました。「1、この位のお金が必要です。2、癒しが必要です、友人、家族も癒しが必要な人がいます。
3 人生のディレクションが必要です。」というように、全部書き出すのです。
そのリストをベッドの横に置いておきます。リストに書き出し、神に願い求めることによって、私の心に平安がきました。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)という御ことばがあります。書き出して神に求めることは、思い煩いを神にゆだねることになるのです。
もう一つ私がすることは、その祈りに日付を書いておくことです。ずっと以前、私の牧師が「あなたが、クレジットカードや家や車のローンとかで借りているお金を全部書き出しなさい。」とある集会で言いました。そこで私と夫はすべて書き出し、「支払い完了」というスタンプまで押しました。ずっと後になって私は聖書に挟んであったその紙を見つけましたが、その時には本当に支払いは全部済んでいました。神は私たちが願ったことを聞いてくださったのです。ですから、皆さんも神に頼んでください。大きなことを神に願ってください。神はあなたの祈りを聞いてくださると信じてください。あなたは祈るだけではなく、信じなければなりません。「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」とヘブル11:6にある通りです。
私たちの祈りのリストを書くことは、 自分の必要を神にお渡しすると同時に、私たちの信仰を告白することになります。
「見てください。私はこのようなリストを書いて神に求め、そして神がそれをかなえてくださることを信じています。」と回りの人びとに言うのです。そして神が必ず実現してくださることを信じるのです。「願い求め、信じ、かなえられると予期するask, believe, expect」のです。
祈ってはいるけれども、祈りの訓練が出来ていないので、行き当たりばったりにしか祈らず、いろんな祈り、願いがぐちゃぐちゃになってしまっていることがあります。でも祈りの訓練をして神に毎日キチンと願い求め、感謝をするならば、神はあなたが今まで経験したよりも素早くあなたの祈りに答えてくださるでしょう。
ですから、祈ることは大切です。すべてのことを祈ることは大切です。絶えず祈ることが大切です。あなたの必要を神に告げるのは大切です。そして、神が祈りに答えてくださったときに、神に感謝することを忘れてはいけません。私は神にいろんなことをお願いしたのに、それがかなえられたときに感謝を忘れていたことがありました。感謝する心はすこやかです。感謝を捧げることは、私たちのクリスチャン生活の中でとても大切な要素です。聖書の中では何度も何度も「感謝しなさい」と言われています。ですから、あなたの祈りがかなえられたときは、どうか神のところに戻り感謝してください。
私は最近二つの癒しを主に願っていました。一つは足の指の感覚がなくなったことでしたが、今朝歩くと、感覚が戻っていました。とても自然だったので、神に感謝するのを忘れていました。もう一つは歯のことですが、何度も医者に通って直ったのですが、それもとても自然な流れだったので、神に感謝することを忘れていました。
あなたはどうか神に感謝をするのを忘れないでください。
「祈り、信じ、かなえられると予期する」そして祈りが答えられたときは「感謝すること」をどうか実行してください。そうすればあなたの祈りの生活は豊かなものとなるでしょう。
祈りの学校#2:信仰の祈り
シンディ・ジェコブス
今日のトピックは「信仰の祈り」です。勿論私たちは祈るときは信じて祈らねばならないことを知っています。1ヨハネ5:14、15には「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」とあります。これは本当にものすごく力のある言葉です。
1.「祈るときは、 神がその願いを聞いてくださることを確信しなければならない。」祈るときに
本当にこの確信が自分にあるかどうかをチェックしなければなりません。あなたは「勿論ですよ。シンディーさん」と言われるかもしれませんが、本当にそうですか?
神のみこころにかなう祈りをしたならば、かならず聞かれると信じていますか?
神の慈しみに対する自分の確信が少しずつ薄れていっているかどうかを神に聞いてみてください。「神は私のためにこれをしてくださるだろうか?
