Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
27 03月
ハバカク書に書かれた危機 Habkkuk’s Crisis
ICEJ会長 ユルゲン・ビューラ
International Christian Embassy Jerusalem
世界的なパンデミックは、経済だけでなく、信者としての礼拝や交わりのあり方にも影響を与えています。2020年のアメリカの選挙は、アメリカを新たな道に導いたように見えますが、それはすでに、アメリカと西欧世界が設立されたユダヤ・キリスト教の価値観を脅かしているようにも見え、多くの人が「この中で神はどこにいるのか」と問いかけています。特に、アメリカの選挙で多くの人が異なる結果を求めて祈り、さらに多くの人がコロナ・パンデミックの終息を求めて執り成していることから、そのように感じています。
私にとって、ハバクク書はかつてないほど今日的な意味を持っています。預言者ハバククは、世界を理解できない時代に生きていました。そして何よりも、神を理解できない時代に生きていたのです。この記事をお読みになる際には、ハバクク書全体を祈りながら読み、聖書を用意しておくことをお勧めします。今日、私たちの多くが共感できる預言書の3つの章をご紹介しましょう。
ハバクク書は、ヘブライ語聖書の他の預言書とは異なります。預言者ハバカクは、イスラエルに向けられたメッセージを受け取ったのではなく、悩める神の人と創造主とのごく個人的な対話をしているのです。
ハバククの危機
冒頭(ハバクク1:2-4)から、ハバククは神に向かって不満を訴えます。”どれだけ助けを求めても、あなたは聞いてくださらないのですか” 預言者は単刀直入に言います。主よ、私の祈りは答えられません。また、不正が蔓延し、争いや対立が絶えない状況を、神はただ見ているだけだと感じています。彼は、神の民と律法が麻痺し(4節)、この地での影響力を失っているのを見ていて、正義の代わりに、不正と暴力が支配しているのを見ています。
神の最初の応答
神の反応(1:5-11節)は、神の人が期待していたものとは明らかに違っていました。神は彼に、これからイスラエルだけでなく、国々の間で起こることを観察するように指示しました。”私はバビロン人(カルデラ人)を…あの冷酷で気性の荒い人々を起こす」(1:6)。彼らは行く先々で破壊し、捕虜にするためにやってくる。つまり、神は彼に言われたのです。”今が悪いと思っているのか?待っていなさい、これからもっと悪くなる。…. 私はその真っ只中にいる」と言われたのです。
実際、神はハバククに言われました。”わたしは、あなたが言われても信じないようなことを、あなたの時代に行っている(ハバクク1:5)。”
神の人
一歩下がって、ハバククがどのような人物であったかを見てみましょう。彼は、週に一度、わざわざ教会に行って宗教上の義務を果たすような、普通の日曜日の教会通いをする人ではありませんでした。彼は、自分の祈りがすぐに答えられないことに不満を持つ人ではありませんでした。私たちは、古代の偉大な神の人の一人を扱っているのです。ハバククは、聖書に書かれた数少ない人物の一人です。彼の「正しい人は信仰によって生きる」(2:4)という宣言は、新約聖書で最も引用される旧約聖書の箇所の一つです。彼は祈りの人であり、彼の時代にはほとんどいなかったように、神の声を聞いていました(彼はエレミヤの同胞でした)。
この稀有な神の人こそ、自分の祈りが答えられないことを目の当たりにしたのである。彼の「いつまで泣いていようか」(1節)は、イスラエルのリバイバルのために何年も祈っていたにもかかわらず、何も起こらなかったという絶望感です。そして正直なところ、それは現代の多くの親愛なる神の男性と女性の状況かもしれません。彼らは何十年もの間、次のリバイバルを期待し、祈ってきました。実のところ、アズサ・ストリートやウェールズのリバイバル、ウェスリアンやピエティストのリバイバルのようなリバイバルが、多くの西洋諸国で見られなくなって久しいのです。”How long” は、今日の多くの信者の叫びかもしれません。
そして、預言者に対する神の応答はさらに不可解でした。”言っても信じないだろう!” 最近、新しい預言者の声の一つが聞かれたのを覚えています。世界的なパンデミックを預言した預言者たちはどこにいたのか?” その女性は、真摯に答えていました。”その女性は、「世界的なパンデミックが起こると神様に言われても、私は信じなかったでしょう」と真摯に答えていました。私は彼女の正直な気持ちに心を打たれました。
