Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
02 03月
神はあなたを知りたいと願っておられる
ロビン・マクミラン
主は「私たちについて」知る(訳者:情報的に)ことだけでは満足されておられません。私たちを本当に知りたいと願っておられるのです。
次の聖句が今までとは違う新しい意味を持って、私の注意を引きました。
マタイ7:21−23「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
主はここで、「主を知り主の力で業をなす者たち」と、「主が個人的に知っている者たち」とをはっきり区別しておられます。私たちは両方のグループに入っていなければいけないのです。聖霊の力によってわざをなすことは重要です。それによって人びとが解放され主を知るようになるためです。しかし、主を知っていることと、主から私たちが知られていることとは同一ではありません。
神が私たちに関するすべてのことをご存知であるのと、神が私たちを個人的に(親しく)知っておられるのとは同じではありません。ヘブル4:13に「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
とあります。神は私たちに関することはすべてご存知です。しかし実際に経験的に私たちを知っておられるでしょうか?
主は、ご自分が私たちに関する事をすべて(私たちが秘密にしていることも含めて)知っておられることと、私たちを親密に知っておられることとを明らかに区別しておられます。主は私たちと個人的に関係を持ち、私たちと話をすることを願っておられます。私たちは主に私たちの内側を見ていただき、自分がどのような者であるかをもっと知っていただくようにお話する必要があります。
主がアブラハムを訪れ、ソドムとゴモラについて話されたときのことを見てみましょう。
創世記18:20−21「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう。』」
主は、ソドムとゴモラの状態をすでに知っておられたにもかかわらず、
もっと個人的に知りたいと願われ、ご自分でそれを実際に見るために行かれました。物事に関して知っているだけでは主は満足されないのです。主は人びとの人生のすべての面において彼らと関係を持ちたいと願われています。それは彼らを個人的に知るためです。
イエスは私たちが神の御国に入るための接点です。では、神がこの世界に入るための個人的な接点は私たちである、ということが言えないでしょうか?
主は私たちが上に行くためのドアであり、私たちは主がこの世の人生の出来事の中に下りて来られるためのドアです!
次にように考えてみてください。ある家の持ち主が誰かにそれを貸したとします。すると貸借の契約により持ち主はその家に入ることは出来なくなります。彼は確かにその家を所有しているのですが、勝手にそこに入ることはできません。
神はすべてを創造されたのですからすべてものを所有しておられます。しかし、神は人間に権限を与えられ、人間に関する事柄に勝手に介入することを自ら制限する道を選ばれたのです。
雅歌2:14には、ご自分の民を親密に知りたいという神の深い願望が表されています。
「...私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」
その人が誰であるかを一番はっきり認識できるのは、その人の声と顔によってです。「顔」を主に見せるのは、主があなたは誰であるかを本当に「見る」ためです。「声」も又、あなたが誰であるのかを主に告げる力があります。主は「あなたの顔は美しい」と言われます。主にあなたの顔を見せてください。主は「あなたの声は愛らしい」と言われます。主にあなたの声を聞かせてください。あなたがどのような人であるのかを主に話してください。
もう主に話しましたか?
もしも主があなたのことを、あなたが意図的に声に出して主にお話ししたこと以外はご存知でないとしたらどうでしょうか?
主はあなたのことをどのくらい知っておられるでしょうか? 今まで意図的にあなたが誰であるのかを主にお話ししたことがありますか?
私たちがそうしない理由の一つは「主はすべてをご存知である」という事実であり、 それが主に自分を深く知っていただくのを妨げているのです。
私が主を知ってから45年以上経ちました。しかし最近、私と主との個人的な交わりが、今までずっと待ち望んでいたものへと開花してきたのです。それは、あたかも主は私のことを何もご存知ではないかのように、私のすべてを主にお話ししようと私が決意した時から始まりました。その結果、すばらしいことには、私が予期しなかった方法で、主は私の人生に関わる深いことを語り始めて下さいました。それは、主に心を開いてすべてをお話しした結果、主は私が置かれている状況をもっと明確に知り、それによって主が私と深く関わることが可能となったからだと私は気がつきました。
私は「私は1951年1月10日に南キャロライナ州のアンダーソンで生まれました。父はアースキン大学でフットボールのコーチをしていました。」というようなことを主に話しました。この新しい関係を築く中で、ある時私は自分の過去の人生の中で恥と思っていることを話しはじめました。そして「主よ、あなたは何も恥じるようなことをされなかったから、こんな風に感じることはないですよね。」と申し上げました。主はこう答えられました。「ロビン、そんなことはないよ。私は十字架の上で自分を恥かしいと感じていたよ!」主のこの答えに私はびっくりしました。しかし、すぐにヘブル12:2を思い出しました。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめ(恥ずかしく思うこと)をものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
長年にわたってこの箇所は読んでいましたので、意味はわかっていましたし、暗唱することもできました。しかしイエスが実際に恥じと感じたとは全く思いも及びませんでした。続けて主は、恥じている人を深く同情し憐れむために、主ご自身が恥を感じる必要があったのだと言われました。このようなイエスを愛さずにおられる人がいるでしょうか!
ご自分が十字架ですばらしい業を成し遂げたのだから、誰でもその事実を完全に理解するならば、もはや決して二度と恥と思う必要はないのだ、と主は言われました。主は十字架で死んだとき、すべての人の恥と思う思いをご自分において死なせたのです。主は恥の代価をも支払われたのです。
さあ、次はあなたの番です
人生で非常に破滅的な経験した多くの人を私は知っています。あなたもその一人かもしれません。多くの人は主に助けと解放を求めましたが、何が起ったかを本当に主に話した(訳者:自分がその時内心どう思ったかと言うような)人は何人いるでしょうか?
あなたの話(訳者:あなたの心の動き、思ったこと等を正直に隠さず)を主にしてください。あなたの心と口とを開けて、あなたが誰であるのかを主に話してください。そうするならば、思いもよらない方法で主はきっとあなたを慰めてくださるのです。主にあなたの顔を見せて下さい。あなたの声を聞かせてください。主は「あなたの顔は美しく、あなたの声は愛らしい。」と言われるのですから。(終)
23 02月
王が「何を望むのか?」と問われる時
ベン・R・ピーターズ
もし国の王があなたの友人となり、「何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」と言われたとしたら、どうでしょうか?
