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Walk With God Ministries


08 08月

隠された宝と二倍の取り分      キャシー・ペルトン        2016年8月8日


隠された宝と二倍の取り分

 

キャシー・ペルトン

 

信仰とは見えないものを信じて望むことです。私たちは主から「約束」や「指示」を聞いたとき、それが必ず起こるという目に見える保証がなくても、その約束の中を歩みはじめます。保証は主のことばの中にあります。それは主が忠実な方でありご自分のことばを必ず守る方だからです。

神からの約束や指示を聞いたときそれが実際どのように可能になるのか、どのように起るのかが全くわからない時に、私たち家族が信仰で一歩を踏み出した多くの人生の旅についてある友人に話す機会が最近ありました。主の忠実さを証明する多くの体験を思い出しながら話している間中、私は 隠された宝が今にも与えられようとしているヴィジョンを見ていました。

 

信仰で踏み出す

 

私たち家族に主が「今日から6週間後に違う国に引っ越すように」と言われた時のことを私は友人に話しました。私たちはその8ヶ月前に新築の家を購入したばかりでしたのでローンの支払いもあり、子どもも4人いるのに、どうしてそのような事を主が言われるのか、本当に主の御声であったのかと悩み苦しみました。多くの祈りと多くの確証を得て、私たちは「それは確かに主からの指示である」と結論づけました。私たちは家を売りに出し国外に移住する準備を始めました。

出発の日になりましたが、まだ家は売れておらず、経済的なサポートも殆どなく、ビサも取得できておらず、ただ行き先までの旅費があっただけでした。目に見えない約束を信じる信仰だけで私たちは新しい国へと出発したのです。

「私たちは信仰に満ち満ちて恐れはなかった」と申し上げたいところですが、正直なところ私たちは怯えていました。以前一度だけこれと同じ位未知の世界へ踏み出したことがありましたが、それはまだ私たち夫婦に子どもがいない時でした。私たちは4人の子どもたちを眺めながら「私たちが確かに神の御声を正しく聞いたのでありますように」と祈りました!それから新しい国で暮らした何年かを通して、私たちは神が常に隠された宝を私たちのために用意していてくださることを学んだのです。それは住居、人脈 、人間関係、物資、収入という形で現れました。

私たちに必要なものが何処から来るのかわかっていたことは一度も無かったように思いますが、それはいつも来たのです。私たちが予想するような所からではなく、考えたこともない思いもよらない所や理解できない所から来ました。私たちはいつもびっくりし続けていました。主がお言葉をくださっていたのですから驚くべきではなかったのですが、でもやっぱりいつもびっくりしていました。

イザヤ45:3「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを、あなたが知るためだ。」

 

今も私たちは毎月の必要を目には見えないものを信じる信仰で与えられています。思いがけない必要が突然起こることがあります。その時は心を静めて「神は隠された宝を蓄えておられ、神のタイミングでそれを必ず与えてくださる」ことを思い起こすのです。これは定収入のある人にとっても同じだと思います。

 

生きたとりなし

 

私は「神が示される事のためにとりなす」という召しを受けている預言的な者ですが、キリストのからだの多くが経験していることを私も常に経験させられています。それはとりなし手に課せられた「重荷」ではなく、聖霊のパートナーとして共同作業をするという任務です。この任務は、敗北ではなく必ず勝利する方のパートナーになることですから大きな喜びを与えてくれます。

この2ヶ月、私は魂に大きな圧迫を感じる経験をしました。同時に私たち夫婦はお金が足らない、それもひどく足らないことに気がつきました。もう何年も見えるものではなく信仰で歩むことを学んできたので、私は平安と神のブレイクスルーの確証を信じてこの嵐を耐え忍ぶことを会得していました。

しかし今回気がついたのは、私がよく眠れなくなったことでした。パニック状態で目を覚ますようになりました。 神の慈しみを確信して平安に眠りにつくのですが、夜中に息苦しくなって起きるのです。怖い夢を見たのではありません。熟睡している時に魂に氷水をかけられたように感じて起きるのです。

 

これが何回か起きたとき、私は何が起っているのか、どうすればいいのかと主に訊ねました。主はこう答えてくださいました。「わたしの息子、娘の多くがパニックと絶望を味わっている。彼らに仕掛けられている悪魔の業を克服するために、あなたがわたしのパートナーになってくれるようにわたしは願っているのです。」

