13 06月
恵みの御座に近づく
リック・ジョイナー(モーニングスター・ミニストリーズ)
ヘブル4:14−16
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
神の御座は威厳に満ちた神聖な場所ですが、私たちには、ご自分には罪が無いにもかかわらず私たちの弱さに同情してくださるイエスという大祭司がおられます。イエスが十字架につかれて私たちの罪の代価を支払われたのは、私たちをその罪に定めるためではありませんでした。主は私たちが神と和解できるように十字架についてくださったのです。ですから私たちは必要な時はいつでも神の荘厳な御座の前に進み出るならば恵みを受けるであろうと言われているのです。
もし「福音」に何か欠点があるとすれば、それは福音があまりにもすばらしくて本当とは思われないことでしょう。恐れ多い万能の神が、このように親切で、情け深く、優しいことがどうしてあり得るのでしょうか?
神はあまりにも善き方、すばらしい方であるので、私たちがそれを理解し受け取るのは難しく、通常、少し時間がかかるものです。神の赦しを受けるのがそれほど簡単であり、しかも受けるために私たちがすることは何もないことを理解するのは難しいのです。私たちの完全な赦しのための代価はすでに支払われたのであり、もしまだ私たちが何か支払わねばならないと思うならば、それはイエスの生け贄が十分ではなかったと言うことになります。
多くの人が「神の憐れみは受けたいが、神の裁きはいらない」と言います。しかしながら、神の憐れみは、神の裁きがある故に確固たるものとなるのです。つまり、神の裁きにより罪の結果は死であると確立され、そしてイエスは、死ぬべき罪は無かったにもかかわらず、私たちの罪の代価として私たちに代わって死なれたのです。もし私たちが自分の罪のためにまだ何か支払う必要があるというならば、それは不当なことであり、御父がイエスの生け贄を十分なものとして受け入れなかったことになります。
ですから、私たちは罪を犯したときも、正しく歩んでいた時と同じように神の御座の前に大胆に進むことができるのです。自分自身の義ではなく、イエスの血潮と主の代価によって御前に進むのです。私たちがイエスの義の衣をまとって御座の前に行くとき、御父が見られるのはイエスの義だけであり、私たちは、それが良い日であっても悪い日であっても、神の目には完全に清い者として映るのです。
主の御前に進み出る力は、自分がどれほどうまくやったかに基づくのではなく、「イエスの十字架は私たちの罪や過ちを覆うのに十分である」という単純な信仰によるのです。私たちが大胆になれるのは、イエスが達成されたことによるのであり、自分が何をしたか、しなかったかによるのではありません。主の臨在の前に行くために自分が完全になるのを待つ必要はなく、主の臨在によって私たちは完全にされるのです。
イエスが水の上を歩いているのをペテロが見て、舟をおりて主と共に水の上を歩いた時、イエスから目を離さない間だけそれが出来ました。波を見た途端、ペテロは沈み始めました。私たちも、自分の古い罪の性質(罪の世界で生きている結果のすべて)の絶え間ない葛藤の中で、それと同じことをするのです。私たちがイエスに目を注いでいる間は、自分の古い性質や人生の試煉という波の上を歩くことができます。もし私たちが葛藤(波)に焦点をあて始めるならば、沈むのです。
ですから私たちは御座の部屋に傲慢な態度でずかずかと入って行くのではなく、感謝のこころで入るのです。私たちは「感謝しつつ主の門に(詩編100:4)」入るのです。このような偉大な憐れみと偉大な恵みに感謝しないでおられるでしょうか?
大胆なへりくだりは、主と主がしてくださったことに対して大胆になることです。私たちの大胆さは、私たちの主への信仰を反映するものです。
次に黙示録に書かれている御座について考えてみましょう。
黙示録5:1−5
また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
イエスの他には天にも地にも開くにふさわしい者がいなかったというこの巻き物は何なのでしょうか? 七つの封印とは何でしょうか?
