Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
16 05月
イエスの癒しの鍵
ビル・ジョンソン
神の声を聞くことを学び、聞いた通りに従うことは、喜びでありわくわくすることですが、そのためにはいつも緊張している必要があると言わねばなりません。ある時私がテネシー州ナッシュビルの郊外にあるグレイスセンタ−というすばらしい教会にいたときのことですが、一人の女性が祈ってほしいと言ってきました。彼女は全身のリューマチ性関節炎で苦しんでいました。そこで私は早速彼女のために祈ろうとすると、「祈るべきではない」という思いが私の心にきたのです。何かが常とは違っていました。イエスが彼女を癒すご計画だということはわかりましたが、もし私が祈ったり手を置いたりするならば、神の働きを邪魔するような気がしたのです。イエスがスロ・フェニキヤの女に「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました(マルコ7:29)」と言われたように「癒しの宣言」をすることさえも、神は私に許可されていないことがわかりました。
この時の女性の癒しの経験は私にとって「聖霊道場」となりました。彼女が周りに気が散らないように、目を閉じるようにと私はお願いしました。彼女はその通りにしました。すると私の首の後ろに、かすかではありましたがはっきりと熱を感じたのです。熱い油がゆっくり流れていく感覚があったので、彼女に「油注ぎがあなたの首の後ろを流れて行きます。」と告げました。彼女はそれを感じたと答えました。私は油の流れが首の付け根に達するのを感じたので、彼女に「首は癒されたはずです。」と告げました。彼女が首をいろいろ動かしてみたところ、以前感じていた痛みはなく、癒されていることが分かりました。
その瞬間、神が何をしておられるのかを私は悟りました。私はスポーツの実況放送のように、起こっていることをただそのまま伝えるアナウンサーの役をしていたのでした。神は私の身体に感覚を与えることによって、彼女の身体に起こっている癒しを描写する役目を私にくださったのです。神は、癒しが私の祈り、宣言、按手などによって私を通して流れ出るのではなく、ご自分で直接に彼女を癒したかったのです。癒すのは常に神であると理解するのは私たちにとって非常に大切です。
熱いオイルは下に流れ続け、彼女の足の指のつま先まで癒しが達し、身体全体が完全に癒されたことを私たちは感謝しました。この癒しは誰ひとり彼女のために祈ることなしに起りました。「知識の言葉」を与えられて神がその時に癒される病気を人々に知らせたり、又奇蹟が起こるように誰かに手をおいて祈ったりして神に用いられることは大変うれしいことです。しかし私が一番好むのは、私自身は何もしないで、ただ神がされることを見て喜ぶことです。
多くのことは、既に私たちの握中にあるのです。それにもかかわらず私たちは、既に神からいただいているものを祈り、それを実現させようと自分で努力する傾向があります。そして多くの場合、神が既に決めておられるにもかかわらず、それを「してください」と頼むのです。それは、ランディー・クラーク師が言うように「神に癒しを乞い願うことは、あたかも神よりもあなたの方がもっと憐れみ深いとでも思うことと同じ」なのです。神は人々を癒すと既に決めておられ、その方法を神は、イエスの打ち傷によって行うと明らかに示されているにもかかわらずです。
御父に導いていただく
イエスは御父がされることだけをされ、御父が言われることだけを言われました。(ヨハネ15:17−18、8:26参照)これは非常に高い水準の生き方を示していると言えます。
イエスは永遠に神であられますが、神としての力、特権を捨てて人となられました。(ピリピ2:7参照)主がすべての奇蹟を、神としてではなく、人としてされたことを知るのは大きなキイポイントです。
もしイエスが奇蹟を「神として」したのであったとしても、それはすばらしいことでしょう。しかし、主は奇蹟を「神に委ねきった人」としてされたのであり、それを思う時に私は自分の生き方に満足はできません。それは「主が与えてくださったお手本に見習いたい」と強く願うからです。イエスだけが私たちが見倣うべきお手本です。
聖書に記録されているイエスの奇蹟で、同じように起こったものは一つもありません。ともすれば私たちは型や法則にはまってしまう傾向にあり、それはそれなりによい点もありますが、私たちが御父のしておられることに実際に繋がるための障害となっているのではないかと思うのです。癒しが神の御こころであるのは最早間違いのないことですので、残るのは神が「どのように癒されるのか?」という問題だけです。
この問題の核心は、「神の声を聞く耳を養うこと」のように思われます。というのは、信仰は「(今)聞くことhearing」によって始まるのであって、「(今までに)聞いたこと having heard」によるのではないからです。(ローマ10:17参照)信仰は神との現在形の関係を示唆しています。私たちが人生やミニストリーに対して幼子のようであり続けないならば、「すでに知っていること」が「今知らねばならないこと」から私たちを遠ざける危険性があるのです。
例えば、イエスの奇蹟の鍵は、男の目に泥を塗るとか、シロアムの池で洗えと言ったこと自体ではありません。(ヨハネ9:6−7)鍵は御父の声を聞き、それに従ったことであり、それによってこれらの行為が力あるものとなったのです。ルカ4:4にあるように、私たちは神の口から出る一つひとつの言葉によって生きるのです。
打ち破りのために御父がイエスにどのように指示されたのかを見ることができます。口のきけない人の舌につばきをつけたことであれ、百人隊長に「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われたことであれ、イエスは御父の指示に従って行動されました。(マルコ7:33、マタイ8:13参照)
それでは、イエスの着物のふさに触った女の場合はどうでしょうか?