とりなし手たちはイエスのパートナーになるのです。イエスは人々のために既にすべてに勝利された方です。主とパートナーになるのは光栄なことですが、その任務をはっきり認識しないと非常な重荷になる可能性があります。主とパートナーになるという招きを理解するならば、あなたはあなた個人の戦いから目を移して、キリストのからだが約束された勝利を受け取るための戦いに焦点を合わせることができます。

自分はとりなしの任務をもって生活していると認識したので、私は忍耐して主が求めておられるとりなしをすることができました。今とりなしという特別の任務は多くの者に明らかにされ、 主のパートナーになることに同意した人達の祈りによって遂行されているのです。

 

私はこのことを二つの理由から皆様にお話しています。まず第一にパニックや絶望的な状況に直面しているすべての人が、イエスは自分の問題をすでに処理されておられ、解決が今来ようとしていることを改めて確認できるようにです。第二にとりなし手として召されている人たちが、自分が感じている重圧感、圧迫感は「自分の痛み」ではなく、苦しんでいる息子、娘たちのために主ご自身が感じておられる「主の痛み」であることを忘れないためです。

私たちが苦しみの中で主のパートナーとなるならば、 栄光の中でも又主のパートナーとなるのです。それは主の助けが必要である人達に解放が来るのを見るからです。

1ペテロ4:13「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」

 

感謝せよ!

 

もしあなたが今圧迫や重圧を受ける「任務」に直面しておられるなら、主はあなたを慰めたいと願っておられます。私があなた方のためにとりなしをしているときに 「感謝せよ!」という御ことばを聞きました。詩編107はこのように始まります。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

そして続けて、主が長い年月の間にご自分の子らにどれほど何度もいつくしみを施されたかを述べています。主による解放といつくしみの業を一つひとつ述べたあとに、必ず「主に感謝せよ」という宣言があります。

この詩編を読んでいるとき、私は主が主の民の賛美の上を手にかまをもって敏速に馬で駆ける姿を見ました。この幻は変化し始め、大いなる苦しみの中に閉じ込められた男女の幻に変わりました。彼らは助けを求めて叫んでいましたが、その叫びは突然主のいつくしみを感謝し宣言する叫びへと変りました。

彼らが感謝の宣言をしたとき人々の声の勢いは増し加わり、イエスが彼らの感謝の叫びの上を駆けめぐりました。主の手にある鎌が 突然素早く動き、人々の上に重くのしかかって 圧迫していたすべてのものを打ち壊して彼らを解放しました。

彼らは解放され感謝のいけにえの叫びを解き放ちましたが、その時彼らの身体は喜びの賛美で満たされました。そして彼らは主と共に馬に乗り、一緒にこの鎌を持って捕われ人(男や女、都市、国家)を解放するために出て行きました。解放された者たちは神の大いなる軍隊に参加するのです。

詩編107:21、22「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。」

 

私は聖霊が多くの人に「感謝のいけにえ」の叫びを解き放つようにと呼びかけているのを感じました。それは あなたや人類に対する主の慈しみへの感謝のいけにえの叫びや宣言、或いは行動かもしれません。それがあなたのブレイクスルーのための鍵となるでしょう! ただブレイクスルーを得るために賛美のいけにえを捧げるのではなく、主がそれにふさわしいお方であり、それが真実であるから捧げるのです。(終り)


01 08月

親密さと慣れの違い    リック・ジョイナー             2016年8月1日


親密さと慣れの違い

 

リック・ジョイナー

 

 

アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあります。又、詩編25:14には「主はご自身を恐れる者とは親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」とあります。神は神を恐れる者たちにご自分の知識を信頼して委ねられます。

 

「神に恐れを抱いていてどうして神と親しい友だちになれるのか」と不思議に思うかもしれませんが、このような神の逆説(パラドックス)を理解するとき、私たちはいのちの道を見出すのです。詩編25:14で「恐れる fear」と訳されているヘブル語は「yare」で、これはまさに「恐れる」という意味です。他に「尊敬 respect」と訳しているものがあり、勿論それは間違いではないのですが、これは普通の尊敬ではなく尊敬を何千万倍にもしたものです。私たちが神の親友であったとしても、神はやはり神であり私たちはやはり人間なのです。

