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Walk With God Ministries


16 10月

生きた細胞からなる教会(1) ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)


生きた細胞からなる教会(1)


ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)



私が若者たちに伝道し始めた時、主が語られました。
「あなたは地下の教会で働く用意がありますか?」それを聞いて私は、世界で弾圧されているキリストの教会のことかと思いましたが、そうではありませんでした。教会という木があるとすると、地上の目に見える部分の下に、もっと大きな根の部分があるのです。私たちは教会に何か問題が起こると地上の部分ばかりを取り扱いますが、実は根の部分が重要なのです。それは即ち、小グループ(様々な呼び方がありますが、私は「living
cell 生きた細胞」と呼んでいます)の働きです。実に聖書は地上の部分よりも地下の部分に重きをおいています。教会の最初の200年は、
使徒行伝2:46やローマ16:5にあるように、基本的には公の場所での集会ではなく、家での集りでした。

使徒行伝20:20でパウロは「人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え」と言っています。「人々の前」とは地上の部分であり、「家々」とは地下の部分です。私たちには両方が必要なのです。しかし過去2千年にわたって教会には、地下の部分が欠けていました。使徒行伝ではコルネリオの家(10章)やピリピの看守の家(16章)で起きたことが書かれ、最後はパウロの家での伝道で(28章)終っています。しかし、残念ながら私たちは今、ほとんど地上の教会のことばかり話しているのです。ですから神は地下の部分を今から回復されようとしておられるのです。

私の歩み

1980年の初頭、義父が牧師をしていた教会の礼拝に私が出席していた時、主が「わたしはあなたに新しい教会を立てさせます」と言われました。私はその時、すぐに主が言っておられることを理解しました。人と人とが生きて繋がっている教会、生きた関係のある教会です。そして私はホームグループをつくり始め、その年の暮れには3つの小グループができ、日曜には25名ほどが集まって礼拝するようになりました。その後いろいろな失敗を繰り返しましが、主の恵みにより2年後には順調に成長するようになり、毎年300人ずつ増えていきました。

私たちの教会はペンシルベニヤ州の小さな田舎町にあるのですが、10年後には千人の教会になりました。しかし私たちのフォーカスは常に地下の部分でした。教会員は何らかの地下のグループに属し、グループのリーダーは教会のリーダーに繋がっていました。時には地上の部分、即ち日曜の全体礼拝の代わりに、地下グループがそれぞれの場所で礼拝したりしました。その結果百名の新しい人が教会に加えられました。

また、私たちが生み出し育てた多くの牧師、小グループのリーダー達を他の教会に送りだすことを主は許されました。今は世界23カ国に700の教会、何千という小グループがありますが、これはすべて主がなされたことであり、聖書が言うように教会の地下の部分にフォーカスしてきた結果なのです。

聖書に見る小グループの12の価値

1.収穫のための備え
世界には今リバイバルが起こっている国々があります。現在まだ起こっていない国でも、聖書には終りの日に主は御霊を注がれるという約束があり、多くのとりなし手が祈っていますから、やがてリバイバルが起こるのは間違いありません。ですから私たちはそのために備えをする必要があります。主は「新しい皮袋」が必要だと言われます。(マタイ9:37、マタイ9:17、ヨハネ4:35)
人々は日曜日に教会で皆で礼拝し、ちょっと挨拶をして家に帰るだけでは養われないのです。「生きた細胞」のような小グループに属し、そこで訓練され整えられる必要があります。

  教会の地下の部分がその役目を果たし、そこで霊的父親、母親が霊の子どもたちを育てるのです。多くの人が救われても教会に定着しないのが現状ですが、彼らを根付かせるのは小グループです。

  2.人々にイエスと親しくなる方法を教える
  ヨハネ17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
  神を知るためには、神と親しい人と共に祈ることほど効果的な方法はありません。小グループはそのような環境を与えます。それは人間関係、信頼関係がそこにあるからです。人々は本当に心を打ち明け相談が出来る人、一緒に祈ってくれる人を求めているのです。

