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Walk With God Ministries


30 01月

キリストにある自由     グラハム・クック              2017年1月30日


今は終末の時

 

訳者の前置き           坂 達也・柚実子

 

 二週間程前にマイクビクル師のメッセージ(上と下)を掲載しましたが、本当に今は世の終わりが迫って来ていることをひしひしと感じます。

 ビクル師は言われます。「終末には偽りの正義が起り、偽りの統一宗教の動きが起り、偽りの愛、偽りの恵みが説かれると聖書は明確に述べています。・・・(終末の)時代がいかに栄光に満ちているか、そして同時にいかに惑わしに満ちているか、いかにパワフルであると同時にいかに危険に満ちているか、、、このような時代に生きた世代は未だかつでありません。この時代にどのように生きればよいかを示唆できる世代はないのです。」

 

 私たちは、クリスチャンが今一番「惑わされていること」が何かと言えば、それはクリスチャンの「救い」そのものの意味を多くのクリスチャンが忘れているか、あるいは、教義だけは頭の知識として知ってはいても、心はそこになく全く「この世的に生きている」ーすなわち、キリストが私たちのために死なれた「十字架」の意味を霊的に認識して生きていないということではないかと思います。

 

 今のアメリカでは、私たちの教会も含め、多くの教会で「十字架」ということばすらあまり聞けなくなっております。

 それを感じている人たちは私たちだけではありません。最近、このことを特に憂い、十字架の意義を強調し、真のクリスチャンの生き方をくどい程丁寧に説明してくれている方にグラハム・クック師がおりますので、今回はそれを少し長いですが訳してお届けさせていただきます。本当に師は何回も何回も噛み砕いて、くりかえして言われていますが、それほど大切で、それ程重要であるとご了解いただき、ぜひ、ゆっくり最後迄お読みいただけますよう心からお願い申し上げます。

 そして私たちは、日本の教会での現況をも憂慮しております。どうぞ日本の様子を私たちにお分ちいただければ幸いです。お祈りしております。

 

キリストにある自由

 

グラハム・クック

 

 ローマ6章「4節 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。11節 このようにあなたがたも、自分の罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 私たちは現在から過去にむかって見ることもできるし、あるいは現在から未来に向かって見る力もあることを神は知っておられます。「現在から過去へ」という生き方は、過去に起こった事が現在の自分にもまだ影響を与えているということです。しかし十字架はこの「現在から過去へ」という生き方から私たちを解き放ち、「現在から未来へ」というライフスタイルを可能にしてくれるのです。

 それは十字架、即ち福音は私たちの「現在」を「神にある現在」に変えてくれるからです。「今の自分はすべて完成したわけではありませんが、完成に向かっているところです、今現在、私はすばらしい、そしてだんだんイエスに似ることによってもっとすばらしくなるのです」というのが現在から未来にむかって生きるライフスタイルの考え方です。

 まず1番目の鍵は、神から見て古いあなたは死んだことです。2番目の鍵は、ローマ6:6ですが、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」です。あなたの古い人は清めることができないほど堕落しているので十字架につけて殺すしかないのです。イエスは「あなたのために死んだdied for you」だけではなく、「あなたとして死んだ died as

you」なのです。ですからイエスが死んだ時、あなたも死んだのです。これは喩えとか象徴的な言葉ではなく、御父の心の中ではまさにそれが事実として起こったのです。御父がイエスが死ぬのを見たとき、神は私たちすべての者が十字架についているのを見られたのです。イエスが死んだとき、私たちもまた死にました。イエスが葬られたとき、私たちも葬られました。そしてイエスが死からよみがえられたとき、私たちも主と共に死からよみがえったのです。

 

黙示録13:8に「世の初めからほふられた子羊 the Lamb slain from the foundation of the world」という言葉があります。この意味は創世記!:1以前に天で次にような会話があったことを想像させます。最初のコミュにティーであった父、子、御霊が話しあって、自分たちに似せて人を造ろう、愛と平和と喜び、親切に満ち、自分たちのように楽しく笑うにしよう、と決めました。そして彼らとの交わりはすばらしものになるだろうと喜びました。次の日にまた話を続けて、「これらの人々はみな、自由意志を持っていなければならない、ロボットやクローン人間では本当に愛し合うことはできない、自由意志でわたしたちを選んでもらいたい。しかし自由意志でわたしたちを選ばない人たちはどうすればよいだろうか、わたしたちの存在さえも否定する人たちはどうすればいいだろうか、自分たちで宗教を造り上げてそれが本当の生き方だと言ったらどうしようか、そのような人がわたしたちと交わりを持つようにするにはどうすればいいだろうか。」

 そして最後にイエスが天のすべてのものを捨てて人として地に来て、罪の生け贄となることに決めました。イエスの贖いによってすべての人類は購われたのです。

次の会合で、実際にどのような過程で人々を変えていけばよいのかが話合われました。「古い生き方から新しい神にある生き方に人を変えるにはどうすればよいのか」を考え始めました。そしてそれが大変な仕事であることに気がついたのです。御父とイエスは聖霊にその仕事を引き受けてもらおうとしましたが、聖霊は「それはとてつもなく大変な仕事です。人々が良くなるように変えるなんて。3歩進んで2歩さがったり、2歩進んだかと思ったら5歩さがったり、、、。駄目ですね。とてもできません。考え直したほうがいいと思います。」そこでまた話合いました。

 そして御父が「人を良くしようとするのではなく、殺してしまって、新しく生まれ変わらせたらどうだろう。イエスが十字架で死ぬときに彼ら全員を十字架につけたらどうだろうか。イエスは彼らとして死に、彼らはイエスと共に死ぬようにして、イエスが葬られたるとき彼らも葬られ、イエスがよみがえるときに彼らもよみがえるようにして、それを『もう一度生まれる Born again』と呼ぼう。そのためにバプテスマという儀式をして人を水につけ、水から上がるときは新しい人となっていることにしよう。そして新しい人に本当の生き方を教えよう。イエスが彼らを死なせ、地獄に行ったときに彼らの罪を全部そこに置いてきて、新しい形でよみがえったとき、彼らはすべてイエスに似たよみがえりの姿となり、その時彼らは新しいものとなる。古い彼らはすでに死んでいる。彼らがもう罪に死んでいて新しい命に生きていると考えることを許可しよう。聖霊には『新しい人』を教える仕事をしてもらう。彼らが生まれ変わったときにイエスが彼らの中に入り、彼らはイエスの中に留まり、イエスに似た者となるように聖霊が彼らを教えることにしよう。」