 

ヨハネはイエスに親密な intimate 友でした。ユダは主に慣れて familiar いました。神との関係において聖くない慣れ方があり、それは恵みからの最も悲劇劇な脱落の原因になりえるのです。一方ヨハネは年老いて12使徒の最後の生き残りとなったときに幻で天に上げられたことが黙示録に書かれていますが、彼はその時でもなお主の臨在の中で何度も倒れて死者のようになりました。確かに彼は最も偉大なキリストの啓示を受けた者であり、最も親しい神の友であったにもかかわらず、主への恐れを決して失いませんでした。恐らくそれがこのような啓示を委ねられるほど信頼された主な理由であったことでしょう。

 

パウロは初期の書簡で、「自分は他の最も優れた使徒たちと較べても決して劣ってはいない」と言っています。後に彼は自分は「使徒の中で最も小さい者である。(1コリント15:9)」と書き、その数年後には「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私(エペソ3:8)」と書きました。彼の晩年の書簡には「私は罪人のかしらです。(1テモテ1:15)」とあります。ここに一つの段階的流れがあるのがお分かりでしょうか。彼の霊的成熟が進むにつれて彼のへりくだりも増し加わっているのです。

 

思慮や分別のない者が自分の御座や重要な会議の場に近づくのを許可する国王や大統領が果たしているでしょうか? 主が「秘密のはかりごと」を打ち明けてくださるような主の友になりたいのならば、私たちはそれが栄誉であると共に責任でもあることを理解せねばなりません。預言的啓示を信頼して委ねられるならば、それを人に伝える時を知ると同時に伝えてはいけない時をも知る知恵を持つ必要があります。この知恵は主を恐れることに根ざしています。私たちは主の親友になったとしても、主がどなたかであるかを決して忘れてはなりません。主を恐れることは知恵の初めであり、それはすべての真の預言ミニストリーの土台であるのです。(終り)


11 07月

痛みの祝福     ブライアン・ジョンソン            2016年7月11日


痛みの祝福

 

ブライアン・ジョンソン(ベテルチャーチ・ワーシップリ—ダー)

 

ダン・ポッター師の奥さんがワーシップについて教えに来てくださった時にこう言われました。

「『I will give you all my worship(主よ、私のすべてのワーシップをあなたに捧げます)』という歌がありますが、実際のところ『I will give you some of my worship(わたしのワーシップの一部をあなたに捧げます)』と歌うべきでしょうね。」

確かに私たちの日常のワーシップを表すには、その方が正確な言い方ではないでしょうか。100%のワーシップをしているとは言いがたいです。しかし、本当に徹底的に打ち砕かれた時、私たちは100%全面的に神の恵みだけで生かされていることがわかるのです。自分では何もできないことを知るのです。それは本当にパワフルな瞬間です。今日はその事をお話したいと思います。

 

今日教会のキャシーさんが私が小さかった頃のことを話してくれましたが、一つのことが私によい意味で衝撃を与えました。

「ブライアンが2歳の頃、 頭をドアにぶつけて転びました。でも彼は痛さを感じなかったかのように立ち上がり、親指をしゃぶりながらお気に入りのブランケットをもって歩いていきました。」

小さい時のことはあまり憶えていないのですが、その小さなブランケットは今でも持っています。もうかなりすり切れていますが、くまのプーさんの黄色いブランケットです。

でもこれを聞いた時、私はあることがわかったのです。人生の大部分、私は自分の「痛み」を丁度そのように処理してきたのです。「痛み」の対処法は人それぞれ違いますが、私は非常な痛みを感じたとき、それを心の奥にしまい込んで「私は大丈夫」と言ってきました。それは昔ながらのアメリカ男性の典型ですね、いつも「俺は大丈夫さ」と言うのです。しかし現実は大丈夫ではなくて、痛みを抑えてしまい込んでいたのです。痛みを感じたとき、それに対してどのように反応すればよいかも私はわからなかったのです。痛みをもっている本当の自分に面と向かうのを避けていたのです。そのように人生を過ごしていたのですが、2015年の7月に遂に行き詰まってしまいました。

 

