Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
01 02月
神から受けたものを保つ方法
グラハム・クック
神の御国にでは、あなたが神から受けるものはすべて、人に与えるために受けるのです。
私たちは自分が変革される道を学んでいますが、その鍵となる原則はこれです。「キリストにある私たちの経験は、それを人々に分け与えることを通して私たちの内に確立される。」その経験を自分の内だけに留めておくと、時が経つと消え失せてしまいます。しかし、それを人に与え続けるならば、もっと豊かにあなたに返ってきます。(ルカ6:38参照)
この原則を人間関係に当てはめると非常に興味深いものがあります。神が私に与えて下さったものを用いて人々を解放していくと、私の内のギフトが実際に増し加わり、もっと 豊かに(人に)与えることができるようになるのです。
以前は、私は内なる御国からではなく、周りで起っていることや、周りの人々の態度によって自分の感情を左右されていました。当然のことながら、それはよい結果を生みませんでした。私のリアリティーは内なるキリストから来ることを私が学び始めた時、周りにいた人たちは皆ホッとしたに違いありません。
神がご自分の性質を絶えず私に配分してくださっているので、私は単に人々の言動にその都度反射的にリアクトするのではなく、事前に自分の態度を予め定めることができます。私もあなたも神のご性質を前もって配分しておくことができるのです!
いろいろな日々の状況に、 私は「用心深く、悲観的に、否定的に、敵意をもって、攻撃的に、けんか腰で」臨んだことが何度もありました。「やっつけられないようにしろよ」とか「人のいいなりになるなよ」というような態度です。そのような気持で事に臨むならば、その結果は私の態度によって初めからすでに決められてしまっています。そして私は自分で蒔いたものを自分で刈り取ったのです。
けれども私が前もって充分な時間をかけ「御霊の実」を人々に割り当てる時には、私が彼らを主に祝福された状態に導き入れることができるので、彼らはどのような状況下にあっても、神の臨在を受け取りその中で神の御声を聞くことができます。
聖霊は人生を生きる天才であり、すべてのプロセスを司っておられます。この点において聖霊と共に祈ることによって、私の中の善意以外の(個人的な)動機はすべて完全に拭い去られます。そして動機と行ないにおいて私は聖くされるのです。
一つ私の個人的な経験をお話ししたいと思います。私の人生の悪夢のような一時期を、主は逆転させ、相手の人に癒しをもたらし、又私が大きく成長する力を与えてくださいました。ちょっと辛い話ですが、とても面白くもあります。あなたのお役に立てたらと思います。(訳者注:主がグラハム師の前に、師が一番いやがりイライラさせるような人ライオネルを敢て送り込んだのです。)
ライオネルは私を非常にいらいらさせ、立腹させました。手短かに言いますと、彼は私のメンターになることが自分のミニストリーであると堅く信じていたのです。彼は私を指導訓練して大いに繁栄させるために神から遣わされていた、と言うのです。ところが問題は、彼が用いた訓練方法は、全部私自身が作成したものだったことです!
彼は人々の前で私に手をおいて祈ったのですが、それは私が祈りのクラスで教えた「最も効果的な祈り」として私が考案した祈り方 crafted prayersそのものを用いた祈りでした。
いや全く腹立たしいのです! ある時私は「聖書のみ言葉からの預言」というクラスで、私たちの召しとデスティニーを形造るために「一生役立つ座右の銘的な」聖句 life verse」を神がどのように与えてくださるのか教えていました。そしてその時、私の人生で非常に重要であった幾つかの聖句を話したのです。ところがライオネルはその聖句を使って、私に偽の預言をしたのです。 全く腹の立つことにー彼は、何とかして自分が「グラハムのメンターである」ことを人にみせびらかそうとしたのです。
彼は私と出会うといつも、私に向かって指を鳴らし、私のCDや本の中から引用して、神が私に知らせたいことを声高に教え始めるのです。私のいらいらは頂点に達しました。
何週間も経ってから、私は主が優しくこう言われるのを聞きました。「ねえ、グラハム、わたしがあなたを連れて行きいと望んでいる所では、あなたはもっと忍耐が必要ですよ。」と。それは謎めいたミステリーで、意味が隠されている言葉であり、私の頭を離れませんでした。数週間後、もっとはっきりした主のメッセージを受け取りました。「グレイ(神がグラハムを呼ばれる愛称)、ライオネルとあなたは二人とも同じものを必要としているんだよ。」
天が崩れ落ちると同時に足の下の落とし穴が口を開いたようでした。その時私は神からのものではない悪い言葉(異言)を口から出していたかもしれません。でも腹を抱えて大笑いしている神に向かって怒り続けるのは本当に難しいものです。
神は私と一緒に笑う時もありますが、時に又私のことを笑う時もあります。どちらにせよ、神は私を微笑ませてくれます。神の喜びは深く伝染するものですね。
神のコメントを聞いたときの私の腹立ちを持続することは到底無理でした。私はいつもまつわりついているライオネルに対してもっと忍耐することを学ぶことを、しぶしぶながら考え始めました。ここがポイントですが、もし神があなたに何かを学べと言われたときは、それに関して何か喜べることを探してください。喜びは強力な(腹立ちを押さえる)麻酔薬です。
私はライオネルに対して忍耐を分ち始めました。彼はそれによってものすごく励まされました。私に対する彼のミニストリーは見るからにうまく行っていました。彼は勇気を得て、私の人生の他の領域までメンターとして力を発揮してきました。私は自分の子どもっぽさを見せないようにして、聖霊に助けを求めました。二人で出席する集会が予定されている時は、何日も前から忍耐を彼に向けて割り当てました。
彼は会場の左側の一番前の列に座るのを好みました。私はその全部の椅子に手をおいて祈りました。ところが彼は今度は右側に移りました。私はそこで彼を祝福しました。次に彼は後ろの方に座りました。
