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Walk With God Ministries


29 01月

  リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから    リック・ジョイナー   2018年1月29日


2018年1月26日の

    リック・ジョイナー師のフェイス・ブックから

 

                    リック・ジョイナー

 

リバイバルがやって来る

 

 もうお聞きになったかもしれませんが、今世界中にリバイバルが起きようとしています。アメリカでもその気配を強く感じています。今年2018年は世界中で大きなリバイバルが、また2019年には更に大きなリバイバルが、そして2020年には地域を一掃するような広大かつ圧倒的なリバイバルが起こるでしょう。

 私はこのところそれを声を大にして云っていますが、間もなくリバイバルと同時に、大きな「霊的覚醒」が起こります。それは歴史始って以来三度目の過去最大のアウェイクニングとなるでしょう。リバイバルは通常平均して2−3ヶ月、長くて英国ウエールズ地方とかアズサ・ストリートで起こったもので1−2年しか続きませんが、霊的覚醒は30−50年という長期に渡るものです。

 今年は皆さん、ぜひ期待し見張っていて下さい。アメリカ、特に私たちのサウス・カロライナ州地域でも、早ければ今年、多分来年には必ずリバイバル起こると予期しています。

 

 この数週間私は地が揺れる振動を感じて来ました。それが最近のアラスカ地震で現実となりましたが、私は今、西部沿岸、特にロスアンジェルスと、シアトルにshaking(地が震われると同時に霊的な震いも起こる)ことを祈っているところです。ロスに起これば、前回のアズサよりもっと大きな(過去に起こったジーザス・ピープル・ムーブメントのようなものも含む)ものに発展し、それがヨーロッパから世界に向かって大きく波及することが十分考えられます。

 つまり世界中でこのリバイバルの波と大アウェイクニングが起こるのです。皆さん、CATCH THE WAVE ぜひその波を見逃さず、キャッチし乗って下さい。

 

 

獅子の口を閉ざさせたトランプ大統領

 

 先週は、ダボスで恒例の年一回開催される世界経済会議が開かれました。これには世界のエリート経済人と共に、今迄世界を支配しようとして来たグローバリストを含む各国首脳政治・経済人の蒼々たるメンバーが集まっておりました。

 これにトランプ大統領が出席し、公式の場でのスピーチは僅か15分余でしたが、それが世界から集まった著名人の頬を平手打ちする程に圧倒したのでした。これを例えるなら、世界を制しようとする世界の獅子たち(特にグローバリスト)の口を完全に封じ込んだといえるのです。

 というのは、世界各国、特にヨーロッパの多くの国は今大変な危機の中にあります。彼らの問題は、深刻な経済の行き詰まりとか伸び悩みだけでなく、この数年間取って来た全く無責任な放任主義の「移民政策」のツケが廻って来て、今やテロを含む移民犯罪者を取り締まることができない程の深刻な問題になっています。例えばドイツでは警官を襲う暴徒の犯罪だけで一年に3万5千件に達するという、考えられないような(無政府状態的)危機に陥っています。

 

 一方そんな中で、アメリカはどうかといえば、過去最高の経済ブームに入っています。例えば、株式証券取引面だけ見ても、最近の株価値上がりによる価値上昇額は総計で8兆億ドルに達するといわれます。一方失業率を見れば過去最低という数字を示し、しかもそれは移民して来た少数人種の人たちの失業率でもそうです。加えてアメリカ企業への巨額の投資ブームが起こり、それに最近国会を通過したタックス・カット(減税案)の影響により、何と250万にのぼる民間企業会社が既に減税を見込んだボーナスの支払いを発表し、賃金値上げが続々提示されているというのですから、今アメリカは歴史始って以来、空前の経済ブームに湧いているといって過言ではありません。

 

 ところが一方で「フェイク・ニュース問題」も世界に広がりつつある深刻な状態にあり、むしろヨーロッパの方がアメリカ国内を超える程フェイクニュースが氾濫しています。従って多くのヨーロッパの国々の要人たちはアメリカの真の状態を知らされていませんでした。それについて私は25年前に警告(預言)しましたが、アメリカの報道会社CNN EUROPPA の画策がヨーロッパでのフェイクニュースの氾濫に大きく貢献して来ました。

 しかしそのフェイクニュースが嘘であることが最近人々に知れ渡って来た結果、今回のトランプ大統領のダボス参加に多くの人たちが関心を持ち集まって来ました。しかもこの大会でトランプ大統領が演説する時には多くの反トランプの人たちが退場するだろうといわれたのですが、実際には誰も退場しませんでした。今となっては多くの人が真実を知って、ヨーロッパを去る人さえ出始めていると云われます。

 確かにトランプ大統領は今回、グローバリストという獅子が群れる檻の真ん中に放り込まれたかに見えましたが、逆に彼こそ真の愛国者のチャンピオンだと称えられたのです。

 

