Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
17 10月
否定的な思いは取り合わないで無視しなさい!
グラハム・クック
私たちは周りの状況によって自分の信じることが揺り動かされることを許してはなりません。そうではなく、あらゆる状況によって信じることが強められるようにするのです。
周りの状況は、それが良くても悪くても、或いはとんでもなくひどいものであっても、すべてが実際あなたを強くする要因になっているとしたらどうでしょうか? 神が悪い状況を用いられてあなたの信仰を強めておられるとしたらどうでしょうか?
それは神がなさりそうなことではありませんか? 神は「わたしは心からあなたという人間を強くしたいので、この悪い状況をあなたに許したのです。あなたに少しばかり忍耐と辛抱を教えたいのです。ただわたしのそばに留まり、パニックにならないで落ち着いていなさい!」と言われているのではないでしょうか。
私たちは「神は私のためにどのようなお方であってくださるか」という真理に拠り頼むことによって、どのような状況に対しても立ち向かうことができるのです。あなたはすべての状況に向かって「聞け、私はこういう者だ。 私にとって神はこういうお方なのだ。これが私の真のアイデンティティーであり、この状況は私をもっとすぐれた者にするためのものである。私をレベルアップさせるためのものであるのだ!」と確信を持って言い放つことができるのです。
悪い、否定的な状況に対処する一番の方法は、あなたの考え方を変えることです。頭に浮かぶ 否定的な思いと論争してはなりません。それらは無視するのです! そして 「キリストの心、思い」へと力強く踏み込み、主が喜んでおられるのを見出すのです。
あなたは自分が御霊においてどのような者になるかを決断せねばなりません。そして人生で起こるすべての状況は、そのあなたのアイデンティティーを強めるために備えられたものであると認識し理解せねばなりません。
それはエペソ4:20―24に次のようにある通りです。
「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
又コロサイ3:9にはこうあります。
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
あなたは古い自分を取り扱う必要はありません。それは放っておけばいいのです。
死体のお世話はしません。「古い人」にカウンセリングをする必要はないのです。私たちはキリストにある真の人、真の性質に訓練を与えていくのです。
心の霊において新しくされてください。イエスがあなたにとってどのようなお方であるかに目を留めてください。そこにこそあなたの自由、解放があるからです。神に似せて造られた新しい自分を着てください。そうすれば義が伴ってきます。
往々にして私たちは、自分が神にとってどれほど麗しい者であるのか、又私たちに対する神の愛がどれほど尊厳に満ちたものであるかを理解できません。しかし「新しいあなた」があなたに自由を与える真理を語ってくれるでしょう。
私たちが持つ自分へのヴィジョンと私たちのすべての状況は、イエスにあって常にレベルアップさせられます。古い自分に聞き従うことは聖書を信じる者がすることではありません。それはファーストクラスの航空券を持っているのにエコノミーで行くのにちょっと似ています。
あなたは新しく造られたものであり、古い人は死んだのです。あなたは罪に死んで神に生きていることを知ってください。「自分は神に生きているのだ」といつも考えるように訓練をしてください。イエスにあってファーストクラスの航空券を持っていることを忘れないでください。
今週、あなたの頭に否定的な思いが忍び込んだと気づいた時には、あなたの真のアイデンティティーを宣言して自分を訓練してください。
「私はイエスにあって、神と真に関係を結ぶことを愛します。主と同じ思いを持ちたいと願うので、それよりも低いレベルの思いや思考に留まることはしません。 私に関して神が考えていてくださる通りに、私も私自身のことを考えたと願うのです。」(終り)
10 10月
「黙示録」の時代が迫り来る
リック・ジョイナー
ヨハネの黙示録は「イエス・キリストの黙示(啓示 revelation)」という言葉で始まっています。この書の中には、イエスの最も栄光ある姿と主の花嫁(教会)について、そしてこれから起ころうとする最後の時代の事が書かれています。その結末は 聖書で最も励まされる未来に関するメッセージであると思います。しかしこの書の中程には歴史上最も暗く、最も恐ろしい出来事がいくつか予示され、反キリストや不品行な教会について書かれています。しかしそれらのすべてが「イエス・キリストの啓示」であるのです。どうしてこのように邪悪なことが「イエス・キリストの啓示」に含まれているのでしょうか?
