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Walk With God Ministries


10 07月

心の井戸の水を汲む   ペリー・ストーン         2017年7月10日


心の井戸の水を汲む

 

ペリー・ストーン(ペリー・ストーン・ミニストリーズ)

 

ヨハネ4:11「彼女は言った。『先生。あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこからお入れになるのですか。』」

ヨハネ4:23、24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

新約の礼拝に関する教えは、イエスによってヤコブの井戸で最初に与えられました。ヤコブは全イスラエル部族の父祖であり、彼はスカルの地で井戸を掘りました。イエスは旅の疲れをおぼえ、この井戸の傍らに腰をおろされました。

 

井戸から水を汲むためには、何か入れ物が必要でした。当時の井戸の上には石の蓋が置かれていました。小動物が夜中に井戸に落ちて死ぬならば、水が汚されるからです。他にも木の葉とか枝が入って井戸の中で腐ることもあります。ですから水を清く保つために蓋がしてあったのです。

このことから示されることがあります。アメリカで「ワーシップ」と呼ばれるものがありますが、実際にはそれはワーシップではないことがあるのです。

まことの「ワーシップ」は、人が心から主を礼拝し、それを口で言い表すものでなければなりません。「私は心の中で主をワーシップしながら、静かにしています。あまり何も言わないし手を上げたりもしませんが、心の中でワーシップしているのです。」と言う人がいます。

 

しかしマタイ12:34に「・・・心に満ちていることを口が話すのです。」と書かれているように、もし神への賛美や礼拝があなたの心にないならば、それを外に表すことはできません。神の臨在や愛が心に、即ちあなたの井戸の中にないならば、それは水のない井戸です。あなたの心の中にあるものが口から言葉を出させるのです。

 

ヨハネ7:37、38でイエスは「だれでも乾いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。私たちの中には井戸があり、それは生ける水で満ちているはずです。乾いた人はその水を飲むことができますし、身体が汚れていれば清めることができます。ヨハネ伝では、水は聖霊を表すだけではなく、人の心の奥底の霊から溢れ出るワーシップも表しています。ですからあなたは内なる井戸の水が常に清いように守らねばなりません。

 

あなたの心にあるワーシップは、口に出して表さなければワーシップとはならないのです。教会やクリスチャンテレビを見ると、すばらしい説教やすばらしいワーシップがありますが、会衆はただ座ってそれを聞いて楽しんでいるだけです。手を上げている人もなく、ワーシップしている人もいません。誰かが楽しませてくれるのを見ているだけなのです。それは「ワーシップをする」と言えるかもしれませんが、実はそうではないのです。あなたの口から音が出てこなくては、あなたはワーシップしたことにはなりません。

 

ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)では、カンターと呼ばれる歌い手がいて、聖書を読むときは、ただ読むだけではなく、節をつけて歌います。詩編はダビデや幕屋の歌い手などによって書かれましたが、それは朗読するのではなく、歌うべきものであり、詩編はイスラエルの賛美歌なのです。エペソ5:19には「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」とあります。

 

今ご自分で私の言うとおりにやってみてください。お腹の上の左右のあばら骨がぶつかるところにある横隔膜の下に指を4本縦に少し強く当ててください。そして「ハレルヤ!主を賛美します イエス様ありがとう」と言ってみてください。筋肉はほとんど動かないのが分かると思います。次に同じ言葉で歌ってみてください。横隔膜が動くでしょう。あなたが賛美を単に言うとき、それはただ「習慣的に」言うこともできます。イエスはパリサイ人についてマルコ7:6で「この民は、口先(lips)ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と言われました。礼拝後に何を食べようかと考えながら、口では主への賛美を言うことができるのです。しかし歌うときにあなたの身体の中心で横隔膜が動き、あなたの中の何かが動き、賛美が心から出てくるのです。

 

残念ながら多くの人は、自分の中にある井戸の蓋をしたままでいます。蓋は動物やゴミ等の井戸水を汚すものが入らないようにするものですが、その井戸から水を汲みたい時は蓋を取り除かねばなりません。水を汲むのを遮っているものを取り払うのです。信じる者の腹の奥から、即ち霊から、生ける水の川が流れると主は言われました。井戸から水を汲むためには、バケツを深く入れて外に水を汲み出さねばなりません。私の霊にあるワーシップはそれを口に出す時に奥深いところから上がってくるのです。

