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Walk With God Ministries


10 08月

預言の矛盾        カービー・クレメンツ           2015年8月10日


預言の矛盾

 

カービー・クレメンツ

 

預言とは神が人を通して 神の目的、意図を私たちに語られる方法です。終末に関する預言もありますが、個人に与えられる預言もあります。預言は必ず吟味されねばなりません。

 

預言の出所を見極めること、意図を知ること、どのようにそれに応答するかが重要です。出所は、神か、サタンか(サタンも預言ができる)、それとも人間か(人間も自分の霊で預言ができる)です。その預言がどんな口調で語られるかで判断してはなりません。重々しく荘厳であるから神が語っているとは限りません。

 

また、預言の意図はなんでしょうか。多くの無駄な、意味のない言葉が連ねられることがあります。また一つの預言だけで事を決めてはなりません。その預言は励ましであるか、矯正であるか、インストラクションであるかも見極めねばなりません。その預言に対してあなたはどのように対応、応答するのかも大変重要なポイントです。

 

預言には二つの次元があります。

一つは「預言のミステリー」であり、もう一つは「預言のクライシス(危機)」です。

ミステリーとは預言で明らかにされないで隠されている部分です。神は初めから終りを告げることができるお方ですが、その間のことを言われないことがあります。それが教会にフラストレーションを与えるのです。例えば、神はパウロにこう言われるでしょう。「『あなたは異邦人に福音を伝えるわたしの選びの器です』とわたしは言いました。でもわたしが言わなかったことがあります。あなたは打ち叩かれ、町から追い出され、兄弟から裏切られ、マルコは途中で帰ってしまい、バルナバとは別行動をするようになり、銀細工人に暴動を起こされ、、、ということは言いませんでした。」と。神はパウロが人生おいて経験する途中のプロセスを全部は明らかにはされませんでした。

 

「預言のクライシス(危機)」というのは、預言を受けた者が予期するものと、実際に起ることの間に違いがある時のことです。私たちが予期し期待することは、必ずしも私たちが受けるものとは違うのです。預言を聞いたとき、私たちはその言葉の意味することは分かったと思ってしまいます。「主は私を繁栄させると言われました。だから私は繁栄するのです。」と考えるのですが、次に起るのは破産だったりするのです!

あなたは主に「私を繁栄させると言われたのではないですか?」と訊ねます。すると主は「わたしはあなたを確かに繁栄させているよ。」と言われます。つまり主はあなたを繁栄させるためにプロセスを通されているのです。プロセスとはある時は経済的繁栄のために必要なものであり、それは困難や問題をあなたに与えることかもしれないのです。

又、神が「わたしは何々をする」と言われるとき、神お一人が何かをしてくださるというのではありません。神とあなたが共にそれをするのです。神は「今日」とか「直ぐに」「とても早く」「一日で」とか言われます。しかし主の一日は千年かもしれません。第二ペテロ3:4にあるように「キリストの来臨の約束はどこにあるのか、先祖たちが眠った時からこのかた、何年も創造の初めからのままではないか。」という人たちが出てきます。それに対してペテロは「あなた達は主の方法、主の時、シーズンというものを知らない。」と言っています。

皆さんの中にも神の時、シーズンが分からない人がいるのではないでしょうか。ここに預言の解釈の問題があります。あなたが何かがもう起るはずだと思い、期待して待っているとき、それが起らないのです。

期待したことが起らない時、あなたはどうしてフラストレートするのでしょうか。それは私たちがすべて基本的な必要を持っているからです。

一つは、受け入れられるということです。拒絶されるのを好む人はいません。あなたは保証、確信が欲しいのです。

二つ目は、私たちがすべての面で満たされたいと思うからです。経済的にも家庭的にもすべてがうまく行っていることを願います。そうではないと自分は不幸だと思います。経済が保証され、車が故障せず、子どもがいい子ならば、あなたは幸せなのです。

三つ目は自由です。私たちは基本的な3つの心配をかかえています。

1.神は私を癒してくださるだろうか。

2.私は暮らして行くのに十分なお金を得られるだろうか。

3.私は残されて一人ぼっちにならないだろうか。

 

私の愛する妻サンドラは一ヶ月前に亡くなりました。でもこれはすべての人にいつかは起ることです。知ってますね。人は生まれ、そして死ぬのです。私たちはそれを考えないようにし、無視してあまり話さないようにします。私たち夫婦もそうでした。でも3年前に主が私の心に、サンドラがいなくなる時のために用意を始めなさいと語られたのです。うちでは彼女がすべてのビジネス関係の経理や保険のことなどを管理していたのですが、主は私にそれらのことをちゃんと聞いておきなさいと言われました。サンドラが天に召された今、私はそうしたことを感謝しています。