私たちは何としてでも人生の痛みを出来るだけ経験しなくて済むように努めますが、痛みと決定的に直面した時、多くの場合、自分のデスティニーを発見するのです。すべての慰め、言い訳がなくなった時、あなたは痛みと向き合わねばなりません。」仕事を終えて家に帰ったとき、あなたは何をしますか? ビールを飲みますか、テレビでスポーツを見ますか? 沢山食べますか? そのようなことがすべて取り去られてもあなたは十分幸せで満足ですか? それらのことは別に罪ではありません。でも「スポーツを見る」ことも罪になり得るのです。それがあなたがきちんと向き合わねばならない問題から気を逸らし紛らわせるものになっているならばです。私は今までの人生、ずっとそのようにしてきました。アメリカの文化は、男ならタフであるべきであり、痛みを感じていることを認めてはいけないというのです。しかし私たちは神によって痛みを感じるように創られており、その痛みは父なる神のもとに置くべきなのです。イエスはすべての痛みを感じられましたが、それをすべて御父の足元に置かれました。そして次の働きへと出て行かれたのです。

 

ここに風船がありますが、これをあなたのこころだと考えてください。もし痛みや恐れ、他のあらゆる感情をこころに溜め込むと、風船は膨らんでいきます。私たちは御父の下にいき、それをすべて吐き出さねばなりません。しかし、そうしないでずっとそのまま溜め込んでいる人がいます。「私は大丈夫,私は大丈夫」と言い続けるのです。私がそうでした。自分のこころに何が起っているのかわからなかったのです。そして風船はどんどんと膨らんでいき、ある日突然破裂するのです。そしてそれは100倍もすさまじい破裂となります。許せない思いや、苦々しさ、痛みの重荷は自分では決して背負いきれないのです。世界中で一番強い人にも無理なのです。いつか破裂します。そして私にそれが起りました。

 

去年の7月のことです。CDの仕事が一段落したところでしたが、様々な問題を経験し大きなストレスを抱えていた時でした。息子と外でトカゲを取っていたのですが、 なんとなく変な感じが身体にしました。私はあまりエモーショナルではないのですが、なにかこころにおかしな感覚がありました。自分が自分でないような気持でした。それで息子と家に帰り妻に話ました。私は小さいとき時々パニック症状が起り、そのときはヨシャパテのように神をワーシップすることでアタックから解放されました。それでその時も私は外で一時間ほど歩きながらワーシップしました。しかしこの時はまったく様子が違っていました。自分は気が狂うに違いないという思いがあり、身体も震え胸が苦しく息ができませんでした。家にもどりワーシップ音楽をかけて何時間も歩き回りました。私はナーバスブレイクダウン(神経衰弱)を起こしていたのですが、自分では何なのかわかりませんでした。両親や友人達が駆けつけてくれました。

 

自分の意志ではどうにもならない、自分の力ではどうしてもそこから抜け出すことができない状態です。まったくコントロールがきかないのです。永遠に苦しみが続くように感じて死にたいと思うのです。心臓の鼓動が激しく「もう駄目だ、もう無理だ、これ以上無理だ。」と言っていたのを憶えています。救急車が到着し、私は酸素マスクをつけらえて病院に運ばれました。神だけにしか答えがないというような状況に追い込まれたときは、それは偉大なギフトだと思ってください。痛みがあまりにも深く、神だけが答えであると感じるとき、それはすばらしいギフトだと思ってください。どんな麻薬でもそのような痛みを無感覚にすることはできません。

 

「信仰とは、神さえいてくださればそれで十分であるという内なる確信である。」という言葉があります。聖書の中で救い主を求めた人はすべて、自分の必要を認識した人でした。金持ちでも貧乏人でも、パリサイ人でも異邦人でも、自分には救い主が必要だと心から知った人はイエスのもとに来ました。多くの人は自分の罪を知り自分が穢れているのでイエスの元に来て赦しを受けます。けれどもそれは第一段階にすぎません。次にあなたは走って主についていき、主を見上げねばなりません。その時にあなたは決定的に変えられるのです。あなたが主を見るからです。

 

