Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
13 05月
癒しについて(その一)
ジャック・ディア
私は神学校に入るとき癒しを信じていませんでした。
神学校を卒業する時も、本当に癒しを信じていませんでした。
その神学校の教授になったときには、本当に全く癒しを信じていませんでした。
私が信頼していた著名な教授たちがそう教えてくれたのです。けれども、もし現在において癒しはないとするならば、何故神が昔は癒しを行ったのかを解明する必要があります。
福音書を見るとほとんどすべての章に癒しの業が書かれています。書簡を見ても癒しに関する記述で満ちています。ガラテヤ3:5でパウロは「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」と問いかけています。
この言葉は、紀元49年にガラテヤ教会では当然のように奇蹟が起こっていたことをパウロが認識していたことを示しています。
これは非常にパワフルな事実です。
このような言葉が聖書にあるのを私が知らなかったのは、私がガラテヤ書を読んでいなかったからではなく、教授たちが「神はそのような奇蹟はもう起こされない。」と言うのを聞いて私の目に覆いが掛かっていたからなのです。
使徒行伝とは何か
使徒行伝のすべての章で癒しや 超自然的なことが書かれているのを、皆さんはご存知でしょうか。
そもそも使徒行伝とは何でしょうか。ただ新聞記事のようなものでしょうか。「当時はあの事やこの事が起こりましたよ」という報告でしょうか。違います。なぜならば、それでは聖書の原則に合わないからです。
第二テモテ3:16には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」と書かれています。
使徒行伝は新聞記事ではなく、「教会のあるべき姿のブループリント」なのです。それは教会形成のための情報であり、そのすべての章で何か超自然的なことが起こっているのです。
私は以前「でも使徒行伝17章は例外だ。何も超自然的なことが書かれてない。」と思っていました。パウロが哲学者たちに話していますが、そこでは奇蹟は起こっていません。しかし、パウロの話を聞いて信仰に入った人たち「アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々」がいたのです。誰かが福音を信じたということは、奇蹟ではありませんか!確かに全ての章で預言、奇蹟が起こっています。どうか使徒行伝28章を通して読んでみてください。そして各章で超自然的な出来事が起こり、あるいは超自然的な出来事が報告されているのを見てください。
福音書でも奇蹟が語られ、使徒行伝でも語られ、書簡ではそれに関しての記述があり、黙示録ではそれが預言されているのです。
現在の癒しの欠如
それでは、今日そのような超自然な出来事がほとんど起こっていないことをどう説明すれはよいのでしょう。人々は次のようにそれを説明しようとします。
「イエスが奇蹟を行ない、また、使徒たちが奇蹟を行った理由は、使徒たちが信頼すべき教義の教師であることを示すためであった。
しかし現在、我々は教義を聖書の中に与えられているので、もはや奇蹟は必要ではない。」
確かにこの議論は「神学的」ですし、納得できます。しかしながら、聖書の中にそれを裏づける言葉は一つもないのです。
これに関しての私の経験は次のようなものです。私が神学校ですでに10年ほど教えていた頃のことです。私は博士コースの学生を指導し、又ヘブル語の授業も受け持っていましたが、ある時、癒しを信じているだけではなく実際に病人のために祈って癒しを起こしている人からチャレンジを受けたのです。
その人はジョン・ホワイト博士と言いましたが、私は彼の著書はすべて読み、それを教会で教材として用いてもいました。ある時私は彼に電話で話していた時に、癒しを実際に見たことがあるかどうかを訊ねました。
彼はすぐさま2つほど奇蹟的な出来事を話してくれましたが、私はそれがうそでないことが分かりました。
そこで私は「癒しの賜物は現在もう与えられないこと」を 、いつも学生たちに説き納得させてきた議論を用いて彼に証明しようとしました。
私はフォートワースの西部にある教会の牧師をしていましたが、私の議論は教会ではいつも成功していました。私の議論を打ち負かした人は今までいなかったのです。どうしてかお分かりでしょうか?それは「もはや神は癒しを行わない。」とすでに信じている人達と話をしていたからです。
ですから、ホワイト博士のように聖書を熟知していて、しかも違う意見を持っている人と私は議論をしたことがなかったのです。
私は懸命になって反論しました。「ホワイト博士、曲がった骨が真っすぐになったり、赤ちゃんのアトピーの皮膚が目の前できれいになったのは、確かに本当だったでしょう。それを疑っているわけではありませんよ。でもそれは癒しの賜物によるのではありません。神はもうそういうことはされないからです。」と言って、私はいろいろな根拠を並べました。「あなたは心理学の教授かもしれませんが、何といっても私が聖書の教授ですからね」と、心の中で思っていました。
私は一番目の論点を彼にぶつけましたが、彼はすぐにそれを打破してしまいました。「えっ!こんなことは初めてだ!」と私は驚きました。
私は自分の正しさを立証するあと4つの論点を頭の中で考えながら、ふと思いました。「ホワイト博士は私が10年以上尊敬してきた人だ。彼の著書は全部読んだし、彼は聖書のことをよく知っているし、敬虔な人だ。私は彼の友達になりたい。そうだ、彼を私たちの教会に招こう。」
それで私は「ホワイト博士、私たちの教会に来て癒しについて教えてください。」と言いました。彼は「いいですよ。でもジャックさん、あなたの教会に行くならば、その時病人のための祈りもしたいです。」と言いました。
私は「えっ!教会でですか!? 本当に教会で癒しの祈りをする必要があるんですか?」と驚いていいました。(笑)
私たちの教会では病人のために祈ったことは一度もなかったのです。
私たちが礼拝の中でしたことは、報告の時に病気の人のリストを読み上げて「これらの人々のために祈ってください。」というだけでした。それで誰も癒されなくても、別に何とも思いませんでした。
病院に見舞いに行った時も、「癌よ、去れ!」とか、「お腹が癒されるように」とは祈りませんでした。
ただ「神よ、医師の手を導いてください。病人を慰めてください。」と祈っただけでした。「もしホワイト博士が教会で病人の癒しを祈ったならば、癒しは起こらないだろうし、それを見て人々は信仰を失うだろう。」と私は考えました。
確かに他にも祈ってもきかれなかったことは沢山ありました。それで私の信仰がなくなったということはありませんでしたが、なぜか病気の癒しは特別だと思いました。
彼は言いました。「実際に癒しの賜物をデモンストレートせずに、ただ話だけすることはしたくありません。」
私は「どうしてですか? 神学校ではいつもそうしているではないですか?