しかし彼に割り当てた私の忍耐は心からのものではなく、状況に左右されてしまうものだということが分かり始めました。神に真剣に従わねば二人とも成長できないのです。私は彼に忍耐したかったのではなく、彼を忍耐強くしたかったのでした。できれば彼が喉を痛めて声が出ないようになって欲しかったのです。
御霊の実に逆らえるものは何もありません。私は自分のこころを主と共に御霊の実へと進ませました。私は自分の忍耐を、神からの恵みの一つとしてライオネルを祝福するために用いるのではなく、彼から自分を守る盾として用いていたことに気がつきました。
神が、ある人に対して、あなたがどのような者になって欲しいかを本当に理解するようになると、あなたは最早、その人が何をしようといらいらしなくなります。
私は神がライオネルを(無条件に)どれほど深く愛しておられるかに気が付きました。そして、私がその事に敏感になればなる程、私の彼に対する忍耐は強まり、彼はあまり私をいらいらさせなくなりました。私たちの関係は良くなってきたのです。しかし、ブレークスルーはまだ来ませんでした。私はライオネルを私の忍耐のためのプロジェクトとして見るのではなく、ただイエスのために彼を心から愛する必要があることに気が付きました。そうなると私たちが変えられるまでの時間を計るストップ・ウオッチは必要ありません。私は時間を気にしなくなりました。
その後何ヶ月も経って私が道を歩いていると、神が「あなたの忍耐をあなたの前に置きなさい。」と言われるのを聞きました。「えっ、何ですって!どうやって?」と思わず私は口に出しました。神は「息を吐くときはあなたの前方の空間に空気を押し出すでしょう。忍耐をそのようにするのです。忍耐はあなたの霊の中にあるのですから、それを口に出して前に向かって語りなさい!」と言われました。私は口の中でもぐもぐと「忍耐」と言いました。すると神は(私に対する愛をこめて)笑われました。私は主がどれほど私を愛しておられるのかをしばしば忘れていますが、時に、主が私に学ばせようとされる主の愛とその情熱に心打たれます。私は次の数分間、忍耐ということばを私の前に何度も吐き出していました。そして主に「なぜ私は今こんなことを道路上でしなければならないのですか?」と訊ねると、主は「ライオネルがその角を曲がったところをこちらに向かって歩いて来つつあるからです。」と答えられました。
主が「ライオネル」と言われた時、私は心を打たれました。名前の言い方に愛が溢れていたからです。私は今までより2倍がんばって「忍耐」を前方に送り出しました。角を曲がるとライオネルが60メートル先にいるのが見えました。彼も私を見つけて、指を鳴らしました。私は縮まっていく二人の距離にむかって、もっと「忍耐」を送りました。突然、彼は何かにぶつかったように立ち止まりました。近づくと、彼は訝しげな顔をして頭を振っています。私は「大丈夫ですか?」と聞きました。
すると彼は目に涙を浮かべ「私にはミニストリーがありません。私の兄弟たちは皆私よりずっと頭がいいんです。私は人々に認めてもらいたいんです。友達もいません。」と言うのです。
私は彼のために祈りましたが、その時何かが変ったのです。それからの数ヶ月に彼の私へのミニストリーは段々少なくなっていきました。6ヶ月後に彼は違う街で新しい仕事を見つけました。それはライオネルの内に神の臨在が濃くなり、彼が神の恵みを天から引き下ろす事ができるようになったからだと私は思います。
御霊の実は人々の周りの環境を変え、彼らの内の霊的空気を変えます。
又、人々の信仰をかき立て、人間関係を変えるのです。そして自分の中にある否定的なものを克服します。私たちが神とパートナーになるとき、人生の中で起る状況を通して神の empowering な力を得ることができるようになります。それは私たちがブレークスルーの霊に協力するからです!(終り)
26 01月
魚釣りに行く時ですよ!
キャシー・ウオルターズ
神は漁師を召しておられる!
最近私は、神から受けた最初の召しについてもう一度考えるようにという強い御ことばを何度か聞きました。あなたが最初に召されていると強く感じたことは何でしか?その時のあなたの心の思いはどのようでしたでしょうか?
それをせすに置き去りして来た召しも多いのではないかと私は思います。といって、それは何か間違ったことに走ったからではなく、私たちが最初の召しとして受けていた以外の「良いこと」をしーしかもそれでよい実さえ結んでいたーそのような結果、神からの最初の召しの幾つかをしないで終わっていたということはありませんか。
時には、私たちは前に進むために後ろを振り返る必要があります。私たちに与えられた召しに関して私はこのことだけは知っています。それは、私たちが漁に出なければいけないことです。イエスは「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われました。漁師になるためにあなたは5役者の一つである「伝道者」である必要はありません。ただ主を喜び油注ぎの中に留まり、あなたの周りには「魚」が沢山いることに心を開いていればよいのです。霊のアンテナを張れば、神が定められたあなたが会うべき人がわかるのです。それは会う人すべてに話かけるというのではないと思います。御霊によって導かれるのです。
私は毎週のように飛行機に乗りますので、隣に座る人と出会います。彼らの生活について話したり、時には奇蹟の話をしたり、イエスの話ができる場合もあります。しかし無理に福音を語ることはしません。全然話さないこともあります。私は席をアップグレイドされてビジネルクラスに座ることが多いのですが、飛行中は誰とも話したくない人も大勢いますから無理には話かけません。主ご自身が人を引寄せてくれます。主が何かその人に言う言葉を与えてくれるときは、それを話しますが、それに「食いついて」こないときは、私はそこでやめておとなしく映画を見ます。それでも私は、飛行機やホテルや様々な場所で、スーパーナチュラルなこととか冒険を沢山経験しています。
私は伝道に向いていないと思うとしたら?
