Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
20 04月
愛する人のためのとりなし
トッド・ベントリー
産みの苦しみ
イザヤ66:7−9「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起る前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起すと同時に子らを産んだのだ。『わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか。』と主は仰せられる。『わたしは産ませるものなのに、胎を閉ざすだろうか。』とあなたの神は仰せられる。」
魂の産みの苦しみとは、情熱的な深いとりなしの祈りであり、それによって失われている人たちが福音に耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れる決断をする霊的空気を作り出す事ができます。
人びとの目をくらませ圧迫する敵の力を実際にはねのけ、福音が彼らの心にしみ込むようにできるのです。効果的な魂の獲得は、このように重荷を負って苦しむ涙の祈りなくしては決して達成できません。
「魂を勝ち取るのは私たちの義務であり務めであるのだから」という理由では、私たちは深いとりなしへとは導かれません。しかし「聖霊よ、来てください。どうか主の御心と同じ重荷を与えてください。神の願いを私たちの内に入れてください!聖霊よ、あなたが魂の救いのために砕かれたように私たちをも砕いてください。私たちが魂のために産みの苦しみをするように助けてください。」と叫ぶことはできるのです。
私たちは魂のために神と格闘する者でなければなりません。ヤコブのように「主なる神よ、私はあなたを離しません。あなたが私を祝福してくださるまで私はあなたと格闘します。私に人びとの魂を与えて祝福してください。失われ滅びていく世界が救われ、癒され、解放されますように。私はあなたと格闘します。私の家族が救われるまで。」と言うのです。
使徒パウロは産みの苦しみについてこう言っています。
ガラテヤ4:19「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
パウロはすでに彼らの魂の救いのために産みの苦しみをしましたが、又更に彼らの中にキリストが形造られるように産みの苦しみをしたのです。
パウロがエペソ人への手紙を書いたとき、 彼は深い祈りの心を持っていたことがわかります。エペソ3:14「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」
パウロは常に「産み出すこと」をし続けました。彼はそのような霊の領域を知っており、神の御心にどのよう触れ、神が望んでおられる誕生をどのように産み出すかを知っていたのです。私たちにもこの姿勢が必要です!
私たちが文字通り神の御思いに圧倒されるような「火」と「油の注ぎ」が与えられることを、私は信じています。私たちを主の前で泣き伏させ叫ばせる恵みが私たちのために用意されているのです。聖霊による魂の救いのために産みの苦しみができる恵みが私たちのためにあるのです。
神は私たちをなまぬるい、居心地の良い状態から連れ出し、聖霊により街に出て行き、失われた魂に福音を語らせることができるのです。そうして私たちは伝道へという熱い思いにゆり動かされるでしょう。
産みの苦しみのとりなしによって魂の救いを見るための重要な鍵の一つは、私たちが神の燃える愛に触れ、神の御思いによって砕かれ、とりなしの重荷を与えられることです。私たちは本当に自分を愛するように隣人を愛す必要があります。(マタイ19:19)しかし、第一にすべきことは何でしょうか?
それはまず神を愛することです。(マルコ12:30)それが私たちへの最大の召しです。即ちイエス・キリストを知ること。そしてイエスとの交わりにより私たちは愛の心を持ち、失われた魂に対する愛と憐れみに突き動かされてその救い見るに至るのです。
そうであれば私たちは単に責任とか義務とかで働きはしないでしょう。イエスが「これはわたしの仕事だから」と言って人びとにミニストリーをされたことは一度もありませんでした。人びとへの大きな愛の故に主は人びとに手を差し伸べられたのです。
家族の救いとリバイバルの約束
使徒16:31「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』といった。」
出エジプト12:3「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。」
一頭の羊が家族全員の解放に十分だったのです。
このような産みの苦しみの祈りの戦いがサタンの力を打ち砕くことができます。
次に、縛り、そして解き放つミニストリー(the ministry of binding and loosing) により、人びとを盲目にして福音を拒ませている惑わしの力を押しのける助けが出来ます。サタンが不信者の心と思いをどのように縛っているかを次の箇所から見てみましょう。
第二コリント4:3−4「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人びとのばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」
エペソ2:2「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」
あなたの家族をキリストの下に来させないようにとの指令を受けて働いている悪霊の力があり、又、あなたの家族が真理を見ないようにしている力があるのです。私たちが彼らのために祈るのはこのためです。これはただ神に「どうかジミーやスーを救ってください」とお願いするのではなく、私たちがサタンの力に対する権威を行使し、彼らの名前を呼んで呼び出すのです。私たちは霊において敵の要塞に対して権威を持ち、獄の戸を開けて捕われ人を解放しなければなりません。
イザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・・」
この聖書箇所で、神は「わたし」という言葉を何度も使っています。主の霊は「わたし」の上にあり、それは捕われ人を釈放し囚人を釈放するためなのです。神が私たちに「掴め」と言われたものを、神に願い続けるのを止めるべき時があると思います。神が与える魂の収穫を阻止している敵がいることを、はっきり認識すべき時があるのです。
私たちは霊において立ち上がり、「ジョーよ、スーよ、私はあなた達をイエスの御名において解放する。暗やみにいる者たちよ、出て来なさい。ジョーを縛っているサタンよ、お前に命ずる、彼を解き放って彼の霊の目が見えるようにせよ。私は霊でジョーを掴み彼の霊の目を開く。ラザロよ、出て来なさい!」と言わねばなりません。私たちが権威を持ち、失われた魂に対する神の御思いを心に抱き、涙を流して産みの苦しみをして祈りの戦いをする時に、私たちは大いなる収穫を見ることができるのです。
リバイバルの鍵
私たちはリバイバルをもたらした力強い伝道集会のことを度々考えます。例えばビリー・グルハム伝道集会のことを考えてみてください。長年にわたって何十万何百万もの人びとが彼や又その他の伝道集会でイエス・キリストを信じる決心をしました。
しかし、人びとがあまり知らないことですが、多くの場合、伝道集会をする都市で開くときには、少なくとも一人か二人のとりなし手がその街に前もって遣わされます。彼らは部屋に閉じ籠って日夜深いとりなしをします。そのような魂を産み出す苦しみをすることによって、霊的領域で魂を解放し収穫を産み出すのです。
言葉を代えれば、彼らは先ず密やかに霊的領域で魂を勝ち取る戦いに勝利するのです。そして次に伝道集会において、目に見える形で勝利が起きます。それは人びとがイエス・キリストを信じる決断ができるように解放されたからです!