 

会衆が皆大きな声でワーシップをしているとき、霊的空気が変るのを感じると思います。例えば私の周りに50人ほどの兄弟姉妹がいるとします。私一人がワーシップをするならば、一本の川が私から流れ出ます。周りの人たちが一緒にワーシップするならば、その一人ひとりから川が流れ出し、それが集まって非常に大きな川の流れとなります。そしてその賛美は天の御座に立ち上っていきます。エゼキエル47:1−5でエゼキエルは、神殿の敷居の下から流れ出る水の幻を語っています。1千キュピト行くと足首までの深さとなり、更に1千キュピト行くと膝まで、次の1千キュピトで腰に達し、更に1千キュピト行くと水に囲まれて浮かんで泳げるほどになったのです。

 

水かさが足首までの時を「アブラハムの時代」だと私は思います。アブラハムは信仰で約束の地を歩きまわりました。(創世記13:14−17)それから千年後にはダビデ王の時代となりました。ダビデは戦士であり、様々な敵を打ち破り進軍していきました。信仰で歩くだけではなく、戦いに勝利したのです。それからまた千年後は、バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々にバプテスマを授けました。洗礼を受ける者は水の中に腰まで入ります。ヨハネは天の御国が近づいたから罪を悔い改めるように語りました。水の清めによる新生です。

 

そして今私たちはエゼキエルが見た「水かさが増し、泳げるほどの水の川」の時代に住んでいるのです。先に進めば進むほど水かさがまして、立っていることができず、泳ぐようになります。今私たちはヨエル2:28の時代、即ち「すべての者に霊が注がれる時」にいます。それはまた、イエスがヨハネ4:23で言われた「霊とまことによって神を礼拝せねばならない時」なのです。サマリヤやエルサレムの山ではなく、私たち一人ひとりが聖霊の宮であり、私たちが行くところ何処にでも神を持ち運ぶことができるのです。しかし私たちの腹の奥にある水を汲み出すためには、賛美を言葉に出すだけではなく、横隔膜を広げて井戸の蓋を取って、歌う必要があります。今の終りの時には「詩と賛美と霊の歌を持って主にむかって心から歌う」ことが非常に大切なのです。

 

このようにワーシップに関する啓示はヤコブの井戸においてなされました。イエスはサマリヤの女に「あなたは知らないで礼拝しています。

 You worship what you do not know.(あなたは知らないものを礼拝しています)」と言われますが、私たちはそうであってはなりません。私たちは神を知り、口先だけではなく霊とまことをもって礼拝しようではありませんか。(終り)


03 07月

過去で未来を縛られるな       グラハム・クック        2017年7月3日


 

過去で未来を縛られるな

 

グラハム・クック

 

神は私たちの人生の地を一掃し、神の約束と将来の計画のためのスペースを作りたいと願っておられます。神は私たちの過去を癒し、未来に生きるようにしたいのです。しかし時として、私たちは過去の痛みが残っていて将来にむかって進むことができません。

 

私たちは全員、例外なく、人生の苦しみや痛み、失望を味わってきました。ある人たちにとっては、不幸な子ども時代かもしれません。ある人にとっては、最近起こったことかもしれません。どちらにせよ、又

大小にかかわらず、それらの傷は私たちの毎日の生活に影響を与えています。それは未来を曇らせ、私たちが神を天の父として受け入れて神の約束に生きることを不可能にするのです。

ですから過去の傷は去らねばならず、癒されねばならないのです!

神がそうであられるように、あなたも健やかで欠けたところのない者となることこそが神の意図されることです。私たちは癒されつつ生きることを学ばねばなりません。あなたの人生における神の癒しのプロセスと神が意図されるところを知らねばなりません。何回か癒される経験を経たとき、私たちが「傷を受ける」のは、癒される喜びを経験するためであったことがわかるのです。

 

私たちが皆、御父のすばらしさを十分に経験することを私は願います。何故ならば神は私たちを本当に愛して止まないお方なのですから、私たちはそれを味わい知る必要があるのです。もしあなたが今、何らかの痛みに直面していたり、行き詰まりを感じているならば、

あなたが今いるその場所で神に触れてもらってください。神はあなたをリフレッシュし、新しくしたいと待っておられます。神はあなたの痛み、心配、悲しみ」を、「喜び、平安、健やかさ」に取り替えてくださいます。