「罪の人 man of sin」とは人間の罪を人格化したものー即ちキリストを持たない状態の私たちの姿です。暗黒時代に教会が堕ちた深い暗やみは、もし私たちがキリストを離れて「今の邪悪な時代」の霊に加わるならば、私たちが皆陥る暗やみを意味します。これは教会がローマ帝国の国家宗教になった後に起りました。
これは 起こるべくして起こった堕落でした。
イエスは「最後のアダム」と呼ばれます。そしてイエスの花嫁は、最初のアダムの花嫁イブと同じように誘惑を受けねばならなかったのです。キリストの花嫁も同じように罪に堕ちましたが、最後のアダムであるイエスは堕ちませんでしたし、ご自分の花嫁に罪の宣告もなさいませんでした。イエスは花嫁を贖うためにご自分の命を捨てられたのです。また主は花嫁を回復させる力も持っておられました。今もそうされています。イエスの贖いの力は非常に偉大であり、最悪の淫婦をも、しみ一つない花嫁に回復させることができるのです。
教会は教会を滅ぼそうとするイザベルの霊に常に屈して来ました。イザベルは当時働いていたその教会を滅ぼす霊を人格化したものです。黙示録にも見られるように、主は彼女に「悔い改める時間」を与えます。それはこの霊から解放されるためには時間がかかるからです。そして教会は、この霊との戦いに前進はして来ましたが、今日未だこの霊から完全に解放されてはいません。
過去の時代において、イスラエルは約束の地に到着するまでに、約束されたものとは全く正反対の荒野を通っていかねばならなかったことを私たちは学びました。この試煉は人々の一番悪い部分を露呈しましたが、同時にある人々の一番良い部分が明らかになりました。第一コリント10章には「イスラエルが荒野で経験したことはすべて私たちへのメッセージである」と書かれています。「霊のイスラエル」である教会も又、キリストの再臨と地上での御国建設という約束の地にたどり着くまでには荒野を通らねばならないのです。
イスラエルは40年間荒野をさまよいましたが、教会は今まで2千年ほどもこの荒野にいます。イスラエルのように、この間に教会の最も悪い部分が表面化して、人間の罪が人格化したものが主の宮に座ることさえありました。そして主の宮はそれが主であると思ったのです。もう一度同じ事が起るのかどうかはまだわかりませんが、歴史の中ではヨハネが予見した通りのことが起りましたし、初代教父の多くはそれが起こることを理解していました。
中世の教会がした出来事の多くは、キリストのご性質とは全く正反対のことでした。教会がそれをはっきりと認めるまでは、それが即ち私たちの仕えるキリストのご性質であると世界は認識し続けることでしょう。そして人々はイエスとその(真の)教会を拒絶し続けるでしょう。「歴史を知らない者はそれを必ず繰り返す」という原則を、教会はまさしく証明して来たのです。一つ前の世代が陥った霊的罠と同じ罠に殆どの世代が陥っているからです。今こそそれを理解してこの繰り返しのサイクルを打ち破る時です。その時にこそ私たちはヨルダン川を渡って約束の地に入る用意が整うのです。
歴史上で教会がキリストの名によって行って来た事を調べるとき、私たちはあまりにも恐怖を抱き、その時代から存続して来た教会組織を非難するかもしれませんが、それは間違いです。これを行ったのは「彼ら」であるという視点ではなく、「私たち」であると考えることを是非お勧めいたします。主の恵みなしには私たちも彼らと同じなのです。
歴史が証明することは、このような啓示(黙示録)を受けて淫婦の教会を罪に定めようと立ち上がる人達も、やがては同じ罪に陥るように思えてなりません。私たちが教会の罪の深さを認めるとき、しかし、その罪よりも十字架による神の恵みの深さの方がより大きいことを知らねばなりません。恵みは罪の贖いだけではなく、完全に和解させ回復させます。私たちはこれらすべての歴史をキリストの贖いの目的を通して見なければならないと思います。
過去の世界の暗やみが深かったように、この終末の時代に起こる闇はもっと深いものになるでしょう。しかしどれほど闇が深くなろうとも神の恵みが届かないような暗やみはではないことを私たちは忘れてはなりません。神はすでに贖ってくださったのであり、和解させ回復させてくださるのです。主は邪悪な者たちを滅ぼすために十字架にかかられたのではなく、彼らを救うためにかかられたのです。主は復讐のために戻ってこられるのではなく、主の相続遺産である国々を受け取るために来られるのです。