或いはイエスが「異邦人の時はまだ来ていない」と告げたにもかかわらず、娘の癒しを願い続けたスロ・フェニキヤの女はどうでしょうか?(マタイ9:21、マルコ7:24−30参照)どちらの場合も御父はイエスに指示を与えませんでした。しかし信仰という御父の賜物がこの二人の中で働いているのをイエスははっきり認め、彼女たちが求め続けていた打ち破りを主はもたらしたのです。
神の御こころが常に直接的に知らされるとは限らないことを示すこの二つの例は、私を大いに助け励します。時に私たちは、聖霊の働きかけに対する人の反応から、神がしておられることを悟らねばなりません。神の御こころは、それを知りたいと願う人には必ず分かるようにされることによって、しるし、不思議、奇蹟を起こすことが「ノーマルなクリスチャン生活」の重要な一部となるためです。
イエスは弟子たちに、ご自分と同じように業をする力と権威を与えられました。
ルカ9:1−2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」
「力と権威」は、私たちの人生とミニストリーに天からの影響を与えるものです。実に両者はどのような状況の中でも私たちが更に効果的に働くための「両刃の剣」です。神の力によってミニストリーすることを、私はサーファーが波を捉えるのに喩えてみたいと思います。私たちはまずミニストリーでの自分の位置を定めます。そして神がしておられること見つけると、その波を捉えるためにその方向に死にものぐるいで水をかいて進みます。そのような機会を捉えるのはすばらしい特権です。実際、神の力が大きく顕われたとき、その波に乗るのを学ぶことこそが、私の辿った人生の旅路でした。
ある日曜日の夜、イエスの癒しの臨在が会堂に入ってくるのを感じた時のことを私は憶えています。私はすぐにメッセージを止めて、自分が感じたことを会衆に告げ、イエスが入って来られた会堂の後方を指差しました。
私がその言葉を発したとき、一人の男性の前立腺がんが瞬時に癒されました。誰も彼のために祈ったのではありません。彼の痛みが直ちに去ったのです。その週のうちに彼の医者が癒しを立証しました。胸に腫瘍のある女性も癒されました。癒しの臨在によって他の多くの人が影響を受けたのです。(ルカ5:17参照)
私がしたことは、ただ「波」を見つけ、集会の方向を変え(波に向かって進む)、自分が見たことを告げた(波を捉える)だけでした。その結果は明らかでした。イエスはご自分の言葉を力をもって確証されたのです。
「権威」は「力」とは大いに異なります。「力」は、地上の霊的空気を天からの霊的空気で変えるものという点で、爆発的であり、自然界で起こることです。一方「権威」は、イエスご自身が授けてくださる地位、立場です。警察官は銃(力)を所持しますが、バッジ(権威)も付けています。バッジは銃より効力を発するのです。
力とは天の環境そのものです。「力のミニストリー」とは波を捉えて乗るようなものです。一方、権威は波を起こすものです。
私たちは何者であり、私たちの責任は何なのかを神が言われる時、物事は起り始めるのです。信仰とは私たちを権威の領域に結びつけるものです。神が自分について言われることや、神が与えられている任務を、私たちは堅く信じなければなりません。
教会の青年であるブランドンは21歳の誕生日(アメリカでお酒が飲めるようになる年齢)に街のバーに行きましたが、お酒を飲んでこの世的お祝いをするためではありませんでした。彼は後ろの方にいる若者たちのところに近づいて話しかけました。一人の若者と話し始めたとき、主が若者の人生で癒したいと思っておられる点を教えてくださり、その結果として、その若者は神の御霊を受けただけでなく、彼の友達にも同じ経験をさせたいと思い彼らを自分の席に招きました。
ブランドンは、 若者が父との関係において物事をどのように扱えばよいかを「知恵の言葉」をもって若者に話しました。それはブランドンがまず「知識の言葉」を受けたことから始まりました。若者は泣き始めました。そしてブランドンに「一杯おごりたい」と言いました。ブランドンが飲みにきたのではないと言って断ると、若者は「じゃ、どうしてここにいるんだい?」と聞くので、彼は「君のためだよ。」と答えました。
そのバーの中には、神の臨在を招き入れるために助けになるものは、何も起こっていなかったことを理解してください。力ある説教とか、高揚させるワーシップ、他のクリスチャンの応援などは無かったのです。ただ光によって侵略された暗やみがあっただけです。一つの光、それで十分だったのです。
公共の場で奇蹟を見ることが私たちの間で普通のことになってきましたが、それは権威の故です。「自分は神にとって何者であるのか」を実際に実行に移すことは、奇蹟の領域で成功するポイントであり、それが「権威」と呼ばれるものです。
権威によってミニストリーをすることの定義は力のミニストリー(御父がしていることだけをする)と相反するものではありません。時として御父がしておられることを見出す唯一の道が、あなたの権威を用いてそこに到達することであるからです。