私たちは残されて一人になることを考えたくありませんが、これは私たちが持つ基本的な問題であり問いなのです。

 

もし不治の病にかかった時、神は癒してくださるだろうか、と私たちは疑うのです。言っておきますが、神は今も癒し主です、神は今も世界を治めておられます、今も地を治めておられます、神にとって不可能なことはありません、神は無から有を創られる方です、神があなたに一言語られるとあなたの世界は変革されます。サタンは「本当に神はそう言われたのですか?」とあなたにささやくのです。「神があなたと共におられるのなら、どうしてあなたはそんな問題を抱えているのですか?」とか「あなたは忠実に神に仕えていたのに、なぜ人々はあなたから離れていくのですか?」とサタンは言います。

往々にして私たちは、結果で善し悪しを決めるような信仰を持っています。でも真のキリスト教はご利益宗教ではありません。もしあなたが何かを得られるから神を信じているのならやめてください。それはサタンの教義です。

「私たちの賛美が天に上ると、祝福が下りてくる」という歌が以前よく歌われました。でももし祝福が下りてこなかったらどうしますか。私たちは物事がうまく行っているときにだけ賛美するのです。私は教会が賛美をするときの様子で、その教会に問題があるかどうか直ぐわかります。証しというのは物事が順調なときにするものではありません。「このような問題が起ったが、私は主を信じます。」というのが証しです。「私は人生で大事なものを失いましたが、神に対して何の疑問や不満もありません。」というのが証しです。私の妻が召されたことに対して私は神に対して何の疑問も不満もありません。

 

まずあなたの神学、教義が正しいかどうかチェックしてください。神はあなたを決して離れず、見捨てません。皆さんの中には神に見捨てられているように感じている人がいるでしょう。神に従った結果が全く裏目に出たという人がいるでしょう。その時私たちは「私は本当に神から聞いたのだろうか?」と疑問を持ち始めるのです。

神はあなたの父であられ、あなたの最善を願っておられます。あなたに耐えられないような試煉を与えられません。のがれる道を備えてくださいます。神はあなたを見捨てることはありません。神はあなたが取るべきではない道は閉ざされ、行くべき道を示してくださる方です。願う道が閉ざされた時、あなたはサタンが阻んだと思うかもしれませんが、神がそうされるのです。ですから道が閉ざされたときは神に感謝してください。祈りが聞かれなかった時も感謝してください。神はもっとよい事をしてくださるからです。

 

私たちが一つの教会を始めた時、その教会はすばらしい働きをするという預言を神からいただきました。そして多くのすばらしいことが起きました。メンバーが一万二千人のアメリカで最初のメガチャーチとなり、様々な活動をしました。しかしある時、問題が起きたのですが、人々は悔い改めをしませんでした。その結果、教会は神の預言とは違う状態になったのです。これが預言の矛盾です。人々は教会を去り始めました。それで私のミニストリーは終ったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

預言がその通りに実現しなかったとき、神は私を見捨てたのではないことを私は自分に言い聞かせました。

 

みなさんの教会も預言が実現しないということを経験しているかもしれません。しかし神様はジグザグに進む神様です。ミニストリーにいろんな変化がある時、それは油注ぎのレベルが上がったということです。預言者は物事を目の前に見るので「直ぐに起る、もう起っている」かのように語ります。そして直ぐに起らなかったとき、私たちは時の法則(いつがその時か?)を知らねばなりません。場所の法則(神の選ばれた場所はどこか?)もあります。人間のつながりの法則(誰が集うのか?)もあります。経験の法則(プロセスとして経験せねばならないことは何か?)もあります。

神はあなたの献身をご存知です。神はあなたに豊かに報いてくださる方です。ですから、どのような時も喜んで神が最善をしてくださることを信じていてください。(終り)

 

これは3週間前に私たちのLiving Hope Christian Center (Pastor Benjamin Robinson) に来られた時のメッセージです。師の略歴は下記の通りです。

Dr. Kirby Clements Sr. received a B.S. in Biology from Morehouse

College; a Doctor of Dental Surgery from Howard University School; and

became the first African American to receive a master degree in

prosthetic dentistry from Boston University School of Graduate

Dentistry.

