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Walk With God Ministries


27 10月

人間関係のストレッチ      ベンジャミン・ロビンソン      2015年10月27日


人間関係のストレッチ

 

ベンジャミン・ロビンソン

 

去年の秋、私はもう一度身体を鍛えるためのエクササイズを始めようと堅く決心しました。そしてそれを一生の習慣にしようと決意しました。一週間に3、4回、ジムに通い始め、4週間たった頃にはそれが大好きになっていました。もう自分を止めるものは何もない、ずっと夢見ていた健康的なライフスタイルを私は確立するのだ、と確信したのです。

しかし、5週間目が終る頃になって何か具合が悪いことに気がつきました。関節や腰、足、そして背中が痛み始めたのです。筋肉痛とかではなく、骨、筋、神経に痛みを感じ始めました。6週間目には痛みはさらに増し、7週目の終りには朝起きた時に歩けないように感じるほどでした。私はそれを押して頑張ろうと思いましたが、無理でした。私は渋々ながら痛みに降伏し、健康的なライフスタイルへの願望は無に帰したのでした。

 

簡単な解決法

 

しかし、私は最近大いなる発見をした結果、それによってまた希望が出てきました。そして私は又、エクササイズを始めました。確かに少し痛みを感じますが、今回の痛みはほとんど筋肉痛です。何が変ったのでしょうか?

それはとても簡単なことです。去年の秋にエクササイズをしていた7週間の間、私は運動を始める前と後の準備のためのストレッチ運動をしていませんでした。私が感じた痛みはストレッチをしなかったからという理由だったのです。今回私は常に、そして正しくストレッチをするようになったので、私の身体の状態はすばらしく好転しました。

フィジカル・セラピストから、毎晩ストレッチをすれば、身体の問題の50%は消えるだろうと言われたのですが、彼の言葉が本当なことを今体験しています!

 

人間関係の痛みの50%も、自分の人間関係の筋肉を毎日ストレッチすることによって軽減することができるのではないでしょうか。

私たちは人間関係にいろいろな問題が生じますが、その理由は相性が悪いからではなく、順応性、融通生が欠けているからなのです。確かに両者間に生じる当初の問題は相性が悪いのが理由かもしれませんが、それは最終的な問題点ではないのです。究極の問題点は、ほとんどの人がカチカチに硬直しているからなのです。少しでもその関係に痛みを感じるや否や、この関係は駄目だと言ってエクササイズを止めてしまうからです!

 

ストレッチするためには、痛みを感じる位置でじっとしていることが大切です。ストレッチとは、筋肉が動く範囲を今よりもっと引き伸ばすプロセスです。即ち、毎日筋肉を限界ギリギリまで伸ばし、そのまま30秒じっとしているのです。それを続ければ、あなたの手足はもっと柔軟になり、身体はもっと敏捷になります。

 

複雑なチャレンジ

 

人間関係の柔軟性は生まれつきの能力ではありません。人間関係のストレッチを通して学ぶ技術です。あなたが身体をストレッチ出来るように、感情もストレッチできます。あなたのギリギリの限界がどこであっても、それを見つけてその場所に居続けてください。そして明日もまたそこを見つけてそこに留まってください。あなたが望むところまで感情の領域が広がるまで毎日それを繰り返してください。

 

人間関係をストレッチするとは、あなたが普通理解できない考えを聞いてみるということです。相性が合わないと誤解が生じるので、その人との関係に痛みが起ります。しかしそれは同時に人間関係の筋肉をストレッチする機会をあなたに与えることにもなります。もしあなたがストレッチするならば、誤解から新しい理解へと進むことが可能です。

あなたは「私の伴侶は愚かであり、その伴侶の考えは全く価値のないものである」と見下げることもできます。自分の伴侶を裁くことはあなたが正しいというしるしではありません。それはあなたが人間関係において硬直していてストレッチするのを拒んでいるしるしに過ぎません。

私が夜ストレッチする時、3つの主な筋肉グループをストレッチしなければ身体は柔軟になりません。即ち、足まわり、腕まわり、腰まわりです。もし一つの筋肉グループだけストレッチして他の箇所をしないならば、一つのグループが他のグループの硬さをカバーしようとするので、問題がもっと起きてきます。

それと同じように、人間関係の順応性を養うには3つの部分をストレッチせねばなりません。即ち、あなたの考え(知性)、気持(感情)、決心(意志)です。人間関係において成長したいならば、この3つの領域でストレッチしなければならないのです。

考え(知性)をストレッチするとは、普通はあなたが理解できない行動、視点、価値観等のもととなる論理とコネクトするように努力することです。真摯な興味をもって相手に質問をすることによって、あなたの考えはストレッチすることができます。(拒否することを前提として質問するのではありません。それは論争になります。)

 

気持(感情)のストレッチ(あるいはあなたの心のストレッチ)は、普通理解できない言動、視点、価値観の背後にある気持や感情とコネクトすることによってすることができます。一つの方法は、あなた自身の過去の同じような経験を思い出すことによって、相手の今の気持を理解することです。

 

決心(意志)のストレッチは、相手の心からの願いを受け入れるために自分が変ろうと努力することによってできます。この努力の助けとなるのは、あなたにとってはどうでもいい事が、相手にとってはとても重要であることを忘れないことです。

 