ヨハネが神の御座の前で起こったこの重要な出来事の場に何故いたのか、そして何故イエスだけが巻き物を解くことができたのかを理解する必要があります。
ヨハネはこのヴィジョンの中では預言者という立場だけではなく、とりなし手でもありました。詩編115:16に「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」とあります。主は私たちの必要を私たちよりよくご存知です。しかし、主は地に対する権威を人類に委任されたので、私たちが願わなければ地のことはされません。それでヨハネはここでとりなし手の役割をし、巻き物を開く者がないので泣いていたのです。地を代表するものが巻き物を開きたいと願わねばならなかったのです。そして巻き物を開くにふさわしい者、即ちユダ族のしし、ダビデの根、イエス、がいるという啓示が与えられます。
私はある時、霊で御座の前に上げられ、私の友人に対して向けられた主の怒りを目の当たりにしました。主は彼が重大な罪を犯しているにもかかわらず悔い改めないので、彼の命を取ると言われました。私は主にもう一度チャンスを下さるように懇願し、主はそれを聞き届けてくださいました。
私はその友人をとりなすためにこの経験を与えられたことは分かりました。しかし、とりなしは祈り以上のものです。私は彼の人生がどのような罪に捕われているのかを見つけようと決意しました。それはすぐに判明し、そこから彼の回復への長い道のりが始まったのです。
人生の一番の目的は主の祭司となることです。これは新約のクリスチャンへの召しです。もしヴィジョンで、又は実際に何かを見せられたならば、その啓示の目的はとりなしのためであることがほとんどでしょう。とりなしは、落ち込んだ罪の罠から人々を助け上げたり、落ち込まないようにして、問題の解決のために実際に手助けをすることもあるのです。
私の経験では、人を罪の中から救ったり罪に堕ちないように助けようとして成功した時よりも失敗した方が多かったように思えます。このことで私が落胆していた時に、主が主の記録を見るようにと促されました。主はすべての人のために死なれたのに、多くの人はその救いを受けないで罪の中に留まっているようでした。これは「失敗」のように見えるかもしれませんが、今は理解できない多くのことは、これからの時代に解決していくのです。ですから主が私たちに求めておられるのは従順であり、成功したかどうかは主だけが本当に知っておられるのです。
ハイディ・ベイカー師は、今最も偉大な宣教師の一人だと思います。彼女はチョクトウ・インディアン居留地での伝道集会において回心したのですが、その集会での回心者は彼女唯一人でした。当然ながらその時の伝道者は、「今日主に出会ったのは15歳の女の子1人だけだ、この伝道集会は情けない失敗であった」と感じたことでしょう。しかしながらその一つの回心の故に、数えきれない人々が主のもとにきて、ハイディの人生から大きな影響を受けたのです。
使徒パウロのことを考えてみてください。彼は主の死と同じ姿になることを祈りました。そして主と同じように死にました。彼の友人のほとんど全ては去っていき、人生を捧げて建て上げた教会のほとんどが背教に陥ったのです。彼の死刑が執行された日、彼は「自分は主のために何か成し遂げたことがあるのだろうか」と思ったかもしれません。しかし、彼の幾つかの書簡を通して、彼はいまも永遠の命の実を集め続けていることでしょう。それはその後に起こったすべてのミニストリーよりも多くの実なのです。
自分の人生がどれほどの実を結んだかを、生きているうちに判断することはほとんどできません。私たちの目標は、ただ主に従順であるということでなければならないのです。(終り)
06 06月
預言的な夢の役割
ジェイムス・ゴル(エンカウンターズ・ネットワーク)
キリスト教の伝統の中で、夢は当初から大切な役割を果たしてきました。夢の解き明かしはユダヤの歴史の中に深く根ざしています。夢が語ることや啓示の豊かな遺産が、長い歴史を通して継承されてきたことを今日はお話ししたいと思います。
まず、神が昔からずっとされて来て、現在でも何ら変わってはいないことを見てみたいと思います。それは夢という言語です。ーこの言語によって何かが語られるーそれは神が私たちの人生に介入されるための、古からある神秘的な方法の一つです。私たちが安心している領域に神は夢を通して侵入してこられます。神は夜の間に私たちを訪れて話しかけられるのです。
夢やヴィジョン、そしてそれらの解釈は、世界のほとんどすべての文化や宗教に含まれる要素であり、それは人類の長い歴史を通して行われてきました。そして他のどの宗教よりも、ユダヤ教とキリスト教においてそれは最も顕著であったのです。その理由は、ユダヤ人やクリスチャンが啓示の創始者である一人のまことの神を礼拝するからです。
夢を霊的啓示や神からのコミュニケーションの正当な媒体として受け入れるためには、教会史を含めて世界の歴史の流れを調べる必要があります。夢の解釈にはどのような歴史があるのでしょうか?
