Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
14 12月
愛のバプテスマ
ポール•キース•デイビス
1996年に、私とボブ・ジョーンズ師が一緒にミニストリーをしている時に神が出会わせてくださった人のことをお話したいと思います。彼はエライジャ・マズワンガニという名で、南アフリカでミニストリーをしている黒人の方でした。その人は沢山の本を著しておりましたが、集会のあと私に一冊本をくださると言いました。彼がすばらしい神の人だということが分かっていたので、私はとても楽しみでした。彼は自分の本が25冊くらい入っている箱の中をいろいろと探していましたが、「あった、あった」と言って一つのパンフレットのように薄い本を私に渡してくれました。「これはあなたによいものだと思いますから、どうぞお受け取りください。」と彼は言いました。私は感謝をして鞄にいれました。
その本の題は「私が受けた愛のバプテスマ My Baptism of Love」でした。当時南アフリカでは人種差別が激しく、黒人の彼は酷い経験を沢山したそうです。彼がこの本で書いていることをお読みしたいと思います。(以下)
「私(マズワンガニ師)その夜、いつものようにデボーションを済ませたあと、一人で自分の部屋で寝ていました。突然、午前2時ごろでしたが、私は自分の内に麗しい音楽が涌き上がってくるのを聞き、また感じました。それはオーケストラが最大のクレッシェンドで演奏しているような響きでした。私の内なる音楽に、私のまわりの大勢の天使たちの歌声が加わりました。私の内の歌とまわりの天使たちの歌声には完全なハーモニーがありました。歌声と何種類もの楽器との響きは、最高に美しいばかりではなく、全く調和し完全でした。それは私の最も深い霊的、感情的な願望や飢え渇きを完全に満たすものでした。私は音楽によって天の領域に引き上げられて移されていくように感じました。歌の歌詞はこのようなものでした。『あなたの思いをイエスに話しなさい。主は友としてよく知られている方です。
Tell it to Jesus. He is a Friend who is well known.』誰かが音量をどんどんと高くしているようでした。
音量が最大になったとき、私は天使の歌声の大海原の中にいるようでした。圧倒されるような恍惚状態の中で、私は本当に美しいイエスの手を見ました。主の身体は見えませんでした。主の手はやさしく私の額に伸ばされました。主に触れられてベッドからおりると、私の口から勢いよく異言がほとばしりでました。私の賛美の歌や言葉は、天使の歌声と完全に調和していました。私の両手は天にむかって伸ばされ、2時から6時までそのままの姿勢で賛美し続けました。私の足も手も、少しも疲れませんでした。私は喜び、平安、幸福感で満たされ、すすり泣きました。
その時、私は『愛のバプテスマ』を受けたのです。そして私は神と新しい経験をしたことがはっきり分かりました。朝6時に家の戸を開けて外に出たのですが、その時私の目に入るものをすべて愛さずにはおられなかったのです。どんな人種の人も私は愛しました。人々が神の花束のように見えました。空も、草も、木も、車も、動物もすべて愛しました。今までの懐疑的な思いや批判的思い、疑いは消えていました。私は平安で一杯に満たされました。それはパウロが『人知を越えた神の平安』と呼んだものだと思います。生まれて初めて私は完全に自由だと感じました。
私が『愛』の新しい定義を与えられたのはその経験を通してだったと思います。それは『神の愛は自由である God’s love is freedom.』というものです。この栄光に満ちた超自然的な霊的経験の後、私の人生やミニストリーは以前とはまったく違うものとなりました。神は私に人々を理解し無条件で愛す、そして無条件で赦すというキャパシティー、許容力を与えてくださいました。この愛によって私はどんな状況の中にあっても人を赦すことができるようになりました。この経験によって私はすべての人を愛するようになりました。私は常に人々のことを考え人々の夢を見ます。私は世界中に旅をしますが、どこででも人々は私の中にある愛を感じてくれます。大抵の人と苦労しないですぐに仲良くなれます。それは神がすべての人を愛に応答するものとして造られたからです。言葉が通じなかったり文化習慣が違ったりしても、人間は自分が本当に愛されていときは分かるのです。」(以上)