私たちは、伝道は「伝道者」が都市を巡回して集会を開き、そこに私たちが未信者を無理にでも連れていって、年に一度の伝道集会で彼らが救われるのを期待するものだと考え勝ちです。でも「伝道者」も他のミニストリーと同じく「聖徒たちを整えるために立てられた」と書かれている通り、すべての伝道をあなたに代わってする人ではないのです。
神は「使徒、預言者、牧師、伝道者、教師」を「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるために」召されたのです。(エペソ4:11、12)5役者は私たちのためにすべての仕事をするのではなく、キリストのからだにどのようにその働きをするかを教える者であるのです。預言者は人々にどのように預言をするかを教えます。教師は油注ぎの下で教えますが、しかし又、人々にどのように教えればよいのかを教えます。
牧師は人々を牧しますが、それと共に人々にどうすれば自分のようにできるかを教えます。牧師は牧師の召しがある者たちを認識し、自分の翼の下で訓練し教えます。伝道者はキリストのからだに魂を勝ち取るように励まし教えます。彼は大伝道集会やクルセードをするかもしれませんが、それと共に聖徒を整え、失われた魂を勝ち取る方法を教えるのです。
つまりこういうことです。今は教会が外に出て行って魚のいる川が沢山あることに気がつくべき時です。そして各々が違う川に行く道を与えられているのです。皆さん、もし御霊に導かれ、宗教的な考えから抜け出すならば、それはとても愉快でわくわくすることであり、神がその中におられるのです。
イエスは偉大な漁師でしたね。主は魚のいるところを知っておられました。ですからあなたにも魚のいる場所を教えてくださいます。
このことを理解して頂くために、私が実際に経験したことを証ししたいと思います。しかし忘れないで下さい。あなたはある時には種を蒔き、又ある時には刈り取りますーそれは聖霊に導かれるままに、常にアンテナを張っていることです。
のたうちまわる魚
私の「のたうちまわる魚」の話をしたいと思います。2年ほど前、私はカンファレンスのためにハンターバレーに滞在していた時のことですが、友人たちが休みの時間に昼食と買い物に町に連れていってくれました。小さな町にいく途中の車の中で私は幻をみました。それは大きな力のある魚の幻でした。魚は釣り針に掛かっていたのですが、自分の胴体を激しく振り動かしていました。その時主が「わたしはあなたにそのように『のたうちまわる魚』をあげます。」と言われました。
私たちは昼食を食べてから少し買い物をしたのですが、その後に宝石屋に入っていきました。というのは私はアンティークの宝石が大好きだからです。そして、この店の主人が私の「のたうち回る魚」でした。彼は私たちに応対してくれましたが、私がイエスの名を口に出した途端に、くねくねと向こうに行ってしまいました。そしてまた、近寄ってくるのですが、イエスの話になるとまた向こうに行ってしまうのでした。 私たちはそれ以上何も押しつけませんでしたが、それから2年間、私がハンターバリーに行く度にその宝石店に行って「のたうち回る魚」をチェックしました。彼がどうしてそうのたうち回るかというと、それは彼がそこにあるフリーメイソンのリーダーだったからでした。でも私とそこの住人である友人に対しては、彼はいつも愛想良く対応してくれました。最後にそこに行ったときに、私のCeltic Flamesという本を彼に進呈しました。
今回その宝石店に行くとき、私は又幻を見ました。大きな魚が主の釣り針にかかっていて、死んではいませんでしたが静かにしていました。彼は用意が出来ていたことが私にはわかりました。それで私たちは買い物をしてから宝石店に向かいました。そこで少し買い物をして話を始めました。彼が言うには、このところあまり客が来なかったけれど、私たちが店に入るといろんな客がやってくる、というのです。彼は私にお金を払うから店の中に座っていてくれと言いました。やがて客がいなくなったとき、彼は私のCeltic Flamesを読んでいたと言いました。彼はソフトになっていました。私は彼に「あなたは神の釣り針にもうかかっているから、イエスを受け入れる時ですよ」と話しました。そして彼のために祈ってもいいですか、と訊ねると、彼は手を伸ばして私が祈っている間、その手を私の手に合わせていました。私はこれは交換だと説明しました。もし彼がイエスに彼のいのちを明け渡したら、イエスはご自分のいのちを与えてくださるのです。彼にイエスを受け入れる祈りをしたいかと訊ねると、彼は少ししりごみをしました。そこで私は「イエスを受け入れる祈りはあなた一人でも出来ますよ」と告げて、店を出ました。帰りの車の中で、大きな魚がイエスの腕の中にいる幻を見ましたので、彼はもう大丈夫だとわかりました。
以前、私がイエスの釣り針に掛かった大きな魚を見た時、その川の下には大きな魚が一杯いるのが見えました。そして私の「のたうち回る魚」はその川から来たのです。沢山の魚がその川にいました。その川は何処にあると思いますか?