初期教会の夢の遺産
旧約時代のユダヤ人にとって神からの夢は重要な役割を果たしていましたが、それは新約時代においても同じでした。例えばマタイは、イエスの誕生から幼少時代にかけてヨセフが4つの夢を見たことを記録しています。又、博士たちがヘロデのところに戻ることを禁じた夢のことも記録しています。
また使徒行伝でルカは、サウロ(パウロ)がダマスコ途上でイエスのヴィジョンを見たことや、サウロの視力を回復させるために遣わされたアナニアの夢について記しています。ルカはまた、アナニアの来訪を予めサウロに告げた夢のことにも言及しています。それから数年後にパウロに与えられた夢は、彼がヨーロッパ大陸に福音を持ち運ぶ切っ掛けとなりました。シモン・ペテロとローマの百人隊長であったコルネリオは共にヴィジョンを受け、その結果ペテロがコルネリオの家を訪れることになりました。そこでペテロはコルネリオや彼の家族、友人に福音を語りました。
使徒たちが死に、新約聖書の時代が過ぎた後、始めの数世紀の教会のリーダーたちは、夢やヴィジョンが人間と交信するために神が用いられる正当な手段であることを信じていました。彼らの多くは夢やヴィジョンに対する肯定的な意見を著しており、中には自分の個人的な夢の経験を記録している人たちもいます。
スミルナの司祭であったポリカープは、使徒と同時代に生きた人であり、使徒から按手を受けましたが、信仰のためにA.D.155年に殉教しました。その少し前、彼は祈りの中で、自分の頭の下の枕が燃え始めるヴィジョンを見て、それは自分に迫っている死を神が予告してくださったのだと悟りました。
教会史上の例
最初のクリスチャン哲学者であったジャスティン・マーターは、夢は様々な霊から来ると信じていました。彼は「人間の魂は肉体の死後も生き続ける」という自分の信念を論証するためにそれを用いました。そして夢は「目に見えないリアリティーとの直接的な霊的交信」を私たちに与えると言っています。
2世紀後半、フランスのリオンの祭司であったイレナウスは、ジャスティン・マーターと同じく、夢は霊的な世界を啓示するものだと信じていました。「Against
Heresies」は現存している彼の主な著書ですが、その中でイレナウスは、新約聖書のヨセフ、ペテロ、パウロの夢を厳しく詮索した結果として肯定的解釈を与えています。
アレキサンドリアのクレメンテは、初期教会で最も優秀な頭脳を持った者の一人でしたが、彼は、真の夢は「魂の奥深いところ」から立ち上るものであり、「霊的リアリティーをあらわすもの、神との魂の交わり」であると信じていました。クレメンテは「眠り」は人が神からの啓示に特別に心を開く時と考えました。夢は神から受けたデスティニーへの洞察を人に与えることができるのです。
タータリアンは3世紀の力ある著者であり信仰の擁護者でしたが、彼は夢は神からの霊的賜物の一つであると考えました。彼はまた、初代教会の人たちと同じように彼の世代の人々にとっても夢は重要で意味のあるものだと信じました。そして夢は次の4つのどれかから来ると考えました。即ち、悪霊、神、人の魂、そして「夢見心地になったときの特殊な状態」です。
教会史上最も偉大な神学者の一人であるアウグスチヌスは、霊的な夢の正当性と価値を堅く信じていました。彼は、人は外と内で受け取る実際的なリアリティーに加えて「自律性霊的リアリティー(例えば天使や悪霊を霊的目で見ること)」を受け取ることができると信じていました。彼の著作には彼自身や他の多く人々の夢やそれについての議論が数多載せられています。彼が神から離れていた時、母親であるモニカは彼がキリストのもとに来る日が必ずあるという保証と慰めの夢を主から受けました。それは非常に興味深い夢の話の一つです。
トーマス・アクイナス(アキナス)は、アウグスチヌスと対抗した中世の神学者ですが、彼は人の知識の唯一の源は、感覚、経験、理性的な考えであるというアリストテレスの考えに同意していました。彼の神学に対するアプローチはキリスト教思想とアリストテレス学派の考えを合わせたものだったので、それはキリスト教を完全に近代化したのです。
ところが、アキナスが「神学大全」という大作を書いていたとき、彼自身が夢と啓示的ヴィジョンを体験したのです。その夢の中でペテロとパウロが、アキナスが非常に扱い方に非常に苦労していたある神学問題に関して回答を与えてくれたのです。又、彼の人生の終り近く、この大作の完成間近に彼はあるヴィジョンを受けました。それは彼の理性的な考えからは決して生まれるはずのない神からの直接的な体験でした。
その結果、彼は「神学大全」を書くのをストップしました。彼は「私はもう続けることができません。このようにいろいろな事が神から啓示されたので、今まで私が書いたことが藁くずのように思えます。今はただ死を待つだけです。」と言ったのです。これが何世紀もの間、教会に神学に対して全く理性的なアプローチをさせ、夢に対する敏感さを教会から遠ざけてしまった人の言った言葉なのです!
