Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
18 04月
アズサナウー国々の一致と癒し
ラナ・ヴァウサー
(訳者注:AzusaNow は、ルー・イングルをリーダーとするThe Call という断食と祈りのムーブメントの一環として行われたもので、1906年のアズサスト リート・リバイバルの110周年記念として4月9日にロスアンゼルス・メモリアル・コロシアムに於いて10万人規模で行われました。)
私はアズサナウの実況をライブストリームで見ていましたが、神の臨在とアメリカを越えて様々な国や人々の中で神がしておられることを見て、圧倒されました。このイベントは歴史上、何と戦略的であり、何と記念すべきものだったことでしょうか。
コロシアムに集まった何万人もの人々が天にむかって声を上げ礼拝しているのに合わせて、私もアメリカや世界の国々に主がパワフルに動いてくださるようにと叫び求めました。会場にいる人もライブストリームで参加している人も、すべての人々が一致したとき、主は深い部分に触れて働いてくださいました。
15時間にわたるイベントの中のあるワーシップのとき、私は主の臨在を非常に近く感じました。主は親しい友のように私に身を寄せられて、御こころを私に打ち明けてくださいました。「ラナ、わかるね、今日の出来事はリバイバルというよりも『一致 unity』に関することなんだよ!」
アメリカンインディアン、アフリカン・アメリカン、ユダヤ人、黒人、白人、異邦人、カトリック、プロテスタント、男、女、若者、老人、、、集まった人たちは世界のすべての国々を代表していました。
主は今アメリカが大きな霊的覚醒に入っていて、今こそリバイバルの時であると、私に説明し始められました。そしてその鍵が何であるかを主はアズサナウで明らかに示し、誕生させておられたのです!それは「一致」でした!
主は、アズサナウは世界に示された預言的な姿であることを話してくださいました。それは主が主のからだである教会にもたらされる一致の姿であり、そこから世界の国々に燃える火が解き放たれようとしているのです!主は「一致の場所」から和解、贖い、リバイバルを生み出しておられるのです。
瞬時に私はヴィジョンの中に連れていかれ、地上のすべての国々の神の民が、様々な形式の集会で共に主を叫び求め、悔い改めをもって進み、神の愛によって一つにされているのを見ました。主は世界中で今までより更に大きな祈りと一致の
ムーブメントを生み出されていて、それは今のシーズンに著しく大きくなっているのです。家々での小さな集会からコロシアムでの大会、その中間の色々な規模の集会において、主は一致をもたらされているのです。
今のシーズン聖霊は、神の民が過去の傷やあらゆる分裂を真剣に対処して、神の愛との出会いから生まれる悔い改めと赦しをもって前進するようにと導いておられるます。
詩編133:1−3「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
国々の癒し
幻の中で、世界中でキリストのからだの深い一致のムーブメントが起き、主が国々に多くの御使いたちを遣わされているのを私は見ました。御使いたちは国々に飛んで行きましたが、その手に「葉」を持っていました。彼らはそれぞれの国に到着すると、その国の地とこころに葉を置きました。それを見て、それは日焼けした肌にアロエを塗るようだと私は思いました。主は痛みを和らげ、癒し、楽にし、慰めを与えるすばらしいものを国々に与えてくださったのです。
黙示録22:2「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
主が生み出されている偉大な一致のムーブメントで、私たちが共に祈り叫び求め、(私たち神の民が日々の生活において、又集合体としても)悔い改めて進んでいくならば、リバイバルと覚醒が起り、国々の癒しが起るのです!
御使いたちが諸国の地とこころに葉を置いたとき、痛みが和らぎ癒しが始まりました。私は又、国々から悪いものが出て行くのも見ました。それはアメリカや世界の国々で偉大な解放が起っているのでした。
アズサナウはアメリカにとって記念すべき歴史的な出来事でした! イエスを賛美します!アズサナウはアメリカという麗しい国にとって霊の開墾の日であったばかりか、世界中の国々のキリストのからだのための預言的な姿でもありました。その日主の御こころ、主が心から叫び求めておられるものは何であるのかが明らかに示されました。それは「一致」であり、それは御霊の最大のムーブを起こし、リバイバルを全地に解き放すのです。
主はまた、アズサナウが会場にいたすべての人、ライブストリームで見ていたすべての人、そしてそれを求める世界中の人々に、非常に大きな規模の世界的分与を与えたことを私に示されました。それは世界中で一致を覚醒する火と聖なる「一致のDNA」の分与です。
私は主がアズサナウの中に、そしてアズサナウを通して息を吹き込んでおられるのを見ました。その息は新しい深い祈りのムーブメントを世界中に覚醒させ誕生させていました。すでに確立されていた祈りのムーブメントの中にも、増加、火、啓示と知恵を更に加えて新しい動きを生まれさせていました。
コロシアムにいた人も、ライブストリームで見た人も、又見なかった人も、主があなたに与えるために解き放たれた分与を求めてください。そしてそれを受けたと信じてそれを生みだす準備をしてください!
今が時です! 今は教会が一致する時です!その時が「来ようとしている」のではありません。今ここに来ています。私たちはただ「そうです!」と言い続け、そして主があなたの中に、そしてあなたを通してされることを見てください。
今はあなたの時です!今は私たちの時です! 国々よ、今は神の民が一致して起きて光を放ち、善き神の癒しと回復を見る時です!(終り)
ラナ・ヴァウーサー師は Australian Prophetic Council(オーストラリア預言評議会)に所属し、世界のキリストのからだへの預言者として広く知られてい ます。特にアメリカの Elijah List とCharisma Magazine へのレギュラー寄稿者です。
08 04月
愛を求める神
マイク・ビクル
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という命令が申命記6章の最初に出てきます。この書はおよそ3500年前、モーセの時代に書かれています。ここで神は聖書の中で初めて「わたしは人々が心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてわたしを愛することを欲する。」と言われたのです。これはまさに驚くべき言葉です。神は人々に服従を求める王ではないのです。神は仕える天使を大勢持っておられました。神は命令に従うだけのしもべをもっと大勢欲しいとは思われなかったのです。神はご自分の愛を受け取りそれに愛をもって応答する家族を求めておられたのです。
神が人にこのような命令を出すことに、私たちは少し戸惑います。歴史上の神々の中で、人々に自分を愛するようにと命じた神が他にいたでしょうか?