それはフリーメイソンの中です。私はそれを考えつきもしませんでした。というのはフリーメイソンの霊から解放される人々をすでに沢山見て来たからです。
しかしこれからフリーメイソンの中に聖霊の動きが始まる時が来ます。死の霊は退かねばなりません。神が入って来られるからです。 油そそぎが人々をあなたに引寄せます。そして彼らはあなたと話したいと思うのです。あなたが出会う人がすべて「今とれる」魚ではありません。でももう少し川を下ったところで可能性がある魚であるかもしれないのです。
立ち止まって聖霊に魚の居場所を教えてくださいとお願いすることを忘れないでください。以前私は魚釣りをするには何かやり方があると思っていました。でもその考え方はやめました。あなたはただイエスを愛して、主を楽しみ喜ぶならば、油注ぎがやって来ます。あなたはそれに応答すれはよいのです。(終り)
18 01月
聖霊の力を受けて証人となる
ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン
イエスは最初の教会を始めようとしておられました。イエスは何が起るかをご存知でしたが、弟子たちは知りませんでした。イエスはすべてのことを弟子たちに話されたのではありません。主は唯彼らをオリーブ山に連れて行かれ、「あなたがたはわたしの証人になります。」と言われたのです。証人というのは、自分が見聞きしたことを話すことです。教会のメンバーになるというのは証言をする群れの一人となることです。
証人になるためには、クリスチャンになってから時間がかかると思う人があるかもしれません。証人になるのは、訓練され、知識が増えて賢くないとできないと思う人もあるでしょう。でもそれは間違いです。しかし、自分の力ではできないことは知らねばなりません。
私には、イエス・キリストの証人になるための力も、知恵も、権威も、見識もないのです。イエスもそれをご存知でした。ですから主は「あなたはエルサレム(あなたの毎日の生活の場)、ユダヤ(あなたの街とか)、サマリヤの全土(あなたと昔から折り合いの悪い人たち等)、および地の果て(すべての壁を越えて)までわたしの証人となります。でもあなたは父が約束してくださった聖霊があなたの上に臨まれるまで、エルサレムを離れてはいけません。」と言われたのです。「一緒にあつまって父の約束が与えられるまで祈って待ちなさい。
あなたはその時、力を受けて、わたしの証人となることができるのです。ですから出かける前にまず祈り会をせねばなりません。」と言われました。ですから彼らが最初にしたのは、祈り会でした。
チラシをエルサレム中に配って教会に招待するのでもなく、教会のすばらしいホームページを作ることでもありませんでした。主は「皆で部屋に入り、神が訪れるまで、そこを離れてはいけません。」と言われたのです。これがイエスが初代教会が始まるときに確立されたルールでした。イエスの証人になることは、聖霊があなたに臨まれるときに、自然に起こることなのです。「今、街頭に立ってイエスの証しをして来なさい。」と言われたら、皆さんは「えーっ!どうしよう!」と思うかもしれません。私もそうです。でも聖霊があなたに臨まれると、聖霊があなたをつき動かしてくださり、イエスの十字架と復活を語ることは全く自然なことになるでしょう。聖霊がいつそのようにされるのかあなたには分かりませんし、自分でそのようにしようとすることもできません。
少し前に私は娘とマニキュア・サロンに行きました。娘とのデイトでした。どのように主が証人となる戸を開いてくださったのかも思い出せないのですが、気がつくと私はそこにいた人たちに福音を語っていました。そしてその内の二人の婦人が涙を流してイエスを信じたのです。店を出るとき、私は「何てすばらしことが起こったのだろう!いつもこの様にできたらいいのに!」と思いました。
どうすればそれが起るかを私は知りませんが、神はご存知です。聖霊が臨まれて自分の力では作ることのできないチャンスを作ってくださるのです。
イエスが弟子に教えた戦略は「聖霊が来るまで祈りなさい。その時あなたはわたしに証人となります。」というものだったのです。イエスの昇天後、弟子たちはエルサレムの屋上の間に上がり、心を合わせて祈りに専念し始めました。何を祈ったのでしょうか。それはイエスが言われように聖霊が来るように祈ったのです。初代教会の最初の祈り会は、そこにいたメンバーの必要に関する祈りではなかったのですね。誰かの病気のためとか、誰かの職探しのためとかではありませんでした。勿論私は、神にとってそのようなことがどうでもいい事だと言っているのではありません。どのように小さなことでもご自分の子どものことは神の関心事です。しかし私たちの祈り会の中心はそのような事ではないということです。それらの事柄を祈ってはいけないということでもありませんが、それが一番のことではないのです。
ともすると私たちは集まって、自分たちの必要が満たされるようにという祈りばかりしてしまいます。使徒行伝の中には4つのパワフルな祈り会のことが書かれていますが、メンバーの必要に関する祈り会ではありません。4つはすべてミッションが中心です。
聖霊を待つこの祈り会は10日間続きました。聖霊が臨まれるように祈り続けたのですが、これは聖霊なしに祈ったのですから、大変なことでした。私が12歳の頃、おばあさんに毎日チャペルに連れられて行きました。「聖霊が来るように一時間祈りなさい」と言われました。一時間経ったかと思って時計をみると、まだ3分しか経っていませんでした。初代教会の最初の祈り会では、120人が一緒にいて心を合わせていたことは、大変重要でした。神を求めていて臨在を感じないときでも、私たちは周りの人たちに励まされて祈りつづけることができるのです。一人で走っているのと、一緒に走ってくれる人がいるのとは全然違うのと同じです。