 それでは最後に改めて申し上げます。いよいよリバイバルの時が来るのです。それぞれの国、それぞれの場所でリバイバルへの用意をして下さい。そしてリバイバルが起こったら、すかさずその場所を訪ね、その波に乗り、その燃える火を持ち帰って下さい。リバイバルは燃え広がる炎です。(終り)


22 01月

預言の召し       ビル・ジョンソン                2018年1月22日


預言の召し

 

ビル・ジョンソン

 

 訳者注:最初にお断りしておきますが、今回のジョンソン師のお話は(師の礼拝時のメッセージです。)今の時代のクリスチャンに最も必要なものであると判断し、特に重要な部分を下線を付けさせていただきましたことをご了承ください。

 

すべてのクリスチャンは、 預言をし、その機能の中で生きるようにと召されています。勿論、預言者の働きに召されていることと、預言的に生活するのとは違いがあります。しかし、もしあなたが神から預言者の働きに召されていても、名刺は作らないでくださいね。バプテスマのヨハネのことをイエスは一番偉大な預言者と言いました。しかしヨハネが「あなたは預言者か」と訊かれたとき、彼は「違います。」と答えました。人びとは今度はイエスの所に行き「ヨハネがその預言者か」と訊くと、イエスはそうだと答えられました。これは面白いですね。歴史上最高の預言者が自分の肩書きを知らずに、ただ神から与えられてた任務を果たしていたのです。どのような肩書きで呼ばれるかよりも、あなたがどのように働くのか、どのように機能するのかの方がより重要です。ヨハネは「私は荒野で呼ばわる声だ」と言いました。肩書きが悪いわけではありませんが、あまり重要なことではありませんね。

 

民数記11:24「ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊が留まった。—彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。—彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」

 

私はこの箇所がとても好きです。私たちが契約によって他の人びとと繋がっているとき、彼らが受け取るものを私たちも受けることが分かるからです。ある種の相続は個人にではなく家族に与えられるのです。70人の長老は幕屋の回りにいましたが、2人の長老はなんらかの理由で、宿営に留まっていました。神の霊が70人の上に下り、彼らは預言し始めましたが、それと同時に宿営の2人も同じ霊の油注ぎを受けて預言したのです。

 

どのようにそれが起こるのかを私は知りませんが、すばらしいことだと思います。あなたがある人と関係を結んでいるならば、その人に打ち破りが起こると、それはあなたのものでもあるのです。

トム・ジョーンズ師は、数年前にブラジルで主とものすごい出会いをしました。それは何時間にも及ぶもので、聖書に書かれている出来事のようなレベルのものでした。彼の人生はその出会いによって全く変えられました。そして彼は全く知らなかったのですが、丁度同じ時に彼の奥さんはフロリダの高速道路を運転していて、その時主とのものすごい出会いが起り、運転を続けることができず、車を道の横に止めねばならないくらいでした。何が起こったのでしょうか。これは人との繋がっている恩恵であり目的です。私たちは人との繋がりから退いて人間関係を結ばないという自由は与えられていないのです。ベテルの学校の学生たちの夫や妻は、毎日学生がクラスルームで受けとる分与を同じように受けるのです。

 

28節「若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。『わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』しかしモーセは彼に言った。『あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればいいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』」

 

旧約聖書では、ほとんどの場合、聖霊が下った者は誰でも主のことば、預言を語りました。即ち、聖霊に満たされたというしるしは、預言を語ることだったのです。パウロが聖霊の賜物について語ったとき「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と言ったのは、これが理由だと思います。皆さんは「預言」と聞くと、集会中に行われるものだと考えると思いますが、それは預言の働きの5%くらいです。預言とは私たちの生き方、機能の仕方、考え方、見方、コミュニケーションだと思います。それは「主が言われます」という言葉で始まったり終ったりする必要は全くないのです。それはある状況の中で、時に適った言葉を語ることであり、それが主からのものであるならば、人びとの人生に実を結び、彼らは主に栄光を帰すことでしょう。言葉は「宗教的」に発せられる必要はないのです。主の言葉が発せられたとき、それは霊的空気を変えます。世界はそのような人たちを必死に求めています。

 

今、世界では宗教の霊(religious spirit)と政治の霊(political spirit)がはびこっていて、それによって神のことばは薄められ、歪められています。ですから正確ではっきりした言葉、力ある言葉が世界の国々、町まちに届けられることを主は願っておられるのです。

 

私たちは毎日、うそ偽りを語られています。もし何かしらのメディアを聞くならば、そこに含まれる偽りを聞くことになります。(フェイク・ニュース)それは意図的な嘘というよりは、「自分の信じるところを是非伝えたい」という気持からのことが多いかもしれません。しかし、その人の視点が間違っていると、すべてをそのレンズを通して見てしまい、結果としては真実な報道は出来ないのです。

何年も前のことですが、あるサタン崇拝者が救われ、牧師が彼を経済的にサポートしました。メディアはそれを聞きつけて、牧師がこの男を用い、「サタン崇拝者を救った牧師」としての名声を保持しようとしているのだと報道したのです。