学生たちに『人々をキリストに導かねばなりません。』と教えても実践はしません。教えるだけではいけないのですか?」と言いました。
彼は「駄目です。人にやり方を見せなければなりません。」と答えました。
私は教会のリーダーたちと相談をしました。彼らも又「教会でですか?」と驚きました。(笑)私たちは2時間話し合った末、ホワイト博士に来ていただくという結論に何故か達しました。決まったのは1月でしたが、博士が来るは3ヶ月後でした。
私はその3ヶ月間、毎日次のことをしました。
私は新約聖書に書かれている癒しをすべて調べました。そしてそれぞれの癒しに対して一つの同じ問いをしました。「イエスよ、あなたはなぜ、この癒しの奇蹟をされたのですか?」という質問です。使徒に対しては「あなたが教義を教える資格があると私たちにわかるように、癒しを行ったのですか?
それが聖書で言っていることですか? それが理由ですか?」と訊きました。
その結果は驚くべきものでした。癒しがなされた理由は1つだけではなく、12以上あったのですが、「新約時代への移行のため」をその理由として説明している箇所は一つとしてありませんでした。
というのは「新約時代への移行のため」が私の神学校が用いていた理由だったからです。つまり「歴史上、人々は新しい神の言葉、新しい本(即ち新約聖書)へと移行しようとしている時であったから、神は癒しをされた。即ち新しい本は権威があり信頼できるものであると認定される必要があったので、神はイエスや使徒たちによる癒しの奇蹟でそれを実証された。そして新約聖書は、今やその権威を認められたので、歴史上の移行は完成された。故に最早癒しを起こす必要はなくなった。」というものです。
しかし私が聖書にある癒しの記事を一つひとつ詳しく調べた結果、それが起こった理由が「歴史的推移、移行のため」であるものは一つもなかったのです。
癒しの奇蹟は、神の変ることのないご性質、又神の人々に対する思いに根ざしていました。例えば使徒行伝9章には2つの奇蹟が書かれています。一つは中風で8年間床に着いていたアイネヤが、ペテロの言葉で立ち上がりました。そして、「ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。」と書かれています。次にドルカスが死んでいたのに生き返り、それが「ヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた」のです。
これによって、神が人々を神に導くために奇蹟を用いられることがわかります。しかしながら奇蹟が福音伝道にいつも繋がるとは保証されていません。例えばパリサイ人はいろいろな奇蹟を見ましたが、彼らの心はかたくなになりました。しかし奇蹟は人々の興味を引き、彼らの心が神に触れられる機会をつくり出します。
又、神は信仰に応答して癒されます。12年間長血をわずらった女がイエスの着物の房にさわって癒されたとき、主は「娘よ、あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」と言われました。
「イエスは善き方、イエスは御ことばを成就する力がある方、イエスは信頼できる方」と確信する信仰をもって私たちが行動するとき、癒しの力は解き放たれるのです。
中でも私の注意を一番引いたのはマタイ14:13です。
「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネがヘロデに殺されたこと)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」
イエスは一人になりたかったのです。人々のために祈ることもしたくなかったのです。弟子たちだけと静かなところに行きたかったのです。しかしイエスは「舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された」のです。
イエスは人々をさけたかったのですが、病気の赤ちゃんを抱えた母親や、悪霊につかれた人の手をひいている男の人、皮膚病の人がご自分の方に来るのを見て、主は「彼らを深くあわれんで」癒されたのです。
主は人々の痛み、苦しみを見て動かされ、ご自分の必要を後回しにして、人々を受け入れ、癒したのです。それでは主はなぜ人々を癒されたのでしょうか?
憐れみの故でしょうか? しかし、その人が癒されても癒されなくても、
主はその人に対して同じように憐れみを持っておられます。そしてある人には病に耐える恵みを、ある人には奇蹟の恵みを与えられるのです。どちらの場合にも主の憐れみは変わりません。しかし新約聖書において主は、非常に多くの場合癒すことによってご自分の憐れみを表しておられます。そして主が「主の憐れみ」の故に癒された例は数多いのです。(続く)
29 04月
私を変えた3つのみ言葉(その2)
ジャック・ディア
二つ目の祈り
このように私は、「神への情熱」を持つための実践的な道を見出しました。次に私が出会った二つ目の祈りは、ヨハネ15:15にあるイエスの言葉「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。...わたしはあなたがたを友と呼びました。」によります。
このみ言葉によって衝撃を受けたのは40代の時でしたが、すでに私は友情に関しては知り尽くしていました。というのは、私の育った家には愛というものがほとんどなかったので、家の外に愛を求めるしか道がなかったからです。それで私は小さいときから必ず一人か二人は親友を持っていたのです。
本当の友情がどう言うものであるか、お話ししましょう。「その人のために何かをしてあげるのが友情」では決してありません。「その人に忠誠を尽くすのが友情」ということですらありません。友情とは、その人と一緒にいるときに私が感じる喜びです。友情とはその人から愛されていると感じる時に自分の重要性、存在価値を感じることです。
そしてこの友情こそ、ずっと神が私たちに求めてこられたものです。アブラハムやダビデ、ヨセフ、ダニエルの話を読んでみてください。このような友情こそを神は求めておられたのです。神は人々が「神を喜び楽しみ、又神も自分を喜び楽しんでいてくださると感じること」をずっと願っておられたです。
そしてイエスはそのことを公言されました。「わたしのあなたたちへの愛を感じてほしい。わたしを喜び楽しんでほしい。」と言われたのです。
マイク・ビクルが再び、私の前に現われて言いました。「ヨハネがイエスの一番の親友だったことを知ってるね。」と。私はちょっと考えてから答えました。「ああ、本当にそうですね。ヨハネの福音書を数えきれないほど何回も読み研究してきたけど、ヨハネがイエスのベストフレンドであったことは確かですね。」
他の福音書の筆者たちはヨハネを「使徒ヨハネ」と呼んでいますが、ヨハネは自分が書いた福音書で自らを「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。自分のアイデンティティーを「神に愛されている者」と言うことをどう思いますか?