彼らの祈りはリバイバル集会で聖霊の火を大きく燃え上がらせます。
中国のリバイバルの鍵
以前私は中国の教会のビデオを見たのですが、クリスチャンたちが地下教会で午前4時に集まっていました。彼らは友人や家族が救われるために激しい産みの苦しみの祈りをしていたのです。その光景は本当に驚きでした。 彼らは神のヴイジョンと御思いに浸され、激しく深い産みの苦しみの祈りに入っていました。魂を産み出すプロセスは燃えつくすような情熱です。彼らは失われた魂に対する大きな重荷を霊的に孕んでいたので、そのようなとりなしの祈りに入っていたのです。
彼らの身体は震え、涙が頬を伝っていました。それは魂の救いのための産みの苦しみでした。中国のクリスチャンがそのようなとりなしの祈りをするのは、彼らの心に魂の救いのための熱いヴィジョンが燃えているからだということは明らかです。それこそが毎日2万5千人が救われている理由であったのです!
あなたは見るものを手にいれる
「心の目を開いてください」という歌は中国地下教会のクリスチャンにとっては現実です。彼らはまず自分の心の目で収穫を見、そして今リバイバルが起っているのです。皆さんはうらやましいという思いに駆られませんか?私はうらやましいです。中国が偉大な収穫を産み出しているように、もし私たちがそのための代価を喜んで支払うならば、ここ北米でもそれは起るります。
救われていない人と一つになる
救われていない人に対する神の本当の御思いについて、もう一つのことがあります。イエスが最も偉大なとりなし手となり、最も偉大な祭司となり、そして永遠にとりなしの働きをするためには、(ヘブル4:14、5:1−10)主は私たちがどのような状態なのかを理解し、その私たちと一つにならねばなりませんでした。ですから、主は天の栄光を捨て人間の肉体をとった神となりました。何という変り方でしょうか!
天の栄光と力を捨て、神の子として地上に下りて来られました。私たちと同じ肉体をとり、私たちと同じように試みに会いました。しかし、罪を犯しませんでした。(ヘブル4:15)主はその時、そして今も、私たちがどのような苦しみを通っているかを知っておられます。
主は私たちの人間的な状態と一つになり、私たちがどれほど惨めで助けを必要としているかを御覧になりました。実にイエスは私たちと一つになられたので、私たちの大祭司、とりなし手となることができたのです。(ヘブル4:13−16、5:1−10参照)
従って私たちも救われていない人たちと一つになる必要があります。以前自分が盲目で暗やみの中を歩んでいた人生が、どのようなものであったかを思い出す必要があるのかもしれません。そうすれば、失われた魂がイエス・キリストを見出すのがどれほど急を要する事であるかを感じ、彼らの救いのための情熱をもっと持てるでしょう。神は私たちが人びとの救われるのを強く望む熱い心で心動かされるのを願っておられます。
私たちが聖霊によって導かれると、失われた人たちの苦しみと実際に一つとなり、私たちの心や感情までも引き込まれるようになります。そうなる時に、私たちは魂の救いのために産みの苦しみを耐え忍び、更に深いとりなしへと進んで行けるのです。
あなたは無名のヒーローです
産みの苦しみの働きはもっと広い範囲でも行われています。歴史に残るリバイバルの中には、失われた魂のために人びとが産みの苦しみへと動かされた故に起ったものが多くあります。
ジョナサン・エドワーズが「神の怒りの手にある罪人」という有名な説教をしたとき、神の御霊が力強く注がれました。神があまりにも大きい聖さと力を顕されたので、長老たちは教会の柱にしがみついて「主よ、お救いください。地獄にすべり落ちそうです。」と叫んだ程でした。
この話を聞いて私たちは、彼の偉大な説教に焦点をあて、それが聖霊の偉大な力であると考えがちです。しかしこの聖霊の偉大な動きのための道備えをしたのは「とりなしの祈り」だったのです!
