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Walk With God Ministries


12 09月

御顔を求める      リック・ジョイナー             2016年9月13日



  御顔を求める

    

  リック・ジョイナー

 

 

黙示録1:16でヨハネは次のように主を描写しています。

「...顔は強く照り輝く太陽のようであった。」

太陽のエネルギーは自然界の命を保ち、可能にします。神の御顔も又、すべての命と霊的命を保ち、生きることを可能とします。使徒パウロがアテネの哲学者たちに言ったように「私たちは神に中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)」

 私たちが人を識別するには基本的に二つの方法があります。それは顔と声とによります。その人の手に何か特別な特徴が無い限り、手を見ただけでその人が誰であるかを見分けられる人があなたには何人いますか? 身近な人でさえわからないのではないでしょうか。しかし神を神の手だけで、つまり神が与えてくださった物によってだけ神を知る人が多いのではないでしょうか。第1歴代誌16:11と詩編105:4は「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」と私たちに命じています。

         主の御手は主の力と供給を表しています。それはすばらしいものであり求めるべきものではありますが、私たちはまず第一に主の御顔を慕い求めるように召されているのです。もし私たちが主を御手によってしか知らないならば、私たちに与えてくれる手ならば何でも主であると考えてしまうでしょう。私たちは主の御顔を求めねばならないのです。御顔からすべてのいのちが発せられていて、太陽のように輝いています。

 

         それではどのように主の御顔を求めればよいのでしょうか? それは主の御業だけではなく、主と主の道を求めるのです。詩編103:7は「主は、ご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。」と言っています。主のみわざを見ることはすばらしく、それを忘れないのは大切なことです。イスラエルは毎年 主のみわざを次の世代に語り継げるように命じられました。しかし主のみわざを見ることと、主を見ることには違いがあります。

 

        モーセは主の御顔を求めました。彼は多くの偉大なみわざを見たにもかかわらず、主を知り、主の栄光を見ることを願いました。モーセは人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて主と会ったのです。(出エジプト33:11)モーセがいのちで溢れていた理由はこれだと思います。120歳になったときも、彼の目はかすまず、気力も衰えてはいませんでした。

 モーセは主と共に多くの時を過ごしたので、老衰で死ぬことはなく、主ご自身が死なせねばならなかったのです。主の御霊は私たちの死ぬべきからだをも生かすと言われています。(ローマ8:11)御霊のうちに過ごす時間は私たちを若返らせます。しかし主を知ることの祝福は身体の若返りよりも更にすばらしいものです。イエスが言われたように永遠のいのちとは神を知ることです。(ヨハネ17:3)

         主は道であり真理でありいのちです。道とは救われるための方法ではなく、あるお方のことです。真理とは教義を正確に理解するだけではなく、私たちが知るべきお方です。もしそのお方が私たちのいのちでないならば、私たちは本当には道も真理も知らないのです。私たちは単に「主について」しるだけで満足してはなりません。顔と顔を合わせて主を知らねばなりません。これが私たちの人生の最も重要な目的です。他のすべての事の永遠の価値や素質は、私たちの顔と顔を合わせる主との関係によって決まるのです。(終り)


03 09月

とりなし手とはどのような人か           ジュディー・サリバン




とりなし手とはどのような人か

 

ジュディー・サリバン

 

 祈る人ととりなし手の違いは何でしょうか? 殆どのクリスチャンは祈りますが、すべての人がとりなし手ではありません。とりなしとは神とのコミュニケーションの手段であり、その点は祈りと似ていますが、祈りよりずっと深みへと入っていくものです。普通人々が祈るのは非常に個人的な事柄が中心となりますが、とりなしは自分では祈ることができない人達のために祈ります。辞書によると「とりなし intercede」の意味は「和解させる意図でグループ間に介入する 仲裁する」とあります。とりなし手は人のために神の介入を願って「破れ口」に立つ者です。