私はこの小冊子を読んでとても感謝しました。私には「愛のバプテスマ」が必要だと彼は思ったのだと思います。皆さんの中にも愛に浸される経験が必要な方があると思います。私も神の栄光を少し経験したことがあります。私の兄弟が亡くなったすぐ後のことでした。私たちは一年半の間、彼の癒しのために断食をし、祈っていました。ですから彼が死んでしまったとき、私は少しばかり落胆し傷ついていました。その時、雲が私を包んだのです。そして何百万という楽器が奏でられるのが四方から聞こえて私を取り囲みました。ただ上から聞こえたというのではないのです。あたかも水の中にいて水が身体の触れている所すべてから音が聞こえるという感じでした。それは数分間続いてから消えていきました。その経験は私を確かに変えてくれました。
「キリストの花嫁」がみんな愛のバプテスマを受ける日がくることを私は望みます。それはどのような方法であるかはわかりません。主の御手に触れられるのか、栄光の雲に包まれるのか、あなたの部屋に光が差し込むのか、夢の中か、トランスの中か、祈りの中か、異言を話しているときか、それはわかりませんが、あなたが神の愛に覆われるときが来ることを願います。そして御父の愛が真にわかるようになるのです。どうか私たちが神に浸されて神が愛であることが本当にわかりますように。神が愛を持っておられるのではなく、神が愛なのです。
神は今、それを受け取る用意のある人に愛のバプテスマ与えてくださると信じます。
聖霊の賜物は勿論よいものであり、私も頂きたいと思っています。癒しのミニストリーなどもすばらしいです。しかし、もし私たちが愛のバプテスマを受けるならば、その他のものはもっと早く与えられるのではないかと思います。ウイリアム・ブラナンが自分の癒しのミニストリーについて語っています。
彼が人々のために祈る時に、その人の病とか、家族の問題とかを彼自身が身体の奥深いところで感じ、彼はその人に対する愛と憐れみに満たされるのでした。その時、奇蹟が起ったのです。主イエスも人々の苦しみを見られた時、愛と憐れみの故に癒されたのでした。もし私たちが癒しや解放、奇蹟などの力を求めているならば、それは愛と憐れみの中から生まれてくるのだと思います。
賜物を与えられるのはすばらしいことです。私もすべての賜物を受けたいと思います。しかし、賜物によって業をなすことと、主の臨在によって業をなすのとは違うのです。癒しの賜物を受けるよりも、癒し主ご自身が臨在してくださることを私は願います。知識の言葉を受け取りたいと思いますが、それだけではなく、知識の霊を受けたいと思います。知恵の言葉だけではなく、知恵の霊を受けたいと思います。奇蹟だけではなく、力の霊を受けたいと思います。なぜならそれらの霊は主ご自身だからです。主こそ御座の前におられる7つの霊(黙示1:4)です。ですから主がすべての源であられ、源がくればすべてのものがそれに伴うのです。それが王であり、キリストの花嫁が愛する方なのです。
私たちは異なる次元で業をするようになるのです。数は少ないですが、今までも先駆者たちがその次元でミニストリーをしてきました。キャサリン・クーマンやジョン・G・レイクなどは、栄光の領域で愛と憐れみをもってミニストリーをしたのです。私たちも主に「愛のバプテスマ」をくださるようにお願いしようではありませんか。(終り)
07 12月
神の一途な思い
グラハム・クック
神には二心はなく、御思いは常に一つであることをお話したいと思います。
ポイント#1
第一のポイントは、「神の私たちに対する思いは変ることがないと知るとき、私たちは一番変ることが出来る」ということです。私たちの多くは残念ながら、「宗教的組織、宗教的システム」の中で育ち、神には二極性があると教えられてしまいしました。宗教は「神は私たちを愛しておられると同時に、私たちに腹を立てておられる」と言うのです。「神は私たちの言動を見て、それが良くない時は私たちに背を向けられる」とずっと教えられてきたのです。もしあなたの教会がそのように教えているとしたら、それは宗教の霊であることを知ってください。これは西洋の教会の最大の問題の一つだと私は思います。それは間違った教義であり、よい教えではありません。しかし、うれしい事に今変化が起きています。すばらしい知恵と啓示の霊が今世界中を巡り始め働いていてくださいます。神は私たちを御国の真理へと目を覚まさせていてくださいます。