神は私のためにそうしたいと思っておられるだろうか?」という問いに対して、確信をもって「Yes!」と答えられねばなりません。
2.「神は私の祈りに耳を傾けていてくださると信じねばならない。」神は目に見えない方なので、あなたは空にむかって祈っているように感じるかもしれません。あなたは自分が祈るときに、確かに誰かがそれを聞いていてくださると信じますか?
神への祈りの回線がふさがっているとか、神が宇宙のどこかに会合に出かけてしまっているように感じる時があるかもしれません。
しかし、神は全能で全宇宙の支配者であるにも拘わらず、あなたの祈りを聞いていてくださるのです。すばらしいではありませんか。私はといえば、家族のことや仕事のプレッシャーで頭が一杯になってしまうことがありますが、神にはそういうことはありません。神は全世界を御手の中に治めておられますが、それでもしっかりとあなたの祈りに耳を傾けてくださるのです!神は愛情溢れる天の父であり、あなたの願いを聞いてくださいます。
私たちは、神が善き方であることを信じなければなりません。あなたは「勿論、信じてますよ。」と言われるでしょうが、本当にそうでしょうか?
私は自分にもその質問を時々します。ただ単に祈りという形式的儀式をしないでください。自分が一方的に祈りを並べ立てるだけではなく、聖霊の声に耳を傾けてください。
神は大きな方ですから、あなたのどのような質問にも答えてくださいます。私の人生にも様々な出来事がありました。私は神に「神様、私はこのようなことはとても理解できません。」とか「こんなことは本当に辛いです。
本当に苦しいです。」とか申し上げます。神と話すときは一方通行ではありません。神に話し、質問し、そして神からの答えを聞いてください。主の臨在の中で待ち望んでください。
自分の祈りが聞かれないとき 、多くの人が信仰の破船に会います。ヤコブ1:18に「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」と書かれています。あなたは親しい人の癒しを祈ってもかなえられなかったことがあったかもしれません。その経験からあなたの神学を変えることはしないでください。どうか神が善き方であるという確信に戻ってください。神は癒し主だと確信してください。神はあなたの祈りを聞きたいと願っておられることを確信してください。神はあなたのことを愛し深く心にかけていてくださること、あなたと共に苦しみ悲しんでくださる方であると確信してください。聖書は「悲しむに時がある、泣くに時がある、喜ぶに時がある。」と言っています。私たちには時々祈りの原点に戻ることが必要です。主のもとに行き、「主よ、どうかあなたへの確信を回復させてください。」と言ってください。聖書を読み、そこに書かれている主の約束を読んでください。御ことばをあなたの中に入れてください。それによってあなたは力を得て、あなたの心の傷は癒されます。
3.「神はあなたの祈りをかなえてくださることを信じる。」神はあなたの祈りをかなえたいと思っておられるのを信じていますか?
神はあなたが「こうなればいいな、、、」というように、ただ思っていることに答えてくださるのではありません。あなたの祈りに答えてくださるのです。私たちは時々「神様が〜してくださるとうれしいんだけど、、、」とか「〜じゃないといいんだけど、、、」とか言います。しかし、そのようにただ心で願うだけでは、神を動かすことはできません。神は「求めなさい、そうすれは与えられます。」と言われたのです。求める時、神はかなえてくださると信じてください。勿論それは神のみ心にかなう祈りでなければなりません。
一つの実話をお話したいと思います。ジョージ・ミューラーはイギリスで多くの孤児を養ったことで有名です。彼は信仰の祈りを信じていた人でした。ある時、彼は講演のために船でブリストル市に行こうとしていました。ところが港は霧が濃くて、船長はとても船出は無理だと言いました。ミュ—ラーは「講演の約束があり、どうしても土曜日の午後までに行かねばなりません。私は57年間一度も約束を破ったことはないのです。海図室に行って祈りましょう。」と船長に言いました。船長はこの神の人はちょっと気がおかしいと思いました。そして「不可能です。あなたはどれだけ霧が濃いか見えないのですか?」と言うと、彼は「私の目は濃い霧ではなく、私の人生のすべてを司っておられる生ける神を見ているのです。」