適合性がないのはギフトである

 

このように見ていくと、相性が悪いということは、実際には神からのギフトだということがわかってきます。なぜならば、それはあなたがストレッチすることを要求し、ストレッチするならば、あなたは今までよりもっと大きな人間関係の柔軟性を発達させることができるからです。適合性が大きい時は、その関係において痛みが少ないかも知れませんが、感情的な発達も低いレベルになるのです。

 

私と妻のサンヒーは、非常に低いレベルの適合性しかありません。そしてそれがずっと非常に大きな痛みをお互いに与えてきました。しかし、正直に申し上げますが、その痛みは私たち二人を成長させたのです。それはお互いがいたからこそできた成長です。

そして私たちは適合性のなさは不変ではないことも見出しました。私たちは私たち独自の適合性を創り出しました。それは私たちにぴったりのものです。私たちは誤解があっても愛し合うことや、相手の弱さを互いに重荷を負い合う機会として喜ぶことを学びました。そしてこれは妻も同じように思っていると思いますが、自分の聖化、成熟のためにお互いを伴侶として神が与えられたことを感謝しています。

 

来週私たち夫婦は結婚15周年を迎えます。娘も一緒に一週間ヴァケーションに行ってきます。きっとすごく楽しい時となると思います。実際、この旅行は私たちのハネムーンよりもずっと良いものになると確信しています。というのは、この15年間に私たちは夫婦関係のストレッチを沢山して来たからです。それによって私たちの愛は何ものによっても止められない生涯の習慣となりました。二人が一緒に走りだしたのを皆さんは見始められたと思います!(終り)


19 10月

天の領域へ入る通行権   キャシー・ウオルターズ     2015年10月20日


 

天の領域へ入る通行権

 

キャシー・ウオルターズ

 

私がフロリダ州レイクランドにあるスティーヴン・ストレイダー牧師のイグナイテッド教会でミニストリーをした時のことです。最初の集会の前に、主から突然御ことばを受けました。私がホテルを出て教会に向かうとき、聖霊が「『みなさんは通行権を持っていますよ。』と人々に告げなさい。」と言われたのです。

通行権という言葉は聞いたことはありましたが、その意味は知りませんでしたので、教会に行く途中で調べてみました。そして通行権とは、ある場所からもう一つの場所に行く法的な権利であることが分かりました。例えばスエズ運河を通る権利です。

私たち夫婦がイギリスからアメリカに移ったとき、永住ビサが与えられましたが、ある意味でそれは英国からアメリカへの通行権をアメリカ政府から与えられたということです。

 

霊的領域への通路

 

皆さんは私たちが霊的領域に入るための通行権を与えられているのをご存知でしょうか。私たちが何かを達成したからではなく、主イエスがご自分の命をもって私たちのための遺産をあがなって下さり、その血潮で封印してくださったのです。

私たちはこの世で地上の領域に生まれて来ました。神の霊の領域に生まれたのではありません。イエスを通して私たちが霊的領域にボーン・アゲインせねばならない理由はそこにあります。あなたがボーン・アゲインした時、一つの次元から別の次元に入る通行権を与えられたのです。

 

ナチュラルからスーパーナチュラルへ

 

聖書は栄光の領域について語っています。私たちは栄光から栄光へと変えられていきます。(2コリント3:18)ですから栄光の領域は一つではないのです。

天使の領域、天的領域があります。天の都—新しいエルサレムーがあります。私はそれを見たことがあります。

私がまだイギリスにいた時のことですが、祈っていると天に光が見え始め都が見えました。当時私はまだ黙示録をよく知らなかったので、自分が何を見ているのか全く分かりませんでした。この都は驚くべき姿をしていました。黄金で出来ているようで、輝く光で満ちていました。この都から差す光は非常に強烈で、私が祈っていた部屋の中まで差し込んできました。

私は「これは天から下ってくる天のエルサレムとそれを照らす子羊の光です。」という声を聞きました。光が部屋に溢れた時、私は恐ろしくなり、家から飛び出しました。もしあの時逃げ出さなかったらどうだったのだろう、と私はよく考えます。

 

ボーン・アゲインした人たちが霊的領域に対する飢え渇きを持ち始めるのに気がつかれましたか?

彼らは地上の領域以上の何かがある、という感覚を持つのです。人生にはもっと何かがある、地球上にはもっと何かがあるはずだと感じ始めます。それは彼らの中の霊が地上に属するものではないからです。彼らの霊は上から、即ち天の領域から来たのです。それが地上の領域だけでは私たちは決して幸せでは無い理由です。それはちょうど鷲を鶏小屋に閉じ込めるようなものです。あなたは違う環境で生きるように創られたのです。

 

イエスは通行権の支払いをされた

 

イエスが死んで復活された時、主はあなたの救いを購われました。しかし救いは私たちが最初考えるようなことだけではなく、もっと多くのことを含んでいます。イエスは私たちを律法や、律法の下で受けた影響、律法の負い目から救い出してくださいました。イエスは私たちを死から救ってくださいました。主は地獄の鍵を取り、悪しき者の力から私たちを解放してくださいました。