120人は10日間祈っていましたが、何も感じなかったことでしょう。今の教会は5分祈って何も感じないとやめてしまいます。というのは私たちはご褒美がもらえないとすぐやめてしまうカルチャーの中にいるからです。でも120人は止めませんでした。そしてペンテコステの日に聖霊が臨まれました。激しい風のような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れて一人ひとりの上にとどまりました。その炎は彼らの心に入り皆が聖霊に満たされました。一人だけではなくすべての人が満たされたのです。
一つところに集まって「聖霊よ、来て下さい」と祈ったとき、それがどのような形で訪れるか、彼らには全く予備知識がありませんでした。今まで起ったことがなかったからです。
皆さんにお知らせしたいことがあります。それは神様はどの教派にも属しておられないことです。バプテスト派でもない、ペンテコステ派でもありません。福音派でもないし、長老派でもありません。教派とはなんでしょうか。それは、聖霊は何をしてもよいか、何をしてはいけないか、を決めてしまっているグループです。「私はバプテスト派ですから、そういうことは信じていません。・・」という様にです。
両極の律法主義があります。カリズマ派の律法主義と保守派の律法主義です。カリズマ派の律法主義は、「聖霊が来るとき、人々は倒れたり、床を転げ回ったり、笑ったり、叫んだり、泣いたり、身体をぴくぴくさせたりしなければならない」というものです。その反対に保守派の律法主義は「聖霊が来るときは何をしてもかまいません。ただし、倒れたり、身体を震わせたり、笑ったり、叫んだり、泣いたり、異言で語ったりしてはいけません。」というのです。片方は聖霊を「常にこのようなことをせねばならない」という箱の中に入れていますが、他方は「決してこのようなことをしてはならない」という箱の中に入れています。けれども神を箱の中にとじこめることは決してできません。「神は必ずこの様にされる」とか、「決してこの様にはされない」という既成概念を捨てようではありませんか。そして神が神であられることを許すのです。神ご自身に何をどのようなされるのかを決めていただくのです。私たちが共に集り聖霊を待ち望むとき、何がどのように起るのかは聖霊に決めていただこうではありませんか。聖霊が神であり、私たちは神ではないのですから。
それはつまり、「身体が震えなかったから聖霊は来られなかった」と言わないことです。それと同時に何か奇妙なことが起ったとき、「私はカリズマ派ではないからこういうことは好まない」と言ってその場を去ることをしないということです。聖霊がされることに常に私たちはオープンであることです。私たちが聖霊のされることに心からオープンになったとき、神はその都度違うことをされるのです。神は非常にクリエイティブな方です。私たちが集まっていつも同じことをしているならば、それは聖霊を閉め出しているからかもしれません。聖霊があなたを自由にされるためには、あなたがまず聖霊を解放し自由にせねばならないのです。私たちは聖霊を教派の教義という箱にずっと閉じ込めて来たのです。
あなたはクリスチャンですね。聖霊の賜物はカリズマ派だけにものでしょうか、それともイエス・キリストの働きでしょうか。「私はカリズマ派ではないから病人の癒しは信じない。」と言われるのですか。でもあなたはイエスを信じておられるのですよね。イエスは病人を癒したいと思われたら、癒されるのです。イエスがイエスでいられるように解放しようではありませんか。
ですから弟子たちは何の既成観念もなしに集まっていました。イエスが聖霊はどのように来られるのかを何も言われなかったからです。ただ「祈りなさい。それが起るときにわかるでしょう。」と言われました。聖霊があなたの人生に侵入してくるとき、それははっきり分かるのです。劇的な経験をする人もありますが、静かに起ることもあります。私の場合は夜中に神にささやくように感謝の祈りをしていたときに起りました。ですから目に見える現象ではなく、聖霊そのものを私たちは求めるのです。どのように来てくださるかは、聖霊が決められるのです。
弟子たちは聖霊に満たされて、大声で大胆に話し始めました。これが最初のしるしでした。サタンはあなたがイエスの証しをすることを止めさせたいので、あなたが声を出さないようにするのです。大きな声で祈ることをしないクリスチャンが多くいます。ワーシップも証しの一つですが、サタンはあなたがあまり声を出さないようにするのです。あなたが大きな声でワーシップをするとき、あなたの周りにいる人が励まされるので、サタンは「あまり大声で歌うな。お前は大したクリスチャンでもないのだから。」とか「お前は歌が下手だ。」とかささやくのです。私の娘が歌ってくれるとき、私にとってそれはとても美しく聞こえます。神もあなたが歌うとき、それが上手でなくても、神には美しく聞こえるのです。あなたは神の子どもだからです。
私にとってみ言葉を静かに黙想し主の前に静まる時はとても大切です。でもそれと同時に声を出して「主にむかって叫び、喜びの声をあげる」ときも大切です。声をあげるのは常の状態よりもっと力を入れることです。そのような祈りの時を毎日持つべきです。そして日曜の礼拝にみなで集まるときは、家族に迷惑をかけることなく大胆にできる時です。
ペテロは聖霊に満たされて大胆に語りはじめました。彼は神学校に行ったこともなく、説教のための準備もしませんでしたが、彼の中に蓄えられていたみ言葉が聖霊によって活性化され炎のように燃え上がったのです。教会の一番最初の祈り会の目的は、弟子たちに証しの力を与えることでした。