近代の教会における夢の取り扱い
「近代」とは宗教改革後の時代です。4世紀から千年以上もの間ずっと、「夢という交信手段」に教会は公式に背を向け、神学や教義に対して「更に理性的な」アプローチを選びとってきました。
しかしながら、その期間にも多くの信者が個人的に神からの夢やヴィジョンを経験し続けて、これらの邂逅の多くのものが現在まで記録され保存されています。言葉を代えれば、教会の「公の」夢に反対する立場にもかかわらず、神はご自分の民に古い時代と全く同じように語り続けられたのです。ここで一人のクリスチャンの生涯を少し詳しくお話しさせてください。
「アメイジング・グレイス (驚くばかりの)」の歌に関する啓示
ジョン・ニュートンは18世紀にイギリスで最も尊敬され愛された牧師の一人でした。しかし彼の人生はそのように出発したのではありませんでした。彼は船乗りとなり、やがて奴隷商人となりました。ずっと後になってミニスリーに入る際、彼は奴隷売買を始めたころに見た夢について記しました。その夢は彼が進もうとしている人生の道の危険性を知らせたもので、彼に神の摂理について教えるものでした。夢の中で、ニュートンはヴェニスの港で船に乗り、夜の見張りをしていました。一人の人が近づいてきて、彼に指輪を渡し、注意深くそれを護るように告げ、それを持っているならば彼は幸せで安全であると言いました。
彼が思いを巡らしていると、2人目の人が近づいてきて、指輪などに身の安全を拠り頼むことの愚かさを彼に納得させました。そこでニュートンは指輪を水中に落とすと、すぐにヴェニスの背後の山脈から火が吹き出すのが見えました。二人目の人が「試みる者」であったことを彼が悟るのが遅すぎたのです。「自分の人生の神の憐れみを投げ捨てよ」との誘惑の罠にかかったのです。もはや彼を待つのは燃える山々の地獄のような炎でした。彼は次にように書いています。
「私は自分を呪い、希望もなく立っていると、突然3人目の人、というか最初に指輪を持ってきた人が来ました。そしてどうして私が嘆いているのかと訊ねました。私は事情を説明し、「自分は勝手なことをした、もう助けてもらうことはできない」と言いました。彼は私の早急さを咎めましたが、「もう一度指輪をもらったならば、今度は知恵深く行動するか」と訊きました。
私は返答に困りました。というのはもう取り返しがつかないと思っていたからです。実際のところ私が答える間はなかったのです。というのはアッという間にこの人は指輪を投げた場所に飛び込んで、すぐに指輪を拾ってきてくれたのです。
彼が船の上に上ってきた瞬間、山の火は消え、私を惑わす者もいなくなりました。そして「力ある神の御手から奪われえじきとなった者が救われ、
囚人が解放された」のでした。私の恐れは消えて、喜びと感謝をもって私は指輪を受け取るために彼に近づきました。しかし、彼は指輪を私に渡すことを拒否して次のように言ったのです。 「もしあなたに指輪を託したならば、すぐにまた同じような目に遭うでしょう。あなたにこれを護る力はありません。しかし、私があなたのためにこれを保ち守ります。そして必要な時にはいつでも、あなたのために指輪を出してあげます。」
その後間もなくニュートンはこの夢を忘れてしまいました。しかし数年経った時、夢の中で自分が置かれた状況、助けも希望もない状態で恐ろしい永遠の崖っぶちに立たされている状況に驚くほど酷似している状況の中に自分がいたのです。
その時ジョン•ニュートンは主の憐れみを見出しました。そして指輪をとりもどしてくださったお方がそれを護っていてくださったことを発見しました。この経験は彼をして「ああ、何というなぐさめであろうか、私を護るのは自分ではないことは!」と叫ばせたのです。福音を語る者として、彼は多くの賛美歌を作りました。その中で最も有名で多く歌われるのが「アメイジング・グレイス 驚くばかりの恵みなりき」です。この「恵み」は彼自身が体験したものでした。
遺産を受け取ろう!
夢は力のあるものです。それは私たちに近づき、触れ、他のどのような交信では不可能な方法で私たちの人生を変えてくれます。夢を見下げてはいけません。何世紀もの間、教会のあまりにも多くの人たちがしたように、夢に背をむけないでください。ユダヤ人の伝統に習って夢の交信の世界に心を開いて、神が夢を通してあなたに語ることを期待してください。神が夢の中で言われることを憶えていて、神が言われることにあなたが応答する時に、あなたの人生が変ることを期待してください。
ユダヤ人の先駆者たちや初代教会の父祖たちのように、啓示の霊が存在するばかりか繁栄するような文化を創ろうではありませんか。神の子どもとしての私たちの霊的権利を取り戻し、夢の創始者であるお方によって照らし出される道を歩く息子、娘となろうではありませんか。あなたの夢が実現しますように!(終り)
29 05月
天国の話
キャット・カー(One Quest International)
20年前ほどから私は霊で頻繁に天国に行くようになりましたが、「天国に行かせてください。」と一度も神に願ったことはありませんでした。ただ常に毎日の生活を信仰で歩んでいました。父は牧師でしたし、祖父は宣教師でした。私たちは神を敬うだけではなく、自分の天の御父として親しみ、主が私のためにすばらしい計画を持っておられることを信じていました。でもある日、御父が私を天に連れて行ってくださり、案内してくださったのです。これは夢にも思っていなかったことなので、本当に驚きました。