そして神は私たちにもう一つの領域に移る力もくださいました。もう一つの領域とは神の領域です。神や神の御使いが住む領域であり、天の都があり、神のもの、神の御国があるところです。神は私たちをキリストとの共同遺産相続人にしてくださいました。私たちが最終的に天に行くときにそうなるのではなく、今ここでそうなのです。神の御国は私たちの間に、又私たちの内にあり、主はそれが私たちを通して流れ出て回りの人に影響を与えることを望んでおられます。

イエス・キリストの死と復活により与えてくださったものを、私たちは信仰によって受け取ります。それは新しい生き生きとした生き方であり、私たちはその中を歩むべきです。

主はあなたに新しい性質を与えて、あなたがもう一つの、永遠の領域へと移行できるようにしてくださいました。この領域とは昼も夜も絶えず神の臨在がある天の領域です。イエスはご自身の血潮であなたに通行権を買ってくださったのです。ですからあなたはもう地上の領域だけに制限されてはいません。

スーパーナチュラルな領域、奇蹟や不思議の領域はあなたが受け取りさえすればあなたのものになるのです。神があなたに関して言われたことをあなたは信じなければなりません。あなたは全能の神の息子、娘であり、御国を相続する者です。神は下りてこられるのではなく、御手を下に伸ばして私たちをご自分のおられる領域に掬い上げてくださいます。どのようにすればそれを経験出来るのでしょうか?

皆さんによい知らせがあります。あなたは自分が何かを達成する必要はないのです。資格もいりません。テストもありません。イエスがすでにテストを受けてくださり、あなたのために合格されたからです。

 

ダイヤルを合わせる

 

私たちはダイヤルを合わせていなかっったり、日常生活の中ですばらしいことが起ることを期待しなかったりして、神の御業を逃しています。大分以前に、私はインディアナ州で集会をしたのですが、集会の終り頃、人々は床に横たわって神の臨在に浸っていました。人々の間を私が歩いていると、一人の男性の上に馬車があるのが見えました。神は天やいろいろな場所にあなたを連れて行き、神がなさっておられることを見せたいと思っておられます。私はその男性に「あなたの上に馬車がありますよ。」と告げてからその場を離れました。

後でその人が話してくれたのですが、私が馬車のことを告げた時、彼は霊的ダイヤルを合わせることによって自分も馬車を見たのでした。彼はそれに乗って幾つかの国々に行き、顔と顔を合わせて神と会ったのです。

 

霊的領域はすぐそばにあります。生まれ変わった「新しい人」はいつも、そして永遠にそこに住んでいるのです。その人こそが本当のあなたですね?

さあ、神があなたについて言っておられることを信じ始めましょう。神はあなたを離れることはなく、あなたは神が愛する者です。いつもあなたの霊的アンテナを伸ばしておいてください。神の天の家—霊的領域—にはおびただしい数の宝があなたのために用意されています。(終り)


12 10月

みずからへりくだる     フランシス・フランジペイン        2015年10月13日


みずからへりくだる

フランシス・フランジペイン

 

キリストの謙遜について話したいと思います。これは非常に重要なことです。もしキリストに似る者に変わりたいならば、私たちを変えることができるのは神の恵みだけなのです。そして神が恵みをくださるのはへりくだった者にだけです。ですから私たちは恵みを受けて変わりたいのです。時として私たちは「ああ、神様、私をへりくだらせてください。ああ、神様、私を謙遜にしてください。」と祈ります。しかし「私を謙遜にしてください」と祈るの少々危険です。神は豊かに、望むところを越えて与える方ですから、あなたはどれほどへりくだらされるかわからないからです。

 

ネブカデネザル王のことを見てください。彼は「私がこのバビロンの栄華をつくった」と誇ったとき、すぐに天使がきて神が彼を7年の間へりくだらせる、牛のように草を食べる、と告げました。それでも王はまだへりくだりませんでした。ですから7年もの間、彼は野の獣とともに住み、牛のように草を食べました。その長い期間が終ったとき、王は天を見上げていと高き方をほめたたえました。王はついに「高ぶって歩む者をへりくだった者とされる」と神を賛美し、あがめ、誉め称えるに至りました。

 

聖書の命令は「みずからへりくだりなさい。 Humble yourself」です。第二歴代誌7:14には「わたしを呼びもとめているわたしの民がみずからへりくだり」とありますし、ヤコブも「主の御まえでへりくだりなさい Humble yourself in the sight of the Lord」と言っています。私たちがするべきことはこれです。そうすれば神は私たちに恵みをくださり、私たちは変ることができるのです。

 

へりくだるということは、自分の中の欠けたところ、足りないところをはっきり見るということです。私たちの中で変らねばならないところを見るのです。私はキリストのように柔和な心を持ちたいと思います。イエスは「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。主は子どもを愛されました。「子どもがわたしのところにくるのを止めてはならない」と言われました。主は御国の中でもっとも偉大な方ですが、御自身も子どものようにみずからへりくだられ、私たちにもそうするようにと言われます。

 

神が今自分の中の何を変えようとしておられるかが分からない人は、あなたの伴侶に聞いてみてください。あなたの伴侶はあなたが変えねばならないことをチャンと知っていますよ。

私たちは自分が変らなければならない点をはっきりと認識せねばなりません。あなたの伴侶、友人、または真にオープンになって「ここを私は変える必要があると思います。」と話してください。正直に言ってください。

