18 09月
わざをするのは主の御ことば
ワンダ・アルジャー(Dove Christian Fellowship)
多くの献身的なクリスチャンは、毎日の過密なスケジュールの中で、いつも山積みになっている自分がすべき「良いこと」のすべてをいかにこなしてゆくかに苦心奮闘しています。その結果、その時「最もすべきこと」に集中して十分力を注ぐことが難しくなっていないでしょうか。これは確かにチャレンジです。
又、何をするにも、欠乏したエネルギーでやっと仕事をするのではなく、あふれる力で働くすばらしさを私たちは皆知ってはいます。そのために主との深い交わりをする必要があることを分かってはいても、私たちは忙しさを理由に「すべてを巧くやらなければ」というパーフォーマンスの要求を満たすことをつい優先してしまいます。
そのような様々な自分自身の声に駆り立てられるうちに「世の中をよくしたい」という願望と「人から認められたい」という自分自身の思いが勝って、知らないうちに敵の“わな”にかかってしまうのです。
それは、自分がやっていることはこれで良いのだろうかーすなわち、本当に世の中を変えているのだろうかーを私たちは考え始めます。そして自分を人と比較し始め、いつも自分の足りなさを感じるのです。その結果、人に追いつくために頑張るとき、私たちは 恵みと心の平安をだんだん失っていきます。
私自身もこの葛藤を持っていたので、その対処方法を最近主に尋ねました。主がまず言われたことは、「立ち止まって、わたしのいうことに耳を傾けなさい 」でした。主は「心を静まらせる大切さ」を思い出させてくださったのです。それは私や、自己不信と戦っている者、何か不安を抱えている多くの者にとって、主からのレーマ(主が今語っておられることば)を聞くために不可欠なことでした。
「わたしはあなたの内で、そしてあなたを通して働いています。それはわたしがあなた(自身)のパーフォーマンスを要求するからではなく、わたしがあなたと結んだ契約の故に、わたしは(あなたの中であなたを通して)働いているのです。わたしはあなたを召し、わたしの目的のために聖め分ちました。わたしは誠実にあなたへの契約を守ります。あなたが迷ったり横道にそれた時でも、わたしの目的は変わりません。なぜならば、わたしがわたしのことばを語ったからであり、それは必ず成就するのです。
自分がどれだけ功績をあげているかと測るのを止めなさい。わたしはあなたの成績をつけてはいません。ただわたしが話したことを行ない、あなたが始めたことを完成することに忠実でありなさい。わたしはあなたのパーフォーマンスではなく、契約の故にあなたをわたしの栄光のために用います。あなたではなく、わたしのことばが業をなしているのです。」と主は言われました。エレミヤ1:12に「わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」とあります。
これは驚くべき約束です! 私たちの成功は、私たちが主のために働くからではなく、神が私たちの内に働いてくださる結果なのです。預言者の中の預言者であられる主は、御ことばを私たちの上に語ってくださったのであり、その御ことばの成就を見ることに情熱を注いでおられるのです。自分で何かを起こそうと頑張り、神の御ことばより先に進んでしまう時、私たちは混乱、無秩序、不安に陥るのです。神が私たちのために設けてくださった恵みの境界線を越えて外に出るならば、そこに平安はありません。
詩編16:5−6「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは私に受ける分を、堅く保ってくださいます。計り綱は、私の好むところに落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」
私はミュージシャンなので、「パーフォーマンス」に対する思いは私の身体にしみ込んでいます。始めはいつも「自分の最高の演奏をしよう」という良い意図で始めるのですが、それがいとも簡単に「競争」へと(それは他人との競争だけではなく、自分との競争へも)変化して行くのです。それに「宗教の霊」が加わって、あっという間に私は自分で勝手に決めた到達不可能なレベルに達するために、自分と競争してしまうのです。