聖書の中には この世の国王たちが、自分の気に入った人にこのように気前のよい申し出をした事例が幾つか書かれています。
ダニエルは、ネブカデネザル王の夢を言い当てて解き明かすならば「贈り物と報酬と大きな光栄」が与えられると約束されました。王の夢とその解き明かしを彼が告げたとき、王はダニエルを高い位につけ、多くのすばらしい贈り物を与えました。そしてバビロン全州を治めさせ、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官にしました。
その他、国王から同じ申し出を受けた者の中には、ネへミヤとエステルがおります。ネへミヤのことは後で見てみたいと思いますが、エステルとモロデカイは、彼らの敵に対して望み通りの報復の法令を作る権威が与えられ、王はそれを施行しました。
しかしながら、王が一国の王であるばかりでなく、宇宙の創造者であり、私たち一人ひとりをご自分のかたちに造られた方であるならば、可能性は無限となります。ソロモン王が若かったとき神が現れ「天の王から何を願うか?」と訊かれたのをご存知ですね。それはまさにソロモンの人生を一変させる申し出でした。
多くのクリスチャンは、そのような神の申し出は聖書時代の1、2人の重要人物にだけであって、自分には決してそのような申し出はされないと信じ込んでいます。私はそのような人たち、王の王を愛しているすべての人に良い知らせがあります!いいですか、イエスは聖書の中で、特にヨハネ伝で同じような申し出を弟子たちに何回もしておられます。その一例はヨハネ16:23です。
イエスは、助け主である聖霊ー彼らを導き、教え、霊的賜物と実によって力を与えてくださる聖霊が来られることを教えておられる中で、その申し出を次のように言われています。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父はわたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」
このことばを主から受けた弟子たちは、やがて使徒となり教会を新しい領域へと導いて行きました。この約束は彼らだけにされたものでしょうか?そうではありません。イエスが12弟子にされた約束は、皆さん一人一人にも適応されるものであるのです。
願うものを神から受け取る特別の鍵
残念ですが、それは(一頃はやり言葉になった)「名指して受け取ればよい name it/claim it 」というような(信仰の実践を強調する)コンセプトとか、「一生懸命働けば願いがかなう権利を勝ち取れる」ということとも違います。この先を続けて読んでください。この特別の鍵を適応したいと願うすべての人にチャンスを与えたいと神は思っておられるからです。
この啓示は私の何十年にもわたるミニストリーの中で少しずつ与えられたものですが、2015年に入ってからこれに関する新鮮な理解と悟りが集会の中で与えられました。この鍵について私が人にお話しするのはこれが始めてです。
この啓示に関する中心的聖書箇所はネへミヤ2:4です。
「すると、王は(悲しい顔つきをしている)私にやさしく言った。『では、あなたは何を願うのか。』そこで私は、天の神に祈った。・・・」
教会への預言のことば
重要な鍵を明らかにする前に、聖霊が私に最近語っておられることをお話したいと思います。神はキリストのからだに今、 NOW な言葉を解き放っておられます。それは神が「あなたは何を願うのか?」と愛をもってやさしく問い掛けることによって、私たちが神にもっと近づき神の声に耳を傾けるようにと招いておられるのです。そして心をこめて聞く人にだけ聞こえ、悟れるように、神は声を低くして語っておられるのです。それは愛のささやきです。
「『主の御名によって神に求め、受け取りなさい』という上記のイエスの御ことばの上に、神は今、私たちを renewingし新しい油注ぎを解き放とうとしておられます。過去に多くの者がこのイエスの御ことばを用いてきましたが、まことの信仰と御父との親密な関係という裏付けがないばかりに、そのことばには権威がありませんでした。しかし今、親密に主に近づいている神の子たちがどんどん増えて来ていますから、 今こそ彼らに力が与えられ、この御ことばを活用することによって御国を拡大する時がやってきたと信じます。
今年2015年は、多くの者が主のパートナーとなり、地上における主の目的を達成する年となるでしょう。彼らは聖霊の息吹を受けた祈りをするようになり、その祈りは奇蹟的に素早くかなえられます。多くの者たちが彼らに引寄せられ、彼らは自分たちのしていることをそれらの者に教えます。油注ぎのマントルは増え広がります。霊的分与は実際に賜物と油注ぎを分与します。偉大なる恵みが純粋な御霊の実を実らせ、愛、喜び、平安が川のように流れ出るでしょう。多くの者は自分の人生でこのようなことは見たことがないと言うでしょう。そしてイエスは弟子たちに「あなた方は何を願うのか?」と訊き続けてくださり、彼らはもっと下さいと願い続けるのです。
今はわくわくと興奮するべき時であり、神に近づいて耳を傾け主のかすかな細い声を聞く時です。今は、神の「レーマ」を聞くことから来る信仰を主に願う時です。奇蹟が起ろうとしています。この霊的覚醒と収穫のシーズンにイエスを真に愛する者たちの取り分は、しるしと不思議です。大きな打ち破りが次つぎに起るでしょう。
神はまだご自分を知らない多くの人に手を差し伸べ、タルソのサウロにされたように彼らの前にご自分を現してくださいます。そして神と親密な関係にある者たち、主のかすかな細い声を聞いている者たちは主の御霊の力で出て行き、主のために大いなる業をなすでしょう。時は今です!私たちは今奇蹟のシーズンに入っているのです。今年は、多くの者の人生にとって最高の年となるでしょう。
王から申し出を受けるための3つの鍵
ネへミヤの物語とヨハネ16章のイエスの約束 は、「願うものを何でも受け取るための鍵」を理解するために非常に重要です。
第一の鍵:とりなしの祈りへとあなたを駆り立てる神からの重荷、情熱を持っていること
ネへミヤは宮殿の中でよい職についていました。しかし父祖の町(70年の捕囚以前にユダヤ人の首都であった町)の状態を知ったとき、彼は非常に嘆き悲しみ、数日の間断食をして祈りました。彼は自分が幸運であることだけに満足しなかったのです。神が与えた父祖の地の荒廃や人びとの災難を見て彼の心は傷みました。そして彼が悲しんでいることが王の目に止まりました。王の面前で悲しむことは違法行為だったのですが、王はネへミヤを殺すことをせずに、「何故悲しんでいるのか、何を願うのか?」と尋ねました。
イエスの12弟子は御国のためにこのような重荷はまだ持っていませんでした。自分たちが十字架につまずき、復活の主から赦しを受け取った後になって、初めて彼らはその重荷を持ち始めたのでした。彼らが一つ所に集り聖霊の注ぎを受けたとき、彼らは情熱で満たされ、主のすばらしい力を経験したのです。使徒行伝の5章までに彼らが祈った人たちは全員すべて癒され解放されました。