世界が陥った悪を主が見られたとき、主はそれを罪に定めることはしませんでした。主はご自分の命を捨ててこの世を贖ってくださったのです。この「イエスの啓示」は、キリストというお方が私たちの内に、そして私たちを通して世界に知らされ啓示されるのが目的です。それが起るためには、私たちは最悪の罪人に対しても目を逸らさず、彼らが救われるために自分の命を喜んで捨てねばなりません。悪を見たときにはその中に捕われている人の救いを願わねばなりません。私たちは、教会の歴史をも含む−すべてのことを、罪定めするのではなく、贖いの立場から見なければなりません。最悪の出来事でも、悪に捕われた人よりも自分の方が良いと考えるのではなく、それは恵みがないときの自分の姿であると考えるべきなのです。そして恵みに感謝し、自分が受けたと同じ助けを人々に与えたいと願わねばなりません。私たちはこのような見方と考え方を充分時間を取って心に入れる必要があります。なぜなら、私たちがこれから先に進むにつれ、今迄の歴史上顕された悪の深い闇ーしかもその闇の多くは今の時代にもまだ残っているーその闇の中をこれから私たちが通されるという大きなチャレンジを受けるからです。しかし、この時代の終りには教会は完全に解放され、多く赦されたものは多く愛するようになるのです。今は最悪の暗やみにいる者たちであっても、その人たちは義において、愛し贖うことを学ばなかった者や愛の成長が止まった生ぬるい者を、素早く追い越すことができるのです。
私たちは主への初めの愛を取り戻し、主と主の民ヘの愛をこれからますます成長させると決意しようではありませんか。
私たちは悪を見逃したり言い逃れをしたりはできません。しかし、もし主の愛が私たちのうちにあるならば、私たちはすべての人を、たとえその人の過去や現在の状態がどのようであっても、愛と贖いをもって見ることができるでしょう。(終り)
04 10月
信仰者の砦―それは へりくだり
フランシス・フランジペイン
サタンは徳を恐れています。サタンはへりくだりに震え、憎みます。サタンが謙虚な人を見るとき、ぞっとします。クリスチャンがひざまずくとき、サタンはおののきます。それはへりくだりは神への魂の降伏だからです。
あなたが戦っている本当の相手
エデンの園で人が罪に堕ちたとき、サタンに対する神の裁きはちりを食べることでした。(創世記3:14)又、神は人に対して19節で「あなたはちりである。」と言われました。私たちの中の肉的なものの本質はちりです。私たちはここでの関連性を見なければなりません。サタンは私たちの「ちり」という世俗的肉的性質を食物にしているのです。すなわち、サタンはあなたが神に明け渡さないものを食べるのです。
ですから、私たちの持つ問題や苦悩の多くの直接の原因は、サタンからではなく、私たちの肉的なものからくることを認識せねばなりません。私たちは、私たちの人生の一面である肉的性質が常にサタンの標的であるという事実と戦う必要があります。この肉的領域が、私たちの祈りを弱め神との歩みを骨抜きにする道を易々とサタンに提供しているのです。
私たちが自分自身を正直に見つめることを妨げているのは、私たちの肥大した「自らを正しいとする独善 self-righteousness 」の感覚です。クリスチャンとして私たちは、聖霊が私たちの内に住んでおられるのを知っています。しかし私たちがサタンとの戦いに勝つためには、自分の内で罪を許容してしまっている部分に気がつかねばならないのです。ですから、神に降伏するときは明確に「何を明け渡すのか」を言ってください。自分の罪や失敗に対してもっともらしい理屈で弁解しないことです。
キリストの贖い sacrifice は、すべての人が自分の必要や欠けたところを正直に見つめることのできる完全な恵みの避難所です。ですから神に正直であってください。神はあなたの罪を見てショックを受けたりぞっとしたりはしません。あなたの内に罪がはびこっていたとき神はあなたを限りなく愛されました。ですから今あなたが罪からの解放のために主の恵みを求めるときに、主はどれほど更にあなたを愛し続けてくださることでしょうか。