  3.伝道のため
  マルコ1:17「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」
  生きている小グループならば、内側だけを向くのではなく、外にむけてリーチアウトし、いのちを分け与えていくのです。グループの人が手をつないで内側を向いているのではなく、手をつないで外側を向いている姿です。内側だけを向いているならば、そのグループはよどんでいきますが、外側を向くと命を得ます。小グループが陥りやすい間違いは、ずっと同じ人たちと手をつないで内側を向いていることです。

  4.大宣教命令の遂行—弟子をつくること
  マタイ28:19の大宣教命令でイエスは、ただ回心者を作るのではなく、「弟子」をつくるように命令されました。小グループでは皆が弟子を育てるという業をすることができます。弟子作りは、弟子がまた次の弟子を作れるようにせねばなりません。グループの中の人と1対1で時を過ごして育てて行くのです。気を付けて避けねばならないのは、リーダーがマニュアルに従って運営してしまうことです。本当のリーダーは自分一人で話したりグループをコントロールするのではなく、皆が話せるようにします。教えることの大好きなリーダーは困りものです。小グループに教師はいらないのです。

  リーダーは次のリーダーを育て、彼が新しいグループを作れるようにします。そのためには副リーダーを沢山作るのがよいのです。そして彼らにいろいろな責任を分担させていくことで、彼らがリーダーとして育ち、小グループがどんどん増えていくのです。

  5.教会は建物ではなくて人々であることを教える
  マタイ16:18「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
  イエスはここで建物のことを言っているのではありません。私たちは「教会に行く」のではなく、私たちが教会なのです。

  6.すべての聖徒はミニスターである
  聖職者がすべての働きをするというのは、間違いであって、すべてのクリスチャンはそれぞれにミニストリーをする賜物を頂いています。そしてそれを十分に働かすことができるのが小グループです。

  ある時グループの一人が亡くなり、その家族がグループリーダーに葬儀を執り行ってほしいと言ってきました。リーダが牧師である私に相談したので、私は「是非しなさい。」と励ましました。そしてそれは素晴らしい葬儀となりました。なぜならば、リーダーが故人をよく知っていたからです。又、子どもを無くした夫婦を慰め助けるために出かけた牧師は、もうすでに小グループの人達が
夫婦に必要なミニストリーをすべてしているのを見たのでした。私たちは2千人の教会ですが、そのミニストリーの95%は聖職者ではなく人々によってなされています。人々をミニストリーへと解放してください。


  7.信頼できる人間関係を打ち立てる場所
  第1ペテロ2:5「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」
  私たちは救われる前は死んだ石でしたが、今は生ける石となりました。聖書は生ける石が一つでいるのではなく、一緒に霊の家に築き上げられねばならないと言っています。日曜の礼拝では生ける石たちは山積みになっています。お互い同士の関係はありません。ただ少し挨拶を交わして歌を歌い、説教を聞き、献金をして帰るだけです。石が築き上げられるためには、どうしても小グループが必要だと私は思います。

  8.霊的倍増を予想し期待する
  神の創造はすべて何倍にもなるのです。しかし、そうなることを予想し期待しなければ、それは起りません。小グループも成長し、何倍にも増えていくのです。

  9.臨機応変と創造性を促す
  神はユニーク性を好まれます。同じ聖書の原則を用いても、実際のやり方は、教会により、文化により、小グループにより違うのです。聖霊のおられるところに自由があります。常にユニークで創造的なグループであり続ける知恵を主が下さることを期待してください。創造はいのちを解き放ちます!もしどのグループも同じようならば、何かが間違っているのです。

  10.クリスチャンに力を与える
  ヨハネ14:12「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ないます。」
  第二テモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
  小グループの中で人々に働く場を与え、彼らが成長するのを助けることができます。

  11.チームを作りあげる
  アモス3:3「ふたりの者は仲がよくないのに一緒に歩くだろうか。」
  第一コリント12:28「そして、神は教会の中で人々を次にように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
  小グループにおいて真の信頼関係を築き、それぞれの賜物を生かしてチームとして力を発揮することができます。
  健全なチームには次の4つが必要です。
  1.同じヴィジョン
  2.同じ基本的価値観
  3.会の運び方の合意
  4.神による健全な関係
  この一つでも欠けていると、グループは破綻します。
   (続く)