「自分がどのような立場や地位のものか」とか、「どれほど豊かであるか」とかではなく、「神に愛されていること」を自分のアイデンティティーにするのです。
ヨハネは自分の真のアイデンティティーを「神が愛されている者」としたのです!ヨハネは主イエスのベストフレンドであり、それはヨハネの福音書全体を通して見ることができます。例えば最後の晩餐のことを見てみましょう。
イエスは弟子たちが周りに座っていたとき、「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と爆弾宣言をされました。皆は「それは一体誰だろう?」と心の中で思いまどいました。
彼らは多分ペテロが何か言うかを待っていたでしょう。ペテロはいつも最初に口を開くのですが、このときは何も言いませんでした。そしてみんなは「ヨハネならイエスに聞くことができるだろう。」と思ったのです。そこでペテロはヨハネ(イエスが愛しておられた者)に「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」と言いました。ヨハネはイエスにそれを訊ねるのを恐れないと知っていたからです。
あなたはベストフレンドになら何でも恐れずに聞けますね。ヨハネはどこに座っていましたか?イエスのすぐ横でした。ですからヨハネはイエスに向いて「主よ、それは誰ですか?誰があなたを裏切るのですか?」と訊ねたのです。
イエスは「ヨハネ、それはわたしがこのパン切れを浸してから与える者だよ。」と言われ、それをユダに与えられました。そこでヨハネはベテロに「それはユダだよ。」と教えました。簡単なことです。それがベストフレンドということです。ベストフレンドなら何でも訊けるのです。
ときどき私は神学者の友人たちにこのように話すことがあるのですが、彼らはいらいらしたように「イエスが他の使徒たちよりヨハネをもっと愛したなんてことはない!」と言います。私は仕方なく「全くあなたの言う通りですね。」と言うのです。
しかし、友情とは愛することだけではありません。愛だけで友情を保つことはできません。あなたの親友のことを考えてみてください。ただ彼らを愛していくだけではなく彼らを信頼していますね。
信頼がなければ親友にはなれません。信頼がなければお互いの心を明け渡すことはできません。私が私の息子スコットを愛した以上の愛で愛した友はいません。しかし私とスコットは友達になることはできませんでした。それは私たちがお互いを信頼することができなかったからです。スコットは22歳で自ら命を断ってしまいました。
イエスがヨハネを信頼していたことは、主の十字架の苦しみの時に見ることができます。天地の主である方は十字架の上からあまねく全地を見渡されましたが、唯一イエスを見捨てなかったのは、母マリアと数人の女性、そしてヨハネだけでした。
私は目を閉じるとイエスがご自分の母親を見下ろしているのが見えるのです。主は母マリヤの顔に浮かんでいる深い苦悩と戸惑いを見ておられました。マリアは天使ガブリエルが告げた偉大な約束と今見ていることとの矛盾をどう理解すればよいのかわからなかったことでしょう。
私には母マリアを見ながらイエスが考えておられたことが分かるのです。「私の弟たちは駄目だ。彼らは私を信じてもいないのだから。他の使徒たちも駄目だ。みんな私を見捨てていった。ヨハネ、ヨハネ、お前だけがわたしにためにいてくれる。」
イエスはそしてこう言いました。「お母さん、今からヨハネがあなたの息子です。」次に主はヨハネに「さあ、この人はあなたの母親です。」イエスは地上で最も大切な人を唯一信頼できるベストフレンド、ヨハネに託したのです。
マイク・ビクルはこう言いました。「あなたもイエスのベストフレンドの一人になれるように祈ったらいいんですよ。確かにそれは突飛で途方もない祈りですよ。でも神は突飛な神様ですよね。目指すなら最高を目指すべきですよ。」
そこで、私はそのように祈り始めました。「父よ、あなたが主を愛するように私も神の御子を愛せるように、どうか聖霊の助けをお与えください。」という第一の祈りに加えて、「主イエスよ、どうかあなたのベストフレンドの一人になれる恵みを私に与えてください。私もヨハネのようになりたいのです。」と祈りました。
三つ目の祈り
この二つが私の人生の切なる祈りとなりましたが、次に今から5年前、私の心は3つ目の祈りにとらえられました。それは詩編27:4です。
「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさ(beauty)を仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」
そこで、私は「父よ、今日あなたの麗しさを仰ぎ見る恵みを私にお与えください。」と祈り始めました。
友人の中になにか麗しいものを見る度に、私のその友人に対する愛が増し加わります。ですからもし神の、そしてイエスの中に麗しさを見ることが出来るならば、私の主に対する愛も増し加わると私は考えました。それによって心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することが出来ると思いました。
私の人生の夢は心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することです。でもそれが夢で終ってほしくはないのです。これは私に与えられた課題であり、成就させたいのです。
私たちがこの世を去る時に、天に持って行けるものは私の心の中にある神への愛だけです。地上でのミニストリーや私が書いた聖書の解説書や本を天国に持っていくことはできません。それで、私は毎日祈り始めました。「主よ、あなたの麗しさを見せてください。」と。ダビデがこの祈りをしたとき、彼は「主よ、あなたの全知能力に関する新しい真理を見せてください。」とは祈りませんでした。また、「神に関する神学的知識をもっとください」と祈ったのでもありません。彼は神を体験することを願ったのです。
トマス・アキナスは「美とは、我々に喜びを与えるものである。」と言いました。又 現代の彼の弟子は「美とは、まぶしくて目がくらむようなものである。」と言いました。ですからダビデの祈りは「主よ、あなたの麗しさ、美しさで私の目がくらむほどにしてください。私の目がくらむような、あなたの愛、あなたの憐れみ、あなたの親切さ、あなたの全知、あなたの知恵、あなたの全能を私が経験できる恵みをどうかお与えください。」と言うものだったのです。
5年前、私は教会で24/7の祈りをスタートさせたいと思い、「神の麗しさによって目がくらむとはどういうことか」を巧く説明できるものを捜していました。私は聖書解説書や聖書辞書を調べたり、いろいろな訳の聖書を調べました。
それは私がいつもする方法でした。しかしその日には神は本の中にはご自分の麗しさをひとかけらも潜ませてはおられませんでした。