ナーバスブレイクダウンの期間、私は多くの深い痛みを経験しました。私は震えていました。家の中で子どもたちが騒ぐ時に、いたたまれずに外に出ました。些細なことでも神経にさわり耐えることができませんでした。働くこともできませんでした。私に少しでもストレスを与えるようなことは誰も話せませんでした。庭の芝生がのびているのを見るだけでパニックの発作が起きました。ある時少しでも癒されるかと思い、妻とナパの方に出かけました。けれどもそれは地獄のような旅になりました。毎晩私の胸は死ぬほど苦しくなり発作が起りました。でもそれが私の人生の重要なターニングポイントだったと思います。帰り道の車の中で、私は呼吸が早くなりまた発作を起こしそうになっていた時、妻が人を赦すプロセスに導いてくれました。私の中にそのような必要があることを私は知りませんでした。車の中に神が共にいてくださるようでした。

 

長い苦しいドライブの後家に戻りました。私の苦しみ、痛みはますます激しく、「この苦しみを感じなくてすむならば何でもします」と私は泣いて叫んだことを憶えています。そしてその時、私は神と正しい関係に入ったのです。私は小さい時から神を信じていましたし、神から離れたこともありません、犯罪を犯したこともありません。これまでずっとクリスチャンで神を愛していました。でもこの時、神との関係が正しくなったのです。そして私は日夜、聖書を読み続けるようになりました。それから5ヶ月の間毎晩ワーシップソングを聞きました。それはすばらしい神との交わりであり、私は「癒されてもこのような主との交わりを失いたくはない」と思いました。私の親しい友人であるダーリン・チェックさんも癌と戦っていたときの神との親密な関係を失いたくないと言っていました。私はずっと教会で育ちましたし、神を知っていました。でもこのときの親密さは特別でした。

私は聖書を読み、特に福音書の中のイエスの人生を読みました。何か教会で話さねばならないからとか、何かを得ようとか、何か曲が与えられないかとかいう目的で読むのではなく、ただ主と共に時間を過ごし主を知り友情を深めたのです。あたかも一人孤島にいて唯主と交わるためだけに生きていたようでした。そのように打ち砕かれることのすばらしさはそこにあります。

 

イエスは重大な出来事の前には、必ず御父のところで時を過ごされました。そして力を得たのです。それが私たちが歩むべき人生のパターンです。祈りの課題とか嘆願を持たずに、ただ主のもとに行き親密な時を過ごすことがすばらしいのです。それを繰り返し行うことが大切です。御国のことは食べれば食べるほどもっと食べたくなります。あなたが本当に必死であれば、早朝に起きることもできるのです。

1サムエル30:6に「ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」とありますが、私たちも主から力を受けることを学ばないでクリスチャン生活を続けることはできません。

 

ジョージ・ミューラーはこう言っています。「毎日私がするべき偉大な仕事は、神のもとに行き、私の魂に喜びを受けることである。」

朝のデボーションは私が生きるために不可欠なものとなりました。人生で私が持っていたすべての疑問の答えは神との秘密の場所に隠されていました。私たちは啓示を受けよう、答えを得ようとしますが、その方法が間違っていると思います。それを得る唯一の道は神と親しい関係になることです。それを得るために近づくのではなく、神と友達となるために近づくのです。神の声を聞く人はそのような関係を持っている人達です。

 

聖書に関しても私はシンプルな事しかできませんでしたから、毎日一節だけ選んで、その日一日それを生活の中で実践するように務めました。幼稚園児がするようなことですが、実行すると非常にパワフルでした。皆さんにもお勧めしたいです。ずっと教会生活をしていると、聖書を読む時、そこから深い真理や新しい啓示を受け取りたいと思います。でも実際は家族に対して忍耐ができなかったりするわけです。

ペテロがイエスを否んだ前日に、自分は決してイエスを見捨てないと自信をもって断言したように、私たちも「自分は神をこころから情熱的に愛している!」と自信を持ちます。でも実際それは自分の情熱に確信を持っているのであって、その幻想にしがみついているだけなのです。自分が真に打ち砕かれて「恵みだけ」が自分を支えていることを本当に知らねばなりません。

 

人は自分の賜物や成功、功績で人々から称賛されたいと思います。私も「こんな歌を作った、こんなCDを出した」と思っていたのですが、突然私の風船は破裂したのです。人との会話もうまく出来ず、のびた芝生を見るだけでパニックを起こしたのです。神が喜ばれるのは神にだけ頼り切る信仰です。私たちの賜物、成功、功績はもともと神が与えてくださったものですから、神はすでにご存知です。神は私たちが完全に神に拠り頼むときに感動されるのです。