「私はもう他人のうわさをするのを止めたいです。」

「人を裁くのを止めたいです。」

「良くないテレビを見るのを止めたいです。」

「もっと寛大になりたいです。」

声に出して言ってください。

あなたが変えたいと思うことに関して、みずからへりくだってください。その時神が恵みをくださいます。

 

バプテスマのヨハネとイエスは、両方とも神の御国を宣言するために来ました。イエスは神の御子でしたが、自分が神の御子であると言ったのは、1、2回だけであり、ほとんどは自分のことを「人の子」と言われました。バプテスマのヨハネが来たとき、人々は「あなたはキリストですか?」と聞きましたが、彼は「違う」といいました。「あなたは預言者ですか?」という問いに対しても彼は「違う」と言いました。人々は「それではあなたは誰ですか?」と聞くと、「私は荒野で呼ばわる声です」と答えました。彼は実際自分が与えられている称号も使いませんでした。彼は預言者でしが、最も低い場所を選んだのです。アメリカでは人々は最高の場所を得ようとします。しかし私たちはみずからへりくだらねばなりません。そうすれば神が私たちを高くあげてくださるのです。

 

ですから、皆さん、ネブカデネザル王のように神の手でへりくだらされるのではなく、みずからへりくだろうではありませんか。

それは「自分は駄目な人間だ」と落ち込むのではなく、「私が変るべきところをお示しください。」と神に申し上げるのです。「あなたが私の心の中から掘り起こして取り去りたいものをどうかお示しください。」と祈ることです。

 

私の好きな聖句の一つにイザヤ66:2の「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」があります。男性でも女性でも老人でも若者でも、牧師でも牧師でなくても、天地を創られた天の神が目を留めてくださるのは、このような者だと言われるのです。私はこの聖句を洗面所の鏡に張って毎朝見ています。私は平均的普通の人間ですが、この聖句には天の神の目を引く方法が書かれています。神は「へりくだって心砕かれて、わたしが語るときにおののく者に目を留める」と言われるのです。

 

神に触れられた時、手や身体が震える人います。それも結構です。しかし、神は「わたしは心が震える人を求めている。わたしがささやく時、心をかたくなにせず、心砕かれておののく者をわたしは探している」といわれます。皆さん、なんという神からの招きでしょうか。

 

多くのミニストリーをする方たちが教会に来てあなたのために祈り、あなたは神の力を受けて倒れるかもしれません。しかし、私の皆さんへのゴールは、あなたが倒れることではなく、あなたが立つことです。あなたが様々な悪に立ち向って、ヴィジョンと勇気をもって堅く立つことです。いと高き方の前に立つことです。神の前でひざまずく者は、神の前に立つことができるのです。

みずからへりくだり、「イエスよ、恵みをお与えください。」と言おうではありませんか。

 

手を自分の心にあてて祈りましょう。

「主イエスよ、私たちはあなたに関する宗教を求めてはいません。あなたを求めています。私たちの心をあなたの思いで満たしてください。あなたの力で私たちの手を満たしてください。あなたの光の栄光のバプテスマを受けたいのです。私たちがこの世のことにあまりにも気を取られていることをどうかお赦しください。あなたが私たちを光の子と呼ばれたにもかかわらず、暗やみにひきずリ込まれたことをお赦しください。主よ、今晩、私たちはこころをへりくだらせます。どうか私たちのこころにお住まいください。私たちを通して生きてください。偽りのない愛で愛するようにしてください。あなたご自身を顕してください。イエスの御名によって祈ります。アーメン」(終り)


05 10月

キリストの香り       フランシス・フランジペイン      2015年10月6日  


キリストの香り

フランシス・フランジペイン

 

私たちはキリストの栄光を顕す者になれると信じます。それには私たちの一部が死なねばならないということです。私はある時、神とサタンは両方とも、理由は違いますが、私が死ぬことを望んでいることがわかりました。私はかつては人々からの批判によって動揺し操られていました。サタンは中傷や悪口によって私を殺そうとしました。私が主を見上げて祈ったとき、神は人々からの批判を目的をもって意図的に起こされたことを悟りました。それによって私の中のその部分を殺すためでした。神はあなたをもっとよく(better)しようとしているのではなく、もっと死ぬように(deader)しておられるのです。つまり自分はしりぞいてキリストが私たちを通して生きるようにするのです。

 

私は神が「結婚」を制定された理由は、私たちを殺すためだったと信じます。私たち夫婦は結婚して43年です。結婚当初は、イタリヤ人同士でしたから、グリセリンとナイトロのようなものですぐに爆発しました。ある独身の男性が「私にぴったりの女性を見つけるまでは結婚しない。」と言いました。私は彼に「最初に結婚を承諾してくれた女性と結婚したらいいですよ。相手が誰でもあなたが死ななければならないのは決まっているのですから。」と申し上げました。

 

私が自分に死んだのは良いことでした。私の古い性質が十字架に付けられるのは良いことです。私が自分に死に、妻が自分に死んだとき、二人は一つとなりました。私たちが死ぬならば、キリストに似た者となる自由が生まれるのです。神は私たちとキリストを一致させたいのです。

 

神はアダムのあばら骨からイブを創られました。アダムは男性で、イブは女性であり、その中間ではありませんでした。つまり二人はお互いにふさわしかったのですが、正反対だったのです。妻は私とは違うものの見方をすることを私は知りました。そしてそれは悪いことではないのです。妻は非常に敏感に物事を感じ取ります。私には見えないことも彼女は感じることができます。皆さんの中で、奥さんが自分にはないレーダーを持っていると思う人はいますか?