と言いました。ミューラーはひざまずいてシンプルな祈りをしました。船長が次に祈ろうとすると、彼は船長の肩に手を置いて、「もう祈らないでください。あなたは神が祈りに答えてくださることを信じておられないし、神はもうすでに私の祈りに答えてくださったことを私は信じていますから、もうあなたは祈る必要はありません。私は主を57年間信じてきましたが、私が主に嘆願したときに断られたことは一度もありません。さあ、外に出てみたらわかりますよ。」と言うのでした。二人が外に出てみると、濃霧はすっかり晴れていました。そしてミューラーは約束の時間に目的地に着いたのでした。
決してあきらめないで祈ってください。神はあなたの祈りをかなえたいと思っておられるのですから。(終)
03 11月
天国を地にもたらす
シッド•ロスのIt’s Supernaturalから抜粋
ゲスト:ビル•ジョンソン
シッド:今日の番組のゲストであるビル•ジョンソン師は、数多くの奇跡を行っておられます。ある日彼は「御国が来ます様に、御心が天で行われる様に地でも行われますように」という聖書箇所を読んでいました。そして「天には病気はない、恐れもない、貧困もない」と考えました。そしてこれこそが、私たちが天にいるように地上で歩むことができる鍵であると彼は思ったのです。これは非常に深くて素晴らしい真理ですね。皆さん、今日彼の話を聞くだけではなく、天が地に侵入してくるのを見る準備をしてください。ビルさん、「心の一新 renewing your mind」ということが一つの鍵だということですが、それはどういうことでしょうか?
ビル:一新された心とは、キリストの心のことです。実際に神の視点で物事を見ることです。主は物事を私たちとは違うように捉えます。少しのパンと魚だけで大勢の人を養う必要が生じたときも、どうしようかとドキドキはされませんでした。主は別の視点を持たれ、この奇跡を見ることによって弟子達もご自分と同じ視点をもつことを願われたのです。主は「見えないのですか? わからないのですか?」と問われました。主が食べ物を何倍にもした直後に、パンを持ってこなかったことを心配している弟子達に向かって主はそう訊かれたのです。弟子達はまだ「地上から天を見上げる」という視点に留まっていました。ほとんどのクリスチャンは、地から天を見上げて、神が自分の問題に介入してくださるのを望み嘆願しています。一新された心は、天から地にむかって生きるのです。
シッド:もし今教えていること、あなたがクリスチャンになったばかりのときに理解していたならば、あなたのミニストリーは違っていたでしょうか?
ビル:まったく違うものになったと思います。まず第一に、神は慈しみ深い方であり、本当に善き父であられるということが神学の基礎になります。神はみなしごの地球のために御子を送ってくださった愛情深い父です。神が親切で愛がある完全な父であることをあなたが理解する時、突然すべてのことが変わるのです。あなたが神をどう見るか、自分をどう見るか、あなたの過去をどう見るか、あなたの可能性をどう見るか、ということがすべて変わるのです。全き愛を持つ完全な父がいることがわかるとき、すべての事がシフトし変わります。それは「自分がしたいようにしてもいいんだ」ということではなく、神を一番喜ばせることをしたいという情熱を持つことです。その情熱は神がどのような方であるかを理解するところから生じるものです。一新された心の第一の変化は、神をどのように見るかが変わることです。
シッド:一つの例で説明してください。ある人があなたの所に来て、「腰が痛いのです。」と言ったとします。その時、あなたの心の中ではどのようなプロセスがあるのですか? 何をするのですか?
ビル:イエスは彼のところに来た人たちをすべて癒されましたし、御父が示された人はすべて癒されました。イエス•キリストが完全な神学であると私は信じますので、あたかもイエスが私の立場におられるかのようにその人に仕えるというのが常に私のアプローチです。イエスだったら起こったに違いにない癒しが時には起こらない事もありますが、私は自分の経験のレベルでもって期待の基準を下げたり、聖書の基準を下げたりはしません。
シッド:では、もし腰の悪い人が10人続けてあなたの所に来て、10人とも癒されなかったとしたら、あなたはどう感じますか? あなたの心の中で何が起こるでしょうか?