アブラハムがソドムを滅ぼさないようにと神に嘆願したとき、彼はとりなし手の役目を果たしていました。(創世記18:16−33)イスラエル人が金の子牛を造り拝んだときモーセはとりなし手として彼らを殺さないようにと神に嘆願しました。(出エジプト32)ご自分のいのちをすてて人類が神と和解するための道を備えられたイエスは、究極のとりなし手でした。

 

とりなし手とは、裁かれるのが妥当である時に神の憐れみを乞う者のことです。彼らは第二歴代誌7:14の「わたしの名を呼び求めているわたしの民が自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」という神の呼びかけに応答したのです。

 

自分の事ではない

 

真のとりなし手は自分本位ではない者であり、彼らの最高の目的は自分がとりなしている人のために命を捨てることです。熱心な祈りをもってある人やある場所と、それらに害を加えるものの間に立つのです。とりなしている相手と一つになり、彼らのために願い求め、嘆願し、彼らを苦しめている問題と戦うのです。憐れみや赦しを受ける権利のない人達のために願い求めます。とりなし手たちの祈りは霊的空気を変え、一日を制し、天を揺り動かし、悪霊を追い散らします。とりなし手はこれは自分の事ではなく、主の事であり、人類に対する主の愛、そして主の贖いのご計画に関することであることを理解し悟っています。

とりなし手は秘密の祈りの場で破れ口に立つ隠された者たちであり、他人のために悔い改め、主のご介入を叫び求める者たちです。彼らが公の場で祈るとき、その祈りは豊かでいと高き神の秘密の場所でじっと待ち望んだ者だけが持つ権威があります。真心を尽くして主を喜ばせ主に仕えることが彼らの焦点です。彼らは油断せず目を覚ましています。私たちの真の敵は人ではなく、悪魔がほえたける獅子のように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っているのを知っているからです。(1ペテロ5:8)虜になっている人たちを解放し、彼らが主のすべての慈しみを味わうことができるようにすることに、とりなし手は情熱を持っているのです。

イエスは人類が神と和解するための道を作るためにご自分の命を捨てられた究極のとりなし手でした。とりなし手に関するステレオタイプや空騒ぎを通りすぎるならば、これが本当に尊い召しであることがわかります。主に自分は何であるのかを尋ねてみてください。あなたが隠された者の一人、世界級のとりなし手になりつつあるかどうかを訊ねてみてください。

 

自分の目的を知る

 

今日「自分が何者であるか」発見するための多くの本や教えがあります。リック・ウオレンの「人生を導く五つの目的」やランス・ウオルナウの七つの山に関する教えはよい資料です。どの山のために自分が召されているかを理解し、自分はなぜ造られたのか、短い人生で何をするべきかを理解するのは、実に教会の覚醒となりました。目標を定めない人生は無謀であり無意味です。聖書にも「Where there is no vision, the people perish.ヴィジョンが無ければ、民は滅びる。」(箴言29:18)とあります。

 

とりなし手として自分が主にあって何者であるかを知ることが、自分の役割を果たすための鍵となります。自分の役割を悟ったならば、私たちの祈りは新しいレベルの権威を持ち、すべてのことが可能になるでしょう。あなたがその人のために祈っている人が、自分が真に何者であるかがわかり始めるならば、どんなにすばらしいことが起るか想像してみてください。

個性、性格を越えたもの

 

普通言われていることに反して、私たちの人生に対する神の召しが私たちの性格と一致することは極めて稀です。ダビデは子どもの時に油注がれた王でしたが、家族の中では最もそれにふさわしくない者でした。モーセは神に選ばれた解放者でしたが、言葉を明瞭に話すことができませんでした。ギデオンは酒ぶねの中に隠れていたときに「勇士」と呼びかけられました。シモンは岩とはほど遠いものでしたが、イエスは彼を岩という意味のペテロと呼ばれました。主が召されたときに彼らのアイデンティティーは明らかではありませんでした。彼らはみんな「勇気のテスト」に落ちていたことでしょう。彼らを勇敢にしたのは油注ぎだったからです。

 