08 10月

朝ごとの私の祈り ハイディ・ベイカー(IRIS MINISTRIES) 2018年10月8日


朝ごとの私の祈り

 

ハイディ・ベイカー(IRIS MINISTRIES)

 

「どのようにしたらあなたは毎日自分に死ぬことができるのですか?」という質問にお答えしたいと思います。

少し変に思われるかもしれませんが、私にとって自分に死ぬことは、毎朝次のように祈ることを通して可能になるのです。

 

まず、床に座りひれ伏して、文字通り姿勢を低くします。そして主の臨在の前に自分を注ぎ出します。自分には力がなくて出来ない様々なことを思い、又、神にはすべてが可能であることを思い祈ります。そして「神よ、どうかあなたの愛が私を通して輝き出ますように。どうかあなたの麗しさで私を覆ってくださいますように。」と祈ります。私は死んで、主が生きてくださるのです。それは栄光に満ちたすばらしいものです。

 

この祈りの時は、私にとって毎日の葛藤であり、毎日の戦いであり、毎日の喜びです。この「葛藤、戦い、喜び」という3つの言葉は一見矛盾するようですが、本当なのです。

主に従えない思いの中で葛藤し、戦い、そして勝利したとき喜びがくるのです。私が主の邪魔をすればするほど、主がコントロールしてくださる部分は少なくなっていきます。

 

私はひざまずいたままで両手を広げ「主よ、助けてください!」と心から叫び求めます。そして黙して耳をそばだてます。御声を聞くことができるように、自分の霊を静め整えます。そして聖霊の言われていることを聞きます。すると聖霊はいつも私が思いもつかないことを心に入れてくださるのです。

 

聖霊に自分を完全にコントロールして頂くためには、「明け渡した愛 yielded love」の状態にならねばなりません。主の御声に対して100%オープンになると、あなたは御声を聞き始めます。主の言われることは、この世で忙しくしている肉の人には意味をなさないかもしれません。でも私たちが霊で聞くならば、聖霊が私たちの心の中に来てくださり、ある考えや思いを与えてくださいます。私はそれを「霊的知性 spiritual intelligence」と呼んでいます。それはとても素晴らしくわくわくするものであり、即ち「キリストの思い mind of Christ」を私たちが持つことに他なりません。

 

主の御声を聞いて立ち上がるとき、私たちは主がしておられる事をすることが出来ます。あなたが主の御声に従えば従うほど、次にあなたがするべきことがわかってきます。(主が分からせてくださいます)主が下さった小さなことに従うならば、主は次には更に大きなことを下さるでしょう。自分に死ぬとは、従順と愛に生きることであり、身を低くして時間をかけて主に聞くことです。それは本当にすばらしいことです!(終り)


01 10月

キリストの型 フランシス・フランジペイン           2018年10月1日


キリストの型

 

フランシス・フランジペイン

 

訳者注:

 今は終末の時、しかも終わりが迫って来ている緊急のときです。終わりの時とは、肉から生まれ変わったクリスチャンを、みな霊的に実った「真のキリストの弟子」に育てる、あるいは、各自がそうならなければならないときと私は思います。それがマタイ28章の終わりに出てくる大宣教命令の意味です。

 フランジペン師は、アメリカで長年この霊的な弟子訓練を手がけ、そのための専門学校(英語ですが、ネット上でもその学びが習得できます。)を通して、真の「キリストに似た」クリスチャンを大勢生み出して来られた、私たちが最も尊敬する指導者の一人です。

 私はここで師が「教会の牧師」を対象としてこのメッセージを語っていますが、それは牧師の資格を持つ教会の長としての牧師だけに限らず、教会あるいは、どんな小さなクリスチャンの会合でも、そのリーダーとなる人を総称して牧師と言っておられると解釈していただきたいと思います。それには勿論スモール・グループのリーダーから、職場・家庭礼拝をリードする方でもその指導者に立つ人であれば、この「牧師」に当てはめられます。

 

 「私たちは皆、顔のおおい取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

 

 

「どのような教会であれ、何ヶ月、あるいは何年かの間に、信徒の内にキリストの似姿が現れ出ているかどうかが、その教会の究極的なテストである」と私たちは度々教えられてきました。確かにそれが神の目標であり、又教会の目標でなければなりません。

 

では実際に、信徒達はどのようにして変えられて行くのでしょうか? 単に外面的に宗教的であることから、内側が真にキリストに似る者になるようにと、教会を刺激し鼓舞するのは何なのでしょうか?