自分に従うことは命令したでしょう。しかし愛することを命令するとは、非常に興味深いことだと思いませんか。この命令はイスラエルが最初に受け取った、モーセのミニストリーの始めの出来事でしたが、40年後の彼のミニストリーの最後においても、神は申命記30章でもう一度同じ事を言われました。しかし言い方を少し変えておられます。それは命令ではなく、預言になっているのです。ここでは「神を愛しなさい」というだけではなく「人々は実際に神を愛するようになる」という神の預言になっています。預言は神の宣言ですから、必ず成就します。ですから神がこれを成就させると決意されていることがこれでわかります。30章は主が終りの日に帰ってこられる時のことが書かれていることは明瞭です。国々に追い散らされていたイスラエルが神の約束を思い出し再び集められる時、神は6節に書かれていることをされるのです。
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨て、あなたが心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」
神は「わたしはあなたの心に超自然的に働きかけ、あなた自身が持っていなかった大きな愛を与え、その愛であなたがわたしを愛するようにする。」と言われたのです。神のことばは地に落ちることはありません。何という驚くべき言葉でしょうか。注意深く読めば、このマタイ22章は主が十字架にかかる前に公の場所でイスラエル全体にむかって語った最後の言葉であることがわかります。
そのマタイ22章は結婚の披露宴の喩え話から始まります。イエスは「神は息子のために結婚を計画しています。わたしがその息子です。」と話され、最後に申命記6:5と30:6から「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ」が大切な第一のいましめであると言われました。これがイスラエルに対する最後の勧めであリ預言であったのです。
イエスは御父に「あなたが申命記でモーセを通して言われたことを、最後にもう一度わたしに言わせてください。父よ、あなたがコミットしておられる最終的な結果、神の民が最終的に辿りつくところ、即ち心を尽くして神を愛するという域に達すること、それをイスラエルに対して宣言させてください。」と懇願したのではないかと私は思うのです。
イエスは「心を尽くして神を愛せよ」が最も大切な第一の戒めであると言われました。これはモーセも知らなかったことです。
マタイ5:19に「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、もっとも小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」とあります。偉大な者とは、戒めを守り、それを守るように教える者であるのです。現代は、自分自身は戒めを守っていても若者たちにそれを教えるのを躊躇する時代です。それは聖書の戒めが現在の社会で行われていることとあまりにもかけ離れているように思えるからです。しかし神は「それを守り、また守るように教える者」が天の御国で偉大な者であるとはっきり言われています。偉大というのは、この世で偉大と言われることではありません。神はあなたが人生で何を選ぶかを見て「あなたは偉大だ」と言われるのです。あなたは弟子を一人も持たず、影響力もなく、認められず、お金もないかもしれません。しかし、申し上げますが、もしあなたが戒めを守るならば偉大なのです。あなたが影響を与えられるのはたった二人だけかもしれません。でも主は「わたしがあなたに頼んだのはそれですよ。あなたは自分でも守り、人にもそう教えたのです。それで十分、それでいいのです。」と言われるのです。あなたの人生で何を選びとっていくかは、神にとって一大関心事なのです。
神が私たちに望まれる第一のことは愛が増し加わることです。ボブ・ジョーンズ師が一度死んで主の前に立ったとき訊かれたのは「あなたは愛することを学びましたか?」という質問だけでした。ボブはその後40年間、そのメッセージをいたる所で、何度も人々に語りました。神が私たちに求める「偉大さ」というのは、すべての人に可能です。あなたの賜物とか、影響力とか、教育とか、機会とかとは全く関係ありません。たとえ一生牢獄にいたとしても、あなたが心を尽くして神を愛することを選びとるならば、主の御前であなたは偉大な人であるのです。
私の兄弟は高校生のとき、フットボールの試合中に首の骨を折り、数年前亡くなるまでの33年間、全身麻痺の身体ですごしました。彼は熱心なクリスチャンで、私たちは非常に仲良しで、よく話をしました。彼は肩も指も動かすことができませんでしたが、私は彼にこう言ったのです。「私たちが神からそれぞれに与えられた課題を果たせば主は喜ばれます。神はあなたに本を書けとは言われませんでした。あなたが置かれたこの状態で心を尽くして神を愛するならば、あなたの人生は誰の人生よりも偉大です。今置かれている状態で神の御こころを100%行うならばあなたは偉大なのです。」彼は私の言葉を受け入れ信じました。「そうだ。人に較べれば私には何かをする機会はないかもしれないが、偉大な人生になる可能性はあるのだね。」と彼は言いました。
「最も大切で一番の戒め」という意味はいろいろあると思いますが、まず、それは一番神の心を喜ばせる事であると言えます。神の心に影響を与えることができるとは、すばらしい事ですね。神は王とか創造主とかだけではなく、私たちの父であるのです。御父は私たち息子や娘との愛の相互関係を非常に喜ばれるます。私たちも自分の子どもとの愛の関係は、ビジネスやミニストリーが大きくなるときの喜びとは全く違う喜びを感じます。神もそれと同じように、ご自分の息子、娘が神を愛するときに非常に喜ばれるのです。
二番目に、この戒めは私たちに大きな影響を与えます。どのような業が出来たとしても、神を愛することほどその人にとって大切でその人を変えるものはありません。これこそ私たちの最大の夢であり目標であるべきです。聖霊による恵みによって私たちはこの道を歩むことが可能です。私には家族やミニストリーに関する夢や目標があり、勿論それは重要なことですが、私はある日、これらを第一とせずに神を愛することを第一として生きるとはっきり決意しました。
あなたの一番の夢や目標はなんでしょうか。その答えを出す鍵がこれです。あなたは主といろいろな事を話すと思いますが、何を一番よく話しますか?私は以前はミニストリーのことを一番沢山主に話ました。主は「わたしはあなたのミニストーのことをこれからも話して欲しいけれど、それは私たちの会話の中で二番目のことにしてほしい。」と言われました。それから私はすばらしい女性と出会い結婚し、息子が二人、義理の娘が二人、孫が5人できました。主は「わたしはあなたの家族のことを聞きたい。でもそれはニ番目にしてほしい。」と言われ「他のどのような事に関するよりも、わたしのことを一番沢山話してほしい。」と主は言われたのです。