今日、多くの人々が預言者の役割を疑問視しています。特に、先日のアメリカの選挙では、多くの預言者がトランプ氏の2期目の勝利を預言していました。ハバカクのように、自分たちの愛する国にこのような劇的な変化が起こるとは信じていなかったことでしょう。後から見ると、彼らを批判するのは簡単です。しかし、彼らの多くを個人的に知っている私は、彼らがハバククのように、アメリカの復興を最も望んでいたことを知っています。彼らは、私やイスラエルの多くの人々と同じように、ドナルド・トランプ氏がもう一期、イスラエルを強化し続け、アメリカだけでなく他の国々でもキリスト教の価値観を強化してくれることを願っていました。
ハバククの第三の応答
しかし、神の返事の後、ハバククはさらに動揺しました。異教徒のバビロン人が神の民を裁くことが許されるのか?これは、彼にとって非常に不愉快なことでした。”悪人が自分よりも正しい者を飲み込んでいるのに、なぜあなたは黙っているのですか」と預言者は問いかけました(1:13)。
しかし、その後、ハバククはある決断をしました。それは、預言者にとっても、彼のメッセージ全体の見通しとトーンにとっても、画期的なものとなりました。
見張り塔
ハバククは、自分が今、神からの言葉を切実に必要としていることを認識していました。古いパラダイムや概念はもはや通用しないことを理解していました。焦点は、神に尋ねることから、神から聞くことに移ったのです。
神は今も語りかけていますが、私たちは、神が今の世界で行っている新しいことを聞くために、心の方向を変える必要があるのかもしれません。聖書には、世界に困難な時代が訪れるという記述がたくさんあることを、私たちは覚えておく必要があります。不法行為が増え、主は地震や戦争、さらには疫病を通して世界を裁かれ、最終的には世界的に仕組まれた聖徒戦争さえも起こるでしょう。先のことはわかりませんが、私たちは西洋の教会にとってより困難な状況になる新しい季節に入っているのかもしれません。しかし、私たちが神に近づき、神の顔を求めるとき、神は私たちに近づき、私たちの嘆願に答えてくださると約束されているのです。
ハバククは、いつものように祈るのではなく、自分の時代のための神の洞察を受けるために、見張り台に上がりました。私たちは、2020年の変化の多くが元に戻らないものであることを認識する必要があります。これまでうまくいっていたことが、今日、あるいは明日にはうまくいかないかもしれません。今こそ、私たち一人一人が自分の監視塔に登り、かつてないほどに主に祈ることが求められているのです。
光の家 ライトハウス
ハバククが耳を傾けると、神は彼に語りかけました。神の新しい啓示は、預言者の視点を変えました。神はご自分の目的を変えられたのではなく、神がどのように世界を見ておられるかを預言者に分かるようにされたのです。主は預言者に、自分に伝えようとしていることを他の人が読めるように分かりやすく書き記すように言われました(2:2)。つまり、神は彼に自分の疑問に対する答えだけではなく、彼が聞いたことが他の人にも役立つことを教えてくださったのです。ハバククの祈りの見張り塔は、他の人々を導く灯台となりました。神は、イサカルの子らのように、激動の時代に彼を用いられました(1歴代12:32)。このユニークな部族は、自分たちが生きている時代や季節を理解し、また自分たちがすべきことを知っていました。その結果、人々は彼らの命令に従うことになりました。神は今日、このような灯台のような人々、つまり、この嵐の時代に希望と方向性を与えることのできる人々を探しておられます。
正しい人は信仰によって生きる
同時に、神はハバククにご自身の不動の目的を確認されました。”幻・ビジョンは定められた時を待ち、終わりに向かって急ぐ。遅いと思えば、それを待ちなさい。それは必ず来る。遅れることはない。…. しかし、正しい人はその信仰によって生きる。” (ハバクク2:3-4)
揺り動かしは必ず来る、と神はおっしゃいましたが、それでも義人は信仰によって生きるのです。 この困難な時代に私たちに最も必要な資質は信仰です。今の時代の混乱やチャレンジによって、あなたの信仰が奪われないようにしましょう。私たちの周りが混沌としているにもかかわらず、神は御座に座っておられます。これは、イスラエルの偉大な王の一人が悲劇的な死を遂げたとき、イザヤが見た光景です。彼は、主が御座に着き、その衣の列が神殿を満たしているのを見ました(イザヤ6:1)。
あるいは、預言者ダニエルの言葉に置き換えると、死に直面し、バビロンのすべての賢者や魔術師が知恵の限りを尽くしたとき、ダニエルは信仰に満ちて、…「しかし、天には神がおられる!」と宣言しました。ダニエル2:28)混乱の中、経済的苦難の中、そしてすべての答えのない疑問の中では、イエス・キリストへの信仰こそが私たちを支えてくれるという意味です。義人は信仰によって生きるのです!