神がどのようなお方であるのか、又私たちはどのような者であり、どのような者ではないのか、に関する御国の真理があるのです。そして神の思いは常に全く一つであり常に同じであることをその真理は教えてくれます。神の私たちに対する思いは一つであり、それがすべてであるので、私たちはそれを完全に理解することができ確信が持てるのです。そして「私たちが神にあって何者であるか」「どのように神に結びつけばよいのか」も理解し確信することができるのです。
「イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とヘブル13:8にありますね。マラキ3:6には「主であるわたしは変ることがない。」とあります。それは「あなたの主であるわたしは変ることがなく、あなたは変ることのないわたしと関係を持っている。」と言う事です。神は宇宙でただ一人、決して変ることのないお方です。ですからあなたは主との関係において、自分がどこに位置しているかが常に分かっているのです。あなたが最高であった日にも最悪であった日にも、主のあなたへの思いは全く変ることがありません。そして主はご自分がそのような方であることを喜んでおられるのです。
ヤコブは次にように言っています。「すべてのよい贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変りや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)神があなたに対する態度を変えてしまうということはありません。神は「わたしはこういう者です。いつも永遠にこういう者だとあなたは知るでしょう。そしてわたしがあなたに対してどういう者であるか、あなたは確信を持つことができるのです。あなたに対するわたしの思いが変ることは決してありません。」と言われるのです。
私たちが神のご性質を知るとき、神がどのように私たちと関わってくださるのかを知ることができます。神のご性質、ご性格が変ることがないので、神の約束、神の御ことばも同じように永遠に変らずに聖なるものです。民数記23:19、20には「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。」と書かれています。イザヤは55:11には「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる。」とあります。
私たちに神が語られること、それは聖書の御ことばであったり預言を通しての御ことばであったりするわけですが、大切なポイントは、神は私たちに与えてくださった言葉を必ず成就させるということです。神の御ことばが私たちの毎日の生活や戦いの中で、完全に成就することです。それは神が偽りを言うことはないからであり、変ることのないお方だからです。神の御ことばは永遠なのです。
イザヤ45:23に「わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることは正しく、とり消すことはできない。」とあります。神の誓いはあなたの性質に左右されるものではなく、神のご性質によって成り立っています。あなたがどのような者であるかによるのではなく、神がどのようなお方であるかによるのです。私たちが神の翼の影に身を寄せることができるのは、神がどういうお方かに全面的に拠り頼んでいるのです。あなたがすばらしいからではなく、神が驚くべきお方であるからなのです。そしてあなたがすばらしくなったのは、あなたが立派だったからではなく、神が驚くべきお方であり、神が変ることがないお方であり、神のご計画の中にあなたを入れてくださっているからです。
過去数年私が最も愛している神の約束があります。今私は命を脅かすような病を得ています。私は健康になろうとしている病人ではなく、病気を追い出そうとしている健康な人間です。神から私に与えられたこの約束は、私にとって聖なるものです。皆さんの中には同じような状況の方々がおられると思いますので、読んでみたいと思います。私に対する主から与えられた約束です。
イザヤ46:3「・・胎内にいる時からになわれており,生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
神にとっては約束がすべてです。ですから私たちにとっても約束がすべてです。神からの約束は往々にして生と死を分かつようなものです。変ることのない神の約束にあなたが立脚するとき、神がご自分の言葉に対して持っておられる確信があなたにも訪れます。