従順とパーフォーマンスには違いがあります。従順は主から「言いなさい、やりなさい」と言われたことをそのまますることです。パーフォーマンスは自分が必要と考える何かを得るために、主が言われたことを越えてすることです。
私たちが「もっと」すれば、主は「もっとしてくださる」と思うところに偽りがあるのです。その結果「もっと一生懸命働き、もっと功績を上げるなら、もっと遠くまで、もっと高くまで私は行ける」という人間的な考えにひきずりこまれていくのです。
しかしながら、神の御国においては、「どれだけ速く走るか」とか「どれだけ高く上るか」ではなく、神が自分のために計画されたユニークな青図(ブループリント)にどれだけ忠実に従うかがポイントです。
比較することは私たちを殺します。それは他の人のためのレーンに入ってしまって、自分のユニークな道と目的を見失うことなのです。
主は私たち一人ひとりを召してくださいました。そして一人ひとりの上に御ことばを語ってくださいました。私たちが主に「はい」と答えた時から、主は私たちに与えられた主の目的を成就し、主が始められたものを必ず完成するという契約をかわしてくださったのです。何かを起こさせるのは、私たちの努力にかかってはいません。もうパーフォーマンスをするのはおしまいです。私たちはただ従順と安息、そして主がそれぞれに与えられた恵みの計りの中に、どのような時にも留まること、それだけでよいのです。他の人に追いつこうとしてパーフォーマンスをしなくてもよい。ただ主の御ことばに事を成していただく時、主の超自然的な恵みにより、私たちの人生やミニストリーにすばらしい実が実るのです。
あなたが自分の召しや任務を成し遂げるための恵みと安息の場を捜し求めておられるならば、パーフォーマンスや、奮闘を止めてください。立ち止まって主の御声を聞き、あなたのために備えられた道を歩きつづけてください。他の人達が全員走っているとき、主が「あなたは歩きなさい」と言われたとしても、それを忠実に歩む時、あなたは競争に勝つのです。それはあなたへの主の契約があるからです。(終り)
03 09月
問題はサタンではなくあなたです
ペリー・ストーン
マタイ16:21−23
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
新約聖書の中には、サタンから直接の影響を受けた人のことが3回出てきます。イスカリオテのユダ、シモン・ペテロ、アナニヤとサッピラです。聖書にはサタンがユダの心に入り、彼はキリストを銀30枚で売ったとあります。シモン・ペテロの場合は彼の心にきた「思い」が、イエスがなすべき事を止めようとしました。アナニヤとサッピラの場合はサタンに心を奪われ、地所を売ったお金を全部捧げると言って、実はその一部を自分たちのために残しておきました。ですからこの3つは、はっきりとサタンが彼らの考えや決断に関与していたのです。サタンが彼らの心、感情に働きかけ、何らかの反応、行動を起こさせていることがわかります。
そして「霊の戦い」と聞くと私たちは、それはただ悪霊やサタンと戦うことだと考え勝ちです。確かに、エペソ6:12には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と書かれています。
しかし、聖書を詳しく調べてみると、クリスチャンの戦いのほとんどは、悪霊やサタンに対するものではなく、内なる自分との戦いであることがわかります。あなたの敵は自分なのです。聖書の中にある3つの戦いの例をあげたいと思います。
1.2コリント10:5「私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ...」
これは私たちの考えや高ぶりとの戦いです。
2.1コリント9:27「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。」
これは肉体の訓練という戦いです。
3.2コリント7:1「...いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」
これは霊の汚れを清める戦いです。
この3つは、自分の思いの訓練、肉体の訓練、霊の訓練という戦いについて語っています。
皆さんに次の質問をしたいと思います。
「なぜ、多くのクリスチャンが汚れた習慣と戦っても勝利することができていないのでしょうか? なぜ悪い習慣を止めることができないのでしょうか?