イエスが「第一で、最も大切な戒め」と言われた言葉が私を捕え、私は20代のある時からずっと神を愛すること、主のことを祈りの時に主に話すことを第一としたのです。そして何かすばらしい変化が起ると期待しました。でも別に何も感じませんでした。退屈さを感じました。主から何かすばらしい事を言われることもありませんでした。「聖書の中に一杯書いてあることだから、黙ってわたしを愛せばいいのだよ。」と言われているようでした。私は一年に2、3回ほど焦点からずれて、他のことを主に話す方が多くなってしまいました。すると主は私に注意してくださるのです。いろいろな事に気が奪われて、第一のことを第一としなくなっていることに私は気付かされるのでした。その時に起っている状況に振り回されて、そのことばかり主に話していたのでした。主にそのことを示される度に私はまた第一のことを第一とするようにしました。
イエスは「〜を尽くして」という言葉を4回用いておられます。「心を尽くして」「思いを尽くして」「知性を尽くして 」「力を尽くして」です。(マルコ12:30)これを一つずつ考えてみましょう。
心を尽くして:これは中途半端な気持ではなく100%ということです。熱心に主に従い、熱心に主を求めるということです。多くのクリスチャンが抜け道を探しているのです。聖書を学ぶ時でも100%探求しないのです。確かに肉的なクリスチャンが歴史を通して存在していましたし、彼らも救われてはいたでしょう。でもイエスは私たちが主との関係を築くとき、「どれだけ少しの努力でできるか」と考えて欲しくないのです。私は多くの情熱に燃えていたクリスチャンが、数年後にはすっかり冷めてしまうのを見てきました。彼らは思っていたようなブレークスルーが起らないとか、こんなに大変だとは思わなかったとか、もっと油注ぎを貰えるかと思った、とか言います。しかし主は「最後まで心を尽くしてわたしがあなたのために計画していることを見てほしい」と言われるのです。自分の築き上げた現時点のミニストリーに満足して主を追い求める心をなくすことを主は悲しまれます。主との関係を最低限度のメインテナンスで続けて行くことを、主はとても悲しまれます。
私たちは皆、自分の人生が「楽で、幸せで、友達が沢山いて、お金があって、人気がある」ことを望みます。そうでしょう?私は今でもそう思います。でもある時、私はこれらのことを第二とはしても、第一としなくなったのです。神は言われます。「わたしを愛することを第一とするとき、あなたは苦労しチャレンジを受けるでしょう。しかしあなたのためのわたしの目標を知るならば、わたしがあなたの人生を導いていることがわかり絶望することはないでしょう。わたしはあなたが愛において成長するような場所へ導いているのです。天国の通貨は愛です。あなたが目的地に到達した時には、あなたはわたしが導いてきたことを喜ぶでしょう。わたしはあなたが愛に成長するようにしたのです。」
私は今でも「楽で、幸せ」という道を望みはしますが、神を愛する道の素晴らしさを知っているので、それが誘惑とはなりません。神は私の人生が神の目に「偉大」となることを願っておられるのです。目的地に到達したとき、私は「主よ、ありがとうございます。感謝します。あなたは私が駄々をこねたとき私を甘やかさなかったことを感謝します。」と言うでしょう。主は「困難な時もあったが、あなたは愛に成長しましたね。あなたはわたしをもっと愛するようになりましたね。」と言われるのです。
知性を尽くして:あなたがあなたの知性の中に何を入れるかは、神にとって重要なことです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書研究の時に神を愛せばよいと思うのですが、神はそれは違うといわれます。いつも自分の頭の中に何を入れるかが大切なのです。あなたの頭の中にあるのは、いつでも神への愛であるべきです。神への愛を妨害するものを見聞きせず、神への愛を成長させるものを見るのです。
力を尽くして:力とは時間、お金、エネルギー、言葉、影響力などです。これらを神のために使うことは、神を愛することです。ヘブル6:10「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」あなたが人々を助けるとき、神への愛を表しています。家庭でも近所でも仕事場でもあなたが周りの人々にすることは、神はご自分のこととして感じ喜ばれます。
思いを尽くして:これが4つの内で一番チャレンジだと思います。思いを尽くして神を愛するとは、意図的に自分のアイデンティティーを正しい位置に直すことです。即ち、この世が認めてくれることにではなく、神との関係のうちに自分のアイデンティティーを定めることです。自分が「成功している」とはどういう状態のことかを定義するのが自分のアイデンティティーです。「あなたは自分が人間としてどういうときに価値があると思いますか?どういう時に成功していると思いますか」と訊かれたとします。その答えがあなたのアイデンティティーを定義しているのです。大抵の場合、自分が達成したことに対して人々が「すごい!」と言うことがアイデンティティーになっています。運動選手が何か記録を破ったとか、バレーダンサーが踊るとき、歌手が歌う時、ビジネスマンの事業が成功したとき、親が神を愛する子どもを育てあげたとき、人々は「すごい!」と称賛します。そう言われた時、私たちはとてもうれしいのです。しかし、人々に「すごい!」と言ってもらうことに自分の価値を見出しているなら、それを意図的にシフトさせねばならないと神は言われます。
ビジネスであれミニストリーであれ、あなたの仕事をリーダーが認め誉めてくれるならば、それは良いことであり成功です。しかし神はそれを第一の成功ではなく、第二としなさい、と言われます。もし神が私を愛し、私が神を愛するならば、私はすでに成功しているのです。これはリアルであり奥深いものです。そして神が私たちに望むことはこれです。例えば私が一生懸命努力したにもかかわらず、人々の協力が得られず成果があがらないばかりでなく、経済的にも困窮し人々から悪く言われたとします。その時、神は「息子よ、あなたが辛く苦しんでいるのはわかるけれど、あなたの思いを意識的にわたしがあなたについて言っていることに一致させなさい。わたしがあなたのために投資していることに一致させなさい。
家族、教会、仕事で巧くいかないで痛むときこそ、あなたがわたしへの語りかけ方をシフトするべき時です。わたしがあなたを愛していることを知っていると言いなさい。」と言われます。