そのような御父の癒しを受け取りたいと思われるならば、次の主の言葉を黙想してください。あなたを癒し、輝かしい未来へと招きたいという神の願いに耳を傾けてください。

 

「愛する者よ、リフレッシュの霊があなたに伴いますから

、あなたの身体、知性、感情、霊をその霊に委ねなさい。喜びと笑いの場所へと帰りなさい。そうすれば、わたしはあなたの人生の乾いた味気なさを克服し、新鮮さを与えるでしょう。」

 

「わたし自身をあなたに与えます。あなたに特別な恵みを与えます。来てわたしの寵愛、喜び、笑い、幸せに帰りなさい。来てわたしの慈しみ、親切、憐れみに浴しなさい。わたしのすべてはあなたのためです!わたしという存在はすべてあなたのためです。わたしの持つものはすべてあなたのためです。わたしの心はあなたに向いています。」

 

「わたしは耳を傾けています。わたしに話しなさい。あなたの心の奥底を話しなさい。あなたの恐れや心配をわたしに話しなさい。わたしはあなたと共にいます。わたしはあなたの味方です。わたしの関心をひくのに小さすぎるものは一つもありません。あなたの人生のすべてのことはわたしと繋がっています。それはあなたがわたしのものだからです。あなたはわたしの所有物です。ですからわたしの川でくつろぎなさい。」

「わたしは、あなたが勝利者の人生を歩むための偉大な信頼と信仰

へと導く確信を与える計画があります。わたしはあなたの内側を完全に変えることによって、わたしがあなたの内側に強さと力と尊厳をもって住まおうとしています。」

 

「わたしはあなたの内側を、恐れから愛に、心配から平安に、惨めさから笑いに、倦み疲れからリフレッシュされた状態に変えます。あなたは、わたしと同じように考え、わたしが見るように見、わたしが信じるように信じて、わたしと同じようになる自分を見出すでしょう。あなたは変革されるので、この世があなたを見る目が変えられるでしょう。ですから愛する者よ、安息し平安を保ちなさい。」

今日、あなたが神の癒しにふれられますように!(終り)


27 06月

神の愛の奥義         ショーン・ボルツ            2017年6月27日


神の愛の奥義

 

ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)

 

もしも神の愛の奥義の見本を見たいのであれば、私たちはイエスを見ればよいのです。御父が世の初めから人びとに対して持っておられた愛の御こころを、イエスほど深く知っていた方はありませんでした。イエスは、当時律法で交わることを禁じられていた人々とも交わりを持たれました。

その中の一人にヨハネ4章のサマリヤの女があります。主は彼女に話しかけて水をくださいと頼みました。そして二人は驚くべき会話を交わし始めたのです。主はその女の人生の詳細を告げたので、彼女は驚嘆しました。

 

ここで私が衝撃を受けることがあります。それは、彼女がそれまで何人もの夫を持ち、何人もの男性と関係したにも拘わらず、主が彼女の中に価値を見出したことです。しかも彼女は現在夫ではない男と住んでいました。その上、彼女はサマリヤ人で、ユダヤ人が言葉を交わすことは律法で禁じられていました。

 

主は時間をさいて話しかけるほどに彼女に価値を見出し、そのような目で彼女を見たのです。主は彼女のよくない行状を明らかにしましたが、その話し方は憐れみと愛に満ちていたので、彼女はイエスを信じ受け入れました。彼女が町にもどって「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいます。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:39−41)と証言したのは、自分が主から裁かれたのではなく、愛されたという確信があったからです。イエスがサマリヤの女にこのように接したことは驚嘆に値します。

 

コロサイ1:15は、イエスを見るならば、神が被造物すべてに対してもともと意図されたかたちを見ることが出来る、と言っています。ですからイエスは実にすばらしい特別な方であることは明らかです。イエスがご自分のまわりの世界をどのように見られるか、どのように取り扱われるかは非常に特別で、それは実に私たちに対するお手本となります。

イエスはまわりの人々を見て、「わたしの父はあなたのために天に家を建てています。」と言われました。神は、神と共にいることを選びとる人々のために、天の家までも既に計画されている愛に満ちたお方なのです。

 