そして「この元サタン崇拝者は、牧師からの金でゴルフコースが見えるマンションに住み、ゴージャスな車を運転している」と報道しました。これは本当のようですが、全く本当ではありませんでした。牧師が彼にお金を与えたのは、彼が必要としていたカウンセリングのためでした。彼は虐待を受けて育ったので、傷が深かったからです。ゴルフコースを見下ろすマンションというのは、ただのアパートで、ゴルフコースというのは、ミニチュアゴルフでした。車もすごく古いものでした。ですからすべて「本当」でしたが、まったく真実ではなかったのです。

 

「宗教の霊」と「政治の霊」は、共に「疑いの霊」を分与します。疑いの霊は、ある状況を曲げて解釈し、人びとの心に不快感、腹立ちの霊を起こさせます。それは一見預言の霊のように見えますが、じつは偽物です。その霊を受けると、あなたは「このままには放っとけない!どうにかしなくてはならない!何か言わなければならない!」という強い気持を抱きます。しかしその情報のもとが実際は偽りの霊であることが分からないのです。「疑いの霊」は人から人へ分与されて行きます。あなたは間違った情報を聞いて、当然ながら心を揺さぶられます。それが間違った情報だと分からず、その結果、あなたは間違った反応をし、間違った行動をしてしまうのです。(訳者注:今のアメリカはまさにそうです。)

 

レディングの空港に戻ってくると、時々私をののしるクリスチャンに出会います。多分それは、彼らが私に関するインターネットを見たか、人から何かを聞いたからだと思います。彼らの私に関する「確信」は正しいかもしれません。ただ彼らが信じた「情報」が間違っていたのです。彼らの態度から、「私は主のためにこれをしているのだ!」という強い確信があることが分かります。正しい行動だと信じているのです。しかし誰かが偽りを彼らに信じ込ませたのです。

 

預言的で霊的見分けが出来る人たちは「真の預言の油注ぎ」と「疑いをもたらし、自分の意見を通す怒りの霊」とをはっきりと見分けねばなりません。人生の最大のチャレンジの一つは、あなたが愛し仕えている人が持つ怒りと同じ怒りを自分も持ってしまわないようにすることです。それはとても難しいことです。例えば、あなたが貧しい人を一生懸命助けているならば、金持ちに対して腹を立てないでいるのは困難です。もし裕福な人たちへのミニストリーに召されているならば、きちんと働かない人たちに腹を立てないでいるのは困難です。大学生へのミニストリーをしているならば、保守的政治グループに腹を立てないのは困難です。老人にミニストリーをしているならば、若者に腹を立てないのは困難です。インディアンにミニストリーをしているならば、彼らに不正を行ったものたちに腹を立てないでいるのは困難です。

 

私たちの働きの実は、私たちがどれだけ人びとを愛し、折りに適った神のことばを与えることができるかによって決まります。

自分の考えを押しつけたり、自分の益になるからではなく、彼らの益のために100%神から受けたことばを語るのです。そして彼らが持つ怒りを自分は持たないことです。歴史上、私達がどれほどこの国のカルチャーに良い影響を及ぼすことができるかは、私たちが「怒り、立腹」という感情をどれほどコントロールできるかにかかっています。これが真理です。(注:自分に死ぬ必要がある)

 

イザヤ60章は私の人生を変えた大好きな箇所であり、現在の教会のための預言だと思いますが、その一つ前の59章21節は、60章に書かれていることが起こるための舞台を作っています。

 

「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしにことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」

 

「神の御霊が人びとにくだること」と「神のことばが彼らの口にあること」の密接な関係がここでも言われていることに留意してください。神の御霊が私たちに留まっている証拠は、私たちの口から神のことばが発せられることなのです。イエスは「わたしは父の言われることだけを言う。」と言われ、私たちが話すべきことの基準を示されました。地上を歩かれ人の中で、一番すばらしい独自の考えを持っていた人は、多分イエスだったことでしょう。けれども主は自分自身のことばは何も語られなかったのです。

 

ヨハネの福音書7:18には「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。」とあります。自分から語るとは、御父が語られていることに耳を傾けようとせず、自らのことばを語り、それによって密やかに名を上げようとする行為です。

 

使徒行伝3を見てみましょう。2章の聖霊の大いなる注ぎの後のことです。24、25節に「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。」とあります。イザヤ59章はイスラエルに与えられた言葉でしたが、預言的には「贖われた者たち、即ち教会」に対して言われたことばです。そして使徒3:25は明らかに教会へのことばであり「あなたがたは預言者たちの息子、娘です」と明言しているのです。

 

これは「あなたや、あなたの子孫、あなたのすえのすえの口にわたしのことばを置く」という契約の成就です。神が私たちに御霊をくださり、いずれの世代においても地上に神のことばを宣言し解き放つことが出来るようにされたのです。私たちが受け継いでいる相続財産が何なのかを知ることは重要です。まず神が「私たちがどのような身分の者であるか」と言っておられるかを知らねばなりません。自分の「神にあるアイデンティティー」を知るときに、自分の受けている相続財産を用いることができるのです。それは傲慢でもなく、自己中心でもなく、自分に自信があるということでさえありません。神があなたを「預言者の息子、娘である」と言っておられるのです。それによってあなたは「神の御霊を受け」「神のことばを語る」正当な権利があります。この二つは同じことなのです。