敵を果敢に攻撃し始める前に、私たちの戦いの多くが単に自分自身の(肉の)行ないの結果であることを知らねばなりません。効果的な戦いをするためには、何が肉からのものか、何がサタンからのものかを見極めて区別せねばなりません。
一つ例話をさせてください。私たち夫婦はあるとき美しい紅冠鳥 red cardinal が巣を作る地域に住んでいました。紅冠鳥は自分の縄張りを持っていて、他の紅冠鳥が侵入すると激しく攻撃して 追い出します。私たちの車は大きなサイドミラーとクロ―ムのバンパーのついたバンでした。時々、紅冠鳥がそこに映る自分の姿を他の鳥だと思いミラーとバンパーを攻撃しました。ある日、紅冠鳥がミラーを猛攻撃しているのを見ていた私は、「何て馬鹿なんだろう。自分自身が映っているだけなのに。」と思いました。するとすぐに主が私の心に語られました。「それと同じように、あなたが敵としている多くのものは、あなた自身が映っているのですよ。」と。
サタンを攻撃する作戦を練る前に、本当の敵は自分自身の肉的な性質でないことを確かめねばなりません。「今日私を苦しめているものは、私が昨日植えたものを刈り取っている(に過ぎない)のではないだろうか?」と。
敵と和解する
次のイエスの教えを憶えておられるでしょうか。マタイ5:25、26
「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことにあなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」
イエスはここで、単に裁判を避ける以上のことを言っておられます。実際イエスは、告訴する者やこの裁判官に対して、私たちは必ず負け、牢に入れられることを暗示されているように思います。
この喩え話は、「人間の義」に対する神の見解を説明しています。喩の中の告訴する者とはサタンであり、裁判官は神です。サタンは告訴する者であり、すべてのものの裁判官であられる神の御前で兄弟たちを訴えています。イエスが私たちに知ってほしい真理は、「私たちが自分の義を土台として神に近づくならば、敵は必ず私たちを牢に入れる法的根拠を持っている、なぜならば私たちの義とは不潔な着物(イザヤ64:6)のようだからである」ということです。
イエスが「あなたを告訴する者とは早く仲直りしなさい。」と言われるのは、サタンに従えという意味ではありません。主は、「サタンが何か罪や欠点の故にあなたを訴えるとき、もしサタンがわずかでも正しいならば、あなたの不義に関してサタンと同意した方があなたのためである」と言われているのです。サタンがあなたは不純であるとか、愛が足りない、祈りが足りないと責めるならば、サタンは正しいのです。鍵は自分の義に関してサタンと言い争わないことです。なぜならば神の御前では、あなたの義は受け入れられないからです。どれだけ自分は正しいと言って弁護しても、あなたは内心サタンの告発の中には少しは真理があることがわかっているからです。
私たちの救いは自分のわざではなく、「イエスが私たちのために何になってくださったか」によります。キリストご自身が私たちの義なのです。私たちは信仰によって義とされました。神との和解は主イエス・キリストを通してくるのです。(ロ―マ5:1)サタンがあなたを責めるとき、サタンはあなたが自分の義に焦点を置くように騙そうとします。イエスだけが私たちの義であることを私たちが認識すればするほど、敵は私たちの失敗を攻撃することが出来なくなります。
ですから、敵が「あなたは愛が足らない」と言って罪定めしようとやって来たときには、あなたは「それは本当です。私には愛が足りません。しかし神の御子が私のすべての罪のために死んで下さいました。愛が不十分であるという罪のためにも。」と応答するのです。サタンの攻撃の影から抜け出して御父の愛の輝きの中に入ってください。神に服従して、あなたの弱く不完全な愛の代わりにキリストの愛と赦しを願ってください。
サタンが「あなたは忍耐が無い」と罪定めしようとするならば、あなたは同じように「そうです、私は肉において非常に忍耐することができません。でも私はボーンアゲインしましたから、イエスが私の義であり、イエスの血潮を通して私は赦され清められました。」と応答するのです。もう一度神に向いてください。敵の告発を受けたときは、あなたは怒る神ではなく恵みの御座の前に立っているのであり、あなたは大胆に神に近づき助けを求めることができることを再び思い起こす機会としてください。(ヘブル4:16)