イエスの母であるマリアも普通の若い女性でした。彼女の未来のプランは、多分私が彼女と同じくらいの時に持っていたものとさほど変らなかったでしょう。しかし彼女が神と出会った時、すべてが変わりました。「あなたは歴史上もっとも重要な母親になる」とマリアに告げた時、天使ガブリエルは彼女に性格テストを受けるようにとは言いませんでした。マリアは多分そのように高い召しが要求するプロファイルには今日の基準からいえば適合していなかったことでしょう。私たちがなるべきために生まれた者となるためには、神との出会いが必要なのです。

プロセスを大切にする

 

自分が何者であるかを悟ったとき、まだそこに到達する途上であっても、私たちの確信は大きくなります。まだ世界級のとりなし手ではないかもしれませんが、多くの先達と同じように、神は「無いものを有るもののようにお呼びになる方」であるのです。(ローマ4:17)

 私たちはいろいろなことの総合的組み合わせによって知られ確認されます。外面的には歩き方、話し方などの外観で知られます。内面的には個性や感情で知られます。私たちの文化習慣が私たちを形造る大きな役割を果たします。生まれ育った時代が影響を与えます。所属する教会が性格を形成する助けとなります。多くの点で親や兄弟姉妹に似てきます。私たちの人生の歴史のすべてが生き生きと役目を果たし霊的な遺産となります。

 

主が私たちを召されるとき、主は私たちの歴史を払拭はしません。そのすべてを用いられてキリストにある新しい者を造られます。私たちの今までの経験のすべては、私たちをキリストの似姿とし真の召しを引き出すために用いられます。私たちの今までのすべての間違いや犯したすべての罪は、主がご自分の性格を私たちの人生の中に育てるために用いられる苗床の土壌となります。

主の赦しの中で起こる奇蹟の一つは、私たちがどのような者として造られたのかを見出すことです。困難な人生の中で学んだことは私たちの霊的DNAに記録され、敵が攻撃したまさにその所でより大きな権威を私たちに与えてくれるのです。

あなたのアイデンティティーを守れ!

 

私たちのアイデンティティーは私たちの受けるべき遺産であり長子の権利です。エサウは少しの食物のために長子の権利を売りました。放蕩息子は一時の快楽のために遺産を浪費しました。もし長子の権利を売るならば、自分のアイデンティティーを他人にやってしまうのです。聖書は私たちが持っているものをしっかりと守って誰からも冠を取られないようにと警告しています。私たちの人生の一瞬たりとも無駄になることはありません。それはすべて私たちが何者であるかを形造る一部なのです。

私たちは、血縁、環境、文化の中から生まれたものです。もししっかりと聞くならば、主は私たちが何者であるかを教えてくださるでしょう。自分の真のアイデンティティーを悟り、自分の長子の権利を知るならば、正しい場所で正しいことをするように私たちは焦点を当て続けることができるでしょう。

神が任命するとりなし手の召しには肩書きとか学位は必要ではありません。この役目のために一番適切な個性とか性格のタイプもありません。試煉や厳しい苦難を通って燃え尽きた灰の山の中から、新しい種類のとりなし手たちが今現れてきていると思います。真の先駆者と同じように、私たちは困難を通して物事を学び、自らの失敗によって砕かれました。戦場で前線に立つことによって、自分の中には外の敵よりも偉大なお方が住んでおられることを学んだので、大いなる戦いが始まる時私たちは勇敢でいられるのです。

主は今主のとりなし手たちの目を覚まされています。今はわくわくして生きる時です。これは尊い召しです。あなたは今まで機会を逃し主の招きに応じなかったかもしれませんが、神は二回目のチャンスを与えてくださる方です。主は今やり直しのボタンを押しておられます。今日私たちは勇敢に私たちの召しへと踏み出していくすばらしいチャンスがあるのです!(終り)


28 08月

純粋なぶどう酒    リック・ジョイナー               2016年 8月29日


 

純粋なぶどう酒

 

リック・ジョイナー

 

エレミヤ48:11、12に大切な警告があります。

「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変らなかった。「それゆえ、見よ、その日がくる。—主の御告げ。—その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。」