 

イエスは肉となったことばであり、神の臨在は神のことばと同じです。神の臨在をあなたが感じる時はいつでもそこに神の声があるのです。そして神の声があるときはそこに臨在があるのです。

 

イザヤ51:12、13「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りをおそれている。」

 

神は私たちが恐れるとき、やさしく慰めてくださる方ですが、この箇所では「わたしが慰めると言っているのだから、あなたには恐れる権利はない!」と厳しく言われています。あまり聞きたくないことばかもしれませんが、時として神はこう言われるのです。

 

もし私が内向的になり「どうしよう、こんなことになって私の人生はどうなるのだろう。」とつぶやき始めるならば、私は恐れで一杯になってしまいます。恐れは時として自己中心の表れです。それは天を引き延ばされた方を見失っていることだからです。その方が「わたしが慰める」と言っておられるのです。私たちが恐れるのは神を見失った証拠です。この箇所で神は私たちの「人に対する恐れ」を取り扱っておられます。「人に対する恐れがなくなるように祈ってください」と頼まれるとき、私はもちろん祈りますが、人への恐れに対処するためには「神を恐れること」を知ることが必要です。両方を一度に恐れることはできません。

 

人を恐れるとき、あなたは「神への恐れ」を「人への恐れ」と取り替えてしまっています。人への恐れを持ってしまったとき、私たちはその罪を告白し、悔い改めねばなりません。それによって人への恐れから解放され自由になるのです。人を恐れることから神を恐れることへの転換は、直ぐにできることです。

 

15節「わたしは、あなたの神、主であって。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたのくちに置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ。』とシオンに言う。」

 

神はご自分が祝福した者たちを守る方です。祝福した者が敵に食い尽くされるのを見放す方ではありません。祝福し、守ってくださる方です。主は「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた、わたしの手の陰であなたをかばう」と言われます。そしてそれを通して「天を引き延べ、地の基を定める」と言われます。これは「天にあるごとく地にもなさせたまえ」という祈りの旧約聖書版です。神は「天を地にもたらすプロセス」とそのための手段を語っておられるのです。一つの世界(天)にある現実をもう一つの世界(地)にもたらす方法であり道具です。それは即ち「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた」とあるように私たちが神のことばを宣言することに他なりません。

 

モーセは「すべての民が預言者ならよいのに」と祈りました。イエスは、預言者や霊の父祖たちは私たちが見ているものを見たいと切に望んだと言われました。モーセはあなたや私が生きている今という時代、神のすべての民が預言的な油を持つ時代を夢見ていたのです。私たちの預言は第一に自己中心であってはならず、次に人を暴いたり痛めたりするものであってはなりません。それは人のデスティニーを呼び出すためのものです。主を知らない人であっても、私たちの口を通して神がその人の中にある尊い金塊を呼び起こし、その人の人生が変えられてきたことを、私たちはこの数年間に幾度となく見てきました。彼らはそれまで聞かされていた偽りではなく、神の真実のことばを受け取って、方向転換ができたのです。今ここにいる皆さんすべてに対して、神は力強い、ポジティブな正しいことを宣言されています。私たちがそれを聞き、しっかり受け止めたとき、私たちは変ることができるのです。主は私たちが主の御声を聞くようにと召してくださっています。今は「神の声を聞くこと」ほど嘲られていることはありません。しかし私たちは神の御声を聞きながら、それに従って生活するという預言的な生き方ができるのです。それははっきりした大きな御声とか、壁に字があらわれたというものではないかもしれません。しかし、神の臨在、御霊の臨在の中で生きるライフスタイルを始めるとき、あなたは主の思いを思い、主のことばを語り始めるのです。それは頑張って一生懸命に神の御声を聞くというのではありません。実際、私は頑張ると何も聞くことができません。神を聞くことは努力からではなく、降伏することからくるのです。あなたが自分の決意と努力で(即ち肉で)求めるのに疲れたときに、神は語ってくださいます。

 

 

エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」

ここにある「恵み grace」とは神の特別の厚意です。あなたが誰かを励まそうとして口から出したことばを神が承認されるとき、神はその人に恵み、特別の厚意をそそそがれるというのです。

仕事関係の人、或いは近所の人に、何か励ましのことばを語ったり、神がその人の人生にしておられることを告げたり、その人のすぐれた才能を認めたりするとします。そのようにあなたが人の徳を養うことばを口からを出すならば、神はそこに恵みを置き、厚意を置いてくださるのです。

神は「わたしの息子、娘が、わたしからの励ましをこの人に伝えたのだから、わたしは勿論それをバックアップせねばなりません。」といわれるのです。

 

預言的ライフスタイルとは、常に神の臨在と共に歩み、神の思いを自分の思いにしていくことです。そして人びとの徳を高めることばを口から出す時、神がそのことばのバックアップをしてくださるのです。(終り)