創世記一章の世界を創造された偉大な神が私を追い求めておられるのです。なぜそのような事をされるのでしょうか?歴史上最も偉大な方があなたを求めておられるのです。もしあなたの人生で起る様々な失望、問題という嵐の中に生きるならば、あなたの神への愛は小さくなってしまいます。神は「もし本当にわたしを愛するならば、わたしと一致することによって嵐を静めなさい。わたしが対処するから。」と言われます。この神との一致へのシフトは意図的にしか起りません。圧倒されるような問題がのしかかった時、主は「マイク、さあ今わたしを愛しなさい。」と言われます。「『賛美』以上のもの、『感謝』以上のもの、今あなたの思いでわたしを愛して欲しいのです。」と主は言われます。
痛みがあるとき、それを認識し、それを第二とし、「あなたの人生はわたしの目には偉大です」と言われる神を思いを尽くして愛するのです。
この世での成功を目指して生きるとき、私たちはバーンアウトー燃え尽きてしまいます。でも成功を出発点とする時、私たちは力を得ます。多くの場合バーンアウトは、間違った霊で頑張るときに起ります。何か問題が起ったとき、私たちは神が自分を愛していてくださり、私が神を愛しているから私たちはすでに成功しているという現実に立ち帰るとき、私たちは問題に対して全く異なる視点で立ち向うことができるのです。(終り)
04 04月
犬を追い払え
キャシー・ウオルターズ
「あなたのデスティニーの入口から犬を追い払え」という言葉を少し前インターネット上のどこかで見ました。誰が書いたのかもよくおぼえていないのですが、この言葉が私の目に飛びこんできたのです。私はこの言葉についていろいろと考えました。というのは、私はすべての人が神から与えられているデスティニーや召しを成就することを願っていると思うからです。
私は「教会の椅子に毎週座って教壇から話す他の人のヴィジョンをサポートすることが自分の召しだ」と考えている人によく出会います。誰かを励ましサポートするのは確かに良いことだとは思いますが、あなたもあなた自身の召しを持っているのです。そして人生の終りにイエスは「わたしがあなたの人生に与えた油注ぎであなたは何をしましたか?」と尋ねられます。その時、あなたが「私の教会は私の受けた油注ぎを好みませんでした」と言っても、それは十分な釈明にはなりません。何故だかお分かりですか?それは、あなたは「神の声を聞くことができる」のであり、あなたには「神から召されていて成就すべきデスティニーが必ずある」からです。
すべての人は御霊からの証しのことば、即ち内なる油注ぎを持っています。使徒ヨハネが「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。」(第一ヨハネ2:27)」と言っているのはそのことです。それは教会に教える人が必要ではないということではありません。教師、牧師、預言者、使徒、伝道者が教会を整えるために与えられています。
しかし、あなた自身もあなたの内におられる御霊の証しのことばに耳を傾け、神があなた個人に何を言っておられるのかを見分けねばなりません。例えば、ある人があなたの教会に来て預言し、教え、また説教をしたとします。その時あなたは、そのメッセージから、神があなた個人に対して何を言っておられるかを見分ける必要があります。それは、ほんの二つくらいの文節だけがあなた個人へのことばかもしれません。
他の人の召しを認める
ピレモンへの手紙の中に私の好きなすばらしい聖句があります。パウロは「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」(6節)とピレモンのために祈っています。あなたが他の誰かの賜物や召しを認める時に、その人の賜物とか召しが現れてあなたがそれを活性化するのです。たとえば、あなたが誰かに「あなたのメッセージはすばらしかったです。」と言うならば、その人は励まされ、またしてみたいと思うでしょう。しかしもしあなたが批判するならば、その人は閉ざされてしまいます。
聖霊は、一つのメッセージからそれを聞く20人それぞれに違うことを語られるかもしれません。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)と言われました。それはあなたの耳に入るすべてのことばではなく、あなたが読む聖句のすべてでもありません。それは神の口からあなたのために出ることばのことです。神は今、今日、今週、あなたに何を語っておられますか?
神のことばはいのちと信仰を分与し、神があなたのために備えておられる次のステップへとあなたを導く力を持っています。
確かなことが一つあります。それはあなたは常に前進せねばならないことです。あなたは神が今、今日、あなたに何を言われているかを聞き続けねばなりません。それはあなたの今日のマナです。
私はエレミヤについてよく話すのですが、神がエレミヤを召されたとき、彼はティーンエイジャーの若い預言者で、全国を回って預言のセミナーをしている髭の生えたお爺さんではありませんでした。大切なのは神の召しに対してあなたがどう応答するかです。自分の居心地のよい場所に永遠に座っているか、あるいは、立ち上がって「よし、やってみよう。神にあって最高の自分になろう!」と応答するかです。
あなたのデスティニーを信仰で見る
神はエレミヤに「あなたは何を見ているのか。」と尋ねました。エレミヤは信仰によりアーモンドの枝のヴィジョンを見ました。神はエレミヤが見たものを喜ばれ「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、私は見張っているからだ。」と言われました。ですから、あなたは信仰によってあなたのデスティニーを見なければならないのです。見えないものを目標にすることはできません。くまのプーさんのように100エイカーもある森や山をうろうろと巡って、当てずっぽうに神の御こころを達成しようとする必要はありません。あなたが信仰の目で見始め、神から聞くことができると信じるならば、神はあなたのために備えたものをはっきりと見せてくださいます。
もしコンファメーション、確認が必要ならば、信仰により神はあなたに御ことばを与えてくださいます。しかし加えて、神はご自分の願いをあなたのこころの中に置かれて、あなたがその神の御こころを成就するときに喜びが来るようにされます。それがあなたのこころの中にすでに置かれていた事だったからです。
あなたのこころの中には何がありますか? どこに行きたいですか? 本当にしたいことは何ですか?あなたは地上では一度しか生きることができません。どのような人生を送りたいですか?この世的で楽な人生を生きる中で、たまにちょっとだけ踏み出してみるような人生ですか?もしくは、スリルのあるわくわくする、一体次は何が起るのだろうか、というような人生ですか?