昔のぶどう酒の精製方法は、まず一つの器にぶどう酒を入れ、中の不純物が沈殿するまで待ってから上澄みを別の器に移します。残りの不純物が沈殿すると又、次の器に移します。つまりぶどう酒は新しい器に移されるたびにだんだん純粋になっていくのです。これは又、主が私たちの人生から不純物を取り除くために用いられる方法でもあります。主は私たちに複数の「変化」を通させるのです。

 

長年社会学者は、多くの人々が「変化」に対して何故このように激しく抵抗するのかという理由を模索してきました。アルコール中毒の親を持つ子どもが、アルコールによる痛みや苦悩を深く味わったにもかかわらず、 大酒飲みとよく結婚する理由を学者たちはまだうまく説明できないのです。しかし変化への恐れは痛みや苦悩への恐れよりもっと強いことが往々にしてあります。この変化に対する恐れは「慣れ親しむことの暴虐」と呼ばれることがあります。これこそがまさにクリスチャンを「古い皮袋」にしてしまうものです。新しいぶどう酒はまだ膨張しつづけています。古い皮ぶくろは堅く柔軟性がないので新しいぶどう酒を入れるには適さないのです。

主は変ることのないお方であることは安心でうれしいことです。しかし、私たちが主のようになるためには、沢山変らねばならないことが私たちにはあるのです!私たちが主に似た者となり、主がされた業をするようになるまでは、私たちはまだ多くの過程を通らねばなりません。ですから一生の間「変化」を通されることが予想されます。

私たちの柔軟性を保つために主が用いられる方法の一つは、今の状態があまりに居心地よくなり、変化に抵抗するようになった時に私たちを「新しい器に移し変える」ことです。人生に衝撃的な変化が起るとき、それはサタンの攻撃だと私たちは考えるかもしれません。しかしたとえそうであったとしても、主がそれを許されたのですから、それは私たちにとって必要なことであったと言えます。多くの変化は自分自身が「古い皮ぶくろになりませんように。」と祈った祈りに神が答えてくださったのかもしれません。

神が私たちの人生に与えたいと思われる変化に対して抵抗せず、いつも心を開いているならば(それはまだ自分には理解し難い新しいことも含めてですが)多分、変化を通るときの動揺、混乱が半減するでしょう。もし賢明であるならば、変化を「霊的成長のための大いなる機会である」として歓迎することを学ぶでしょう。私たちが変化に抵抗するのは、普通、私たちが自分の人生の安全保証や確保を、主に依存するのではなく自分の環境に依存してしまっているからです。

モアブ人は「変化」に対して強く抵抗したので、主は彼らの器をひっくり返して空け、そのつぼを砕かねばなりませんでした。この「抵抗」は、今も多くの教会が分裂や解散を経験する理由です。多くの教会で一致が保たれているのは、主の臨在や主の目的に土台が置かれているからではなく、メンバーの慣れ親しんだものに対する郷愁の思いに土台が置かれているのです。

私たちがあるグループや友達とあまりにも居心地よく慣れ親しんだ関係になるとき、主は私たちを揺り動かしたり新しい器に注ぎ移されます。一世紀のエルサレム教会が散らされたのはその理由だったかもしれません。主はご自分の教会の一致を深く望んでおられます。しかし、多くの地域教会が陥る自己本位な「排他的な一致」は、往々にして私たちが持つべき「キリストのからだの他の部分との一致」を無視する結果を生み出すのです。「排他的一致」がある地域教会に起こるとき、 誰か、または何かが器を傾けることを許されることしか主には方法がなくなるのです。

非常に深刻な教会の問題や分裂を経験したことのないクリスチャンを私は一人も知らないと思います。そうであっても賢明な人は自分のヴィジョンや神学を過去の間違いに基礎をおかず、苦い経験から必要なことを学び、その経験によって自分が清められ、将来に対してのより鮮明なヴィジョンが持てるようになるのです。

私たちは前進しつづけねばなりません。ぶどう酒が新しい器に注がれるたびに、大きな騒ぎが起りますが、それを通して清くされるのですからその価値はあるのです。私たちが正しく対処応答すれば、やがて私たちは自分の環境ではなく主にもっと信頼するようになるでしょう。そして柔軟に教えを受けやすくなるので、主が私たちの器を傾けたり、つぼを割る必要がなくなるでしょう。(終り)