03 01月

人生における障害物は私たちの愛の容量を最大にする エリザベス・エンロウ   2018年1月3日


 

2018年を迎えて      坂  達 也

 

皆様明けましておめでとうございます。いよいよ「ニュービギニング」への突入ですね。

 新年最初に私の心に浮かんだみ言葉は2テモテ3章でした。それは私たちクリスチャンこそが、2テモテ3:5にある「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」になり、そして7節で「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち」になり果てていることでした。そして「そうなってしまっている状態からいよいよ真に脱皮する年であるという強い思いをいただきました。

 すなわち形だけのクリスチャンであること、これを現代風にいい直せば、フェイク・クリスチャンを止めて本物の信仰を持つ信者になれということではないでしょうか。2017年はこの世の中のあらゆる面で「フェイク」な者たちを浮き彫りに暴露して、主はそのような人を私たちへの戒めとして暴かれ始めました。

 

 しかし、それはまさに、パウロが上記の3章1節で「終りの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」といった警告とマッチします。

 そこで本日は下記のメッセージをご紹介し、新年に神が、私たちクリスチャン一人ひとりのために特別に用意される「困難」「試練」にどのように対処してゆけばよいか、それが私たちを「本物」にする、その神の奥義の一端を学んでいただければ幸いです。

 

 

人生における障害物は私たちの愛の容量を最大にする

 

エリザベス・エンロウ

 

私たちの魂が出会う様々なシーズンは厳しい時もありますが、もしそこに神を見出すならば、私たちのうちに何かを生みだすユニークで良いものとなります。夏の日々は暑すぎますし、冬は寒すぎます。季節はそれぞれに素晴らしいところもありますが、またそれなりの試煉や問題があります。それは何故でしょうか。この質問に答えるために夫の言葉を引用したいと思います。

「人生は障害物競走であり、あなたの愛の力を最大限にするために神によってデザインされたものです。」

 

第一のポイント

人生は障害物競走です。人生は楽であるようには作られていません!

ある走者がこれは短距離レースだと思って走りだしたら、実際はハードル・レースを走っていたとしたらどうでしょうか。彼はただ速く走ればいいと思っていたので、ハードルに出会う度に邪魔な物があると感じ、驚き、ショックを受け、いらいらすることでしょう。しかしもし彼がハードル競走のために訓練を積んでいて、ハードルが或る事を予測していたならば、このレースに勝利するために訓練してきたのですから、ハードルを飛び越えることを楽しみながら走ることでしょう。

障害物競走でも同じことが言えます。多くの者がそのために訓練し、障害物が現れるのを予期してそのチャレンジを楽しむのです。障害物競走のコースに置かれた障害物は、それを征服して勝利することがポイントです。人生のシーズンは困難も多いですが、私たちがそれを克服して勝利者になることを教えるという大きな目的を持っています。ですから障害物に出会ったとき不平を言って走るのを止め、疲れて動けなくならないようにしてください。どうか走り続けてください!

 

第二のポイント

あなたが今走っているコースは、あなたのために神によって特別にデザインされたものです。それが苦痛を伴うものであれば、あなたは落胆してしまいそうになるでしょう。苦痛は混乱をもたらし、他のどんなものよりも惑わしへの扉を開いてしまいます。しかしその反面、苦痛は真理を明らかにする力があり、私たちがそのようにとるならば、人生の最高のギフトを与えてくれることもできるのです。苦痛の源は神ではありません。しかし苦痛を止められるのは神しかなく、もし神が止めてくださらなければ、それは私たちが絶望へと転がり落ちる坂道への 戸を開くことになるかもしれません。

 

 

希望の本質は、神が自分には善いことをしてくださるお方であると信じて期待する能力です。希望を失うと、私たちが物事を受けるフィルターが損なわれます。そして自分に対する神の真の御思いが見えなくなり、神に対する悪評を拡大する者として敵に用いられてしまうことにもなりかねません。それだけはしたくありませんね。ですから時として神が非常に苦痛の大きい障害物競走をあなたにデザインしたとしても、それは神があなたの苦痛に無関心であるとか、そこにずっと留まるようにと言っているのではありません。とにかく走り続けてください!

 

第三のポイント

障害物競走の持つ目的は、あなたの愛の力を最大限にのばすことです。即ち、自分がどれほど深く愛されているかを知る能力を最大限にすると共に、自分が受けたその愛を人に与えていく能力を最大限に大きくすることです。自分がそのような愛の能力において成長しているのを見るとき、与えられた障害物競走の困難なシーズンを正しく受け取り、通過するのに成功したことが分かるでしょう。

 

愛よりも大いなる勝利はありません。それは私たちではなく神が定義する「愛」のことです。即ち、寛容で、親切であり、人をねたまず、自慢せず、高慢ではなく、礼儀正しく、利己的でなく、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ、、、そのような愛です。そして「愛は決して絶える(fail 止む、失敗する)ことがない」のですから、障害を乗り越えて勝利するとき、あなたはこの神の愛を学んだのです。

