Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
06 06月
世界を揺り動かすワーシップ
ミスティー・エドワーズ(IHOP ワーシップリーダー)
ワーシップと祈りは切り離すことができません。神がどのようなお方であるかという一致した意見を私たちはワーシップを通して持つことが出来、祈りを通して神が約束してくださったことに一致して同意することが出来ます。祈りと結びつかないワーシップはあり得ないと私は思います。「ワーシップ音楽」がワーシップになるのは、それが神にむかって話しかけているからであり、そうでなければただの「音楽」にすぎません。
祈りは目に見えない神との対話であり、それには多くの表現があります。時には御ことばを深く思い巡らすことであり、時には助けを求める真摯な叫び、正しい裁きへの嘆願、或いは悔い改めの嘆き悲しみです。又、神はどのようなお方であるかという宣言であり、神がしてくださった事、またこれからしてくださる事への感謝、そして今日神が語られていることの預言的宣言でもあります。
とりなし、崇拝、賛美、預言は、すべて私たちが「祈り」と呼ぶ聖なる会話の切れ目のない一つの流れの中で行われるものです。これらの要素を音楽と合わせると、それは私たちの心にダイナミックなインパクトを与え(個人的にも集会としても)それは社会全体にまで影響を及ぼすのです。
私たちは「ワーシップ」と「祈り」という二つの言葉をよく用いますが、それは「神との対話を歌い又話すことを通して行う」という意味です。話す祈りと歌う祈りにはパワフルな関係があると私は思います。黙示録では、御座の周りで話される言葉と共に歌が絶え間なく捧げられているのを見ることができます。音楽を表す立琴(5:8)と聖徒の祈りをあらわす香のいっぱい入った鉢(5:8、9)です。これが天においてなされているならば、それは今地上でするべきモデルであると私たちはわかるのです。
今日とりなし手たちが聖なる山に行き楽しんでいる(イザヤ56:7)祈りの集会が世界中で起っています。このような祈りを楽しいものにする一つの方法は、預言的な要素のある祈り、 神の霊を受けた音楽、そして歌を組み合わすことです。
音楽は神から出ています。人間の霊は音楽を理解し楽しむように創られています。それは私たちが神に似せて創造されたからです。私たちの感情や記憶、又思い、身体、魂、霊に集中する能力などと歌が関連しているのは神秘的であり、又、同時にシンプルでもあります。それは神が一人ひとりに与えて下さっている麗しいギフトです。
あなたが「自分はシンガーでもミュージシャンでもない」と思っても、あなたは音楽的なのです。パウロは霊の歌を歌ったと言っています。(エペソ5:19、コロサイ3:16)私は彼がワーシップ・リーダーだったとは思いませんが、彼は祈りの人であり、霊で神に歌ったのです。(第一コリント14:15)
私たち個人の生活の中で、祈りを歌にして歌うことは多くの点で益となります。一つは私たちに高いレベルの集中力を与えてくれることです。聖書の御ことばを神に向かって歌うとき、繰り返し歌うことによって深い想いへと私たちは導かれます。又語られた言葉にはない力で私たちの心に真理を刻み込んでくれます。
例えばもし私が「キラキラ星よ Twinkle, twinkle, little star」と言ったならば、あなたは直ぐにその歌を思い出してちゃんと最後まで歌えると思います。しかしもし私が「エペソ1:17」と言っても多くの人は全くわからない(思い出せない)でしょう。しかしこのパウロの祈りを歌にするならば、子どもでも憶えられます。そして教会学校の先生がそれに即興で言葉を加えて歌うならば、御ことばを憶えるだけでなくその意味も含めて理解することができるのです。
教会や集会の中でも、祈りを歌にして歌うことはダイナミックなインパクトがあります。 私たちは一つの事を一人のお方に同時に歌うことによって、一つの声一つの心となれるからです。真理を宣言し、打ち破りを祈るときも、歌を通して私たちは同時に同じことを感じることができます。
歌は「キリストの身体」を一致させるパワフルな道具です。 祈りと歌が一つになる時はいつも、部屋中の、或いは競技場中の人々が、私たちを一つの声にするシンプルな歌の祈りに同意し一致することができます。この一つに一致したとりなしの祈りとワーシップは、一つの都市や地域の霊的空気を変えるものの一つであると信じます。
あなたが神に会話しながら祈るとき、歌にする必要性はありません。しかし、音楽が加わると私たちの心はオープンになり、真理が心に刻み込まれ、霊的雰囲気が変わります。又、会衆の祈りを長く楽しいものとし、互いの心を一致させ、神との一致ももたらすのです。(終り)