ですから、サタンに打勝つための重要な鍵はへりくだりです。へりくだるとは、自分のイメージを守ろうとする思いを拒否することです。あなたはあなたの昔の性質においては堕落しており罪で満ちているのです。しかしあなたには新しい性質があり、それはキリストの似姿に造られているのですから(エペソ4:24)私たちの肉の状態に関しては私たちを訴える敵と同意していいのです。
この「へりくだる」という基本を、霊的戦いをしているときだけ適応することのないようにしてください。この教えは他の状況の中でも同じように適応できるのです。へりくだりはあなたの魂の周りに霊的な砦を築き、争いや競争、その他多くの人生上のいらだちがあなたの平安を奪うのを防いでくれます。
これを実践し訓練するよい場所は家族関係です。あなたが夫であるならば、妻から無神経だと批判されるかもしれません。そのとき肉で応答してしまうならば、すぐに夫婦喧嘩に発展してしまうでしょう。あなたはその代わりにただへりくだって「あなたの言う通りだ。」と答えることもできるのです。あなたは多分無神経だったのです。そして「もっとやさしい愛」をくださいと二人で祈るのです。
あなたが妻であれば、夫から「僕が会社でどれだけ大変か、あなたは理解していない。」と責められるかもしれません。多分あなたは夫がどのような事に直面せねばならないのかを知らないでしょうから、彼の告発は多分正しいでしょう。それに対してやり返すのではなく、へりくだって彼と同意してください。二人で祈り、もっと理解する心をくださいと神に願ってください。私たちがへりくだりの心を常に持っていれば、神からゆたかな恵みを受けます。そしてサタンが攻撃する多くの前線から武器を取り去ることができるのです。
サタンは徳を恐れていることを忘れないでください。サタンはへりくだりに震え嫌います。へりくだりはあなたの魂を主に降伏させることであり、サタンはイエス・キリストに怯えるからです。(終り)
26 09月
死ぬべき肉体に現されるキリスト
フランシス・フランジペイン
イエスがミニストリーを始められたとき、弟子たちのために何を思っておられたのでしょうか? 主の聖なる目標は何だったのでしょうか? イエスは失われた人々を捜し救うためにだけ来られたのではなく、救った人々の中にご自分を写す、再現するということが最高レベルの目標だったと私は堅く信じています。霊の旅路を始めたばかりの者であっても、或いは長年主に仕えてきた者であっても、まことにキリスト教とは、私たちのうちに、又私たちを通してキリストが生きて現れること以下ではないのです。(ガラテヤ2:20)
キリストのいのちそのものが私たちを通して現れ出ることなしに、私たちは自分のデスティニーに到達するための確実な足がかりを見つけることはできません。
「キリスト」と言うとき、私は貧しい人、病人、束縛された人、困窮した人等に対する主の憐れみの心を指しています。主の憐れみこそが奇蹟、不思議、解放をもたらしたのです。また、「キリスト」とは主の力と御父への深い服従のことであり、それはすべてに対する主の限りない権威を生み出しました。又、「私たちのうちなるキリスト」と言うとき、ただ神学的に正しい教義を指しているのではありません。神のゴールは、私たちが持つ教義の中の真理が芽を出し、キリストのいのちと力へと成長し、私たちを通して現れ出ることなのです。
教会がこのように内からキリストの姿へと変えられることは、パウロが最も願っていたことでした。彼はガラテヤ4:19で「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と書いています。又2コリント4:11には「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」とあります。愛する皆さん、キリスト教とは「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体に明らかに示される」こと以下ではないのです!