なぜ、いつも敗北を喫して、勝利を味わうことができず、落ち込んでいるのでしょうか? どうして喜びがないのでしょうか?」
それは私たちがどのようなクリスチャンであるかに関係しています。
クリスチャンには3つのグループがあります。
1.ヨハネ8:36のグループ「ですから、もし子(イエス)があなたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
このグループの人は贖われて、イエスによって本当に自由にされ、完全に解放されたのです。
ロバートさんは30年前は麻薬売買をしていて本人も中毒でした。しかし、神が彼を解放したとき、彼は100%イエスによって自由にされました。
2.ヘブル12:1のグループ「...私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」
このグループの人は贖われましたが、完全には自由になっていません。主を愛してはいますが、まだ何かと戦っているのです。それは誰かを赦さない苦々しさかもしれません。ですから、すごく大きな事ではなく、完全に縛られているというものでもないかもしれませんが、まだ戦いがあるのです。
3.ガラテヤ5:1のグループ「...ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」
このグループの人は贖われてイエスを愛しているけれども、奴隷のくびきをまだ負っている人たちです。アルコール中毒者が救われたけれど、まだアルコールとの戦いが続いている状態です。ポルノ中毒から救われたけれど、いまだに誘惑に完全に打ちかつことができていない人です。
私たちが勝利の人生を歩むためには、第一のグループ、即ち、完全に自由にされた霊的なクリスチャンにならねばなりません。
誘惑に負けず自分をコントロールし訓練するのは簡単だと言う人は、痩せるためのダイエットを幾つも変える人のことを考えてみてください。それは決して簡単なことではありません。
聖書では私たちは御霊によって歩まねばならないと言っています。その意味は、あなたの思いを常に御ことばと御霊とに一致させて生活するということです。肉の欲望を満たすのではなく、内なる自分を訓練して御ことばと御霊に従う道を選びとるのです。
ある時、一人の青年がやってきて、「情欲をもって女性を見る」という誘惑について相談しました。私は彼がそのような思いから解放されるように祈りました。一週間後に彼は又やってきて「すばらしいです。私はもはやそのような感情に惑わされることがなくなりました。」と言いました。ところがまた一週間後にやってきて、「職場にミニスカートの女性がいて、どうしても情欲の目で見てしまいます。」というので、また解放の祈りをしようとすると、神が私に言われました。「彼に必要なのは悪霊を追い出すことではなく、彼が自分を訓練することです。He
does not need deliverance . He needs discipline
.」ミニスカートの女性を見たら、何回もその人を見るのではなく、すぐに目を逸らして再び見ないように、内なる自分をしつけなさい、と神は言われたのです。
悪魔は今でも私たちの心に働きかけますが、私たちは神と御ことばと聖霊により頼むことによって、いつも自分を訓練し、悪魔の罠からのがれる力を受けることができるのです。ですから問題は悪魔ではなく、あなたなのです。私は怒りっぽい性格ですが、深呼吸をして「今怒りの言葉を発することは止めよう」と自分をしつけるのです。何度も失敗をしてきましたが、だんだんに訓練しています。(終り)
28 08月
天国の恵み
キャット・カー
天の父への唯一の道はイエスです。イエス・キリストの贖いの血潮を受けることが天国に行く唯一の道です。これこそ私たちが天国に関して知るべき最も重要な情報です。次に、救われたあなたはキリストのように生きねばなりません。あなたがイエスの贖いを受けいれ、自分をクリスチャンと呼ぶのならば、キリストのように行動せねばなりません。自分のためではなく、神のため、人びとのために生きるのです。
私はすでに自分を神に捧げています。神に「どうかあなたの御こころのままに私を自由にお用いください」と申し上げたのです。そして聖い人生を送ることを選びとりました。それは私たちが自分の意志で選びとることなのです。あなたはこの世のものを欲しますか?
それとも神のものを欲しますか?私は何よりも神のものが欲しいと願いました。
ですから聖い人生を追い求めました。それは私が一つも間違いを犯さなかったということではありません。いつも申し上げていることですが、私は間違いをしてきました。誰でも時として罪を犯してしまうものです。しかしポイントは、罪をそのままにしておかないことです。すぐに悔い改めるのです。遅れてはなりません。あなたは罪をそのままに放置して、その結果すばらしい天国の経験を失いたくはないでしょう。ヘブル12:1に「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とある通りです。私たちはこの世で偉大な競走をしているのです。そしてゴールインしたいのです。