その教会の全員が前日の夜通し熱心な祈りをしていました。私たちが歴史を見るときに、神の人たちが祈りによって人びとの魂を救いに導いたことがわかります。今も無名のヒーロー達が人に知られることなく魂の救いのために産みの苦しみをしていることを私は知っています。
真剣に失われた魂のために祈っているほとんどの人たちは、人に認められることや見返りを求めてそうしているのではありません。しかし、主はその人たちのために、天に永遠の報いを用意しておられることは確かであると、私は申し上げたいのです。(マタイ6:6)(終り)
10 04月
終末の惑わしとは
リック・ジョイナー
マタイ24章でイエスが終末のしるしについて語っておられる箇所を見てみましょう。先ず最初に主は「人に惑わされないように気をつけなさい。(マタイ24:4)」と言われました。ですから、最も顕著な終末のしるしは惑わしであると結論づけることができます。続けて主は惑わしの特徴について最も大切なことを話されました。
5節「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。For many will come in My name, saying ‘I am the Christ,‘and will deceive many.」
この箇所を「自分がキリストであると言う者が沢山現れる」と解釈し教える人が多くいますが、イエスがここで言っているのはそういう意味ではありません。「多くの者が『in His name 彼の名によって』現れ、彼、即ちイエスこそが本当にキリストであると言うけれど,それでもなお多くの人たちを惑わすであろう。」と主は警告されているのです。そのような者たちは実際非常に早く現れました。彼らは「イエスはキリストである」と教えつつも教会に律法のくびきを負わせ、信じる者たちをキリストから引き離してしまいました。
その後もそのような者が多く出た
歴史を通じて、「イエスはキリストである」と教えつつも聖書的ではない教義を混入した者たちが大勢現れました。モルモン教の教祖であるジョセフ・スミスはそのよい例であり、彼の人生を学ぶことは預言的な人にとって同じ過ちを犯さないために特に有益だと思います。
ジョセフ・スミスは著しい預言の賜物を持っていました。彼は1824年のクリスマスに、やがてアメリカに大きな内戦(南北戦争)が起り、それはサウス・キャロライナ州から始まると預言しました。彼はこの戦いの原因も正確に預言しました。その他彼の多くの預言が正しかったことが証明されました。しかし、彼が自分に与えられた啓示を、教義を確立するために用い始めたとき、彼は一線を越えてしまったのです。それは預言の賜物の誤った用い方であり、必ず誤りの結果を生み出します。聖書だけが教義を確立するものであり、預言は絶対にそのために用いてはなりません。
新約時代には預言がキリストのからだを建て上げ、主の御心を啓示し、神の民が備えるべき危機を知らせたことが分かります。よい例はアガボが世界に飢饉が来ることを預言したことや、他の預言者たちが、パウロがエルサレムでどのような迫害に遭うかを知らせたことなどがあります。又、預言は主と主の民との交わりを深めるために用いられることもあります。しかし、預言は教義を確立したり、変更したりすることには決して用いられません。カルトや分派がどのように始まったかを調べてみると、その多くは、ある人が預言的啓示を用いて新しい教義を確立しようとしたことに端を発していることがわかります。教義は書かれた御ことばだけが入れる領域です。真の預言がそのために用いられることは決してありません。
多くの人がウイリアム・ブラナムも同じ過ちを犯してしまったと考えています。彼は著しい預言の賜物を持っていて、ある一時期、世界を揺り動かしました。しかし彼はやがて奇妙なことや人びとの益にならないことを教え始めました。私は彼と親しかった人たちから聞いたのですが、彼のミニストリーのマネージャーが自分が信じていた極端な教えを推進するためにブラナムを利用したということです。ブラナムも後になってそれに気付き、深く悔いたそうです。ブラナムをよく知っていた人たちはすべて、彼が本当に謙虚で人の意見を素直に聞く人であったと言っています。それは彼が初代教会以来であろうと思われるような多くの奇蹟を行っていた最中でもそうだったということです。これは惑わしに関するもう一つのよい教訓です。
へりくだりは私たちが持つべき最も大切な徳の一つです。なぜならば「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブ4:6)」からです。又、人の意見を素直に聞くことは、本当の謙遜の土台となる特徴です。しかしサタンは、私たちを阻むことができない時に、私たちの後ろにまわって背中を押し、私たちが自分の長所で過失を犯すように図るのです。
私たちはいくら謙虚と言っても、聞いたことが真理かどうかを調べないほど謙虚であってはなりません。特に自分がそれを教えるならばしっかりと調べなければなりません。教会や同様のミニストリーをしていた多くの人たちが、ブラナムが教えていたことの幾つかに対して異議を表明しました。又、彼らはブラナムを異常に崇拝していた人たちに対してもその間違いを指摘しました。ブラナムをよく知っていた人たちはこの点でも彼が悔いていたと言っています。彼は自分が車の事故で火に包まれて死ぬことを正確に預言しました。そして、それは多くの人たちが彼を崇拝し始めたので、自分がどれほど唯の人間に過ぎないかを主が世に示すためであると言いました。
もし、人びとが自分を過大評価し始めたとき、それをそのままにしておくならば、私たちは重大な過失を犯し、大きな惑わしに人びとを陥れるのです。使徒行伝の中で、パウロとバルナバが奇蹟を起したので人びとが彼らを崇拝しようとした時、彼らは群衆の中に駆け込み着物を裂いて懸命にそれを止めました。誰であっても十字架を真に仰いだ者が、主が受けるべき栄光を自分が受けるのを許すならば、それは最大の不敬行為であり、恐ろしい惑わしの始まりです。