お分かりでしょうか、天におられるイエスと私たちのうちに住んでおられるイエスに何の相違もないのです。ということは人類を愛し救われたイエス・キリストの御霊が私たちを通してご自身を現されるのです。私たちのうちなるキリストが現れることこそ、神の実体を知りたいと願う私たちを満足させる唯一の方法なのです。私たちの内にキリストが住まわれること以下のこと、又はそれ以外のものは何であれ、単なる宗教にすぎません。
イエスはヨハネ17:18で「あなた(御父)がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」と言われました。私たちはイエスが遣わされたように、同じ使命、同じヴィジョンで遣わされているのです。自分の人生にキリストを受け入れたとき、私たちは人類のために死なれ、今は私たちを通してご自分の目的と力を再び生きるお方そのものを受け入れたのです。
この世は悪に満ちていますが、それは私たちをキリストと同じ姿に完成させるために神が選ばれた現場 reality なのです。霊的成長は世界で何が間違っているかを識別するためには殆ど不要です。しかし、私たちの近隣や街 が変革されるためには、 キリストのような成熟とヴィジョンにおいて成長することが私たちに要求されます。私たちは自分が置かれた環境の中で、どのように祈りをもって耐え忍び愛し続けるかを学ばねばなりません。確かにこの世界は悪に満ちていますが、よく見るならば、それは「私たちの死ぬべき肉体を通してキリストが現されるため」の完璧な場所なのです。(終り)
20 09月
腹を立てない心
フランシス・フランジペイン
エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
神は私たちのために気分を害したり腹を立てることのない新しい心を用意しておられます。愛する皆さん、怒らない心を持つことは、どちらでもいい事とか、あるといいかも、というようなものではありません。それは小さな事ではないのです。腹を立てる心には「石の心」になる危険性があるのです。
考えてみてください。私たちは時代の終りに近づいていますが、イエスはその時多くの人々は非常に気分を害したり腹を立てて信仰から脱落すると警告しておられます。
マタイ24:10-12「また、そのときは、人々が大ぜいつまづき、互いに裏切り、憎み合います。またにせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」
「人々が大ぜい(many)」「つまづく(offended 気分を害する、腹を立てる)」のです。その結果どうなるのでしょうか?「多くの人々(many)の」愛が冷たくなります。私たちが皆、このイエスの言葉に聖なる恐れをもって耳を傾けることを祈ります。
自分の心の怒りをそのままにしておくと、それは重大な霊的問題を招きます。この箇所でイエスはその危険な結果を3つ挙げています。即ち裏切りと憎しみ、そして愛が冷えることです。私たちが誰かに対して腹を立てるとき、それが自分が愛している人であっても、その人の所に話に行かねばなりません。もしその人と話をしないならば、その人のことを他の人たちに話すようになります。私たちは陰口を叩いてその人の弱さや罪を暴露して、その人との関係を裏切ることになります。
私たちはその裏切りを「ただ人々からアドバイスが欲しかっただけ」とか「相談しただけ」と言ってつくろうかもしれませんが、振り返ってみればあまりにも沢山の人にその人のことを否定的に話したことがわかるのです。その本当の目的は自分が霊的な助けを得るためではなく、自分を傷つけた人への復讐であったのです。これが憎しみの表れでなくてなんでしょうか。冷えた愛、裏切り、憎しみはつまずいた魂を暗やみへと導くものです。
人は大きな岩につまずきません。比較的小さなもの、小石につまずくのです。あなたの上司が持つ性格や人間性が気になり始め、それがやがていらだちや怒りとなります。或いは友達や家族の誰かが自分の期待に添わないとき、私たちは魂に怒りを持ちます。愛する皆さん、私たちが「最後まで耐え忍ぶ」ためには、自分が嫌なことや気になることに正面から向き合わねばなりません。
イエスの「忍耐が必要である」という警告は、即ち「始めることは容易いが最後までやり遂げるのは難しい」と言っておられるのです。今から死ぬまでの間には、あなたはひどく立腹させられる事を何回か経験し、あなたはそれを克服していかねばならないでしょう。今そのような経験をしておられるかもしれません。怒りをそのままに放置する危険性を過小評価しないでください!
「信仰から離れよう。」とあらかじめ計画する人はいません。「今日、私は硬い石の心を作る努力をしよう。」と言った人もありません。それは私たちの魂にひそかに忍びよるのです。自分にはそんなことは起こるはずはないと考えるのは、浅はかです。私はいつも何かに腹を立てている人達を知っています。自分の怒りに対処せず、祈りを持ってその問題を神に委ねるかわりに、自分の魂の怒りをいつまでも持ち続け、遂にはその重圧で神との歩みが出来なくなるのです。
今日は大丈夫かもしれません。しかし明日にはあなたを失望させ傷つける何かが絶対に起こると保証してもいいです。何か不正なことがあなたに対してなされ、仕返しをしたいという思いをあなたに抱かせます。その時、あなたはもっと愛を実践してキリストのような者へと一歩近づきますか? それともあなたは腹を立てて自分の霊のいのちを消耗しますか?