2時間ほどで、私は本の中に主の麗しさを捜すのをあきらめました。そして書斎から出てゲストルームに行き、ベッドに横になり言いました。「主よ、あなたの麗しさで私の目がくらむまで、絶対ここから起きません。」
私は自分の人生の出来事をあれこれと思い出し、その中に何かまぶしいばかりの神の麗しさの体験があるに違いないと考えました。神の赦しや憐れみ、親切などの記憶をノートに書き出しましたが、「まぶしくて目がくらむ」ほどのものは一つもありませんでした。私は天を見あげて「神よ、何かもっとお出来になるはずです!」と嘆息しました。そう言った途端、スマホがチンと鳴ったので、ポケットから取り出して見ると、それはビデオが送られてきた報らせでした。
私は早速そのビデオを見ました。わずか18秒のものでしたが、私はそれを繰り返し見続けたのです。「あと一回だけ見てまた祈りに戻ろう。」と思うのですが、どうしても又繰り返し見たくなるのでした。そういう自分に可笑しくなってしまうほどでした。止められなくて、何度も何度も何度も見続けたのです。
それは生まれて2ヶ月になる私の初孫のレイチェルのビデオでした。寝ているレイチェルに向かって母親のリンデイとその母親のメラニーが「レイチェル、グーグーと言ってごらん!」と話しかけ、レイチェルが笑いながら「グーグー」と言っているビデオでした。
私はそれを見ていたのですが、突然「自分は今神の麗しさを見ている!」という思いが来ました。「11ヶ月前にレイチェルはたった一個の細胞だった」と思いました。その細胞もない以前には彼女は永遠の麗しさである神の思いの中に存在していたのです。そして今このような赤ちゃんとして私の目の前にいるのです。「私は今、まぶしいような麗しさに目もくらむほどだ!」と思いました。これはレイチェルの全人生を形成する時間の中のほんの一時に過ぎませんが、私にとってその18秒間は私の霊を大喜びさせる特別のものでした。
そして私は「声」を聞いたのです。「わたしがあなたを愛する思いは、あなたがレイチェルを愛する思いと全く同じです。」私は泣くじゃくり震えながらビデオを繰り返し見ました。やっと物が言えるようになったとき、私は「ありがとうございます、ありがとうございます。」と何度も言い、再び泣き続けたのです。
神は、感謝のない少年だった私を、赤ちゃんがグーグーと言うのに感動し感謝する老人へと造り変えてくださったのです。神はご自分のまばゆい麗しさで私を圧倒してくださったのです。この経験はもう一つの声にも語る機会を与えました。それは人生の多くの場面で私を陥れてきた悪の声でした。その声は「神がそんなことを言うはずはない。お前が勝手につくりあげた偽りだ。お前がレイチェルに対して感じるのと同じように神がお前を愛しているなんて、あり得ない!お前はあまりにも悪すぎる!」と言いました。
でも今回はその暗闇の声を聞いても、私はただ微笑み、その声に影響されることはありませんでした。それは、自分でつくりあげた嘘によって私が感動し泣きじゃくることなどありえないことがわかったからです。
皆さん、 神はすべての人にむかって「わたしはあなたを喜び楽しんでいるのですよ。」と告げたいと真に願っておられます。神は私たちに神の愛を毎日体験し感じてほしいのです。もし私たちが、「パーフォーマンス/自分の業」ではなく、「神が御子を愛するように御子を愛すること」に焦点を当てるならば、それは可能だと私は信じます。
祈り「父よ、どうか聖霊の助けにより、私たちがあなたのように御子イエスを愛するように、又、御子のベストフレンドになり、あなたの麗しさを仰ぎ見て、あなたの憐れみとあなたの愛を経験できるようにと毎日祈る恵みを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」(終り)
あとがきー坂 達也
二十年も前だったでしょうか、私たちがマイク・ビクル師のカンサス・シテイーの集会を訪ねた時に、このデイア師が講師の一人でした。その夜集会が終わって私たちがホテルの部屋に帰ろうとしてエレベーターに飛び乗ると、目の前に講師のデイア師が立っていて、にっこり笑って初めて会う私たちに二言三言親しく話しかけてくれたのですが、その笑顔がとても印象的で今でも忘れません。恐らくその集会で買ったのでしょうか、彼の書いた Surprised By the VOICE of GOD という本が二十年後の今でも私の本棚にあるのを見て懐かしく取り出して見ました。「神のみ声を聞く本」といえば、多くの預言者が書いておりますが、この方の本は技術的な方法論ではなく、むしろ神との親密さが鍵である事を強調していますのでそれをご紹介したいと思います。
「聖書でイエス程、御父の御声を聴ける人はいないと思います。それは子イエスが常に愛する御父の言われる事だけは絶対に聞き漏らさないと、24時間常にワクワクしながら待機しているからで、そういう人には父も最も多く語られるといいます。(ヨハネ5:19)するとそれは不公平だ、神は誰のいうことも公平に常に語るべきだと文句をいう人がいますがそれは誤解です。その証拠に「神は豚の前には真珠を投げない」と書かれている。申命記4:29に『主を慕い求め、主に会う。』とも書かれています。」とデイア師が書いている処に私は線を引いていました。どちらかといえば愛の少ない堅物の私は、理屈抜きにこのジャック・デイアの大ファンです。ー以上ー
23 04月
私を変えた3つの御ことば(その1)
ジャック・ディア(Surprised by the Power of the Spirit 著者 Wellspring Church 牧師)
「というのは、律法はキリストによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」 (ヨハネ1:17)
神は教会を恵みで救われましたが、それ以後ずっと教会は、律法によって自分のアイデンティティーを見出そうとしてきました。神は私たちが喜び楽しむように「ひとりのお方」を与えてくださっているにもかかわらず、私たちは「律法」を守る道を選びとっているのです。
人の心は、放っておけば律法に頼るようにセットされています。私たちは律法に自分の保身・保証を置いているのです。律法を守る道は筋道が決まっています。自分でコントロールがききます。しかし「そのお方」がされることは、予想がつかず、コントロールもできません。
私は17歳のときに恵みにより救われました。それは1965年12月18日のことでしたが、それ以後四半世紀もの間、私の信仰生活のフォーカスは、その完全なるお方にではなく、自分のパーフォーマンス(クリスチャンとしての良き業)に置かれていました。今朝、そのような私がどのように変えられたかをお話ししたいと思います。それは聖書に書かれているたった3つの簡単な祈りの話なのであり、それを皆様にお薦めしたいと思います。
神への情熱