御父からのチャレンジ
ですから、あなたが決断するように私はチャレンジします。でもこれは私だけではなく、あなたを励ましておられるあなたの天の父からのチャレンジだと信じます。御父はあなたの中に多大な預金をされておられます。イエスも主ご自身の命という供託金をあなたに預けておられ、それへの見返りが返って来るのを楽しみにしています。主の命というあなたへの供託金をあなたがきちんと運用すれば、それがあなたのデスティニーを出現させるのです。
しかし、あなたのデスティニーの入口には犬が横たわっていることをあなたにお伝えしたいのです。又、あなたが住む町の入口にも犬がいて、神の臨在と御霊のムーブメントをもたらす油注がれた人々が入ろうとするのを阻止しようとしていることもお伝えしたいのです。
その「犬」とは何でしょうか? 聖書で犬は通常「神を畏れない異邦人」を意味しています。即ち、それは神や神のやり方を知らない人たちのことであり「宗教の霊」です。教会の中には沢山の犬がいることをご存知でしょうか?
宗教の霊は神に関してある種の「知識」は持っていますが、それは実際のところ神ではないのです。形はありますが力がなく、人々が御国に入るのを阻止します。イエスが宗教家たちに言ったことを憶えていますか?
「しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、はいろうとしている人々もはいらせないのです。」(マタイ23:13)イエスはこのような人々(犬)に腹を立てておられました。
彼らは神の知識は持ちながら、神の力を否んでいる人たちです。それは宗教の霊、否定的な霊であり、神によって用いられる資格を人々から奪う霊です。しかしイエスは私たちに100%の資格をすでに与えてくださっています。
妬む霊
「犬」は、あなたが自分より上を行くのを好まない人々の中にある嫉妬の霊でもあります。良い教師や指導者は生徒が何か達成し始めると誇りに思います。しかし時として、その生徒があまりにも上手になったり自分より上達すると、彼らは脅かされるのです。そしてその生徒を引きずり落とします。生徒はいつまでも生徒、初心者でいて欲しいのです。
教会で教えるように頼まれた一人の預言者を私は知っていました。彼はすばらしい「預言者学校」を開き、間もなくすべての参加者が神から聞き預言をするように教えることができました。中でも一人の女の子が特にすばらしい預言の賜物を顕すようになりました。それで人々が彼女に祈ってもらうために会いたいと言い出しました。預言者はこれを知って腹を立て、彼女を批判し引きずり下ろし始めました。そして彼女に関する否定的なことを牧師や長老に言い始めたのです。
彼らは彼女にミニストリーを止めるように頼み、彼女は4年もの間、何もできずにしおれて行ったのです。彼女は恐れから預言の賜物をまったく用いませんでした。自分は何か悪いことをしてしまったのだと思いました。彼女のデスティニーの入口に立ちはだかった宗教的な犬どもや噛まれた傷口から彼女が真に解放されるには、その後6ヶ月かかりました。
脅し、嫉妬、自分が脚光を浴びたい願望、恐れ、、宗教の霊はいろいろな形で表れます。しかし、イエスはすでにあなたを御父の目に完全なものとしてくださっているのです。あなたを覆っているのはイエスの義であって、あなた自身の義ではありません。主が取り替えてくださったのです。主は汚れたぼろ切れのようなあなたの義を十字架につけ、その代わりに主の義の衣を下さったのです。
あなたのぼろ切れが力ある御子の麗しい義と取り替えられるとは何とすばらしいことでしょうか。完全なる御子イエスの聖さと麗しさの衣で覆われるとは!
犬どもを恐れてはいけません。イエスは彼らに打勝つ力をあなたに与えてくださったのです。犬どもは偽りを通してあなたに影響を与えることしかできません。彼らの嘘を信じない選択と決断をしてください。
時は今です
神にあって最高、最大限のあなたになる時は今です。資格などいりません。ただ聖霊の導きに従う道を学べばよいのです。神はあなたのための偉大なヴィジョンを見ておられます。神には制限はなく、あなたの能力不足によって制限されるお方ではありません。あなたが神の能力を信じることを通して神は働いてくださるのです。神はまた、神のムーブをあなたの都市、街、家庭、仕事場にもたらしたいのです。
食べ物がなければ犬どもはこそこそと去っていきます。彼らに食べ物を与えてはいけません。彼らに耳を傾けてはいけません。隙を見せてはなりません。もしあなたに「あなたは何者でもない」「あなたに何がわかるのか?」「あなたに何ができるというのだ」と吠えたなら(偽りを言うなら)こう言ってください。「私が何者であるかを思い出させてくださってありがとう。あなたが何者であるかを思い出させてくださってありがとう。私がキリストのからだの一部であることを思い出させてくださってありがとう。神は私の人生にすばらしい偉大なデスティニーと召しを持っておられます。私はその召しを成就していきます。あなたはどうですか?」と。
大冒険への準備
あなたへの神のご計画はつまらない退屈なものではありません。それはわくわくする冒険に満ちています。あなたの信仰はときどきチャレンジを受けるでしょうが、あなたの内には神の信仰があるのです。神はおのおのに信仰を分け与えていてくださいます。それは神の不屈の信仰です。信じて進んでください。
5世紀のアイルランドの修道士たちは、小さなボートに乗って沖に出ました。そのボートにはオールも舵もついていませんでした。彼らは神が風を送って彼らが行くべき場所につくようにしてくださると信頼していました。これこそ神の目的にすべてを捨てて完全に服する精神だと思います。
神は御霊の風を送り、あなたが行くべき場所、即ちあなたの人生に対する神の計画と目的に連れて行くことを願っておられます。私の集会ではみなさんに「イエス様、何でもどうぞ。Jesus-whatever」と宣言してもらいます。この言葉を毎日言うとよいでしょう。「イエス様、何であってもあなたの言われることに私はオープンです!」と言うのです。
あなたのデスティニーの入口を犬に塞がせておいてはいけません。彼らは嘘つきであり盗人です。彼らは好きなだけ吠えてリ叫んだりできますが、もしあなたが自分が何者であり、自分の人生のデスティニーと召しを知っているならば、彼らはあなたに指一本触れることはできません。(終り)
28 03月
不安と恐れの根を取り去る
ビル・ヨント