 

御子と聖霊もそれはすばらしいと賛成しました。そして聖書を彼らに与えてよい聖句を教えました。

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

 ですからもはや古い自分は死んでいなくなり、「新しい私」だけが生きているのです。古い自分がしていた生き方をすべて捨てて、全く新しい者として生きる生き方を学ぶのです。物の見方を変え、話し方を変え、行動を変えてイエスと全く同じ生き方を学ぶのです。そして「現在から未来へ」の人となるのです。

 

 ローマ6章には神が私たちのためにすでにしてくださっていることが確信をもって書かれています。

「自分に死ぬ」というのは私たちがすることではなく、イエスがしてくださったことです。「自分に死ぬ」ということはイエスのうちにあることの当然の結果です。私は神に生きているとき、自動的に罪に死んでいるのです。私が「新しい人」に生きるとき、「古い人」は死んだままになっています。ですから私たちの目標は単に「死んだふりをする」のではなく、「死にっぱなしになる」ことです。「自分はもはや罪に死んでいる」と考えることを神はあなたに許可されています。神が私をキリストにあって十字架につけられ殺したのであれば、私はもう自分を殺すことはできません。私はすでに死んだのですから、そのまま死んでいればいいーそれが私の仕事です。

 

神は私たちの古い人に関しての神の観点、神の思いの中に踏み込むことを許可してくださり、私たちが「キリストにあってどのような者であるか」の焦点をあてて生きるようにしてくださいます。即ち、自分は自分が考えるような者ではなく、自分とは、「神が私をどのような者であると考えておられる」その者であるということです。私はキリストにあって新しい人であり、すべて古いものは過ぎ去り、私はキリストにあって新しい者となった。(それ以外の考え方はないのです)

ローマ6:11にある「自分は罪に対しては死んだ者であるように思いなさい。」とは、神がすでにされたことを注意深く考えて、それが真実であると信じるということです。あなたは神があなたに関して信じているように自分を信じていますか?神があなたに「あなたは罪に対しては死んだ者と思っていい。」という、とてつもない許可を与えてくださったのですから,私たちは神と同じように考えてよいのです。

 そうすると神にはどのようなことが要求されるのでしょうか。聖書に書かれたこの事実に対して神はどのように対応されるのでしょうか。神は言葉にも行ないにも真実な方です。私たちがどのような者であるかに関して神には二心がないことを私たちは知らねばなりません。神は「あなたは死んでいる」と言われ、あなたが死ぬのを目撃されたのです。あなたのネガティブなものはすべて一切、十字架上のイエスに負わせたのです。イエスが死んだとき、あなたも死にました。ローマ6:10に「キリストが死なれたのはただ一度罪に対して死なれたのです。」とあります。一度ですべての(once for all) 罪は処理されたのです。ですからイエスはもう一度死ぬ必要は全くありません。そして神はあなたの罪に対してもう新たに何もする必要はないのです。神はもはやあなたの罪を気にも留めておられません。その代わりに義をあなたにもたらそうとしておられます。あなたの罪に焦点を当てるのではなく、あなたの聖さに焦点をあてておられます。あなたは罪に死んでいるので、義を求める自由があるのです。そして神はあなたに聖霊を与えて、聖くなる方法を教えてくださっています。聖霊が焦点を合わせているのは、キリストにある新しい人です。(くどいようですが、)ローマ6:6にあるように罪のからだは滅びてもうないのです。

ポイントは御父がイエスの贖いを100%信頼しているか、ということです。もし神が未だにあなたの人生の罪をどうにかしようとしておられるならば、それはイエスの贖いの業に確信を持っておられないということになります。もし神が未だにあなたの罪を取り扱っておられるならば、神はあなたを墓の中から生き返らせて古いあなたに戻していることになり、神は墓泥棒ということになります。御父がイエスの贖いの効果を100%信じて認めてないなどと考える人がいるでしょうか。ですから、もし私たちがまだ自分の罪を(うじうじと)取り扱っているとすれば、私たちがイエスの生け贄を信頼していないということであり、御父は分裂症だとみなすことになります。私たちのしていることは、御父とイエスがそのような方であると言っているようなものです。なぜならば、イエスは一度で完全に罪に死なれたのであり、私たちの罪は無くなったのです。神がまだ私たちの罪を取り扱っておられるならば、私たちは新しく造られたものではないということになります。しかし、聖書はそのようには教えていません。私たちは死んで、そのまま死んだままになっていて、新しい命に生きているのです。

 

神が私たちに「古いあなたは死んだと思ってもよろしい。」という許可を与えてくださっているのは、神も同じ真理のもとで行動しておられるということです。神の結論は、「自分の息子はすべての人類の罪をただ一度完全に背負って死んだのであり、だからあなたの罪は死に、あなたは神のいのちに生きている」ということです。即ち神があなたを御覧になるときは、あなたの中に一つも罪、間違いを見つけられないのです。あなたの中のすべての罪、間違いは、十字架上のイエスの上に置かれ、イエスは地獄に行ったときにそれらをすべて地獄に投げ捨ててきました。ですからあなたに関するすべて否定的なもの(罪、否定的な考え、否定的な感情、悲観的な考え等々)は、イエスの内に死んだのです。そうだとすれば、神があなたを見たときは、何が見えるのでしょうか。神があなたをイエスの内に置かれたのならば、「イエスの内にあるあなた」であり、また「あなたがこれからなろうとしている姿」です。これは逆説的なことですが、あなたは生きるために死んだのです。あなたは死んでいるけれどもイエスにあって完全に生きているのです。

ですからあなたは自分の言動を変えて新しい人になることはできません。イエスの内にある「既になった人」を発見して、その人のように行動するのです。もし私たちはただ自分の言動を変えようと頑張るのであれば、イエスは死ぬ必要は無かったのです。神はあなたを変えるのではなく、全く違うものに一変させたいーのです。そのやり方は「あなたのすべての悪いものを、すべて処理しました。あなたはキリストにある全く新しい人になりました。あなたがその人になる方法をわたしが教えてあげます。」と神は言われているのです。神があなたを見たとき、何も悪いところは見えません。ただあなたが今神を経験するときに欠けているところを見て、それを必ず与えると決意されたのです。ですから聖霊があなたの人生で巧くいっていない場所を指差されるときは、即ち、次に起こる奇跡の場所を指し示されているのです。責めも恥もありません。聖霊はうれしそうに来られて、その場所を指差されて、「さあ、次はここにしましょう。あなたのためにその場所にすばらしいことを用意していますよ。」と言われるのです。そしてギフトをもってこられます。その場所であなたが苦労するのではないのです。もうそこのあなたは死んでいるからです。ただ(既に死んで亡くなった古い部品のあとに)新しい部品に取り替える(入れてくださる)のです。あなたに何かを頑張ってほしいとは言われません。(信仰でそのように生きるのです)