皆さんは「神への情熱 Passion for God」という言葉を聞いたことがありますか?私は当時38歳で、教会の牧師として成功していました。又私は福音主義神学校の教授でもあり、ヘブル語とギリシャ語を教えていたのですが、この言葉は聞いたことがありませんでした。私が最初にそれを聞いたのは、カンサスシティーのマイク・ビクルという33歳の人からでした。彼はIHOP (International House of Prayer)と呼ばれるムーブメントのリーダーですが、彼ほど世界中の人々に「心をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛すこと」を示し教えた人を他に知りません。
私はカンサスシティーで彼に会ったのですが、彼が「神への情熱」という言葉を口にした時、私は「えっ、何のことですか?」と聞き返しました。彼は「『神への情熱』ですよ。知ってるでしょう?」と言うので、私は又「何ですか、それは?」と言いました。マイクは再度「神への情熱ですよ、知ってるでしょう?」と言いました。でも私は「何のことかさっぱりわかりません。」と言うしかありませんでした。
私は神学的な環境でずっと学んできたので、「情熱」はよいものではないと教えられてきました。神学校の2年目、ギリシャ語のクラスで、教授が「自由主義者たちは物事を感じる。でも我々は考えるのだ。」と言ったとき、クラス中が拍手喝采して、「そうだ、我々は頭がいいのだ。自由主義のようではない。彼らは皆感情に操られている。我々の敵だ。」と口々に言いました。
ですから、感情は良いものではなく、かえって排除すべきものだと教えられてきたのです。
しかしこの考え方の問題点は、知識、知能を発達させるために心を犠牲にしてしまうことです。マイクは続けました。「神への情熱ですよ。神は私たちが神に従うことよりも、もっと神を愛することを願っておられるのです。私は神を愛する方法を見出しました。」
何ということでしょう、私は四半世紀のあいだ、 感情をほとんど除外する訓練をしてきたのです!例えば「神を愛するとは神に従うことだ。」と私たちは言うのです。でも、愛していない人にでも従うことが出来ることは誰でも知っています。確かにもし私たちが神を愛しているならば、神に従うでしょう。しかし、「愛」とは「従うこと」をもっと越えたものではないでしょうか。
マイクは神への情熱について語り続け、「ああ、私はもっと神への情熱を持ちたい!」と言いました。私は心に中でこう思いました。「今までの人生ではずっと情熱を持たないようにしてきたのに、今突然に変へられるものだろうか。」と。私は非常に問題だらけの家庭に育ちました。ですから何も感じないほうが生きやすかったのです。
マイクは 「それはね、ただ『神への情熱を下さい』と祈ればいいんですよ。」と言いました。私は何かの感情をくださいと祈ることなど考えたこともありませんでした。感情といえば、それをどのようにして押さえるか、それだけが焦点でした。でもマイクは違いました。感情を与えてくださいと祈れと言うのです。
「どこにそんなことが書いてありますか?私は聖書をよく知っています。神学校では原語で聖書を教えていたんですよ。あなたがいうような事はどこに書いてありますか?」マイクはすぐに「ヨハネ17:26ですよ。イエスの大祭司の祈りの最後のところを見てください。」と答えました。
そこで私はその箇所を数えきれないほど読みました。でもわかりませんでした。イエスは「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らのなかにあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」と言われています。
私は「主よ、どうしてあなたは御父がどのような方かを私たちに知らせたかったのですか?」と訊ねました。主は次にように答えてくださいました。「父がわたしに対して持っておられる愛を、人々も持つためです。彼らが父と同じようにわたしを愛するようになるためです。そしてわたしが彼らの中にいるためです。」イエス・キリストは御父の横に座って今日もあなたと私のためにそのように祈っていてくださるのです。
ヘブル7:25「....キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
ローマ8:34「...死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」そして御父が御子に持っておられる愛があなたや私の中にあり、主をそのように愛することができるようにと祈っていてくださるのです。クリスチャンの信仰生活のゴールは、ただ服従するだけではなく、それをはるかに越えたものであるのです。
信仰生活は「正しいよい業」をはるかに越えたものです。もうお分かりになったと思いますが、私たちの業は十分ということは決してありません。ですから自分の業に希望を託すのは、最初から失敗するに決まっているのです。落ち込むための確実な方法です。しかし一人のお方を喜び楽しむのは、それとは全く違う話ですね。そのお方を喜び楽しむ方法の一つは、御父に「どうか神の御子イエスを、あなたと同じように愛せるようにしてください。」とお願いすることです。
マイクは「神を愛することが出来るのは神だけだ。」と言います。勿論そうです。でも私は38歳になるまで誰かがそう言うのを聞いたことがありませんでした。マイクは続けました。「だから『御父よ、どうか私に聖霊を注ぎ、あなたが神の子を愛するように私も愛することができるようにしてください。』と祈ればいいんですよ。」
この祈りを毎日して、自分では絶対に出来なかったことを神にしていただくのです。それは神の恵みと憐れみに他なりません。私たちが持つものは、すべて神の恵みと憐れみによるのです。神はいつも憐れみによって私たちを救い出してくださいます。そして神の憐れみを受ける方法の一つが祈りです。
素晴らしい娘や息子はその父親にとって大きな誇りですね。私も子どもの自慢話を始めたら止まりません。子どもたちは私のヒーローですが、御父の右座に座っている方も御父にとってヒーローなのです。ですから私が御父に「あなたのようにイエスを愛する者にしてください。あなたと同じ御子への愛をください。」と祈るならば、それは神の御子を私のヒーローにすることであり、私がいつも話し、いつも自慢し、いつも考えている方にすることです。
皆さんによいお知らせがあります。この祈りは本当に聞かれます。でも皆さんに悪い知らせもあります。それはその効果はとてもゆっくり現われることです。でも絶対にそれは聞かれ、正しい方向へと私たちを導いてくれます。
神の憐れみの訓戒