 多くの場合、 「宗教」から「キリストに似る者」への脱出は、 その教会の牧師(指導者)の心が「キリストに似る者になる」というヴィジョンに強く捉えられた時に始まります。

説明させてください。現在の競争過多の世界においては、牧師は多くの面で卓越することを要求されます。牧師は雄弁であり、立派な学歴を持ち、しかも失われた魂の必要に敏感でなければなりません。ヴィジョンを掲げ、しかも現実的で実践的でなければなりません。

 

教会員のために自分と家族との時間を犠牲にすることを度々求められます。厳しい労働条件や決して多くはない報酬に対して不平を言うことは許されません。

 

勿論、このような牧師の仕事の大部分は、神ご自身が課したものではなく、人々の勝手な期待から生まれました。教会員が牧師に求める多種多様な希望や期待を満足させられる人など本当は一人もいないのです。実際のところ、教会員を満足させて教会を大きくしようとがんばる牧師は、すぐに自分のエネルギーを使い果たしてしまうことでしょう。

私の経験では、教会成長プランを進める牧師が一人に対して、霊的に瀕死の状態に陥った牧師が何十人もいます。

 

問題を一層深刻するのは、 牧師に対する信徒の不平不満が度重なると、牧師の士気がますますくじかれることです。落胆はヴィジョンを失わさせます。彼はかつて自分のデスティニー(即ち指導者になること)は「高い召し」であると感じていたのに、いつのまにかそれは「ほとんど喜びのない仕事場への通勤」に格下げされてしまうのです。

 

個人のリバイバル

 

忘れないでください。「牧師の成功」に対する神の尺度は「教会の信徒たちの人生にどれだけキリストが真に表されているか」です。これこそがキリストが示された牧師として仕える者に対する目標なのです。すべてのリーダーは、自分が大宣教命令をどのように遂行したかを神に報告する日を迎えねばなりません。

 

ですから牧師の皆さん、主への恐れをもって歩もうではありませんか。そして又、知恵をもって歩みましょう。もし私たちの追い求めるものが、会衆をキリストに似た者へと導くのであるならば、まず自分から始めようではありませんか。柔和に、しかし人を恐れるという誘惑に陥らないように歩みましょう。

なぜならば、人を恐れる思いは働きの上を覆う呪いのように明白に表れるからです。真の祝福への道はただ一つであり、それは自分の心をただ「キリストに似た者になること」に集中させることです。

牧師が「私はキリストを捉える」と強く決意するならば、それに反対する者が起こることは間違いありません。なぜならば、主がその人の人格、品性の真実性を試すことなしに、その人がキリストに似た者になることなどありえないからです。

しかし、牧師が(特に、自分が主とより深い関係になることを祈る)祈りの人となり、神への愛が純粋になり、へりくだりが平安へと深まって行く時、イエスを愛する信徒たちは、牧師のうちに主なるイエスを見るようになるのです。

 

戦いは、たとえ非常に激しかったとしても、それはキリストの栄光が牧師の中に生まれるための舞台装置に過ぎなかったのです。いにしえの昔から人々は「イエスを見ること(ヨハネ12:21)」を願いました。信徒たちが牧師の品性の中に主イエスを見るとき、彼らは自分たちの教会に対する神のヴィジョンを見ることになるのです。

 

キリストに似た教会

私は、「あなたの教会の牧師が完全にキリストに似た者になっていなければ、信徒がキリストに似た者になることを追い求めることはできない」と言っているのではありません。違います。キリストに似た者になる道は、いつでも、どの教会においても、歩き始めることができるのです。