神はまだ働いておられる
最後に、神は信じられなくなっていたハバククに確信を与えました。裁きと混乱の中にあっても、神の人類に対する救いの目的は継続しています。闇を突き破る力強い光のように、神は告げます。”水が海を覆うように、地は主の栄光を知ることで満たされるからだ」。ハバクク2:14)これは単なる未来の神学的、預言的な記述ではなく、神の救いの目的に積極的に参加するように神が招いているのです。
ハバククの新たな信仰
預言者ハバククの最初の反応は、神の御心を受け入れることでした。”あなたの報告を聞きました(3:2)”。それでも彼は気に入らず、恐れとおののきに満ちていました(3:2+16)。しかし、彼は神が働いておられることを見ることができました。彼は疫病やパンデミックが「神のかかと(うしろ)」にあるのを見て(3:5)、主が地を訪れるようになって高い所が揺らいだのです。しかし、ハバククは、主はご自分の民を滅ぼすためではなく、救いの戦車に乗って来られたこと(3:8)、神は “油を注がれたご自分の民の救いのために出て行かれたこと(3:13)”を理解していました。
ここ数十年で最も偉大なリバイバルが起こったのは、西欧の民主的で自由市場の国ではなく、ラテンアメリカやアフリカ、そして中国やイランのような場所、さらに最近では激動のアラブ世界など、いまだに貧困と戦っている発展途上国であることを考えさせられます。
先日、毎週開催されている「グローバル祈祷会」の中で、フィリピン支部長のスティーブン・ミルプリ牧師から素晴らしい証しを聞きました。去年の11月から12月にかけて、私たちは彼の地域が台風で壊滅的な被害を受けた後、その地域のために祈りました。村全体が完全に水没し、多くの人々がすべてを失いました。多くの人々がすべてを失いました。しかし、彼はこの被災地でリバイバルが起こり、彼の教会だけで3000人以上の人々がイエス様を主と救い主として受け入れたことを報告してくれました。
神様は不思議な方法で働かれます。しかし、神は働かれるのです。 ですから、ハバククは困難な時代の中で、神の信仰を受けました。彼のイスラエルのリバイバルへの渇望は消えるどころか、むしろ強められました。”主よ、私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたの御わざを恐れます。この年のうちにそれをくり返し、この年のうちにそれを示し、激しい怒りの中でもあわれみを忘れないでください。” (ハバクク3:2)
もしかしたら、西欧の教会にとって最高の時は、これから起こるのかもしれません。主の働きは、いかなる地上の政府にも依存しません。パンデミックと大きな政治的変化の中で、ハバククの祈りを私たちの祈りとしようではありませんか。主よ、あなたの働きを復活させ、お怒りの中でも憐れみを思い出してください。
ハバククの態度は、冒頭の一見正当な不満とは違っていました。彼は、聖書の中でも最も深い信仰の表明をすることができました。”いちじくの木に花が咲かなくても、ぶどうの木に実がならなくても、オリーブの実がならなくても、畑に食べ物がなくても、羊が群れから切り離されても、家畜小屋に牛がいなくても、私は主を喜び、私の救いの神を喜びます。(ハバクク3:17ff)
彼の信仰と喜びは、もはや状況に左右されません。主がご支配されているのを見たからです。 自分の失望や理解不足、さらには揺らぐ信仰に絶望しないでください。ハバククのような偉大な神の人でさえ、自分が生きていた時代に苦しんでいたことを思い出してください。苦しんでいた預言者のこの本は、私たちが主の前で訴えれば、主は本当に答えてくださると招いているのです。
最後に、ハバククはもう一つの深い言葉を残し、これが彼の本の終わり方です。
“主である神は私の力であり、私の足を鹿のようにし、高い所を踏ませてくださる。” (ハバクク3:19, ESV)
混沌と揺れ動きは、ハバククにとっては勝利の領域となりました。神はその御力で彼を強め、”高い所 “を踏む “鹿のような足 “を与えられたのです。
覚えておいてください。私たちが見張り塔を管理することで、主はそれを他の人のための灯台に変えてくださるかもしれません。そして、最も重要なことは、主を信じ続けることです。「正しい者は信仰によって生きる」のですから。(終わり)