Misty Edwards ミステイー・エドワード師はカンサスシテイーにあるアイホップ IHOP のリーダーシップ・チームの一員として1999年に参加し24/7の祈りの部屋をはじめとする、すべてのワーシップリーダー、ミユージシャンと歌手たちを統率するリーダーを努めて来た方です。
23 05月
勝利を得る者へ
リック・ジョイナー
黙示録2、3章で主が7つの教会にメッセージを送ったときのパターンの一つは、それぞれの教会にいる「勝利を得る者、オーバーカマー(打ち勝ち、克服する者)」に主からの約束を与えることでした。教会のすべての者が「勝利を得る者」ではありませんでしたが、主は究極的にそのような者を召されているのです。ですから私たちも「勝利を得る者」になることを根本のゴールとすべきです。
「勝利を得る者 オーバーカマー」とはどのような者でしょうか? それは即ちオーバーカム(打ち勝ち、克服する)者です。ですから何か克服するものがなければ私たちはオーバーカマーにはなれません。7つの教会では主がそれぞれの教会に対して叱責しておられる問題を克服した者たちがオーバーカマーであることは確かです。しかし、それだけではありません。その時代の大きな問題を克服した者たちは殆どの場合、すべての事(自分の弱点、不完全さを含め)を克服し勝利する生き方を確立しています。それは小さな問題、大きな問題、それに自分の肉の性質に勝利する生き方です。
飛行機から地上の川を見ると、くねくねと曲がっていて、終点に辿りつくまでに直線よりも何倍もの距離を流れているのがわかります。それは水はもっとも抵抗の少ない道筋を流れていくからです。多くのクリスチャンの人生はこのようです。彼らは往々にして一番抵抗の少ない道を選んでいくのです。これはオーバーカマーの持つ性質と正反対です。
オーバーカマーとしての心構え、 覚悟は、義の道を歩むためにすべてのクリスチャンが基本的に持つべき態度です。オーバーカマーは、途中で止めてしまったり、障碍を避けて道を逸れたりはしません。彼らは問題に正面から取り組み克服していくのです。
これとは逆に、多くのクリスチャンは「すべて順調だったからこれは主からに違いない」という証しをよくします。これは未熟な霊的ベイビーにだけ適応できることです。聖書が語る真理は、「通常、あまりにも簡単に素早く起る事は取るに足りない事である」というものです。
これは私たちが聖書を読むならばわかることですが、聖書を読むクリスチャンは多くはありません。それは困難なことだからです。 希少価値があり入手が困難なものだけが宝物になるのです。神の御ことばの宝は手に入れるのが困難です。それはあたかも主と主の御こころを知る事に真剣でない者たちを締め出すためのフィルターの役目をしているかのようです。
主と主の御こころへの基本的な献身がない者は淘汰される時が来ようとしています。「主の御こころを知り、それを実行することを遮るすべての障碍物を私は克服する」という決意によって、この献身は表されます。もし主が私たちに容易な道を与えたかったならば、主は復活された時すぐにサタンを縛られたことでしょう。
すべて邪悪な者たちが生まれたり成長するのを差し止めることもできたでしょう。敵が主の小麦畑に毒麦を蒔くのを止めることもできたでしょう。主がそうしなかったのは、主と共に支配し治めるようにと主が整えておられる者たちに容易な道を与えたくなかったからなのです。
ヨハネに啓示を与え始めるにあたって、主がまず勝利する者、オーバーカマーにむかって語られたのは偶然ではありません。オーバーカマーの心を持つ者だけがその後の啓示を理解できるのです。簡単な抜け道を探し耳をくすぐるようなメッセージだけを聞く者にはこれに続く黙示録の内容を理解することはできないでしょう。
私たちの持つ一番の弱点を、キリストにあって克服するならば、その自分の持つ「最大の弱さ」を自分の「最大の強さ」にすることが出来るのです。聖書の中でそれを証言するのはダビデ王がエブス人に打ち勝った時の話です。エブス人は「めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言ってあざけりました。(第二サムエル5:6) しかしダビデは彼らを征服したばかりか、彼らの首都であったエルサレムを自分の首都としました。彼はまたそこを自分の砦とし、シオン(要塞)と名付けられました。即ち、 私たちをあざけっていたものを 克服するならば、私たちはそれを強固な要塞にすることが出来るのです。(終り) ー 注:上記で付けられた下線は訳者によるものです。