しかし、信徒たちが最高のデスティニーに向かって真に上っていくためには、ある時点で牧師は羊たちが後についていけるようなキリストの型にならねばなりません。

もしあなたがとりなし手ならば、あなたの牧師のために祈ってください。教会のリーダー達を尊敬し、キリストに似た者のヴィジョンが彼らを突き動かす炎となるように祈ってください。

裁きではなく恵みをもって祈ってください。恐れではなく憐れみに立ってください。ヴィジョンを常に持ちつつも、辛抱強くあってください。神はあなたの祈りに答えられます。

実際牧師とは、イエスのような者になり、羊たちが後をついて行けるお手本になるという召しを受けた者であるのです。この追求がなくては、牧会はいつも欲求不満を抱える牢獄となり、いのちの欠落した仕事になってしまします。

 

しかし、たとえ試煉の中を通っても私たちがキリストに似た者となることを追い求め続けるならば、神の御子の臨在が私たちのいのちの中にますます顕れ出るときがやってきます。牧師が追い求めるものは、人々が後ろからついていくキリストの型になることなのです。(終り)


24 09月

黙示録5章に書かれた「キリストの御国」の栄光 マイク・ビクル(IHOPカンサス)    2018年9月25日


黙示録5章に書かれた「キリストの御国」の栄光

 

マイク・ビクルIHOPカンサス)

 

 終末の時がついに満ちて、 天にあるもの、地にあるもの、いっさいがキリストの御国として一つに集められることが、神が御子(の再臨)においてあらかじめお立てになった御心の奥義としてのご計画です。(エペソ一1:9−10)

 そして「御子は、見えない神のかたちであり、造られた全てのものより先に生まれた方です。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られ、万物はその御子のために造られ、万物は御子にあって成り立っています。・・・」(コロサイ1:15ー17)

 

 

父なる神は、イエスを2回にわたって王座に着かせます。一回目は復活後にイエスが天に上り御父の右座に着かれた時です。

二回目は次に主が地上に再臨されるときであり、すべての国々はユダヤ人であるイエスが、天ではなくこの地上の全地を治める王になるのを見るのです。

エレミヤ3:17に「そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。」とあるように、イエスが再臨される時は「人として」地上のすべての国々から「王」として認められます。

ゼカリア14章にはそれが書かれています。ユダヤ人の王が地のすべての国を治めるという預言は、他の諸国にとっては受け入れ難いことであり、彼らは「ユダヤ人が世界を永遠に支配するとはとんでもない」と言い憤るのです。しかしイエスの誕生の500年前に父なる神はゼカリアを通して「すべての国はユダヤ人として生まれたイエスを王として受け入れる」と宣言されているのです。

 

また、黙示録19:16に「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれていた。」とあり、これは黙示録全体のテーマです。ただ単にイエスがこの世に戻ってこられ、私たちが携挙されるだけではなく、人としてのイエスが王として来られ、他の王たちの上に立たれるーこれは非常に劇的なことです。黙示録20章には第一の復活に与る者たちが神とキリストとの祭司となり、千年の間キリストと共に王となることが書かれています。

この千年王国でのキリストの統治はやがてすべての領域、分野において完成されて行きます。主は人として、万民の前で見える形で働かれます。現在は多くの邪悪な王たちが地を治めていますが、やがてこの傑出した全地を治める王の王が来られ、その力はあまりにも明白で、これに逆らう者はないのです。

 

この王があなたを「わたしの愛する者」と呼ばれ、あなたが王のためにしたどんな小さなことをも忘れずに報いてくださいます。あなたを花嫁と呼び、喜んでくださり、すべてのことをあなたと共にしてくださるのです。ですからこれは「王として主がなさること」というだけではなく、「あなたが主と共にすること」であり、つまるところ、あなたの物語であるのです。

 

黙示録5章は王なるイエスの荘厳さと栄光を最も顕著に表していますが、それを理解するためにバックグラウンドをお話したいと思います。

約6千年前に神がアダムとイブを造られたとき、神は地を治める権威(権利と責任)をアダムに与えられました。それはアダムの子孫としての私たちにも与えられたものであり、人類がこの地を統治する権威を与えられたのです。しかしアダムはサタンの誘惑に陥り、その権利をサタンに譲渡してしまいました。