使徒行伝2:41、42には「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。すべての者はイエスの与えた大宣教命令を、力や権力ではなく聖霊の力によって果たすために、祈りに専念したのでした。使徒行伝に書かれている祈り会はすべて伝道のための祈り会でした。彼らが更に聖霊に満たされ、イエスの死と復活を力強く語る力を得て、伝道の業が前進するようにと祈ったのです。
皆さん、今は祈る時です。祈りに専念するときです。正しい目的のために祈りに専念する時です。私たちがイエスの死と復活と栄光を力強く証しする者となるために力を受けるのがその目的です。
あなたの必要はすべて神の関心事です。しかし「神の国とその義をまず求めるとき、すべてのものは添えて与えられる」のです。ですから「すべてのもの」は神にお任せして、祈りの声をあげてイエスの証人となるために聖霊の力を受けようではありませんか。(終り)
04 01月
皆様、2016年明けましておめでとうございます。今年の最初のメッセージをお届けします。どうぞ今年もよろしくお願いします。 坂 達也・柚実子
待つ価値のあるお方
ダッチ・シーツ
私たちは出エジプト記24:13—18の箇所を読んでも、次の点を見逃してしまうことが多いのではないでしょうか。即ち、主がモーセを呼ばれ神の栄光の雲の中へと招かれるまで、モーセとその従者であるヨシュアは6日間、シナイ山で待っていたことです。神が沈黙されていた6日の間、二人は一体何をしていたのだろうか、と考えてみたことがありますか?
そしてモーセが雲の中に入ってしまってから、若者のヨシュアが一人で雷や稲妻の中その後34日間も留まっていたことも私たちは見落としてしまっているのではないでしょうか。
ヨシュアが神の臨在を深く愛する者となったのは、恐らくこの経験を通してではなかったでしょうか。山を下った後、モーセが会見の天幕から帰ったあとも、ヨシュアはまだそこを覆っていた神の栄光の雲の中で幕屋を離れないでいたと書かれています。(出エジプト33:11)ヨシュアがシナイ山で神の臨在の中、或いはその近くにいた間、実際に何をしていたかを聖書は語っていません。しかし私がこの非常に興味深い出エジプト記の箇所を調べていた時、神は次の言葉を語ってくださいました。「待て。待て。待て。待て。待て。Wait.Wait.Wait.Wait.Wait.」
ヘブル語で「待つ」という意味を表す言葉は幾つかあり、その意味も幾つかあります。私は「待て。Wait.」という主の言葉を5回繰り返して聞いたのですが、主がそれぞれの「待て。」を何を強調して言われているのかを霊ではっきり悟ることができました。
1.主が語られた最初の「待て。」は、静かに落ち着いた信頼をもって待つという意味です。これは深い関係の絆を基盤として築かれる信頼をもって待つという姿です。私たちが主を十分に知るとき、私たちの心は人生の最悪の嵐の最中でも静かに主に信頼することができます。この点において父親役のモーセは若いヨシュアに影響を与えることができたかもしれません。しかし、ヨシュア自身も主の慈しみとまことを十分知っていたのです。自分に対する神の語りかけがなく、何の不思議な業を見なくても、彼は民が恐れた雲の中にあって平安でいられたのです。
2.二番目の「待て。」は、普通よく使う「忍耐強く待つ」という
意味です。私たちは神との親密な関係を結んだ結果、神は遂には必ず事をなしてくださると信じて疑うことなく、安心して待つことができます。私は25年ほど前に、霊的覚醒が起るというヴィジョンを初めて受けたのですが、もしそれが実際に起り始めるのにこれほど長くかかると分かっていたなら、忍耐強く待つことはできなかったかもしれません。しかしながら、次の神の偉大なムーブメントが完全に満ちるには後25年待たねばならないと今主に告げられたとしたら、私は忍耐強く待つことができると思います。それは私が主と共にずっと歩んできたので、主は約束を必ず守ってくださる方であり、主のなさることは常に正しいことを学んできたからです。
3.三番目の「待て。」は能動的な信仰を示唆しています。私たちは深い関係を基盤とした神への信頼を持っているかもしれませんが、その信仰は行動を要するのです。私たちは神は約束された事を必ず成してくださると完全に信じ期待する間も、自らも行動しながら主を待ち望まねばなりません。ただ主がしてくださるのを望んで何もしないでいるのではありません。神が働いてくださると確信するので、あなたは主に徹底的に従う人生を送り、大胆に宣言し、実がなるのが遅くなっても落胆せずに信仰の冒険の一歩一歩を歩んで行こうと決意するのです。あなたが蒔くものをあなたやあなたの世代が刈り取るという神の約束を信じて疑わないからです。
4.四番目の「待て。」は、あることや、又は誰かと共に結び合わされるという意味です。これはイザヤ40:31の「主を待ち望む者は新しく力を得る」で言われている「待つ」です。ヘブル語の原語はgavahで、「ねじりながら一緒になる、一緒に編み込まれる」という意味です。この「待つ」を通して、私たちは主と一つになるのです。このように「主と共にしっかりと編み込まれた状態で待つ」というプロセスの中で、神と私たちの心は一つとなり、主は私たちを御そばに引寄せてくださるのです。
撚られた紐のようにしっかりと主と組み合わされて、私たちは主と同じ思いになり、同じ事を考えるようになるので、主の御こころを達成するための力が何倍も与えられるのです。それは箴言16:3の「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(あなたのしようとすることを主に信頼して完全に委ねなさい。そうすれば主はあなたの思いを御こころと一致させてくださいます。そしてあなたの計画は確立され成功するでしょう。)」という御言葉の成就です。