22 02月
ゴリアテには兄弟がいた
フランシス・フランジペン
次のような状況を思い浮かべて下さい。あなたは、病気や抑圧、またはそれと似た困難と戦っています。 あなたが神を求めると、何らかの方法で神の恵みがあなたの人生に触れます。あなたの勝利は、言葉や祈り、又は励ましの言葉によってもたらされたかもしれません。でもあなたは、はっきりと主が自分を解放して下さったことを知っています。神の恵みの五つの滑らかな石を使って、ゴリアテを倒したのです。
しかし、数週間後とか、数ヶ月後、あるいは数年後に、すべての古い症状が、急に復讐しに来たかのように戻ってきました。或いは、もしあなたが病気で苦しんでいたなら、それがもっとひどい状態になる、或いは、人間関係や特定の罪と戦っていたのなら、そのすべての成果がすべて失われたかのように、あなたは振り出しに戻ってしまう。
そんな経験をされたことはありませんか?このようなネガティブな経験は、あなたの心からの信仰を奪い取ってしまいます。信仰の力と期待する力を失ってしまい、霊的麻痺により魂は固まってしまいます。教会にはまだ通っているかもしれませんが、信仰はまったく反応しなくなっています。他の人が病から解放されたという証しをすると、彼らもまた「癒しを失う」のではないかと密かに心配してしまうと疑うのです。
多くの人にとって,そのような結果をもたらすのは、信仰を揺るがす「幻滅感」です。聖書には「期待が長びくと心は病む。」(箴言13:12)と書かれています。この「心の病」は,主との歩みを妨げる霊的な病気です。「信仰は望んでいる事がらを保証する」ものでしたよね?もしあなたが望みを失ったら、あなたの信仰は空洞のようになります。神に失望させられたと思うような時、どのようにして神を信頼することができるでしょうか?あなたは、得ていた「打ち破り」を失ってしまったのだろうか?とか、「自分は惑わされていただけで、実際には打ち破りではなかったのか?」と疑ってしまう。
親愛なる兄弟姉妹、あなたが経験しているのは、神の祝福を失ったことではなく、全く新しい霊的な戦いである可能性が高いのです。この新しい戦いは、神に解放された人たちの人生に再び潜り込もうとサタンが使う、非常に巧妙で効果的な偽りです。
この繰り返し起こる戦いについて祈っていると、「ゴリアテには兄弟がいた」と、聖霊が私の心に語りかけて下さいました。私はすぐに、ペリシテ人の巨人とのダビデの戦いを思い出しました。私たちは皆、ダビデが神を信頼してゴリアテを打ち負かし、偉大な英雄になったことを知っています。しかし、2サムエル記21章を見ると、状況が変わっているのです。
「ペリシテ人はまた、イスラエルに戦いをしかけた。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。それで、ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノブは、ダビデを殺そうと考えた・・・しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。」(2サムエル21:15-17)。
ダビデが子供の頃にゴリアテを倒した数年後、王となった後、彼は他の巨人に立ち向かわなければなりませんでした。事実、第一歴代誌20:5には、ダビデと戦っていたうちの少なくとも一人は「ゴリアテの弟」で、四人は彼の子供たちであったと書かれています(2サムエル21:22)。これらの巨人はゴリアテの親族で、ゴリアテに似ていて、彼と同じように高ぶっていて、同じような服を着ていて、おそらく同じような臭いさえしていたと想像できます。聖書には、ゴリアテの子孫の一人と戦っているときに、「ダビデは疲れていた」(第二サムエル21:15)と書かれています。でも巨人たちと戦っていたとき、王の頭の中にどんな思いがよぎっていたのかについては沈黙しています。おそらく「ゴリアテは殺したはずなのに、どうして戻ってきたんだ。」と思っていたのではないでしょうか。 しかしゴリアテは戻ってきていませんでした。 死んだのです!ダビデは実際には巨人の親族と戦っていたのです。 同じ戦いに見えただけです!