怒りの根
怒りは私たちの徳や罪、価値やプライドを攻撃します。怒りは魂のどの部分(良いところも悪いところも)にも侵入して傷つけます。私はかつて「うわさ話」に関する 説教を何回かしたことがあります。ほとんどの人はそのメッセージを聞いて自分の罪を認め悔い改めましたが、うわさ話の中核だったグループは大変怒って結局は教会を去って行きました。魂の罪を聖霊に明らかにされたとき、それを悔い改める機会を私たちが拒絶するならば、私たちは往々にしてその教えを与えた人に向かって怒りを抱くのです。自分の心をへりくだらせる代わりに、自分の罪を明らかに示した人に激怒するのです。これは本当なのですが、大抵の場合、私は誰がその教えを必要としているのかはわからないのです。しかし神は知っておられます。
パウロはテモテに2テモテ4:2で「責め、戒め、勧めなさい」と告げています。彼は「勧め、勧め、勧めなさい。」とは言っていないのですが、ほとんどの教会では勧めしか語られていません。勿論私たちに励ましは必要ですが、責めや戒めを必要とする時もあるのです。今日、会衆が怒って教会を去ることを恐れて真実を語るのを恐れる牧師がいます。その結果として、すぐに腹を立て、いつまでも矯正を受け取ることができない成長の止まった人々ばかりの教会になってしまうのです。
人々はただ勧め励ますだけでは変ることができません。私たちすべての中にはキチンと問題を指摘され訓戒される必要がある部分があるのです。罪を犯している人を訓戒し矯正することを拒否する牧師は神に従っていません。そのような牧師は人々の人生を真に変革されたものへと導くことはできません。そして矯正されないままの人々は「最後まで耐え忍ぶ」ことはできないのです。(マタイ24参照)
私たちは「主よ、私の中で変る必要があるものを教えてください。」と言う者たちにならねばなりません。これは成長するということです。箴言15:5「愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は利口になる。」
個人的な怒り
一番簡単に腹を立てるのは私たちのプライドです。プライドは自分に分相応以上のものを期待するようにさせます。プライドは自己崇拝の一つの形です。神は私たちのプライドを打ち壊す必要があるので、あなたの中でへりくだりの足りない部分を露にするために、あなたを立腹させる事件が起こるのを許されるのです。あなたの良い働きに対して励ましを期待するのは間違いではありませんが、自分が期待したときにそれを受けなかったといって腹を立ててはいけません。
ずっと以前、私がまだ若い牧師だったとき、私たち夫婦はあるカンファレンスに出席したのですが、そこでリーダー格だった人がすべての牧師夫婦に個人的に挨拶をすることにしました。彼は私たちの右側にいた夫婦に挨拶をしたあと、スタッフに何かを聞くためにその場を離れました。彼が戻ってきたとき、私たちをとばして私たちの左側にいた夫婦のところに行きました。周りの人たちはみんな私たちが抜かされたことを見ました。私たちは恥ずかしく少し腹が立ちました。
しかし妻は、この出来事で自分たちが傷つくのを許すのではなく、私たちが人々の気持に敏感になるための一つのよい教訓として受け取ることもできると賢明にも考えたのです。このことは人々が無視されたときにどのように感じるかを私たちに教えてくれました。お分かりでしょうか?あなたはつまづきを更にキリストのようになるための機会としなければならないのです。
私たちが腹を立てる事柄は本当に際限なくあります。実に私たちは、腹を立てるか、それとも決して腹を立てない心を持つかのどちらかを選ぶチャンスを毎日与えられているのです。主の約束は「私たちに新しい心を与えてくださった」というものです。それは主の御霊で満ち、主の愛にあふれた柔らかで人を受け入れ赦すことのできる心です。
祈り「主よ、私がすぐに腹を立て、ずっと赦さないでいることをお赦しください。御父よ、私のこころは愚かで弱いのです。何に対しても気を悪くしたり腹を立てないイエスの心をお与えください。アーメン」(終り)
Page 35 of 131 « First ... « 33 34 35 36 37 » ... Last »