私はとりなし手なので、毎晩4時間くらい神と時間を過ごしますが、1996年に初めて天国に行ったときは、私が台所でお皿を洗っている時でした。主が来られて「あなたを天国に連れて行きます。」と言われたのです。そして天国で主がまず見せてくださったのは、映画館でした。びっくりしました。天国は勿論聖い所ですが、楽しくて面白い所でもあるのです。神は偉大な創造主ですから、天国は単にだだっ広くて無味乾燥なところではないのです。私の日常は家族の世話をする立場にあったので、楽しむ時間があまりありませんでした。主はそんな私のために楽しい映画館に連れて行ってくださったのだと思います。それは「リアリティー劇場」という名でしたが、ただ映画を見るだけではないのです。幾つかの映画の中から選ぶことができるのですが、ドアを開けるとあなた自身が映画の中に入って一緒に映画の中で生きることができるのです。「何かになりたい」という願望をすべてかなえてくれる映画館なのです。
天国はリアルな場所です。天国は本当に美しくすばらしいところなので、自分が天国に来たことが分からない人はいません。一番の特徴は「光」です。花の中には色を変えるものもあります。あなたが花畑に行くと、花々はあなたの方を向きます。すべてが光に満ちています。私のまわりですでに亡くなった人たちに会いましたし、有名な人達にも会いました。例えば、映画館の中でジョン・ウエインに会いました。彼は今でも映画を作っていました。父、御子、聖霊を全てのものがすばらし音楽をもって礼拝していました。音楽も地上とは違い、耳で聞くだけではなく、歌が虹のような色のリボンとなるのです。すべての賛美は御座の方に流れていきます。
天国の人々はお互いに知らない人はいませんでした。会ったことがない人でも皆知り合っていて、ファーストネームで呼び合っていました。彼らの顔には主の輝きがありました。誰でもずっとそこに留まりたいと思うことでしょう。
神が私たちのすべての祈りを聞いていてくださることが分かりました。その答えがあなたの望むときに来ない時も、神はあなたに必ず最善をしてくださるのです。私たちが御心にそって生活しているならば、神はかならず祈りに答えてくださるのです。私のとりなし手としての祈りも、このことを確信してから完全に変えられました。私は4歳のときボーンアゲインしました。それから勿論罪を犯すこともありましたが、すぐに悔い改めました。神は悔い改めるならばどのような人でも受け入れてくださるのです。
天国は実在する場所であり、平安と喜び、そして冒険に満ちています。「天国は退屈なところだ」という神話やサタンの偽りを神は憎んでおられます。私は毎日のように天国に行くようになり、天国のいろいろな場所を見学させてもらいました。私の一番好きな場所の一つは、ポータル(門)と呼ばれ、地上と繋がっている場所です。ここは天国に来た人がまだ地上にいる誰かのことを考えると、神はここから地上のその人を見せてくださるのです。彼らは地上の愛する人が神の御こころにそって生きるようにと応援していてくれるのです。パウロがヘブル12:1で「多くの証人が雲のように私たちを取り巻いている」と言うのはこのことです。そこには黄金の大きな柱が沢山あり、柱の下の部分は地上の出来事を映し出すモニターになっています。地上であなたの家族が救われそうになると、その人の顔がそこに映し出されます。人々や天使がそこに集まって、歌ったり踊ったりして家族と一緒にお祝いをするのです。もう一つのモニターには、もうすぐ天国にやってくる人の顔が映し出されます。すでに天国にいるその人の家族は門に来て出迎える用意をするのです。神は天国がこのようにすばらしく機能していることを地上の人々に知ってほしいのです。
私たちが地上で主に心から歌ったり踊ったりすると、その行為はすべて天国で美しい織物となり、あなたの傑作となります。その作品は御座の王の前に持ち出され、画廊に並べられます。あなたが天国に行くならば、あなたが創ったすべての作品を見ることができます。神はすべてのものを保存されています。またあなたの涙や祈りも集められて、御座にある金の鉢に入れられます。鉢が一杯になると地上へと傾けられ、大きな神のムーブメントが地上に起ります。
地上で堕胎や、流産で死んだ赤ちゃんは、一人残らず天国の育児室でお世話されています。もしあなたが堕胎をした経験があるならば、神はあなたが悔い改めをすることを願っておられます。なぜならば、赤ちゃんは自分の親が誰であるかを知っていて、親が天国にくるのを待っているからです。あなたが天国に行くならば、赤ちゃんはあなたに委ねられます。赤ちゃんは育児室では非常にゆっくり育つので、まだ赤ちゃんのままなのです。赤ちゃんは神から与えられている賜物とデスティニーを失わずに持っているので、天国でそれを達成して行くことができます。ですからどうか、あなたの赤ちゃんの待つ天国に必ず行ってください。