 

Under the leadership of Bishop Earl Paulk, and a host of pastors,

Clements helped Cathedral of the Holy Spirit expand into a fast

growing multicultural mega ministry with over 12,000 members and

outreach functions that touched the world.

 

Along with his wife, Sandra, Clements founded the Clements Ministries

in 1994 to provide Bible-based ministry seminars, workshops and books

with provocative words of wisdom that can be easily applied in all

areas of life. He was ordained as a bishop in 1999.

 

Dr. Clements has authored 11 renowned books and hundreds of papers

dealing with spiritual and practical issues of the Christian faith and

church structure. He has ministered extensively, both nationally and

internationally to countries in Africa, Asia, Australia, the

Caribbean, Europe, North America, and South America.

 

Currently, Dr. Clements is bishop of The Community of the Holy Spirit

in Decatur, Georgia which he organized, and presides as CEO of The

International Connection of Ministries, an outreach organization that

provides training and support to ministry organizations worldwide.


03 08月

共に集うこと(エクレシア・教会)の大切さ         ベンジャミン・イスラエル • ロビンソン   2015年8月3日


共に集うこと(エクレシア・教会)の大切さ

 

ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン

 

 

ヘブル10:19−25

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 

ヘブル書の著者はこの箇所で、まずイエスを信じるものすべてが個人的に持っている特権について書いています。私たちはイエスの血によって至聖所に入ることができます。これは私たちが一人ですることです。あなたがどこにいても、あなた一人でイエスを通して聖霊の力により、神と個人的な関係を持つことが出来るのです。至聖所には、以前は一年に一度贖罪の日に一人の祭司が入ることができただけでした。しかし今新しい契約のもとにある私たちクリスチャンは、いつでもそこに入ることが出来るのです。

 

イエスが十字架上で息を引き取られたとき、聖所と至聖所を分けていた神殿の垂れ幕が上から下に裂けました。長さ12m、厚さ15cmの幕が上から神によって裂かれ、至聖所が露になりました。至聖所とは神の臨在があるところであり、それが今やすべてのクリスチャンのために開かれたのです。あなたは大祭司である必要も、特別な装束を身に纏う必要も、生け贄の血を携える必要もないのです。あなたが主イエスを信じるならば、大胆に神の臨在の前に行くことができます。

 

この聖書箇所ではこのように、まず私たちが一人ですることが書かれています。あなたは祈るために教会に来る必要はありません。牧師に言われなくても聖書をいつでも読むことができます。誰に言われなくてもいつでも神とお話ができるのです。個人的な関係をいつでもあなた一人で主と持つ事ができます。

 

しかしこの事実が、ある人たちに共に集まることや教会に集うことは重要ではないという考えを持たせてしまいました。もし私たちがキリストの血を通して聖霊の力により神との個人的な関係を持つことが出来るのなら、教会は何のためにあるのでしょうか。神の御座に近づく時、私たちに必要なのはイエスの血潮だけです。しかし、23節にあるように「動揺しないで、しっかりと希望を告白する」ために、私たちはお互いが必要です。もしあなたがイエスと共に歩み最後まで堅く立ちたいならば、そして、もしあなたがただ口先だけやただ一時の体験だけの信仰ではなく、最後まで揺るぎない強さの信仰を持ちたいならば、あなたには仲間が必要なのです。

 

今日あなたは自分は強いから一人で大丈夫と感じて、誰も必要ではないと思うかもしれませんが、明日は弱くなるかもしれません。その時、もしあなたに仲間がいなければ倒れてしまします。あるいは、自分は強いから教会に行かずに家にいようと思うかもしれません。しかしあなたの助けが必要な人が教会にはいるのです。ですから私たちは強いときも弱い時も共に集まることが大切なのです。強いときは弱い人のために、弱い時は助けを得るためにです。もしあなたが終りの時まで強くありたいならば、「ある人々のようにいっしょに集まることをやめては」なりません。

 

残念ながら、現在集まることをやめるのは「ある人々」ではなく、「ほとんどの人々」になってしまっています。それがアメリカのキリスト教会の現状です。一緒に集まることはそれほど重要ではないと考え、ほんの少しの理由でやめてしまうのです。ヘブル書の著者は一緒に集まることをやめてはならないと警告しています。

 

その理由は、あなたが考えることとは多分違うかもしれません。

彼は「教会に集うことはクリスチャンの義務であるから」とは言っていません。「会堂が一杯になった方が牧師が喜ぶから」とも言っていません。「クリスチャンとしての体面を保つため」でもなく、又「教会はあなたの献金を必要としているから」でもありません。「なにか奉仕をして役に立ちたいから」でもありません。