 

私の父(ビル・ジョンソン)はすばらしいです。病気になり手術を受け今回復していますが、彼は今まで自分が説教してきた真理を毎日生きています。どのような状況にあっても神に絶対的無限の信頼をよせているのです。そのようなシーズンの父を見られるのは本当にうれしいです。

 あなたは人の賛辞、又は批判で揺り動かされることなく、ただ神が永遠の価値観から見た評価だけをしっかりと心にとめて生活すればよいのです。人からの賛辞はうれしいことですが、それだけを拠り所にするならば、あなたは上がったり下がったりの情緒不安定な人生を送ることになります。神への確信は私たちにバックボーンを与えてくれます。すべての事は100%神の恵みであることを知り、神に100%信頼し、100%のワーシップを捧げて生きようではありませんか。(終り)


27 06月

モーセと小羊の歌  フランシス・フランジペイン       2016年6月27日


モーセと小羊の歌

 

フランシス・フランジペイン

 

この世で音楽ほど私たちを霊的領域に容易に近づけるものは恐らく他にはないと思います。音楽は霊的領域への橋渡しする媒体であり、目に見えない時間と空間の扉を通り抜けて人の魂を運んでいくことができます。 自分にとって特別な昔の歌を聞いて、突然ある出来事の喜びや悲しみの思いで胸が一杯になるのを誰もが経験していると思います。或いは、ベートーベンの「歓喜の歌」やヘンデルの「メサイア」を聞いて、魂が音楽の翼にのって天国の入口までも引き上げられるのを経験しない人はいないのではないでしょうか。

その反対に、まるでトロイの木馬のようにサタンからの隠された軍隊を西洋に密かに持ち来んだのは1960年代の音楽でした。私たちはその歌を歌い、その結果、反抗、魔術、麻薬、不品行が私たちの考えに密かに忍び込み、私たちのモラルの水準を襲撃し低下させたのです。今日、悪魔的な音楽は西洋への影響をほしいままにしており、有名なロック・ミュージシャンたちは大胆にサタン崇拝をし、地獄の音楽に酔う若者でスタジアムを一杯にしています。

 

終末の時代

 

聖書の預言は、終末に近づいている今、音楽がますます礼拝の表現として用いられることを明らかに示しています。人類は両極のグループに分けられます。即ち、神の礼拝者として小羊に従う者たちと、悪魔についてサタン崇拝をする者たちです。(黙示録9:20、13:8etc.)

現在すでにこの両極性は現れています。ハードロックのコンサートは全く悪魔的で、完全に堕落しており、実際にサタン崇拝の表現になっています。それと同時にクリスチャン・ミュージックは音楽界で実に最も成長しているジャンルになっています。今日、アメリカでは普通のテレビ局でワーシップCDのコマーシャルが流れていて、スタジアム一杯の人々が神を心からワーシップしている姿が映し出されています。

 主は終末におけるワーシップの重要性だけではなく、私たちが正しいワーシップができるように救われた者たちの歌が持つべきテーマをも教えておられます!実際、私たちの心を満たしている歌が何かを調べれば、私たちが聖書に示されているパターンと霊的に一致しているかどうかを見分けることができます。ですから黙示録5:9、10を見て、私たちの歌を「小羊に従う者たちの歌」と較べてみましょう。

 

「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」

 

まず第一に、贖われた者たちは「新しい歌」を歌いました。真のワーシップは古くさかったり新鮮味がなかったりはしないのです。それはいつも新鮮で、いつも生きていて、いつも私たちの毎日の生活に表される神のすばらしい愛から生まれる出るものです。次に11−14節を見れば

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」とあるように、彼らは小羊の血によって贖われたことによってのみ神への道を得たことを知っていました。そして彼らは圧倒され自然に心から溢れ出る深い神の御子への感謝のことばで礼拝したのでした。

この箇所の歌のテーマは、たとえ完全にはそのように歩んでいないとしても、ほとんどのクリスチャンが慣れ親しんでいるものです。程度の差こそあれ、私たちはキリストへの賛美の歌を心に抱いています。しかし驚くべきことに、この聖書箇所によれば、終末に生きる贖われた者たちの世界観は、今日私たちの殆どが信じているものとは著しく異なります。