同じように、あなたも多くの勝利を収めています。今直面している巨人が、過去に倒したものに似ているからといって、最初の戦いで実は勝利をおさめていなかったという嘘を受け入れてはいけません!神の恵みの力によって、あなたは全能者を信頼し、自分のゴリアテを征服したのです。 最初の巨人は死んだのです。 サタンはかつての敵のように見せかけて、信仰の盾をすり抜け、再びあなたの人生への入りこもうとしているのです。拒絶してください。あなたは解放されていなかったという嘘を受け入れてはいけません。
信仰に立ってください。「私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です」(第一ヨハネ5:4)。ゴリアテを倒すのを助けてくださった生ける神は、 彼の兄弟を倒すためにも力を与えて下さいます。
父よ、あなたのしもべとしてあなたのもとに来ます。ダビデのように、倒したと思っていた敵との戦いで私も疲れていました。しかしあなたの聖霊の力によって、これが私が前に倒した同じ敵であるという偽りを暴きます。イエスの御名によって、敵をしかりつけます。主よ、イエスがたびたび御使いによって強められたように、私にも御使いを遣わし超自然に強めてください。主の御名において、アーメン。(終わり)
15 02月
プレイズとワーシップの違い
スコット•フィリップス
プレイズ(賛美)とワーシップの間にある大きな違いを理解することは大変重要なことです。
そこでまずプレイズについて次の3点を説明したいと思います。
1. プレイズは自然なもの
これは多くの箇所で聖書が明確に語っていることですが、自然界のものは、唯一まことの神を生き生きと喜んで共に賛美しています。
詩篇96:11−12「天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは、鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」
すべての被造物は、地上で行われている創造主への絶え間ない賛美に参加しているのです。バラの花、草の葉の露、或はふくろうの鳴き声や牛のモーという声さえも、すべての自然界は創造主を賛美していると言っても過言ではありません。朝の小鳥のさえずりや夕べのコオロギの鳴き声の中には美しいメロディーがあります。それは神が創造された全てのものの賛美の大合唱に合わせて歌っているのです。
2.プレイズはすべての者が必ずすることである
エルサレムに入城されたイエスを群衆は喜んでむかえ賛美しました。主は彼らをしずめるようにと命じられましたが、それに対して主は「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」と答えられました。それは賛美は止むことはなく、必ず続けられることを示しています。天の軍勢も自然界も常に賛美しているからです。
聖書は「すべてのものはひざをかがめ、すべての口が『イエスは主である』と告白する!」(ピリピ2:10−11)と言っています。そのような日がいつか必ず来るのです。ですからあなたは今主を賛美するか、それとも後になってから賛美するかのどちらかですが、いずれにせよ必ずイエスを賛美するのです。
3.プレイズするのに才能はいらない
賛美は自然であり誰もがするべきものですから、賛美をするために何の才能や徳は必要ではないことがわかります。賛美をする理由は数えきれないほどあります。健康や富や知恵を神から与えられていることを感謝し、賛美します。家や家族や必要な物を与えられていること、癒し、守られていることに関して神を賛美します。私たちは主がしてくださっていることを感謝し賛美するのです。
ワーシップとは何か
次にワーシップについて考えて見ましょう。誰であってもすべての人は、意図的に、あるいは無意識であっても神をワーシップしています。しかしながら、ワーシップは軟弱な人のものではありません。ワーシップはプレイズ(賛美)とは全く異なるものです。聖書で最初にこの言葉が用いられたのは次の箇所ですが、「言葉はそれが聖書の中で最初に用いられたときの状況がその意味を最もよく表しているという法則(the Law of First Reference)」によるならば、私たちはこの箇所からワーシップの意味を深く知ることができると思います。
創世記22:1−5
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出掛けて行った。三日目にアブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたはろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝(worship)をして、あなたがたのところに戻ってくる。」と言った。
ワーシップは決して一面的なものではなく、多くの側面を持ち、いくつかの事を含んでいることを理解してください。
真のワーシップの 三 つの側面
1.真のワーシップは「降服 Surrender」の行為
アブラハムが旅に出たとき、彼は自分の希望、信仰、夢をすべて神の御こころと御手に委ねて降服することを決意して出かけたのです。
2.真のワーシップは「服従 Obedience」の行為
神から命令を受けたとき、アブラハムは何一つ疑いや不平なしに、その命令は果たす為の準備に着手しました。これは私たちには簡単なことではないかもしれません。多分ぶつぶつと不平を言うかもしれません。しかし、私たちが「絶対的服従」という境地に到達するならば、その時私たちは「ワーシップ」の領域に入っていけるのです。
3.真のワーシップは「犠牲 Sacrifice」の行為
犠牲はワーシップを完成させる重要な部分です。犠牲のないワーシップはワーシップではありません。
ワーシップに必要なもの
アブラハムは旅に出るとき、3つのものを持っていきました。真のワーシップをなすためには、
私たちは正しい材料を用意し携えて行かねばなりません。
1.薪
すでに死んでいるもの、火がつきやすいもの、燃えてしまうもの。それはいろいろな問題や疑いなどで、すでに死んでいるもののことです。誰でもそのような薪をもっています。もしあなたが神のために生きていると言うならば、火を燃やすに充分なたきぎを集めることができるはずです。
2.火
熱いもの、光があるもの、死んだものとその中の死ぬべきなのにまだ生きているものを焼き尽くすもの。火はそれに触れるのものすべての分子構造を変えます。あなたの薪に火を近づけると、まだ生きているものを取り扱い燃え尽くす環境を作りだすことができます。
3.刀
ワーシップが始るのはここからです。誰でも火はおこせますが、犠牲のないワーシップはただの野外料理です。私たちがすべてのものを捧げて祭壇に置くならば、その時、神が私たちの人生ともっと豊かにかかわってくださるのです。
「すでに死んだもの」をキチンと整理すれば、火を燃やし始めることができます。そしてそれは、神が求められる「まだ生きているもの」の上に刀を振り上げる時がきたのです。あなたが賛美を超えて神の臨在の中に喜んで入っていくワーシップをするとき、神は約束するだけではなく、断言して誓ってくださるのです。あなたはただ歌を歌うこと超えて神の臨在の中に喜んで入ってワーシップするときです。あなたが賛美よりも歌よりももっと深く入っていこうと願うとき、想像をこえる神の祝福をあなたは見るのです。(創世記22:6−7)