 

彼は「..かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」言っています。「かの日 the day」が近づけば近づくほど、私たちはお互いを必要とすると言っています。「かの日」に近づくほど、私たちの信仰は大きなチャレンジを受けるようになるのです。イエス・キリストを信じる者としてこの世で生活するのが、もっと困難になって来るのです。「教会は今なんの影響力も持っていない」とこの世の人は言っています。しかしそれはこの世に対してのことです。「かの日」まで信仰を堅く守りたい信者にとって、教会は非常に力があり、砦であり、頼みとなるところなのです。

 

「かの日」が近づいている明らかなしるしを私たちは今見ています。私たちはそれを見て、無視するのでも恐れるのでもなく、真摯にとらえねばなりません。

 

「かの日」とは聖書に書かれている特別の日「主の日、the day of the

Lord」のことです。これは旧約だけではなく、新約にもある概念であり、多くの箇所で書かれています。

イザヤ13:6「泣きわめけ。主の日は近い。」

イザヤ13:9「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。」

イザヤ34:8「それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」

エレミヤ46:10「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日」

第一テサロ二ケ5:2「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」

第ニペテロ3:10「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はやけてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

このことを私たちはあまり考えもせず話もしません。でも実際に起り始めたら、この知識があることを感謝するでしょう。私は終末のことに非常に重点をおく教会で育ちました。もしも罪を犯している最中にイエスが再臨されたら、あなたは連れていってもらえないと教えられました。ですから私は6歳くらいから恐れがいつもありました。周りの人が携挙されて自分だけ取り残されるという夢を何十回と見ました。そのような経験があったので、私は終末のこと、イエスの再臨のことをもう考えないようにしました。

それと同じように多くの人は終末のことを考えたり話したりしないばかりか、もう信じなくなっています。しかし、イエスはまた来られるのです。終末に関するイエスの教えがマタイ24章にあります。

マタイ24:4に偽キリストが現れるとあります。6節には戦争、戦争のうわさ、7節にはききん、地震、9節、教会に対する迫害、10節、その結果として教会内での裏切り、憎み合い、11節、にせ預言者、12節、不法がはびこり、愛が冷たくなる。

不法が今はびこっています。残念なことに、教会はそれに立ち向うのではなく、それを受け入れて同化しようとしています。この世に調子を合わせているので、不法がはびこり、それによって教会は力を無くし愛をなくしています。背信は一人でするのではなく、周りの人がしているのにつられるのです。

 

終末に関してイエスは3つの忠告をしておられます。

1.惑わされてはならない。これらの事が起って混乱するとき、敵はあなたを惑わそうとする。それに騙されてはならない。

2.心を悩ましてはならない。イエスがこれを話されたのは、これが起ったときに私たちが動揺したり心を悩ませたりしないためである。私たちは「イエスは確かにこれが起ると言われた。」と信仰をもって受け取ることができる。

3.13節「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」最後まで信仰を堅く保つこと。

 

これが新約聖書の終末論です。「反キリストは誰か」といろいろと議論することではありません。私たちは反キリストやけものを待っているのではありません。私たちは主の訪れを待っているのです!

 

主は「心を悩ませてはならない。」と言われました。この御ことばを私たちはしっかりと握らねばなりません。それは私たちが告白している信仰に堅く立って動揺しなためです。そうしなければ私たちは惑わされるのです。

 

私はときどき奇妙な教義に惑わされている人に会いますが、どんなに立派なクリスチャンでも惑わしに陥る危険があるのです。パウロがガラテヤ人に「もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」と強い語調で言っていますが、それほどに正しい教義に留まることは教会にとって重要です。

 

惑わされないために、私たちはエクレシアの中に留まり、他のクリスチャンと深く結びついていなければなりません。ただ表面的な挨拶をして手をあげて礼拝するだけではないのです。互いにぴったりと結び合わされていなければ私たちは惑わされるのです。今「かの日」が近づいているのですから、ますます共に集り励まし合わねばならないのです。

 