ジョセフ・スミスやウイリアム・ブラナン、そしてその他同じように道を逸れた人びとから私たちが最も学ぶべきことは、自分があるミニストリーの中でどれほどの権威を持っていたとしても、私たちはその権威の領域の範囲内にとどまるべきであり、自分がしたいと願う他の領域でも同じように油注がれていると思い込んではならないということです。預言の分野で油注がれていたとしても、教師として油注がれているというわけではないのです。その逆もまた然りです。私たちは自分の召しを越えて活動しようとしている人を見分ける必要があります。主はエペソの教会が「使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことを知っている(黙示録2:2)」と称えています。
もし私たちが使徒ではない人を使徒として受け入れるならば、真の使徒職を軽視し、自分の霊的通貨の価値が下がるのを許し、自分を惑わしの危険に曝しているのです。今日、ほとんどすべてのリーダーが自分は使徒だと言っています。その中には家庭集会を導く力もない人もいます。そして私たちはどうして教会がこうも弱々しく惑わしや愚かなことに翻弄されているのかと訝しがるのです。
一方、ユダの手紙にある「不平を鳴らす者 fault-finders(あら探しをする人)と言われる人たちが多くいます。啓示のシンボルではそういう人たちはしばしば動物のサイで表されます。サイは二番目に大きな動物ですが、視力が弱く、よく見えないものを片っ端から攻撃します。あら探しをする人たちは大抵教会が進むべき方向に対するヴィジョンがなく、理解が浅く、偏った見解を持っています。彼らは自分に同意しない人を攻撃し、分裂を引き起こし、キリストのからだに大きなダメージを与えます。彼らも又惑わす者たちです。
カルトを見張っている人たちが、彼らの見張っているものに似てくるのに皆さんは気がつかれましたか?私たちは自分の見ているもののイメージに変えられていくのです。ですから私たちは何よりも主の栄光を仰ぎ見るべきなのです。カルトを調べてその情報を与えてくれる人たちがいるのは感謝ですが、カルト研究に一番情熱を注ぐことは、私としては賛成できません。私たちは敵の策略を知るべきですが、黙示録2:24には「サタンの深いところを知っている人たち」に対する警告が書かれています。私としては、惑わしや偽りに関する研究に力を入れている人たちの意見をあまり信用しません。カルトについて正確で有益な知識を持っている人たちは、ほとんどの場合、そのグループに手を差し伸べてミニストリーをする目的で研究しています。それはパウロがピリピ1:9で「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり...」と言っている通りです。
神の御こころでないものが惑わし
実際のところ、あるグループの人びとを正しく識別し理解するためには、その人たちへの愛がなくては不可能です。愛以外のものはすべて私たちの知識と識別の両方を歪めてしまいます。
私があるグループの人たちにミニストリーをしている人の識別を信用して、そのグループの欠点を捜すだけの人の言うことを信用しないのは、この理由によります。
私たちは聖書に基礎をおいていない教えをすぐに鵜呑みにするときに惑わされます。又ある真理が、自分が思っていたのと完全に一致しない方法で示された時にそれを認められないほどにパラノイドや高慢である時も惑わされるのです。パリサイ人たちは、メサイアの到来を誰よりも持ち望んでいたにもかかわらず、主が来られたときに認識することが出来なかったばかりか、主に最も敵対する者となってしまいました。これは実に最悪の惑わしではないでしょうか。これと同じ霊が今多くのクリスチャンの中で働いているのに気がついておられますか?彼らは主が今日しておられることを猛烈に攻撃しているのです。
聖書に書かれているエルサレムに対する最大の裁きの二つ目は、主の訪れを知らなかったことから起りました。神からであるものを神からではないと言うことや、神から遣わされた人を否定するのは重大な過失です。しかし私たちはメッセンジャーをチェックすることを決して怠ってはなりません。
いのちの道の両脇に溝があるのです。もし私たちが今まで聞いたことがないという理由で真理を拒否するならば、私たちは主にではなく恐れという主人に仕えているのです。もしそのように生きているならば、私たちはすでに片側の溝に落ちてしまっているのです。もし私たちがベレアの人のように気高い霊を持たず、新しく聞いた教えが聖書に堅く基礎を置いているかどうか調べずにあまりにも容易に受け入れるならば、私たちはいのちの道のもう片方の溝に落ちているのです。
いのちの道のクリスチャンの歩みは、それら両極端からの攻撃を識別しそれに屈しないための戦いの連続です。いのちの道から逸れないと強く決意しているクリスチャンの中には、過去にどちらかの溝に落ちた経験のある人たちがいます。使徒パウロはその一人です。自分は一度も惑わされたことがないと誇る者は、一度も事故を起していないという理由でタイタニックの船長に選ばれたキャプテン・スミスのようなものです。惑わされた経験を持ち、そこから救われた人の方が、遜りを学び、神からの恵みを受けることができるのです。彼らは自分の知恵に頼らずに主に信頼することを学びます。
両極端からの攻撃は私たちの訓練の一つとして主が許されているものです。それによって私たちは知恵と主への信頼において成長します。それは「主が道を示してくださる」という信頼から、「道であるお方への信仰」への成長です。主は道であるばかりか、真理でもあります。私たちが惑わしを避ける一番の道は、惑わしを見分ける知恵を持つだけではなく、主の後に従うことによります。私たちが主を知れば知るほど、更に早く簡単に、それが主からのものではないと見分けることができるのです。
次のことは重要です。惑わしとはただ単に間違った教義を信じるだけではなく、主の御心の中にいないということです。あなたがすべての教義を正確に知っていたとしても、主の中にとどまっていないならば、あなたは惑わされているのです。第一コリント13章で言われているように、私たちがすべての教義を知っていて、神の偉大な奥義を知っていても、愛がなければ何の値うちもないのです。もし私たちが真理を愛するならば、正確で健全な聖書の教義を求めるでしょう。しかし真理の中を歩むというのはそれだけではありません。それは真理であるお方の中にとどまることであるのです。(終り)
29 03月
主により頼む
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン
(祈り会でのメッセージ)
あなたは神に拠り頼んでいますか? イエスを信頼していますか? 本当にそうですか? ではどうして心配しているのですか?