ルカ9:1−2でイエスが弟子たちに力と権威を与えられる前は、彼らはイエスの油注ぎと召しの傘の下で働いていました。私も非常に小さな規模ですが、ディック・ミル師の下でそれと同じようなことを経験しました。
ディックは聖書の約束を7700以上、いろいろな訳で暗記しています。彼は聖句を用いて行う深い預言のミニストリーで知られています。励ましをあれほどまでに与えることができるのは、ユニークで驚くべき賜物であり、現代の預言のミニストリーを信じない人たちにも受け入れられています。彼は預言に御ことばだけを用いるので彼のミニストリーを拒否するのはむつかしいのです。
ある日家族でミル師夫妻と一日を過ごしたことがあります。その夜集会があったので、それに出席して彼のユニークな賜物を楽しむことにしました。彼はメッセ—ジを終えて、会衆の中から特定の人を呼び出して聖書から預言の言葉を与えると言いました。次に彼は「私が預言したあとマイクをビルに渡しますから、彼も同じように預言してくださいます。」と言ったのです。私には何の相談もなしにです!私はたまげましたが、彼の言葉に従いました。
驚くべきでした。私はディックの賜物の中に入りこみ、彼の賜物を尊び彼の指揮に従うことによって、彼の油注ぎの下で彼と同じように働きました。彼の賜物は私自身のミニストリーの容量を増加させたのです。
同じように、弟子たちはイエスの油注ぎのもとで機能したのですが、それは3年半の間だけでした。イエスが死んだとき、弟子たちのために物事が変化する必要がありました。
彼ら自身が神との経験をする必要があったのです。復活の後、弟子たちは復活の主から格上げされた任務と権威を受け取ったのです。(マタイ28:18−20、ヨハネ20:21参照)
権威を持つお方が、ご自分の権威で残った弟子11人を任命したのです。死、罪、暗やみの力は打ち負かされました。その勝利から弟子たちは今までの3年半にすでにしていたことを更に加速するようにと召されたのです。今や彼らはすべての人のための罪の赦しを宣言し、復活そのものの証人として働くことができました。
ここで、まだ一つすることがあります。弟子たちはルカ9章にあるように権威を与えられましたが、力はどうでしょうか?弟子たちは大宣教命令でも権威を与えられましたが、イエスは「 上からの力を受けるまでエルサレムを離れないように」と弟子たちに言われました。(ルカ24:49、使徒行伝1:4)
イエスは水の洗礼を受けたときに聖霊の力をまとわれましたが、それは主が人として聖霊と個人的に出会われたのです。(ルカ3:22、ヨハネ1:32参照)弟子たちもそれと同じ経験が必要でした。
今日、キリストを受け入れる者は誰でも権威を与えられます。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1:12
この特権(right)という言葉は権威と同じ言葉です。
今私たちに与えられている命令は、エルサレムに留まった弟子たちへの命令と同じです。私たちは上からの力を受けるまでミニストリーの拠点を離れてはならないのです。(終り)
15 05月
五月の預言
ダグ・アディソン(インライト・コネクション)
私の周りにいる友人や知人の中には、今非常に落胆し様々な戦いに疲れている人が沢山います。彼らは「今、神は私に何を語っておられるでしょう?」と聞く人に、「5月が終るまで、待ってみてください。」と話しています。
今いろいろな事が起こっている理由は、「変化の風」が私たちの人生の物事を並び変えているからです 。多くの戦いや困難があるので、「希望」を受ける必要がある人が沢山いるのです。
ローマ5:5「この希望は失望に終ることがありません。なぜなら、私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
「勝利と昇格の新しいシーズンに移る備えをしなさい!」
あなたの祈りが聞かれ、預言の約束があなたの人生の中に成就し始め、それによってあなたが神から希望の分与を受けるのを見ていてください。
答えられる祈りと昇格
祈ったことも忘れていたような祈りの答えが来始めるのを見ていなさい。祈りの答えの多くは、様々な状況や人々、敵の妨害のために遅れたり、奪われたりしました。5月には、そのような祈りの答えがあなたの所に来始めます。それはあなたが期待し予想したのとは違う答えかもしれませんが、それが起こり始めるのを見ていなさい。
5月はまた、昇格に先立って起こる試煉に勝利した人のためでもあります。3月31日に私は天からの音で目を覚ましました。「今から5月までに最早遅延はない。」という言葉が、一時間ほども繰り返し繰り返し聞こえました。それは賛美と祝いの叫び声の中から起こっているようでした。
多くの人々が試煉に打勝ち昇格されているので、天で大いなるお祝いがされていることを神が教えてくださいました。これは今から5月末までの間にもっとはっきり示されてきます。あなたが創造されたまさにその理由があなたに明らかに示されようとしています!