 

エペソ4:21−24「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきでした。」

「古い人をよくしようと努力しなさい」とはどこにも書いてありません。「脱ぎ捨てなさい」と言われています。神があなたを見ておられるように自分を見て、神と共に働くのです。神は「わたしたち(神とあなた)は古い人を改良する仕事をしてはいませんよ。それは死んでいるのですから。もうあなたの名が書かれた墓石の下に埋まっているので、そのままにしておきなさい。こちらに「キリストにある新しいあなた」がいるーこれが本当のあなたです。わたしたちはこちらのあなた造ることに取りかかっています。新しい人を身につけて救いの達成にはげみなさい。」

 

女性の方が少し古いドレスを持っておられるとします。15年前に買ったものですが、まだぴったりでとても素敵なドレスです。あなたはずっとそのオーソドックなドレスが好きでした。するとある人が新しいデザインのすばらしいドレスをあなたにくれたとします。着てみるとご主人も見とれるようでした。さて、あなたは古い方のドレスと新しいドレスとどちらを選べばよいのか迷います。でも決まっていますね。あなたはあなたをびっくりするほどすばらしく見せる新しいドレスを選ぶのです。これが福音です。

男性の方に言います。あなたは20年前に買った車に乗っています。もう古くなり、車体にも傷やへっこみがあります。エンジンもスムーズには動きません。中も変な臭いが染み付いていて、恥ずかしいような車です。するとある人がフェラリを買ってくれます。真っ赤で格好がいいのです。あなたが家から出てくるとこの2台の車が停まっています。あなたはどうしますか。あなたはお金を払って、古い車を引き取ってもらうことでしょう。しばらくは新しい車のそばにたって道を通るひとに自慢することでしょう。運転するとスムーズで今までとは違って楽しい気分になります。あなたは違う乗り物に乗っているからです。「キリストの内にある」というのは、そういうことです。あなたは違う車に乗って、違う気分で今まで行ったことのない場所に行くのです。

 

イエスは罪のために十分に裁かれたと思いますか?もし十分でないのならば、ここにいる人で救われている人はいません。すべての裁きがイエスに負わされたのでなければ、私たちは決して自由になることはできませんし、救われることもないのです。御父はすべての罪への怒り、憤りの最後の一滴までイエスの上に注がれたと思いますか?そうならば、御父のうちにはもう何に対する憤りもないのであって当然です。ということは神はもう何に関しても怒ってはおられません。これは本当によく考えてみないといけないことですね。神がもし「もしもの時のために」怒りを少しでもとっておかれたとしたら、私たちと神との関係は100%確立しているとはいえません。御父はイエスをご自分から切りはなされ、すべての罪を負わされたのです。イエスは私たちのために滅ぼされたのです。イエスは始めて御父から切り離されました。それは私たちがもはや御父から切り離されることがないためです。私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを切り離すものは何もないのです。

 

 

古いものはすべて過ぎ去り、すべてが新しくなりました。私たちは古いものを改良するのではなくて、古いドレスや古い車のように捨てて、新しい栄光に満ちたものが来たのを見るのです。私たちは古いものから新しいものに移り変わるプロセスの中にいますが、取り扱うのは新しいものだけです。あなたが新しい人に焦点を合わせ、すべての状況はあなたが新しくなるために設けられたものだと知るのです。あなたがある状況の中に置かれたとき、今の自分はこれであり、将来の自分はこれであると見えるのです。それが「現在から未来へ」という生き方です。神は私がどのような者になるか、将来の私を知っておられます。ですから現在の自分から未来の自分との間に起こることはすべて私を将来の私にするために設けられるのであって、それは神によって予め決められている計画です。

 

 ですから何であれ、一つの状況とか環境(たとえ逆境のように思えても)に足を踏み入れた時には、それはまず第一に新しいあなたに関することなのです。私たちはその状況を神に不満として訴えるのではなくて、まず自分自身を神に捧げるのです。その状況はキリストにあるあなたがアップグレイドされるためのものです。ですからすべての状況はアイデンティティーに関することです。すべての状況、環境、困難、問題は、あなたがキリストに似た者となるためのもであるのです。

 私たちは神のもとに行き、この状況は神と私の関係において、どのような意味があるのですか、と問わねばなりません。これは私のアイデンティティーに関してどのような意味があるのですか、と。ですから問題が起こったときは、「ああ、私のアイデンティティーはアップグレイドされるんだ!」と思うのです。

 それがまず第一にすることです。「主よ、この問題の中であなたが私のためにどのような新しいお方になってくださるのか。今まで私が経験したことに中ではわからなかったあなたを教えてください。」と聞くのです。そのように考えるとあなたの前に状況、問題は全く違って見えてくるはずです。もしアイデンティティーのアップグレイドを目指さないならば、自動的にあなたは以前の古い人のアイデンティティーに戻るのです。そして不安になったりパニックに陥ったりします。それは過去の自分に戻り「現在から過去へという生き方」に戻ってしますのです。

 

学校の実験で一番好きだったのは、鉄くずをまいた紙の上に磁石を持ってくると、鉄くずが全部磁石に吸い付けられるというのがありました。

そのように「天のすべては私の中のイエスに吸い付けられている」のです。それはどういう意味でしょうか。これは新しいいのちの特権であり、それは神の祝福は私のうちにおられるイエスの故に私に吸い寄せられるということです。神の特別な恩顧、恵みはイエスの故に私に吸い寄せられます。私の中にイエスがおられるので私は祝福、特別の恵み、力を吸い寄せる磁石です。自分の故ではなく、イエスの故にです。御父は私たちをそのように驚くべきところに置いてくださいました。重要なのは、あなたが「自分は死んでいる」ことを本当に、本当に、分かることです。神は古いあなたのことを話したくもなく、取り扱いたくない、あなたとそれに関する会話もしたくないのです。あなたはそれに関して祈る必要もない、あなたはキリストにある新しい自分のことだけを考えればいいのです。