私たちは妻の言うことを聞く必要が時としてあるのです。夫婦はキリストにあって一つに継ぎ合わされているのです。

 

私たち夫婦が旅に出るとき、妻が「あなた、今何を考えているの?」と聞きます。彼女は私の心の深い思いを知りたいのです。でも私はそんなものは持っていないのです。私が考えていたのは、「今車が坂を昇ろうとしているけれど、アクセルを踏んだら、ガソリン消費はどうなるだろう、、、、」とかなのです。でもそれを妻に言うわけにはいかないので、「中東の原油の問題を考えているよ。」と答えます。

二人が自分に死んでキリストが二人を通して生きるとき、私たちの人生は祝福されるのです。

 

これはキリストのからだとしても同じです。私たちが自分に死に、罪に対して死に、反抗する思いに死ぬとき、キリストが顕われるのです。私たちは祝福を受け、力を受けるところに到達するのです。神は私たちが栄光から栄光へと進むように意図されます。第二コリント3:18には「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。

 

皆さんに一つ質問をしたいと思います。あなたがキリストの姿に変えられているのはどの点ですか?

神があなたの中でキリストの姿に似せようと今働いておられるのは何かご存知ですか? あなたの中で起っている戦いの最前線を知っていますか?

神が自分の中でしておられることを私たちは知る必要があるのです。それを知っていれば、私たちはそれに賛同し、それについて祈り、へりくだって神と共に働くことが出来るのです。多くの場合、クリスチャンは人生をふわふわと過ごしてしまい、「永遠においてはキリストに似た者となるだろう」くらいに軽く考えているのです。しかし、キリストに似た者となるのは、今、この地上においてなのです。今この地上で聖霊と一致するのです。神が現在自分の中で変えようとしておられるのは何かを知らねばなりません。

 

ピリピ2:12、13に「・・・恐れおののいて自分の救いを達成してください。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」とあります。神が私たちのうちに働いておられることを、私たちは達成するのです。それは往々にして簡単ではありません。忍耐が必要です。しかし、途中であきらめるという選択肢を私たちは与えられていません。もうのんびりと横たわって努力をしないという選択肢もありません。

 

私の家族はシシリー出身です。皆さんはマフィアの映画をみたことがあるかも知れません。私の親戚はみんなシシリーの人間です。誰かが私を傷つけたとします。私がどう対処しようかと思いを巡らすとき、私の過去からの声が内に聞こえて私に語りかけます。「ボス、やつの足を折りましょうか?」と。私はその声を捕まえて捨て去らねばなりません。私は神を見上げ、恵みを受け、相手を赦さねばなりません。主は「あなたの敵を愛せよ。」と言われました。私の中の古い人は敵を殺したいのです。でも私は古い人にではなく神に同意せねばなりません。アーメンでしょうか?

 

もし私たちが神によって変えられるならば、この世を変えることができます。第二コリント2:15でパウロは「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」と言っています。私たちが傷つけられたり、不当な扱いや、偽りで身を切られるとき、その切り口からキリストの香りが御父の御前に立ち上るのです。痛みの中でキリストを顕すのです。不当な扱いを受けた時、私たちは赦し、あと一マイル行くのです(マタイ5:41)。御父はそれを喜ばれます。御父が喜ばれるとき、神の力が顕われ出るのです。

 

聖書に書かれていますが、御父が御子を見るときいつも同じことを言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」バプテスマのヨハネにもそう言われました。イエスが変貌された山上で御父はペテロ、ヤコブ、ヨハネにも同じことを言われました。もし私たちが御父の御こころを顕し、喜んでいただきたいならば、私たちはキリストを顕していかねばなりません。そのためにはもう一マイル行くことを学ばねばなりません。それは内心ぶつぶつと文句を言いながら渋々行くということではありません。喜びと恵みをもって行くのです。神を信じていないこの世の人々は、イエスが本物かどうかを見るために、あなたを観察しています。私たちは彼らが神を知るために用いられる器なのです。人生で起る様々な侮辱に対して私たちがどのように対応するか、私たちの夫婦関係がどの位麗わしいか、というような事を通して私たちがキリストを顕していくとき、この世の人たちはそれを見るのです。彼らは口先だけの言葉ではなく、本当に効果のあるものを求めています。そして私たちはこの世で唯一効果があるものを持っています!それはキリストの命です。

 

私は旅に出る時、教会の事務的なことをすべて済ませてから出かけようと思います。妻は私が旅に出る前の晩はすばらしい食事を作ってくれますので、5時までに帰宅したいと思いますが、もう7時半になってしまいました。まだ家に帰っていません。やっと家に着いたとき、テーブルには何も料理が並んでいません。家の中は寒々としています。私は妻に「夕食はどこですか?」と聞きますと、彼女は「よくもそんなことが言えるわね!」と答えます。私たちは口をきかなくなり、寝る時間になります。お互いに背をむけてベッドに横になります。肉でも凍るような冷たさが二人の間にあります。いつもは寝る前に一緒に祈るのですが、妻とけんかをしているときは祈りを神様にファックスしておきます。