ワーシップは人類に与えられた究極の特権です。御父が求められるのはまことのワーシップであり、天使も願うことですが、そこはあなただけが行く事ができる領域なのです。あなたには他の誰にも歌えない歌があるのです。あなたは他の誰にもない捧げものがあるのです。あなたには他のだれにも輝かすことのできない光を持っているのです。
肉のヴェールを超えるとき、聖霊の富と栄光があなたを待っているのです。(終わり)
29 01月
神の王国 リック・ジョイナー
Word for the Week 4
ダニエル2章では、ネブカドネザル王が見た夢が語られています。夢の最後に、小さな石がこの像の足元にぶつかり、崩れてしまいます。小さな石はその後、山に成長し、それが全体の地球を覆うまで成長し続けます。これは、今の時代に歴史がどのように展開するかを正確に預言したものです。この時代の終わりには、人間の帝国はすべて崩れ落ちますが、神の国は小さな石から始まって、山に成長し、地球全体を覆うまで成長し続けます。
聖書の中では、山はしばしば政府・政権を表しています。私たちは今、人間が築いた数々の帝国の土台をすべて石が打ち砕く時に来ていますが、その土台が崩れ始めています。それと同時に、神の国は政府へと成長し、地全体を覆うまでに大きく広がっていくでしょう。
私たちが政府・政権について考えるとき、私たちは首都、政府の業務が行われる建物のインフラ、軍隊、政府の権威を守り、維持するための法執行機関などを思い浮かべます。私たちは、最終的に地上の神の国の首都が新エルサレムになることを知っています。しかし、それが政府に成長する時期には、人の政府とは大きく異なるものになるので、その一部になるためには、私たちが理解しなければなりません。
神の国が人間の政府とは異なる第一の、そしておそらく最も重要な違いは、神の政府は、人間の心の中に築かれているということであって、建物や機関、官僚機構ではないということです。
それは主がルカ17:20-21で述べられているように
「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある。』と言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
歴史家のウィル・デュラントは、「シーザーは、機構組織を変えることによって人間を変えようとしたが、イエスは人間を変えることによって機構組織を変えた」と述べています。イエスの復活からイエスの再臨までの全時代は、本質的には二つのことについてです。
一つは、イエス様と共に統治するために召された人たちを(霊的)訓練すること、二つ目は、その訓練を受けた人たちが、実際にイエス様と共に王国を統治する準備に入ること、この二つです。
人間として神から元々与えられた能力を、その人の努力によりたとえ実ったとしても、自分勝手に自分の道を進むか、あるいは、神と共に神の王国に仕えるかは大違いです。
すべての問題、すべての大災害、すべての病気、そして今地球が苦しんでいるすべての不和は、人間が、神が意図した「私たちと神との関係」から切り離された結果から起こったことであるのです。
これらすべての問題を解決するには、神に立ち返り、すべてを神の方法で行うことを決意しなければなりません。そのためには、私たちが神ご自身と親密な関係になって、真に神を知り、そして神の道を知り、それに忠実に従うこと、すべてにおいて神の御心を実行しようとすることが絶対に必要です。
それが主の方法であり、主が創造主としてご自分の姿に似せて私たち人間を造られたとき(創世記1:26)に私たちに与えられた創造能力を許容するために、権限をご自分の人々に委譲することなのです。だからこそ、主はすべてのことに命令を出されるのではなく、ほとんどのことにおいて、私たちがこの人生の問題を解決していく中で、信仰と知恵の中で成長していくことを可能にしてくださるのです。堕落の原因が主に対する信頼の欠如であったように、主は私たちが主に知恵を求め、主に対する信頼を深めていくことを望んでおられます。
そうであっても、私たちの神との関係にとって最も基本的なことは、私たちが神のために何ができるかということではなく、神との「リレーションシップ」です。統治のための訓練も大切ですが、それ以上に神にとって大切なのは、私たちが家族であるということです。そのためには,父としての神との関係,兄弟姉妹としての神との関係の中で成長していくことが必要です。この二つの関係こそが,わたしたちが召されている姿になるための鍵であることはご存知の通りです。
わたしたちは主の御心を行うためにここにいますが,「何をするか」と同じくらい重要なのは,「何になるか」ということです。わたしたちの目標は,常に主のようになり,主がなさった御業を行うことです。わたしたちがこれらの業を行うのは,やはり主がわたしたちを通して業を行っておられるからです。このためにイエス様が使われた言葉は「実を結ぶ」ということです。イエス様がヨハネ15章で説明されているように、私たちは主に留まることによって実を結びます。りんごの木の枝は、一日にたくさんのりんごを出すために無理をする必要はありません。リンゴの木に正しく接続されていれば、リンゴはやってくるのです。
わたしたちが実を結ぶのは,神のご性質の中で神のようになることであっても,神の業を行うことであっても,神と一緒に歩むときに実を結ぶことになります。主に近づき,主に完全にとどまるようになれば,より多くの実を結ぶようになります。(終わり)
30 11月
主の臨在の中で一日を生きるには
ポール•キース•デイビス & ブラッド・マクレンドン対談 WhiteDove Ministries Webinar #34より抜粋)
坂 達 也
お二人の対談に入る前に一言前置きをさせていただきます。ヘブル書の4:3に「みわざは創世の初めからもう終わっているのです。」と書かれています。そして続く4:10で「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とも書かれています。
私はこの御言葉は本当に凄い、これが真の「創造者の神」の創造なのだと思うと興奮して身震いがします。
と言うことは、今これを読んでおられる皆さんの一生も、私自身の一生も、既にこの世が造られるずっと前にその筋書きもシナリオもすべてが造り終えておられるのです。(デステニー)
と言うのは、最初の人間が造られてから既に6千年(6日間)が経ち、7日目に入った終末の時代に生きる私たちは、自分勝手に自分の考えだけで生きるのを止めて(自分のわざを終えて)一切を神に委ねた、神の安息に入った生き方をしているはずであるからです。
もう一つ、この世を真に理解するために「最も基本的な真理」を一つだけ挙げなさいと言われれば、私は迷うことなくこう申し上げます。「私たち人間は、創造主の神に頼らなければ、自分たちだけでは、すべてのことにおいて、何も満足にはできないように造られている。」と。私たちはこの真理をはっきり認識しなければならないのです。
そして最後に付け足すとすれば、私は、今度のコロナウイルスのパンデミックは、特にクリスチャンにとっては、そのためのヘブル書四章のテストであるという気がしてなりません。それでは以降、お二人の対談に入って頂きます。
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ポール•キース•デイビス(PK):ブラッドさん、あなたは主の臨在の中に留まるために毎日をどのように始め、どのように過ごされているのですか?