ビル:もし同じ問題を持つ人が10人来て、一つも癒しが起こらなかったならば、それは私にとっては、神の御前で一人になり、ブレークスルーを叫び求めなさいという招きです。それは私が神を説得するということではありません。それは私が神と出会うプロセスであり、それによって私は変えられ、多くの場合は私に力を与え、私を備え、神が私の前におかれる問題に対処できるように私を調えてくれるものです。
シッド:わかりました。あなたはイエスが言われた「御国が来ますように、御心が天で行われるように地でも行われますように」という御ことばをよく話されますね。これは非常に重大なステートメントですが、あなたはそのように生きておられるのですか?
ビル:はい、そうです。私はいつもそのように努めています。私の人生はただそれだけであり、それが駄目なら次はこれ、というようなプランBはありません。イエスはご自身がどのように生きられたかという明確な見本を示してくださいましたし、私たちが何をするべきかというはっきりした任務も与えてくださいました。それは即ち、地上のすべての状況の中で、主が統治しておられることを事実として現すことです。それが、私が情熱をもってしていることです。
シッド:あなたの学校では、学生たちは3回失敗するように義務づけられているそうですね。3回成功するのではなく失敗ですね。どうしてですか?
ビル:喩えでお話しましょう。以前私はスチールヘッドという魚(マスの種類)がとれる場所に住んでいましたが、ある日釣りの達人が釣りに連れていってくれました。そして「釣り針とか錘が川底に時々引っかかって取られてしまうほど深いところ迄下ろさないと魚は釣れないよ。」と教えてくれました。私のミニストリーに対するアプローチは、時として失敗するくらいのリスクを伴う生き方をするということです。もし安全なことばかりしていたら、周りの人たちは私を賢いというかもしれませんが、私は決して山を動かすことはないでしょう。
ですから、学生に居心地のよいところに留まるのではなく、思い切って(失敗するかもしれないという)リスクを侵しなさい、新しい領域に踏み出しなさい、という課題を出すのです。失敗といってもそれは勿論、道徳的に間違いを犯すということではありません。ミニストリーをするときに、神がその時に何を言っておられるかを感じ取って、知識の言葉や励ましの言葉を失敗を恐れずに勇気を出して言ってみるということです。学生たちが主に用いられるように成長し、リスクを取ることを学んでほしいのです。それで失敗することを必須にしているのです。
シッド:食道癌だった女性の方に起こったことを話してください。
ビル:ある女の方は食道癌だったのですが、礼拝中に両手をあげてワーシップをしていた時に、両手がとても熱くなるのを感じました。彼女は夫に「癒されたと思う」と告げました。手が熱くなったことと癌が癒されたのを彼女がどうして関連づけたのかは、私にはわかりません。でも彼女はそう感じたのです。彼女は主の臨在を感じ、癒されたと思いました。
医者のところに行って彼女は「癒されたと信じます。」と告げると、医者は「この癌は無くなることはありません。」と言いました。しかし検査の結果、医者は「癌が無くなったばかりか、あなたの食道は全く新しくなっています。」と彼女に告げました。主を崇め敬い、主の善きこと、主の慈しみを賛美し祝っていた霊的雰囲気の中に顕われた主の臨在によって癒しが起こったのです。誰かが信仰の祈りを彼女のためにしたのではありません。臨在の中で起こったのです。
シッド:それが御国では普通に起こることなのですか? 今テレビを見ている主婦でも、高校生でも、幼稚園児でも、誰でもそのように出来るとあなたは言われるのですか?