そのゴールとは天国です。そして天国は今私たちを見守っているのです。私は人を裁かず、愛をもって語り、いのちの川を口から流れ出すという訓練を主から受けました。そして1996年から主は私を霊で天国を眺める旅に連れていってくださるようになりました。神の御霊はいつでも好まれるときに、私の霊を天国のいろいろな場所に連れて行ってくださるようになりました。あなたは神の臨在の中に生き、御座の部屋にいつでも入っていくことができます。御座の部屋の階段に立って御父の栄光を仰ぎ見るとき、そこから流れてくる愛の波に圧倒されるのです。
もしもあなたの愛する人が亡くなって天国に行ったならば、彼らは決してまた地上に戻りたいとは思っていません。彼らは自分が元々ここから地上に行ったのだと分かるからです。そこが彼らのいるべき場所であることが分かるからです。この事実は愛する人を天に送った人への慰めでもあり、また天国をゴールにしている人への希望となります。
今は私たちが神の臨在と力と愛を地上で顕していくべき時であるので、神は今までよりさらにご自分を啓示してくださっています。神は本当にリアルなお方です。天国は実際にある場所です。それは霊的な世界であり、私たちは霊のからだで生きるのです。
あなたが死ぬと、あなたは自分の肉体から抜け出ます。その時のあなたは壁を通ってふわふわと漂うようなものになるのではありません。神はそのような存在に素晴らしい住まいを与える方ではありません。あなたが普通に生きるように住まいを与えてくださるのです。あなたの肉体から抜け出すものは、完全な形をした霊の身体であり、天国に行くとあなたは地上と同じように(もっと素晴らしく)霊の身体で生きるのです。天国の人びとは本当に麗しく立派なのでいつも驚かされます。天国には老人はいません。今すでに歳を取っている人にとってはうれしいことですね。皆は天国に帰って王や王妃のような服装をしています。天国で彼らは王の息子、娘だからです。
天国には食べ物もあり、それは光で出来ています。神が「光よ。あれ。」と言われて光を最初に造られたのには大きな理由があるのです。地上のほとんどのものの中には光が含まれています。科学者たちもそのことを知り始めています。食べ物は光で出来ていますが、ステーキや、ピザ、バーベキューチキンとか、何でもあなたが食べたいものの味と香りがします。それは食べるとあなたの中に完全に吸収されていきます。ですから天国にトイレはありません。体重が増えることもないし、食物のアレルギーもありません。
「天国に食べ物などない」と思う人は「小羊の婚宴」のことを思い出してください。天国では食べ物は生きるために食べるのではなく、食べることを楽しむために食べるのです。キリストは栄光のからだになった時にも食事をされました。
死んだ瞬間、人に何がおこるか
死の瞬間に起こることを知るのは、死への恐れを取り去ることができるのでとても大切です。神は幾人かの人が死ぬ瞬間を私に見せてくれました。愛する人を失って地上に残された人たちは、その悲しみを長く引きずることがあります。愛する人の死は長い病床生活の末か、事故や何かの悲劇であったかもしれません。しかし、もし彼らがあなたに話すことができたならば、「私はそんなことはもう少しも考えていませんよ。もう全く気にしないでください。今私は主と共に楽しく暮らしているのですから。」と言う事でしょう。肉体の身体を離れた瞬間から、彼らはもう何の苦痛も恐れも心配もなく、神の栄光に包まれて完全な自由、完全な愛を感じるのです。それは彼らを守る御使いたちが迎えにきていて、素晴らしい乗り物で天国まで連れていってくれるからです。彼らは後ろを振り向いて家族に手をふって「さようなら」と言うのです。
天国まで銀河や星雲を通って行きます。
天国に近づくと、天使たちが列を作って迎えてくれます。彼らは神の子が一人帰ってきたので、神を賛美しています。乗り物から降りる場所に、あなたの家族が待っていてくれます。
そこから天国の門に行くと、そこにもあなたを待っていた人がいます。もしあなたが流産などで子を失ったならば、その子がそこで待っています。あなたの飼っていたペットも待っています。あなたが愛していたからです。門のところで出迎えてくれるのはペテロではなくアブラハムです。彼はあなたをしっかり抱いて「お帰りなさい。」と言います。
いのちの川が黄金の道に流れていて、人びとが川に飛び来んで、あなたに水をかけます。その水は神から流れているので、あなたは神のいのちで満たされます。次にあなたは御座の部屋に連れて行かれます。御座は部屋の奥ではなく、部屋の中央に高く上げられているので、直ぐに見つけることができます。四つの生き物は翼に目が沢山あり、非常に大きくて、神の栄光を称えています。御父からは虹が出ています。