もし私たちが、 自分の人生のためにだけ生きていて、神の御国を建て上げる情熱をほとんど持っていないとすれば、私たちの祈りに力はないでしょう。しかしもし私たちが神の御国を第一に求めるならば、「あなたは何を望むのか?」と神は訊いてくださるのです。それに対する私たちの返答は、「神の御国を祝福する何か」を求めることであるはずです。これに関するすばらしい例は、神がソロモンに何を望むかと訊かれた時です。ソロモンは、「神の民を正しく裁くのは難しいので、そのために知恵と悟りを下さい」と頼みました。彼の求めは自分のためではなく、神とその民のためでした。
二つ目の鍵:進んで御国を立て上げる者となる
使徒たちとネへミヤはどちらも 初めはとりなし手でしたが、やがて御国を立て上げる者となって行きました。使徒たちは天の御国を地上で建てるようにという命令をイエスから受けていました。イエスは彼らに「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように教えられました。イエスは彼らにご自分の代理人として御父と話す権威を与えられ、イエスの御名によって御父に願うようにと言われました。
この約束を与えられた時、イエスは又、聖霊が彼らを導き、彼らに正しい思いと願いを与えられると言われました。この事は初代教会の中で実際に行われ、彼らが御父に願ったことはすべて叶えられました。それは彼らの心が自己中心的な動機ではなく御国中心の動機へと変えられていたからです。
一方ネへミヤは、とりなし手から建て上げる者、復興する者となりました。70年の捕囚後のイスラエルが回復される時代に彼は生きていました。私たちも又、初代教会が失ったものが回復される時代に生きています。回復の時(使徒3:21参照)は宗教改革に始まり今日もまだ続いています。皇帝がネへミヤに「何を望むか?」と訊ねたとき彼が望んだのは、敵によって破壊された町を建て直す者になることでした。神は、敵が何世紀にもわたって(特に暗黒時代に)破壊してきた教会を建て直すために、ネへミヤのように情熱を持つ心を捜し求めておられるのです。
私たちの心が「神のものを建て直したい!」と叫ぶのを神が聞かれる時、神は「あなたは何を望むのか?」と同じ質問をして下さるのです。私たちの答えは「主よ、私はあなたのからだである教会の中にあなたの栄光を回復し、あなたの御国を建て上げるために用いられたいのです。」というものでしょう。その時、王の王なる方は、破壊され失われていたものを回復させるために、私たちに力を与え遣わしてくださいます。建て上げ回復することは私たちの生きる喜びとなります。自分が創造された目的であり、達成するようと与えられた目的とデスティニーの重要性を、真に理解し悟ることができるのです。
第三の鍵:神の他に救いはないことを知っている
新約聖書の中には少なくとも2回、イエスが「わたしに何を望むのか?」と訊かれた場面があります。第三の鍵は、謙遜と、今の状況を変えたいという必死な思いに関連しています。「神の奇蹟以外にこの状況を変えうるものは全くない」という思いです。
まず頭に浮かぶのは、盲目の乞食バルトロマイです。彼は「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び続けました。(マルコ10:46−52)イエスは「わたしに何をしてほしいのか?」と訊かれました。バルトロマイは宗教家の多くよりも真実をよく掴んでいたのです。彼は自分が盲目であることを知っていました。イエスの時代のパリサイ人たちは霊的に盲目でしたが、そのことを知りませんでした。現代のパリサイ人たちも同じ問題を持っています。しかしバルトロマイは「先生。目が見えるようになることです!」と叫び、イエスはそれを聞いて彼の願いに答えられました。
2つめはベテスダの池にいた病人です。イエスは彼にも「直りたいのか?」と訊かれました。(ヨハネ5:1−9)彼は天使が水を動かした時に池の中に素早く入れてくれる人がいないと答えました。それは正しい答えではなかったし、イエスへの信仰はほとんどなかったにもかかわらず、イエスは彼を憐れみ癒されました。彼がイエスの憐れみを受けることができた理由は、彼は癒しを願ったけれど自分では全くどうすることも出来なかったという事実です。彼は何度も何度もやってみたのですが、いつもうまく行かなかったのです。地上には彼を助けられるものは何もありませんでした。彼はイエスが力ある方だとは知りませんでしたが、それでもなおイエスは彼を憐れんでくださったのです。そしてイエスが「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と告げたとき、そのレーマのことばを聞くことによって彼に信仰が起こったのです。
ポイントはイエスが恵みと憐れみに満ちておられる方であることです。主はある人びとには「主の栄光のために御国を建てたい」というご自分と同じ情熱を持った心を見らました。又ある人びとには、主に栄光をもたらす可能性を宿している心を見られました。それは、主の奇蹟にしか救いはないと知って必死で求めるへりくだった心です。「何を望むのか?」とあなたが王に訊かれる時です。
王の王なる方があなたにこの質問をされたならば、あなたはどうお答えしますか?
あなたはすばらしいチャンスと祝福の扉を開ける正しい鍵を手にしておられると私は信じます。あなたの心が、世の中の不正や人の苦しみ、教会の力の無さ、地獄に行く魂、モラルの倒錯、堕胎などに大きな憤りを感じ、神に叫び、それを変えるために喜んで働きたいと思うならば、王から「あなたは何を望むのか?」ということばを必ず聞くことになるのです。
もしあなたが傷つき、絶望し、神だけがあなたの救いであると知っているならば、神に近づき、神に泣き叫び、神の声を聞いてください。神はあなたを呼び出して「わたしに何をしてほしいのか?」と訊かれるでしょう。
今はあなたの時、あなたのシーズン、あなたが王と会う時です。準備はできていますか?
主イエスよ、その時のために私たちが調えられますように。そしてあなたの麗しい声を注意して聞くことができますように。(終)
Ben R. Peters、Kingdom Sending Center
Email: ohmint@gmail.com
16 02月
麦打ち場での親密な交わり
ボビー・コナー
昔の夢がよみがえる
最近私には、1990年代の半ばに私が見た鮮明な夢に深く関わる預言的な出来事が幾つかありました。その夢の中で啓示されていた幾つかの基礎的な真理(神が今まで私が発表すことを押さえておられた真理)を、神が今解き放ち回復させようとしておられることを私は感じ取っています。それらを明らかにする時がやってきたのです!