あなたにとって「全く新しくなる」とはどういうことかー今の瞬間からあなたの人生のすべてが新しくなるー神はあなたの中の新しいあなただけを取り扱われるーのです。私たちは「宗教」の中で古い自分で神との関係を築いて変っていこうとして来ました。罪悪感、自分は駄目だという思い、日によって神から離されていると感じたりします。私たちはいつも何かを謝ったり悔い改めたりしているのです。何かを悔い改めるならば、神は「もうそれは終ったよ」と言われるのです。悔い改めるならば、何かから悔い改めるのではなく、何かにむかって悔い改めてください。「神よ、私はキリストのようになる機会を与えられましたのに、それを用いませんでした。赦してください。」というようにです。古い自分を悔い改めるのではなく、新しい自分の姿に対して悔い改めるのです。

 

神があなたを見るときには、何も悪いところがないのです。神のところに行ったときの会話はすべて新しい人に関する話なのです。神は「あなたの古い人とはもう縁を切った。」と言われます。(終り)


22 01月

聖書の終末観を知る重要さ(下) マイク・ビクル      2017年1月22日


聖書の終末観を知る重要さ(下)

 

マイク・ビクル

 

 

神学的にも終末の世代について知ることは重要です。聖書はアダムとイブの時代以来のすべての世代の中でこの世代について最も多く語っています。どうしてでしょうか。主は「それがどれほど重要か、あなたは知っていますか?」と言われるのです。その時代がいかに栄光に満ちているか、そして同時にいかに惑わしに満ちているか、いかにパワフルであると同時にいかに危険に満ちているか、、。このような時代に生きた世代は未だかつでありません。この時代にどのように生きればよいかを示唆できる世代はないのです。

 

驚くべきことに、聖書の150以上の章の主たるテーマは主が帰ってこられる終末に関する記述です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を合わせると89章になります。90章近くがイエスが初めに来られたときの記述です。しかし再臨に関しては150章あるのです。主が再臨されたとき、どのようにリーダーシップを取られるかについてです。終末に関しては興味がないと言われる方に申し上げたいと思います。あなたは福音書のイエスと同じイエスがこの世をどのように治められるのか、興味がないのですか?イエスの地上でのご計画について興味がないのですか?同じ聖書の中の、同じ聖霊が書かれたイエスに関する記述です。どうしてそれを無視するのでしょうか。

 

私は61歳ですが、私の世代を見てみますと多くの人が終末に関して学ぶことを避けています。そしてその結果、若い世代にそれを教えることができていません。それは非常に問題であると私は思います。なぜならば、今私たちは現にその終末の世代の始まりにいると思うからです。一世代がどれほどの長さであるかはわかりませんが、この150章に関して教え始めるのは、決して早すぎることはないのです。今教会ではこれに関して教えるのはポピュラーではありませんが、私はそんなことは気にしません。今20代の人が終末に関して知らないならば、恐れやつまづき、混乱、妥協、背教の危険にさらされるのです。

神の恵みにより、若者に聖書の筋書きを教えようではありませんか。しっかりと計画をもってシステマティックに教えて行こうではありませんか。一回のセミナーとか夏期講習で網羅できることではありません。

 

また、終末に関する聖書を知る重要性は預言的な理由もあります。今がどのような時代であるかに関してイエスは幾つかの出来事を示しておられます。主は「あなたがこれを見たとき、終末の世代にいることを知りなさい。」と言われました。クリスチャンは自分がその世代にいることがわかるということです。使徒たちもいくつかの終末の出来事を挙げています。旧約の預言者たちもいつくか挙げています。100以上の事柄がありますがそのうち2つだけを述べたいと思います。

 

マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされて、それから、終りの日が来ます。」ここで「すべて国民 all the nations」と言われているのはギリシャ語ではエスノスで、エセニックグループ、すべての民族ということです。世界には3千以上の民族がありますが、ミッション活動のリーダーたちは、福音は3千すべての民族に歴史上初めて2020年までに伝えられるであろうと言っています。いままで2千年のあいだ、そのように言われたことはありません。イエスはそれが起こったあと、終りの日が来ると言われたのです。これは非常に重大な終末のしるしであるにもかかわらず、キリストのからだの大部分は「それはいいね。」くらいにしか捉えていないのです。

 

次に、使徒2:17に「終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」とあります。教会時代の最初の200年は聖霊を受けることは当然のことでしたが、その後1800年間は聖霊は片隅に追いやられていました。1920年頃には百万人くらいの人が聖霊を受けていましたが、その50年後には6千万人となり、使徒行伝の時代以来はじめて聖霊を受けることが標準的なこととなったのです。それと「福音がすべての国民に伝えられる」こととが重なっているのは、決して偶然ではありません。イエスが言われた終末のしるしの殆どすべてのものは、世界的にどんどんと加速し増大しています。すべての事柄が揃ってきているのです。キリストのからだの一部はそのことに注目していますが、全く無視している人達も大勢います。

 

次に社会的な終末のしるしを二つ挙げたいと思います。まずイスラエルの民が祖国にもどったということです。1948年のことです。イスラエルは殆ど2千年のあいだ国がなかったのですが、聖書はイエスの再臨の前には彼らが祖国に帰っていることが条件だと言っています。1948年まで聖書教師たちはそれに関して「何のことがわからない。」と言って、そのようなことが起こることはあり得ないと考えていました。ところが突然一日にしてイスラエルは国家となったのです。これは世界に衝撃を与えましたが、一番驚いたのは聖書教師たちでした。「聖書の言葉は文字通りだったのだ!」と衝撃を受けました。私たちは歴史上かつてなかった時代に生きているのです。聖書の預言はイスラエルが再び建国されるまでは成就されなかったのです。でも今はそれが起こる可能性のある時代です。これは全く新しいシーズンが始まった合図でした。

 