ピリピ1:28「かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしであって、それは神から来るのである。」(口語訳)
最近のことですが、私が話をするためにステージに上る直前、妻は私に恐れがあることを感じ取りました。そして私に身を寄せて「あなたの新しい名前は『自信』ですよ。」とささやきました。たちまち私の内で獅子が吼え、地獄に警報が鳴り響きました。私は立ち上がり、ユダの獅子がその集会を支配したのです。
私は我々信者の中に住んでいるユダの獅子の檻の戸を開ける鍵を見つけました。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて(lay aside 横に置く)、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)
「捨ててlay aside (横に置いて)」というのは私たちの見方を変えるパワフルな命令です。何かを横に置く時、それはまだそこにあるのですが、あなたはそれに焦点を当てないのです。なぜならば次の節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあるからです。私が恐れ、ためらい、弱気に襲われたとき、それを横に置いて神が私を召してくださった業をすることを私は学びました。
サタンは主の業をする私たちの自信を盗むことにをやっきになっております。しかし私たちは一人ではありません。主は私たちの不安や恐れを露にして、その基の根を取り扱おうとしておられるのです。ですから恐れないで仕事を続けてください。不安や恐れを感じたときは、それを「横に置いて」立ち上がりユダの獅子が吼えるようにしてください。神は真実なお方です。
「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(第一テサロニケ5:24)
私は最近ある親しい姉妹からメールをもらいました。彼女は礼拝のピアノを弾く方なのですが、ある特別な式のため完全に弾けるかどうという不安と戦っていました。主が私に「あなたの恐れを横に置きなさい。イエスがピアノを弾いてくださいます。」という彼女への言葉をくださったことを感じ、彼女にメールしました。何時間か経ってから次にようなメールを彼女から受け取りました。
「主を賛美します!練習をしたところですが、本当にイエス様がピアノを弾いてくださいました!主が弾いて下さっているのだから私が邪魔をしないように、と自分にずっと言い聞かせました。友人のラケルが『準備はできましたか?』と聞いたのですが、その時、私は『はい!』と答えました。それはいつもの私とは違っていました。ハレルヤ!」
恐れの根源
私たちの不安や恐れの殆どは、深い根が表面的に表れている症候です。主は私たちの弱さを取り扱って私たちを強くしてくださいます。私の人生はほとんど不安と恐れとの戦いでした。それは私が頭を非常に強く道路にぶつけて、私の額の骨が大きくなって突起してきた瞬間から始まりました。その自転車事故は私が5歳の時に起りました。それ以来私の少年時代は手術や通院で多くが時間が費やされ、そのトラウマによって巨大な恐れへの扉が開かれたのでした。その扉は最近になるまで閉じられることはありませんでした。
最近私はペンシルバニア州ゲティスバーグでのカンファレンスで話をしました。行く前にホテルの値段を調べるととても高く、私は心配で安眠できないでいました。私は手頃な値段のホテルを捜し続け、そして見つけました。それは古戦場の近くにある「セメタリー(墓地)・イン」でした。カンファレンスが終って帰宅すると、妻が「〜という人が随分前にあなたに売ってもいいと言った二つの墓地のことで話がしたいから電話して欲しいと言ってきた」と言うのです。私は考え込みました。
私が墓地という名のホテルから帰ってきたら、誰かが二つの墓地を半分の値段で売っても言いと言ってきたのです。半値だというのも私は気になりました。私は「主よ、このタイミングがどうも嫌です。あなたのために週末ずっとミニストリーをして帰ってきたところなのですが一体どういうことでしょうか?」と訊ねました。2日後、私は墓地で売買の契約書にサインをするために兄弟と会うことになっていました。そこに着いてからずっとオフィスで彼を待っているのに疲れたので、外に出ました。
外に出てみると見渡す限り墓標がありました。うす気味悪さに私は襲われましたが、その時、主が語られました。「息子よ、これがあなたが今までずっと持っていた恐れの根です。あなたが医者に行く度、そして検査の結果を聞く度に恐れがありました。あなたは死ぬのを恐れているのです。あなたは5歳の時道路に頭を打ち付けた瞬間からずっとその恐れ戦ってきました。あなたが7歳の時、脳腫瘍になり、あなたは再び死に悩まされました。そして14年前に心臓の動脈に凝血ができ生存率50%と言われたときに、その恐れはまたあなたを襲いました。3日後にカテーテルを入れた時にあなたの心臓は手術台の上で止まり、電気ショックでまた動き始めました。・・・これで、わたしがあなたを決して死なせなかったことがわかりましたか? 今も、地獄、死、墓の鍵を持っているのはわたしであることを。」
主は続けて言われました。「あなたは聖書に『肉体を離れるのは、わたしと共にいることである(第二コリント5:8参照)』と言っているのをどう思いますか?天国には痛みも医者もサタンもいないのです。わたしの言いようもない臨在の中に永遠にいつまでも生きるのですよ。あなたはこのことをどう思いますか?」
一瞬私は言葉を失いました。主の言われる通りでした。私はその時に、それ以降いろいろな恐れに私が支配されるようになった最悪の恐れに面とむかったのです。私はそれを永遠と較べることに失敗してきたのです。その日、私は墓地で平安を見出しました。私が墓標を離れるとき、主がまた語ってくださいました。「ところで、息子よ、イエスを墓からよみがえらせた力と同じ力があなたの中に生きているのです。さあ、生きなさい。生きなさい。生きることを恐れてはいけません。人生のすべての一時一時を十分に楽しみなさい。」
あなたが恐れていることは何ですか? 愛する者を失うことですか? 仕事や自分の評判を失うことですか?もしかしてあなたは死ぬことを、あるいは生きることを恐れているかもしれません。今日あなたの恐れをイエスのところに引きずって行ってください。主の平安につつまれ、主の全き愛ですべての恐れが締め出されるようにしてください。あなたは長い時間がかかっても何が何でもこの問題を解決したいのだと、主に話してください。