お父さんが運転している
家族5人でアイダホー州をドライブした時のことを私は思い出します。私たち兄弟三人がまだ小さかった時でした。雪が積もっていたので車が突然滑り出し、道から逸れそうになりました。車にチェインを装備していなかったからです。
両親はすぐに異言で祈り始めましたが、私たち兄弟はけらけらと笑っていました。私たちにとってそれは愉快なことだったのです。子供の私たちにはその時の私たちが非常に危険な状態にさらされているなどとは思いもよりませんでした。「お父さんが運転しているんだから、危険なことなどないに決まっている。」と信じきっていました。子供にとって父は、常にすべてをコントロール出来る人であったのです。「車がつるつる滑って回っても、それはお父さんが何かの理由でわざとそうしたに違いない。危険など一つもない、お父さんが運転しているのだから。」と私たちは信じていたのです。
皆さんは、「それは本当に大変なことが起っていたんだよ。」と言われるかもしれません。しかし、当時の私たちにはそれは面白いことであったのです。
あるいは「あなたは私が抱えている問題の大きさを知らないからそう言えるんですよ。」とあなたは言うでしょう。
ではお聞きします。「天のお父さまが運転しているのではないのですか? あなたは神を信頼していますか? 本当にイエスを信頼していますか?」
主イエスが十字架につく前、弟子たちに何と言われたか知っていますね。もし私だったら こう言っていたでしょう。
「よく聞くんだよ。とても大変なことがもうじき起ころうとしている。みんなとても悲しむだろうし、それは無理もないことだ。すごく困難な状況になるから互いに励まし慰め合うようにしなさい。」
でも、イエスはこう言われたのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
あなたが心を決して騒がせないためには、イエスのこのことばに従わねばなりません。
主に拠り頼む
皆さん、私は今ほとんど不可能に近い3つの厳しい状況に直面しています。同時に3つです。毎朝起きるとそれは私の面前にあります。一日中それは私を苦しめます。寝るときもまた、それはまだ面前にあります。私はこの問題とともに24/7、365日、生きているのです。私は自分の祭壇の前で先週私が語った説教に従うようにと自分に幾度も語りかけています。
この祈り会に来る直前にも、私は一つの状況に関する否定的なメールを受け取りました。私は「ああ、どうしよう。神よ、どうしたらいいか教えてください。」と、とっさに思いました。でもすぐに「待てよ、確か日曜日にそのような祈りは避けるべきであるという説教を自分でしたのではなかったのか...」と思いました。そして「神よ、私はあなたに信頼します。心から信頼します。」という祈りに変えました。
心配する心から発せられる祈りは意味がありません。私は「主よ、どうしたらいいのか教えてください。」と祈るのを止めて、「主よ、あなたに信頼します。どうしてこうなっているのかは理解できませんが、わからなくてもいいのです。理解することが大切なのではありません。あなたを認め、信じ、喜び、感謝します。あなたを信頼します。自分の理解に頼りません。」と祈り始めました。
パウロは第一テサロ二ケ5:17で、「絶えず 祈りなさい。Pray without
ceasing.」と言っています。それは神が答えを示してくださるまで祈り続けることを意味しています。答えは来ます。皆さんに保証しますが、神は、私が置かれている3つの状況に対する答えを必ずくださいます。しかしその答えは、私が「神よ、私はどうすればよいのか教えてください!」と叫んだから来るのではなく、むしろ、「神よ、私はあなたを信頼します。」と言い続ける、私の神に対する心からの信頼に対して神が答えてくださるからです。
信頼するのは忘れることではない
「神を信頼する」ことに関して次のことを知らねばなりません。信頼は恐れないことではありますが、忘れることではありません。多くの人は、神に信頼していると言って頭から心配事を追いやって、もう考えないようにします。もう考えない、という事は、あなたが神に信頼しているということではありません。それは時として「怠惰」であり、時として「無責任」ということです。
信頼とは、しっかり心に留めていて、それと同時に恐れてもいないということです。主の御前で恐れずに考えることです。ことばを代えれば、恐れの心からではなく信頼の心から主に祈ることです。
つまり次のように祈るのです。「主よ、私はこの問題をあなたに差し出します。私はあなたに感謝し、この件についてあなたを信頼いたします。それはあなたの御手に中にあります。あなたが私のために答えを持っておられることを感謝します。そしてあなたにとってそれは難しいことではありません。私が不信仰に陥ったときは、それはとても難しいことに思えました。でも信仰の中にいるとき、『私の天のお父さんが運転しているのだから、この車は絶対に道を逸れない』とわかります。私は心からあなたに拠り頼み、自分の理解に頼みません。」
信仰で祈るとはこういうことです。神が答えをくださるまで、この問題から目をそらしません。そして私の祈りのテーマは「答えをください!」ではなく、「主よ、あなたに信頼いたします!」というものです。
今あなたの心を悩ませているものが何であったとしても、今主に明け渡しましょう。主に明け渡すというと、主がそれを取り去ってくださると考えがちです。でもそうではありません。自分の夫や妻のことで悩んでいる人がいるでしょう。神はあなたから配偶者を取り去ることはありません。配偶者に関する重荷は取り去ってくださるかもしれません。あなたは問題を主の御前に差し出し、答えが来るまで主の臨在の中でそれを支え続けることを学んでいるのです。それを訓練してください。
箴言3:5に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」とあります。今あなたの心があなたに何と言っているか注意してください。もしあなたが心を悩ませているならば、あなたは主に拠り頼んでいないことがわかるのです。
愛において成長する