ヨハネは贖われた者の一人として私たちに語っていますが、彼らのゴールは天国で永遠に住むことではなく「地上で(キリストと共に)治めること」なのです。これは多くのクリスチャンが教えられていることと全く反対ではありませんか。私たちは「主よ、天国に連れていってください。」と祈ります。しかし贖われた者たちと24人の長老、そして天使の軍勢は「主よ、地上に天国をもたらしてください! あなたの御国が天にあるように地上に来ますように。」と歌っているのです。祈りの心をこめて考えてみてください。贖われた者たちは「地上で治めこと」に焦点をあてているのです。又、ヨハネが終末の聖徒たちを「私たちの神の祭司」と呼んでいることも考慮してみてください。「御国の祭司」の主たる任務は、旧約の祭司がその型を示している通り「とりなし」です。キリストと共に治める者たちは「とりなし手」であるのです。彼らは人類の罪のために神にいけにえを捧げ、万能の主の慈しみに賛美のいけにえを捧げるのです。祭司である彼らの人生は、彼らがとりなす人々や国々と堅く結ばれているのです。

しかし御国の祭司たちは助けが必要な人達と結ばれてはいますが、盲目なナショナリズムや個人的な文化的・民族的偏見に縛られてはいません。彼らは人々に欠けている点を明確に見ますが、それをただ容認したり、或いは裁いたりするのではなく祭司としてとりなすのです。彼らは、単なる批評家であることから抜け出して「御国と祭司」という上の位に即いたのです。

更に、彼らは「すべての部族、国語、民族、国民」の中から来ています。ですから彼らの心の歌に私たちはもう一つの側面を見出すことができます。即ち、彼らはキリストによって一つにされた人々であり、一致し和解することを決意しています。彼らは新しく造られた者たちであり、この世においては敵対していた時もありましたが、御国においては一つとなったのです。

 

ユニークなあなたの歌

 

贖われた者のミュージックやワーシップを満たすものが他にもあります。黙示録14:3に「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」とあります。

この箇所は神に選ばれた者たちについての記述ですが、これを適用すれば、私たちにも、他に誰も学ぶことのできない、私たち一人ひとりの歌があると言うことです。それは私たち一人ひとりの心から出るユニークな賛美の歌であり、自分の贖いを語る個人的な歌です。

愛する皆さん、あなただけが学び、あなただけが歌える歌があるのです。各節は神がして下さった奇蹟で満ちているでしょう。このワーシップはすばらしい御父の救いの力ある恵みの証しであり、私たちの神の体験から立ち上る麗しい香りです。あなたはこのような歌を歌っていますか? これこそあなたが生きる理由であり、あなただけにしか歌えない歌なのです。

 

すべての国々の人々が来る

 

しかしあと一つ私たちが学ぶべきテーマがあり、そのメッセージは黙示録15:3、4に書かれています。

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。

『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名を誉めたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。』」

 

愛する皆さん、この言葉の中には非常に多くの事が含まれていますので、ここですべてを語ることはできません。しかし選ばれた者たちには伴っている神の働きがあるのです。即ちそれは、偉大で驚くべき力が現れること、そして、正しいさばき、これが明らかにされたのです。「弱々しい終末の教会」としか見えない人たちに申し上げます。これ等の神の働きが来て国々を揺り動かし、「国々の人たち」は「来てひれ伏す」のです。

もし私たちが「 終末の贖なわれた者たち」を満たすワーシップと同じワーシップをすることができるならば、私たちは「国々が神のもとに来るヴィジョン」を得るに違いありません。愛する皆さん、キリストに従う者たちはモーセと主について歌うだけではありません。彼らはまさにモーセの心を満たした歌そのものを歌うのであり、それは小羊ご自身が歌っておられる歌であり、それは国々が神のもとに来る歌であるのです。

ミリヤムは「(主は)馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた(出エジプト15:21)」と歌いました。しかしモーセは違う歌を歌っていました。私たちがイエスのことを歌うのは確かに適切なことです。しかし人類の罪のために神がいけにえとされた小羊は違う歌を歌うのです。モーセとイエスの心を満たしていたヴィジョンを見て下さい。それは「すべての国々が来て神の御前にひれ伏す」ことです。