神は私たちをキリストの内に置かれ、神の慈しみのゆえに私たちが安全に保たれるようにされました。私たちの人生が揺れ動くとき、揺れ動かないのはイエスだけです。私たちが主を信頼する土台は主の御性質です。イエスは決して変ることのない良いお方です。そのお方が「わたしは決してあなたを離れない、見捨てない。」と約束されているのです。
そして主は私たちに啓示的な洞察を与えてくださいます。その啓示とは、神の変らない御こころ、変らない御ことばにより、あなたは絶対的な確信をもって、神があなたに対して持っておられる慈しみを信じられることです。それはどのような状況においてもそうであるのです。ですからあなたが今直面している「状況」よりも「神がどのようなお方であるか」の方が、あなたにとってもっと大切で重要なのです。
ポイント#2
第二のポイントは神は愛であられ、神は常に愛をもってあなたを思っておられるということです。神は御子の愛の中にあなたを入れてくださっています。神は変ることがない方ですから、それが変ることもありません。ですから神があなたをイエスの中に置かれたとき、それはあなたを変らない主の御性質の中に入れたのです。つまり、あなたの言葉や行動によって変ってしまうものはないということです。物事が私たちの言動によって左右されると考えるのは宗教の霊です。すべてのことは神によるのです。あなたが良い子だから神からご褒美を頂くのではありません。あなたがイエスの中にいるから、良い物を受け取るのです。
ローマ8:31に「では、これらのことからどう言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とありますね。だれも敵対できないということは、あなたも自分自身に対して敵対できないのです。皆さんの中にはそうしようとした人がいますよね。でもできません。それは神がそうさせないからです。神はあなたの味方なのですから、もう自分に敵対することもあきらめてください。
32節「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
ここでいう「すべてのもの」とは自分にとって何でしょうか。あなたが今置かれている状況の中で必要としている「すべてのもの」とは何ですか?
神があなたをその状況の中に置かれた唯一の理由は、あなたにすべてのものを恵んでくださるためです。神は知恵をもってその状況をつくり出し(それは神の力で簡単に阻止もできたものなのですが)あなたに沢山の物をくださろうとしておられるのです。パウロが「すべてのもの」という言葉を用いたのは、私たちの人生で起るすべての状況に適応させるためです。人生で起るすべての状況の中で、あなたが主から何も受けない状況はないということです。それは神の御性質と相反することだからです。
33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」それはあたかも神が私の前に立って「グラハムを訴える者は、まずわたしと対峙せねばならない」と言っておられるようなものです。
34節「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」私たちを一番知っておられる方が私たちを一番愛してくださり、私たちのためにとりなしの祈りをしていてくださるのです。
35節「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですが、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」勿論この質問に対する答えは「何もありません。」です。それはあなた自身をも含みますよ。自分の愚かさもキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
37節「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
パウロは本当に真剣で大真面目ですね。「私たちをイエス・キリストにある神の愛から引き離すものは何もない」ことをはっきりと認識し、確信し、もう絶対に疑問を持たないことが、私たちにとって大変重要なのです。