5.最後の「待て。」を主が大声で言われたのを、私は霊ではっきり聞いたのですが、次に主はその言葉の綴りを言われました。主は「wait 待つ」ではなく「W-E-I-G-H-T 重み」と言われました。それは実際に質量のある重い主の栄光の臨在のことを指しています。栄光を表すヘブル語は、実際に「重い、どっしりとした」という意味です。主は「もしこれからの日々、あなたが私を待ち望むことを学ぶならば、即ち信頼し、忍耐強く、期待を持って、私と一つとなって待つならば、わたしはわたしの栄光の重みをもって訪れるでしょう。わたしは多くの都市や地域を覚醒させるために来て、わたしの重いシャカイナの栄光があなたの内に、又あなたの周りに留まるようにするでしょう。
アダムがわたしに似た者として、わたしの栄光の冠を与えられ、わたしの臨在の中に浸されていたと同じように、わたしはあなたにわたしの栄光の冠を与えます。わたしはあなたの上にわたしの重い臨在を置き、あなたは地上でわたしのために統治するものとなるでしょう。あなたは大いなる権威と力を持って歩み、しるし、不思議、奇蹟が伴うでしょう。使徒行伝の教会の時代のように、人々はあなたによってわたしを知り、あなたは『私にあるものを上げよう。(使徒行伝3:6)』と言うでしょう。今は神の息子たちが地上に現れ、全地がわたしの栄光で満ちるときです!今がその時です!大勢がやってきます!」
私たちは今まであまりにも長い間、神が私たちのために用意された啓示のレベルよりずっと低い所を歩んできてしまいました。「栄光の神が私たちの内に住んでおられ、私たちは聖霊の宮であり、イエスの中にあったのと同じ力が私たちの内にあり、主の超自然的業よりもより大きな業をすることができる」という理解を更に深め、認識するようにと、主は今、私たちを呼び出しておられるのです。主は今、すべての場所、すべての社会的分野へと神の栄光の雲を持ち運び、国々を変革させることができるような「(神の栄光で重い)ヘビーウエイト級の男女」を建て上げようと願っておられるのです!
主はあなたを待っておられます。あなたはあなたの内に主の臨在と力の栄光ある重みが激しく増し加わるまで、主を待ち、待ち、待ち、待つ用意がありますか?
あなたはある期間、テレビやソーシャルメディアを見ずに消したり、既に予定していたことをあなたの予定表から消したりして、もっと主と交わる時間を作らねばならないかもしれません。しかし、私はお約束しますが、主はあなたが待ち望む価値が絶対にあるお方です。(終り)
21 12月
実現可能な夢
グラハム・クック
私たちは今新年を迎えようとしておりますが、それは新しい12ヶ月間への私たちの夢をもう一度考えてみる良い機会です。その際、幾つかの事を心に留めようではありませんか。
この世は、出来る限りすべてのもの、すべての事に、制限や限界を設けることを大変好みます。
私たちは「この夢はどうせ実現しないだろう」と自分に言い聞かせるように馴らされています。それはコンピューターのデフォルト設定(あらかじめ組み込まれた設定)のようなものです。私たちは小さい時から、「うまく行かない事もある」、「実現しないこともある」、「絶対不可能なこともある」、と言い聞かされてきました。周りの人達から限界を押しつけられました。その人達も周りの人達からそうされてきたのです。そしてそれらの限界は自分自身の考えだとして受け入れるように馴らされてしまっています。
自分で選んだスピード制限ほど自分に一番適した制限はありません。そしてそのような制限するというような否定的な思いは伝染するので、周りの人々の中にある同じような否定的な思いを増幅させてしまいます。それは、自分も同じような影響を他の人から受けてきたようにです。
この世で「それは現実的で、リアリスティックな線だ」と言うとき、実際はもっと可能性があっても、それに否定的な可能性を付加したり、保守的な考えと云う障害物を置いて(それは現実的ではないという)制限をつけてしまった考えであるのです。「夢の仕事」や「あこがれのライフスタイル」を勝ち取るなどと考えてあらぬ努力をすることは、全く(可能性の)希望はない無理なことと思うべきであり、「もっと幸福な人生」を送ろうと思えばその考えを是正すべきだと考えてしまうのです。しかし、「もっと幸福な」と言う言葉は実のところ、他の人たちが通ってきたと同じ道を歩くことに満足して「高望みとか無理をせず、人並みで平均的な」人生を送るということです。
いずれ人の通る道とはそのようにして作られていきます。幾人かが同じところを踏みながら歩いていくと、それが小道になり、やがて道路となり、そして6車線もの高速道路となります。これが、この世が持つ私たちが辿るべき人生の考え方なのです。
「信じる者にはどんなことで可能である。」と主はいわれました。ここで
「できる、可能である possible」という言葉はすばらしものですが、悲しい事に、実用主義者のふりをした悲観主義者が世界中でそれを否定的に用いてしまっています。原語であるラテン語「possibilis」は、「それは実現可能なこと」という意味で、力、能力、許容能力などを示しています。即ち「達成する、出来うる力」です。
1500年の原語の進化を経て、原語が認識できないほどに変化してしまう言葉もありますが、この言葉に関してはこの言葉に含まれている「希望」という概念が取り去られただけです。現在「可能であるpossible 」という言葉は、あきらめや疑いという意味合いを持って用いられます。大抵は「それはやっぱり無理だった。It just wasn’t possible.」とか「本当にそんなこと出来るの? Is it really
possible?」のように否定的に使われるのです。そして「それは絶対不可能だ。That’s impossible.」という決定的な台詞があり、私たちはそれを何に関しても、誰に対しても発するのです。