ですから私たちの心の中にはこのような愛の思い、愛の精神がなければなりません。神の愛の奥義はまず私たちの心の中からスタートします。神の愛の奥義は私たちの内にあり、それが私たちと「この地に対する神の元々の目的と計画」とを結びつけるのです。アダムとエバがエデンの園を去ったとき、神は回復の計画をもたれていましたが、その計画はイエスにおいて現実となって現れました。

 

そのご計画は、地上に神の王国を回復することだけにとどまりませんでした。イエスは人類を愛し、私たちをヨハネ10:10にある真実に「そうか、わかった!」と応答する瞬間へと呼び戻し、真に豊かな人生へと招いてくださったのです。それは即ち、神が私たちに与えてくださった元々の目的に生きる人生です。

 

主は何の資格もない弟子たちを、全教会を建て上げていくための土台となる価値がすでに100%あるかのように取り扱われました。主は弟子たちのうちに何か特別なものを見られたのです。他の誰も見なかったものを見られたのです。主は、教養もない平凡な者たちを、特別な愛と信念を持って取り扱うことにより、

リーダーとして建て上げたのです。その結果弟子たちは歴史上最も偉大なリーダーの数に入る者に成長しました。イエスはこのような方でした。そして私たちもそのような者であるべきなのです。それは人びとの内側に金を見出すのです。

 

私たちは「この人は神の御こころの中ではどのような人なのだろうか?」を見なければなりません。「神は世の初めから彼をどのような人として考えておられたのか?」を思い、「彼の誕生日、結婚相手、 選ぶ職業、その人の永遠を見ておられた神は、彼をどのような人として考えておられたのだろうか?」と。

もし神が今地上におられたら、神は彼をどのように見られ、どのように取り扱われただろうか?」と考えてみるのです。

 

ですから預言とは霊の賜物である以前に、私たちが人びとをどのように取り扱うかということを知ることであり、人びとを神の永遠の光に照らして見ることを選び取ることです。

 

ここで一つの経験をお話ししたいと思います。

あるコンベンションのために私はホノルルに行きましたが、ある人が、「ホテルに泊まらずに自分の持っているマンションを是非使ってください」と言ってくれました。一つだけ問題があり、それはマンションがホノルルのいかがわしい場所に隣接していることでした。

 

私は夜の10時頃、よくサンドイッチを買うために街に出ました。ある夜歩いていると、一人の若者が「お兄さん、何か入り用はないかい?」と言って私を止めました。彼はドラッグとか売春のことを言っていたのです。私は「いや、何もいらないよ。サンドイッチを買いに行くところだよ。」と言いました。すると彼は「本当かい?ドラッグはどうだい?」と言うので、私はいらないと答えました。

彼は「女の子はどうだい?」と言って、階段にいる女の子を指差しました。女の子は10代の男の子二人と一緒でした。(その時彼女は16歳でした。)私は「いいや、女の子はいらないけど、彼女とちょっと話をするよ。」と言いました。

 

私は彼女のそばに行き、「一緒にしたいことがあるんだけど..ちょっと変に聞こえるかもしれないけどね..私はクリスチャンで、神様が計画された人生の目的があなたにあると信じているんだよ。あなたは何のために生まれてきたか知ってる?自分がどういう者であるかを知ってる?」と訊きました。彼女は「知らないわ。」と答えました。私は「何をして生きていきたいと思う?」と聞くと、彼女はまた。「知らない。」と言いました。

 

私は「わかった。じゃあ、私の信仰をちょっと借りてみてよ。そして一緒に祈って、私が神様にあなたに代わって質問をするよ、すると神様はきっと答えてくれるよ。いいね?」と言いました。彼女は街の通りで目を閉じることを少しためらいましたが、私のことばに従って私と一緒に目を閉じました。私は「神様、私が生まれる何百万年も前にあなたが私のために考えた人生の目的はなんでしょうか?」と祈りました。

 

すると彼女は「アッ」と声を上げました。彼女はすぐ心に何かを聞いたのです。

それは「あなたはコックになることになっています。」という言葉でした。私は「あなたは料理するのが好きですか?」と尋ねました。彼女は「そう思うわ。」と答えました。私は「すごいね。本当に素晴らしい。あなたが人生に成功することが一つ分かったんだね。何から始めればいいか神様に訊いてみようよ。」と言って、「神様、わかりました。コックになるために2週間のうちに私は何をすればいいのですか?」と祈りました。