箴言25:2「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」ー
その夢は、私がボブ・ジョーンズ師と一緒にドイツのオートバーンを運転しているところから始まります。私たちは優秀なドイツ車に乗り、見事な高速道路をものすごいスピードで走っていました。ボブと私は、過去に起ったこととこれから神がされることを話していました。するとボブが「私がここだと言うところで、車を道路のわきに寄せて停めて欲しい。」と指示したので、私は承諾しました。
ほんのしばらくすると、ボブが「ここだと思う!車をわきに寄せて!」と叫びましたので、私はスピードを落とし道のわきに車を停めました。車から降りると、道路の横は急勾配の深い溝になっていて、その向こう側にはがっしりした鉄条網が張リ巡らされ、誰も入れないようになっていました。あたりを丹念に調べていたボブが興奮して言いました。「そう、ここだ!ここに違いない!」
彼は鉄条網に開いている小さな隙間を指差しました。鉄条網の向こう側は濃い茂みにおおわれていましたが、人にあまり踏まれていない小道がうっすら見えました。向こう側に入る入口を見つけたボブがそんなにも興奮してうれしそうなのを見て、私も非常に勇気づけられました。深い溝を下りてまた上るのは大変でしたが、私たちはどうにかやりとげました。そして注意深く鉄条網に開いていた小さな穴をくぐって向こう側に出ることができました。
私たちは濃い茂みをかき分けて丘を一歩ずつゆっくり登っていきました。一歩毎に道はだんだんと開けてゆき歩きやすくなりました。私は目的地がどこなのかを知りたくてたまらなくなりボブに訊ねましたが、「はっきりはわからない、着けばわかるだろう」という答えが返ってきました。
両開きのダブルドア
丘はしだいに急勾配になっていきました。山道を苦労して登りきると、非常に大きな古い納屋の前に出ました。納屋自体が芸術作品のようにすぐれた建造物でした。非常に古いのですが、壊れたところもなくすばらしい状態でした。納屋には非常に大きな両開きのダブルドアがあり、ステンレスの大きな鎖と錠で閉められていました。苦労して登ってきたのに納屋に入れないかと思い、私は非常にがっかりして悲しくなりました。
しかし、 ボブに鍵を開ける暗号を知っているかと私が訊ねると、彼は満面に笑みを浮かべたのです。彼は「訊くまでもないよ」と言うかのようにうなずき、錠のダイアルを注意深く回し始めました。私は興味津々で見つめていました。ボブは左に5回まわし3で止めました。次に右に3回まわして4で止めました。次に左に回して1で止まり、次に6と8、そして2のところに戻りました。
その時、錠がカチッと鳴り、開いたのです。私は「あなたが3−4−1を用いるだろうとは知っていましたが、6−8−2というのはわかりません!」と彼に言いました。ボブは確信をもって答えました。「今は2倍、ダブルの時なのです!
341を倍にしたら682でしょう。」そしてもう一度いいました。「今はダブルのシーズンです。恵み、恵みの時を信じて期待しなさい!」
大いに興奮し、わくわくと期待してボブと私は巨大な木の扉を開け放ちました!電灯は必要ではありませんでした。というのは大きな天窓があり、そこから日の光が納屋全体を満たしていたからです。
まず最初に私たちが目にしたのは、横向きに倒れた美しい手彫りの説教台でした。それは建物の入口をほとんど塞ぐかのように倒れていました。私たちの最初の作業はそれを起してもとの正しい場所にもどすことでした。
宝の家
私たちは何があるのかと期待しならが、建物の奥へと進んでいきました。そして今まで見た事もないような非常に美しい古い材木が天井まで一杯積まれているのを発見して心底から驚きました。材木は番号が付けられ分類されていて、見事に整然と積まれていました。その辺にあるただの材木ではありませんでした。それらの角材はとても大きく、その木目は言い表せないほどすばらしいものでした。どの角材もこの場所に置かれるのにふさわしいものでした。これらは教会を建て直すための材木だったのです!一つ一つが力強く、優秀で、美しいものでした。
納屋の中のものが、ほこりや蜘蛛の巣などは全くなく、完璧な状態であることに私は心から驚嘆しました。私たちが正真正銘の宝の家にいることが私にはわかりました。そして、失われていた神の宝を再び見出して用いるために、神が預言の賜物をパワフルに用いようとしておられることがわかったのです。
かなり以前に与えられたこの夢の中で、ボブは「今は教会の土台となる基本的な機能が回復される時です。」と言いました。
これは私たちにとって2015年のため、特にこれからの日々のために大変重要な夢であることを私は霊の深みで感じています。真の改革と根本的革命が教会に再び来ようとしているのです!
5775年:両開きのダブルドア、2倍の分け前
2015年になって私はこの夢を再び心に示されたのですが、この夢の中に示されているヘブル的な意味には興味を引かれます。ユダヤ暦では今年は2015年ではなく5775年であり、ユダヤ暦の新年ロシュ・ハシャナは2014年9月24日でした。
古代へブル語には数字がありませんでしたので、アルファベットを数字に用いていました。(古代ローマが用いたローマ数字のようなものです。)それによると5775という数字はTish’ehという実際の単語になり、それは留意する、注意する、注目する、凝視する、という意味です。また、Ha’tish’ehとも書く事ができ、それは「あなたは注目しますか?」という意味になります。今年、私たちは「あなたは注目しますか、しませんか?」と訊かれているのです。では何に注目するのでしょうか?
ヘブルの数字はアルファベットで表されますが、各アルファベットはそれぞれ一つの絵になっています。これは聖書を学んでいる人は皆知っていることです。5775という数字は非常に明確な絵となっています。そこには主が両開きのダブルドアから2倍の分け前と主のつるぎ(主の御ことば)を携えて入ってこられ、主の民のために戦い、彼らを養われるという姿が描き出されています。
「両側に開かれた扉と2倍の分け前」に対して私たちはどのように応答すればよいのでしょうか?
私たちは、教会の土台を築く基本的な機能を建て直し改革せよと語っておられる聖霊の言葉に注意を払い耳を傾けるのでしょうか?
現に、2014年にユダヤの過ぎ越しの祭りと仮庵の祭りに起った血の月blood moonsの現象が再び起ころうとしています。2015年にも、即ち3番目と4番目の血の月、過ぎ越しの祭り(4月4日)と仮庵の祭り(9月28日)に起ろうとしています。2倍の分け前である2つの血の月が2つの祭りの時に出るのです。2年続けて起る4つの血の月という天のしるしは、1942年、1948年、1967年に起りましたが、これらはすべて歴史的に見て非常に重要な年でした。今回はどのような重大事が起ろうとしているのでしょうか?