イエスが御座から階段を降りて来て、あなたを連れて登り、御父のところに連れていってくれます。イエスの顔は非常に美しく輝き、あなたは圧倒されます。あなたはイエスに愛を告げます。イエスは180センチくらいで筋肉たくましく、黒っぽい巻き毛が肩までかかっています。目は愛のプールのようです。あなたはイエスへの愛でいっぱいになり、ただ主を誉め称えます。主は「わたしはあなたを父のところに連れていかねばなりません。わたしは父への愛の故に死にました。十字架のわたしの報償は、救われた者を一人ひとり皆父のもとに連れもどすことです。」と言われます。
そしてあなたは父の御座に近づきます。御座の部屋に流れる音楽は本当にすばらしいものです。それは天使の歌声が幾重にも重なっているように聞こえました。沢山の人がいました。子どもたちは御座のまわりで賛美し、踊り、お祝いをしていました。御父からは青い稲妻が出ていて、それはものすごいいのちのパワーがあり、人びとがそれに触れると御父からの愛の波を受けるのでした。それはまるで御父の臨在の中に吸い込まれていくような感じでした。あなたはどんどんと御父に近づき、栄光の輝きの中に白く輝く髪をした父の顔が見えるようになります。父は手を伸ばしてあなたを抱きしめて、「わたしの息子(娘)が帰ってきた」と言われるのです。
パウロがピリピ1:23で「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」と言っている意味が、その時わかるのです。ですからクリスチャンにとって死を恐れる必要は一つもありません。
地獄について
地獄は恐ろしいところであり、そこに行きたいと思う人は誰もいませんし、行く必要もないのです。それが福音です。神はあなたが地獄に行かなくてもよいように道を備えてくださいました。地獄はリアルなところであり、サタンも悪霊もリアルです。サタンや悪霊は、地上で人びとを陥れる任務を与えられています。あなたを罪に陥れて、神の声や、自分の良心の声を聞くことができなくします。ですから、もし罪を犯すならば、よくよく考えてからにしてください。あなたは自分の意志で罪を犯し、暗やみの王国へと入っていくのです。自ら敵の陣地に入り、敵にあなたの人生を支配させるのです。
「まあ、少しくらい罪を犯しても、神の恵みが覆ってくれるからいいわ。」というようなものではありません。恵みはあなたに罪を犯す権利を与えるのではありません。恵みはあなたが罪を犯さない力を与えてくれるのです。
毎日受けとることが出来る恵み
ある時、神はある一つのことを教えるために私を天に連れていかれました。それは「豊かな人生のための恵み」のことでした。永遠のいのちのために恵みがあり、それは十字架からもたらされます。しかしイエスご自身も恵みを受けておられたことが聖書に書かれています。
ルカ2:40「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」
神はイエスを恵みで満たされ、地上でのイエスの人生が豊かなものとなり、敵の攻撃に打勝つ力を与えられたのです。
この天からの恵みという燃料は、御父が御子をこの世に遣わされたときに与えられたものですが、私たちもそれと同じ恵みを受けることができると神は言われました。聖書には私たちは恵みの御座に近づくことができると書かれています。もしあなたがクリスチャンならば、永遠のいのちの恵みは救われた時にすでに受けています。
しかし、この恵みは豊かないのち、豊かな人生のための恵みです。キリストがこの世に来てくださり、私たちは豊かないのちを持つことができるようになりました。私たちは毎朝起きたときに、天を仰いで「お父様、今日のための恵みを頂きたいと願います。そしてそれを受け取ります。天から恵みという燃料を私は引き出します。」と祈るのです。御父はイエスに与えたのと同じ天からの燃料を私たちの中に注いでくださり、私たちは毎日の生活の中でその素晴らしい燃料を燃やしていくことができるのです。
天からの燃料をあなたが持つならば、敵はあなたに手を出すことが難しくなります。どのような問題が起ころうとも、あなたは豊かな人生を送るようになります。神は私に言われました。「あなたの人生は変わります。毎日喜びで満たされるようになります。祈りの部屋から出るときに、あなたはその日をむかえる準備が整っています。」私は天でいろいろなことを経験しましたが、この恵みの受け取り方を教えてもらったことが一番すばらしいことでした。