 

でも寝付くことができません。悪者には安息がないと聖書にもありますね。寝なければならないので、妻にむかって短く「すみませんでした。」といいます。でもそんな短い言葉では妻の心には届かないのです。私が何に対してすまないと思っているのかを妻はっきりと聞きたいのです。ですから私は「もっと早く帰ってくるべきでした。」と言います。すると妻は「私もすみませんでした。旅行に出る前はあなたの帰りが遅くなることがあるのを知っていました。」そこで私はもう少し彼女の方をむいて「本当にごめんなさい。どうか赦してください。 あなたは私の一番の友達です。」と言い、私たちは一緒に祈ります。苦々しさが私たちの心に根を下ろすのをそのままにしておいてはいけません。

 

イエスは「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなる」と言われました。主はこの世の人たちの愛のことを言っているのではありません。この世はもともと愛を持っていないからです。主は私たちクリスチャンの愛のことを言っておられるのです。今は不法、罪がはびこっているので、多くのクリスチャンが腹を立てています。しかし、そうであってはなりません。私たちは心を柔らかく純粋に保ち、もう一つの頬も向けたいのです。

 

実際のところ、私たちが腹を立てる状況を神は意図的に作られるのだと思います。でももし私たちがキリストに似た者になるならば、私たちの愛はどんな状況においても腹が立たないようにするのです。苦々しい思いを抱くのではなく、大いなる愛を見出すのです。

 

今晩皆さんも私と一緒に新しい決意をされるようにお招きしたいと思います。キリストのようになることを追い求めることを、聖霊によって私たちの心が新しくされることを、自分の魂のために戦うことを、キリストを顕していくために戦っていくことを決意するのです。ただ受け身ではいけません。自分の魂が罪によって捕らえられるのをそのままにしないのです。今私たちは確固たる信念を持たねばなりません。なぜならばこの世の霊、イザベルの霊があなたを捕え罪の虜にしようとするからです。私たちは神の霊の剣を抜いて歩かねばなりません。そしてすべてのはかりごとを虜にしてキリストに服従させねばなりません。妥協はもう捨て去りましょう。そしてキリストのご性質をしっかりと掴みましょう。

 

皆さんもそう決意されるならば、どうか立ってください。一緒に祈りましょう。

祈り

聖霊様、今私たちの上に来てください。私たちが真剣に神からの召しを考えるように、あなたの命を私たちが受けて、あなたの香りが私たちから立ち上りますように、今晩、私たちはいと高き方のために祭壇を築きます。キリストのように歩むことを再びここに決意することを、この世の中で何が起ろうとも、私たちはキリストによって支配されるように、今晩、私は私の心をキリストに服従させます。私の人生を主を追い求めることに用い、価値のないことに浪費しないことを。主よ、あなたは最高のものを最後までとっておかれました。私はあなたが持っておられる最高のものを得たいのです。イエスの御名によって私は人々を引き止める罪の鎖を断ち切ります。今は新しい時です。イエスと共に歩み始める解放の時です。主に御名において、アーメン。(終り)

 


27 09月

ワーシップソングの作成     レオナルド・ジョーンズ       2015年9月28日


ワーシップソングの作成

 

レオナルド・ジョーンズ (於 モーニングスター・ミニストリーズ ワーシップカンファレンス)

 

ある人が次のように言いました。

「イエスは、 私たちはこの世にいるけれど、この世のものではない  (We are in the world but not of theworld.)と言われた。しかし、多くの場合、現在の教会は、この世のものになってしまっているが、この世の中にはいない (We are of the world, but not in  the world.)という状態だ。」即ち「私たちはこの世と同じことをしているにもかかわらず、この世とコンタクトしていない」ということです。

あなたがこの世とコンタクトするとき、「あなたがたのうちにおられる方が、この世のなかにいるあの者よりも力がある(1ヨハネ4:4)」という真理が輝き、神がこの世の中に力をもって侵入してこられるのです。この世が教会の中に侵入してくるのと反対ですね。私は24時間神にワーシップを捧げることは本当にすばらしいと思います。しかしそれと同時に私たちの光をますの下に隠さないようにとイエスは言われました。この世の中で光を輝かせることも大切です。

教会の中でワーシップの務めをする人も、砂の中に頭を突っ込んで、この世でどのような音楽が流れているのか全く無知であってはなりません。この世でも本当にすばらしい曲が作られているのです。

今年の3月にブラジルに行ったのですが、その時ある婦人が「今私の教会で歌っているワーシップソングをもっとすばらしいものにするには、どうすればいいでしょうか?私が作るワーシップソングはみな同じような感じなのです。」と私に訊きました。

私が「あなたはいつもどんな音楽を聞いていますか?」と訊ねると、いまよく歌われている世界のワーシップソングを聞いているとのことでした。「あなたは本当に心から、現状を抜け出すことを願っておられるのですか?」と訊ねると「はい、そうです。」というので、私は思い切って次のように申し上げました。

「私が今から言うことは、多分あなたには気に入らないと思いますが、これからはどんなワーシップソングも聞かないでください。」と言いました。彼女は「じゃあ、セキュラー・ミュージックを聞けと言われるのですか!?」とひどく驚いた様子でした。私は「もしあなたにそれが出来るなら、そうしてください。でもセキュラー・ミュージックを聞きたくないならば、何も聞かないでください。ただギターをもって主の前にでてください。」と言いました。