 

即ち、神の愛はあまりにも完全であるので、私たち自自身の内からは決して出て来ません。あなたの周りのすべての人が「神はあなたを愛していない」とか「神は信頼できない」と言ってあなたを説き伏せようとします。しかし、あなたの痛みや「楽になりたい」という願望を越えた神の優しさを聞き、神の愛にあなたの心の的を射ていただくならば、人に分け与えることができるほどに豊かに神に愛を受けとることができるのです。

 

ヘブル12:1は「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と言っています。

実際の試合の時、 優秀なスポーツマンならば誰でも基本に戻り集中することが大切です。私たちも人生の障害物レースを走るとき、「忍耐し続ける愛」という基本に戻らねばなりません。神を十分に愛してください。自分を十分に愛してください。人々を十分に愛してください。そして走り続けてください!(終り)


18 12月

新しい靴       ボニー・ジョーンズ               2017年12月18日


新しい靴

 

ボニー・ジョーンズ

 

 

フレッシュな油注ぎ

 

今シーズンに私は靴に関する夢を数回見ました。靴は主との歩みを表しています。今は新しいシーズンであり、私たちは今まで歩いたことのない道を歩くのです。主は次のように語ってくださり、私は聞いたことをただそのまま書きました。

比喩的で面白く素晴らしいと思いました。

しかし面白い話ではありますが、私はこの言葉を真剣に真面目に受け取っています。今はキリストのからだが主と共に歩き、他人の召しを羨むのではなく自分の召しを遂行すべき時だと思います。嫉妬やプライドを持つ余裕はありません。主が別の人のためでなく、自分のために備えてくださったコースを完走せねばなりません。この主の御ことばは面白いですがとても重大です。どうか読んで祝福を受けてください。

 

主の話「全員が新しい靴をもらう」

 

すべてのクリスチャンが新しい靴を受け取ります。なぜでしょうか?

古い靴がすり減ったからです。ある人たちは今までどこにも行かずに同じところをぐるぐる回っていました。なぜでしょうか?人生を歩む「目標とその行程表」がないからです。今日、わたしは聞く耳のある者に行進命令を出します。

 

ある者たちは山を登っていましたが、頂上に着くことはありませんでした。なぜでしょうか?

彼らが途中で止めてしまったからです。道が険しくなりあきらめてしまったのです。障害物で先が見えなくなったのです。太陽の光がまぶしく目がくらみました。彼らは神の御子から啓示を受けても、プライドが高かったので自分の計画を捨ててわたしに従うことができなかったのです。それで彼らの靴はすり減りました。ほこりまみれでボロボロになり、底には穴があきました。

 

ある者たちは人生のレースを走り出したけれど止めてしまいました。彼らは死よりも命を選び取る決意が固まらず、すぐ脱げてしまうようなゴム草履(フリップ・フラップ)をひっかけていい加減に歩いていました。彼らは舌にくつわをかけることをせず、何の自制もできませんでした。彼らの足はすぐにくたびれ、道ばたにすわって誰かが水をもってきてくれるのを待っていました。

また、ハイヒールで歩こうとした者たちがいました。彼らはすぐに足が痛くなり、驚いてすぐ靴を脱いでしまいました。彼らのゴールは自分を高くして人々に感銘を与えることでしたが、歩き続けることが出来ませんでした。彼らは少しずつ背が伸びるのを待つべきだったのですが、プライドの故に早く高くなりすぎたのです。高ぶりは滅びに先立ちます。彼らも道ばたに座り、リフレッシュされるのを待っていました。

ある者たちは小さすぎる運動靴と締め付けすぎた紐で走り始めました。彼らの足は豆が出来て痛くなりました。なぜでしょうか。もっと大きな靴が必要だったのです。成長するスペースが必要でした。彼らは謙遜で臆病で、ものを言うのを恐れていました。口にくつわをはめ、痛みをこらえて走り続けました。そして傷つき渇いてレースを終え、それなりのよい報いを受け取りました。

 

すべての者は、今日、新しい靴を受け、新しい任務を与えられます。彼らはそれを受け取るでしょうか、拒むでしょうか?今まで通りに歩くでしょうか、それともわたしのあとを歩き始めるでしょうか?

選択権は彼らにありますが、わたしはすべての者に新しい靴を差し出しています。平和の靴や愛の靴、彼らが想像したこともないほどの高みに連れていく靴です。啓示の靴、奇蹟の靴、繁栄の靴、成熟の靴です。

 

誰がわたしについてきますか? 誰がわたしと一緒に歩きますか?