愛する皆さん、キリストに似る者となるとは、私たちの心の中に主の心が持つ価値観と基準を移し入れることです。主の歌を所有することです。イエスがなされたすべてにおいて、「主の前におかれた喜び」とは国々の大いなる収穫でした。モーセが成し遂げたすべてにおいて、彼の目は「約束の地」を越えて「約束の全世界」が完全に神に回復される事を常に見ていたのです。ですから、私たちもこれと同じ全世界のヴィジョンを持とうではありませんか。そうです、そしてこう自分に問いましょう。「私たちの心を満たす音楽は、贖われた者のために神が与えておられる音楽と一致しているだろうか? 私たちはモーセと小羊の歌を歌っているだろうか?」と。(終り)


13 06月

神は私たちを置き去りにはしない         グラハム・クック   2016年6月13日


 

神は私たちを置き去りにはしない

 

グラハム・クック

 

神が私たちの人生の中にどのように関わられるかをよく理解する時、私たちの人生は変革されます。それは「神が私たちのうちで何をしておられるか」又「私たちを通して何をしておられるか」を見ることができるようになるからです。そしてこの二つを混同することもなくなり、私たちは神の臨在に中で時を過ごし、啓示、導き、愛を受け取ることができるようになります。

しかし、これは普通すぐに経験できることではありません。「神を待ち望む」には忍耐が必要です。それはすべての事には最適で完全なタイミングがあるからです。伝道者の書3:1は「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」と告げています。

 

私たちは自分が願っていた、あるいは予期していたよりも物事に時間が掛かるとき、神を疑いたくなる衝動に駆られる時がありますが、これに対しては抵抗しなければなりません。時として私たちは「何も起らない」とつぶやいたり「ここは自分がいるべき所ではないのかも・・」と思ったりします。

 

しかし自分がいらいら焦れば焦る程、逆に神は物事を遅らせるということに気がつきました。それはやかんで湯を沸かしているようなものです。私たちが急いでいる時程、神はゆっくり沸かせられます。ですから私たちは、自分の周りで起っている状況の中にではなく、キリストの内に生きていることを忘れないようにすることが大切です。主が私たちの安息であり平安です。私たちの状況から平安を得ようとしても巧くいきません。なぜならば平安は頭からではなく、心からくるものだからです。平安は状況の中から生まれるのではなく、主との関係の中で生まれるのです。

 

心からの感謝と喜びが平安と安息を生み出します。なぜなら心からの感謝はすべての否定的でマイナスなものに打勝つからです。頭で喜ぶことは一時的な気休めにしかなりませんが、心からの喜びは私たちのライフスタイルを変えます。

感謝はありふれて起こることではありません。感謝とは主の喜びを経験することによって私たちが解放されて喜ぶことです。喜びこそ天国の持つ霊的環境であり、私たちの内なる霊的環境を永久的に変えるものです。

 

喜びは神そのものです。ですから私たちが喜ぶのは、神というお方の本質に私たちが応答することです。私たちは喜びの中に住まうことができます。それは神が喜びの中に住んでおられるからです。平安と安息とは、私たちの内なる命から生まれ出て私たちのライフスタイルとなるべきものです。どうか神のご性質の中に時々訪れるのではなく、神の内に住んでください。神の内に住まい留まるならば、神はあなたの内に住んでくださいます。(ヨハネ15:1-11参照)平安と安息は神の内に住まう結果であり、それは私たちクリスチャンが受け継ぐべき資産の一部です。私たちが神を相続し、神は私たちが受け継ぐ私たちの資産なのです。

 

神は、私たちが信仰によってこの真理に更に深く進み続けることを望んでおられます。私たちは霊的成熟の道を歩むようにと召されているのです。ですから私たちは、神を待ち望むことをもっと理解するように成長してゆかねばなりません。神は私たちの想像をはるかに越えた多くのすばらしいものを用意していてくださるのです。それは、第一コリント2:9に「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことにないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みなそうである。」とある通りです。

 

しかし神のギフトを受け取るために、私たちは神の中に住まねばなりません。神がキリストの中に私たちのために用意してくださっている場所に入らねばならないのです。私たちのすべての集会 gatherings の目的は、私たち一人ひとりがすべてイエスとの関係の中に確立されることです。 キリストの中にどのように住まい、 又留まるかを聖霊に聞くのは一人ひとり私たち個人の責任です。その時に、安息が訪れるのです。(終り)


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