母と私は長い間教会の接待係をしていましたが、ある時4日間のカンファレンスがあり、非常に疲れを憶えていました。その時牧師夫人から電話があり、ある人の家の清掃に行ってくれないかと頼まれました。私はちょっと行きたくないな、と思いましたが、母は優しい人なので引き受けました。その婦人は他の教会の人でしたが、牧師夫人と懇意だったようです。この婦人はある女の子の葬儀に出席する他の街の人たちを宿泊させるために家を整える必要があったのです。
私たちは街のはずれにある家にいき、掃除を始めました。私が暖炉のまわりを拭いていたとき、突然主が「メロディーに伝えてほしいことがあります。」とはっきり言われたのです。私は「メロディーって誰ですか?」と聞くと、主は「メリサのお母さんです。」と答えられました。私は「メリサって誰ですか?」と聞くと、「スキー事故で死んだ女の子です。
メリサは天国でひいお爺さんに迎えられ、とても楽しくしているとメロディーに伝えてください。」と主が答えられました。
次の瞬間、私は最早暖炉の前ではなく、天国の道を二人の人のあとについて歩いていました。一人は美しい十代の女の子で、ブロンドの髪の毛で青い目をしていました。でもひいお爺さんのような人は見つけることができませんでした。女の子と一緒にいる男性は25歳くらいに見えましたが、それがひいお爺さんだったのです。私たちの霊は永遠ですから天国ではお爺さんも又若者になるのです。二人は楽しそうに笑いながら話していました。女の子が「お母さんに『さよなら』が言えたらうれしかったんだけど。いつもお母さんのことを応援していて、天国でユースリーダーもしていることを知ったら、お母さんはきっと喜ぶと思うわ。」と言いました。彼女はまだ十代だったのですが、神の人の用い方は年齢とは関係ないのです。やがて彼らは遊園地に入っていきました。向こうに巨大なローラーコースターがあり、人々がキャーキャーと喜んでいるのが聞こえました。天国には恐れはありませんが、スリルを楽しむことはできるのです。女の子はローラーコースターに近づくと、ますます興奮していました。彼女は白と青の、お爺さんは茶色と緑のシャツを着ていました。長い衣では不便な時があるので、天国にはいろいろなサイズや色の洋服が沢山用意されているのです。女の子は自分の人生や家族についていろいろとお爺さんに話していましたので、私はそれらを聞いてすべて心に留めておきました。
次に気がつくと、私はまた暖炉に前にいました。私は母にすべてを話しました。そして母が牧師夫人に話すと、すぐにメロディーの電話番号を教えてくれました。私たちは掃除を終えて帰宅しましたが、天国で見聞きしたことを一つも忘れないように、キチンと書いておくようにと神が言われました。
後日メロディーに電話をして会いたいと言ったとき、彼女は少し訝しく思ったようですが、会ってくれることになりました。私はまず自己紹介をしてから、「今からこれを読みますが、最後まで聞いてから、あなたが思われることを聞かせてください。」と言って読み始めました。ひいお爺さんが天国でメリサを迎えて二人でローラーコースターに乗りに行ったところまでくると、メロディーの顔は蒼白になってしまいました。私は彼女が気を失うのではないかと思い、「大丈夫ですか?」と聞くと、彼女は「大丈夫です、どうか続けてください。」と言いました。そして彼女は私が読むのを笑ったり泣いたりして聞いていました。話し終えたとき、彼女は「あなたが本当に天国に行き、娘を見て来たことを100%確信します。
疑いの余地はありません。」と言いました。「私はあなたと会ったことはありませんし、あなたは娘のことは何も知らなかったはずです。一番の証拠としてあなたは娘の日記のことも知りませんでしたよね。」と言いました。その日記はお葬式の前日に彼女がメリサのベッドの下で見つけたものでした。メリサは2001年に13歳で亡くなったのですが、1995年からずっと日記を毎日つけていたのです。母親はメリサが亡くなるまでその日記の存在を知りませんでしたが、日記を読んでいくと、あるページに「昨夜、私は夢を見ました。それは私がまだ若いときに死んで天国に行き、ひいお爺さんに会ってローラーコースターに乗る夢でした。」と書かれていたというのです!今度は私が衝撃を受ける番でした!
又、メロディーはメリサがチアリーダーで白と青のユニフォームを着ていたことも話してくれたのです。神の慰めが大いにありました。
この逸話は私の本(Revealing
Heaven)にも書きましたが、すべて事実です。天国は本当にある場所で、言葉では表せませんが、すばらしく美しく愛と喜びと平安に満ち溢れています。神はすべての人が天国に来ることを願われています。そしてイエスをこの世に送ってくださり、十字架で私たちの罪を贖い天国への道を備えてくださいました。主の御名を誉め称えます。(終り)
22 05月
祈りの言葉を発達させる
ジャレッド・ラスキー(デスティニー・オープン・チャーチ)
異言で祈ることは、すばらしく尊い賜物ですが、多くの教会はそれについてあまり触れず、ただ執り成しの祈り会やカンセリングの時にだけ用いているようです。異言は今日にいたるまで聖書的な真理であり、最初ペンテコステの日に(使徒行伝2章)公に表されたにもかかわらず、教会のリーダーの中にはそれを隠して言わない人たちもいます。