さあ、来なさい、今日から一緒に歩き始めましょう。あなたが求めさえすれば靴は無償で与えられます。わたしに従って来なさい。

 

新しい歩み

 

わたしの子どもたちはこの道を歩いたことがありません。それは今が新しい時であり、新しいシーズンであり、彼らが過去にしてきたことは今のシーズンには役に立たないからです。わたしは創造しようとしています。新しい音や歌、新しい内臓や身体の部分を創造しています。ワーシップと讃美の家を造っています。男性や女性のグループの親しい交わりを造り出しています。わたしは新しい仕事の機会を造り、新鮮な香りを漂わせてます。

 

わたしの子どもたちは疲れたりつまずいたりしません。やすらかに歩きその荷は軽いでしょう。彼らは困難にぶつかるでしょうか?

確かに困難はあるでしょう。彼らは社会を変革させていく者であり、世はそれを喜ばないからです。彼らはわたしの名の故に糾弾、罵倒されますが、決して動かされません。それはわたしが彼らと共に歩いているからであり、人びとはわたしを動かすことは出来ないからです。

 

新しいアイデンティティー

 

現在、アイデンティティーの危機が起こっていますが、わたしの子どもたちにはそのような危機はありません。彼らが新しい靴を受け取り、わたしのうちに歩み始めるならば、自分が何者であるか、どのような位置を占めているのかと疑う者は一人もいないでしょう。なぜでしょうか?

キリストのからだの中にアイデンティティー泥棒がいなくなるからです。嫉妬、プライド、恨みは道ばたに捨て去られました。それを捨てなければ新しい靴は支給されません。捨てるのが困難な者もいましたが、ある者たちは素早く脱ぎ捨てました。

 

すべての者は疲れて痛んだ足を足湯で癒してもらいました。次に彼らの足を柔らかく滑らかにして新しい靴を履く準備をするために新しい油が塗られました。

靴は一人ひとりのためのオーダーメイドでした。同じものは一つもありません。わたしは一つひとつ彼らの任務にあわせて選びました。ある者は短距離を全速力で走り、ある者は山に登り、ある者は長距離を走るのです。ある者たちはハイヒールで歩くことさえ学び、新しい高みに上げられるでしょう。(以上が主からの言葉です)

 

結論:今は 新しい歩み、主にある新しいアイデンティティーの新しい日です。過去のことを振り返ることはもうできません。私たちは後ろ向きにレースを走る事はしません。ゴールを目指して人生のレースを走り、倦み疲れてはなりません。私たちは測り直され、サイズを合わせ、清められ、フレッシュな油を注がれました。私たちの旅路は今始まったのです。主の後に従い、信仰の一致をもって共に聖霊の橋を渡ろうではありませんか。(終り)

Bonnie Jones
The Prophetic Ministry of Bob and Bonnie Jones
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12 12月

主の臨在に浸る(ソーキング)    パム・ワトソン         2017年12月12日


主の臨在に浸る(ソーキング)

 

パム・ワトソン (Pursuit church in Auckland, New Zealand)

 

 

詩編37:7「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」

 

これがソーキング(soaking 浸る)の本質です。私たちが神の臨在の中に浸るとき、それは安息して神を待ち望む姿勢です。このように主を待ち望むことを、以前は「タリイング tarryingじっと留まって待つ」という言葉で表現していましたが、それは主を待ち望んで何時間もそこに留まることでした。しかしそれはほとんどの場合、聖霊に満たされるのを目的とし、聖霊を受ける準備を整えながら、嘆願しながら、長時間待ち続けるというものでした。

幸いなことに、今私たちはイエスと神の御こころをより深く知るようになり、私たちが嘆願するまでもなく主は御霊を私たちに注ぎたいと願っておられることを理解しています。ですから主にソーキングするとは、タリイングのように懸命に神に叫び求めるのではなく、主に安息し信仰によって受け取ることを強調しています。

 

栄光から栄光へと変えられる

 

第二コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

神の臨在に浸るとき(ソーキングする)、私たちは主を仰ぎ見るようになり、それによって主のように変えられていくのです。主の臨在に浸るとき、私たちは主を見るようになります。そのとき私たちは必ず変えられます。私たちは栄光から栄光へと変えられ、主に似た者へと更に変革されるのです。

 

主を待ち望む

 

イザヤ40:31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

 

この有名な聖句は、私たちが神を待ち望むときに何かが起こることを教えています。神という存在が、私たちの上に、そして私たちの中に、現れるのです。それは「私たちの弱さが神の強さと入れ替わること」であり、又、「私たちの足りなさが神の能力と入れ替わること」です。神を待ち望んで時を過ごす時、まさにそれが起こります。

多くの者は毎日の生活の中で、すでにこのことを経験しています。朝、主と時を過ごすとき、私たちの一日は力を受けます。神の臨在にソークするとき、この効果は更に強化されます。

 

神を敬慕する

 

ソーキングとは、また、主を喜び、主を敬慕することです。

雅歌2:3−5「私の愛する方が若者たちに間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」

 

神の臨在にソークするのは、主の陰に座り主の臨在の果実を食べるようなものです。雅歌の花嫁のように、私たちも大喜びでそうすることができます。この箇所はまた、主が私たちを酒宴に伴ってくださる時に何が起こるかも告げています。

 