マタイ24:33に非常に重要なイエスの命令があります。これはただの招きではなく命令です。「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」「これらのこと」とはイエスが終末のしるしとして語られた事柄であり、実際に今世界規模でそれらが起り始めています。それらを見たときには再臨が近いことを「知りなさい」というのは、ぼんやりとではなく、確信をもって知りなさい!という命令です。そして34節で「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代(generation世代)は過ぎ去りません。」とあります。一世代は百年続くかもしれませんが、もっと短いかもしれません。そして36節に「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」とあるので、聖書教師たちは「その時は全く予測できない」と解釈してきました。しかしイエスは、もしあなたが終末の世代に生きているのならば、それを知りなさい、と言われました。日と時はわからないけれど、その世代は分かるのです。イエスが終末に起こることとして示された事柄は、すべてではないにしても殆どすべてが現在起こり始めています。今、聖書の筋書きに注目する時ではないでしょうか。父の世代が子の世代に教え、子が次の世代に教えていく時ではないでしょうか。多くの者は今聖書の筋書きを教えられていません。その結果は混乱と恐れと惑わしに陥り、つまずいてしまいます。そして大いなる背教が起こるのです。そのようなことが皆さんや皆さんが導いている人たちに起こらないようにしようではありませんか。

 

ダニエル11:33に「民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。」とあります。これは終末の聖書的筋書きを理解している人たちは多くの人を教えることができるという意味です。多くの人とは、何百万、何千万の人だと思います。人々の中に聖書ではどう言っているかを明確に知りたいという飢え渇きが爆発的に起こるのです。その時聖書教師が必要となります。歌い手、ミュージシャン、本を書く人、映画を作る人、ソーシャルメディア、説教者が必要になります。勇敢に聖書が言っていることを様々な手段で伝える人達です。この1、2年、様々な声が巷で騒がしくなってきました。これからの10年、15年はますます混乱してくることでしょう。世界規模で本当の理解を求める飢え渇きが起こります。神は「思慮深い人たち、理解する人たち」を起こされています。私はそのような人たちを「先ぶれのメッセンジャー」と呼びます。神はアジアにおいてそのような人達を起こされています。アフリカで、ラテンアメリカでも、いろいろなミニストリーを起こされています。私たちのミニストリーも他のグループと交わりながら、神が聖書を通してそれぞれに示しておられることから学びあっています。すべてを理解しているグループはありません。お互いが必要なのです。

 

ここに来ておられる皆さんも「理解している人」になることができるのです。何故ならば聖書は誰でもそれを求める人にはその理解を与えてくれるからです。学ぶには少し時間はかかります。ミニストリーでは様々な働きがありますが、それと同時に終末に関する勉強もして行かねばなりません。私は何万人もの先駆けをする人たちを起こしてくださいと、神にお願いしています。世の中で何が起ころうと、それが神のご計画の中でどのように用いられるかを理解し、恐れず確信をもって信仰生活ができるように人々に教えて行かねばなりません。20代の人も80代の人も神は用いられます。ソーシャルメディアで80代のおばあさんでも発信して世界中の何百万人に教えることが出来るのです。

 

最後に私の体験をお話したいと思います。20年ほど前のことで、IHOPを始める以前のことです。私はカンサスで牧会をしていました。私は教会の祈祷室でイザヤ63章を読んでいました。2、30人がそこにはいました。この箇所はキリストの再臨についてですが、少し変っています。あまり知られていませんが、非常に重要な箇所です。私はこのような霊的経験は40年間で3、4回しかしていないのですが、それは私の人生を変えるほどのものでした。イザヤ63章を読んでいると、聖霊の炎と熱が勢いをもって私を包みました。私は「一体何が起こっているのだ、、、」と思いました。又、聖霊の風が私の周りに吹いているのを感じました。それが一時間ほど続いたのです。何かが起こっていることは分かりましたが、それが何であるかは全く分かりませんでした。

イザヤ63:1でイザヤは次のように質問しています。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」

イザヤは2700年前にメシアがエドムからエルサレムに行進してくる幻を見たのですが、それが誰であるかは分かりませんでした。エドムは今のヨルダンです。イエスはヨルダンを通ってエルサレムに来られたのです。その衣は紅く染まっている。どうしてでしょうか。エルサレムは異邦人の国々に取り囲まれて攻撃されようとしていました。イエスは再臨のときのエルサレムを救うために来られます。ダビデより、ヨシュアより、モーセより、エリヤより偉大な方がエルサレムの救いをもたらすために来られるのです。その方は「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」と答えます。

イザヤは「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」と尋ねます。3節でメシアが答えます。「わたしはけものを礼拝するものたちと戦い、わたしの衣は彼らの血で赤く染まった。わたしは人間の酒ぶねを踏んだのだ。わたしは彼らをとり除いた。」そして「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。わたしと共にことをする国はなかった。」と言われました。

すべての異邦人の国々がエルサレムに敵対したのです。イエスは「他のどの国も、どの軍隊もわたしと共に戦ってくれなかった。誰ひとりわたしと共に立つものはいなかった。わたしが裁きをもたらしたとき、すべての者はわたしに敵対した。わたしは一人で彼らをすべて踏みつぶし、それでわたしの衣は血に染まっているのだ。復讐の日だったのだから。イザヤよ。」と言われたのです。

 

私はこの箇所を読んでいたのですが、一時間ほども聖霊の炎と熱に包まれ、聖霊の風が周りに吹いてました。主の言葉が私に来ました。「わたしが裁きのために来るとき、(それは愛を阻むすべてのものを取り除くためです)あなたはわたしと共に立ってくれるのか?」と。それは主から私への個人的な言葉でした。「多くの者はわたしがあわれみと共に正しい裁きをするとき、わたしにつまづくのです。誰もどの国もわたしと共に立ってはくれない。あなたは立ってくれますか。」と語られました。私は泣いていました。イエスとの激しい出会いでした。「主よ、私はあなたと共に立ちます。」と私は申し上げました。「世間からどのように悪く言われようとも、多くのクリスチャンから嫌われても、あなたのご計画に従います。」と。

 

その時祈祷室にいた一人の人が私のところに来て肩を叩き「私はヴィジョンを見ました。」と言いました。私は「今はお願いだから邪魔しないでくれ」と心の中で思いましたが、彼は次にように言ったのです。「主は今あなたにイザヤ63章について話しておられます。私は天使があなたに炎を注いでいるのが見えました。天使の羽根が風を起こしているのも見えました。」私は驚いて何も言えずに彼を見つめていました。非常に強烈な経験でした。彼は「主はあなたに一つの質問をされました。あなたはイザヤ63章の深紅の衣を着たイエスを人々に説きますか。

人々に受け入れやすい説教だけをするのではなく、血染めの衣を着たイエスを語りますか?と主は問うておられます。」彼はそう言ってから去っていきましたが、私はそのまま泣いていました。

 

その日、私は主と契約を結びました。「主よ、私はあなたの裁きがどのようなものであるか、理解はできません。終末に関する150章を理解はできていません。2、3の事は知っていますが詳細は知りません。でもあなたの問いに対して私は『はい。』とお答えいたします。」