その日がいつかはわかりません。しかしそれが近づいていることは確かです。既に妊婦が産気づいているのです。その時がいつかは誰もわかりませんが、生まれるのが近いことはわかります。私たちは世界に陣痛が始まっていることを見ることができます。教会の目的は、単にすばらしいキリスト教組織を作ることにあるのではありません。それは主の日のためにクリスチャンを備えるためです。子羊の婚礼の祝宴のために充分に備え整えるためです。お互いに励まし合ってその準備をすることです。この世はますます邪悪になってきますが、教会はますます義しく、純粋で、聖く輝かねばなりません。そして「主よ、来たりませ!」と叫ぶのです。ただ素敵なワーシップが出来るようにとか、癒しが起るように来てください、というのではありません。主ご自身に来ていただくのです。初代教会はそのように祈りました。「マラナサ!主よ、来たりませ。」と。

 

マラキ4:1、2「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」

マラキ4:5、6「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

エリヤの霊はすでに教会の中で働いています。父と子の関係をキリストのからだの中で修復しています。それがキリストの再臨への備えです。

その日が近づいています。主がどうか私たちが真剣にその備えが出来るようにしてくださいますように。敵は「もうおまえは手遅れだ」と言いますが、そうではありません。今こそ主を呼び求める時です。今こそキリストのからだにしっかりとしがみつく時です。聖なる恐れが私たちに来ますように。(終り)


27 07月

リバイバルについて   リック・ジョイナー         2015年 7月27日


リバイバルについて

 

リック・ジョイナー

 

 

霊的覚醒とリバイバルの違い

 

霊的覚醒(アウェイクニング)とリバイバルは違うものです。霊的覚醒がアメリカで起ったとき、それは何十年も続きました。その中で大学が創設され、国中で非常に大きな霊的促進が起りました。

 

リバイバルというのは期間が短いものです。一年も続けば驚きです。リバイバルの果たすべき任務は短期間で達成されるので、ずっと続く必要はないのです。リバイバルは私たちに力を与え、アドレナリンの注射のように活気を与えてくれます。それはとてもエクサイティングです。

 

しかし、キリストのからだを本当に建て上げる業の99パーセントは、神の民による毎日の忠実な奉仕、活動によるものです。それは神が召されたそれぞれの立場におけるたゆみない日々の活動です。私はリバイバルを愛していますし、リバイバルに関して研究もし、本にも書きました。そして実際に2度ほどリバイバルを体験して非常に祝福されました。それは本当の神のムーブメントでしたが長くは続きませんでした。リバイバルは私たちを疲れ果てさせます。すばらしいことなのですが、みんな疲れたのです。勿論,疲れないように集会に行くのを少しは止めようとするのですが、あまりにも毎日すばらしい事が起るので、行かずにはおれません。又リーダーならばいろいろなミーティングも必要ですから、行かないでおくことなど出来なくなります。

 

テキサス州にリバイバルが起る

 

テキサス州で間もなくリバイバルが起ると私は信じています。そしてテキサスから国中によいものが流れ出していくでしょう。テキサス州で最近洪水がありましたが、それは霊的な洪水の前ぶれです。普通来るはずもない地点まで洪水が押し寄せて来ましたが、聖霊もそのようにされるのです。ですからテキサス州の方々は備えをしてください。

 

暗やみとリバイバル

 

アメリカや世界、特に西洋においてモラルの低下や霊的荒廃が起っていますが、私たちはそれを見て気を落としてはなりません。確かに荒廃は急速に広がっています。しかし、歴史上最も偉大なリバイバルはみなそのような時代に起ったのです。それは主が最も偉大な預言者たちをイスラエルが最も暗黒だった時に送られたのに似ています。神はアメリカを本当にすばやく方向転換させることがお出来になるのです。必ず神はそうしてくださると私は信じています。

 

実のところ、私が1987年から発してきた警告は、あまりにも急激に極端な左(リベラル)から極端な右(コンサーバティブ)に変ることなのです。正しい道は真ん中にあります。政治的にも霊的にもアメリカは変わるでしょう。主はアメリカを決してこのままに放ってはおかれません。

 

次のリバイバルが起ろうとしています。私たちはそれに備えねばなりません。ブラウンズビルとペンサコーラでリバイバルが起りましたが、それはとても長く続きました。リバイバルがそのように長く続くのは普通ないことですが、その理由はリーダーたちに備えがあったからです。彼らは預言的にリバイバルが起ることを見せられたので、そのために準備をしました。ですから実際にリババルが起ったとき、普通よりずっと長く続けることが出来たのでした。

 

キューバのリバイバル

 