23 08月

「ゾーン」体験       リック・ジョイナー        2016年8月24日


 


「ゾーン」体験

 

リック・ジョイナー

イザヤ26:3「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

 私はNFL(全米フットボールリーグ)とNBA(全米バスケットボール協会)の選手たち数十人のリトリートに参加したことがあります。その中の多くは非常に有名な選手でした。私は長年、リーダーになる人達の資質に関する研究をしてきました。 ある人々がその人よりもっと生まれつき才能のある人よりも成功を収めているのはどのような理由かを理解したいと思っていたからです。

スポーツ選手である彼らの幾人かと雑談をしている間に、私のこの疑問に対するベストな答えがいくつか引き出されていました。スポーツの話をするときに度々耳にする言葉の一つに「ゾーン」があります。それは心と身体が完全に調和している状態で、その選手の持つ普段のレベルを越える能力が発揮される時のことを指します。

 

ある選手がゾーンに入ったときには、誰も止めることができないのです。私は彼らにゾーンについて質問を始めましたが、彼らがゾーン体験を描写するときは皆同じ表現をしました。彼らにとってそれは基本的に、「普段なら気を散らされるすべてのものを意識から完全に消すことが出来、自分のやるべき事に完全に集中できる」ということでした。

 

「この集中力を持続すれば自分を止められる者はいない」と感じ、実際普通そのような結果になるのです。その後、私は心理学者が書いた雑誌の記事をたまたま読んだのですが、彼の専門はスポーツに関することであり、彼もまた「ゾーン」に特別な関心を持っていました。彼はゾーンを「プレッシャーの中で集中できる能力」と説明していました。

 

選手たちに最もマイナスに働くものは、興味深いことに「怒り」と「恐れ」だと彼は言っています。一瞬の激怒によって何時間もの重労働と等しい力が消費されることが研究されています。それと同じように一瞬の恐怖、或いは30分ほどの小さな怒りや不安、心配も、何時間もの重労働の力を私たちから吸い取るのです。ですから、スポーツ選手が「ゾーン」に入るには、怒りや恐れを抱かず自分のなすべき事に完全に集中し続けることが必要です。これがどのくらい出来るかによって彼らのパーフォーマンスのレベルが決まるのです。

 

これはスポーツ選手に限られたことではありません。怒りと恐れはすべての目標や仕事に対する最も致命的な敵です。私たちのエネルギーが怒りや心配でどれほど消耗されていることでしょうか。どれほど多くの偉大になる可能性を持っていた事業が、赦さない心や苦々しさによって挫折してしまったことでしょう。どれほど多くの信仰の業が恐れによって挫折したことでしょうか。

 

スポーツ選手が大試合においてベスト・パーフォーマンスをすると「スーパースター」となるように、最も偉大な信仰の行為は最大のプレッシャーの中でも主に焦点を合わせ集中することが出来るときに生まれます。それは主に焦点を更に合わせることを毎日訓練した結果です。

 

私たちの目標は、すべての事を「主のために」するだけではなく「主と共に」することです。私たちがすべての規則、権威、権力を越えたお方を見つめながら生きるとき、 御ことばの力で宇宙を支えておられる全能なるお方に焦点を当てるとき、私たちも又、常識を越えた奇蹟の領域に生きることができるでしょう。

 

今日あなたが仕事をする時、或いは家族や友人と過ごす時、もしもあなたを怒らせるようなことや失望させることが起こったならば、すぐに主を見上げてください。あなたの人生から怒りや恐れに力を吸い取らせないことを、そしてすべてをあなたの中で信仰と神の平安が成長するチャンスとして用いることを決意してください。どんな状況の中でも人々に信仰と平和を分与する器として主のために用いられることを決意してください。あなたの人生はその時変っていきます。あなたのパーフォーマンスは以前にはなかったレベルにまで上ります。それはあなたが「ゾーン」に入るからではなく、聖霊のうちに留まっているからです。訳者注:聖霊に留まることが「ゾーンのうちに留まる」あるいはその効果を生むと考えられます。(終り)