ブラッド・マクレドン:朝起きて私が先ずすることは、主に「あなたは今日、何をなさりたいですか?」とお聞きすることです。それが最初の質問です。それに対する主の答えは、過去数年間ずっと「今日わたしはある人に愛を注ぎたいのです。」でした。私の心は好奇心で一杯になり「それは誰ですか?その人と私は出会うのですか? それは何処でですか?」とお聞きます。そこから主と私との会話、コミュニケ—ションが始まります。
それは私が先ず主にお聞きすることから始まるのです。もし、あなたの奥さんがあなたに話をしてくれないと、あなたは疎外されているように感じますね。でも奥さんと話をして仲良くしていると、とてもうれしくて元気が出てきます。私にとって朝一番に主と会話をすると、そこから一日中絶え間なく続くコミュニケーションが始まります。朝起きてすぐに主の御顔を仰ぎ見ないならば、私の頭はすぐに他のことを考え始めてしまい、主との会話をしないままになってしまいます。すると 私は一日の歩みを主と共にできないことになってしまいます。
私はキャサリン・クーマンの人生を調べるのが好きなのですが、彼女は「あなたはどのくらいの時間、神に祈るのですか?」と聞かれたとき、「私はいつも祈っています。I pray all the time.」と答えたそうです。そして「そんな時間をどうやって作るのですか?」という問いに対して、彼女は「ショッピングに行くときも、どこに行っても、何をしていても私は異言などで祈っています。」と答えました。ちょっとクレージーに聞こえますが、私たちはこのようなシンプルさを忘れてしまっているのではないでしょうか。このようなシンプルな鍵があなたを主との親しい交わりという栄光の中に入れてくれるのです。
PK:祈り方の間違ったモデルがあるのも問題ではないでしょうか。「祈りとは大声で叫ぶものである。」とかです。確かにそういう場合も時にはあるとは思います。でも夫婦の会話でも「朝ごはんを作ってください。」とかは普通に静かに話しますよね。妻が夫に話すように、私たちも主にむかっていつも普通に会話をすればいいのです。私たちはいつも叫び求めるような乞食ではないのですから。
ブラッド:私たちが毎日持つべき主との霊的な生活は、そのようなものです。弟子たちがイエスに何か質問するときに始まる会話は、 私たちの祈りの一つの型です。イエスと弟子たちは共に寝て、朝共に起き、話をしながら歩き始めました。祈りは主と共に生きるライフスタイルなのです。
PK:これに関する本で一番よいのは、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯 The Practice of The Presence of God」だと思います。それは意図的に主の臨在を常に意識するということで、無言のときも 多いのです。彼は主の臨在に接続されている、即ち常に主がそこにおられることを知り、それを意識して主とつながっているということです。お皿を洗っているときも、床を掃く時も、何をしているときもその意識を持つのです。そのような習慣の力は自分の内に訓練によって養っていくことができます。
ブラッド:もし主が語られるならば、それを聞く用意が彼には常に出来ていたということですね。主はいつか語られることを知っている、でも語られても語られなくても、それはどちらでもかまわい、という境地ですね。
PK:私たちは「祈りとは即ち、嘆願だ」と間違って考えているところがあります。一日中主に嘆願し続けることはできませんが、一日中コミュニケートしていることは可能です。主はここにおられることを知り常に主を意識していることです。私は御ことばが大好きです。御ことばによって私は天とコミュニケートします。私たちは24/7、主の臨在を意識するようになれると思います。キャサリン・クーマンはそれをしたのですね。
ブラッド:その通りですね。
私は最近ある人からメールをもらったのですが、それは「今は皆が祈り込まねばならない(プレスインする)時だ。」と言う内容でした。しかし「祈り込む」というと、残念なことですが、ともすればそれは密室の祈りに集中し神に嘆願し続けることだと受け取られてしまい、それによって疲れ果ててしまう人が多いのです。私たちはそのようなマインドセットを変えて行かねばなりません。私たちは主のもとに行き、嘆願に嘆願を重ねて、その結果が得られずに疲れ果てて戻る、というような主との関係にあるのではないのです。そのような祈り方をするとき主の御声が聞こえないのは、私たちが聖霊によってではなく、自分自身の意志によって動かされ祈っているからです。主の祈りに「御こころが天で行われるように地でも行われますように」とあるように、私たちは主の御こころを知らねばなりません。
私はこのことをモレビアンフォールのワーシップ・センタ−に始めて行ったときに学びました。私はそこで大声で激しく祈っていました。(私たちは自分が祈っている声を聞くのを楽しむことがありますね。)その時主が「あなたは何をしているのですか?」と言われたのです。それはまるで主は私がずっと祈っていたことなど、全然聞いておられなかったような感じでした。主は「あなたは、わたしが祈ることを祈りたいですか?」と聞かれました。「そんな機会が与えられているのですか? そんなことが出来るのですか?」と私は心底からびっくりしました。私は「はい、したいです。」とお答えしました。するとそれから3時間、主は一言も話されませんでした。(笑)ですから私もそこに黙って座っていたのですが、主はそれを通して 「自分の意志で祈ること」から私を解放してくださったのです。3時間後に主が語られた時に、私はそれをはっきり聞くことができ、その通りに祈りました。そしてその祈りが聞き届けられたことが私にはわかりました。
いつもそのように祈らねばならないと言っているのではありません。けれども私たちが天におられる主の御こころを知り、それをこの地で祈ることができるほどに、主との親密な関係に入ることができることを、主は私たちが知ることを願われているのだと思います。
PK:教会が失った霊的遺産の一つに、黙想の祈り(contemplative prayer)があると思います。コンテンプレイトするとか、メディテイトする(黙想する)というと、人はすぐに「それはニューエイジだ」と決めつけますが、ダビデはニューエイジの出現よりずっと前にメディテイトしていました。私は「メディテイト 黙想」に関する聖句を14箇所見つけました。「神のすばらしさをメディテイトせよ」とか「神のことばをメディテイトせよ」とか「神のご性質をメディテイトせよ」とかですね。問題は私たちが静まってじっとしている訓練ができていないということです。静かに3時間しているというのはとても困難ですね。私は以前よくコンテンプレイトの祈りをしていました。これからも又、したいと思っています。