2倍の親密さ
「納屋 barn」というヘブル語の言葉は「打ち場」とも訳すことができます。打ち場こそが、これから始まる非常に重要なシーズンにあたり私たちのために開かれた場所です。打ち場は平で滑らかにされた場所です。麦が実と殻に分けられる場所であり、真の宝が見出されて貯蔵されるところです。打ち場はルツがボアズと逢ったところであり、即ちそれは教会が主と出会うところです。そこは非常に深い親密さの場所です。打ち場は愛する方が花嫁に「恵み、恵み!」と呼ばわる所です。
どのようにして私たちは親密な場所に入る鍵を開けることができるのでしょうか?暗号はなんでしたか? それは私たちが隣人を愛することであり、又「恵み、恵み」と呼ばわってくださる方を愛することです。雅歌5:5にこう書かれています。
「私は起きて、私の愛する方のために戸をあけました。私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、かんぬきの取っ手の上にしたたりました。」
愛する主との親密さの鍵を開ける341という暗号は、イスラエルに対する「シャマー」、即ち注意せよ、聞いて従えというイザヤ34:1の恵みを指しています。「国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそこから生え出たすべてのものよ。聞け。」
2倍の祝福—あなたが祝福となる
3—4—1という夢の中の納屋の鍵を開ける暗号の数字は、ボブにとって長年非常に意味深いものでした。それは1980年以来神からの特別のしるしとして彼に与えられたものであり、神が導かれる人生の中でずっと特別の意味を持っていたのです。
今私たちは打ち場に行き神に近づくようにと招かれています。そこで私たちの宝である主を見出し、人びとと一緒に主の教会として建て上げられるのです。この出会いの場所を開ける鍵は、主の恵みの招きに応答するときに見つけることができます。神の恵みは癒しと繁栄の賜物をもたらしますが、それと同時にすべてのクリスチャンが聖なる会合に連なり、この世から分たれ聖別されることが求められています。(第二コリント7:1参照)
私たちは「求め、捜し、戸を叩いて」主の御座から直接知恵と啓示を頂きたいと嘆願するように召されているのです。(ヤコブ1:5参照)主は花嫁と親しく語り、ご自分の愛と臨在を目に見える形で注ぎたいと熱望されています。それによって私たちがこれからの重要なシーズンへの備えができるようになるためです。(終わり)
07 02月
2015年は新たな始まりの年
ジェニファー・レクレア
新し年を迎えるとき、私たち(家族)は通常、何らかにおいて新しい出発をし始めることを決意します。しかし、2015年は、2014年や2013年、あるいはそれ以前の年とは異なることになりそうです。なぜなら聖霊が、2015年は新しいこと(複数)が始まる年であると、私の心に語られたからです。
私の人生における最大の新しい出発と言えば、15年ほど前に刑務所の中で起りました。その頃私は全くの虚偽の事実で起訴されていました。その一年前に私は夫を亡くしたのですが、その訴えが無罪であることが証明されるまでの40日間に、私は自分が持っていたほとんどすべてのものを失いました。アパート、仕事、貯金、犬、それはまるで悲しいウエスタンの歌のようでした。
しかし私は、その時キリストを得たのです。ですから、キリストを知る救いの経験に較べれば、私が失ったものの価値などはちりあくた同然、比較にもならないと思っております。(ピリピ3:8)
しかしながら、2015年は複数の(すばらしい)新しいことが起こり始める年になると信じでおります。ここで聖霊は「新しい始まり」ということばを、「new beginning」という単数形ではなく「new beginnings」と複数形で言われたことにご注目下さい。2014年には、キリストのからだの中の多くの人が、明確にはわからないにしても、自分が何か大きなことのために整えらつつある、そのために、自分が出来る能力の限界が引き延ばされつつあると感じたと思います。多くの人が自分は何か大きなものを内に孕んでいるけれど、それが予定日を過ぎても産まれない苦痛とフラストレーションを感じたと信じます。
産み出す年
2015年は新しい始まり(複数形)の年であり、それは産み出すことを意味していると信じます。去年ケン・マローン師は衝撃的な預言的ヴィジョンを見ましたが、それによって主が今は産み出すシーズンに入っていることを語っておられると彼は感じました。彼は次のように書いています。
「私は熱烈な主のレムナント達が、主からの夢とヴィジョンをお腹の中に孕んでいるのを見、又彼らの声を聞きました。彼らは神が地上に意図され計画されているものを孕んでいました。多くの者は彼らの国や都市、又家族の霊的リバイバルを孕んでいました。又他の者たちは魂の収穫を孕んでいました。又ある者たちはしるしや不思議、奇蹟を孕んでいました。又、主の臨在やとりなしの祈り、聖霊の賜物を孕んでいる者たちもいました。
私は熱烈なレムナントたちの出産予定日がもう過ぎているのを見ました。今も見ています。彼らが神の目的を産み出すのを何かが阻んでいるのです。レムナントたちは出産できずにいます。産婦が子を産むときのようなうめきと苦しみがレムナントの上にありますが、誰も出産できません。『兄弟の告発者』が立ちはだかりレムナントを告発しているのです。主からの夢やヴィジョンが主の息子、娘たちの胎の中でこの告発者によって捕虜となって拘束されています。」
新しい始まりのための備え
あなたに新しい出発をもたらす出産の備えをどうか始めてください。2015年は新しい始まり、新しい出発の年です。それはあなたが何かを産み出すことであり、それは即ち痛みを感じ始め、陣痛が始まることを意味します。それはまた、あなたが『兄弟の告発者』に直面し、霊的戦いの激しさが増すということです。しかし、あなたは勝利します!それは戦うに値する戦いなのです!新しい始まりを産み出すためにあなたはどのような役割を果たすのでしょうか?この新しいシーズンに備えるために実際にどうすればよいのか、4つの鍵を申し上げます。
1.あなたの意志を主に明け渡す
自分が産み出そうとしているものが、何か恐ろしいと感じたり、もしくは大して意味のあるものではないと思えるかもしれません。しかし私たちはマリアから学ぶべきです。今は自分が持つ恐れ(未知なものに対する恐れ、失敗への恐れ、拒絶される恐れ、変化への恐れ)を直視するときです。天使がマリアを訪れ神の御子を産むであろうと告げたとき、彼女は最終的に「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言いました。(ルカ1:38)
2.自分のスケジュールを進んで調整する
妊娠すると私たちは出産のための用意をします。食べ物や睡眠時間にも注意し、時間の過ごし方も変えていきます。今新しい始まり、新しい出産の年を始めるにあたって、私たちは自分のスケジュールを調整し、御ことばやワーシップ、祈りにもっと時間を使うようにしなければなりません。それは今までしていた何かを止めるということを意味するかもしれません。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)
3、進んで方向転換をする