パウロは、エペソ4:15で「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。」と言っています。
しかし、ほとんどのクリスチャンは愛においてではなく、恐れにおいて成長しています。恐れにおいて成長するとは、あなたが恐れで訓練されるということです。毎日、あなたがすでに恐れていることについて新しい面を発見するのです。私たちは恐れから本を読んだりインターネットで調べたりして、もっと完全に恐れることができるように学んでいるのです。
完全な愛はすべての恐れを取り除きますが、完全な恐れはすべての愛を取り除きます。少しでも恐れが忍び込むと、すべての愛を追い出してしまうのです。しかしあなたが恐れで一杯になっていても、ほんの少しでも完全な愛が入ってくれば、すべての恐れは追い出されるのです。
「主よ、今、私たちはあなたの完全な愛に心を開きます。恐れではなく、聖い愛において完成されるようにします。」と祈りましょう。
一時的無神論者
心配とは、神は不意打ちを喰らったと考えることです。
心配とは、神はそれを知らなかったと考えることです。
心配とは、神にはご計画はないと考えることです。
心配とは、神はどうしていいかわからず、答えもなく、この状況を取り扱う力はないと考えることです。
神にとって難し過ぎることがあるでしょうか?それがあなたに問われていることです。詩編14:1に「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」とあります。クリスチャンが一瞬にして無神論者になってしまうのは興味深いことではありませんか。つまり心配とは、状況によって一時的に無神論者になることであるのです。
私たちは心配を始めると愚か者になります。イエス・キリストを信じる者として出来る一番愚かなことは、心配することです。心配は私たちを愚か者にします。
どうすることもできなくなると、「神はいない」と言う。行き詰まると、「神はいない」と言う。今の状況に答えがないと、「神はいない」と言う。癒しがないと、「神はいない」と言う。悲しみが癒えないと、「神はいない」と言う。
このように思うとき、心の中で神はいないと言っているのですから、私は愚か者になったのです。私は頭の中では言わないかもしれません。でも心の中で言うのです。頭が「神よ。私はあなたがおられることを知っています。」と言ったとしても、もし私の心が恐れ、心配しているならば、頭が必死で求めている真理を私の心は拒み打ち消しているのです。心で主に拠り頼んでください。
クリスチャンの多くは頭の中だけで信頼しています。「私は主に信頼する」と頭で考えても、自分が考えているように心が従っていないのです。
信頼は究極的に「考え」ではなく、「心のあり方」です。
今あなたの心を主に明け渡してください。今あなたの愚かさから抜け出してください。あなたは恐れの中をあまりにも長く歩んできました。そのような無神論的愚かさから抜け出してください。心を信仰にもどしてください。
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、今肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:1−3)
今は肉を抜け出して霊に来るときです。肉の心配から抜け出して、霊で確信する時です。不信仰を捨て去り、信仰にくるときです。声に出して宣言しましょう。(終り)
23 03月
神の御心とは
ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン
御心はリストではない
神の意志、御心(the will of God)とは、神が望んでおられることです。あなたの人生に対して神が何を望んでおられかをはっきりと知り、神の願いを成就するのがあなたのつとめです。私たちは往々にして神の御心とは規則表だと思ってしまいます。「これこれをするように、これこれはしないように」というリストです。「主よ、あなたは私にこのことをして欲しいですか?して欲しくないですか? これは罪ですか? 罪ではないですか?」というような考え方です。
「してはいけないこと」に関しては、リストに書いてあることさえしなければいいだろうと私たちは考えてしまいます。しかし神の御心とは、最低ぎりぎりの許容範囲のことを言っているのではありません。私たちに対して神が願っておられることが御心です。「神よ、あなたは何を望んでおられるのですか?」と私たちは訊かねばなりません。
人の願いというものは常に同じではありません。もしあなたが私に「何を食べたいですか?」と訊いたとしたら、私の答えはその日によって違います。もし神の私たちに対する願いが「するべき事、してはいけない事」というリストになっていて、それさえ守っていれば自分は神の御心を毎日満たしているのだと考えるならば、それは間違いです。神はそのような規則表に収められるような方ではありません。毎日、今日神が願っておられることは何かを知る必要があります。ですから、もしあなたが神に仕える者となりたいのならば、神の願いを見出すように努めねばなりません。
あなたのまわりの人の「御心」
私たちが神の御こころを行なうことを阻止するものがあるとすれは、その第一として、私たちが神ではなく「自分に対する人々の希望」を行おうとするところにあります。即ち、仲間、妻、夫、親、牧師、友人たちの「御心」を行ってしまうのです。
あなたに対するある人の希望や願いが悪いものとは限りません。多くの場合、その人はあなたにすばらしいことをしてほしいと願うのです。あるいはその人があなたに望むことと、神があなたに望むこととが同一かもしれません。又ある時は、その人はあなたに「神の望むようにしてほしい」と言うかもしれません。
しかし、ポイントは何をするか、ということではなくあなたの心のあり方なのです。あなたはその人が望むからするのか、それとも神が望むからするのか、それが問題です。あなたの心の動機が重要なのです。もしあなたがある人の願いのゆえに何かをするならば、いつかあなたはその人を恨むようになります。いつかその人に腹を立てます。なぜならば、事がうまく行かなくなったとき、あなたは誰の責任だと言いますか? その人でしょう!