あなたの家族がまずあなたの変化に気づくでしょう。今までのように小さなことで文句を言うことがなくなります。人のゴシップをしたり裁いたりしなくなるのに気がつくでしょう。あなたが「天国」で満たされているからです。この恵みは荒野のマナと同じように、ただで自由に受けることができるのです。マナも各自が毎日集めに行かねばなりませんでした。天の恵みもあなたが求め受け取らねばなりません。神は誰でも「天国で満たされる」ことができることを知ってほしいのです。人が「一体あなたに何が起こったのですか?」と尋ねるほどあなたは変えられます。その時あなたはこの簡単な祈りをその人に教えてあげることができます。
パウロが「肉体のとげを取り去ってください」と祈ったとき、イエスは「わたしの恵みは、あなたに十分である」と答えられました。イエスはパウロにこの恵みを与えられたのです。
私たちが祈る時、何が起こるか
祈り、特に義人の熱心な祈りには大きな力があります。私たちが聖書のことばや神に与えられたことばを宣言して祈ることは大きな力があるのです。あなたが祈るとき、霊の世界ではあなたの口に剣が現れ、祈りの中でそれがどんどんと形造られていきました。
ダニエル10:12には、主の御使いは「ダニエルのことばを聞いて」来たことが書かれています。御使いは私たちのことばが武器になるのを待っているのです。
御使いはあなたの口から剣を取り、あなたの祈りに関して 敵と戦い始めます。あなたの祈りのことばは霊の世界で用いられる武器であり、とても重要です。
あなたがワーシップをするとき、あなたは霊の世界の中に何かを解き放っています。すべてのワーシップは御座におられる神のこころへと入っていきます。地上で私たちがワーシップをすると、それは敵がいる第二の天に上っていきます。敵は私たちのワーシップを止めることができず、ワーシップは敵を攻撃します。私たちのワーシップは武器になるのです。詩編149には「聖徒らの口にある神への称賛は、鉄のかせで敵を縛る」と書かれています。ですからあなたの祈り、ワーシップは神のために戦う武器となります。神はそれをとても喜ばれます。それは御座の部屋のかぐわしい香りです。私たちは御座のまわりのワーシップと声を合わせて神を賛美し続けるのです。(終り)
21 08月
神の通訳者
ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)
私は「Translating God(神を翻訳する)」という本を2015年に出版しました。何か外国語を翻訳や通訳するときは、ただ言葉の意味をそのまま訳すだけではなく、その言語の背後にある精神とカルチャー(文化生活様式)を理解し、それが聞く人に伝わるように訳す必要があります。それと同じように神の言葉(預言)を聞いた時は、その言葉に含まれる天国のカルチャーを正しく理解し、人に伝えねばなりません。
神は今の時代に生きる私たちに親しく語りかけたいと願っておられます。そして今まで教会で不当な扱いを受け覆い隠されていたものを現し、それによって私たちにもっと自由を与え、新しいレベルに引き上げたいと神は願っておられるのです。それは即ち「知識のことば」と「知恵のことば」で、神はこの二つを預言のムーブメントの中に今、回復しようとしておられます。
「知識のことば」は、1コリント12章にある御霊の賜物の一つです。その働きは、ある人の過去や現在に関する情報を神から得ることによって、その人を神の愛の中に招き入れることです。もしあなたがレストランにいるとき、神が突然そのウエイトレスの誕生日を教えられたとします。それは「知識のことば」です。誕生日は子どもでも70歳の人でもとても大切なものです。もし誰かがあなたの誕生日や生まれた場所を知っていたならば、「どうして知っているのか?」と驚くことでしょう。一人ひとりユニークに造られていることをみんなでお祝いする日ですから、いつ生まれたのかは大切です。神は私たちに関するすべてを愛しておられるので、私たちの人生のすべての情報は神のこころの中に入っているのです。
神がその人の誕生日を知っていたということで、その人は神に心を開きます。そして神が自分のすべてを知り、愛しておられることを知ることによって、神からのことばに心を開きます。このような「知識のことば」を用いるミニストリーは今まで失われていました。しかし、イエスは何度もそれを実行されましたし、弟子たちやパウロも何度もこの賜物を用いました。それなのに、現代のキリスト教では用いられておりません。実際のところ、それは魔術だとか心霊術だとか言われるのです。今まで私が知識のことばを用いた時、他のクリスチャンからどれほど非難されたか数えきれません。前もってその人のことを調べたのだろうとか、カルトではないかと言われるのです。
次に「知恵のことば」は、あなたがすでに持っている神からの預言や啓示をどのように扱えばよいのかを教える神からのことばです。あなたの人生に預言が与えられたならば、その預言に関して実際どのように行動して行けばよいのかを具体的に神から聞く必要があるからです。