私は2009年にキューバの夢を見ましたが、それはキューバの経済がとても発展している夢でした。そして人々は神を愛し、みなが興奮して神の話をしていました。そこにはとても純粋な神への愛がありました。普通リバイバルには様々な人が集まってきて、リバイバルを自分の野心のために用いるとか、自分のミニストリーを建て上げるために用いるとかするものです。とてもすばらしい人たちも来ますが、良くない人たちも大勢群がってきて、混乱するものです。しかし私が夢で見たキューバのリバイバルはそうではありませんでした。すべてが純粋ですばらしいものでした。人々の心は神への情熱で燃えていました。

 

その夢を見て以来、神がキューバについて様々なことを教えてくださいました。このリバイバルはキューバ全体に広がり、国が変革されること、そしてやがてロシアにリバイバルを持ち運び、それは教会時代の最大のリバイバルになるであろうと教えてくださいました。キューバの不動産が世界で最も価値が上がり、又安全な地になり、知恵と識別力のあるリーダーを神が立てられます。

 

大宣教命令は個人に対してだけではなく、一つの国家を弟子にすることに対しても発せられています。私たちアメリカがキューバに教えることは沢山あります。私たちの成功や又失敗の経験を通して教えるのです。今私たちのミニストリーではキューバに近いフロリダにスペイン語の聖書やCD、DVD等を沢山用意しています。

 

ボイコットという手段

 

最近、ビリーグラハム伝道協会とサマリタン・パースが、今まで使っていたウエルス・ファーゴ銀行の口座を閉めたというニュースがありました。この銀行が、クリスチャンや従来の家族のあり方に反対する広告を流しているのを遺憾に思ったフランクリン・グラハム師が、そのように指示を出したのです。彼らのミニストリーがしていることと全く反対の姿勢をとっている銀行に、お金を預けておくことはできないという理由です。

 

私たちにはそのような自由がありますし、そのようにすべきです。

グラハム師がアメリカのクリスチャンに向けてこの銀行をボイコットするように呼びかけたという報道は誤りです。しかし私はここで大胆になって皆さんにボイコットを呼びかけたいと思います。今は、クリスチャンが聖書の真理や基本的なモラル貶め、私たちの信仰を攻撃するようなビジネスをボイコットする時だと思います。今はキリスト教を正面から攻撃するビジネスも現れているのです。

 

現在クリスチャンはどのビジネスが反キリスト教的な立場をとっているかをあまり知りません。多くの牧師たちもあまり何も言いません。しかしクリスチャンが現実に目を覚まして一致すれば大きな力となるのです。今はそのような自分の立場をはっきりさせる時であると信じます。

 

ある人たちはクリスチャンはボイコットなどするべきではない、片方の頬も向けるべきだ、と言います。しかし主が言われたのは、こういう事に関してではないのです。今私たちはこの時代の流れを変えねばなりません。基本的な自由を奪われるようなことがあってはなりません。「方向を変えなければ、現在向かっている終点に行き着く」という言葉があります。今この国が向かっているのは、途方もない崩壊、途方もない暴力、途方もない全体主義、専制国家であり、それは今まで地上に無かったほど酷いものになる可能性があります。テクノロジーの進化により、全体主義のコントロールが非常にやりやすくなっているからです。私たちがそこに向かっていることを私は確信しています。

 

ですから問題はこのまま終点まで行くのか、それとも今方向転換をするのか、ということです。一人のクリスチャンが勇気をもって立ち上がるならば、多くの人々は応援して共に立ち上がるのです。今は勇気あるリーダーが教会に少ないのです。先日私は、ワシントンで政治家たちとのミーティングに出席した際に、彼らは「教会がもっと勇気ある言動をしてくれたら、私たちはもっと勇気を与えられる。」と言いました。私は本当に恥ずかしく思いました。今という時、教会が沈黙していて、政治家だけを責めることはできません。

 

クリスチャンに敵対するグループは、彼らの意見、要求を通すためにボイコットを頻繁に行い、成功しています。私たちもその武器を使わない手はありません。10%の教会がもし一致団結してボイコットをすれば、その成果は非常に大きいと信じます。多くのことが方向転換を素早くしていくでしょう。

 

今はボイコットを始める時です。あなたはその用意が出来ていますか?

今までより少し遠くまで買い物に行かねばならないとか、少し値段が高いとか、考えますか?

あなたの便利さは、基本的な真理や正義よりも大切なことですか?