変化の風が強まる
5月末まで、ある人々には変化の風が強烈になってきます。これは神があなたの人生の物事を並び変え整理し直しているということによって変化が起こるのです。それは神が次のシーズンのためにあなたを正しく整えているからであり、すべて良い事なのです。
この間、ある人たちは引っ越したり、仕事を変えたり、違う教会に行ったり、新しい人とつながり始めます。このような変化が必要とは限りませんが、すべては変化の風の結果であり、それは5月末までには収まります。
「忘れさった祈りの答えが来始めるのを見なさい。」
この五月の預言を受け取ってください。
主はあなたの叫びに答えておられます。主はさらに大いなるサポートと恵みを与えようとしておられます。主はあなたが主のためにしたすべてのことを思い起こしておられます。主はあなたのこころの望みをかなえてくださいます。主があなたの願いを聞いてくださるのであなたは喜びの叫びをあげます。
これを確証する「しるし」をくださるように神に願ってください。直ぐには始まらないかもしれませんが、今すでに背後で動きはじめているものがあり、主はそれが実現する前ぶれとしての「しるし」を与えてくださいます。
過ぎ越しの祭り以来溢れる啓示
今、天は今までよりも更に大きく開かれています!多くの啓示を受け取る備えをしなさい、と神は私に告げられました。そして啓示は4月の過ぎ越しの祭の時に始まり、未だに止んでおりません。
神はどんどんと啓示を話されるのでタイプするのが間に合わないくらいです。3週間の間、毎日2、3時間の天との出会いを経験しています。啓示の大部分は、天で「大リバイバル」と呼ばれている来るべきリバイバルに関してです。
夢、ヴィジョン、超自然的出会いを通して啓示を受ける準備をしてください。神を聞くために今天は今までになく開かれているのです!(終り)
01 05月
ダッチ・シーツ師からのメッセージ
2017年4月29日付けフェイス・ブックより
私は数週間前になりますが、主から非常にはっきりしたお言葉で次のようなメッセージをいただきました。「用意をしなさい。悪霊の激しい攻撃が今現れようとしているから。」その後、その通りのことが目の前で起こり始めています。
敵の怒りが、アメリカの上に、特に政府機関とか大学とかにおいても大きな抗議集会が起こっております。それは世界的にも起こり始めました。、シリヤとか、北朝鮮、それがエスカレートしています。敵は怒りに燃えているのです。
なぜなら敵は、私たちクリスチャンがここ数十年もとりなし祈って来た結果として、今数々のブレーキスルーを経験していることにいらだっていて、彼らは私たちに対して不安と恐れをいだいているのです。一つの例が、最高裁判事にゴーサッチ氏が選ばれたことです。しかし主は、私たちは敵を恐れる必要は全くない、そう伝えなさい、恐れてはならない、私たちがすべきことはしっかり祈りに集中することであるといわれました。
そして、アメリカ政府のリーダーたち、特にトランプ大統領、議会、また、外交関係の矢面に立っているリーダーのために祈ること、今面しているシリヤ、ロシヤ、中東、アイシス等に関する緊迫した情勢、特に北朝鮮に関して私は戦争が起こるとは考えていませんが、しかしその一方決して油断が許されない状態であること。そして主はいわれました、独裁者による今の北朝鮮政権は退けねばならない、それを真剣に祈りなさい。それは独裁者自身が自からを退けるような事態になる、中国が介入してそうなることを助ける、あるいは北朝鮮自身の内部でクーデターが起こることも考えられ、とにかく、私たちはこの独裁者が馬鹿げた行動に走って核戦争を起こすことのないように祈る必要があります。又トランプ大統領とかアメリカの軍部が賢明でない行動を取らないようにも祈るべきです。そして最も重要なことは、神が介入されてすべてが守られ導かれることを祈らねばならないと思います。
今のシーズン、神の御心は民を救うハーベストを起こすことにあり、また、北と南が統一されることにあると信じます。従って韓国とか日本が北朝鮮によって一掃されることは決してないと信じます。そして主が、韓国と日本を守られることを信じます。日本と言えば私は何年も前から日本に大きなリバイバルが起きることを(預言し)確信してきました。ですから非常事態になることを恐れないでください。そしてお祈りを続けてください。今はハーベストのシーズンです。アーメン。(終り)
01 05月
中国のリバイバル
ユージン・バック(バック・ツー・エルサレム Back To Jerusalem )
中国は今、世界最大のリバイバルを経験しています。毎日2万8千人から3万人の人がイエス・キリストを救い主として信じて救われています。そう言うと人々は「そのようなことが、そんなに長く続くはずがないでしょう。」と言います。でもこの現象は20年ほども続いているのです。世界は中国でこのようなリバイバルが起こっていることにやっと気がついたところですが、それは世界中に影響を及ぼしています。というのは、中国は世界的に見て、経済的にも軍事的にも大きな存在となってきているからです。
「中国のリバイバルが他の国で起こっているものと違う点はなんですか?なぜこのように大きなリバイバルがこのように長期間起こっているのですか?」と私は牧師たちに聞きました。