第一コリント13章は「愛の章」として有名であり、結婚式で最もよく読まれます。それは確かに麗しい箇所ですが、その内容は結婚ではなくて聖霊の賜物に関することです。13章は12章と14章の間に挟まれていますが、その2つの章は神のすばらしい賜物の正しい用い方について書かれています。
そして13章は、御霊の賜物を用いるときの私たちの態度と動機について書かれています。
8−10節「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならすたれます。異言ならやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」
この箇所から御霊の賜物は一世紀だけのものであり、「今はすたれた」という人達がいます。しかし御霊の賜物は「完全なものが現れる時にすたれる」と書かれているのです。
「完全なもの」とは聖書が完全になった時のことだと議論する人もいるでしょう。しかし、「完全なもの」とはキリストご自身を指すと考える方が自然でしょう。なぜならば12節に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。」とありますから、御霊の賜物はイエスの再臨の時に初めてすたれるのです。
この解釈には無理があるという人たちもいるかもしれませんが、もし第一コリント全体の内容を見るならば、それは1章7−8節のパウロの言葉にも表されています。
「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」
「主イエス・キリストの日」とは、主が教会にかえって来られる時のことをさしています。
異言は他の賜物と同じようにすばらしい霊的賜物であり、イエスからそれを受けた後、それを訓練し発達させていくのです。(マタイ3:11,ルカ3:16,使徒行伝1:8)使徒パウロは私たちが見習うべき偉大なお手本です。彼は異言は、一度だけとか、時々話すとかではなくライフスタイルであると言っています。第一コリント14:18で彼は「私は、あなたがたのだれよりも多く異言を話すことを神に感謝していますが、」と言っています。これは私たちの生活や教会においても同じであるべきです。ただ夏のキャンプの経験や、年に一度の教会の特別礼拝だけではなく、私たちの毎日の生活の中に適応されるべきものです。
聖霊のバプテスマを受けてから数週間後に私のところに相談に来る人が時々います。彼らは聖霊に初めて満たされ異言を受けたけれど、ほんの数言を繰り返すだけなのでがっかりしているのです。私は彼らが正しい道を歩んでいるのであり、続けて異言で話し続けるならば、数行が多くのことばに発達して増えていくと話してあげます。
私たちは子どもの時、新しい言葉を何度も繰り返すことによって憶え発達させ、単語や表現の数を増やしていきます。そのように私たちが祈るときに聖霊が与えてくださる異言の言葉や表現を繰り返すときに、私たちの異言は成長し発達していくのです。車を運転している時も、道を歩いている時も、部屋で祈っている時も、私たちは異言で祈ることができるすべての機会を用いて、このすばらしい賜物を用いて神を礼拝するべきなのです。
人や御使いの異言で祈ることは時間をかけて発達させていくものです。またパウロは異言での祈りは自分の徳を高めると言っています。(第一コリント14:4)私たちは異言によって祈り、主を礼拝し、自分を建て上げることを大いに喜ぶべきです。それは神と超自然的な方法で個人的に繋がることなのです。
私たちはまた、一人で神と交わるときに異言で歌うと良いのです。第一コリント14:15に「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」とあります。異言で祈り賛美することは霊の言葉を発達させ、異言を解き明かすことを学ぶための鍵です。私たちは家で一人で神と過ごすときに、異言で祈ったり賛美することができます。
そして神に自分が異言で祈ったり歌ったりしたことの解き明かしをくださいと願うことができます。神のすばらしい御霊が私たちに解き明かしをくださる時、それを書き留めて、主と自分との間の特別な賛美として用いることができます。
あなたの霊の言葉が神の御霊において新しい高みにまで上り、あなたが神への愛において成長し発達し続けますようにお祈りいたします。(終り)
Jared Laskey ( firebornministries.org.)
22 05月
世界中で6億以上の人が異言という聖霊の賜物を受け取っているにもかかわらず、そのほとんどがこの尊い賜物を十分には活用していないことをご存知でしょうか?
それはまるで1億円もらったのにほんのちょっとしか使わないようなものです。
霊の言葉は、私たちの霊的生活や、聖霊のすべての徳や現れへの扉を開く重要な鍵です。私たちが毎日30分を聖霊に捧げて霊の言葉で祈るならば、世界を変え始めることができるのです!世界中の教会にものすごい力が解き放たれ、イエスが王である証しとして、すべての国々で神の御国が目に見える形で現れてくることでしょう。
まず、聖霊のバプテスマ、或いは聖霊の賜物とは何でしょうか?