私たちはそのように馴らされているのですが、それは大変悲しいことです。というのは、「それは可能である」と宣言する元々の本当の意味は、「それは出来る」と宣言することだからです。何かが可能であると決断すると、私たちは力を受けます。「はい、出来ます!」と私たちが言うとき、私たちがどのような人間かを表します。それは霊を高揚させます。自分の霊だけではなく、周りの人の霊もです。誰かがあなたに向かって「はい、出来ます!」と言ったとき、あなたは自然に笑みをうかべて「すばらしい!」と言うでしょう。
それはとてもよいことであり、私たちを力づけ、周りの人たちをも喜ばせることです。しかしそれ以上に、あなたが今まで出来ないと思っていたことを「やっぱり出来る!」と決断したとき程あなたに力を与えることは他に何も、絶対に何も、ありません。世界で一番すばらしい気持になることの一つです。子どもの頃から馴らされていた否定的な考えのスイッチを切り、不可能なことを可能であると宣言するのです。
神はこのことをずっと私たちに告げておられます。
ルカ1:37「神にとって不可能なことは一つもありません。」
ピリピ4:13「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
マタイ17:20「まことにあなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ.』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
しかし、キリストが最も決定的にそれを語っておられるのはマルコ10章です。信心深い富んだ若者がイエスのもとに来て永遠のいのちを得るためには何をせねばならないかと訊ねました。イエスは彼はすべてを正しく行っているが、今はすべての地上の持ち物を人に与えてイエスに従うようにと言われました。勿論若者は貧しい生活や、すべてを与えるということは考えられなかったので、悲しみながら、豊かなままで去って行きました。イエスは弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは、何と難しいことでしょう。」と言われて、弟子たちを又もや仰天させたのです。
当時主流だった教えは、「人生で富を蓄えるのは神から祝福されているしるしだ」というものだったからです。ですから富んだ者は貧しい者よりも天国に入る可能性が高いということです。(今でも多くの金持ちが貧乏人にこの考え方を押しつけています。)しかしキリストはそれとは違うことを話されました。即ち、自分の功績で天国に入る権利を勝ち取ることはできないと説明したのです。御国に入る道をお金で買うことはできないのです。
弟子たちが「それでは誰が救われることができるのですか?」と聞いたとき、イエスは「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」と言われました。
可能性の力はキリストによる神からの贈りものです。
神は私たちをキリストの内に入れて、私たちが恵みの中で生きることができるようにしてくださいました。そこはすばらしい恩恵を伴った場所であり、そこにおいてはすべてに手が届き、すべてを達成することが出来るのです。
すべて可能なのです。神が何かを約束してくださるとき、私たちは理論から想像の領域へと解き放たれます。その場所で私たちはただ座って「できるだろうか」「本当に達成できる確立はどのくらいだろうか」「今まで何人が試して失敗してきたのだろうか」などと、くよくよ心配しなくていいのです。そこでは「できるだろうか?」と聞くことはもう出来ないのです。
そのかわりに、私たちは「出来ます!」と言うべきです。私たちは問題を越えてその先にある約束の成就を見つめます。なぜならば、天の父からの約束は結果が保証されていて、私たちを自由と実現に向かって歩く力を与えてくれるからです。神が私たちの「不可能さ」の状態をこよなく愛される理由はそこにあります。神は私たちが行き詰まった時や絶望した時に、介入して私たちに約束をくださることが本当にうれしくてたまらないのです。私たちを不信仰に陥らせようとするような厳しい状況の中で、主はご自分の臨在を告げられるのです。それまでは考えられなかったことが想像できるまでになった時に私たちが感じる喜びを、御父はその千倍ほども感じられるのです。
ペンテコステの日に、神は聖霊の傾注により、人々が預言や幻や夢を通して神の御国に入ることを可能にされました。それは歴史上大きな変化の時でした。御子の誕生によって始められた新しい契約の締めくくりの出来事であり、キリストの内にある新しいリアリティーが現されたのです。
それはペテロがその日示したように、数世紀前に預言者ヨエルにされた約束の成就でした。ヨエル2:28−30「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。」
教会が誕生した時に与えられた預言の賜物や、幻や夢は(それと同じ賜物によって私たちも肉なるものを通り越して超自然へと到達することができるのですが)それ自体が約束の成就だったのです。
心を尽くして主に信頼し、自分の不完全な悟りに頼らないという信仰の原則を、私たちは預言によって生きることができます。あなたのいのちの中の御霊からの約束や預言は、神があなたに何をしてくださるかを語るでしょう。それらの言葉はあなたの人生の可能性を次の領域へと引きあげ、神の臨在を力強く感じるために必要な力を持っています。
神の約束とその約束に含まれている保証された結果にあなたの焦点を当ててください。そしてそこから大いなる力を得てください。不可能なものはないのです。2016年は、あなたの実現可能な夢を夢見てください。(終り)
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