私のまわりにいる牧師の殆どは、非常に素朴な農民出身の人達です。一人の牧師が最近彼の伝記を出版しましたが、1千万人の教会を牧している人です。私は「どのようにして1千万人の教会を立て上げたのですか?その方法がわかれば、本にして多くの人の助けになると思います。」と言いました。
彼は、「私たちは祈りました。それから迫害されましたね。」と答えました。私は「それから?」と聞くと、彼は「それだけだと思います。」と言うのです。私は「私が知りたいのは、どんなシステム、どんなプログラム、どんな訓練方法を用いたのですか、ということです。」と更に聞きました。彼はそれには答えずに彼が受けた迫害について話し出しました。私がそれまで持っていた考え方では理解できない領域でした。私たちは何かの方式で教会を成長させることはできないのです。成功している教会の真似をして達成することではないのです。
私は中国のリバイバルについて研究し始めたとき、本当に驚かされ、また同時に混乱しました。それについてお話する前に聖書を開きたいと思います。
第一サムエル17:38、39「サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。『こんなものを着けていては、歩くこともできません。慣れていないからです。』ダビデはそれを脱ぎ、、」
私は中国に行ったとき、この箇所を思い出しました。中国のカルチャーは万事が非常に異なり、私には理解できませんでした。その中で私に「中国人を変えて、私と同じようにしたい」という思いが涌き上がってきました。少し中国人らしくなくなって私のようになる人を造りあげたかったのです。私は自分のよろいを脱いでそれを中国人に着せたかったのです。「自分はそのよろいでうまく行ったから、中国人もうまく行くに違いない」と考えたわけです。しかし、神は一人ひとりにユニークな戦い方を与えておられることを私は知るようになりました。
リバイバルの秘訣を牧師に聞いたとき返ってきた答えは、アメリカの教会で育った私の頭では理解できないものでした。でも神は私たちがいくら考えても絶対に理解できない大きな方であり、リバイバルのためには幾つもの道を備えておられる方なのです。
中国のキリスト教の歴史は長いですが、ほんの100年さかのぼると、ボクサー・リベリオン(反乱)というものがありました。アメリカやヨーロッパからの圧制者がアヘンをインドから中国に持ち込み、多くの中国人をアヘン中毒にしましたが、それに対して中国の国内からボクサーと呼ばれた人達が立ちあがり、外国人を追放しました。これに関しては歴史を調べればわかるのですが、人々が見落としていることがあります。それはボクサー・リベリオンが起こったとき、歴史上最多の数百人にも上る宣教師が殺害されたのです。この反乱は、すべての西欧の影響を追放し撲滅するというものでしたが、それだけではありませんでした。中国内でクリスチャンの数が増えてきたことに脅威を抱いた敵がいたのです。ボクサーと呼ばれた人達は悪霊が自分に取り付くように祈りました。それによって弾にあたっても死なないようになると信じていたからです。そして彼らが戦ったとき、悪霊は彼らが一つのグループに標的を当てるように指示したのです。クリスチャンです。彼らはキリスト教宣教師の家族を捜しだし、市中に連れてきて集団で殺害しました。数百人の宣教師が家族と共に惨殺されました。そして中国人でクリスチャンになった人達も同時に殺されました。中国からすべてのクリスチャンを抹殺するのが彼らの計画だったのです。少なくとも10万人の中国人クリスチャンが殺害されました。
それによってクリスチャンは根絶やしにされたかに思われたのですが、それと同じ1901年にカンサス州トピカの教会で、アグネス・オズモンドという婦人が、北米で始めて異言を語り始めました。3日間、彼女は英語を話すことができず、異言で中国語だけを話したのです。中国で多くのクリスチャンが惨殺されていたのと同じ時に世界で何かが起り始めたのです。それは誰にも説明ができないことです。
1904年にはウエールズ・リバイバル、1906年にはアズサストリート・リバイバルが起り、そしてそこから宣教師が送り出されました。そして殺害された宣教師の数を越える多くの宣教師が中国に派遣されました。何千人もの宣教師が船で中国に渡り、福音を語ったのです。
これを知ったとき、私は次の箇所を思いました。
第一サムエル21:9「祭司は言った。『あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。』ダビデは言った。『それは何よりです。(There is none like it. それに優るものはありません。)私にください。)』
敵がダビデを殺そうとして用いた剣が、今ダビデの武器となったのです。中国の教会を滅ぼそうとして遣わされたものが、キリストに栄光を与えるものとして用いられたのです。
アメリカやヨーロッパから中国に派遣された宣教師たちが、今中国で起こっているリバイバルのルーツなのです。私たちは先に遣わされた宣教師の肩の上に立っているのです。そして、現在の宣教師たちは、恵みを中国だけに留めておこうとは考えていません。彼らは福音を「10/40の窓」に運んでいます。それは2つの壁(中国の万里の長城とエルサレムの嘆きの壁)の間の国々のことです。この地域に世界人口の三分の二が住んでいます。世界で福音を聞いたことのない人達の十分の九が住んでいます。しかしこの地域の宣教のためにつぎ込まれているお金は非常に少ないのです。この地域が激しい暴動の中にあるのも不思議ではありません。中国のクリスチャンは「このような時のために」10/40の窓に福音を届けるために立てられていると信じています。