訳者からの追記 坂 達也
私は最後の時代に生きるクリスチャンに別名を付けるとすれば、それは「勝利を得る者、オーバーカマー」であると信じます。なぜなら最後の時とは、悪魔とこの世に完全に打ち勝ち、とどめを刺す時であるからです。悪魔に完全に打ち勝たれたのは我々の主イエス・キリストであり、私たちクリスチャンは「主(神)に似た者になる」ように造られていることを思い出して下さい。(創世記1:26)
私はリックジョイナー師が、難解な聖書の最後の書「黙示録」の解説を始められたことに大いに期待し、いよいよこれからが楽しみです。
この黙示録二ー三章で七つの教会=すなわち現在の全教会にあてはめられる=主からのメッセージの重要なポイントは既にジョイナー師が語られましたが、私が付け加えるとすれば、くりかえし出て来る「ことば」ー「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と「だから悔い改めなさい。」です。
そしてこの黙示録には、私たちクリスチャン一人一人が、最後に神のみ前で「さばかれる」ことが書かれていることーこれは注目に値します。それは、クリスチャン一人一人が、神から与えられているデスティニー<それは天にある「数々の書物」「いのちの書」に記されています。(20:12参照)>と実際に生きた私たちの行いが、比べられるのです。このことに就いては次回に触れさせていただきます。
16 05月
豊かな人生の鍵は
ショーン・ボルツ
ある時私は妻と話をしていました。彼女は私たちの将来の夢を描いて語っていたのです。 思い切り二人の未来を想像して恐れないで私に心を開き語ってくれていました。彼女は「今、その夢に」生きていました。
でも問題は私が「心そこにあらず」の状態だったことでした。私には大きなミニストリーをしないかという誘いが幾つかあり、私の頭はその事を思い巡らしていたからです。また、現在解決せねばならない色々な問題もあって、それも頭を離れませんでした。
新しいミニストリーの機会を掴むべきだろうか?しかし、そうすれば今より頻繁に家を離れることになることが気がかりだし、そうなれば、現在のミニストリーはどうすればよいのか?私たちの始めたばかりのビジネスはどうする?又、家族に関してのあの問題をどうすればよいのか? 経済的に心配はないのか? そしてこの背中の痛みは?」等々。自分の思いはそのように6つ程のことをあれこれと思い巡らしていて、その結果実際今自分がいる妻との時のことに集中出来なかったのです。
すると私の妻のシェリーはそれを感じて「あなた、聞いているの?」と訊きました。これは自分が愛する人から聞く最悪の言葉です。なぜならばその人が安心して話せるスペースをあなたが設けなかったということだからです。それはあなたが「今という時」とつながっていなかった証拠です。
イエスは、ヨハネ10:10で「わたしが来たのは、羊がいのち(life 人生)を得、またそれを豊かに持つためです。」とはっきり言われています。
豊かでよりすばらしい人生を送るためには、自分の人生のゴールや一番大切なこと、又自分のアイデンティティーとあなたがしっかり結びついている時にだけやって来ます。そのためには自分の時間とエネルギーを用いる優先順位を決め、あなたがしなければならないことをする中で、一緒に過ごすようにと神から与えられている人と先ず最も多くの時間を過ごすために、時間の境界線をはっきり設けることを学ぶ必要があるのです。
非常に裕福で万事がうまくいっているように見える人に会ったことがあります。 「あなたの成功の秘訣はなんですか?」と私は訊きました。きっと 何度も訊かれる質問だと思いましたが、彼の答えのシンプルさに私は驚きました。 彼は「私は人生のシンプルな目標と 優先順位を決め、その目標と人間関係をどんなことがあっても絶対に守りながら生活します。」と言ったのです。
マタイ5:8に「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」とありますが、これを「あなたの内なる世界(こころと思い)を正しくするものは幸いです。そうすれば外の世界で神を見るでしょう。」と訳している聖書もあります。
彼のアドバイスは本当にシンプルでしたが、私のように目標に集中できず、良いことだと思うとすぐに引き受けてしまう者にとっては、すばらしいアドバイスでした。
彼は優先順位と目標を決める重要性ばかりではなく、それから逸れないように自分を守る重要性も話してくれました。他のいろいろな事をすることは、自分が真に神から召されている仕事を成功させるために必要なエネルギ―を奪うだけでなく、彼が最も時間を共に過ごすべき人との時間をも奪ってしまうと彼は言いました。