すると彼女は又「アッ」と言ったので、一緒にいた若者たちも「何?何?」と訊きました。彼らも興奮してきたのです。彼女は次のように言いました。「私の叔父さんに電話をするように言われたの。私のお母さんと叔父さんはずっと仲違いをしていて、私が家出をしてから家族や親戚に連絡したことは一度もないわ。だから私が叔父さんに電話をしたら、きっと来てもいいって言ってくれると思うの。それに叔父さんはレストランをしているから、私を雇ってくれると思うわ。」

私は「本当にすごいね。これは神様だね。神様はあなたを愛しておられるんだよ。神様はあなたが今の生活から抜け出す計画を与えてくださっているんだ。それはあなたをすごく愛しておられるからなんだよ。叔父さんに電話をすると約束してくれる?」と聞くと、彼女は「ええ。」と答えました。私は私の電話番号を渡して、彼女が叔父さんに今週電話したら、私に報告してくれるように頼みました。

 

 

彼女は翌日叔父さんに電話をしました。叔父さんは熱心なクリスチャンでイエスを愛していました。彼が女の子のお母さんと仲違いをした理由は、お母さんがキリスト教や宗教を非常に嫌っていたからでした。女の子は叔父さん夫婦と住むようになり、レストランで働き始めました。

 

8、9ヶ月経って、彼女が電話をしてきました。「信じられないと思うけどね、叔父さんが新しいレストランを開くことになって、その権利の50%を私に持たせてくれるの!」そしてそれは丁度彼女が復帰した高校から卒業する時でした。

 

神は彼女を街から信仰へと救い出して下さっただけではなく、神がご計画された召しへと導いて下さったのです。私たちは、たとえ召された道からはずれたとしても、神は私たちが相続を取り戻す機会をいつも待ち望んでおられます。ご自分の愛と人生の元々の目的を私たちに話したいと、うずうずしておられるのです。

 

私たちが人のために神の声を聞くことを学ぶならば、たとえそれが預言の言葉にならなくてもよいのです。ホノルルの女の子は自分で神から聞いたのです。神は、私たちが人びとを見るときに彼らの持つ真の価値を見るように教えたいと願っておられるのです。女の子は街の売春婦に堕ちていったかもしれませんでした。しかし神は違う道に導いて下さいました。

 

皆さん、イエスがこの世に来られたのは、御父が初めに夢見られた豊かな人生を私たちに与えるためです。それはヨハネ3:16に書かれています。そして3:17にあるように、神はこの世がどれほど悪いかを指摘し糾弾するためではなく、この世を助け、回復させるためにイエスを送られたのです。

 

今、あなたの人生を考えてください。神との関係において真の自分として生きていない部分があるかもしれません。自分をまだ神の御こころに照らし合わせては見ていないかもしれません。神はあなたを神の元々の計画と目的に回復させるためにイエスを送られたのです。

 

多くの人は私に「もうあまりにも離れ過ぎてしまいました」とか、「もうそんな時間はありません」とか、「もう年寄り過ぎます」とか、「もう機会を失いました」とか言います。「神の元々の計画と目的に回復できる道など本当にあるのでしょうか?」と訝しく思うのです。

でも真実はこれです。イエスはご自分が召された課題すべてを遂行するのに3年半しかかからなかったのです。もしあなたの人生に3年半が残されているならば、あなたには十分な時間があるのです。今これを見ている人のほとんどが「まさにこれは自分のことだ」と感じていると思います。神の御こころの中にはあなたへの愛があり、そこから神の恵みがあなたに注がれ、その恵みはあなたを変える力があるのです。そしてその恵みは神があなたに最初に願った姿へとあなたを変えて行くのです。

 

キリスト教は、あなたが麻薬中毒者であったとしても、回心すれば神にあって完全に充実した豊かな人生を送ることを可能にする唯一の宗教です。私は全くどうしようもないような過去をもつビジネスマンたちに出会って来ました。

彼らの人生は回心により突然変革され、彼らの人生から神ご自身が輝き出るようになったのです。

 

第一コリント1:26〜31は私の好きな箇所の一つですが、私たちの持つ資格について書かれています。神があなたを選んだのは、あなたが最も優れているとか、最も偉大であるとか、よい家柄であるとかいう理由ではありませんでした。神はこの世の強い者たちを辱めるために、最も弱い者たちを選ばれたのです。

 