今軍隊では聖句を机の上に飾ることは禁じられていますが、イスラム教の人が頭にターバンを巻くのは許されています。すべてが反クリスチャンの方向に向かっています。過去2年間にもの凄いスピードでショッキングなことが起っています。今こそ私たちは目を覚まし、立ち上がるべき時だと私は信じます。(終り)


20 07月

神のプロジェクト     ドリス・チャップマン         2015年7月20日


神のプロジェクト

 

ドリス・チャップマン

 

 

私たちすべての人生には、私たちが「人に恵みを施すことを促進させてくれる人たち」(Grace Growers)がいます。それは取り扱いにくい人たちで、私たちが愛と恵みを人に施すことを具体的に学ばせるために、愛なる御父の御計画によって意図的に私たちの人生の中に送り込まれる人たちです。グラハム・クックのクラスでは彼らを頭文字を取ってGGと呼んでいます。

 

この考え方は本当にすばらしいと思います。往々にして私たちは、職場においても、又家族や親戚であっても、このような人は避けた方がいいと考えがちです。しかしそのような人を一度は避け得たとしても、場所や状況が異うにせよ、私たちは同じような人に、しかももっと厄介な状態で出会うことになるのです。一体なぜそんなことになるのでしょうか!

それは、私たちが変革されて一段上のレベルまで、愛と恵みで人に接するように成長するまで、ずっとそのような人との出会いは続くのです。

本当に、ある種類の厄介者が送られて来なくなると、別の種類の人たちが来るようになるのは不思議な位です。私たちにはそれ程恵みの成長を促してくれる人たちが必要なのですね。そうして下さることこそ主の恵みと愛です。

 

しかしながら、中には「Grace Growers 恵みの成長を促す人」の範囲を越えた人たちもいます。彼らは、あなたが愛と恵みをもって長い間祈り、必要あればその人たちと和解しようと努め、愛をもって熱心に追い求めてきた人です。しかし、あなたの誠意ある努力にもかかわらず、その人からの答えは常に「No いいえ」であり、その人との間には壁が立ち塞がり、あなたは拒絶された痛みを抱えることになる場合があります。

このような時には、私たちはもう一つ上のクラスに進まねばならないことが分かったのです。私はこういう人を「神のプロジェクト」と呼びます。それは家族か友達か、又は職場の人かもしれませんが、「どうしてもあなたとは関わりたくない、又関わることができない」という人がいるのです。あなたが彼の前にどんなにすばらしい宝物を投げ出しても、彼は何かの言い訳を用いて受け取ることを断ります。彼を助けたいと願うあなたの思いは、いつも「放っといてくれ!」という怒りの言葉や、時として悪口で踏みにじられるのです。

時には、これらの人たちを「神のプロジェクト」から恵みをもって解放し、自分の手から離すことが必要な場合がやってきます。

私たちには「自分には限界があること」と「神には無限の可能性があること」を認識するべき場合があるのです。もしかすると、自分の手からその人を解放することが恵みを施すことになるケースもあるのです。

そのような人を手離すためには本当に大きな恵みが必要です。私は知っています。私の家族や友達を解放したことが喜びと変わったことがありました。彼らは私とは全く関わりたくなかったし、私ももう十分に彼らに注ぎ込んだのです。もうこれ以上は無理だ、十分だ、という時があります。それ以上その関係を続けるとそれはあなたから生命力を吸い取ってしまいかねません。

 

私たちは自分の召しを遂行するとき、知恵を用いるようにと言われています。人に対して私たちは恵み深くあるように召されていますが、それと同時に、神に信頼し結果を神に委ねるようにとも言われています。その人からあなたの手を離すことが、あなたの出来る最も愛のある恵み深いことである場合もあるのです。それではあなたはその人のために祈るのを止めるのでしょうか?そんなことはありません。愛するのを止めるということでしょうか?違います。

イエスはイスカリオテのユダに3年の間、ご自分を注ぎ込まれ愛されましたが、最後にはユダがしたいことをするようにと手を離されました。それは即ち今まで経験しなかった「信頼」という領域にあなたが踏み込むことです。神だけにしか取り扱えない人たちがいるのです。そしてあなたがその人を愛していると思うよりも、神は確実にもっとその人を愛している場合があるのです。

 

「神のプロジェクト」になるのがあなた自身の子どもであるとき、それは苦痛を伴いますが、子どもから手を離して「神のプロジェクト」として神に委ねる時、それが神を信頼する栄光のプロセスとなる場合があります。私たちは自分だけが子どものための答えを持っていると思い込むのを止めて、時に愛なる御父に彼らを委ねることも必要なのです。私たちが掴んでいたものを放して、神に差し上げるとき、すばらしいことが起ります。