 

どうか皆さんも血染めの衣を着た主の問いに「はい。」と答えていただきたいと思います。(終り)


16 01月

聖書の終末観を知る重要さ(上)    マイク・ビクル      2017年1月16日


聖書の終末観を知る重要さ(上)

 

マイク・ビクル

 

 

 下記のメッセージは昨年末に行われたマイク・ビクル師の教会での恒例の One Thing 集会でのメッセージを二度に分けてお伝えするものです。

 One Thing とは詩編27:4「私は一つのことOne Thing を主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」これは師の IHOP 教会のモットーとする御ことばです。

 

 

 今日は聖書の「終末観」を理解することが非常に重要である理由をお話したいと思います。ある人達は「私はそのようなことに関心はありません。」と言います。しかし聖書にはその重要性が書かれていますし、今は聖霊がその重要性を語っておられる時です。人々の預言とかではありません。聖書そのものに書かれていることを把握することです。今人類の歴史に大きな嵐が襲おうとしています。聖書はそのことを明らかに語っています。大きな嵐がすでに襲い始めていて、世界の問題が急速に増大しています。最早1990年代の世の中に戻ることはありません。もっと暗やみが深くなっているのです。暴力、悪魔の力、性的倒錯が増していきます。しかし、それだけではありません。神の栄光も増し加わるのです。神は、教会を建て上げて、神の栄光を現す場所とします。今の深い闇の中にご自分の栄光を現わされるのです。

私は皆さんによい知らせがあります。歴史は栄光へと向かって進んでいます。暗やみの中にすばらしい栄光が現れるためです。私たちは麗しいリーダーであられるイエスに従っている者です。主は非常にすばらしご計画を持っておられます。

 

終末のことを語るとき、私は「ユニークなダイナミックス」という言葉を使います。人間の歴史の中である一つの世代が、他のどの世代とも違ってユニークだからです。その世代には最も強烈なネガティブなものと、最も強烈なポジティブなものが同時に起こります。そのような時代を経験した者は今まで一人もありませんでした。人類にとって始めての経験です。最大の悪魔の暗躍がすでに始まっていて、しかもそれが急速に増大しています。しかし聖霊の最大の傾注もすでに始まっています。使徒行伝を越えるようなリバイバルが世界中で始まります。それは「24/7の祈りのムーブメント」によって支えられています。祈りと賛美が地上から立ち上り、打ち破りとリバイバルが起ります。

 

主が帰ってこられるのを経験する世代に特有のことがもう一つあります。その世代に生きている人の数は今までのどの世代よりも多いということです。聖書ではその世代に関して、他のどの世代に関するよりも多く語っています。

どうしてでしょうか? それはその世代がユニークであり、重要であり、栄光に満ちたものであるからです。それは危険であり、恐ろしく、ものすごいのです。

 

私は今まで40年以上牧師をしてきましたが、教会は今、終末に関する知識が非常に希薄になってきています。今世界が何に向かっているかを理解していないのです。私の知っているクリスチャンは皆イエスを愛していますが、殆ど終末に関心がありません。私は「聖書に書いてあることをよく見てください。」と彼らに言います。「もう一度よく見て、考え直してください。」と。なぜならば、終末に関する聖書の言葉を知らないままに、その時代に突入するならば、非常な混乱と恐怖がキリストのからだを襲うことが絶対に避けられないからです。

 

イザヤ60:2を見てください。「見よ。やみ (darkness) が地をおおい、暗闇が諸国の民を覆っている」とあります。悪魔的なもの、性的倒錯などすべての闇です。しかしそれが話の結末ではありません。それと同時に主は御力をもって主の民の上に来られるのです。暗やみが最も深い時に、主の栄光が人々の目の前に現れるのです。

 

「これから世の中はよくなりますか?それとも悪くなりますか?」と私は多くの人に訊かれますが、その答えは「どちらも」です。悪魔が暗躍する暗やみもますます深くなり、御国の人々と御国を受け入れる人々の上に輝く栄光も大きくなるのです。それが同時に起ります。ハガイ2:6を見てください。「まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。」神が空中を揺り動し、地を動かすとき、海と陸が揺り動くのです。さら7節には「わたしは、すべての国々を揺り動かす。」とあります。国家の政治が揺り動かされ、国々の社会構造が揺り動かされるのです。どうしてでしょうか?7節の続きに「and the Desire of All Nations shall come (そして彼らはすべての国々の望みである方が来る)」とあります。すべてのものが揺り動かされるのは、人々が今まで拠り頼んでいたものを揺り動かすことによって、彼らが救いを他に求め、すべての国々の希望(Desire of All Nations)であるイエスの麗しさと栄光を見て、彼こそ自分の希望であることを悟るためです。

 

イエスは人々が切に願うものとなります。イエスの麗しさを人々が見出す時となるのです。私は一億の人が主のもとに来ると信じます。ものすごい数の人たちが全世界で救われてきます。ニューヨークとかロンドンのような大都会では何百万人といる人が救われるでしょう。今まで想像もしたことのないような魂の収穫が起こります。主は人間が拠り頼んでいたものを揺り動かして、人々が真の拠り所を捜し始め、イエスの麗しさを発見するようにされるのです。そして次に「わたしはこの宮を栄光で満たす」と主は言われます。主が戻られる前に、使徒行伝を越えるようなことが起こると私は信じます。それは私たちの肉にとっては困難な時となりますが、霊的には栄光ある時となるのです。イエスを愛する者が生きるのに最高の時代となるのです。しかしイエスを否むものにとっては、最も危険で困難な時となるでしょう。

 

あるミニストリーは「艱難」にだけ焦点を当てて、栄光の希望について話しません。また、あるミニストリーは偉大な終末のリバイバルについて話しますが、艱難に関しては話そうとしません。ポジティブな事だけ話したいからです。私もポジティブでありたいですが、それ以上に正確でありたいのです。聖書は「艱難の中で栄光に輝く教会」を語っているからです。両方を語っていない終末論を受け入れないでください。それは聖書の言っていることではないからです。

 