すべてイエスを信じる者が水のバプテスマを受けるのと同じように、聖霊のバプテスマもすべての信者のためのものです。ボーンアゲインした信者の霊に、学んだこともなく、理解もできない言葉で祈る力を神が与えてくださるのを経験することです。
私たちの霊の言葉は聖霊によって動かされ、覆われ、導かれますが、実際に祈るのは私たちの霊です。霊の言葉の賜物は、神と直接霊から霊へと話すことを可能にします。信者は神の御座に直結している個人的な電話線を持ち、それはサタンや他の人間には理解できず妨げることもできないものなのです。
それはクリスチャンが受けることのできる最高のギフトです。なぜならば、それは他のすべての賜物や神の恵みをもたらし、機能させるものだからです。異言で話すべき理由は非常に沢山ありますが、最大の理由は、私たちがこの最も価値ある賜物を使うために、イエスが最大の代価を払ってくださったことです。
私の研究と人生上の経験から、クリスチャンが毎日異言で祈るべき理由が少なくとも70あります。そのうち幾つかをお話したいと思います。
1.聖霊は私たちが神の御こころに沿って祈るように私たちの異言を導いてくれます。私たちが100%神の御こころを祈っていると確信できるのは、多分霊の言葉で祈るときだけでしょう。神は御こころと一致した祈りにいつも答えてくださるのです。
2.霊の言葉は私たちの超自然的創造力を活性化し、天の情熱で燃やしてくれます。そして知恵、力、啓示、超自然的なミニストリーという神の倉の戸を開きます。
3.異言で話すことは、心臓が身体にするのと同じことを私たちの霊にしてくれます。心臓は鼓動によって血液を身体全体に送っていのちと健康を与えますが、それと同じように、異言で祈ることは、神の臨在を私たちの存在のすべての細胞に持ち運びます。
4.異言で話すことは、私たちの思いの中に啓示の光のスイッチを入れ、神の御声を聞きイエスのなさりたいことを見ることができるようにしてくれます。私たちは啓示を受け神への信仰を増し、聖霊の力を内に増し加えて、神の奇蹟の力が現れるのを見始めるのです。
5.サンディー・カタラノさんは私たちの教会の長老です。彼女はある時英語で祈っていましたが途中から異言に切り替えました。すると突然、彼女が祈るつもりであった人々や物事が頭の中に映画のコマ送りより速くひらめき始めました。彼女は「主よ、速すぎて一つひとつのことをちゃんと祈るひまがありません。」と言いました。すると神が「あなたが普通の思いと言葉で祈るならば、それは音のスピードで行われます。しかし神が与えた霊の言葉を用いるならば、あなたは光のスピードで祈ることができるのです。」と語られました。
6.御霊の9つの実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)はすべて、霊の言葉で話すときに活性化され増し加わります。愛に成長したいならば、もっと異言で祈る時間を増やしてください。
7.異言で神を賛美しワーシップすると、私たちの内に神の臨在が満ちます。異言で祈ると神の平安があなたの魂に溢れるのを感じるでしょう。
8.霊の言葉で話す一番の目的は自分の徳を養うためですが、他の「御霊の賜物」は人々の必要を満たすために私たちに与えられるものです。御霊の賜物には9つあります。即ち、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒しの賜物、奇蹟、預言、霊の見分け、様々な異言、そして異言の解き明かしです。これらの賜物は私たちの神と救い主イエスが今日この世に生きておられ働いておられることを現すものです。霊の言葉で祈ることは御霊の他の賜物を活性化し、神の力の現れを信じるために必要な信仰を生み出すものです。
9.異言で祈ることは勝利を得るための鍵です。異言で祈れば祈るほど、自分の霊を信仰と力を充満させることができ、あなたを勝利へと導きます。
10.聖霊に満たされ救われた霊は、私たちの中の発電所のようであり、すべてのイエスの賜物、恵み、力、徳が私たちの内に、そして私たちを通して生み出されていくのです。異言で祈れば祈るほどもっと力が生み出されていきます。
11.霊の言葉で祈るならば、私たちの願い、嘆願、崇拝、心の望みが神のハード・ドライブに書き込まれて保存されると思います。また異言の祈りは救い主の思いから奥義をダウンロード(落とす)し、私たちの霊のハード・ドライブに伝えるのです。異言の祈りは、私たちが弱っているときに力を与えてくれ、悲しいときには慰めてくれ、神の御こころに沿ってとりなしてくれる、いつでも頼ることができる忠実な友です。どのように祈ればよいか分からないとき、霊の言葉に委ねるならば、その祈りは知恵と神の力と共に問題の核心に直接届き、必要を満たしてくれるのです。
30分の異言の祈りはどういう効果があるのでしょうか?ある聖霊を受けた精神科医は、患者が30日間、毎日30分異言で祈るならば、もう彼のところに来る必要はなくなると言っています。どうしてでしょうか?
それは霊の言葉は人の意識下から祈るからです。聖霊が潜在意識の隠れた部分に神の光を当て、霊の言葉がそれを根から掘り起こし魂から洗い流してくれるのです。異言の祈りは私たちの身体の免疫も強くすることが発見されています!
「聖霊のバプテスマ」はどのようにして受ければよいのでしょうか?
それはあなたが永遠の命の賜物を受けたときと同じです。まず第一に、この賜物があなたのためのものであるという知恵と啓示を受けねばなりません。次に、主が下さるのはあなたが願ったものであるという確信を持ってください。三番目は、それを信仰によって受け取らねばなりません。聖霊の賜物をくださいと願ったならば、信仰を用いて違う言葉で話し始めるのです。
霊の言葉を用いて、すべての神の目的を達成し、神のすべての祝福を受け取り力を得て、神の力と救い主イエスが主であることを現すことが出来るとは、何とすごい特権であり責任であることでしょうか。(終り)