まず第一に、私たちは本当に求めている人に宝を注ぎ込み、神に栄光を与えることが出来るようになります。第二にストレスとフラストレーションがなくなり、私たちは責任から解放されます。(本当は初めから自分の責任ではない場合もあります。)それはあなたの足から塵を払い落とすことであるかもしれません。あなたはその人を持ち運ぶべきではない場合もあるからです。

「あなたの恵みを成長させてくれる厄介な人 Grace Grower」を「神のプロジェクト God’s Project」のカテゴリーへと移す適切な用意があなたに出来ている場合、あなたがその人を解放することに、神があなたに喜びを与え、あなたは祝福されるでしょう。そして、彼を又ある時点であなたのもとに戻されるかもしれません。その時あなたは再び恵みの位置に戻れるように備えをしていてください。でもそれまでは神の平安が豊かにあなたの上にありますように。(終り)


13 07月

礼拝している人を測れ    フランシス・フランジペン       2015年7月13日


礼拝している人を測れ

 

フランシス・フランジペン

 

 

黙示録11:1、2「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。『立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。』」

この箇所が究極的に意味していることは他にもあるかもしれませんが、神の御霊が礼拝する者を測っておられると言っているのは確かです。天に宝を持ち、神殿の内庭に住む者たちを御霊は注意深く調べておられるのです

考えてみて下さい。恐れ、プレッシャー、トラウマに満ちているこの世界において私たちの唯一の避け所は神の生ける臨在の中です。私たちは、単に「神についての宗教」を受け入れて、それが即ち神の臨在の中に生きることであるなどと思ってはなりません。

私たちが本当に神の臨在の中に住もうと思うならば、他の何にも増して、ある一つの事が大切です。即ち、私たちが真の神の礼拝者になることです。

 

真の礼拝

 

イエスは「真の礼拝者」とは、父なる神を「霊とまことによって」礼拝する者であると教えられました。言葉を変えれば、真の礼拝者の神への礼拝は、困難な状況の中にあっても全くそれに左右されずに溢れ流れ出るということです。実際、御父はご自分をそのように礼拝する者たちを今地上に捜し求めておられるのです。

神の優先順序をよく考えてみてください。神は私たちが奇蹟を起こす者とか、偉大な使徒や預言者になることを求めてはおられないのです。

私たちがリーダーとしての技術を磨くとか、教会運営をうまくすることではなく、もっとそれ以上のものを求めておられます。主は何を求めておられるのでしょうか?

主は本当に心から主を求め礼拝する者たちを求めておられるのです。

 

神を心から礼拝するという意味の「真の礼拝」は私たちを真のクリスチャンにしてくれます。

 

もし私たちが神への礼拝を真のものとするならば、私たちの聖書研究や祈りや様々な奉仕など、何であってもそれらは真のものとなります。実際、礼拝する心は、他の霊的活動を正しいものとし、実を結ばせます。御ことばを学ぶ前に先ず心から神を礼拝するならば、御ことばは私たちの魂にもっと深く浸透するでしょう。そして私たちの実はもっと甘くもっと確立したものとなるでしょう。もし私たちが祈りの言葉を口に出す前に、神を礼拝し誉め称えるならば、私たちのとりなしは、心からの信頼と期待にふくらむ信仰の翼に乗って天に昇って行くことでしょう。

真の礼拝は、私たちの霊的活動がただの日課とか宗教、又プライドになってしまうことから私たちを救ってくれます。真の礼拝は自分のことを完全に忘れて、神の深みへと私たちを連れていってくれます。実際、礼拝は変革された人生の証しです。外面的には喜びの涙であったり、驚嘆の沈黙で表されるでしょう。又、神への絶えざる感謝が流れ出たり、また夜には歌が与えられたりするでしょう。表現はどうであれ、真の礼拝は神への真摯な愛慕、崇拝です。

しかし、もしも「礼拝」が自分とは無関係なことのように思えたり、ただ機械的になっていたり、言葉を空しく感じるのであれば、それは私たちが「外の庭」での礼拝にとどまっているからです。おわかりでしょうか。私たちが神に近づけば近づくほど、私たちはもっと変革されるのです。そして私たちの変革が大きいほど、私たちはもっと完全に主を礼拝できるようになるのです。

 

祈り「主よ、どうか私の人生の中に深く立ち入り、私を変革してくだるというあなたの約束を成就してください。私の唇に賛美をつくり、あなたを霊とまことをもって心から礼拝できるように助けてください。」(終り)

 

フランシス・フランジペン師の著書 「I Will Be Found by You 私たちは主によって見いだされる」より


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