神はあなたがどのような人間であるかを正確に知り、あなたがどう思っているか、感じているか正確に知っておられ、あなたのためにご自分はどのようにしたいかも完全に知り、そのご計画、目標から少しも逸れることはありません。そのご計画とはあなたを神の似姿とすることです。それは私たちも神のように変らないものとなることです。そうなるための過程で、まず私たちは神が自分にとって変ることのないお方であることを意識的にしっかりと認識せねばなりません。そして私たちは完全に1000%、リラックスし、神のご性質の中で安息するのです。その時自分の業績や善行に拠り頼むという意識は消えていきます。
勿論パーフォーマンス、業績、実績は大切です。スポーツマンに聞いてみたら分かります。歌手でも俳優でも、また実業界の人にとっても勿論大切です。しかし霊においては、自分の行ないは神がまずしてくださることの後に来るものなのです。神との関係が築かれた後の結果としてパーフォーマンスが生まれるのであり、関係を築くためにパーフォーマンスをするのではありません。神が自分にとってどういうお方であるかを知り、それに対する応答として私たちはパーフォーマンスするのです。クリスチャンにとってのパーフォーマンスとは、私たち一人一人のために神がしてくださることに応答するだけのことなのです。何かを得るためにするのではなく、神のすべてを受けて祝うことであるのです。私たちは神に愛される者として受け入れられていて、その結果として神の愛の中で圧倒的勝利者となることが出来るのです。(終り)
30 11月
嵐はどこから来たか
ビル・ジョンソン
人生の嵐は、奇蹟と同じように、私たちに大きな挑戦を与え成長する機会を与えてくれます。しかし、嵐にも種類があり、どのような嵐の中にいるかによって大きな相違があります。たとえそれがサタンから送られた嵐であっても、私たちを奮起させ、すでに自分が受けている啓示を実践するように私たちを招いてくれます。下記マルコ4:35−41にあるように、それは奇蹟を呼び起こすものとなります。
「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へわたろう。』と言われた。そこで、弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについてきた。すると、激しい突風が起り、舟は波をかぶって、水で一杯になった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」
また一方、私たちが間違った方向に進んでいる時に神が送られる嵐もあります。ヨナの場合がそうでした。
「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起り、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて彼に言った。『いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。』」ヨナ1:4−6
2つの聖書箇所で2つの異なる種類の嵐について書かれていますが、その目的も又異なっていました。一つは神によって送られたものであり、他方はサタンによるものでした。両方とも船の中で眠っている人がいました。一人は意気消沈して現実逃避のために眠っていましたが、もう一人は「地に存在する天の御国」に生きておられたので安眠していました。なぜなら御国には嵐はないからです。
問題は、あなたがどちらの種類の嵐の中にいるかです。そしてその嵐の中で、あなたは神が望まれるような対応をしているかどうかということです。あなたは今までに経験した奇蹟を通して信仰の訓練や学びが出来、現在直面している問題のために十分整えられているでしょうか。
弟子たちが湖で遭遇した嵐は、彼らを神の御こころから逸れさせようとしてサタンが送ったものでした。ヨナの嵐は神の御こころに引き戻すために神が送ったものでした。ある人たちが遭遇する嵐は、神が右に行かれたのに、彼らが左に行ってしまったからです。神は彼らを引き戻すために憐れみによって嵐を起こされるのです。
又ある人たちは神の御こころの真ん中にいる故に嵐に直面しますが、それは神があなたがすでに受けている方法、道具を用いて嵐を静めるように訓練したいと願っておられるのです。
多くの者は嵐に遭遇するや否や、すぐに神に「この状況を変えてください!
助けてください!」と叫び求めるのが私たちの仕事だと考えてしまいます。しかし、嵐の目的はそこにあるのではありません。もし私たちがただ主に向かって叫ぶだけならば、奇蹟を起す私たちの役割を放棄していることになります。