この祈りを4、5年続けた頃、私はテキサスから引っ越してカリフォルニア州のアナハイムにあるヴィンヤード・チャーチで働いていました。ある日私は教会に向って運転していたのですが、非常に幸せな気分になって歌を歌っていました。私は歌はうまくないので、車の中で一人の時にしか歌いません。私は自分自身にこう話しかけました。「ジャック、なんか幸せそうだね。どうしてそんなに楽しそうなんだい?」と。というのは私は普段は沈んだ気分のことが多いからです。
私はこのよい気持を持続させたいと思い、どうしてこんなに幸せな気分なのかを考えました。そして自分に語りかけました。「そういえば、今まですごく祈る方ではなかったけど、今までより沢山祈ってるよね。それから聖書もよく読んでいるね。それも説教の準備のためじゃなくて、読むのが楽しいから読んでるね。それに今まで大嫌いだった断食もしている。」
「そうか、だからお前はそんなに幸せな気分なんだ!お前は祈ってるし、聖書を読んでるし、断食までしてる。だから幸せなんだ!」と自分を誉めてやりたくなりました。「その調子、その調子!」という風に。
その時、私は声を聞きました。「あなたの『イエスへの献身』を喜んではなりません。イエスを喜びなさい。もし自分のイエスへの献身を喜ぶならば、必ずあなたは自己義認に陥ります。」
突然、私の人生のヴィジョンが目の前に映し出されたようでした。自分が山に登っていて、「わあ、すごいなあ、高くまで登ったものだ。すばらしい経験だ。」と言いながら、周りを見渡します。そして「随分高いところまで来たぞ。あそこの人たちより随分高い!」と言うのです。
次の瞬間、私は荒野に移されていました。神が「ジャック、又同じ間違いをしていますね。わたしはあなたに荒野に戻ってほしくないのです。あなたはわたしの息子を愛し始めました。そこに留まっていてほしいのです。」と語られました。
神がこのように「あなたの業ではなく、わたしのようにわたしの息子を愛することですよ。」と私に 思い起こさせてくださったのは、実に神の憐れみでした。
神は本当に驚くべき素晴らしい方です。神は私たちの心を懸命に守ってくださいます。神は私たちが神を喜び楽しむことを本当に願っておられるのです。神は私の心の中に芽生え成長し始めたばかりのその愛を守り、御手を私の心の上に置いて「もう同じ間違いをしてはなりません。」と言われたのです。(続く)
16 04月
人生の様々なシーズン
エリザベス・エンロウ(Restore 7 Ministries)
私はクリスチャンホームで育ち、8歳の頃から聖霊に満たされていましたが、私が12歳の時、母が癌で天に召されてしまいました。父が一年後に再婚し、二度目の母に私は可愛がられて幸せに暮らしました。しかし、私の内には母を亡くした痛みと深い悲しみ、失望があり、私はそれを長い年月、心の奥深くにずっと埋めていたのです。
やがて私は結婚し、牧師である夫(ジョニー・エンロウ)と共に教会を牧することになりました。ですから毎週の礼拝で、私は一番前の席に座って夫の説教を聞いていました。夫は「神がどれほど善き方であるか、どれほど親切な方であるか、神はすべての国に対して偉大な計画を持っておられ、その国をどのように変革されていかれるか、神はどれほどすべての人々、国々を愛しておられるか」という内容の説教を力をこめて毎週語りました。神はただ私たちの魂を永遠の救いに入れてくださるだけではなく、私たちが持っている日常の関心事、心配、社会的な問題にも手を差し伸べて助けてくださることも夫は語りました。
夫が牧師としてこのように語るのを聞きながら、私はそのメッセージに心から同意しようと一生懸命つとめました。確かに夫の語ることは真理だと思いました。しかし私は自分の内で葛藤を感じていました。それは「もし神が本当にそんなに善き方で親切な方ならば、どうして私のお母さんを取り去ってしまったのか?」という、私が心の奥底に押し込めていた疑問や神に対する大きな失望が浮き彫りになり、最早無視することができず、私はついにその問題と正面から向き合わねばならなくなったからでした。
頭では「神は善き方」と信じているのですが、心ではそれを本当には受け入れていない自分がいて、そこに激しい葛藤が生まれました。
母の癌との戦いは4、5年も続いたのですが、私たち家族は神による癒しをずっと堅く信じていました。癒しのメッセージを聞き、癒しの聖書箇所を読み、癒しを宣言して、知っている限りの方法で精一杯戦ったのです。しかし母は召されました。
私はこのように感じました。「神は母を癒されなかった。それは事実だから受け入れよう。でも世界でただ一人母を癒すことができる方がいたのに、その方は何もしてくれなかった。神が母を殺したのではない。けれども神は母が死ぬことを許された。だから神が殺したのも同様だ。」
誰でもこのような経験があると思います。「神は~を止めることができたのに、止めてくださらなかった!」という神に対する失望と怒りです。
私がどのようにしてそのような状態から抜け出ることができたかというと、それは「短期間ですぐに」ではなく、時間をかけてのプロセスでした。そのプロセスの第一歩は、私が神に対して100%正直になることでした。私は誰か心から尊敬する人から「自分に正直に、そして神に正直になってもよい」という許可をどうしてももらいたかったので、夫に頼みました。
夫は「神はものすごく大きくて寛大な方だから、怒って神の胸を打ち叩いても大丈夫だよ。だからあなたの思っている事を何でも神に言ってごらん。」と保証してくれました。それで私は神に対して本当に心から腹を立てたのです。そして自分の気持を包み隠さず神にぶつけました。
当時私は夫と共に教会を牧していたわけですから、それはちょっと具合の悪いことではありましたが、私にとってそれはどうしても必要なプロセスだったのです。
そのように自分と神に正直になったとき、回復のプロセスは早く進んでいきました。神はそのような私に対していろいろと教え始められました。神が今までもずっとどのように私と共に歩いていてくださったかを教えてくださいました。
神に対して本当の自分の気持をぶつけたとき、神は慰めと愛と平安をもって私の心に入ってこられ、神がすべてのことを意図を持って行われ、神の私への愛は常に変らなかったことを教えてくださったのです。
100%正直にオープンに神に接したとき、神が私に教えてくださるスペースが出来たのだと思います。
あなたがもしも自分の心を防御の壁で囲んでいるならば、あなたの怒り、苦しみはそのまま自分の内にずっと残ります。でもその壁を取り壊すならば、神はあなたの中に入ってきてくださるのであると思います。
私が癒されていくプロセスの一つになったことですが、ある時私自身のワーシップCDをつくるようにある人から依頼されました。私はワーシップリーダーではありませんでしたが、当時ワーシップを手伝っていたことがありました。
更に「あなたがCDを作るための資金を出します。」という人まで現われたのです。私は歌を作ったことがありませんでしたので、神に「どうしたらいいでしょうか?」と訊ねました。すると神は「わたしはあなたの中に歌を4つ、すでに与えてありますよ。」と言われました。