ビル:ええ勿論、全くその通りです。もし誰かが私に祈ってくださいと言って、私が祈ってもブレークスルーが起こらなかったならば、私はその人に「祈りの出来る5歳の子供のところに行ってみてください。神の御こころは何かなどと、思案しない純真な子供の所に行ってみてください。」と告げます。これは誰にも出来ること、誰でもが参加できることなのです。
シッド:私たちは考え方、物の見方を変えねばならないと言う事でしょうか。説明してください。
ビル:確かに私たちは変わる必要がありますが、それは訓練によってではありません。神との出会いによって起こるのです。神と出会う時に、私のまわりの世の中を見る、私の見方そのものが変えられる機会が与えられます。もし私の見方が変えられなければ、いつまでも同じで、神に「解決してください」と懇願するだけになってしまいます。しかし私の見方が変えられた時には、私が問題を解決するために遣わされた神の代理人として、その権威によって問題を解決することができるのです。
シッド:精神科医はよく否定的に生きる人のことを話ますが、ビルさんは否定的に生きることを勧めておられます。それはどういうことでしょうか?
ビル:それは言葉の遊びと言うべきですが、悪魔が私に何かを要求してくるとき、私は「その要求は拒否する」と言う意味です。それが私の言うところの否定的に生きるということです。私は悪魔が物事を見る視点とその影響の何もかもすべてを否定します。悪魔が存在することは否定しませんが、彼が影響を与えることを否定するのです。
シッド:わかりました。それでは、あなたが用いる宣言の例を挙げてください。
ビル:神の御国では何事も宣言・宣告なくしては何も起こらないと私たちは信じています。ですから私たちは神の御心 the heart of the mind of God そのものを神からの「法令布告」decree(あるいは「判決」)として宣告するのです。時にはそのように宣告しただけで物事が変わっていきます。例えば「これは私の人生に対する神の目的や計画ではない。私は拒絶する。退きなさい。」という宣告です。そのようなシンプルな宣告・宣言で解決することもあります。もっととりなしの祈りが必要なときもあります。又、ワーシップに導かれる時もあります。時には、問題の大きさにとらわれないで、自分の焦点をシフトさせればいいだけの時もあります。
シッド:問題の大きさにとらわれないとすれば、あなたは何に心を集中させるのですか?
ビル:それは神に、です。神の約束に、神の御ことばに、神の私に対する思いに、私と共にある神の臨在に、です。私はそのような思いにだけ心を馳せ、その決意・確信から力を得て、どのようなチャレンジに対しても、自分が主と共に働く同労者であり、主が共にいてくださるという臨在を意識して向かっていきます。私はどのような状況に対しても、聖霊が、とどまる鳩のように私の内に臨在してくださっている確信をいだいてアプローチします。
シッド:交通事故に遭った女の人のことを話してください。片腕が使えなくなった方のことです。
ビル:彼女は同じ町の別の素晴らしい教会に属する人でしたが、その方のお嬢さんがたまたまその日に、教会に行きたいと言ったのですが、その日その教会では集会がなかったので、私たちの教会に来たのでした。私は彼女を知りませんでしたから、あとで聞いた話ですが、彼女は片方の腕を数回手術していました。それでその腕は数インチ短くなり、使えない状態でした。感覚もなく、肘から下は動かすことができず、物を掴むことも持ち上げることもできませんでした。彼女には2歳半の女の子がいましたが、その子を抱き上げることもできませんでした。
礼拝の時、病気の人にために祈る時間を持ちました。彼女の上のお嬢さんが「お母さん、前に行ったら。」と勧めました。彼女は行きたくなかったのですが、とうとうお嬢さんの勧めに応じて、前に出ました。一人の祈り手の婦人が彼女のために祈りました。するとすぐに腕が伸びて元通りになり、その腕が普通に使えるようになりました。私は呼ばれてそこに駆け寄りました。私はその報告を聞いて大喜びで興奮しました。
私がそこにいる時に、小さな女の子が彼女のそばに来ました。彼女が両腕を女の子の方に伸ばすと、その子は「駄目よ、ママ。腕が、腕が。」と言いました。女の子は生まれてから2年半の間ずっと、お母さんは腕の怪我で彼女を抱き上げることはできないのだ、と聞かされて来たのです。その時お母さんは「大丈夫よ、ハニー」と言って彼女を抱き上げました。その時の女の子の笑顔を私は一生忘れないでしょう。お母さんに抱かれるのがその子の心からの願いだったのです。本当に感動的でした。そのような経験をすると、他のいろいろな問題を見る見方が変えられます。
シッド:「神の家」ということをあなたは重要視していますが、どうしてでしょうか?