私たちは同じ事を何度も複数の人から預言されることがあります。私もある事に関する預言をいくつも受けて「もう結構です、十分です!」と叫びたい時がありました。預言のことばを受けても、それを実際にどう成就して行けばよいのか全くわかりませんでした。「神様、知恵をください。」と私は祈りました。ヤコブは知恵の無いものは神に願えば豊かに与えられると言っています。
「知識のことば」と「知恵のことば」がキリストのからだに現在欠けている要素です。あなたは「でも私は預言的ではありません。」というかもしれません。しかしヨハネ10章には「わたしの羊はわたしの声を聞く」とあります。あなたが救われているのなら、あなたは預言的なのです。なぜならばあなたは主の声を聞いたから、あなたのうちで何かを聞いたから救われたのです。
ある人が教会にやってきて「これは皆さんすべての人のためです。」とか「すべての人ができます」とか言いますが、そんなことはありません。
祈ってもらって倒れる人もありますし、倒れない人もあります。私は2度ほどお義理で倒れたことがあるだけで、本当に倒れたことはありません。みな一人ひとりユニークなのです。ユニークなアイデンティティーを持っていますから、自分に合わない型やモデルもある、それでいいのです。
しかし、すべての人は預言的です。それは他の預言的な人の型にははまらないかもしれません。私は現代の預言者を何人かそばで見ながら成長したので、彼らの真似をしてみましたが、彼らの型は全く私には合っていませんでした。
神を知るに従って、私たちは自分を知るようになり、自分自身を受け入れ自分に合った方法で出来るようになります。でもすべての人に共通しているのは「主の羊は主の声を聞く」ということです。ヨハネ16章でイエスは、聖霊がやがてこられ、御父のこころから出ることを告げる、と言われました。聖霊は例外なく、すべてのクリスチャンに御父の思いを告げてくださいます。
長年の間、私は大富豪や有名な俳優、プロデューサー、ディレクター、また極貧にある人や癩病人と話す機会がありました。15分か20分も話すと、誰の人生でも神がすでにその人に語られたことがあるのが分かってきます。
神は私たちの人生を通して私たちを追い求めておられ、私たちが神の慈しみの中で生きることを望んでおられます。
ある教会では、もし預言者がそこにいるならばその人だけが神から聞けるのだ、というように考え勝ちです。私はカンサスシティーの教会に1993年から2005年まで行っていました。最初の2年間は、教会に複数の預言者がいたので、他の人が預言をすることは推奨されていませんでした。
ある時、預言者の一人が3ヶ月留守をするので、彼の受け持ちの祈り会を私が担当するようにと頼まれました。私が19歳のときでした。私は「このグループではいつも皆さんはどのようにしていたのですか?」と尋ねると、「まずリーダーである預言者が啓示を語ってくれて、その後で私たちは彼のミニストリーのために祈りました。」ということでした。
預言者のために祈るのは悪いことではありませんが、 みんなの人生とはあまり直接関係はないように思えます。彼らは20年間、このようにしていたのというのです。
私は「皆さん、わかりました。じゃ、壁にむかって立ってください。そして『自分には権威がある』と感じるまで『ジーザス、ジーザス』と言い続けてください。」と言いました。彼らは「一体どういうことでしょうか?」と聞きました。私は次のように説明しました。「私は皆さんが、自分が持つ権威をまだ感じていないように思います。ですから神というお方を教えてくださる聖霊とあなたがコネクトして、自分の神にある権威を確信するようになってほしいのです。あなたがパワフルになり、『イエスは私が願うことをしてくださる』という確信を得るのです。
あなたは力を得て、他の人から力を貰うのを待つ必要はなくなります。あなたはうちに力を持っているのです。
1ヨハネ2:20に、『あなたがたには聖なる方からの油注ぎがあるので、だれでも知識を持っています。』とあります。他の人から教えを受ける時もあるかもしれませんが、それが一番のライフラインではありません。神が私たちのライフラインです。」
そこで、彼らは皆、壁に向かって立ち「ジーザス、ジーザス」と言い始めました。だんだん私も聖なる畏れを感じ始めました。これらの成熟したクリスチャンが自分の権威を認識し始め、すべてが変わり始めました。彼らは自分で神に聞くことを許されたのです。それはただイエスの名を呼ぶ事によって起こりました。
カリズマや使徒的ムーブメントの中で、何かが変っていってしまったように感じます。それは、周りで起こっていることがとても素晴らしく興奮するようなことなので、私たちがもうそれを見るだけで満足してしまうということです。しかし、私たちは本来、自分を通して神がされることに感激し興奮するべきなのであり、周りで起こることは「おまけ、ボーナス」だと考えるべきです。今、教会に霊的倦怠、霊的鬱が蔓延しているように私は感じるのですが、それは自分自身の内におられる神がどのようなお方であるかを、私たちが認識していないからだだと思います。