私は彼のアドバイスを実践し、自分の目標と優先順位を紙に書きました。
1.すべてのことにおいて、妻と子どもが「自分は夫(お父さん)にとって絶対一番の優先順位だ」と感じるようにする。
2. 人々が神から能力を豊かに与えられ成熟するのを助けるような本を書き、そのような教材資料を整えることに私の仕事を集中する。
これで私ははっきりした目標を持つことが出来、自分が人生としっかり結びついたと感じ、何をするにもその時の「今」を生きるチャンレンジをもらいました。又、驚くほどすばらしい機会を与えられても、それが自分の真の目標のための貴重な時間やエネルギーを奪うものならば断る力を与えられました。
最近それを実践する機会がありました。それは10~12ほどの都市でのカンファレンスで話す誘いでしたが、その内容は今私がメッセージをしたい線ではありませんでした。又、もっと家にいて幼い子どもたちと時間を過ごしたり、自分のメッセージや資料を建て上げるという今の私の優先順位を守るものでもありませんでした。今その仕事を引き受けてリスクを取るだけの価値はありませんでした。いつか私のゴールが変る時がくれば、引き受けることもあるかもしれません。
あなたの優先順位や情熱のあることに対して「Yes」と言うために、何かに、また誰かに「No」と言うことができるようになります。一番大切なことに「Yes」というために、何千回も「 No」と言わねばならないかもしれません。
確とした目標、優先順位、アイデンティティーなしには、あなたは自分の人生のリズムをつかむことはできません。
もしあなたが神から召された人生の領域を定めないならば、その人生の「今」を生きることができません。クリスチャンとしてすばらしい人生を送るための力は、人生をただその時その時に合わせて反射的に生きるのではなく、最高の価値を生み出すものを積極的に追求することから生まれるのです。
私たちクリスチャンは、人生に翻弄される必要のない者たちです。計画を立てる自由を与えられているばかりか、その計画を天がバックアップしてくれるのです。神が私たちの内に入れてくださったものをいつも意識して守るならば、自分自身や社会と完全に結びついて生活し始めることができます。
その時、家族は第一とする目標が同じなので争う必要がなくなり円満になります。友人たちは自分の持つ高い優先順位を感じて喜びます。ビジネスやミニストリーはあれこれと手を広げることなく、集中して質の高さを求めていくので繁栄します。
神は常に「今」を生きておられる being fully present よい(模範の)例です。
神は遍在され、どこにでもおられますが、私たちの「時」と「空間」の中にいることを私たちにギフトとして与えることを選んでくださいました。神は私たちに集中して目を留めてくださいます。それは私たちが神の目標であり、神は天のすべてのものと共にその目標を堅く守っておられるからです。
私たちが神に近づくとき、神も近づいてくださいます。そしてもし私たちが神に集中するならば、神はすでに私たちに集中し注目しておられ、私たちの人生のすべての点ですばらしい関係をもってくださいます。私たちは神の優先順位一番であり、神は私たちとの時間を他のことには用いられません。神が来て下さらないことは決してなく、私たちが黙っているときでも神が何も話されないこともありません。それは私たちが神の優先順位の一番だからです。あなたは人生にしっかりつながっていると感じるように召されています。それはあなたの周りの世界はどうしてあなたがそのように繁栄するか訝しく思うほどです。
私たち夫婦は最近小さな結婚セミナーを開きました。彼女が自分の思いを心を開いてオープンに人々に話したとき、私は彼女の考えや夢と完全につながっていました。それが私のプライオリティーだからです。確かにまだ他の6つの事柄が私の注意を引こうと争っていましたが、それらのための私の処理機能のスイッチは切ってあり、妻のためのものだけにスイッチが入っていました。そして、つながっていることの力を私は知ることができたのです。(終り)
09 05月
愛は何よりも大切なもの
リック・ジョイナー
黙示録2:4、5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
主はエペソの教会が「初めの愛」を失ったことを叱責しておられます。私たちはクリスチャンとして、同じ過ちを犯さないように一番に気を付けねばなりません。私たちはあまりにも「主のための仕事」に熱中するあまり、本来の召しである主との関係を深めることを忘れてしまうのです。これはすべてのクリスチャンや教会、ムーブメントが必ず遭遇する最大の問題です。当初「初めの愛」は大きな恍惚感を与えるので、私たちがいつも主に夢中になっていることは簡単です。しかし少しずつ主に慣れ親しんでくると、初めの情熱を次第に失っていきます。