この艱難が持つ危険性は、それが人々を混乱に陥れるからです。多くのクリスチャンは困難が増し加わる時に混乱してしまいます。それに関する教えを受けたことがなく、聖書もよく読んだことがないので、困難に襲われたときに混乱するのです。ですから聖書が語っている筋書きをしっかりと知る必要があります。何が起こっているのか、これからどうなって行くのか、という筋書きです。それが分かっているならば、私たちは確信を持つ事ができます。そういう人はどのような時にも愛に溢れ、動じることはありません。彼らは麗しい栄光に満ちた王のリーダーシップの下に自分がいることを知っています。栄光あるすばらしい計画が進められていることを知っています。大いなる暗やみをも征服する力ある王を信頼して進むことができます。

 

しかし、多くの世の人々は間違った選択をしてしまいますし、クリスチャンであっても多くの人が間違うのです。聖書の筋書きを知らないならば、私たちは必ずこの世の解釈を受け入れてしまうからです。聖書の筋書きを知らないと、いろいろな声が聞こえてくる大混乱の中では、必然的にこの世の筋書きを受け入れてしまうのです。

 

聖書の終末の観点を知る必要性は、牧会上大いにあります。聖書の筋書きを知っている人たちは、神を信頼して確信をもってすべてを受け止めることができます。しかしクリスチャンであってもこの世の筋書きしか知らない人たちは、非常に恐れを持ってしまうのです。恐れが人生を支配してしまうならば、私たちは往々にして間違った判断、決断をしてしまいます。イエスは終末の世代に関して、人々は恐れると言われます。聖書の筋書きを知らないので、何が起こっているのかわからないので恐れるのです。また、あるクリスチャンは、イエスにつまずき腹を立てます。「こんな困難が起こるとは教えられていない。聖書は本当に神の言葉なのか。イエスは信頼するに足るのだろうか。」と。サタンはクリスチャンがイエスに信頼するのではなくつまずくことを願っています。

 

またあるクリスチャン達は、騙され惑わされます。聖書ははっきり言っていますね。終末には偽りの正義が起り、偽りの統一宗教の動きが起り、偽りの愛、偽りの恵みが説かれると聖書は明確に述べています。

ある牧師が「正義、一致、愛、恵み」という言葉を用いて説教をすると、人々は「すばらしい!」と言います。しかし聖書の言葉を用いてはいても、それが正しく聖書が説いている意味で用いられているかどうかを吟味せねばなりません。惑わしは一般社会でも非常に深くなりますが、それは教会の中にも入りこんできます。イエスの終末の教えを調べるとわかりますが、主は艱難に関することよりも惑わしについてもっと多く語っておられます。終末と聞くと、多くの人は艱難とか迫害とかを思い浮かべますが、イエスが教会に警告したのは「惑わされないように」ということでした。

 

第二テサロニケ2:3でパウロは「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起り、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」と言っています。これは非常に重要な預言です。イエスの再臨の前には、クリスチャンの背教がまず起こるのです。これは聖書の預言の中でも非常に厳しいものの一つだと私は思います。クリスチャンの背教が起こることはイエスもパウロもペテロも旧約の預言者たちも言っています。背教はただクリスチャンが罪を犯すというのではなく、彼らが恐怖に陥ったり、イエスにつまずいたり、この世の偽りに惑わされたり、敵が背後にいるムーブメントに引き寄せられたりするからです。多くの者が主から離れて行きます。

 

イエスの再臨は二つのことが起こるまでは起こりません。それは背教と滅びの子の現れです。

再臨が近いことがどうしてわかるでしょうか。それは数日後かもしれませんし、数十年後かもしれませんが、近いことがわかるのです。その一つの現れはキリスト教の伝統の中で育った人たち、主のために燃えていた人たちさえ、信仰を捨てている事実です。もう一つは滅びの子の現れですが、これは反キリストが世界的に現れるということです。これは非常に重大な出来事ですが、それと同じほどに背教がすごい規模で起こるということです。教会から少しずつ人がいなくなる、というような小さなことではなく、世界的に劇的な背教が起こるのです。それは反キリストの現れと同じほどに劇的で大規模なことです。

私は40年以上牧師をしていますが、信仰を捨てる人たちがこの4、5年ほど多いことはありませんでした。これは他の牧師たちもそう言っています。数年前には祈祷会でリバイバルのために熱心に祈っていた人が、信仰を捨てていくのです。今は背教の時代の始まりだと私は信じます。(続く)


25 12月

相互依存の重要性   リック・ジョイナー               2016年12月25日  


MERRY CHRISTMAS AND HAPPY NEW YEAR

 

                            WALK WITH GOD MINISTRIES  一同

 

 

相互依存の重要性

 

リック・ジョイナー

 

 

第一コリント2:16「ところが、私たちには、キリストの心があるのです。But we have the mind of Christ.

 

ここでパウロは「私には」ではなく「私たちには」キリストの心があると言っていることに注目してください。一人の人がキリストの心のすべてを持っているのではなく、私たち一人ひとりが一部分づつ受けているのです。ですから主の完全な心を持つためには、私たちは一致をもって集まる必要があります。自分以外のキリストのからだの他の部分、即ち他の教会とどれ程深く交わりを持って結ばれているかによって、私たちがどれ程主から完全な教えや指導を受けられるかが決まるのです。「一致」は単なる理想ではなく、私たちが完全な真理を持ち神の完全な指導を受けたいならば、絶対に不可欠なものであり、イエスがヨハネ17:23で、主の民が「全うされて一つとなる perfected in unityように祈られた理由でもあります。

 

数年前に「自分が持つコディペンデンス(共依存)の関係を認識して、それから解放される必要性」についてよく語られました。共依存とは、ある人やある集団に不健全な形で結びつき、自分というものが他の人のアイデンティティーの中に飲み込まれてしまうことを指します。これは結婚相手、友人、上司、親、子、あるいはクラブや同好会等との関係で起ります。又、自分と教会との関係においても不健全な共依存になることがあります。カルトは普通、集団を通して自分のアイデンティティーを得ようとする共依存の人々で成り立っています。決断力と指導力のある支配的な者が、弱い共依存症の人々を惹き付けるのです。

 

共依存の傾向から私たちを解放するためには、自分が本当にどのような者であるかを知るために、自分が独立する期間を持たねばならないというポイントは正しいです。これは真理ですが、そこで終ってはいけません。最終ゴールは誰にも依存しない「独立」ではなく、「相互依存(inter-dependence)」です。実際、適切に正しく他の人々と関係を持つとき、初めて私たちは自分のアイデンティティーを知ることができるのです。

 