中国人はシルクロードを通って各地に行った歴史を持っています。今彼らはその道を用いて福音を持ち運んでいます。少なくとも10万人の宣教師がいろいろな国に送られていて、私はその働きを助けています。シルクロードは危険を伴っています。今中国のクリスチャンは大きな迫害にあっています。一時、ある地域では迫害は少なくなりましたが、最近は又大きくなってきています。中国だけではなく世界で迫害が激しくなっており、2016年には世界で少なくとも9万人が殉教していますが、これは現代では最大の数です。10/40の窓におけるクリスチャン迫害も大きくなっています。
現在の習近平主席は中国でのクリスチャンの影響力が強まっていることを警戒し、教会を迫害し始めました。去年の5月のことですが、政府は私の同労者である牧師の教会を破壊せよと命令しました。牧師夫妻は教会の前に立ち、ブルドーザーが会堂に進むのを阻止しようとしました。戸惑うブルドーザーのドライバーに対し、政府役人は牧師夫妻をそのまま生き埋めにするように命じました。夫の方は自分の上に被せられた土を除いて脱出することができましたが、妻はそのまま殉教したのです。しかし、その地域の伝道の熱意はますます強くなりました。
「I Stand With Christ」という本が1千万のメンバーを持つ教会の牧師によって昨年出版されましたが、私は彼に「どうしてあなたの教会はこれほど大きくなったのですか?」と質問しました。彼の答えは次のようなものでした。「最初は私の家族だけで聖書研究をしていました。私は逮捕され投獄されましたが、釈放されて家に帰ると新しい人々で家は一杯になっていました。私はまた逮捕されましたが、釈放されて帰ると村全体がクリスチャンになっていました。私はまた逮捕されましたが、釈放されて帰ると教会はまた大きくなっていたのです。ですから私が言えるのは、教会を大きくするためには牧師を牢屋に入れろということです。」(笑)
中国のクリスチャンを滅ぼすために敵がしたことが教会を爆発的に成長させたのです。習主席が去年「クリスチャンをコントロールせねばならない。」と言ったことにより、国内の迫害が激しくなっています。ところがどうでしょう、2016年に彼は「One Belt, One Road」という政策をそれまでより推進し始め、シルクロード上の国々との経済的関係を深めました。宣教師たちは勿論宣教師としては行けませんから、会社社長とかビジネスマンのビサでイラン、イラク、サウジアラビアに出かけています。中国政府は図らずも彼らの後押しをしてくれたのです。
私の家族は5代前にドイツから来ましたが、もっとさかのぼればイラクから来たのです。聖書の言葉を真実とするならば、私たちは皆イラク出身です。中国のクリスチャンは「私はイラク人です。」と言い始めました。彼らは外見はまったくイラク人には見えませんが、「私はイラク人です。私は福音をイラクに届けねばならないのです。」と言っています。そして私たちはイラクに行き、400人の学校を作りました。ISISから暴行をうけた少女たちの擁護をする施設も作り、中国人たちがお世話をしています。学校では中国人が英語を教えています。もし皆さんがイラクに行きジャッキー・チェンのような英語を話す人に出会ったら、彼らが誰から英語を習ったか分かります。(笑)
私たちは聖書をどのようにしてイラクの人々に届けられるかを考えました。手の平に入る非常に小型のEバイバルを開発しました。これは7年間チャージしなくても読み続けられるバイブルです。これをどのようにイラク人に手に渡すかを考えました。そしてドローンでこれを軍隊の上に飛ばして、そこから落下させることにしました。そしてそのために更に小さなコインほどの聖書を開発しました。手の上で揺すると聖書がホログラムとして出てくるのです。創世記から黙示録まで全部です。私も実物を見るまで信じられませんでした。電池もいらず、チャージも必要ではありません。
聖書が禁止されている場所にでも運ぶことができます。見つかってもそれが聖書であるとは、誰もわかりません。これが今中国の教会が失われた魂のためにしていることです。私たちの世代に世界のすべての人々に聖書を届けることが可能だと私は信じます。そして王の王なる方をお迎えすることが出来るのです。私はイラクから香港経由でアメリカに来ましたが、出発した時間より一時間前に到着しました。今私たちは素早く福音を広められる技術をもつ時代に住んでいるのです。迫害が迫ってきている今、後退するべき時ではなく、前進する時です。人類の歴史上、最も遠くに、最も素早く、最も深く進んでいける時なのです。(終り)
24 04月
イエスと同じ「栄光」
ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)
出エジプト33:18−20
すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
出エジプト34:5−7