 マタイ5:14にあるように、神はあなたを一番高い丘に置いてそこで輝かせたいのです。それはあなたが現在どこにいるかは問題ではありません。この聖書箇所は、イエスが全く何の資格もない者たちに向かって話しているところです。イエスは、彼らが神の愛の中で成長して行き、神が元々計画されていた姿になるようにされました。イエスは彼らが既に御父が当初からご計画された者であるかのように、取り扱われたのです。これが神の愛の奥義です。弟子たちは、神が計画されていた「なるべき姿そのもの」になったのです。

 

私たちクリスチャンもこのようでなければなりません。私たちは御父のこころの中にある偉大なる愛の奥義に従って、お互いを「イエスにふさわしい者」として取り扱わねばなりません。私たちは皆、イエスが十字架で支払ったすべての代価に値するふさわしい者だからです。そしてお互いをそのように取り扱うとき、それは即、預言となるのです。なぜならば、それは人をアップグレイドされた姿で見て、お互いを人生のゴールで、手にトロフィーを持った姿で見るからです。

 

私たちは互いの資格が今よりもずっとあるかのごとく振る舞いはじめます。今の姿と未来の姿とのギャップは、信仰で埋めるのです。未来の姿にふさわしい者としてお互いを取り扱うならば、私たちはイエスの御名を高く上げることになります。なぜならば、それによって私たちは神がリアルなお方であり、神の愛がすばらしいことを世に現すことができるからです。(終り)


20 06月

輝く聖さ    フランシス・フランジペイン           2017年6月20日


輝く聖さ

 

フランシス・フランジペイン

 

 

キリストが私たちの内に入られた瞬間から、私たちは聖いもの(holy)、神のために選り分けられたものとなりました。この種の「聖さholiness」は、神殿で用いられる器具が持つ「聖さ」と同じであり、それは主のために用いられる故に聖いのです。器具自体にはなんの徳もありません。材質が変化したのでもありません。主に仕えるという意味において、キリスト教は「聖い」と言えるでしょう。しかし私たちが追い求める聖さは、ただ「選り分たれている」というだけではなく、そのような者として成熟し完成することです。私たちが求めるのは、天の御父の臨在が自分を通して映しだされるような聖さです。私たちは御父のご性質とその素晴らしいいのちの両方を追い求めているのです。

 

真の聖さは、私たちの内に聖霊のいのちを実際に生み出すものですから、聖霊がどのようなお方であるかをまずはっきりと知る必要があります。神の御霊は愛であり、宗教ではありません。神はいのちであり、儀式ではありません。聖霊は、私たちが異言を語ったり証しできるようにするだけではありません。聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださるのです。そこにおいて私たちはイエス・キリストと結び合わされ交わることによって聖さを受けとるのです。

繰り返しますが、私たちが求める聖さとは、一連の規則や律法を守るということではなく、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。聖霊は私たちの内に働いて、私たちがもっと人を愛したいという新たな願いを起こさせるだけではなく、まさにキリストご自身の愛を私たちに分与してくださるのです。私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができるのです。

 

第1コリント3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあります。神の御霊が私たちのうちに住んでおられるのです。これに照らし合わせて、古からの「人とは何者なのか?」という問いかけを再び考えてみようではありませんか。私たちは自分が他の人々にどのように映っているかは分かっています。でも、もし神が本当に私たちの内におられるならば、天使や悪霊にはどのように映っているのでしょうか? 霊の世界で私たちはどのような光を放っているのでしょうか?

私たちの周りはどのような色の輝きがあるのでしょうか?

目に見えない霊の世界に向かって、「見て心せよ。神の子が今ここに来た。」と布告するのはどのような栄光の輝きなのでしょうか?

考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われたましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。

 

「聖さ」とは光に満ちたからだ

 

聖くなるためには制限があります。条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの先祖は暗やみの子らでした。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。「光の大人として完全に成熟したいならば、誠実で二心のない者でなければならない」とイエスが教えられた理由がここにあります。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全(純真 誠実 二心がない)なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と主は言われました。

 

もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができるのです。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

 

自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!

もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!

 

しかし、私たちの望みは闇ではなく光です。あなたの足は義人の道を歩いています。その道はますます輝きを増して真昼のようになるのです。ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この節は「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。

霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されているのです。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)

 

エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!

ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。

エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」

 

あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。

 

昔鉱山の山元がしたように、あなたは神の御国でしっかりと自分の領域に杭を打ち、あなたが権利を有する天国の純金を守る備えをせねばなりません。(黙示3:18参照)

そしてあなたが恵みの御座の前にずっと留まり続ける時、炉の上の熱い石炭のように、何か永遠なるものがあなたの中で輝き始めます。そしてあなたが全能の神と時を過ごすとき、神の臨在の聖なる火が、あなたの今までの人生の木やわら、草を焼き尽くすでしょう。イエスが持っておられたような力があなたの一番奥深い部分に宿るでしょう。天使たちは畏敬の念をもって見守り、あなたの金は精錬され、あなたの衣は光となり、あなたの人生は聖くなります。(終り)


19 06月

キャサリン・クーマンの夢  ポール・キース・デイビス     2017年6月19日


キャサリン・クーマンの夢


ポール•キース•デイビス(ホワイトドーブ・ミニストリーズ)

 


先週末に見た夢の話をしたいと思います。多くの場合、私が朝、目を覚ます直前に見る夢は、目的とメッセージを持っているようです。その夢はキャサリン・クーマンの夢でした。キャサリーンはご存知のように癒しや預言で大きく用いられた器ですが、私は彼女のミニストリーによって長年、沢山の事を学ぶことができました。夢の中で、彼女は一人で話していましたが、2つの要点がありました。それをお分ちしたいと思いますが、その前に少し説明をさせてください。
4年ほど前のことですが、いつものように私は静かに主を待ち望んでおりました。自分の魂を静めて、聖霊に耳を傾けていたとき、ある声を聞きました。「今あなたが信じていること、重要だと思うこと、あなたという人間の形成に最も影響を与えたミニストリーは何ですか?」という問いでした。答えはすぐに私の頭に浮かびました。「ウイリアム・ブラナム、アレクサンダー・ダウイー、キャサリン・クーマン、マライア・ウッドワース・エタ、ジョン・G・レイク、A・A・アレン」と私は6人の名前を挙げました。するとその声は「彼らの名前には何文字ありますか?」と聞きました。
私はそんなことは考えたことも無かったのですが、一つひとつ数え始めました。「William Branham...14文字。Alexander
Dowie...14文字です。Kathryn Kuhiman...これも14文字」私はこれは面白いと思い始めました。次はMaria
Woodworth Ettaの番でしたが、私は「これはいくら何でも長過ぎる」と思ったのですが、私の内の声が「わたしが彼女を召したとき、彼女はまだMaria Woodworthでした。」と言ったのです。するとそれは14文字であり、私はショックを受けました。次はJohn G.Lakeでしたが、Gが何の頭文字かを知らなかったので調べたところ、Grahamであることがわかりました。John Graham Lakeもやはり14文字でした。最後のA. A. Allenも調べてみると、Asa Alonso Allenであることが分かり、これもまた14文字だったのです!

彼らの名はすべて14のアルファベットからできていることが分かったのですが、これは私にとってとても意味深いことでした。(これについてはまたいつかお話したいと思いますが、例えば使徒パウロのミニストリーは14という数にとても関連していると思います。)とにかくこの事実は私が今まで考えもしなかったことであり、驚きでした。
この6人はそれぞれが神の御性質の一つの面を表していると思いますが、それは私にとって特別に興味深いことであり、神は私の信仰が形成される過程で彼らを用いられ、終末の時代に何を語るべきかを示してくださったのだと思います。

さて、キャサリン・クーマンから夢で語られたことの第一は、祈りの生活に関してです。彼女について研究し始めたとき、彼女が「私のベストフレンドは聖霊です。」と言ったことばに私は衝撃を受けました。私はそれに関していろいろと学んだのですが、彼女は絶え間ない聖霊との交わりに中で生きていたということです。パウロは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり(fellowship of the  Holy Spirit)があなたがたすべてとともにありますように。」(2コリント13:13)と言っていますが、彼女は実際にそのような聖霊との絶えざる交わりの中で生きていたのです。それは一体どのようなことなのでしょうか。
ある時彼女は「癒しの大集会の前にあなたはどのくらい祈るのですか?」という質問を受けました。人々は、そのような集会の前には彼女はきっとどこかに閉じこもって2、3時間くらい異言で激しく祈って油注ぎを求めるのではないかと、想像したのでしょう。けれども彼女の答えは「いつも以上に祈るということはありません。」というものでした。それは祈りの力を信じないからではなく、彼女が絶え間ない聖霊との親しい交わりの中にいたからなのです。オクラホマ州タルサの集会の後で、オーラル・ロバーツ師が彼女のところに来て、「集会で力を出しきってお疲れでしたら、外に食事に行かなくてもいいですが...」と言うと、「大丈夫です。私はこのような油注ぎの中でいつも暮らしていますから。」と答えたそうです。