そして神は、 4人の娘たちがそれぞれに1歳から3歳くらいだった4回の幼児期に私に教えてくださったことを示されました。娘4人それぞれが幼児期であった4回のシーズンは、私と神との関係と私の心の成長過程を表す4つの異なったシーズンだったのです。娘たちの名前は、プロミス・ジョイ(約束・喜び)、ジャスティス・ホープ(正義・希望)、グレイス・ヴィクトリア(恵み・勝利)、グローリー・ルツ(栄光・ルツ)と言いますが、すべて彼らが生まれた時に神から与えられた名前でした。
神は娘たちの名前の通りに「冬の約束」もあれば「春の正義」「夏の恵み」「秋の栄光」もあることを教えてくださいました。
神が言われたことを整理し理解したとき、私はこう言いました。「神様、あなたは本当に善き方であり、本当に親切な方です。あなたは地上で、そしてこの国やこの地域ですばらしいことをしてくださる方です。
でもそれと同時に、私の心の中にも同じようにすばらしいことをすることを計画してくださいました!」神は街や国に住む多くの人々の心を愛し癒されるのと同じように、私一人の心をも愛し癒してくださることを示してくださいました。あなた自身が持っていないものを、人に与えることはできません。神が本当に善き方、親切な方であることを自分で信じていなければ、この世の人々に伝えることはできません。
多くの場合、私は神との関係において自分がどのシーズンにいるのかが分からなかったので、神に対して多くの疑問を持ったのだということが、今はわかります。
どのような人間関係であれ、いろいろなシーズンを通ります。それは神との関係においても同じであることを神は教えてくださいました。冬のシーズンも幾度も通りますし、又、神と共に何かを生み出していく春のシーズンもあります。暑い日照りの夏のシーズンもあり、実りのある秋のシーズンも必ず来るのです。目には見えないようなこと、とても繊細で守らねば壊れてしまうようなことも、大切にすれば神は必ず実らせてくださいます。
神が意図を持って計画的に、 私が4人の幼児を育てた13年間に私の心に与えられたもの、即ちプロミス(約束)を育て、ジャスティス(正義)を育て、グレイス(恵み)を育て、グローリー(栄光)を育てた時に神が私の心に与えられたものは、私のためだけのものではありませんでした。それは神がどのように私たちを取り扱われるかということであり、私たちすべての者が知らねばならない啓示でした。
真冬に庭に出て、オレンジの木にむかって「どうしてオレンジがないの?」とは言いません。そのシーズンではないからです。神はすべてを目に見える形で現してくださる時もあり、またある時は隠されるときもあるのです。そのようなシーズンの違いを理解することは私たちにとって大きな助けになります。それはフラストレーションを克服するのを助けます。神がオレンジの根を養おうとしておられるときに、それを理解せずにオレンジの実を期待するならば、フラストレーションを起こします。
冬の季節は「十字架のヨハネ(16世紀のスペインのカトリック司祭)」が言う「the dark night of our soul(暗夜、神との一致に至るまでの過程)」のことだと思います。たとえ真っ暗な夜であっても、神が常に共におられるならば、本当にそれは最も神と親密になる時なのです。なぜならば、それは隠されている時であり、私たちは暗闇の中で何も見えなくても、神がすぐ横にいてくださるからです。
冬のシーズン、あなたは「自分は裸にされ、もう駄目だ」と落ち込み、実をならせたいと切望することでしょう。しかし、それは神が私たちの内に、あるいは私たちを通して、次にしようと計画されていることをあなたの中に孕ませているのです。どのシーズンも厳しく、またどのシーズンも良いものであるのです。
それは、あなたが寒くて凍えそうな時に、「あそこに暖炉がある!」と大喜びするようなものです。寒い冬も今までとは違う受け取り方、過ごし方ができるようになります。自分が今、どのシーズンにいるのかを知れば、敵の攻撃を防ぐことができます。神が私を取り扱い、多くのことを私に教えようとされた時、私は大変混乱しましたが、今私は自分の方向性を見出し、自分が現在どこにいるのかを知っています。
時として 私たちの街や地域で神が一体どのように働いておられるのかわからないことがありますが、それと同じように、自分の人生の中で神がどのように働いていてくださるのか見えないときがあります。でも神は着実に働いていてくださるのです。神は常に何かをしていてくださいます。ですから、それを知れば神と共に働くことができます。
もしあなたの内にあまりにも多くのことが鬱積していて、それが吹き出さないように押さえつけながら「どうにかこうにかやっと毎日を送っている」のならば、それを主の元に正直に持っていくことをお薦めします。
私はついには「神様、私はあなたが大嫌いです!」と叫ぶところまで行きました。それは100%正直になることであり、神はそれを喜んでくださり、恵みを与えてくださるのです。ですから「神よ、あなたは私の人生に何ということをされたのですか!どうしてあのように私を失望させたのですか!」と神に正直に言ってみてください。神が私たちに恵みを与えてくださることを経験するならば、その時私たちはこの世に恵みを与え、憐れみを持ち、この世と愛をもってかかわることができるようになるのです。
「祈り」ー父よ、感謝いたします。今あなたは共におられます。今一人ひとりに申し上げます。あなたの魂が神との関係において今どのシーズンにあろうとも、ダビデのように100%の正直さをもって神のもとに来ることをお薦めし、宣言いたします。あなたが 今までの どのように主と交わってきたかを正直に認め、主があなたの人生を新しいレベルに引き上げてくださいますように祈ります。
そしてあなたが周りの世界に向かって「神は善き方です!」伝えることができますように。
「神は善き方である!」と私は今あなたの魂にむかって宣言します。父よ、今すべての人があなたを正しく見ることが出来、それによってこの世もあなたを正しく見始めることができると宣言します。
父よ、私たちはあなたを愛し、 今それぞれが置かれているシーズンを感謝します。あなたが今ひとりひとりの心に確証と平安を与えてくださいますように。イエスの御名によって祈ります。(終り)
25 03月
家系の呪いを断ち切る
マリリン・ヒッキー(Marilyn Hickey Ministries)
出エジプト20:5「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
ここでは「(父の) 咎 (iniquity )」という言葉を用いていて、罪(sin) とか 罪過(trespass)とは言っていません。咎(iniquity)とは何でしょうか?