共依存は真の一致ではなく、強者が弱者を支配することです。私たちは各々、自分自身の賜物や召しを見つけ出し、自分という人間に、そして自分が召された任務に対して確信をもつために人生の一時期を過ごす必要があります。その時期を経て初めて真の一致が可能になるのです。一致とは人々が融合して個人的なアイデンティティーを失ってしまうことではありません。キリストのからだのユニークなすべての異なるパーツが互いに認め合い共に働くことで一つのユニットとして機能するのが真の一致です。

私の身体がうまく機能するためには、心臓が肺になろうとすることなどありえません。私の心臓が正しく機能するためには肺や腎臓、肝臓、血管が必要であり、心臓が心臓以外の器官になろうなどとは決して考えてはなりません。世界で最もすばらしい心臓を5つ持っていたとしても、少なくとも一つの健康な肺に繋がっていないならばみんな死んでしまいます。主はご自分のからだ、即ち教会を同じように構成されました。それは多くの異なるユニークなパーツから成り立つべきであり、それらのパーツは自分のアイデンティティーを知ると共に、全体の中での自分の位置も知っていなければなりません。

 

私は教会やカンファレンスで、キリストのからだの中における自分の召しやミニストリーを知っているかと質問してきました。大抵の場合、全体の5%くらいの人が「知っている」と答えました。一番多いときで20%くらいでした。もしあなたの身体が5%、よくても20%しか機能していなかったとしたら、あなたはうまく生きられるでしょうか。しかし、残念ながらこれがキリストのからだの現状です。私たちは確かに一致が必要ですが、まずからだのメンバーである一人ひとりが、からだの中での自分の場所と目的を見つけ出すプロセスを通る必要があります。

私は長年、キリストのからだには様々な異なる教派やムーブメントが必要であると主張してきました。キリストのからだのメンバー達(教派、ムーブメント)は自分のアイデンティティーが基本的に確立された「誰にも依存しないで独立している」という段階に留まり続け、そこからまだ卒業していません。確かに自分のアイデンティティーが確立されるまではそこに留まるべきですが、私たちはその段階に何世紀も留まっているのです。今は任務達成のためにキリストの身体の他の部分と相互依存することによってのみ見出せる究極の目標達成にむかって進んでいくべき時です。

 心臓は、自分は心臓であって肺ではないことを「知って」います。それは肺の位置を知っており肺と共に働くからです。私たちは「独立」の段階を経験しなければなりませんが、相互依存の関係の中にしっかりと確立されるまでは、自分が何でありどこが自分の場所であるかを100%知ることはできません。すべての真の新約のミニストリーは、一つのユニットとして一緒に機能する異なるパーツのチームで成り立っています。バルナバは出かけて行ってサウロ(後のパウロ)を捜さねばなりませんでした。そして二人が使徒として究極的な召しへと解き放たれるためには正しい場所(アンテオケ)に行かねばねりませんでした。同じように、私たちも自分の究極的目的へと解き放たれるためには、主にあって共に結び合わされるべき人々を探し出さねばならないのです。(終り)


18 12月

神の御顔を拝する     フランシス・フランジペイン        2016年12月18日


神の御顔を拝する

 

フランシス・フランジペイン

 

 

あなたは「神を見、神を本当に深く親密に知りたい」と、切に願ったことはありますか?愛する皆さん、イエスを見ることは、即ち神を見ることです。私たちは本当に神を見ることができるのです!ですからそれを異端だと考えないでください。しかしまず第一に、キリストを知ることによってのみ全能の神を真に認識できるという確信に至らねばなりません。

ですから、イエス・キリストの生涯と、又その教えと行ないをしっかり学んでください。そうすれば神の本質を覆っている神秘のベールをあなたは取り除くことができるでしょう。

イエスは「わたしを見たものは、父を見たのです。(ヨハネ14:9)と言われました。これ以上に深い真理があるでしょうか?

イエスがされたことを読む度に、私たちは実際に神の本質を見ているのであり、イエスの教えを聞く度に、私たちは生ける神の声を聞いているのです。

 

イエスは見えない神の完全な現れです。(ヘブル1:2−3)また「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。(コロサイ2:9)イエスは神の形です。イエスはご自分の父が天でしておられることを見て、それを地でそのまま実行されたのです。イエスは御父が永遠の昔からささやかれた言葉をそのまま語られたのです。

あなたは本当に神を見たいと願いますか? キリストの言葉は、心の清い者が全能の神を仰ぎ見る窓です。

 

勿論、私たちの魂は他の人々からも養われます。しかしいかなる預言者、使徒、教師も、キリストによる神の啓示以上のものを与えることはできません。キリストを(深く)思い巡らしてください。それは即ち神の本質を思い巡らすことです。イエスの言葉を食べてください。それは全能の神の実体をあなたの霊のうちに宿すことです。

 

ヘブル1:1−2「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。」

 

神は預言者たちに「多くの部分に分け、いろいろな方法で」語られたのです。実際、預言者たちの言葉はすべて私たちの魂を鼓舞し、矯正し、導きます。すべては有益であり、私たちを正しく導くものです。しかし「この終りの時には、(神は)御子によって語られました。」とあります。

 

預言者たちは「道」を指し示します。キリストがその「道」です。教師たちは「真理」を解き明かします。イエスがその「真理」です。使徒たちは「命」を宣言します。イエスがその「命」です。そうです、すべての者が「言葉」を語りますが、神の御子こそが「言葉 the Word」です。

イエス・キリストの教えがあたかも神に用いられた他の重要な人々の教えと同等であるかのように聖書の中で混同されてはなりません。イエスは真に神ご自身の生ける現れであり、神の見えざる栄光の唯一の現れです。イエスが語られる時、私たちは神ご自身が語られるのを直に、そのものずばり、何のベールもかぶされずに、聞いているのです。

 

ですから、もう一度お聞きしますが、あなたは神を見たいですか? 神の栄光を見たいですか?そうであるならば、イエスを学んでください。イエスの言葉と行ないを深く思い巡らしてください。じっとイエスを見つめることは、「キリストの御顔にある神の栄光(第二コリント4:6)を仰ぎ見ることだからです。

 

祈り「父よ、私はあなたの栄光を見、あなたの臨在の中に住まいたいです。あなたの御子イエスがヨハネ17:24で祈られた祈りに、私を通してお答えください。そして私がキリストのおられる所に一緒におり、あなたの栄光を見ることができますように。あなたの御ことばを私にとって生きたものとし、私の魂を変革してください。私の思いを新たにし、永遠に変らずあなたと共に住む事ができますように。」(終り)


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