ここ数年の間に私は幾つかの赤ちゃんの夢を見ています。一つの夢は、私は臨月なのですが赤ちゃんがお腹の中で動かなくなってしまうというものでした。赤ちゃんがお腹の中で足で蹴ったり身体を動かしたりしなくなったので、生きているのかどうかわかりませんでした。私は死んでしまったのだと思い、パニックになりました。すると突然手のひらでお腹を軽くおさえて赤ちゃんの位置を変えるようにという促しを感じました。(後で調べたところ、Diaphragmatic(横隔膜)Releaseという実際に使われている方法でした)そのようにしたところ、赤ちゃんが再び蹴り始めるのを感じましたので大丈夫だとわかりました。時として、物事は死んでしまったかのように見えます。しかしその時、あなたがただ少し位置を変えさえすればいのちが与えられるのです。神があなたに託したものを産み出し育てるために、神が再び息を吹きかけられるように、正しい方向に少しだけそっと動けばいいだけなのです。しかし、どちらにシフトすればよいかをあなたは主に聞かねばなりません。聖霊の御傍近くにとどまれば、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。この道を進め。』と言うことばを聞く」のです。(イザヤ30:21)
もし神があなたに産み出すものを下さっているのならば、今はエゼキエルのように乾いた骨にむかって語るときかもしれません。あるいはエリヤのようにそれをよみがえらせる時かもしれません。今はイシュマエルから離れ去るときかもしれません。どうか堕胎することを拒絶し、神が最初から意図されていたことを受け取るために位置を変えてください。あなたは単に間違った場所、間違った時、又は間違った人たちと一緒にいるだけかもしれません。主に聞いてください。
4. 変化を喜んで受け止める
変化や移動は困難なことです。そのような時私たちは疲れ、意気消沈してしまうのです。新しいものを産み出す直前、即ち、新しい出発をしようとする直前こそが、一番困難な時です。(終)
Jennifer LeClaire
News Editor at Charisma Media,
Founder of Jennifer
LeClaire Ministries
Email: jennifer@jenniferleclaire.org
Website:
jenniferleclaire.org
Jennifer LeClaire is senior editor of Charisma. She is also director
of Awakening House of Prayer in Fort Lauderdale and author of several
books, including Satan’s Deadly Trio: Defeating the Deceptions of
Jezebel, Religion and Witchcraft, and The Spiritual Warrior’s Guide to
Defeating Jezebel.
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01 02月
預言者エリヤのように「祈り通す」人になりなさい
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン (1/11/15のメッセージ)
ヤコブ書5:17「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
皆さんの教会に来週ゲストスピーカーとして預言者のエリヤ師が来ると知ったら、その日に出席するかどうか、もう一度よく考えて慎重にお決め下さい。なぜなら、この預言者は非常に恐ろしい人であるからです。少なくとも彼は退屈なお話をする人ではありません。全くその逆で、燃える火のような人であり、危険でさえある人だからです。
最近はそのような「恐れ(畏れ)られる神の人」と呼ばれる預言者はいなくなりました。第一、敵が恐れません。又、罪深い人も恐れません。そのように真に力があって、畏敬されるような「神の人」はいなくなりました。
ヤコブ書5:17の始めに「エリヤは、私たちと同じような人でした」と書かれていますが、それは、彼は私たちと同じような普通の人間であったと言う意味です。私たちと同じように苦しみ、あがき、痛みを経験した人であり、私たちと同じように感情的にもアップ・ダウンがあり、悩みも、ストレスも、落ち込んだことさえもあった人でした。又、時には自分は失敗者と感じ、神は私の祈りを聞いてくれない、こんな困難は乗り越えられない、私には何もいいことはない、もうだめだと言うように、全く私たちと同じような経験を通った人であったのです。
悪魔は、私たちに「あなたのようにこんなひどい目に遭う人は他にいない、あなただけが特別に苦しんでいる」とささやき、又「あなたの苦しみは誰も分かってくれない、心配してくれない」と告げるのです。すべての人が悪魔にそう思わせられるのですが、それはエリヤと共通している点です。
しかしながら、一つの点においてエリヤは他の人々と異なっていたことがありました。それは、彼が「熱心に祈った」ことです。しかも単に熱心に祈っただけではなく「祈りが聞かれるまで、どんなことがあっても祈り通した人」であったことです。人が亡くなると葬儀の時に、集まった人々がその人への賛辞を述べますが、あなたが天に召された時、クリスチャンとしてのあなたは「熱心な祈りの人」であった、しかも、「祈り通す人」であったと言われたいと思いませんか。私はそれを望みます。私たちは祈りを除けば、この世のすべての人と全くと言っていい程何の変わりもないからです。
今年2015年は勝利の年であると私たちは宣言しました。そうであるなら、私たちは今年を「祈りの年」にしなければなりません。しかも多くの祈りを、一つ一つ「祈り通す、祈りきる年」にすることです。なぜなら、祈りきらなければ勝利はないからです。私たちの教会は、力のある教会と言われたいです。しかも「祈り通す力がある教会」とならなければなりません。最近はわざわざ膝がすり切れたように作った新品のジーンズを売っていますが、そんなジーンズを着るのが格好いいのなら、私たちはこの一年を、涙を流し、ひざまづいて祈り通し、それによって膝がすり切れてしまったジーンズを身に着けようではありませんか。あなたが本当に主にあって決意実行すれば、この「祈り通す」ことを阻むものは何もないはずです。
私の祖母が倒れた日のことを忘れません。それは私が13歳の時でした。土曜日の朝でしたが、私たちは父と母と兄弟そろって教会の祈り会に出ておりました。その祈りの時間を通して私は「おばあちゃんのところに早く行かなければならない」と言う思いに駆られていました。祖母の家に着いてドアをノックしたところ返事がなく、その家に住んでいる同居人にドアを空けてもらい中に入ると、廊下にうつぶせになった祖母が、脳梗塞を起こし左側半身不随のまま倒れていました。直ぐ病院に運び込み、緊急手術に入った結果、医師が言うには、この人の心臓の2/3は既にかなり前から機能停止していると言うのです。恐らく10年も前に大きな発作が起こり、その後も何度か発作が起こっていたに違いなく、僅か1/3の心臓で今まで生きて来られたことは奇跡だと言うのです。彼女は昔から祈りの人であったのですが、数度の発作を誰にも言わずに祈りだけで生き延びて来ました。考えられないような不屈の信仰、彼女はそれだけで生きて来たのです。と言って、私は皆さんに脳梗塞が起きたらこうしなさいと言っているのではありません。祈りの力がどれ程大きいかを分かって欲しいのです。