 

ルカ4:5−7で、サタンはイエスに「私を礼拝するなら、すべての国々のいっさいの権力と栄光とを差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と言って誘惑します。神がアダムに地を治める権威を与えたにもかかわらず、アダムはサタンにその権威を渡してしまったからです。しかしイエスはサタンから権力と栄光を受けるのではなく、人として罪のない生涯をおくることによって完全な生け贄となられ、十字架の贖いによりアダムの罪を帳消しにし、人類に救いの道を備えられ、それと同時にこの地を治める権利、権威をとりもどされたのです。

 

黙示録5章はイエスの栄光に満ちております。神は人間ヨハネに天上のすばらしい光景を 見せてくださいました。1節に「また、私は御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。」と書かれているように、この巻き物は全地の所有権の契約証書であり、神の御心によって地を裁き、清め、 治めるものです。

2節で御使いが「巻き物を開いて、封印を解くにふさわしい者はだれか。」と言っています。地を治める権利はもともと人間に与えられていますから、それを解くのは御使いではなく人間でなければなりません。「封印を解く」とは地を所有し治めるプロセスを始めるということです。即ち、「地を治める権利を取り戻して、実際にその仕事を始めるのにふさわしい人間は誰なのか?」と御使いは言っているのです。この契約証書には7つの封印がありました。6章からはこれらの封印が一つずつ解かれていきますが、それは即ち闇の王国に対する神の裁きです。しかし誰が御父のもとに行き、その巻き物を受け取ることができるでしょうか。第一に御父の栄光の前に出られる人間はいませんが、もし出られたとしてもその巻き物を受け取って封印をとき、暗闇の権威を蹴散らし、すべての国を従わせる権威のある者がいるでしょうか?旧約の預言者や使徒たちにもそれは出来ません。

5節で長老の一人が言います。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

それはユダ族から出た人間イエスです。イエスは永遠に神であられます。しかしここでは女から生まれた一人のユダヤ人の人間でなければならなかったのです。しかも彼は「しし」であり、すべての闇を打ち負かす力を持っていました。イエスはほふられた「小羊」であり、また同時に「しし」でもあられます。イエスは33年間、人間を襲うすべての誘惑に打勝ち、完全に御父に従われました。イエスは神としてではなく、人間としてただ聖霊から力を受けて、サタンのすべての誘惑に打ち勝ちました。人類の罪の代価として死ぬためには、イエスは人間でなければなりませんでした。イエスはこの世に来られたとき、神としての能力を用いて事を行ったのではありません。主はすべてのことを聖霊の力に拠り頼まねばならない人間として生きられたのです。イエスが神でなかった時はありません。しかし、人間のための完全な生け贄となるためには、主も人間として罪のない人生を送る必要があり、そのための力は100%聖霊から受けたのです。

ご自分が持つ神としての力を用いて奇蹟を行ったならば、イエスは人間のための「生け贄にされる人間」としての資格を失います。イエスは断食や祈りを通して聖霊の力を受ける必要があったのです。

 

そしてイエスは十字架を目前にして「父よ、御こころならばこの杯をわたしから取り除いてください。」と血の汗を流して祈られましたが、御父はその祈りに答えられませんでした。神は義なる方であり、罪をそのままに放置することも、ただ赦すこともされません。罪の代価は誰かが支払わねばならないのです。アダムの罪をすべての子孫が継承したように、イエスの贖いによりすべての神の子たちはその赦しを得るのです。

歴史上、人類にはアダムとイエスという二人の代表者がいます。

 

イエスはそのようにこの地での生涯と十字架の御業によって「勝利を得た」だけではなく、死からよみがえり天の御座に着かれました。ただ生き返っただけではなく、「初穂」として力を帯びたからだによみがえられました。そして御父の右座に「人間として」着座されたのです。イエスは「わたしが人間としてここに来たように、あなたもここに来ることができるのだ。あなたも御父のそばに来れるのだよ。」と言っておられます。(人間は神の子供、神の家族の一員になるように造られたのです。)