 


15 08月

霊のレンズ交換      グラハム・クック            2016年8月15日


霊のレンズ交換

 

グラハム・クック

 

神が見ておられるものと同じものを見,神がそれを呼ばれるのと同じように呼ぶのはとても重要なことです。レンズというのはとても単純な技術で、光を屈折させて物がよく見えるようにしたり、或いは光りを遮って物がぼんやりしたり、歪んで見えたりするようにします。レンズ自体は見えないのですが、私たちはレンズを通して物を見るのです。霊的に言えば、レンズとは私たちの認知、知覚、観察、考えです。レンズはある人やある物に対して偏見を生みます。「レンズを変える」ことはヨハネ1章にあるナタナエルに起りました。ピリポが彼にイエスを紹介しようとしたとき、彼は「ナザレから何の良いものがでるだろうか。」と言いました。しかしイエスが「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たからです。」と言うと彼は「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と答えました。これは最速のレンズ交換でした。

 

レンズ交換は二人の使徒にも起りました。一人目は使徒行伝10章のペテロです。ペテロは彼の霊的レンズを変えるような神との出会いを経験しました。彼は学術的神学者ではありませんでした。人々は彼が無学な普通の人であるのを知っていましたが、イエスと共にいたことも知っていました。使徒10:9で、ペテロは夢心地の中で幻を見ました。それは大きな敷布のようなものの中にあらゆる種類の動物、はうもの、空の鳥が入っていて、「ペテロ、それをほふって食べなさい」という声がしたのです。しかしペテロは「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えました。主は「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」と言われました。これが三度も繰り返されたのです。彼は使徒であっても私たちくらい鈍感だったようです。

 

そのあともペテロは「今見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑って」いました。全くわからなかったのです。その時コルネリオから遣わされた人たちが訪ねてきました。コルネリオが天使からペテロを招くようにと指示を受けたからです。まだクリスチャンではない人のところに天使が現れて知識の言葉(ペテロの宿泊していた所とその人の職業と名前)を与えたのです。御霊は「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」とペテロを促しました。

 

カイザリヤについた時、ペテロは異邦人と交わったり彼らの家に入ることを非常に躊躇しました。今までしたことがなかったのです。彼がコルネリオの家に入ってまずしたことは「自分のレンズ」の説明でした。28節で「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。」と話し出しました。「ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。 それでお迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。」と彼は続けました。本当は聖霊によって強く促される必要があったのですが。(笑)

 

コルネリオからいきさつを聞いたペテロは、34節で「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことはなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」と言っています。ペテロのレンズは完全に変えられたのです。ペテロはコルネリオの後にはそれまでは救いに入れなかった膨大な数の人々(異邦人)が続くことを知りませんでした。神は突然異邦人への大きな扉を開かれたのです。あなたも私もコルネリオの後ろにいたのです。ペテロはレンズを変えられて「これで私は、今神が何をしておられるのか、はっきりわかりました。」と宣言したのです。

 

彼はその後イスラエルに戻り、他の人々にこのことを報告せねばなりませんでした。使徒11:7で「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」と言って、これは自分の考えではなく、神がしておられることだと説明したとき、人々は納得して神を誉め称えました。彼らのレンズも変えられたのです。

 

私たちのレンズが変えられると、少し安定感がなくなり、落ちつかず、当惑し、混乱します。ペテロは今まで一つの考え方で生きてきたのですが、突然神から違うものを見せられて、「これがわたしのしていることだから、あなたもこれを見てほしい。」と言われたのです。「わたしがしようとしていることは、今までのあなたの育ちとはぶつかり、相容れない。わたしはあなたを伝統、習慣、慣しのなかから取り出して、全く新しい場所に導く。わたしはあなたに異邦人への働きの扉を開いてほしいのだ。確かにわたしはあなたを混乱させ困らせている。あなたの伝統、あなたがわかっていると思っていた事、今までの経験をすべてぐちゃぐちゃにして、違う新しいことをあなたにしてほしいと願っている。今は新しい時なのだから。わたしは今までとは違うやり方をする。古いことは過ぎ去って、すべてが新しくなったのである。ペテロ、あなたがまず最初にそのドアを通って行けるのだ。」と主は言われたのです。