まず主と「恋に落ちる」情熱を経験し、その後クリスチャンとして成長し主との関係を深めている人も、当初のあのように激しい情熱を持ち続けることは実際可能なのだろうか、と訝しく思うのです。人間同士が互いに惹かれ始めるときには、脳内にエンドルフィンが分泌され激しい情熱を引き起こし、ドラッグのような恍惚感を与えることが科学的にわかっています。
しかし、脳内のエンドルフィンには限りがあるので、数ヶ月のうちに消費されてしまいます。するとドラッグが切れたときのように、私たちはどっと落ち込んでしまい、「ハネムーンは終った」とか、「恋から覚めた」とか思うのです。実際はエンドルフィンが無くなっただけのことであり、二人の関係をもっと深い成熟したものへと移行させていく時なのです。この移行過程を経験した人たちは皆、成熟した愛が当初の愛にまさるものであると言います。
「初めの愛」の情熱が無くなることは、人間関係においては事実です。しかしながら、主はエペソの教会が初めの愛を失ったことを叱責されています。主にあって私たちは、初めに持った主への情熱を持ち続けることが実際にできるのです。私たちが主に出会ったとき、即ちボーンアゲインしたとき、エンドルフィンは分泌されなかったかもしれません。しかしそれよりずっとすばらしいもの、即ち聖霊を受けたのです。聖霊によるバプテスマを受ける時の恍惚感はドラッグで感じるものよりはるかにまさっています。
そしてすばらしい事にそれはドラッグで引き起こされるような幻覚ではないのです。私たちは主の無限の力の実体と慈しみに触れ、またそれに触れられるのです。イザヤ9:7で言われているように「その主権は増し加わり、その平和は限りない」のです。
私たちは生ける水の涌き上がる涸れることのない井戸を内に持つであろうと、主は言われました。それはいつか涸れてしまうとか減少するものではなく、私たちの人生の中でますます増えていくものです。
残念ながら殆どのクリスチャンは命の川から離れてしまう時期があると思いますが、そうある必要はなのです。もし離れてしまったときは、そのことを認めて、急いで当初の主への情熱に戻らねばなりません。キリストにあってこの川は決して涸れることはないのです。戻るためには私たちが当初していたことをせねばなりません。即ち聖書を読み、学び、主を知り、主の道を捜し求めるのです。そして人々に主のことを語り、他のクリスチャンとの絆を保つことです。他のクリスチャンとの交わりを保つことは、第一ヨハネ1:7が言っているように、光の中に住む者にとって不可欠なことであり、私たちはそのように召されています。
愛は行ないか、感情か?あるいはどちらも
初めの愛を持ち続けることは非常に重要であるので、主はエペソの教会に「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」とまで言われました。それは即ち、もう主の教会ではなくなることを意味しています。ですから私たちは何よりもまずこのことを正さねばなりません。第二コリント13:5でパウロはこのように勧めています。
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。—あなたがたがそれに不適格であれば別です。」
人間としての私たちの第一の仕事は神を愛することです。私たちは幾つかのことに関して自分を吟味し評価するべきですが、先ず一番にするべき最も大切な吟味は、主に対する愛が成長しているかどうかです。私たちが本当に成功した人生を送っているかどうかを決める主要なものはこのポイントです。
人生の道は愛が増し加わっていく道であり、それはまず神への愛から始まります。 私たちの主への情熱が大きくならないと、人々に対する愛も減少していきます。外面的には変らず主のために一生懸命働き偉大な業を成し遂げるかもしれませんが、第一コリント13章が言うように、愛がなければそれは何の値うちもありません。愛が重要であるのです。
人間同士の情熱的な愛は、私たちと主との関係のタイプ、或いは型として用いられています。聖書ではこれをひな型とか影(ヘブル8:5参照)と呼び、実物の影のようなものだと言っています。ですから私たちの神への愛は、人に対して抱く愛よりももっと確かな実質のあるものであり得るのです。それではどうすればこのように情熱的で焼き尽くされるような主への愛を抱きつつ、かつ毎日きちんと生活し機能することが出来るのでしょうか?