ヨハネはここで「ほふられたと見える小羊」と言っています。これはイエスには十字架の傷あとが残っているということであり、主だけが人間としての復活の身体に傷あとをそのまま持っておられ、それは人間に対する愛のしるしです。主の傷あとを見るとき、私たちはいつも私たちへの主の愛の大きさに感動するのです。

7節に「小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。」とあります。人間イエスは御父に「わたしの持つ知恵と力で地を導き、清め、回復し、創世記1章のように再び人間が地を支配するようにできます。」という確信をもって巻き物を受け取ることが出来たのです。それを見て高位の御使いたちと長老たちは、ひれ伏して新しい歌を歌いました。

9−10節「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王(国)とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 

イエスは人間になられる前、すべての力、栄光、権威を持つ神でしたが、それをすべて放棄し、人間として地に来られ、神の怒りを人間に代わって受けられました。しかも栄光を受けられた時には、その栄光を人類に分け与えると言われたのです。

ヨハネ17:24でイエスは「父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」と言われました。主は私たちを赦してくださったばかりか、ご自分が受ける栄光を私たちと共有したいと言ってくださるのです。このように素晴らしいリーダーを信頼し、従うことは難しくないのではないでしょうか。

父なる神は人間イエスに、天上だけではなく地においてもすべての人が認めるようなフェイバーを与えるのです。そのことは、上記の黙示録5章の12節であまたの御使いたちは「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、讃美を受けるにふさわしい方です。」と大声で言います。それは千年王国の間、すべての人々(9−10節)はこれら7つすべてをイエスに捧げるということです。

私たちは王なる主に、今すでに地上において従うことができます。日々主の麗しさを見て、すべてを主に捧げて生きることができるのです!(終り)


18 09月

天国に住む リック・ジョイナー                    2018年9月18日


天国に住む

 

リック・ジョイナー

 

 

 私は自分が今まで経験してきた天国の様子をお話しておりますが、決して私の経験だけが天国のすべてを説明していると言っているわけではありません。

現に、私の見て来た天国とは異なる話も沢山読んだり聞いたりしてきました。しかし、天国は非常に膨大であり、又多様な面があるので、そのような私と違う経験をされたことを私は信じることに全く問題はありません。私たちすべての天国の経験を全部集めたとしても、天国の1%すら表現できないと思います。

主は宇宙を常に広がり続けるものとして造られましたが、それと同じく主は天の霊的領域も拡大し続けるように造られたのだと私は思います。

 

 私たちの神は、私たちが一生かかっても到底理解できない非常に大きなお方であり、神の創造も(物質的創造、霊的創造のいずれも)非常に大きいのです。それはただ大きいというだけではなく、イザヤ9:7に「その主権は増し加わり・・」と書かれているように、神の主権は永遠に増し加わり続けることを、私たちは信じてよいのです。「永遠」は決して退屈な時間ではなく、常に魅力的で畏敬に満ちています。

 

主が私を連れていかれた霊的領域では、一カ所を除いて、天国にあるすべてのものは生きていて、石や水、そして他のすべての物が生きていました。それらは皆、自分がその物として造られたことや、自分と異なる他の物との交わりがうれしくてたまらないという様子でした。奇妙に聞こえるかもしれませんが、天国ではそれがとても自然で当然のことのように思えました。そこには死がないばかりか、すべてのものに命がありました。

 

私は天国でも引力があるかのように地上と同じように普通に歩いたこともよくありましたが、又引力がないかのように宙に浮かぶこともできました。遠くに行きたいときは、そこまで飛んで行くこともできましたし、又そこに行きたいと強く願うだけで瞬時にそこに行くこともできました。

 

天国で感じる感情は、今まで経験したものよりずっと深く広く強いものでした。そして何かのことや誰かのことをじっと考えていると、それに対する感情はどんどん増していきました。

地上で私が感じた最もすばらしい平安も、天国で感じた平安に比べれば、ほんの小さなものでした。それは喜びの感情でも同じでした。

 