絶え間ない聖霊の臨在の中で生きている人がいるのだという事実は、私に衝撃を与えました。イエスはそのように生きておられました。そしてそれが私たちのお手本です。御霊が鳩のように天からくだって、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」とバプテスマのヨハネは証言しています。(ヨハネ1:32)

少し前に主はご自分の祈りの生活についての私の理解を正してくださいました。人間的な考えから、私は次のように思っていました。「主は一日中、多くの病人を癒し、教え、説教し、悪霊を追い出して長時間ミニストリーをした後で、『主は夜通し祈られた』と聖書に書いてある。なんという献身であろうか。」と。しかし主が言われました。「あなたはわたしの祈りの生活について大きな誤解をしています。御父のもとに行き、祈ることはわたしにとって労働ではなく、報酬なのです。わたしはその時を一日中待ち望んでいるのです。」と。そして私は短い幻を見せられました。それは主が弟子たちから離れて荒野に出て行かれ、御父の臨在の中でご自分を解き放たれている姿でした。それは確かに「祈り」でしたが、又同時に交わりであり、臨在の中での豊かで親しい語り合いでした。リフレッシュの時であり、イエスの肉体が回復される時でした。又、御父との交わりの中で豊かな啓示が与えられる時でした。

私の祈りの生活とは、労働や責任ではなく、喜びであり、生き方そのものであり、絶えざる聖霊との交わりの中で一日を過ごすことだとわかりました。勿論私がそこに到達したわけではありませんが、目標はそこにあります。私がキャサリン・クーマンの生き方から学んだことの一つは、彼女がそのような主にある生き方を発見し会得していたということです。彼女はそのような主との絶えざる交わりという祈りの生活を求めるようにと、夢を通して私を励ましてくれたのです。主からのそのような招きが私たちすべてに今与えられていると信じます。

さて、夢の二つ目のポイントですが、彼女は特有の大きな身振りで力を込めて「あなたは御ことばを食べねばなりません!それからそれを口から吐き出すのです!」と言いました。その瞬間、私は目を覚ましました。彼女が言った意味を私は知っていました。黙示録10章で、ヨハネは巻き物を見せられて「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」と御使いに告げられました。ヨハネがそれに従ったとき、「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と御使いは言いました。ここで言っているのは、あなたは何かを食べたならば、それは口に留まるのではなく、腹にまで入らねばならないということです。主はこれから時代、私たちが語ったり、説教したり、預言したりするときは、頭から言葉を出すのではなく、腹から出さねばならないと言っているのです。主が求めておられるのは、もっと沢山の「説教者」ではなく、「メッセンジャー」なのです。もっと多くの「説教」ではなく、「メッセ—ジ」を求めておられるのです。

夢の要点の#2は要点#1と密接に関係しています。あなたが#1の生活をするときに聖霊があなたのベストフレンドとなり、#2が可能となります。あなたはイエスの啓示を食べ、それは腹にまで入り、それが預言となりあなたの口から出るのです。あなたはすべての人に読まれる生きた書簡となります。
この2点は非常に重要であると私は信じます。私たちにとっての鍵であり土台です。来るべきことを悟ることができるのです。あなたの語ることは生きた言葉となります。油注ぎの中から生まれている言葉です。単に暗記した言葉とか、学んだ言葉ではなく、あなたの命の中から出てくる啓示の言葉です。「預言」をあらわすヘブル語には「吐き出す」という意味もあります。終末に関する神の奥義を、聖霊との絶えざる交わりの中で受け取り、それを吐き出すのです。これは皆さんのデスティニーでもあります。神の恵みにより私たちはそのように24/7過ごすことが可能です。
イエスが御父の臨在の中でご自分を解き放たれたように、私たちも神の臨在の中に生きるとき、変革されて行き、神の生ける言葉を預言するようになるのです。(終り)


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