エペソ1:3に「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と書いてありますが、その祝福が欲しいのなら、私たちは天に行って取って来なければなりません。私たちは霊的にベービーであった時は、主ご自身が霊の祝福をスプーンで私たちの口に入れて食べさせてくれました。しかし、霊的大人に成長すると、主は祝福が欲しいなら天のキッチンまで自分で上がって来て食べなさいと言われるのです。そのために天のドアは既に開かれています。ここにいる人の中には神が天から祝福を降らせて下さるのを待っている人が大勢いると思います。しかし神は、私たちが祈りで天に上がって来ることを待っておられるのです。祈りが天に昇って行くまでは祝福は降りて来ません。
私はオールド・スクール(古いタイプ)と言われる人間かもしれませんが、祈る時は膝まづいて祈ると共に、神の前に出るのですからキチンとした服装で、身だしなみを正して祈ります。
エリヤは私たちと同じでした。しかし彼は祈ったのです。ここの「祈った」と言う原語は二度重ねて祈るーすなわち「熱烈に祈った」と言う意味です。ロマ書8:24に「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」とありますが、私たちが精魂こめて祈る時に霊的に「うめく」ような激しい祈りとなる、それは聖霊ご自身が私たちを満ち溢れさせて下さるからです。私たちは、まさにそのようなうめく祈りをせねばならず、そうでないと「祈り通す」祈りにはならないのです。それは決して宗教的な祈りではありません。最近はこのうめく祈りをする人が少なくなりました。
情熱をもって祈り通す人は大胆になります。エリヤはアハブ王に、「私が雨が降るように再び祈るまでの数年間は、つゆも雨も降らない」と告げました。(1列王記17:1)なぜ彼はそこまで言いきれたのでしょうか。それは彼が祈りきったからです。エリヤの祈りとは、初めは人間的な情熱と人間的な強い願いによる祈りであったものが、最後は神のみが持つ神聖で激しい情熱の祈り(深いうめき)に変えられたのです。私たちの祈りもそうであるべきです。彼は神の御心を確信をもって知っていたのです。
私が10日間断食した時のお話をしたいと思います。その断食中の8日目の夜になって、私は妻に「もう断食を止めることにした。外に出て何か美味しいものを食べて来る。」と言いました。その時の妻には知恵がありました。落ち着いて静かに、「今夜もう一晩断食を続けて、明朝になって、それでも止める気持ちが変わらなければ、好きなものを何でもお腹一杯食べたらいいでしょう。今夜は書斎にもどって祈ったらどうですか。」と言うのです。それは夜の8時頃でした。私は同意して部屋に帰り、祈り始めました。ところが頭に思い浮かんで来るのは食べ物のことばかりで祈りに入れないのです。特に大好物のブリトー(メキシコ料理)です。最初の30分、私は主に向かって「助けて下さい。食べ物のことばかりに思いが行って祈る気になりません。どうか助けて下さい。」と嘆願しました。皆さん、そう言う時には、自分の気持ちに逆らわず、正直にその状態のまま主に委ねるのです。すると突然頭に詩編23編の最初の「主は私の羊飼い。私は、とぼしいことがありません。」(訳者注:この後半は、英語の欽定訳では I shall not want となっています。つまり「何も欲しがらない」です。)その時の私は本当は I shall want なのですが、私は敢て I shall not want を繰り返し口に出して祈りました。するとその後15分後に、突然神が私の中に入って来られ、私の食物への強い欲望が神への情熱に取って変えられました。それからの3時間、私は今までにない神の深い部分、霊の深みと祈りの深みに引き入れられました。私の肉の欲が神の聖い思いに一気に変えられたのです。
そこで私は真夜中12時に一度部屋を出て、妻にそのことを伝えに行った時、私の顔は輝いていました。私は妻に神とのこんなにすばらしい交わりをブリトーと交換したいと思った自分が信じられないと伝えました。
私はその時、私の「肉の性質と情熱」が「主の性質と情熱」にトランスフォームされるプロセスを経験をしたのです。あなたが神の神聖な御性質に預かる経験をし始めると、あなたの祈りが変えられ、あなたは神の情熱で祈り始めます。そして、神の情熱を経験し始めると、あなたの人生が変わり始めるのです。
ここでエリヤの祈りにもどりましょう。ヤコブ5:17を見て下さい。エリヤは一体何を祈ったのでしょうか。彼は、こともあろうに干ばつを祈ったのです。普通祈るとすれば干ばつの時に雨が降るのを祈りますが、彼は神に干ばつを要求したのです。しかも敵国の地にではなく一番雨が必要な、愛するイスラエルの全地に雨が降らなくなることを祈ったのです。それはなぜかーそれは、その時のエリヤはイスラエルにリバイバルが起こることだけを望んでいたからです。リバイバルはエリヤにとって最大の関心事でした。
預言者とはあくまで神に忠実に尽くす人であると同時に、その国の民を誰よりも愛する人であると言われます。彼は国の経済にとっては何よりも雨が必要で、それがどれ程祝福となるかを考えていない人ではありませんでした。しかしエリヤは、国自体を神に引きもどすことこそ、神の最大の御心であることを知っていましたから、心が引き裂かれる思いで、敢てそれを祈り通したのです。
私は、クリスチャンが祝福を豊かに受け大いに繁栄すること prosperity を信じます。ですから、クリスチャンとしてビジネスに成功する方法のセミナーを開いたりします。しかし、私自身は昔からお金に興味はありません。私の No.1プライオリテイーはこの国の国民が神に帰ることであり、世界中にリバイバルが起こることです。しかし、そのために熱心に祈るうちに、神は時として私たちに、祝福に反することが起るように祈ることを示されます。
私の弟が未だ救われてなかった頃でしたが、私は何とかして弟が救われることを祈っておりました。或る夜、真夜中過ぎに神に起こされました。主は私に、未だ帰宅していない弟のベッドの横に立って祈りなさいと言われるのです。そこで私は神に示された通り、弟のベッドに手を置き「弟がこのベッドでは安眠できないようにして下さい。」と祈りました。彼の枕が石となり、眠りを盗むことを祈ったのです。すると、弟はその後二週間、ベッドではなぜか眠れないからと言って床の上で寝ていました。そしてついに教会での招きに応じて前に出て救われました。未だ救われていないあなたの夫とか奥さんが救われるために、一時的に神がその人の心に悩みを与えるようにと、示されてそのような祈りをしたことはありませんか。
私の両親はある時、私の働いている場所が正しいところではないと言う理由で、私がそこを首になることを密かに祈り、それが実現しました。又ある時は、私が付き合っていた女性が私の将来にふさわしい人ではないと言う理由で、その女性と私の仲が裂かれるためなら何でもいいから起こして欲しいと母は祈り、そうなりました。又、私たちの住む通りにいつも駐車されている一つの車があり、その車が罪のために用いられていることを母は知っておりました。そこで母はその車に火がついて燃えることを祈り、同時にその車の持ち主が主に立ち返ることを祈ったのです。二週間後にその車は炎上しました。そして神はその車の持ち主をご自分に立ち返らせずに車を破壊するような神ではありませんでした。
エリヤは神が民に背を向けるようにではなく、神に背を向けている民が神にもどるように、民から一番必要な雨を取り上げることを祈ったのです。エリヤは祈ったことが実現していることを見届けた上で、カルメル山に全イスラエルが集まることを要求しました。そしてエリヤが献じたいけにえに天から火が降りて、イスラエルの神が唯一真の神であることが証明され、バアルの預言者たちは皆殺しになりました。
その後エリヤが再び祈ったことが、5:18に書かれています。「そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」ハレルヤ!