神は私たちに嵐を静める道具をまず与えることなしに嵐を許されることは決してなさいません。神はその道具を私たちが用いて、奇蹟を招くことを願っておられるのです。過去において、あなたが経験した最も大きな問題や危機的状況を思い出してください。よく考えてみるならば、その問題に対処するために神があなたに与えた道具が何であったのかが必ずわかるはずです。
神が私たちの人生に問題が起るのを許されるのは、私たちがその問題を克服するためであり、いつも神に叫び求めるだけのためではないのです。その道具は舟の中の私たちの手元にあるのですが、サタンは恐れの暴風を起こして、その道具がどこにあるかを私たちに忘れさせようとするのです。
私たちの多くは嵐を見ると、イエスが眠っておられるのを見て弟子たちが叫んだのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか?」と。その時イエスは起き上がって彼らの祈りに答えてくださいました。私たちのほとんどは、神が自分の祈りに答えてくださる時に喜びます。私たちの中には、弟子たちはあの嵐の中で正しいことをしたと彼らを称賛する人がいるかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「あなたたちは信仰がないのですか?」と叱責されたのです。弟子たちは「え、何ですって、ちょっと待ってくださいよ。」と思ったかもしれません。「私はあなたのところに来てお願いするだけの信仰があったのですよ!そしてあなたは私が願ったことをしてくださったではありませんかー祈るのが私の仕事で、それをしてくださるのがあなたの仕事だと思っていました!」と云われるかもしれません。
そうではないのです。障害物にむかって「消え去れ!」と命令するのは私たちの責任です。ほとんどの人たちのミニストリーは、嵐に襲われたとき、嵐にむかって「静まれ!」と命令をする代わりに、地上での問題を神に解決してもらおうと祈ればよいと考えてしまいます。私たちは直面している問題や状況を御国の視点で見るべきであり、問題にむかって主の御ことばを宣言することによって天の御国の力が地に及ぶのを見なければならないのです。・・・・
(何度も言いますが)もしあなたの舟の中でイエスが眠っておられるならば、主は、あなたが主を起こし何とかして欲しいと訴えることを待っておられるのではないのです。なぜなら、あなたは神から目的を与えられているからです。あなたがすでに主から与えられている道具を用いて「天の御国の(スーパーナチュラルな)パワーを適用して」あなた自身が奇跡を生み出すことを主は願っておられるのです。・・・
私たちは単に神が凄い奇跡を起こされるのを見て手を叩きアーメンと言うだけでそこを去ってしまうのであれば、私たちは何も学ばず何も変えられません。神は私たちに対して霊的訓練をして下さっているのです。それは、私たちが同じ奇跡を起こせるように期待しておられるからです。ですからそのような奇跡の機会を神が与えて下さる時、私たちはそれを無駄にしてはなりません。(終り)
(師の著書 The Supernatural POWER of a Transformed MIND より)
16 11月
現代のシメオン—レオナルド・レイヴェンヒル
(偉大なクリスチャンのシリーズより)
リック・ジョイナー
レオナルド・レイヴェンヒルは英国ヨークシャーのリードという町で1907年6月18日に生まれました。彼は第二次世界大戦中に力強い伝道者として現れました。当時世界は深い闇に覆われていましたが、 彼の集会には大勢が集り多くの者がキリストに導かれたのでした。
レイヴェンヒルの集会で回心した者たちの多くに共通している最も顕著で、そして恐らく一番重要な特徴は、多くの者がその後教会のミニストリーやミッションの働きに就いたことでした。このすばらしい特徴をレイヴェンヒルのミニストリーは最後まで持ち続けました。大勢の人が集まる集会でも、また小さな祈祷会でも、彼の説教を聞いた者たちは、ただキリストを信じるだけではなく、キリストに仕えるようにと強く迫られたのです。
レイヴェンヒルの著書はまたたく間に高い評価を受け、彼はその時代の力ある預言的な声の一つとなりました。 一番のベストセラーである「Why Revival Tarries(リバイバルが遅れる理由)」は、真摯なクリスチャンにとっての必読書となり、今でもなお20世紀で最も影響力のある本の一つに数えられています。