あなたはこう言うのです。
「あの人の言うことなど聞かなければよかった!」と。
あなたはその人の願いを実行するべきではなかったのです。あなたの神との歩みに対してその人には責任はありません。彼はあなたにただ提案したのです。あなたはその提案を携えて自分の祈りの場所に入り、神の御心を直接聞くべきだったのです。残念ながら多くのクリスチャンは、ある人の願いが神の御心であると取り違えて行動してしまっています。
牧師に言われたからという理由で奉仕をしているとしたら、あなたは神の御心からはずれています。牧師に従順であるために行動したのならば、あなたは神に対して従順ではありませんでした。その結果、あなたは燃え尽き、失望、落胆などを経験するかもしれないのです。
外面への希望と内面への希望
ある人のあなたへの希望は、常にあなたの外面的行動に関してです。その人はあなたの心に対しては権威を持ってはいないからです。あなたに何かの行動を取ってほしいというのがその人の願いであり思いです。しかし神の御心は、外面的な行動ではなく、あなたの内面の心に関することです。
又、あなたが神の御心を求めて祈っていると思っていても、実際はほとんどの場合、あなたは外側の行動について祈っています。
「ああ神様、この人とデイトするべきでしょうか。」
「ああ神様、どの教会に行くのをお望みでしょうか。」
「ああ神様、この人と結婚するべきでしょうか。」
「ああ神様、お金を何に投資したらいいでしょうか。」
しかし神様は、あなたが誰とデイトするかよりも、どのようにデイトをするかに関心があるのです。第一テサロニケ4:3、4に「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたは不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち・・・」とある通りです。
又、1テサロニケ5:16−18にこう書かれています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(for this is the will of God in Christ Jesus concerning you.)」
あなたに対する神の御心を行ないたいですか?
では、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝してください。それこそが神の御心であるからです。
御心は私たちの思いから
神はあなたがどの職場にいるかよりも、どのように働いているかに関心を持たれています。どんな車を運転しているかよりも、あなたが運転しているときに何を考えているかに関心を持っておられます。義への道は外側のことにあるのではなく、あなたの思いのうちにあるのだからです。神の御心は私たちの思いから始まるのです。
私たちは状況によって霊的に左右されてはなりません。
私たちは仕事が見つかった、給料が上がった、と言って喜びます。しかし、聖書はいつも喜びなさいと言っています。それはあなたの状況がどうであれ喜ぶことを止めないということです。主にあっていつも喜ぶとは、あなたが主にある時は喜ぶ理由があるということです。サタンはあなたの喜びを奪うことによって、あなたを神の御心から引きずり出してしまうのです。
仕事が見つかったから喜ぶのではなく、あなたが主にあるから喜ぶのです。イエスはルカ10:20で「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるさるされていることを喜びなさい。」と言っておられます。それこそが大いなることです。イエスがあなたを愛しておられる、それこそが大いなること、絶えず喜ぶべきことなのです。
成長には順序がある
私が大学に入るとすぐにアドバイザーが、各学年の必須科目、卒業するための単位数などを教えてくれました。すべてに順序がありました。2年生の授業を取るためには一年の授業を取る事が必要でした。
入学してすぐに4年生の授業をとって学位を取りたいと言ったらどうでしょうか? それは無理です。各学年をスキップすることはできません。
それと同じように、霊の成長にも順序があります。真理はあなたの中で正しく整理されねば、あなたを真の自由に導くことはできません。正しい順序を踏まなければ、あなたは真理を知ってはいても自由にはなれないでしょう。神の御心に関しても、ほとんどのクリスチャンは1、2、3年を通りすぎて直ぐに学位をとろうとするのです。
箴言3:5、6を見てみましょう。
1年生「心を尽くして主に信頼せよ。」
2年生「自分の知識にたよってはならない。」
3年生「すべての道で主を認めよ。」
4年生「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(He will direct your paths)」
しかし、私たちはどうするでしょうか?