エリヤは3年半の後に雨を降らせる祈りをもって当初の祈りを完遂したのです。その時のエリヤはカルメル山上で地にひざまづき自分の顔を両膝の間にうめて必死に祈りました。そのエリヤの祈りは何かを生み出すための熱烈な祈りであったのです。
2015年に、私たちは大きな勝利を勝ち取る決意をしました。しかし勝利への道は祈りで鋪装されなければなりません。今日神の霊は、私たちが決意することに私たちを召しておられます。それは自分の力によるこの世的情熱によって祈るのではなく、神の霊の情熱で「祈りきる」ことを決意することです。そうなればあなたに祈らせないようにするものは何もありません。私たちは、今までこの世的な情熱の多くを体験し、そのような世俗的情熱が、私たちを神の霊の情熱の領域に入らせないようにして来たことを認識しなければなりません。そうすることによってのみ、私たちは神の情熱によって、神の御心を祈りきることが出来るからです。
エリヤと私たちは同じ人間的感情を持っていることにおいては何ら変わりません。しかし、エリヤは自分のこの世的・人間的情熱が彼の神を追い求める純粋な情熱を阻むことを拒否しました。エリヤが私たちと違うのはここにおいてです。エリヤの祈りを阻むものは何もありません。私たちもエリヤのような祈り手にならねばならないのです。今日それを決意して下さい。
私たちの祈りはなまぬる過ぎます。だから力がない、色も味もないのです。ヤコブの5:16に「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。」と書いてある通り、神は私たち一人一人が力強い、効果ある祈りをする男女になることを期待しています。私たちが祈ると地が揺れ動く、そのような力ある祈りを神は要求しておられます。
私は誰かが本当に激しく祈っている時とか、激しく主を求めている時は、霊でその炎を感じ取ることが出来るようになりました。どうしてかと言えば、私が未だ小さかった頃、隣の部屋でうめき声と共に声を出して天の父に祈る母の熱烈な祈りを聞いて育ったからです。私が二歳になるかならない頃に父が激しく祈っていた声も未だに覚えています。私が妻に惹かれて結婚した理由は彼女が熱心に祈る姿からでした。又、私の祖父母たちからも同じ激しい祈りのライフスタイルを学び、その効果を見て来ました。声を大きくして言います。祈りが物事を変えるのです。従って私自身もそのような祈りの人になりたい、そうなることが当然と思って主を求めて来ました。
祈ることによってのみ、あなたはいかなる勝利をも勝ち取ることが出来ます。私は神の霊から与えられた祈りをもって神に泣き求める時、その実現を阻むものは何もないと堅く信じております。聖書は言います。「絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:18)
もう一つのパワフルな証しを申し上げます。私たちの5歳になる娘が、教会の若者二人が「祈り」について話しているのを聞いていました。一人が「私は祈ったけれど何も起こらなかった。」ともう一人に語っているのを聞いた娘がこう言ったそうです。「もし祈って何も起こらなかったら、祈り続ければいいのよ。私の両親は結婚した後、私が生まれることを一生懸命祈ったけれど何も起きなかったの。二年目が過ぎても私は生まれない、そこで次の年も熱心に祈ったけれどだめ、そして4年目、5年目、6年目、7年目と 祈り続けてやっと8年目になって突然お母さんのお腹が大きくなり始めて、私が生まれたの。あなたも祈り続けたら、神様は必ず答えて下さるのよ。」と二人に伝えていたと言うのです。
この話は、娘が繁く聞くものですから、毎週のように私が娘に伝えて来た彼女の誕生のストーリーです。娘にとって、彼女が生まれるためにどれだけ私たち夫婦が祈って来たかが大変印象深かったようです。しかし私が知らなかったことは、この話が彼女の祈りに対する信仰を深め、特に祈りとは「聞かれなかったら聞かれるまで続けて祈る」ことであると言うことが、既に5歳の彼女の心に叩き込まれていたことです。
今の私たち、教会は、「祈りの力」をほとんど忘れています。失いかけています。祈りの教会は少なくなりました。今の時代、今の世の中では、何にも増して「祈りの教会」が必要です、切望されております。祈る教会こそがリバイブされねばなりません。「祈る教会」には祈ることを信じる人が必要です。「プレイヤー・ミーテイング」という名の集会をすればいいのではありません。祈りの戦士 prayer worrior が切望されています。
どこにいようと、どの国にいようと、私は祈ります。神の御顔を求めます。求めずにはおられません。あなたのパッションの向こう側には神のパッションが待っており、あなたが神のパッションで熱心に祈ることを神は望んでおられるのです。あなたがそのように祈らなければ、あなたに欠けているものが何であるかがわかりません。より高いところにはもっと高いところがあり、より深いところにはもっと深い深淵があるのです。神はあなたにもっと啓示を示したいと願っておられ、もっと大きなわざを見せたいと願っておられます。(終わり)
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