レイヴェンヒルは19 50年にアメリカに移り、60年代までずっとアメリカを巡って天幕伝道を行ないました。彼の妥協のない十字架のメッセージと聖さのうちに歩む情熱は、それ以後起ってきた多くのムーブメントの強固な土台となりました。彼が与えた影響は非常に大きかったのです。彼と彼のよい友人であるA.W.トーザーが互いに影響を与え合ったことは明白であり、二人は共に彼らや私たちの時代に対する重要なメッセ—ジを運ぶ器となったのです。
レイヴェンヒルは1980年代にテキサスのリンデイルに移りました。彼の大きな影響力はそこでも衰えず、多くのクリスチャン・リーダーたちを指導しました。その中にはキース•グリーン、ラビ・ザカリアス、スティーブ・ヒル、マイケル・プラウン、チャールス•スタンレイ、ビル・ゴットハード、デイビッド・ウィルカーソン等がいました。
私はレオナルド・レイヴェンヒルに1987年の末に会いました。私がテキサスのパレスタインでのカンファレンスで話している最中に、彼が数人の人と一緒に会場に入ってきたのです。その時の会衆の反応から彼が重要人物であることが分かりましたが、それよりも私が彼に注目した理由は、主の声が、今入ってきたのはどのような人であるか、を私に告げられたからです。主は「彼は現代のシメオンです。彼は今の時代に神の慰めが与えられるのを長い間待ち望み祈ってきました。そして彼は終末のミニストリーの揺籃期を見、預言をするという栄誉を与えられました。」と言われたのです。
私は集会を終えて彼のそばに行きました。まだ彼の名前も知りませんでしたが、彼が入ってきた時に主が告げられたことを話しました。私たちは友達になり、その後彼からもらった沢山の手紙は私の宝物となりました。彼の家にはいつも彼の知恵を聞くために名のあるクリスチャンたちが集まっていましたが、私も彼のそばに座って話を聞くのが大変楽しみであり、喜びでした。
私はレイヴェンヒルをマイク・ビクルとボブ・ジョ—ンズに紹介しました。すると彼らはすぐにレイヴェンヒルをカンサスシティーにスピーカーとして招きました。彼が大勢の会衆の前で話すのを聞くのは私にとってその時が初めてだったのですが、非常に多くの人が椅子に座っていることができず、床の上で顔を伏せて悔い改めたのには驚きました。彼はそこにいたすべての者からすぐに霊的父親として受け入れられました。
マイク・ビクルがレオナルド・レイヴェンヒルをジョン・ウィンバーに紹介したいと言ったとき、私はそれが良い事がどうか疑問に思いました。といのは、この二人は非常に異なっていたからです。ところが二人は最初の出会いから急速に強い絆で結ばれ、それには私も驚かされたのでした。ジョンがレオナルドにアナハイムのヴィンヤード教会に来て話してくれと頼んだ時には、もっと驚きました。次にジョンは、レオナルドを「聖さのカンファレンス」という特別集会のスピーカーとして招くことに決めました。私はそのカンファレンスで何か起るのかをこの目で絶対見なければならないと思いました。
その集会でレオナルドが話すか話さないうちに、またもや人々が床にすべり落ちて顔を伏せ主を拝し始めました。すぐに椅子に座っている人よりも床に伏せている人の方が多くなり、悔い改めのうめき声がレオナルドのか細い声をかき消すほどになりました。彼はすばらしい説教者ですが、このような反応を人々に起こさせたのは彼の言葉ではなく、聖霊が人々に罪を示されたからでした。人々は古いくびきから解放され、主への愛と情熱、そして主の十字架が彼らを訪れたのです。
私はその時、「恵み」(ヴィンヤード・ムーブメント)と「まこと」(聖さのムーブメント)が完全に一つになるのを見ているように感じました。この二つはお互いを本当に必要としていたのです。そして二つは出会い、接吻をしたのです。それは終末のミニストリーがどのようなものになるのかを示す重要なしるしでした。
レオナルド・レイヴェンヒルは1994年11月7日に亡くなりました。私は死ぬまで主に仕えた多くの人々に出会うことができましたが、その中でもまず最初に頭に浮かぶのが彼のことです。彼が著書の中やメッセージの中で語った幾つかの言葉をここに挙げてみたいと思います。
レオナルド・レイヴェンヒルの知恵の言葉
私たちにリバイバルが訪れない唯一の理由は、私たちがリバイバルなしでもかまわないと思っているからです!
今の教会は、責任をのがれて携挙されることを望んでいます。
もし祈りが弱ければ、私たちはすべてにおいて弱いのです。
人はアドバイスを与えるが、神は導きを与える。
あなたが生きる目的にしているものは、キリストが死ぬに値するものですか?