箴言28:13に「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」とありますが、咎というのは、罪(sin)を犯した時に悔い改めないで、何度も犯し続け習慣になったもののことを言います。罪(sin)とは「的を外すこと」であり、罪過(trespass)とは的を越えてしまうこと(例えば言葉で人を傷つけたりすること)です。もしこのようなことを何度も繰り返し犯してしまうならば、それは咎(iniquity)となってしまうのです。それは家系に代々現われてきます。特に性的な罪がそうです。人が性的罪を犯して何度も繰り返すならばそれは代々受け継がれていきます。貧困も呪いであり、神を憎む者の家系に受け継がれていきます。
しかし、私たち神を愛する者はイエスの血潮により家系の呪いを断ち切ることができまです。そればかりか、あなたは祝福を千代に渡って子孫に受け継がせることが出来るのです。神は何とすばらしいお方でしょうか。
私の家系にもある呪いがありました。私の父、祖父、兄は時として非常に激しい怒りに襲われていました。そして私が36歳の時、サタンはその呪いを私にも及ぼそうとしました。私は「神様、助けてください!私はお父さんと同じような激しい怒りに捕われようとしています!」と叫びました。すると神は「そう、あなたは父と同じなのです。そしてわたしこそがあなたの父です。わたしは精神的な問題など持ったことはありませんよ。だからあなたにも問題はありません。」と言ってくださいました。
家系の呪いには例えば次のようなものがあります。失敗、離婚、破産、不慮の死、自殺、激怒、批判的な態度、事故、性的罪、慢性的な疾患、心臓疾患、糖尿等々です。私の家系の多くは心臓疾患で死亡していますが、私も11歳の時に心臓肥大と診断され、23歳の時にも同じ診断を受けました。しかし、私は「私は神を愛しています!この家系の呪いをイエスの御名で断ち切ります!」と宣言しました。そして今私は80歳を越えていますが、医者は私の心臓は若者のようだと言います。私は天の倉から新しい心臓をもらったのです。
家系の呪いを断ち切るための最初のステップは、それが「家系の呪い」であると認識することです。そうでないと、
サタンが呪いを持って入り込むのを無防備に許してしまうことになります。あなたは「サタンはどのようにしてそのようなことが出来るのですか?」と訝しく思われるかもしれませんが、それはファミリヤー・スピリットという悪霊によるのです。この悪霊は、あなたの家系に起こったことを全部知っているので、次の世代にそれをまたもたらすのです。サウロ王が霊媒の女を使ってサムエルを呼び出しましたが、それは実はサムエルではなくサムエルのことを知っているファミリヤー・スピリットがサムエルになりすましたのです。ファミニヤー・スピリットはあなたの家系の歴史を熟知し、その弱点をも知っています。
それではどのようにして家系の呪いを断ち切ることができるのでしょうか。私は聖書を調べて、咎(iniquity)によってどのように呪いがかかるかを学びました。土地の咎に対する呪い、国の咎に対する呪い、家系の咎に対する呪いがあります。そしてそれは「悔い改め repentance」によって断ち切ることができるのです。
レビ記26:40—42「彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国に送りこんだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約を思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。」
イスラエルの民は父祖の咎を告白し悔い改めました。ですから私たちも両親や先祖の咎を考えて書き出す必要があります。次の二つの箇所にも同じことが書かれています。
ネヘミヤ9:2「そして、すべての外国人との縁を断ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。」
エレミヤ14:20「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。」
このように私たちが自分の罪と先祖の咎とを告白し、悔い改めることが必要なのです。例えば、ダニエルは偶像礼拝の罪を繰り返していた祖国イスラエルのために断食をして悔い改めました。自分の罪と親や祖先の咎を告白し悔い改めことこそが、呪いを断ち切る鍵であるからです。
「この呪いを家系にもたらした咎をお赦しください。」と祈ってください。私たちにはイエスの血による贖いが既にあります。イエスの血潮なしに赦しはありません。
皆さんの家系にも必ず何か咎の問題があるのではないでしょうか。それを覆い隠すならば、解決はなく、それを認識し告白して悔い改めるならば、その呪いを断ち切り、家系に祝福をもたらすことができるのです!
ここで聖書に書かれた一つの家系を見てみたいと思います。それはコラの家系です。モーセの時代に、コラとその仲間はリーダーであるモーセとアロンに反逆し、自分たちがリーダーになるべきだと言いました。その結果、コラたちは主に裁かれ、「彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物」は地に飲み込まれて滅ぼされてしまいました。(民数記16章)
しかし民数記26:10、11に「そのとき、地は口をあけて、彼らをコラとともにのみこみ、その仲間は死んだ。...しかしコラの子たちは死ななかった。」と書かれているように、コラの子たちは父とは離れて父と共に立たなかったので死にませんでした。彼らは主に従い、それ故に彼らの家系は祝福の家系へと変えられ、彼らの子孫は後にダビデの幕屋やソロモンの神殿で讃美を捧げる者として大いに用いられたのです。有名な詩編42「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」は「コラの子たちのマスキール」と記されています。実に全部で9つの詩編がコラの子たちによるものです。
私たちも、コラの子たちのように、自分の家系の咎をそのままにせず、告白し悔い改め、イエスの血潮による赦しを受けるならば、家系の呪いから自分を、また子孫をも解き放つことができるのです。イザヤ53:5、11に書かれているように、イエスは私たちの「罪(sin)、罪過(trespass) 、 咎(iniquity)」のための生け贄となられ、その血潮により私たちを呪いから解放してくださいました。私たちも、又私たちの家族も、最早呪いの下で苦しむのではなく、千代の祝福の中を歩むことができるのは、何とすばらしいことでしょうか。(終り)
Page 13 of 131 « First ... « 11 12 13 14 15 » ... Last »