主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に。」
モーセが「あなたの栄光を見せてください」と願ったとき、神は「わたしの栄光とはわたしの善(goodness)である」と言われました。これは私にとって衝撃的な言葉です。神はどのような栄光でも見せることができるにもかかわらず、「わたしの栄光はわたしの善であり、あわれみ深く、情け深いことである」と言われたのです。
私は5ヶ月前に急激な痛みに襲われました。
色々な検査をした結果、医師たちは胆のうの切除手術に踏切りました。そればかりか、私の内臓には他に色々な問題が発見され、それらの処置のため手術は予定より長時間にわたりました。
私が目を覚ました時に見たのは大勢の医者や看護士でしたが、その一人が「しばらくは辛いと思います。」と言いました。病室に戻りましたが、気持がひどく動揺し、私は泣き出してしまいました。痛みがあるだけでなく、一体何が起こっているのだろうという不安で一杯だったのです。妻の祈りによって少し落ち着きを取り戻しましたが、まだ心からの平安はありませんでした。
朝の3時ごろ、病室に主の臨在が訪れ、私を覆いました。「ああ、来てくださったのですね。本当に気持がいいです。主よ、私の状態はあまり良くないのです。助けてください。でもあなたが来てくださったのですからもう大丈夫ですね。」と私は言いました。主の臨在の中で私は幸福でした。すると主は私に一つの質問をされました。「ジョン、わたしと同じくらい情け深くなりたいですか?」私は出エジプトの箇所がずっと心にありましたので、「勿論です。そうなれたら本当にすばらしいです!」と答え、これは何と麗しい主の招きだろうかと思いました。しかし、続けて主が語られた言葉は厳しいものでした。「ジョン、そうなることを阻んでいる問題があなたにはあるのです。」と主は言って、私の人生の人間関係の中で正しくない点を一つひとつ列挙されたのです。私が不安から正しくない動機で行動したこと、私の忍耐不足が周りの人に与えた悪影響、私の勝手なゴールが主のゴールを邪魔していること等を主は話されました。
そして「ジョン、それは正しいことではありません。 It is not right.」と言われたのです。
朝、医者が病室に来て「あなたは非常に病んでいたのに、それを知らないで過ごしていたのです。」と言いました。胆のうが化膿して、それが肝臓や膵臓に広がっていたので、すべてを清浄し抗生物質で処置せねばならなかったということでした。私の内臓がひどい状態であり、重く病んでいたにもかかわらず、痛みが来るまで私は全く知らなかったのです!
主は、それと同じように「正しくないこと」が私の内面に満ちていたにもかかわらず、私がその事に一つも気付いていなかったことを、今示してくださったのです。「あなたは自分で思うよりもずっと病んでいるのです。」と。そして一つひとつの人間関係における私の過ちを指し示し、「ジョン、正しなさい。
直しなさい。」と言われたのです。「わたしと同じように情け深くなるためには、それらが妨害しているからです。」と。
主に自分の間違っているところを指摘されるのが、どれほど苦痛であるのか、どれほど圧倒されることであるかをお伝えする言葉があれば...と思います。主に言い返す言葉はありません。主の見解が正しいのです。主は私の間違いをはっきりと示されました。本当に苦しかったです。聖書には主は愛されるものを訓練される、私たちは息子であるからこそ、御父から訓戒される、とあります。今振り返ってみれば、「主よ、感謝します」と言う事ができますが、その時私は本当に打ちのめされてしまいました。
その時主がやさしく「恵み、恵み」と言われたのです。このゼカリヤ4:7の言葉は「心配しなくていい。万事うまくいくよ。」ということではありません。恵みとは神のいのちと力であり、私たちが自分の召しにふさわしい者となり、任務を遂行できるように助けるものです。主は「あなたはこのままではいけない。変らねばならない。でもわたしは助けるよ。」と言われたのです。
主は私が修復すべき人間関係を一つひとつ示されました。そのうち二つだけをお話しします。
ここ(カンサスIHOP)で一緒に仕事をしているトレイシーさんとの関係がうまく行かなくなっていました。私は立派なクリスチャンですから、ほとんどは彼女の責任だと思っていました。(笑)今は笑うことが出来ますが、主がそれを示された時は、私は「ああ、何ていう事だ..」と驚き心を刺されました。主は「彼女との関係を正しくしなければいけません。わたしはあの女の人を愛しています。
あなたの彼女の取り扱い方は、わたしにとって『それでよい』とは言えません。
あなたは彼女と働き始めたとき、自分のゴールややり方を押しつけ、あたかも彼女があなたにとって邪魔者であるかのように感じていました。」と言われました。
私がトレイシーさんのところに行って謝るのは簡単ではありませんでした。でも私は彼女にすべてを話し、赦しを乞い、主が「わたしはあの女の人を愛している」というパワフルな言葉を告げねばなりません。あなたとうまく行っていない人を主がどれほど愛しておられるかを知るのはとても大切です。そして、私はトレーシーさんと過去2年間のことを泣きながら話しました。