 

使徒パウロもレンズの交換をした者です。彼は学術的神学者でした。ガマリエルのもとでバリサイ人の厳格な教えを学んだと書かれています。親もパリサイ人であり、8日目に割礼を受け、ベンジャミン族の出であり、熱心にクリスチャンを迫害していました。律法に関しては完璧でした。最も厳格なユダヤ教徒だったのです。彼は教会を迫害することにより神のために働いていると100%確信していました。ステパノの石うちは、当然であり正しいことであると信じていました。使徒9章には「この道のものであれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げた」とあります。すべて神の御名において行っていたのです。彼は学術的神学者でしたが、今何が起こっているのかを全く理解していませんでした。イエスが何者であるかを全く理解していませんでした。

 

しかし彼がダマスコに向かう途中でイエスと出会ったのです。天から光がさし、彼は地に倒れ、目が見えなくなりました。「彼は自分のレンズを無くした」とも言えるのでしょう。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という声が聞こえ、彼は「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と主は答えられました。これはパウロにとって衝撃的な瞬間であったことでしょう。彼がその時、どのように感じたか想像ができますか? 「自分は神の御こころを行っている」と100%確信していたのです。ところが実際は神を迫害していたと知らされたのです。彼は目が見えず、暗やみの中で、3日間飲み食いもできませんでした。ただじっと「自分は今まで一体何をしてきてしまったのだろうか」という思いで一杯になって座っていたのです。きっと恐れおののいていたことでしょう。 今までのすべての訓練、すべての神学、すべての教義に疑問を抱いたことでしょう。なぜならば、神と出会ったときそれらは意味をなさず、役に立たなかったからです。彼は混乱し、当惑したことでしょう。自分に対して怒りを持ったでしょう。罪責感と恥で身動きが出来なくなり、孤独であったでしょう。

 

もし、あなたの霊的レンズが、他の人を迫害したり攻撃したりするようにあなたを促すとすれば、あなたは聖霊によってではなく宗教の霊によって動かされていることを知らねばなりません。神がアナニヤを遣わしパウロが聖霊で満たされるようにされた時、「ただちにサウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」とあります。彼の視力を長い間遮っていたものが落ちたのです。うろことは、厚い皮膚のようなものであり、視界を妨げ洞察力を制限するものです。

 

イエスは新しいレンズを与えるために来られ、私たちが主と同じようにものが見えるようにしてくださいました。プロテスタント教会は宗教改革の上に成り立っていますが、それは当時の重要なレンズ交換でした。恵みが再び現れて律法主義と戦いました。神が何か新しいことをしたのではありません。ずっとそこにあったけれども見えなくなっていたものを回復されたのです。カリズマティック・リニューアルもまた大きなレンズの交換でした。私たちの人生における聖霊の重要さを明らかにしました。教会が神の力と聖霊の賜物によって動くことが世界にどれほど大切であるかを示しました。このような重要で大きなレンズ交換は私たちの周りで今もなされているのです。レンズ交換の成功なしには、神と共に歩き続けることに成功はできないのです。あなたはキリストと共に歩き始めた時と同じように終着点に辿りつくのではないのです。これは教義や神学のことだけを言っているのではありません。神を体験することを言っています。神がどういうお方であるのか、あなたが何者であるのか、神が私たちのために何をしてくださるお方なのか、ということに関するレンズ交換です。ヴィジョンに向かって進んでいくというのは、ただ一線上を進むだけではなく、レベルも又変るのです。私たちはこの世にいますがこの世の者ではなく、御国に属するものです。御国の者は御国にふさわしい者として物を見、行動するのです。そして神が今しておられることを見て新しいヴィジョンを持つためには、私たちは絶えずレンズ交換が必要なのです。神は私たちのレンズを拭いたり、修理したり、或いは交換したりしたいのです。(終り)


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