私たちは人びとに預言する以前に、まず神がその人に持っている御心を知り、それを同じ心を持たねばなりません。ですから一人ひとりが神の御こころを聞く訓練をしなければなりません。そうすれば神をもっと尊ぶようになり、それと同時にあなたも神にとって尊いもの、価値のある者であることがわかります。あなたは最早「神よ、私は無価値なものです!」と叫ぶ必要はなくなります。あなたは価値あるものです。祭壇の前で、「私は罪人です。あなたは私を愛してはおられません。罪が私をあなたから引き離しました。」と言う必要はもうないのです。あなたがどういう者であって何をしてきたかに関係なく、神と私たちを結びつけてくださるイエスという方がおられるからです。
その土台からスタートするならば、それは傲慢でも、自己陶酔でもありません。それは実に健全な自己表現であり、残念ながら現代のキリスト教で失われているものです。なぜならば「神を愛するためには私たちは自己を否み、自己に死ぬ必要がある」と教えられてきたからです。しかし私たちが殺さねばならないのは肉の罪の業です。私たちはずっと「神を愛するには自分を憎まねばならない」という二元論のようなものを教えられてきました。しかし実は私たちは神を愛するためには自分自身を愛さねばならないのです。
主の戒めも「あなたの隣り人を愛せよ」ではなく、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」です。ですから自分を受容し、自分を愛し、イエスによって力を受けることがなければなりません。
そして預言は愛という枠の外では機能しないのです。ある時、私はある有名な牧師の教会に行きました。彼のメッセージはすばらしかったのですが、途中である女性のポップスターの非難を始めました。そのスターは世の中に非常に悪い影響を与えていると言って、びっくりするような口調、言葉で非難したのです。でも私は、彼女が前の晩に私の友人のクリスチャンと出会い、「これから神を求めて行きたい」とその友人に語ったと聞いたばかりでした。この有名な牧師の言葉はきっと多くの人に影響を与え、人びとのうちにポップスターに対する憎しみを起こしてしまうでしょう。私は悲しみで打ちのめされました。
その時、 神が私に「あなたが愛さないものに対して、あなたは決して権威を持つことはできない」と語られました。その牧師はポップスターを愛してはいませんでした。彼の言葉によって、彼女はもう多くの人の心の中で「近づいてはならない人」として分類されてしまったのです。私はこのことから多くのことを学びました。この牧師は彼女を愛していなかったので「宗教的不寛容さ」をむき出しにしてしまったのです。預言とか御霊の賜物は、愛がなければその権威を持つことはできません。今教会に権威が欠如しているのは、愛が欠乏しているからだと思います。
私たちが愛で心を開くならば、神は私たちに権威を与えないわけにはいかないのです。1コリント14:1でパウロは、本当に預言的になるためには、命がけで愛を追い求めなさい、そして預言を熱心に求めなさい、と言っています。どうして神の愛を追い求めて、そして預言を熱心に求めるのでしょうか?
それは、預言とは「神の御国、神の愛、神の御心」を、ここで今(here and
now)ある一人の人に現すことだからです。神は遍在される方ですが、今ここに預言を通してご自分を現してくださるのは、神の最大の贈り物の一つです。
神は時間と空間の中にいる方ではありません。ですから「今ここに」という私たちの時間と空間の中に現れてくださるのは、神が時間を割いて私たちを尊重してくださるということです。時間というものは、何よりも尊いものです。それはお金より、他の何よりも尊いものです。私たちの人生は一回だけで、そこに栄光の王、王の王、すべての名にまさる神が顕在し、私たちに出会ってくださるということは、本当にすばらしいことです。それはただの聖書の情報ではありません。神がことばと霊をもって現れてくださるのです。その出来事は永遠にその人の一部となるでしょう。現代のキリスト教はこの部分をずっと失っていたのです。
神ご自身が語られるので、その人は素早く変革されます。カウンセリング、心理学、精神学、量子論など、いろいろなものは人の人生を変えます。研究が進み、以前にはなかった新しい技術や方法が今私たちのために用意されています。私もそれは素晴らしいことだと思いますし、神は油を注がれていると思います。しかし、これらのものは、神との一度の出会いに代われるものではありません。あなたは神の友となるように召されているのであり、それによってあなたの周りの世界に神との出会いをもたらすことが出来るのです。あなたは神のこころを周りの世界に通訳するように召されています。そして人びとの複雑な人生の問題に神の愛のシンプルな解答を与えることができるのです。(終り)