私たちが五感で感じる能力が地上では抑制され制限されているのと同じように、私たちの感情も地上では抑制されているのだと思います。しかし天国では五感も感情も全く制限されていないようです。

 

一度の例外を除いて、霊の領域や天の領域に私がいるときは、御使いかイエスがいつも一緒についていてくれました。一度の例外というのは、それまで私が天国で一番素晴らしいと思っていた場所に、主が私を一人で行くのを許可してくださった時のことです。

しかし行ってみると、そこが最早楽しい場所ではなかったばかりか、私はもう決して一人の経験はしたくないと思いました。この経験は、どれほど深い交わり(コイノニア)こそが「天国で生きるための酸素」であり、 コイノニアの交わりに成長するならば、私たちがどれほど天を地にもたらすことが出来るかを教えるために、主が私にさせてくださったのでした。

 

それはまさに、人と関係を結ぶこと、人と交わりを持つことがどれほど重要であるかなのです。神が天地万物を創造されたとき、最初に「良くない」と言われたのはアダムが一人でいるのを見られたときだったのは、まさにこの理由です。真の愛は、一人で淋しい人を見つけ出し助けます。その時私たちは彼らの内に、彼らのまことに家、即ち天国、を慕う思いの種を蒔き始めるのです。

 

私は「天国にはゴルフや野球、サッカー等のスポーツはあるのですか?」と人々からよく聞かれます。私はそれを見たことがありませんが、前述のように私の天国のすべての経験を合わせても天国のほんの少しの部分を見たに過ぎません。

天国でスポーツの試合を見たと言う人たちもいますから、多分あるのでしょう。

個人的には私はスポーツの試合や競争は大好きですが、天国では「誰かに勝ちたい、誰かを負かしたい」という気持を持つことは考えられません。

 しかし、聖化され高められた形のスポーツが天国にあると信じることはできます。地上にある「良きもの」はすべて天国にそれに相応するものがあるからです。

神学に「最初の言及 」に関する原則があります。「ある事柄が聖書で最初に言及された箇所は、普通、その事柄の究極的な目的を示す最も重要な啓示である」というものです。

聖書が「神の家」に 最初に言及したのは、ヤコブが天に届くはしごと神の使いたちがそのはしごを上り下りしている夢を見たときのことでした。(創世記28:11−19参照)

 

これは地上の神の家である「教会」の主たる目的の啓示であり、それは即ち「天に届く通路になる」ことです。まことの神の使いたちは絶えず天の領域に上り、そして天のリアリティーと主権の証拠となるものを地のすべての問題や状況の上に持ち帰るのです。

 

ヨハネ1:51にあるように、イエスは私たちが天に上るための「ヤコブのはしご」です。私たちは主がどのようなお方であるかという啓示を一つひとつ受けて上っていくのです。私たちの目的は「イエスと共に天の所にすわること」です。(エペソ2:6参照)

 

この教義は「ただ信じればよい」という以上のものです。すべての教義は頭で信じるものではなく、私たちが生きるべきものです。ですから、クリスチャンなら誰でもキリストと共に天の所に上ることができるのです。実際すべてのクリスチャンはいつでも常にそうしているべきであるのです。

 

このようなことを経験するのを恐れている人に申し上げますが、もし一回でもその経験をするならば、今度は地上に戻ってくることの方をもっと恐れるようになるでしょう。

主の統治される天の領域で主と共にあって経験する以上の平安と喜びはありません。 天の領域のものは非常に素晴らしく、地上の最上のものであってもその影にすぎませんし、天には悪は一つもないのです。

 

天国は今すでに私たちの住まいであるはずなのです。それはあるいにしえの人が「新しく造られた者(クリスチャン)」について次のように言っている通りです。「私たちは、たまに霊的経験をする人間として召されているのではなく、たまに人間的経験をする霊的な生き物として召されているのです。」

 

すべてのクリスチャンは、目に見える世界よりも霊的領域にいるほうがもっと自然でリラックスできるはずです。

天の御国が全地に宣べ伝えられるのは、実にこのような「天国に住み天国を具現する人々」によるのです。(終り)


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