神は私にクレージー
最近私がワーシップをしている時、主がささやかれるのを聞きました。「ビル、わたしはあなたに夢中です。わたしは本当にあなたに夢中なのです。」私は「えっ?どうしてあなたが私に夢中なのですか?わたしはあなたの栄光からはほど遠い者です。」と答えました。主は「わかっている。でもあなたはわたしを信頼していますね。あなたが出来ないことをわたしがすると信頼していますね。それがわたしを喜ばせるのです。それでわたしはあなたに夢中なのです。」と言われました。
あなたはいかがですか? あなたは主を喜ばせることができると知っていますか? 今日、主を信頼すれば主のクレイジーなあなたへの愛とすべての考えにまさる神の平安をあなたは経験するでしょう。主は、私たちが主を理解しようとするよりも主を信頼した方が喜ばれるのです。(終り)
21 03月
効果的な祈り
ロバート・ヘンダーソン
多くの人は祈りの答えを常に得るための祈り方を知りません。人々は、祈りとは「霊的な戦いの場で行う業である」と教えられてきました。しかし驚かれるかもしれませんが、イエスが祈りについて教えられた時、祈りを霊的戦場で行うようにとは言われなかったのです。確かに主は、「祈りは戦いである」と言われました。しかしそれは戦場におけるものではなく、法廷(ダニエル7:10参照)での戦いなのです。
イエスがルカ18:1−8で教えておられることを見てみましょう。ここでやもめは不正な裁判官に正しい裁きをしてくれるように頼んでいます。最初裁判官は彼女を無視しますが、彼女がしつこくやめないので裁判をしてやることにしました。やもめが裁判官の法廷に来る事をやめなかった故に、彼は正しい裁きをすることになったのです。政治力や賄賂に使うお金、或いは社会的地位もないやもめが、不正な裁判官から正しい裁きをしてもらえるとすれば、正しい裁判官である神は、選民である私たちにどれほどの正しい裁きをしてくださるでしょうか!
私たちは神を父として、また友として御前に出ることは知っていますが、裁判官としての神に近づくことも学ばねばなりません。エペソ2:6に「私たちはキリストと共に天の所に座っている」とあります。また、ヘブル書に次にようにあります。
ヘブル12:22−24「しかし、あなたがたはシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」
ヘブル4:13「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。」
裁判官である神の御前に出るというこの話の中で、私たちは少なくとも効果的な祈りのための3つの法則、或いは奥義を見つけることができます。
まず第一に、 私たちが祈るとき、それは即ち神の司法制度の中に足を踏み入れることであるのです。これを理解するために私たちは、霊的領域におけるすべての行為は「法」に基づいていることを認識せねばなりません。イエスが十字架上で「完了した。」(ヨハネ19:30)と言われたのはその理由によります。即ち「すべての創造物を贖うために必要な法的な義務は今完全に遂行された」と主は言われたのです。主イエスは暗やみの力を法的に打ち倒したのです。
私たちは祈る時、地上で祈ることが現実になるように、十字架上で確立された法的勝利を適応するのです。別の言い方をすれば、十字架上ですでに完成された業による判決を、すべてのことが神の御こころと一致する時まで執行するのです。
喩え話の第二の奥義は、やもめは決して敵対する相手と話すことをせず、裁判官にだけ話したことです。裁判官が彼女によい判決を下すならば、敵はもうなす術が無いことをやもめは知っていたからです。彼女はこの戦いは戦場ではなく法廷で行われるものであるとわかっていました。イエスの祈りが戦場での祈りであったことは一回もありません。すべて天の法廷での祈りでした。黙示録19:11に、イエスが天の軍勢と帰ってこられるのは、まず裁きをされ、そして次に戦われるためであると書かれています。この順序が非常に重要です。
ヤコブ4:7に「ですから、神に従いなさい。(submit to God) そして悪魔に立ち向いなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」とありますが、これも同じことを言っています。「裁き」とは司法活動です。言い変えれば、私たちは敵(サタン)から法的権利をまず剥奪し、次に戦場へと行進して行くのです。これは成功するために絶対に欠かせないことです。
「敵」と言うのは、世界の何か、或いは誰かを指しているのではなく、霊の領域のサタンとその勢力のことです。私たちはみな、神の御こころと一致した祈りをしてもその答を得られなかった経験をしています。そして「神は応答してくださるほど私のことを気にかけてはおられないのだ」と結論づけてしまったりするのです。しかし、私たちがブレークスルーを得られない本当の理由は、霊の領域で「法的に」私たちに対抗している敵がいるからです。私たちは裁判官なる神にどのように近づき、霊においてこの「法的な」問題を対処するかを知る必要があります。
この事を理解するために2つのギリシャ語を学ぶ必要があります。まず「敵
adversary」という語で、これはルカ18:1−8の喩え話の中で用いられています。このギリシャ語は antidiko で、「訴訟を起こす者」という意味です。一つの法的立場を表しています。
第一ペテロ5:8に、敵は私たちを食い尽くそうとしている悪魔であるとあります。この箇所の「敵」も antidikos が使われています。即ち悪魔は私たちを食い尽くすための法的理由を捜しているのです。悪魔は霊的領域で私たちに法的に不利な事柄を見つけた時にだけ私たちを攻撃できるのです。「訴訟を起こす者 antidikos」として悪魔は私たちに不利な法的事実を確立し、私たちを食い尽くし滅ぼす権利を獲得しようとしているのです。
antidikos という言葉は、2つの部分からなっています。anti は反対するという意味でありdikos は権利という意味です。ですからantidikos(敵)の目的は、私たちに対して法的訴訟を起こし、私たちが持つ正当な権利を奪おうとすることです。私たちが神の御こころと御ことばにかなった祈りをしても答えられないのは、これが理由です。私たちの祈りに神が応答する法的権利を否む訴訟が、霊的領域においてされているのです。