 

私たちはこの世で起っている音楽を知らねばなりません。もし4つのコードだけで作られた曲ばかり聞いていたら、あなたもそういう曲を作るようになってしまうのです。昨日私は、ジェイムス・テイラーの曲を聞いていました。そのコード進行がすばらしいと思ったので、インターネットでその弾き方を本人が教えているビデオを見つけて勉強しました。(今はそのようなビデオが沢山ありますから、何でも学べます)

そして、どうしてこの曲がこのように魅力的なのだろうか、と考えました。そして分かったのは、彼の曲は最後に落ち着くところまでに、回り道をするのです。普通はCから始まったとしたら、そのあと2つか3つ位のコードを通ってCに帰結するのですが、彼の曲は次々に違うコードを用いて、最後に帰結するときは、聞く者はやっと辿りついたと安堵のため息をつくのです。長く待つのでとてもうれしく感じるわけです。

 

クリスチャン・ソングを作る人は、繰り返しの部分に早く行こうと焦ります。ビートルズの「ストロベリーフィールズ」という曲を調べたところ、あるテーマ・メロディーに戻るまでに59音符ありました。クリスチャン・ソングの平均は8小節で同じメロディーが出てきます。これが同じことを繰り返しているという印象を与えます。一段目を聞いたならば、8小節先にまた同じメロディーが出てくるので、すぐに歌えます。

神は私たちがただ歌を作る(write a song)のではなく作曲(compose)することを願っておられるのだと私は思います。多くの方は「ワーシップソングは、シンプルで皆が歌えるものでなければならない」と言います。それは立派な理由のように聞こえます。でも私はデイブ・マシュウのコンサートに行ったのですが、彼の歌はとても難しいにも拘わらず、会場にいた全員が彼と一緒に歌っていました。何故でしょうか?

彼の歌は非常にすばらしく興味を引くものであったので、人々は何度もCDを聞いて覚えてしまっていたのです。私たちは「人々が簡単に歌えるもの」を作ろうとするのではなく、「人々がどうしても歌いたいと思うもの」を作らねばなりません。

 

私が作った「ヤーウェ」という歌の繰り返しの部分は、「こんなに高い音を出せる人はあまりいないだろう」と思っていたのですが、2回目にその部分になった時には、全会衆が上のGを歌えたのです。それはみんながそれを切実に「歌いたい!たとえ喉がつぶれても私は歌うんだ!」と感じたからなのです。

神はこの世に影響を与える歌をあなたに与えたいと願っておられます。この世の人々がその歌によって神と出会うとき、あなたは本当によい歌を作ったことがわかるのです。

 

今、クリスチャンのソングライターは、「現在世界の教会でよく歌われているワーシップソングは何か」を調べて、その流れの歌を作っています。その結果、ほとんどの歌が同じように私には聞こえます。

ジョニー・へルサーの「No Longer a Slave」という歌を運転中に聞いたのですが、すぐに何か他のワーシップソングと違うと感じました。その時私はトウモロコシ畑を走っていたのですが、前方に小さなつむじ風が起ってその歌の間中、トウモロコシ畑の上を行ったり来たりして、トウモロコシが踊ったのです。この曲が終ったと同時につむじ風もおさまりました。私はジョニーに電話をしてすぐにそのことを伝えました。ジョニーは他のワーシップソングは何も聞かず、ただいつもギターを持って主の前で礼拝するのです。

 

ギターでもピアノでも、声でも、とにかく主の前で礼拝するのです。残念ながら、天から歌が棚ぼた式に落ちてくるということはありません。神があなたに与えたいと思っておられる歌は、あなたが時間をかけて受けるものなのです。私も素早く曲が与えられることはほとんどありません。早くできる曲というのは、多分私がそれまでの人生でずっと暖めてきたものだと思います。

「すばらしい歌を作るぞ」と意図せずに、ただ主と共に時をすごして歌ったり演奏したりするのです。突然一つのメロディーが聞こえてくることがあります。それを弾きます。すると何かが打ち破られるのです。(聞こえたものをすぐに弾くためには賜物と訓練が必要です。)

 

神は私の人生のその時々の経験、思い、葛藤、苦しみに即した歌をくださいます。ある時、私はギターでバッハのチェロの曲を練習していました。弾きながらテレビのニュースを見ていたのですが、人々が殺し合う残忍な映像を見て、私の心は痛み悲しみました。私は「主よ、あなたはどれほど嘆き悲しんでおられることでしょう。あなたほど繊細でない私の心が、これだけ痛むのですから。」と申し上げ、「あなたの御国が来ますように、Let Your kingdom come」とずっと弾いていたバッバの旋律に合わせて歌い始めました。

ですからこの曲は祈りから生まれたのです。決してヒット曲にはならないでしょう。なぜならば、これを弾きこなせる人はほとんどいないからです。私はヒットさせるために曲を作るのではありません。私は主のために作るのです。神があなたに与えてくださる曲は、大勢の心に響くものではないかもしれません。そんなことは気にしないでください。残念ですが、今のワーシップソング業界にはお金への誘惑が入り込んでしまっています。ですから「こんな風な曲にすれば、きっとヒットしてお金が儲かるだろう」と考えてしまう誘惑があるのです。けれどもあなたがワーシップソングを作るときの動機がお金であってはなりません。結果として収入があれは、それはすばらしいことですが、それが動機であっては絶対なりません。