罪を犯している人は祈るのをやめる。祈る人は罪を犯すのをやめる。
私たちは何年もかかって山のように膨大な紙と川のように大量のインクを使って、歴史上の大きなリバイバルに関する証しをでかでかと書きまくったにもかかわらず、いまだに世界中の国でひどい腐敗があり、教会ではペンテコステ以来最も祈りが少なくなっている現実に対して、どうか神が私たちを憐れんでくださいますように。
かつて教会は滅び行く人々を助ける救助艇であったが、今は有望な人たちを招き入れる遊覧船である。
願望は、悪魔の「手配中極悪人リスト」にのることである。
今の牧師たちがしているメッセージと同じメッセージをイエスが語ったならば、イエスは決して十字架にはかけられなかったであろう。
人生最大のチャンスはチャンスがあるうちに捕まえなければならない。
私の人生の主たる娯楽はサタンが提供する喜びの代用品である。
(終り)
10 11月
あなたの「思いの想定 assumption 」を考え直す
グラハム・クック
私たちが多くのことで、自分の考えに従ったために、好ましくない地点に到達しているとすれば、今私たちは 新しい思いと考え方を身につける時ではないでしょうか。私たちは、自分の考えによって必ずどこかへと導かれます。
そうであれば、自分の考えが私たちに対する神のすばらしい御こころから外れていないように注意することは、 自分自身に対する私たちの責任です。
人は、その人の考えが正しくてもあるいは間違っていても、その人の考えるような人になってしまいます。それは箴言23:7の一部に「人の思いがその人となりを造ります。」(訳者意訳)とある通りです。
主の御前で自分自身の価値評価を問うことは極めて重要です。もしその評価が高ければ、私たちは努力しなくても喜びのうちに生きることができるでしょう。しかしもし大変努力をしなければ感謝を表せないならば、私たちは自分の考え方を調整せねばなりません。
主の恵みに中で、私たちはみな自分を高く評価する特権を頂いているはずです。実際、キリストのうちにありながら、神が今までにして下さったこと、現在していて下さることのすべてに、大いに感謝しないことなどあり得ません。それは真のワーシップへと私たちを導く踏み台です。イエス様の麗しさの中で自分自身を受け入れるのです。もし主のお名前の一つが「ワンダフル」であり、私たちが主の内にあるのならば、神が私たちの内に創られていることや自分に対して「ワンダフル!」という思いを持つのは当然であり、ふさわしいことであるのです。
確かに、私たちは「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。(ロマ12:3)」と勧告されていますが、これを聞くと私には笑みが浮かぶのです。
第一に、この勧めがある聖書箇所は、この世的な物事の考え方に調子をあわせないようにと言っています。
第二に、心の一新が人生の根本的な変革のために必要であるとも言っています。
第三に、私たちの考え方が、神に受け入れられる、良いものであり、全き御こころに適うものでなければならないと言っています。
そして第四として、私たちは自分を高く評価しないようにとは言われていません!
私たちは信仰によって歩む落ち着いた生き方にふさわしい考え方をするようにと言われているのです!
この逆説的な勧めの中には、私たちがするのを許可されていることが沢山あるのです。ですから私たちは、私たちに対して神が持っておられるヴィジョンの中で、自分が受け入れられる真の場所を見出さねばならないのです。
私たちは(自分の将来を)思考をすることによって、期待が生み出されます。もし思考することが乏しいならば、私たちの人生の可能性も非常に減少します。神に受容され愛されているという保証があるとき、私たちは神の暖かさを感じ神を信頼することができます。それによって私たちは、神の偉大なご性質を探り、自分の真のアイデンティティーを発見する力を得るのです。自分のアイデンティティーが鮮明になってくると、期待感が高まります。即ち、自分の可能性に対する新たな思いと、神に対する偉大なる期待を抱かせる新たな思いへと私たちは導かれるのです。
聖霊は、私たちを理論だけの状態から実践へと巧みに導いてくださいます。そして、そのような真理の実践は新たに神を経験する機会を創りだします。それは真理が私たちを神との出会いへ必ず導いてくれるからです。すべての人間関係は実際にお互いをよく知り合う経験なくしては、初め出会った時点から深まることはありません。すべての人間関係は、出会いと共にお互いをよりよく知り合う経験を重ねることによって成長します。この世で真理であることは御国においても真理です。私たちは聖霊の働きなくしては、継続する真の人間関係を与えられることはありません。
今まで自分が持っていた「思いの想定 assumption 」を考え直すならば、聖霊は私たちが真理をしっかり胸に抱くように導いてくれます。その真理は、キリストの内にある自分自身が何者であるかを受け入れる自由を私たちに与え、聖霊が私たちの周りに作ってくれる「自由の領域」に足を踏み入れさせてくれるのです。
キリストの命の中に私たちのための新しいスペースが開かれます。私たちの成長の次の段階は、今自分はどのような者であるか、そしてキリストにあって次にはどのような者になるのかについての幾つかの新しい考えを持つことから始まるのです。(終り)
編集者より
今回、突然私たちのサイトが消えてしまい、その復旧に数日掛かってしまいました。この間、皆様からご心配いただきましたことを心から感謝し、又、深くお詫び申し上げます。
坂 達也・柚実子
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