これに加えてもう一つのギリシャ語の意味を知る事によって霊的領域で起っていることの新しい理解を得ることができると思います。黙示録12:10に、日夜兄弟たちを訴えている告発者がいるとあります。告発者 accuser というギリシャ語は katagoros で、その意味は「法律を訴訟する者、法律の告訴人」です。告発人とは、私たちに敵対し司法行政に不平を言う者ということです。その結果、私たちはブレークスルーや祈りの答えを得ることができないのです。私たちが主からの答えを得るためには、私たちは antidikos と katagoros を黙らせる必要があります。この二つの言葉は私たちが持つ正当な権利を否むために法的訴訟を起こそうとする悪魔の業を映し出しているのです。
この喩え話の中にある3つ目の奥義は、ルカ18:7、8に書かれています。裁判官である神の御前に出て霊的に法的問題を取り扱うならば、私たちの祈りはすみやかに答えられる、とイエスは教えておられます。私は私自身の人生に中でそのことを見てきました。天の法廷でどのようにすればよいのかを学び始めたとき、今まで起らなかったことがすぐに起きるようになりました。
神の御こころに沿う祈りが答えられない理由は2つだけです。一つは神のタイミングであり、神から答えを頂くにあたって非常に重要です。もう一つの理由は、霊的領域で私たちに抵抗している法的なことが何かあるときです。
天の法廷で祈りを通して訴えるとき、私たちはイエスの血潮によって敵が起こした法的訴訟を取り除くことができます。罪、過失、不正、否定的な言葉などの法的問題がイエスの血潮により処理されるならば、サタンは祈りの答えが私たちに届くのをもはや阻止することはできません。これらの問題を私たちは根気強い祈りによって取り扱うのです。
根気強い祈りと言うと、私たちは同じ祈りを何度も繰り返すことだと思います。しかし、裁判官の前で祈る根気強い祈りとは、祈りの答えが届かないようにサタンが用いる法的妨害を取り除くことです。私たちが主の御前に出るとき、主は私たちが祈るべき祈りができるように助けてくださいます。
ロ—マ8:26には聖霊は弱い私たちを助けて効果的に祈るようにしてくださると書かれています。これは霊的領域で私たちが祈りの答えを受け取るのを阻止しようとしてサタンが用いるすべての法的訴訟をイエスの血潮によって徐々に取り除くことも含まれています。私たちに対するすべての法的訴訟が取り消されるならば、裁判官である神は御父の情熱を自由に成就することができ、私たちは祈りが答えられ、ブレークスルーがやってくるのです。
私の息子であるアダムはミニストリーをしていましたが離婚を経験し、その後2年間深い鬱状態となり、そこからどうしても抜け出すことができませんでした。私は彼を励ましましたが、彼は自分は価値のないものだ、生きる意味がない、と言うのでした。もともと彼は非常に明るい人間で、これは全く彼らしくありませんでした。私は知っている限りの祈りをしました。ある日、私は天の法廷のことに気がついたのですが、主が「アダムをわたしの法廷に連れて来なさい。」と言われました。はっきりとその言葉を聞きました。
天の法廷のことはまだ深くは理解しておりませんでしたが、始めてみました。まず息子のために悔い改めをしました。それがとりなし手の仕事です。本人が出来ないことを替わりにするのです。私は父としてその権威がありました。アダムが夫として父親として犯した罪、敵の偽りを信じた罪を思いつく限り悔い改めました。5分くらいでした。次に主は「あなた自身の悔い改めをしなさい。あなたがアダムに関してあなたの妻に話したすべてのネガティブな言葉を悔い改めなさい」と言われました。これは非常に重要でパワフルなことでした。私は直接息子には何も非難めいたことは言わなかったのですが、妻との会話のなかで、「アダムはどうしてあのようにしたのだろうか、息子が理解できない、どうしてもっとちゃんと出来ないのだろうか」というようなネガティブなことを言っていたのです。その言葉が息子を縛り、告発者によって使われていたのです。「彼の父親がアダムについてこう言っていました。これが父親の証言です。」という具合に敵に用いられたのです。私は涙を流しながら自分の罪を悔い改めました。5分くらいでしたが、悔い改めを終えるとすぐに、主が「さあ、アダムのデスティニーを預言しなさい。」と言われました。
そこで私は「私はあなたの御ことばにより『よき訪れを告げる者の足は美しい』と宣言します。息子はイエス・キリストの福音を述べ伝えます!」と宣言しました。すると御霊が「さあ今、鬱状態の霊を叱責しなさい。」と言われました。私は御霊に導かれて知らないうちに法的に必要な手続きをすべて行ったのでした。それで私は「サタン、私はお前を叱責する。エペソ5:14により宣言する。眠っている人よ。目をさませ!キリストがあなたにいのちを与えてくださる。鬱の霊よ、立ち去るように命ずる!イエス・キリストの名によって、今息子から立ち去れ!」と叫びました。2年間祈ってもブレークスルーがなかったのですが、これは15分くらいですべてが終りました。私は本当に何か違ったことが起きたと感じました。
一週間半後に電話がなり、アダムからでした。彼は「何が起ったのかわからないのだけど、一週間半前に突然、僕は鬱状態から抜け出ました。神の御こころを行う用意ができました。」と言ったのです。彼は現在自分の教会でシニアパスターとして働いていますが、教会は9ヶ月で3倍の大きさになりました。聖霊の賜物も顕著ですが、すべては天の法廷でなされたことに起因しているのです。私が戦場で2年間戦ってもできなかったことが、天の法廷での15分間でできたのです。
皆さんも次にように祈ってください。
「神よ、イエス・キリストの名によってお願いいたします。私が犯したすべての罪、過ちを悔い改めます。コロサイ2:13、14『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけされました。』を宣言します。私に対して立てられたすべての責め、告発、私を責め立てるすべてのものを、あなたはすでに取り去り十字架につけられました。主よ、それらの告発はイエスの血潮によりすべてとり去られました。主よ、私たちに法的権利を与えてくださり、私があなたから与えられているデスティニーを取りもどすようにしてください。イエスの名において祈ります。アーメン」(終り)
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