すぐに4年生になって「ああ主よ、私の行く道を示してください。」と言うのです。神は「しかし、あなたは私を信頼してはいない。」と言われます。でもあなたは「ああ主よ、道を示してください。」と言います。
神は「でもあなたは自分の知識にたよっている。」と言われるのです。
私たちが「ああ神よ、私の経済をどうすればよいか教えてください。仕事はどうすればいいでしょうか。この状況で何をすればよいかを教えてください。」と祈り始めるならば、私たちは一年生に戻らねばなりません。
神は「あなたは全く焦点がずれているよ。あなたはわたしを信頼していないから、何か悪いことが起こるとすぐにパニックになるんだよ。」と言われるのです。
神に「道を示してください」と頼む代わりに、どうすれば神を信頼できるのかをお聞きするべきです。
又、自分の悟りに頼らないとは、「主よ、私は理解ができません。しかし私は自分の悟りを知る必要はありません。私は理解できませんが、あなたが知っておられます。」と言うことです。
そうすれば、また、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝することが出来ます。そして私たちは主の御心の中にいることが出来るのです。たとえ何かに失敗したとしても、喜び、祈り、感謝することをやめないならば、私たちは神の御心の中にいるのです。(終り)
16 03月
新しいレベルの使徒的恵み
ダッチ・シーツ
私が見た夢
テレビのニュースを見ますと、アメリカの現状をこれほどまでに懸念したことは未だかってなかったと思います。しかしながら、聖霊にチャンネルを合わせますと、これほど励まされたことも今までにはなかったという強い思いを持ちます!事実過去25年間で、今日ほどアメリカが正しい方向に変ると信じ期待したことはありませんでした!
去年の11月でしたが、私が今までで見た中で一番鮮明な夢の一と言える程鮮やか夢を主からいただきました。聖霊が語ってくださったことによれば、今まさに私たちは未だかってない新しいシーズンに入りつつあることを、私は100%信じるに至りました。
この夢の中で、私は主から受け取ったことばをある使徒的な友人に伝えていました。私は主から聞いたことばを一言も違えずに伝えようと、ゆっくりと慎重に次のように語りました。
「新しいレベルの使徒的恵みが、今人びとに配られています。その恵みによって与えられつつある賜物は、霊的に言っても spiritually 又、目に見える形としでも and physically、新しいレベルの大きなものであるのです。」
そして気が付いたことは、私は夢の中でそうであったように、目が覚めた後でも、特に私は最後の2つのことばに注目させられたのでした。それは「又、目に見える形で and physically」ということばです。
この夢を通して主が語られたことは、私たちはこれから神の御国が地上に降りて来るのを具体的に目に見える形で見ようとしている、と言う意味であると私は信じます。すなわち、教会は今まで私たちが霊的に戦って来たことが現実となり、今までに約束されたことが成就されるのを見ようとしていると言うことです。そしてこれからは私たちは祈りの結果をずっと早く見るようになるのです。私たちは祈った結果、いつか何らかの変化があらわれることを信じるのではなく、素早く目に見える形で変革が起るのを見るのです。多くの魂が将来救われると信じるだけではなく、大勢の人がキリストのもとに来るのを私たちは現実に見るでしょう。私たちは霊的賜物をただ求めるだけでなく、実際にしるし、不思議、奇蹟を賜物の現れとして見るようになるのです。
この新しいレベルの使徒的恵みは、使徒的権威を使徒的な力として御国において行使し、それにより実際に具体的でリアルな変化を地上にもたらすでしょう。使徒4:33には初代の使徒たちがイエスの証をする時に豊かな恵みを受け、大いなるしるし、不思議、力が彼らを通して解き放たれていたと書かれています。使徒的な教会に神からの恵みの窓が今開かれています。私たちの人生で最大の恵みの窓です。それは御国の権威といのちを地上に解き放つものです。天のブループリントをどんどん遂行するのに必要な神の戦略と力が、全面的に解き放たれる時に、私たちは今入ろうとしているのです。
教会の リーダーの多くが、私たちはすでに私たちの油注ぎと霊的召命の中をフルに歩んできていると考えています。しかし実際は、今までのものはこれから来ようとしているものへの備えであったと私は思います。過去数年間は、主が私たちの賜物を精錬して、この新しい恵みの領域のために私たちを調えておられたシーズンだったのです。主は私たちの心を取り扱い、多くの啓示を解き放たれ、多くの重要な連携関係を結ばれました。
これらの準備によってもたらされる満ち満ちた恵みのシーズンへ踏み出すようにと、主は今私たちを招いておられるのです。今まで主が私たちの内側でしておられたことを、今は私たちを通して外に向かって解き放ちたいと願っておられます。
チャンスの窓
神が恵みを解き放つと言われる時、「恵み grace」とは「受ける資格のない私たちへの好意」という意味だけではないことを理解することが重要です。恵みは、超自然の能力、私たちが願ったり、考えたり、想像したりすることをはるかに越える能力が解き放たれることをも意味しています。(エペソ3:20参照)
第二コリント9:8で使徒パウロは「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」と言っています。これこそ主が今のシーズンに私たちの上に解き放ってくださる恵みの種類です!すべてのことに満ち足らせるあふれるばかりの恵みです!
このシーズンに入ろうとしている今、次の6ヶ月が非常に重要であり、私たちが決断することはこれからの私たちの人生をある意味で明確に定めることになります。今のカイロスのシーズン、私たちはこの恵みの傾注を受けるために神を熱心に求め、正しい位置に立つ事が大切です。そうするならば、私たちは新たなマントルを受け、新たな召しを受け、新たな活力を得て、未来へと勢いよく送り出されるのです。
歴史のかなめに私たちは立っている!
チャンスの窓は開いています。そしてあふれるばかりの恵みが用意されているのです。主が解き放っておられる宣言に私たちが一致するようにと主は招いておられます。そうする者には、今まで経験しなかったような方法で、神の力の現れがあるでしょう。それを信じ、その力を受け、今神が全地で起されつつある使徒の軍勢に参加してください!(終り)
Dutch Sheets
Dutch Sheets Ministries
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