ピリピ4:6、7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いを神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、私たちはすべての心の思い、願いを神に祈ったあと、平安を頂きます。
その平安の中で「主を待ち望む wait upon the Lord」のです。待つことはやさしくありませんね。これは私が経験した霊的訓練の中でもっとも難しいものでした。ディサプリン(しつけ、訓練)ですね。様々なことが頭に浮かんできてしまうのですが、真にこころが静かになると、生きた御ことばによって「知性、意志、感情、想像」というたましいの部分と霊とが切り離されていきます。
終末の教会が持つべき重要な奥義の一つは、コンテンプレイトの祈りだと思います。それによって、ヴィジテイション(天からの訪れ)やヴィジョンを受け、神と一致することができるのです。ブラッドさんのモレビアンフォールでの体験は、まさにそのことだと思います。あなたはこころを静め、神と一致したのです。
「コンテンプレイトな祈りをどのようにすればいいのか」という質問を受けることがあります。それは一人ひとり違うのです。私の場合は、いつもの椅子に座り、出来るだけ何も考えないようにします。どうしても頭の中にいろいろな思いが浮かんでしまうときは、「ジーザス、ジーザス、ジーザス」とずっと繰り返します。そう言っていると他の事を考えなくてすみ、私の思いもイエスに焦点が合っていきます。これが私のやり方ですが、そうする必要はありません。どういうやり方であってもコンテンプレイトの祈りをすることによって、私たちは霊的力を受けます。これからこの祈りを人びとに教えて行かねばならないと思います。
ブラッド:同感です。私たちは神と一致せねばなりません。不思議なことですが、この祈りに入ると、あなたはすでに主に向いているのです。あなたは意識的に主と向きあうことを選びとったわけです。コンテンプレイトの祈りが終ったあと、あなたは「何も起らなかった」と思うかもしれませんが、実際にはあなたはその中でトランスフォームされたのです。その「実」は後になってからあなたの言動の中で表されてきます。祈りの中であなたは主から何も聞かないかもしれませんが、あなたの霊の中に主が何かをインプットしてくださるのです。
イエスとの親密な関係を持つことが、今の時代のクリスチャン生活にとって実に「かなめ」となります。これから起ってくる出来事の中で、自分が主とどのような関係にあるのかを、一人ひとりがキチンと認識せねばなりません。即ち、自分と主との個人的な関係をしっかりと持たねばならないのです。
PK:これからはどうしてもある「分離」が起ると思います。聖書にも明らかですが、真理があれば偽りもあります。エデンの園には二本の木がありました。カインとアベルは共に主に捧げものをしたかったのですが、一人は自分の業により捧げ、もう一人は啓示により捧げました。イエスは同じ畑に麦と毒麦があると言われました。 毒麦は麦と同じように見えても、その中に命はないのです。今日ここで話したことの中には、「宗教」とか「伝統」にとっては不愉快なことがあると思います。私たちがキリストの霊とそれ以外の霊とを区別する物差しになるものについて話したからです。
第二コリント11章には「別のイエス 」「異なった霊 」「異なった福音 」と言うことばがありますが、「異なった霊」はまことの霊に対して必ず激しく戦いを挑んできます。それは、黙示録で「ニコライ派の教え」と言われているものであり、聖職者が一般信者をコントロールする霊です。一般信徒がヴィジテイションやヴィジョン、啓示を受けて霊的力を持つことを許さない霊です。必ずこの戦いがありますから、私たちはその備えをせねばなりません。キリストの花嫁はその戦いに備えていると思います。
ブラッド:戦いが激しいほど、天からのヴィジテイションも頻繁になると思います。戦いが始まり毒麦が勢いを持つ時、御国がすぐそこまで来ていることを私たちは知るのです。その時天の御使いたちがやってきて、大いなる収穫が始まります。それはなんと栄光に満ちた時となることでしょうか。人間の目には恐ろしく暗い日々のように見えるかもしれませんが、私たちが上にあるものに目を留め続け、神の視点から物事を見るならば、歴史上最高にすばらしい時となるのです。(対談終り)
訳者注
この記事は大分前に訳したものですが、昨年WWGMに載せました。私たち夫婦はこのポール・キース・デイビス師とは四年年前に会って、丁度その時は私たちが日本に出発する直前でしたので、日本に行くミッションと守りのお祈りをしていただきました。
私たちは「主の御臨在と共に歩く」WWGMミニストリーをしておりますが、ご存知のように、クリスチャンになる最大の恩恵・特典は、聖霊なる神が私たちの内に住んで下さるように主がなさることです。全知全能の神がいつも私たちと一緒に住んでいて下さるのですから、毎日主と会話しながら、全てを聞いて毎日を生きることができます。第一一緒に住んでいつも顔を合わせているのですから、会話をしない方がおかしいのです。そして、実際これほど間違いのない人生はありません。もしご興味がおありでしたら、拙書「主を見つめて待つ」「キリストの弟子」をお読みください。坂 達也
尚、私のこの2冊の本は残念ながら目下在庫が無くなってしまいましたので、下記の方法でオンラインでご購読の上お読み頂ければ幸いです。 ついては、私たちが親しくしていただいているリーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリー(代表者 ロイド・美代牧師;もう既にご存知の方も多いと思いますが、多くの英語の書籍を日本語に訳して出版されたり、ユーチューブにも多くの情報を載せておられ、私たちのミニストリーよりはるかに大きく活躍されておられます。詳しくはぜひlehighvalleyjm@gmail.comをご覧下さい。)
そのリーハイバレーを通して、この春から、私の2冊の本を電子書籍として、いつでもどこからでも読めるようにして頂きました。従って、インターネットに接続して、下記のページにログインし、このオンラインクラスに入学して(登録無料)アカウントを作っていただいた後で、私のコースを購入することができます。https://lvjm.teachable.com/courses 宜しくお願いします。(終わり)
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