それはただ主だけに可能なのですが、まず私たちが主の臨在の中に入り座すことから始まります。その時私たちは、自分に対する主の愛のもっと深い領域へと伴われます。それは酒宴の席に喩えられています。これは主に対する私たちの愛が増し加わるだけではなく、主の臨在のぶどう主を飲んだ者の外面にも表れる結果となります。人々が笑い、震え、泣くことも多々あります。そしてそのような経験は「酔う」という言葉で表現されることもあるのです。

 

静まり、そして知りなさい

 

詩編46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)

 

この勧めも又、静まって神の臨在の中にソークするときに、神を知り神を経験することが出来ると教えています。主の前に静まるとき、神の臨在の重さ、栄光を感じることができます。しかしこの境地を求めるとき、困難を覚えることもあります。それは、私たちの肉は非常に活発で落ち着くのにしばらく時間がかかるからです。

しかし私たちの肉体ですることは、霊的な領域に力強い宣言をすることとなります。私たちが神の臨在の中に横たわるとき、それは主に降伏し安息を求める姿勢であり、主はそのような私たちの願いを受け取ってくださいます。

 

ソーキングの時にワーシップミュージックをかけるのは助けになります。音楽は雰囲気を整え、心を開き私たちの霊が神への崇拝に立ち上るようにします。崇拝は聖徒たちの愛の歌であり、ただただ主を愛し敬慕するとき、私たちは主の臨在の豊かさを更に大きく経験するでしょう。

ソーキングは肉を静まらせ、霊を立ち上らせます。その時、身体の中に住む「霊」こそが「真の自分」であることに私たちは気付きます。私たちの霊が主との交わりと敬慕の中に立ち上がり始めると、私たちの肉体は完全に安息し、私たちの霊は目ざめて主から何かを受け取る用意が整うのです。

 

主の臨在の中にいる結果

 

多くの場合神からの啓示は、臨在の中でソーキングした結果得られる実です。主は御こころの秘密を私たちに明かすことを喜びとしておられます。

解決すべき私たちの問題を取り扱い、私たちの置かれた状況や問題のために知恵を与えることを喜びとされるのです。

ソーキングで主を待ち望むときに与えられるものの素晴らしさや偉大さは、詩編27で示されています。14節のダビデの宣言でそれは最高潮に達します。

詩編27:14「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」

この詩編でダビデが言っているすべての事への鍵は、主を待ち望むことです。即ち、「1−3節:敵に直面したときの確信と力、4−5節:神の家、神の臨在の中に一生住む願望、6−8節:喜びのいけにえと御顔を求めること、9−13節:敵に対する勝利と神の慈しみを得ること」です。

 

これらすべては神の臨在から流れ出てくるものであり、私たちが神を待ち望むとき、即ち神の臨在の中にソーキングするときに与えられます。

 

イザヤ30:15−17「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』

しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。ひとりのおどしによって千人が逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗やぐらしか残るまい。」

主はここで「救いは主に立ち返り、主に安息することから生まれる」と私たちを励ましておられます。これこそがソーキンングの姿であり、ただ主にのみ可能なことに信頼するのです。主に安息することによって実る実は「静かに落ち着き確信がある」ことです。これが私たちの力の源となります。

残念ながら、私たちの肉は非常に強く支配欲があります。私たちは何かをしたい、したい、したいと思うのです。神の臨在にソーキングするには、何もしないことが必要ですから、それは肉に対する侮辱となります。それ故に人々は葛藤し、神に立ち返り安息することを拒絶します。その結果、人々は敵の攻撃に対して肉では勝利できないことを思い知らされるはめになるのです。

 人々は自分の「馬」は戦い抜くことができると思います。そして自分の努力が失敗に終った時も、主に立ち返るのではなく、以前の2倍の努力をするようになります。その結果、彼らは山の頂の旗ざおのようにポツンと残されるのです。それは、枝を打ち払われた木のように、実が一つもなく枯れ果てたように見えるのです。

イザヤ30:18「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」

 

主は何と恵み深いお方でしょうか!

 

彼らは待たなかった故に死んだ旗ざおのようになりました。しかし、主はその時が来るまで待っておられ、彼らを恵みあわれむために立ち上がられました。

そして彼らを救われたのです。主を待つことの方が私たちにとってどれほど優れた道でしょうか!

私たちが待つ者になることを選びとるならば、主は私たちを恵み、あわれんでくださり、そして主の正義を現されて私たちの人生を祝福してくださいます。主を待ち望むことを選びとるとき、それは何と素晴らしい実を実らすことになるのでしょうか。

 

ソーキングは努力するだけの価値を持っています。それは時間を要しますし、自分に死ぬ必要がありますが、その報いは大きいのです。主の臨在への覚醒が増し加わるだけでなく、主の臨在のすべての実や益があなたの人生に解き放たれます。ソーキングは自分の家でいつでも一人で出来ることですが、グループですると

パワフルなものとなります。クリスチャンが集まるとき、グループ全体への油注ぎがあり、神の臨在を見つけるのが容易くなります。

どうかソーキングを始めて、楽しんでください!(終り)


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