なぜならば、あなたが作る曲のジャンルの可能性はものすごく広いのですが、ヒットさせるためには、今の教会に受け入れられるためにその範囲を非常に狭めねばなりません。音楽には本当に沢山のスタイルがあるにもかかわらず、現在教会で歌われているものは非常に限られているのです。

神はすべての人々を愛しておられます。この世のすべての人々に触れるためには、本物でなければなりません。もしモーニングスターやベテル、ヒルソングの歌を真似るだけならば、本物ではなくなります。

 

本物であるためには、あなたは主のもとに行かねばなりません。パウロも主と出会ってから一人で荒野に行き、主と時を過ごしました。彼は他の人が受けた啓示ではなく、自分で啓示を受けたかったのです。それがパウロの書簡が聖書の中に多い理由です。今ここにおられるミュージシャンの幾人かを主は荒野に呼ばれると思います。外面的には今までと何も変らず、同じ仕事をし、同じ場所にいるかもしれませんが、主とだけ時を過ごす場所へとあなたは導かれるでしょう。

 

私はモーニングスター・ミニストリーに25年前に来ましたが、5年前から世界に出て行くようになりました。

それを始めてから3、4ヶ月経ったときに、主が毎朝私を起こされるようになりました。時計を見るといつも3時41分でした。それが毎日です。目覚ましをかけたのでもありません。ある時は目が覚めても絶対にしばらく時計を見ないようにしたのですが、ふっと目が時計にいくと3時41分なのです。そしてパッチリと目が覚めるのです。他にすることもないので、ギターを手にとって弾き始めました。これが何ヶ月も続いたのです。ついに私は3時41分にはどんな意味があるのかと主に尋ねました。「3、4、1、three four oneとは、all three of us (Father, Son , Holy Spirit) is for one(you).  We are all for you. わたしたち、父、子、聖霊はあなたの味方ですよ、という意味です。」と主は答えてくださったのです。もしそれを誰かから聞いたら「へえ、そうですか。なるほどね。」としか思わないでしょうが、主が直接語られたのですから、私にとってすばらしい啓示でした。これは6ヶ月ほど続きました。私は毎朝驚くべきすばらしい時を主と過ごしたのです。

 

私は「Prospective」というCDを出しましたが、そこに収められた曲はすべてその期間に生まれたものです。一つ一つの曲が、主が私を導かれた霊的旅路の表現でした。例えば、ある朝ある一連のコードを弾きながら主を礼拝していました。主は私の味方であって敵ではないことを学んでいた頃でした。目を閉じていたのですが、私はそれまでの自分の人生を目の前に見ました。それはほとんどが悪いことでした。私は主に「主よ、あなたを礼拝しようと思うのですが、私のことが見えるのです。」と申し上げました。主は「あなたの事であなたが出来ることは何もありません。ただわたしを礼拝しなさい。There is nothing you can do about you. Just worship me.」と言われました。

そこで私は一連のコードを弾いていると言葉が出てきました。

It is finished

There is nothing left for me to do but worship

It is finished

What’s there that I have to do

You are so perfect

 

I see a broken person

You see a warrior bride

I see things I’ve done

You see what’s inside

I see there’s no way out

You see there’s one way in

I see me struggling

You see me free from sin

There’s nothing going to keep me from You

Nothing going to pull me back

Nothing I can do about me

It’s all about You

It is finished, finished

 

しばらくギターを弾いて歌ううちに、この歌が生まれてきました。この歌詞は私を本当に慰めました。私は普通一つの歌詞を作るには随分時間がかかりますが、この時は40分くらいで出来上がりました。主は「あなたが自分を見るようには、わたしはあなたを見ていない。」と何度も言われました。私たちが主を見るときは、自分のした事を通して見ます。しかし主は私たちを主のなされた十字架の業を通して見られるのです。

 

私の歌はほとんどこのようにして生まれます。その内の幾つかは数人のシンガーによって取り上げられ歌われましたが、ほとんどはそうではありません。でも誰か一人でもその歌によって神に触れられる人があればいいのです。皆さんの作る歌は大勢の人に触れるものではないかもしれませんが、他の誰も触れることができなかったある一人の人に触れるかもしれないのです。ですから、他の人が作った歌を真似るのではなくて、主と共に時を過ごして主から本物をいただくことが本当に大切です。

 

私が歌詞を作るときのパターンは何もありません。祈りのときに私の口から主に与えられたよい表現が出てくるときがあります。その時すぐに携帯に録音しておきます。私の携帯には千個くらいそれがたまっています。メロディーも同じようにします。何か旋律やコードが私の頭に浮かんでくると直ぐに携帯に録音しておきます。このようにすべて与えられたものを記録しておくのです。そうでないと忘れてしまいます。一つの表現、一つの旋律が人々を解放する可能性を持っているのです。ですからすべて覚えておかねばなりません。

私の歌は一つ一つがとても違います。自分のスタイルを作ろうとするのではなく、ただ主に聞いて作るからです。主を待ち望めば主は歌を下さいます。主と共に時間をすごして、深い本物の歌をいただいてください。(終り)

 


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