主への熱い情熱を抱いて普通に生活することは、初めは困難でしょう。不可能ではありませんが、難しいです。情熱的な主への熱い愛に捕えられた人たちのことを「あまりにも天国のことだけ考えていて、地上では役に立たない者」と人々は言ったのだと思います。確かにそのような人たちもいたと思いますが、もしそうだとすれば、彼らは人生のよい方を選んだのです。主はマリヤとマルタの両方を愛されたことを忘れてはなりません。「よい方」を持つためにマルタはもっとマリヤのようにならねばなりませんでした。しかしマリヤもマルタから学ぶ必要がありました。(勿論それはマルタの取った態度のことではありません。)私たちはマリヤとマルタのどちらかではなく、両方から学ぶ必要があるのです。
ヤコブ2:26に「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とありますが、行ないのない愛が死んでいることも真理です。家に帰ってきた夫が、家の中がメチャクチャで子どもは食事も与えられず世話もされていないのを見たらどう思うでしょうか?
夫が妻に「一体どうしたのか?」と聞くと、妻が「あなた(夫)への愛で一杯でただ座ってあなたのことを考えているだけで何もできなかったのです。」と答えたとしたら、どうでしょうか?
同じように夫が妻を愛するあまりただ座って妻のことを考えていたので、仕事ができず家族を養うことができないとすれば、どうでしょうか?
ハイディ・ベイカー師が言うように「愛は何かの形をとる」のです。まことの愛は行動を起こさせます。このことを考えてみてください。愛を命令することができるでしょうか?誰かに私を愛するように命令できるでしょうか? 神は私たちが神を愛するように命じられました。どうすれば出来るのでしょうか?
愛はただ感情だけではありませんが、確かに感情でもあります。妻や夫に「あなたを信仰で愛しています。」と言われてうれしいでしょうか?
主にあって私たちが成長するとき、私たちは感情と共に愛の行ないの訓練においても成長するのです。なぜならば愛は感情であると共に行ないでもあるからです。もし神が私たちに「わたしを愛しなさい」と命令されたとすれば、私たちは素直に神に従うことから始めねばなりません。もしそうするならば、感情はそれに伴ってきます。また他の人達は感情から始めて、その後に愛の行ないの訓練を学ばねばならないかもしれません。両方とも私たちの人生で第一に追求すべきことです。
主の愛のうちに歩むことが最高の人生であり、それ以外のすべての情熱やドラッグは偽物です。それよりも他にもっとよいことなどあるでしょうか?主にとっては私たちが何をするかよりも、どのような者になるかの方がより大切なのです。人間として私たちが持つ最高の目的は神を愛することです。私たちがこの目的を成し遂げて召された目的を達成するのはただ愛によってだけです。愛がなくてはすべての事は何の値うちもありません。愛が何よりも大切なのです。(終り)
25 04月
神との同居生活
グラハム・クック
リバイバルを説明しようとする用語の多くは、それが起こった時の様子 とか、或いはそれが起こる特別な状況に関する説明がほとんどです。その多くは「神の訪れ “visitation”」を表す言葉です。確かに私たちは神が聖霊の働きと共に訪れてくださることを待ち望んでいます。しかし聖書に書かれているのは、私たち一人ひとりの内側に建て上げられる聖霊が宿る場所、住まう場所 abiding, a habitation of the Spirit に関する言葉です。
実際のところ、リバイバルとは大勢の人が王なる主とその御国を発見することではありません。霊的に死んでいるものはリバイブする(息を吹き返す)ことはできません。死んだ霊はまずボーンアゲインする必要があります。リバイバルは教会のためのものであり、この世のためのものではありません。私たちが眠りから覚める必要があるのです。
リバイバルには3つの段階があります。第一の段階は、私たちのイエスに対する情熱が新たにされることです。即ち初めの愛に戻り、主の恵みと力に自分を完全に委ね捧げることにもどらねばなりません。第二は、失われた者に対する憐れみの心が回復されること、すなわちそれは、人生を御国に仕えるために捧げることです。この二つの段階を経験した結果として、最後の段階である「社会的改革 reformation が起ります。それはこの世の人々がクリスチャンの中に住んでいる復活の主の力と栄光に応答し始めるのです。