ビル:私たちは神の家です。私たちは全能の神の住まいです。私たちがその意識をなくし、神の御霊が私たちの上に又、内に、住まわれていることを忘れると、全く違った生き方になります。すべてが変わってしまいます。私たちが、神と共に生活しているという認識をもって毎日を過ごすとき、(それは神学としての知識ではなく、実際に共にいる方、力を与えてくださる方、私たちの方向を示して下さる方、共に働いてくださる方として現実に認識することですが)すべてが変えられていくのです。私が考え、期待するすべてのことが、私の祈り方も含めてすべてが変わります。それは神に「どうか介入して助けてください」と懇願する祈りではないからです。私は既に神と共にいるのですから、その時その時私のまわりに起こる状況に対する神の心と思いを私が察知し、その私を神が用いて、その状況に必要な変化をもたらすこと、すなわち、変えることがすべてです。
シッド:一つ聖句が浮かびました。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。ローマ14:17」この聖句をどう思いますか?
ビル:いくつかの理由で私はこの聖句がとても好きです。その一つは、神の御国は聖霊のうちにあることを教えてくれるからです。すなわち、御国の領域、神が支配する領域とは聖霊の領域の中にあるということです。ですから、実際に御国の実現が、聖霊の臨在の顕われを見出すときに起こるのです。両者が私のために非常にうまく働く理由は、私が神を見出せば見出すほど、神の御こころがわかり、鳩のように私の上に留まり続ける聖霊をもっと意識できるようになるからです。私の人生や集会でそのようなことが起これば起こるほど、その集会での神の目的がはっきり見えるようになります。御国は聖霊の領域にあるからです。
シッド:あなたが「一新された心」をもって祈るとき、どんなことが起こるのですか?
ビル:奇跡がおこります。数週間前に起こった事で、私はこの日曜日に報告を受けたばかりですが、その女性の息子に牛乳とグルテンのアレルギーがあったある母親のことです。その息子は自閉症でもあったのですが、みんなが祈ったのはアレルギーのためでした。彼女は息子のアレルギーが癒されたことを信じて礼拝のあとでピザを食べに行ったのですが、そこで分かったことは息子はアレルギーだけではなく自閉症も癒されていました。
シッド:あなたの友人がモザンビークで経験した奇跡のことを話してください。彼女の前を走っていたバスが事故で横転して死傷者が出たのですね。
ビル:そうです。彼女は医師でしたので、人々をチェックしてまわりました。すると一人の女性が首を折って死んでいました。頭の向きが大きくねじれて異常でした。彼女はそこで、まわりに立っていた怪我をしていない人々を集めて、その死人に向かって「生きよ」と告げなさいと教えました。
シッド:彼らはクリスチャンだったのですか?
ビル:いいえ、そうではありません。しかし医師の彼女は集めた人々に「ずっと命を受けるように言い続けなさいよ。」と言って、自分は怪我人の手当をしていました。すると何か音がするので、見ると、首が折れて死んでいた女性の首がひとりでに回って正しい位置になりました。多くの人が命を語るという霊的環境の中で死んでいた彼女は生き返ったのです。
シッド:神の御国が地上に来たのですね。ビルさん、すべての人のために御国が地上にくるようにどうかお祈りくださいませんか?
ビル:勿論です。主はライフスタイルに変革をもたらすべく色々な人に主との出会いを与えてくださると信じます。そのことを祈りたいと思います。父なる神よ、どうか大いなる聖霊の力を顕わしてください。それによって人々があなたの心の奥底を知り、あなたの臨在を見分け、あなたが持っている人々への情熱を知り、それによって物事の見方、考え方が変わりますように。それによって人々が内側から変革されますように。(終わり)
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