主が「ジョン、わたしは善であり、あわれみ深く、情け深い主です。わたしはあなたを赦します。あなたがわたしと同じくらい情け深くなることを願っています。」と言われました。
主が示された事のもう一つは私とヴィンヤード教会との関係でした。12年前に私はヴィンヤードを出たのですが、その去り方を主は「正しくなかった。」と言われました。その教会で問題が起きたとき、私は「自分はあくまでも正しい」という態度で通し、最終的に教会を去り、「それでよかった、自分に落ち度はなかった」と思っていました。しかし、主は「その時のあなたの心の動きをわたしは『それでよい It’s O.K.』とは言えません。主任牧師夫妻に会って謝りなさい。」と言われたのです。
ですから私はヴィンヤード教会に出かけて行きました。もう10年以上も会っていない人達でした。一体相手はどう思うだろうか、どういう反応をするだろうか、と不安でした。トレイシーさんは私が話したとき、大変情け深く対応してくれたので、勇気づけられてはいましたが、今度はどうか分かりません。主は「わたしはあなたをわたしのようになるように招いています。でもそのためには、わたしにとって『そのままではよくないこと It’s not O.K.』をなくさねばなりません。それが問題であることをあなたは認めねばなりません。わたしは恵みをもってあなたを助けます。」と言われているのです。そして私が主に従って彼らに会ったとき、主はそれをすばらしいものとしてくださいました。
ヨハネ17:22−23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」
「あなたがわたしに下さった栄光」という言葉に私は打たれました。「栄光」とはなんでしょうか。神はイエスにどのような栄光を与えられたのでしょうか。先の出エジプト記の箇所から、私たちはそれが「善、憐れみ深さ、情け深さ、恵みとまこと、人を赦すこと」であると学びました。神はそれと同じ栄光を私たちに与えたいと願っておられるのです。私たちがその栄光をまとって歩むとき、世の人々は私たちを見て「一体何が起こっているのだろう。彼らの関係は何と麗しいのだろう。
どうしてあんなに一致できるのだろう。」と私たちの周りに引き寄せられてくるのです。私たちが主が望まれたように「一つ」になるためには、どのように変らねばならないのでしょうか。
「栄光」と言うと、私たちはしるし、不思議、奇蹟の中を歩むことだと思い勝ちです。天使の羽根や金粉が落ちてくることだと思うのです。しかしイエスが願われることは、私たちが善をもって、憐れみ深く、情け深く、人を赦して歩むことであり、それこそが「イエスと同じ栄光」であり、主はそのお手本を示してくださいました。主が私たちを取り扱われるときに、いかに「栄光」に満ちておられるか、即ち、いかに恵み深く、憐れみ深いかを見てください。そのような主を見上げるとき、私たちの心は感動し、変えられます。
プライド、赦さない思い、自分の目標や動機は絶対正しいという思いを、私たちはすぐ抱いてしまいます。その時、主は「私の意見はそれとは違います。」と言われるのです。
私たちはみんな「自分の意見」を持っています。しかし「主の意見」の前ではそれは何の価値もないのです。「主の意見」だけが重要であり、それはほとんどの場合「私の意見」とは劇的に違うのです。
どうか皆さんも自分の人間関係でひずみがあるところを調べてください。そして「主よ、これに関してあなたのご意見、お考えはどうでしょうか?」と尋ねてみてください。主は恵みをもって、あなたを助けてくださいます。
「恵み、恵み」と聞くと、ある人々は、「私たちはすでにイエスの血潮で赦されているのだから、何をしても赦されるし、このままで受け入れられている。」と言います。しかし主は「そのままではよくない。It is not OK」と言われます。家族に関していえば、私は結婚して38年ですが、妻はすばらしい人であり、結婚生活は非常にうまく行っています。しかし主は時々私の妻の取り扱い方がよくないと言われました。また子どもが5人いて、互いに愛し合っていますが、彼らとの関係においても私が変るべきところがあると主は言われます。更に、私たちの霊の家族であるアメリカの、そして世界中のキリストのからだの人たちとの関係においても、今こそ「イエスが持っておられるのと同じ栄光」を表して行く時です。
「憐れみ深い」というのは、人の間違っているところに目をつぶって「いいよ、いいよ。」ということではありません。聖書はそうは言っていません。でも人を訓戒するときに、どのような心で、どのような言葉、どのような態度でするかが鍵なのです。誰かを訓戒しなければならない時に「情け深くある」ことは、非常に難しいことです。そんな時私たちはイライラし、心の中で「これは絶対悪いことだ、問題はこの人にある、それを伝えねばならない、しかし彼はそれがわからない、もっと大声で言わねばならない、語気を強めねばならない」とエスカートするのです。でも主は「違う!憐れみ深くありなさい!」と言われます。
今世界が混乱し、人々の心がすさんでいるとき、私たちは「主の栄光」を表していかねばなりません。主は「わたしが助けます。恵みあれ、恵みあれ。」と言ってくださいます。(終り)
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