私たちは自分のしたいことや、言いたい事を捨てて、毎日イエスを愛することだけに自分を捧げねばなりません。イエスはヨハネ7:38で「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と教えておられます。残念ながら人々は渇きをおぼえて水を求めて集会に来ることが多いのです。私にはそれが理解できません。私たちはクリスチャン(水を求めてではなく、既に)水に満ちあふれていて、それを人に分け与えたいと願って集会に来るべきです。
神と共に住むことを学ぶのには時間がかかります。私たちがミニストリーをするときに受けるプレッシャーは非常に大きいので、主に安息する方法を知らないと、私たちはストレスを感じ、病気になり、時には死んでしまいます。神の御前にある「平安の場所」に自分を連れて行く方法を修得するには訓練がいりますが、それは絶対に必要な訓練です。私はそのための訓練に何年もかかりましたが、今は普通5秒か10秒でその「平安の場所」に自分を連れていくことができます。私の周りで何が起っているか、何が私を脅しているのか、は最早問題ではなくなり、私は神の御前で自分を静かに落ち着かせることができるのです。
私にはその必要性があります。主の御声を聞くためには私が静まらねばならないからです。主は私たちの祈りと同じ音量で答えられることは稀です。
「父よ! あなたの御声を聞かせてください!」と私たちは神に叫びます。
すると主は「わかっています。」小声でささやきかえされます。
それが聞こえない私たちは「私に語ってください!」ともっと大声で叫びます。
すると主は「語っているのですよ。」とささやかれます。
しかし私たちは「今日、あなたの御声をどうしても聞かねばなりません!」と必死になって声を張り上げます。
すると「黙りなさい。そして、聞きなさい。」と主は静かにささやかれます。
詩編46:10に「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)」とありますが、黙想、メディテーションは神と共に住まうためのもう一つの方法です。西洋の教会は、神を深く思う時を持ち黙想することを学ばねばなりません。長い時間である必要はなく15分か30分でいいのですが、すればするほどあなたはもっと主に時間を捧げたいと思うようになります。私は黙想を愛します。
黙想し静まることは私たちに平安を増し加えます。私は自分が訓練している人達には、多くの時間を費やして平安について教えます。彼らが生活の中でどのくらい平安を持っているかをいつも尋ねます。彼らは来年には今年よりも心配やパニックの量が少なくなっていると信じています。彼らの平安が増し加わり、心配や不安は減少してゆかねばなりません。平安は極めて重要な御霊の実です。
主のうちに安息する能力を高めないならば、私たちはアドレナリンで走り回っている結果となります。それは少しの間はいいかもしれませんが、アドレナリンが高い時があるということは低くなる時もあるということです。往々にして人々は高いアドレナリンで走り過ぎた後にアドレナリンがなくなって疲れ果て落ち込んでしまいます。私たちは人生そのもののプレッシャーではなく、人生の走り方からくるプレッシャーで疲れ果てるのです。
しかし「平安」は外からのプレッシャーに対抗して内から押し返す力です。もしこの世が外から1000ポンドのプレッシャーをかけてきたら、「平安」は内側から1001ポンドで押し返すのです。私は行く所どこでもプレッシャーがあり、多くは非常に大きなプレッシャーです。多くの人々が私に会いたい、話をしたい、祈ってほしいと言って来ます。それは私の仕事ですから勿論かまいません。それを切り抜けるために私は「平安でいる」ことを学びました。神に安息することで私は平安を得るのです。
アドレナリンはやがて私たちの心と身体をすり減らし、疲れ果てさせます。仕事をして疲れるのはいいですが、仕事が嫌になってしまうのはよくありません。私たちは平安と安息と黙想を自分に与えることを学ばねばなりません。私たちが自分の内部を成長させて整えるならば、最高のレベルで長い年月働くことができるのです。(終り)
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